石清水八幡宮の由来
上の画像は石清水八幡宮の一の鳥居である。鳥居に懸かる扁額の「八幡宮」は、平安時代の三筆の一人藤原行成の書を松花堂昭乗が書き写したもので、よく見ると「八」の字が二匹の鳩が向かい合った形となっている。
一の鳥居を抜けるとすぐ頓宮殿がある。上の画像は頓宮殿の北門だが、山麓にあった建物は鳥羽伏見の戦いで焼失してしまったという。現在の頓宮殿はその後に再建されたものである。
徒然草の第五十二段に「仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、或る時思い立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て、帰りにけり」とある。この僧はせっかく石清水まで徒歩で来ておきながら、山の上にある肝心の本殿に参拝せずに帰ったので、兼好法師は「すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり」と結んでいる有名な場所であるのだが、江戸時代後期に刊行された『都名所図会』では、頓宮殿は「疫神堂」と書かれていて隣に「極楽寺」があり、また高良社は、極楽寺の塀の南に位置している。
上の画像は高良社だが、この社は頓宮殿のすぐ南にある。
学生時代に徒然草の第五十二段を読んだ時に、仁和寺の僧侶が石清水八幡宮を参拝したことに違和感を覚えたのだが、この神社はもともと神仏混交でありかなり仏教色が強かったことを知って納得した。
社伝によれば、石清水八幡宮は貞観二年(860年)に奈良大安寺の僧行教(ぎょうきょう)が、豊前の宇佐八幡宮で神託を受け、清和天皇の命により創建したとされる。
創建以来、都の裏鬼門である西南を守護する王城鎮護の神であり、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟として皇室の御崇敬厚く、また清和源氏の足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏などから崇敬され、武運長久の神として信仰されて来た。
幕末までは神仏混交の宮寺として「石清水八幡宮護国寺」と称し、山中から山裾にかけて多くの僧坊が建ち並び、僧侶による神前読経が行われていたのだが、明治元年(1868年)の神仏分離令により残っていた二十三の僧坊が廃絶されてしまい、山内の景観は一変してしまったという。
明治初年の神仏分離で何が行われたのか
『城州八幡山案内絵図』は慶応三年(1867年)に製作されたもので、仏教施設が撤去される数年前の石清水八幡宮が詳しく描かれている。男山の中腹には石垣の上に多宝塔や多くの僧坊が描かれているが、仏教関係の施設は全て失われるか神殿に変えられ、僧侶は還俗させられ俗人となり、法施や読経を禁じられ、阿弥陀如来像などの仏像や曼荼羅等の文化財はほとんどが売却されたり捨てられてしまったという。この中には国宝級の文化財は少なくなかったはずだ。
以前、私の別のブログでレポートしたが、淡路島の東山寺(とうさんじ)に平安時代の仏像が十三体あり、国の重要文化財に指定されている。これらの仏像はうち捨てられていた石清水八幡宮護国寺の本尊と十二神将像を、同寺の別当であった道基上人が東山寺の佐伯心隨尼に託し、人目を避けるようにして運び出されて、東山寺に持ち込まれた経緯にあるものだ。
この当時の記録を探していると、『明治維新神仏分離資料』に鷲尾順敬「石清水神社神仏分離調査報告」が見つかった。それによると、鳥羽伏見の戦いの後神仏混交の禁止の沙汰があった頃の状況について、次のように記されている。
…社僧は皆復飾して俗名に改め、急に妻帯するに至った。然るに山上の諸坊は撤廃せらるることとなり、住宅もなく、諸大名の祈祷料は廃絶したから、日々の生活も支えられないこととなり、大に窮迫するに至った。
淀鳥羽の戦争に、此一帯の地方は七分通り兵火に罹り、諸人が困窮していたから、社僧等の窮迫に同情して扶助する者もなく、彼等は漸次に八幡の地方を去って、諸方に離散するに至った。初め一同が協議して、本社の仏教関係の堂舎器具等を処置することとなり、大阪の古物商人等を呼びて売払の入札をすることとなり、元年三月、大阪の古物商人等が本社に来りて入札した。それで堂舎器具が皆処置せられたのである。
(『明治維新神仏分離資料』p.334)
慶応四年と明治元年とは同じ年と考えて良いが、「元年三月」に堂舎器具等の入札がなされたというのは、常識的には早すぎるので誤記だと考えて良いだろう。
神仏分離に関わる重要な命令が出された日付とその内容を要約すると、
〇神祇事務局より諸社ヘ達 慶応四年三月十七日
神社における社僧は復飾せよ、すなわち僧の身分を捨てて俗人となれ。
〇神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日
神号を仏号で称える神社は由来書を提出せよ。また神社・神前から仏教的要素を排除せよ。
そして、石清水八幡宮に神仏混淆禁止の沙汰が届いたのが閏四月で、同月に本社内殿の仏具類を撤去し、護国寺・開山堂に奉納した記録がある。普通に考えれば古物商への入札は閏四月以降でしかありえないのだ。『神仏分離資料』の「元年三月」に古物商に入札したという日付は、鷲尾順敬が単純に日付を間違えた可能性が高いと考えている。
二の鳥居から山上の社殿へ向かう
二の鳥居の近くに安居(あんご)橋が架かっている。この橋も鳥羽伏見の戦いで焼失したため、反り橋に建て替えられたのだそうだ。この橋を舞台に、毎年九月十五日に石清水祭の放生行事が執り行われるという。
二の鳥居から表参道を歩いて、山上の社殿をめざすことにする。
七曲りを抜けると裏参道への分かれ道があるのだが、昨年の台風24号の影響で一部の石垣が崩れたために、裏参道の入口が閉じられていた。裏参道を進むと松花堂昭乗が隠棲した跡地と石清水井があるのだが、今回は行くことを諦めた。
表参道を直進すると途中で何か所も立派な石垣と遭遇するが、中坊、椿坊、豊蔵坊、愛染堂など取り壊された僧坊などの跡である。上の画像は徳川家の祈願所であり、男山四十八坊といわれた坊の中で最大の規模であった豊蔵坊の跡で、下の画像は愛染堂の石垣である。
階段を登りきるとすぐに三の鳥居があり、鳥居を抜け石灯篭が建ち並ぶ参道を直進すると南総門がある。
南総門を抜けると平成二十八年に国宝に昇格した社殿が建ち並ぶ。平成の大修造が終わってから日が浅いので、丹漆塗りの朱色が鮮やかだ。
この日はすでに受付が終わっていたので中に入りことは叶わなかったが、毎日十一時と十四時に昇殿参拝が出来、国宝の社殿の内部を案内していただけるようだ。次回には是非チャレンジしたいと思う。
社殿を取り囲むように石灯篭が並び、その後ろにある塀は天正八年に織田信長が寄進したと伝わる「信長塀」である。瓦と土を幾重にも重ねることで耐火性と耐久性に優れ、銃撃にも耐えられるものだという。
本殿の西南側にエジソン記念碑があるが、この碑は電球を発明したエジソンが、フィラメントに使う素材を世界各地から集めて実験をした結果、男山の竹の繊維が一番長く輝き続けたことから、この地域の竹が白熱電球の実用化に大きな役割を果たしたことを記念したものである。
石清水八幡宮周辺を歩く
安居橋を渡って直進すると、淀屋辰五郎邸跡がある。
辰五郎がわずか二十一歳前後の頃に莫大な淀屋の全財産が幕府により没収され、その後正徳五年(1715)に日光東照宮百年祭の恩赦で、初代淀屋常安が徳川家康から拝領した八幡(現京都府八幡市)の山林三百石が返還されることとなり、享保元年(1716)に辰五郎は八幡の地に居を構え、その翌年にわずか三十三歳の若さでこの世を去ったという。
淀屋については明治維新にまつわる面白い話があるのだが、別のブログで書いたことがあるので、興味のある方は覗いて頂きたい。
そのすぐ近くに飛行神社がある。わが国で最初に飛行原理を発見した二宮忠八が、航空機事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者の責任だと感じ、大正四年(1915年)に私財を投じて自邸内に創建した神社である。
狭い境内であるが、大阪湾から引き揚げられたゼロ戦のプロペラなどが展示されている。
石清水八幡宮の一の鳥居に戻り、西に進んで神応寺(じんのうじ)に行く。境内に行くのには長い石の階段が続くのだが、石清水八幡宮を往復した後なので、結構この坂はきつかった。
この寺は、石清水八幡宮と同じく貞観二年(860年)に行教によって創建されたと伝えられる寺で、内部の拝観には事前の予約が必要なようだ。
開山堂には国重要文化財の行教律師座像が安置されており、書院は伏見桃山城の遺講で襖や杉戸には狩野山雪筆の絵が描かれているという。また本堂西側の墓地には、淀屋辰五郎や二宮忠八の墓があるのだそうだ。
また神応寺の惣門前には石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)がある。
高さは約6mもあり、国内最大規模の五輪石塔で、国の重要文化財にも指定されているのだが、刻銘がないために造立の起源については諸説がある。
現地の駒札にはこう記されている。
摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の企図、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いるため建立されたと伝えられる。航海の安全を祈って参詣され、航海記念塔とも称されている。
この大石塔を築く際、石を引くのに火花が出て綱が焼き切れてしまったので、丈で作った綱で引いたという話もある。
また忌明塔ともいわれ、亡き父母の忌明けの日に参り、喪の汚れを清めたという。
そのほか、鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚であるとか、石清水八幡宮を勧請した行教律師の墓であるなど…この大石塔にまつわる伝説は様々である。
文化財を守り続けることの難しさ
このように石清水八幡宮は周辺も含めて結構見どころが多いのだが、背割桜にあれほど多くの観光客を集めながら、国宝の石清水八幡宮を訪れる観光客が少なすぎると思うのは私ばかりではないだろう。
明治初期に神仏分離令のあと廃仏毀釈が行われた神社では、由来書からその史実が消されてしまっていることがほとんどなのだが、石清水八幡宮のリーフレットにも、かつては数多くの僧坊があり、山全体で読経が行われていた世界が明治の初期に失われたことについては一言も書かれていないのである。
今の石清水八幡宮にとっては、このことは都合の悪い史実であるのかもしれないが、国民がそういう史実を知らなければ、明治政府が激しい文化破壊を行ったことや、どのようにして破壊が止められたのかについて考えることにはつながらない。
文化財は守る意識が乏しい時代が続けば、確実にその価値を失っていくものである。失ったものは永遠に元には戻らない。
今のわが国の地方は疲弊が進んでおり、寺にせよ神社にせよ、このままでは支える人がどんどん少なくなっていく。国の文化財は決して法律では守れない。寺社が経済的に成り立つ仕組みがなければ、未来の世代に残すことは厳しくなってしまうのだ。
明治以前の男山がどれほど賑わっていたかを『城州八幡山案内絵図』で感じ取っていただき、多くの人に僧坊や多宝塔などの跡地を巡っていただきたいと思う。
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コメント
江戸幕府が宗教統制の一環として設けた寺請制度というのがありました。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度で、民衆は寺請をしてもらうために、どこかの寺院の檀家となったということです。小学生か中学生のとき、踏み絵のことと一緒に習いましたが、最近になって、江戸時代、神社と寺院とが同一敷地内に併存していなかった場合、当該神社の神職も、最寄りの寺院の檀家になったのか?と思うようになりました。ご存知でしたら、ご教示いただければ幸いです。
江戸時代の寺請制度はキリシタン対策のために始められたもので、人々はどこかの寺の檀家になり葬儀も仏式であることが強制されました。
したがって神職の場合も特定寺院の檀家になっていたようです。
ネットで探してみましたが、「神職も寺の檀家になった」ことが明記されているサイトがいくつかあります。
https://blog.goo.ne.jp/daimajin-b/e/03626b1b47a6411c175bf6974104a354
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私は、次回書店に寄ったときに入手しようと思っております。
ラングドック・ラングドシャさん、情報ありがとうございます。早速ネットで購入手続きさせていただきました。
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