ヤ軍のジレンマ深めるイチローのスーパーキャッチ
スポーツライター 丹羽政善
スライダーが甘く入った。
メジャー通算433本塁打のデービッド・オルティス(レッドソックス)がそれを捉えた瞬間、マウンド上のマット・ソーントン(ヤンキース)は、「あぁ、やられた」と思ったそう。
反射的に振り返って打球を追う。漆黒の夜空に放物線を描いた白球は、外野スタンドにこそ届きそうもなかったが、誰もいない右中間に向かってグングンと伸びていった。ソーントンは長打を覚悟する。「あぁ、抜けた……」
■フェンスに激突し好捕、ピンチ防ぐ
が、次の瞬間、目の端に打球の落下地点に向けて一直線に疾走するイチローの姿が入ってきた。
「まさか、届くのか?」。半信半疑で見つめるソーントンの視線の先で、走り込んできたイチローが跳ぶ。直後にフェンスに激突し、そのままグラウンドに倒れ込んだ。
捕ったのか、落としたのか。マウンド上から瞬時には判断できなかったが、ちょうどイチローを見下ろせる位置にいたファンを中心として歓声が放射状に広がり、それにつられるようにしてソーントンは、無意識のうちにマウンド上で両腕を突き上げていた。
八回を迎えていた。13日のレッドソックス戦は、先制こそされたもののヤンキースが序盤に逆転。その後、レッドソックスが六回に1点を返し、1点差としていた。あの打球が抜けていれば、1死二塁という同点のピンチを招くところ。イチローがその危機を救った。
■「イチローには普通のプレーでは」
胸をなで下ろしたソーントンは、こう振り返っている。「彼は40歳だっけ? でも、一緒にやっていた頃と何も変わらないよ」
2人は2004年から2年間、ともにマリナーズのユニホームを着た。今年、9年ぶりにチームメートとなったが、当時、何度も目の当たりにしてきたのが今回のようなシーンだったのだ。
くしくもイチローと同じようにマリナーズからヤンキースにトレードされ、もう6年も一緒にプレーしているクローザーのショーン・ケリーも言っている。「普通のプレーじゃないか、普通の。イチローにとっては」
案外、オルティスもそう思ったかもしれない。
彼にしてみれば、抜けた、あるいはホームランかと思った打球がイチローに捕られたことは、これが初めてではない。
■打球傾向、頭の中でイメージ済みか
10年7月、このときも右中間に大きな打球を放ったが、ライトから一直線に打球を追ったイチローが、やはりフェンスに激突しながら好捕。立ち止まったオルティスは頭をかきながら、ただただイチローがダッグアウトに引き上げるのを見つめていた。
オルティスは昨年9月にも、ヤンキースタジアムの右翼ポール際に大飛球を放ったとき、イチローに長打を阻まれている。このときは、二塁ベース付近で遊撃手デレク・ジーターと、「アイツはどこから走ってきたんだ?」とでも言いたげに顔を見合わせていた。
こうなると、偶然とも思えなくなる。おそらくイチローの頭の中には、投球コースや球種によって、オルティスにどんな打球傾向があるのか、イメージができているのだろう。
ところで、冒頭のプレーの試合後に、普段はライトを守るカルロス・ベルトランがこんな話をしていたのが印象に残っている。「彼が毎日プレーしていないなんて、信じられないよ」
■外野陣好調でイチローを使い切れず
これは、出場パターンが不規則で、リズムがつかみにくい中でも力を発揮できることが信じられない、という意味だったが、この日もまさに予想外の起用だった。
四回、一塁を駆け抜けたフランシスコ・セルベリが右太ももの肉離れで負傷。代走として出場したイチローは、そのまま五回からライトの守備についたが、このときライトにいたベルトランが守ったことのない一塁に回るという慌ただしさだった。
そのベルトランがそつなく一塁の守備をこなしたことも見事だったが、彼はイチローがいつどんなときでも高いレベルのプレーができることを評価しつつ、同時にその難しさを暗にほのめかしたのだった。
そんなイチローに対し、今、ヤンキースはジレンマを抱え始めている。
あんな守備ができる上、打つ方でも先発出場した7試合中、4試合で複数安打を放っている(19日現在)。
が、レギュラーのベルトラン、ジャコビー・エルズベリー、ブレット・ガードナーもそろって好調なため、定期的な休養以外では彼らに代えてイチローを起用することもできない。また、内野陣に故障者が続出し、マイナーから急きょ選手を上げたりしている状況なのに、外野に関しては控え外野手兼指名打者のアルフォンソ・ソリアーノも含めて健康そのもの。どうにもイチローを使い切れないのだ。
■イチローの売り時到来も動きは鈍く
その中で一つ明確になったのは、イチローのトレード価値が上がっていることか。オフから断続的に噂があった。ヤンキースとしても「理にかなうものがあるなら」と否定はしていない。
話が具体化しなかったのは、650万ドル(約6億6500万円)という年俸を誰がどう負担するかという問題があるため。40歳という年齢に加え、昨年の打率が2割6分2厘、出塁率が2割9分7厘と低迷したことから、ヤンキースが大部分を負担しない限り、トレードは成立しないだろうとみられてきた。
しかしながら今のイチローなら、ヤンキースは年俸を負担することなくトレードでき、なおかつそれなりの選手を獲得できるかもしれない。ヤンキースにとっては、ついに売り時が到来したといえよう。
もっとも、そうなって逆に彼らの動きが鈍い。650万ドルで、途中から出場しようがレギュラーと同レベルのプレーを見せてくれるのだから、「もったいない」とでも思い始めたか。かといって手探りの起用が続くのだから、もどかしい。
■アクシデントに備え残留策も選択肢
補強が火急に必要なリリーフ陣と内野陣のためイチローをトレードに出すことが選択肢の一つなら、やはりアクシデントに備え、イチローを残すことも選択肢の一つ。
イチローがオルティスの大飛球をフェンスに激突しながら抱え込むようにしてつかんだ夜、ヤンキースはいっそう深いジレンマを抱えることになった。