満洲事変とは? わかりやすく解説

満洲事変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/04 07:59 UTC 版)

満洲事変(まんしゅうじへん、旧字体滿洲事變英語: Mukden incident)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国遼寧省瀋陽市郊外の柳条湖で、関東軍[注釈 1]ポーツマス条約により日本に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件[注釈 2])に端を発し、関東軍による満洲中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)のこと。中国側の呼称は九一八事変[注釈 3]




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満洲事変

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南満洲鉄道」の記事における「満洲事変」の解説

柳条湖事件」および「満洲事変」も参照 1931年9月18日関東軍は、張学良北平滞在し奉天軍閥主力長城以南結集、さらに残存留守部隊東三省分散配置されていた間隙をぬって、奉天郊外柳条湖満鉄線路爆破事件柳条湖事件)を引き起こした。そして、それを中国側仕業発表して懸案満洲占領作戦実行うつした関東軍作戦計画は、各部隊迅速に奉天集中させ、戦闘開始劈頭東北軍主力叩き、その権力中枢麻痺させようというもので、そうすれば四分五裂する張学良軍を攻撃したり、買収したりするのは比較的容易であるという考えであったいずれにしても関東軍第2師団独立守備隊から成る公称1万余(実際は8,800)の少数兵力をもって留守部隊とはいえ戦車航空機重火器若干毒ガス兵器装備した張学良20万余対峙したのである関東軍野戦訓練重ね24センチ榴弾砲秘密裏奉天運び入れて夜襲威嚇射撃により相手虚を突く軍事行動展開した実際榴弾砲轟音地響きとは、東北軍のみならず奉天市民を恐怖に陥れた。北平にあった張学良日本軍挑発乗らないよう無抵抗指示し、そのため奉天軍の軍事拠点であった北大営と奉天城は短期間占領された。 柳条湖事件勃発のときから政府陸軍謀略であることを強く疑っており、9月19日本庄繁関東軍総司令官からの増援要求一蹴されていた。閣議でも不拡大方針確認され幣原喜重郎外相井上準之助蔵相南次郎陸相対し部隊の原駐地への帰還強く迫った。そこで関東軍吉長経由吉林第2師団主力送り込み、わざと奉天警備手薄にして朝鮮軍来援要請したが、9月19日金谷範三参謀総長出兵制止した関東軍9月21日には吉林占領し同日かねてより来援要請されていた林銑十郎司令官とする朝鮮軍独断鴨緑江をわたり、満洲入った。本来、国境越えて出兵は軍の統帥権有する天皇許可必要だったはずだが、はその規定無視した。そして9月28日までには袁金鎧奉天地方維持委員会委員長に、煕洽吉林省長官誘い出して彼らを用いて奉天省吉林省張学良からの独立宣言させた。黒竜江省占領ねらったが、早期占領は無理と判断する黒竜江省首席代表の馬占山とは妥協し北部満洲治安安定図った当時満鉄総裁であった内田康哉以下の満鉄首脳当初事変不拡大望んでいたが、理事の中で唯一事変拡大であった十河信二周旋内田本庄司令官面談すると、内田急進的な事変拡大派に転向し満鉄は上から下まで事変協力することとなった。 ところが、満洲情勢混迷一途たどっていた。関東軍一撃確かに奉天軍閥麻痺させることには成功したが、それは満洲土着の馬賊」や「匪賊」の跳梁促し、これに東北軍敗残兵が加わることによって内陸部もとより満鉄沿線治安悪化一途をたどり、ハルビン占領はおろか関東軍はその主力満鉄沿線とどめて治安維持かかりきりになるような有り様だったのである加えて敗残兵による在満朝鮮人虐殺事件連日報じられており、鉄道付属地には内陸部から避難した在満朝鮮人陸続となだれ込んで深刻な事態となっていた。若槻禮次郎内閣はしかし、ここに至っても慎重であり、なおも増派認めなかった。 手詰まり状態に陥った石原がここで考えたのが、張学良の対満反攻拠点であった錦州への空爆である。10月8日石原莞爾本庄無断錦州軍政府爆撃加えた錦州爆撃)。錦州爆撃規模としては小さいものであったし、また、これによって軍政府機能しなくなったわけでもなかったが、国際社会はこの事件大きな衝撃受けた天津支那駐屯軍は、今度自分たちの出番だと色めきだって錦州への南方からの陸路侵攻図ったが、南と金谷はこれに機敏に動き厳し制止増派不可宣し支那駐屯軍暴走ひとまず食い止められた。12月初旬頃の関東軍作戦行動南北ともに行き詰まっており、昭和天皇事変不拡大意思も固かった。第2次若槻内閣参謀本部連携して関東軍策動抑え込んでいた。国際連盟論調風向き変わり極東における安定勢力結局日本なのだから、しばらく日本の力により満洲無政府状態収拾するかないとして、ジュネーヴでは満洲委任統治構想急浮上していた。英仏伊の3国は錦州一帯中立地帯設定し、そこに国際警察軍のような組織進駐させるという打開策提示動き始めていた。こうした状況受けて若槻内閣は、奉天内田満総裁委員長とする「満洲対策協議委員会」を設置して本国政府意向出先周知徹底させるためのシステム満鉄中心に作り上げようとした。こうして、事態政党内閣によって収拾されつつあるようにみえた。 しかし、アメリカ合衆国ヘンリー・スティムソン国務長官記者発表によって事態急転するスティムソンは、アメリカ駐日大使経由した幣原外相談として今後関東軍錦州攻撃行われないであろうとの談話発表するが、これが日本国内メディアで報道されるや、幣原は外国政権担当者軍事作戦約束しており、これは統帥権干犯にあたるとして猛烈な反発招いたのである皇道派平沼騏一郎らの流れを汲む右派関東軍行動支持していた人びとこぞって幣原を攻撃し、幣原・南・金谷求心力低下した動揺した若槻内閣結局12月退陣した。

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