楽天明るく照らしたマーティ・キーナート氏(田尾安志)
12月1日、プロ野球楽天イーグルスの初代ゼネラルマネジャー(GM)を務めたマーティ・キーナートさんのお別れの会に出席した。楽天で初代監督を務めた私にとって、マーティは二人三脚で新興球団を引っ張っていこうと誓い合った仲。11月に78歳で亡くなり、寂しい限りだ。
楽天球団ができたばかりの2004年秋、マーティから電話があった。「今度、楽天のGMをすることになった。すぐに監督を決めないといけないので相談に乗ってほしい」
太平洋クラブ(現西武)のフロントを務めたほか、関西でテレビの解説などをしていたマーティのことは知ってはいたが、面識はなかった。レストランで米田純球団代表を交えて食事をしながら、マーティが提案する監督候補について「この人はいい」「この人はちょっと」などと人物像を含め私見を述べた。
一通り話をした後、ふいにマーティが「田尾、監督やってみない?」と言った。初めから私にオファーを出すつもりで誘ったのかもしれない。せっかくの要請だったが、断った。「マーティ、100%最下位になるチームなんだよ。俺を地獄に落とすつもりなの?」
現役を引退した時に妻に言われた言葉が頭にあった。「ユニホームを着ている間、私は田尾安志という選手をファンの人たちから預かっている思いだった。引退して、やっと自分のところに帰ってきてくれた。だから、できればもうユニホームは着てほしくない」
マーティから監督就任の要請を受け、席を外して妻に電話した。当然、反対するだろうと思って切り出すと「パパ、初代監督なんてなりたくてもなれないよ」。まさか背中を押されるとは思っていなかったので驚いた。その後、交渉を重ねるうちに、誰かが火中の栗を拾わなければならないのならとの思いが頭をもたげ、引き受けることにした。
マーティは実にフレンドリーなGMだった。自らチケットの販売窓口に立ったり、ファンの人たちと積極的に話したりと、ムードメーカーのような役割を担った。持ち前の明るさで地元仙台のファンの関心を引き、生まれたての球団の前途を照らす貴重な存在だった。
「田尾とはフィフティー・フィフティーでやっていきたい。それが嫌だったら僕が49%、田尾が51%でやろう」。マーティがかけてくれた言葉で、この人と新しいチームをつくっていくんだという気持ちを強くした。
それだけに、開幕早々の4月にマーティがGMの職を解かれたのはショックだった。11連敗の責任を取らせるというのが解任の理由。だが、統合されたオリックスと近鉄による分配ドラフトを経て選手を寄せ集めた楽天の戦力は他球団と比べてかなり見劣りし、それだけの連敗を喫するのは意外ではなかった。
1年目は層の薄さに目をつぶって土台づくりをし、2年目、3年目でどう積み上げをするかという長期的な視点が大事で、本当の意味でのチームづくりはこれからだった。そこで、まだ土台もできていないうちにGMの職を解くのは考えられないこと。私も1年限りで監督を辞めさせられるのだが、瓦解はマーティ解任の時には既に始まっていたといっていいだろう。
楽天を離れてもマーティは仙台に住み続けた。GMとしてファンとふれ合う中で、この街の人々の温かさに感じ入るところがあったのだろう。その後はバスケットボールの仙台89ERSの運営に携わったり、仙台大の副学長を務めたりした。
マーティとの交遊は続き、よくご自宅に招かれて妻の京子さんのおいしい手料理をごちそうになった。マーティのユーチューブに、私が彼に氷水を浴びせる「アイスバケツチャレンジ」の動画があるが、この時のマーティは楽天のTシャツ姿。球団を離れてもチーム愛は変わることがなかった。
お別れの会で、京子さんはマーティから2つのことをよく言われた、と話した。一つは「接待する時はとことんしなさい」、もう一つは「中途半端にケチるな」。だからお別れの会の規模も「大きくなりました」。
ユーモアあふれる言葉で会場が和やかな雰囲気に包まれたのは、マーティと京子さんの明るさならではだった。ちなみに、京子さんからは弔辞を頼まれたが「僕がしゃべると楽天の悪口になるから、しゃべらない方がいいと思います」と丁重にお断りした。
マーティが日本で仕事をし始めた頃は、文化の違いなどでいろいろと大変なことがあったと思う。それでも日本のプロ野球の発展のためにと苦労を乗り越え、多方面で活躍したマーティの功績は計り知れない。
米ロサンゼルス出身のマーティは今年、故郷に本拠を置くドジャースがワールドシリーズを制覇したのをことのほか喜んだとか。優勝は日米の球界の橋渡し役を務めた功労者への、天からの贈り物だったかもしれない。
(野球評論家)
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