絶対の正解求める危うさ 歴史学者・呉座勇一氏
令和の知をひらく(4)
日本人は歴史好きといわれるが、大人になってから学び直す機会は少ない。歴史に材を取った小説やドラマも古い学説にのっとっていることが多く、最新の研究成果が一般の人まで届いていないのだ。
●ネットの「無」に抗う時 作家・上田岳弘氏 令和の知をひらく(2)
●他者の性と欲望認める 哲学者・千葉雅也氏 令和の知をひらく(3)
大学で教えていると学生から「習ったことと違う」「なぜ高校で新しい知見を教えてくれないのか」という声が上がる。だが問題の根本はそこではない。「正解を知りたい」という気持ちこそが危険だと感じる。
情報の更新に目を向けず、「絶対の正解」を求める姿勢を問題視する。
歴史に限らず「唯一絶対の正解があり、そこに必ずたどり着ける」と考える人は多いが、現在の複雑な社会で、簡単に結論の出る問題はない。性急に答えを欲しがり、飛びつくのはポピュリズムだ。
新しい時代を生きる上で重要なのは「これが真実」「こうすればうまくいく」という答えらしきものに乗せられることなく、情報を評価するスキルではないか。ネットを通じ、情報の入手自体は簡単になった。それをいかに分析し、価値あるものを選び出していくか。歴史学の根幹はこの「史料批判」にある。リテラシーを身につけるひとつの手段として、歴史学の研究成果に親しんでもらえたらと思う。
歴史を学ぶ意義は大きく2つある。1つは現代の相対化だ。かつて、いま我々がいる社会とは全く違う仕組みの社会が存在した。異なる常識で動いていた社会を知ることが、我々の価値観を疑ったり「絶対に変えてはいけないものなのか」と問いかけたりするきっかけになる。女性・女系天皇を巡る議論も、歴史を知ることなしにはできない。
もう1つは、社会の仕組みが異なっても変わらない部分を知ること。親子や兄弟の絆、宗教的観念などは、時代を超えて今につながるものがある。この両面を通して、我々はこれからどう生きるべきか、ヒントを引き出せるのではないか。
一方で、歴史から手っ取り早く教訓を得ようという姿勢は危惧している。
目的意識が先に立つと、歴史を見る目がゆがむ。自らの見たいものを過去に投影し、事実でないものを教訓にしてしまう。自説の補強や正当化のために歴史をゆがめられては困る。
歴史を叙述すれば、どうしても物語に接近していく。だからといって、書きたいように書けばいいわけではない。正解がわからなくても「これはあり得ない」ということはある。間違った事実に基づく主張に対して、歴史的事実が誤っていると指摘するカウンターの役割を、歴史学者は担うと考えている。
私が専門としている日本の中世は、権力の軸が見えづらい、多極的な社会だ。現代に通じるものがある。見通しが立たない時代こそ、リアルタイムの動きばかり追っていると、変化の波に翻弄されてしまう。歴史を振り返り、長期的な視野に立つことが大切だ。
(聞き手は桂星子)