日本軍
帝国陸海軍
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日本の従軍看護制度が始まったのは明治20年代と言われる。1890年(明治23年)4月に、日本赤十字社看護婦養成所に10名が一期生として入校した。養成期間は3年で、卒業後には20年間にわたり応招義務が課せられた。 根拠となる養成所規則には「20年間ハ国家有事ノ日ニ際セバ本社ノ招集ニ応ジ」とあり、のちに応招義務年限は15年、さらに12年へと短縮されたものの、この規則の効力は旧日本軍解体後の1955年(昭和30年)1月16日まで存続した。 日本赤十字社看護婦養成所を卒業した者は、平時には日赤病院その他に勤務し、戦時招集状が届けば、いかなる家庭の事情があろうとも、戦地に出動するのが原則であった。事実、太平洋戦争(大東亜戦争)時には、産まれたばかりの乳飲み子を置いて、招集に応じた看護婦も少なくない。 1891年、新島八重は篤志看護婦になり、1894年には日赤京都支部が救護員を広島予備病院に派遣するや、新島は看護婦取締を託され、同院第三分院に勤務した。新島以外では篤志看護婦は上流階級の女性が多かった。 日清戦争において、はじめて日赤看護婦が陸海軍の病院に招集され、活躍をした。当時のマスコミは、その壮挙を大いにたたえ、「従軍看護婦」として宣伝したため、たちまち国民にその存在を認知されることになった。日清戦争では、25名の救護員が殉職しているが、うち看護婦は4名であった。内地勤務であるので、戦地ではない。伝染病罹患による病死であった。 日清戦争後の論功行賞において、招集された日赤看護婦は叙勲の対象になったため、新しい女子の職場として,大いに看護婦の人気が高まった。 日清戦争の教訓から、1901年(明治34年)12月の日本赤十字社条例(勅令223号)が改正され、第1条において 「陸海軍ノ戦時衛生勤務ヲ幇助ス」 「陸軍大臣、海軍大臣ハ第1条ノ目的ノ爲日本赤十字社ヲ監督ス」 「救護員ハ陸海軍ノ規律ヲ守リ命令ニ服スルノ義務ヲ負フ」 「看護婦長及看護人長ノ待遇ハ下士官ニ、看護婦、看護人ハ兵ニ準ス」 と規定され、日赤看護婦と陸海軍の関係は、不即不離のものとなる。 日露戦争においては2160名もの日赤看護婦が従軍し、39名の犠牲者を出した。(看護婦長2名、看護婦37名)ただし、日露戦争でも全員が内地勤務で、犠牲者も病死である。1907年靖国神社に合祀された。日露戦争当時、広島で赤十字病院の看護婦になった新島八重の写真が残されている。 第一次世界大戦、シベリア出兵において、はじめて病院船への乗り組み、外地勤務が命じられた。 1919年(大正8年)、それまで平時の陸軍の病院には看護婦は全く存在しなかったが、東京衛戍病院において試験的に看護婦を採用したところ、大変に評判がよかったので、翌年からすべての陸軍衛戍病院において看護婦を採用し、「陸軍看護婦」と称するようになった。はじめは陸軍看護婦は、日赤看護婦養成所の卒業生からのみ採用していたが、のちには一般の看護婦資格を有するものからも採用した。その待遇は傭人であったが、陸軍部内限り、婦長は「伍長相当待遇」看護婦は「二等兵相当待遇」であった。戦時においては陸軍看護婦も日赤看護婦と同じく、外地での勤務も命じられた。 その後、日中戦争が勃発し戦線拡大すると、従軍看護婦の不足と従軍者の補充が大きな問題となった。そこで、日赤は従来3年だった救護看護婦の教育期間を2年半に短縮した。太平洋戦争勃発後の1942年には従来の救護看護婦(高等女学校卒業)を甲種看護婦に格上げし、新たに乙種看護婦(高等小学校卒業の学歴で、2年間の教育)という速成コースを設けるとともに、採用年齢の下限を従来の18歳から16歳にまで引き下げた。 満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)で、うち1,120名が戦没した。太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名にも上った。応召中の日赤看護婦は15,368名であった。海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは欠けている。 敗戦直後、旧海軍が日本人慰安婦を、軍病院の看護補助者に雇用せよとの通達が発見されている。
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