プロイセン王国
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プロイセン王国(プロイセンおうこく、独: Königreich Preußen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国である。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。
- 1 プロイセン王国とは
- 2 プロイセン王国の概要
プロイセン王国
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1660年には、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が東プロイセンをポーランド国王の宗主権から解放し、1680年までにスウェーデンの影響力を完全に排除した。そして1701年、大選帝侯の子ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクに赴き、フリードリヒ1世としてプロイセン王に即位、プロイセン公国は「プロイセン王国」となった。ホーエンツォレルン家の主な領土はベルリンを中心としたブランデンブルク選帝侯領であったが、飛び地の東プロイセンは名目上神聖ローマ帝国の範囲外であり、ここでなら皇帝の臣下である選帝侯フリードリヒ3世も王となることができたのである。1701年にプロイセン王国がマズルィ(ポーランド語版)を併合。en:Great Northern War plague outbreak(1709年 - 1711年)で人口の1/3が死亡した。1727年にザルツブルク大司教フィルミアン男爵レーオポルト・アントン・エロイテリウス(英語版)(在位:1727年 - 1744年)が凄惨な新教徒迫害(de:Salzburger Exulanten)を実施し、追放された新教徒を東プロイセンが受け入れた。1772年プロイセン王フリードリヒ2世(大王)はポーランド分割において、西プロイセンを併呑してブランデンブルクと東プロイセンが地続きとなり飛び地を解消すると、翌年東プロイセン州(1773年 – 1829年)と西プロイセン州に変更した。また、カトリック人口の多い王領プロイセンの属領ヴァルミアがプロイセン王国に併合された。 1806年にナポレオンは、第三次対仏大同盟に勝利してオーストリア帝国とプレスブルクの和約を締結し、神聖ローマ帝国が崩壊して親仏のライン同盟が結成された。中立の立場をとっていたプロイセン王国は、北ドイツからドイツ各地に勢力を広げ始め、ブランデンブルクは1806年にブランデンブルク州(英語版)となった。ポメラニアは、1814年のキール条約でデンマーク=ノルウェーを解体したスウェーデンがノルウェーを獲得する引き替えに代償として譲渡する事とされていたが、ウィーン会議(1814年 - 1815年)でプロイセン王国に割譲された。1829年、東プロイセン州と西プロイセン州が合併し、プロイセン州(1829年 - 1878年)となった。1866年の普墺戦争にプロイセン王国が勝利し、オーストリア帝国を盟主とするドイツ連邦(1815年 - 1866年)が解体され、1867年に北ドイツ連邦(1867年 - 1871年)が成立。 18世紀後半にはそれまで宗教改革派の拠点であったケーニヒスベルク大学で哲学者のカントやヨハン・ゴットフリート・ヘルダーが教授となった。
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「プロイセン王国」の例文・使い方・用例・文例
- プロイセン王国という,近世の国
プロイセン王国と同じ種類の言葉
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