任天堂・マリオ「ひげ面オジサン」の衝撃 ファミコン40年
不惑のファミコン(1)
1981年11月、後のゲーム史を変える名機の開発は一本の電話から始まった。「家庭用ゲーム機をやらなあかんわ」。自宅で受話器を取った任天堂・開発第二部の故・上村雅之は面食らった。電話の主は当時社長の故・山内溥。仕様についての説明はない。後日「1万円以下で、3年は競合が追いつけないもの」と指示された。
数人で開発を始めたゲーム機に名前が付けられたのは、83年7月の発売直前だった。「家族がテレビを囲ん...
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