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武士であることを捨てた弓の名人、那須与一

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Category源平の戦い
元暦2年(1185)2月19日、平家軍は四国屋島の入江に軍船を停泊させて海上からの源氏の攻撃に備えるも、源義経は牟礼・高松の民家に火を放ち、陸から大軍が来たかに見せかけて浅瀬を渡って奇襲攻撃をかけた。世にいう「屋島の戦い」の始まりである。平家軍は船で海に逃れるも、源氏の兵が少数であることを知り、態勢を立て直した後、海辺の源氏と激しい矢戦となる。

屋島

夕暮れになって休戦状態となると、沖から一層の小舟が近づき、見ると美しく着飾った若い女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っていた。

義経は弓の名手・那須与一を呼び、「あの扇の真中射て」と命ずる。平家物語巻第十一の「扇の的」の名場面である。

那須与一1

「…これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。今一度本国へ帰さんと思しめ召さば、この矢はづさせ給ふな」と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにこそなつたりけれ。輿一鏑を取つて つがひ、よつ引いてひやうど放つ。小兵といふ條、十二束三ぶせ、弓は強し、鏑は浦響く程に長鳴りして、あやまたず扇の要際、一寸許りおいて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ揚りける。春風に一揉み二揉みもまれ て、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の、夕日の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬゆられけるを、沖には平家舷(ふなばた)をたたいて感じたり。陸には源氏えびらをたたいて、どよめきけり。…」

平家軍の挑発を断れば源氏軍の士気は下がり、射損じては逆に平家軍を勢いづかせてしまう。失敗が許されない緊迫した場面で、那須与一は見事に扇の的を射抜くという話なのだが、この話を高校の古文の授業で読んだ時に、「本当にこんな話があるのだろうか」と疑問に思った。すでに屋島の戦いは始まっており、もう何人も討ち死にしている状況下にもかかわらずである。

また平家物語では与一と扇の的までの距離は「七段ばかりあるらんとこそ見えたりけれ」とある。
1「段」は6「間」で、1「間」は6「尺」。1「尺」は30.3cmであるから、7段は76.35mという計算になるが、こんな距離で波に揺られて動く的を射ぬけるのだろうか。 この問題については、中世の頃の一段は9「尺」であったという説もあり、この説であれば19.09m程度の距離となる。
どちらが正しいかよくわからないが、現在の弓道競技では遠的競技の射距離は60m、近的競技の射距離は28mなので、76.35mとすればかなり長く、一方19.09mでは近すぎて挑発にもならないような気がするので、射距離の問題は私は前者に軍配を上げておこう。

平家物語那須与一

しかし、そもそも何人も犠牲者の出ている戦いの最中に、こんな悠長な場面がありうるのだろうか。

あまり知られてはいないが、平家物語では那須与一が扇の的を射抜いた後、その船の上で踊り始めた平家の武士をも射ぬいてしまうのだが、何故平家軍はこの時に那須与一に復讐をしなかったのか。

Wikipediaによると、那須与一の名前は後世の「軍記物」である「平家物語」や「源平盛衰記」には出てくるものの、「吾妻鏡」など同時代の史料には名前は出て来ないために、学問的には与一の実在すら証明できないと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E4%B8%8E%E4%B8%80

私には、「平家物語」の那須与一の物語そのものが、後世の創作のように思えるのだ。那須与一が描かれている「平家物語」の成立時期は通説では1230年代とされ、作者すらわかっていない「平家物語」は「物語」ではあっても決して歴史書ではない。
「吾妻鏡」にも書かれていない内容を、「平家物語」や「源平盛衰記」にあるからと歴史的真実だ考えることは危険ではないのか。

ところで、平家物語巻第十一には、屋島の戦いの「扇の的」の場面で、那須与一は「二十許んの男子なり」と書かれている。いくら「物語」だとしても、年齢までは創作することはないだろう。
那須与一という人物が源氏方の軍人にいたことは間違いないのだろうと思うが、それから後の那須与一についてはどうなったか。

Wikipediaの記事を読むと、「頼朝の死後に赦免され那須に戻った後に出家して浄土宗に帰依し、源平合戦の死者を弔う旅を30年あまり続けた」と書いてあるところに非常に興味を覚えた。なんと弓の名手は仏門に入ったのである。

いろいろネットで調べてみると、那須与一は浄土宗開祖法然の弟子になっていることが分かった。

例えば、次のURLでは
http://hp.kutikomi.net/ayawaka/?n=diary9&oo=7

…『那須記』の「那須与一」の項に、「落髪申致上洛…」と、出家して京都に行ったことが伝えられており、京都府ニ尊院所蔵の『源空七箇條起請文』という古文書に、那須与一が、「源蓮(げんれん)」という名で記されているという。 彼は、1202(建仁2)年、34歳頃(推定年齢)に出家し、浄土宗を開いた法然に弟子入りし、その2年後には、早くも法然の高弟となったというのである。…(引用終わり)

法然

ちなみに浄土真宗を興した親鸞は同じ書に「綽空(しゃくくう)」という名で記されており、親鸞は与一の前年に法然のもとに入門しているので、与一とは一年違いの兄弟弟子にあたる。

では、なぜ与一は仏門に入ったのであろうか。

彼は義経の軍勢で活躍したが、義経は平家滅亡後に頼朝と不和になる。しかも、頼朝の腹心・梶原景時に攻撃された時は幕府軍を退け、有利な条件で和睦に持ち込んでいた。こうした経緯から、与一は武士として生きることをあきらめざるを得なくなり出家を選んだのだと考えられる。
幕府軍と戦って退けたことから、武士としても一流の人物であったことは確実だ。

神戸市須磨区に北向八幡宮という神社があり、与一はこの地で64歳で大往生を遂げたという。
墓所は京都の即成院だそうだが、那須氏の菩提寺である玄性寺(栃木県大田原市)にも分骨され、那須氏ではこちらを本墓としているそうだ。
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4Comments

通りすがり  

通りすがりですが

那須与一ってどんな人だろうと思い調べてたらこの記事に出会いました。
ふと歴史素人ながら思ったのですが、本当に宗教家になったのでしょうか?
那須与一という名前が載っていると人々が宗教をするということで、
伝説的な人物の名前を勝手に挙げたということも十分考えられる気がします。
にしても与一についてはまだまだ研究の余地がありますね。
研究者がいなさそうなので中々進まないとは思いますが...
讃岐の国の者なので与一の話にはぐっとくるものがあります。
しかし讃岐の平家物語博物館?は実質誰も訪れない廃墟のようなものになっています。
もっと与一や讃岐歴史研究が進む事を願います。

2016/07/29 (Fri) 14:11 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 通りすがりですが

通りすがりさん、コメントありがとうございます。

那須与一の名は軍記物には記されていても、同時代の史料には名前が出てこないようなので、本当に宗教家になったかどうかについては断言できません。「伝説的な人物の名前を勝手に挙げたということも十分考えられる」というご指摘は尤もです。

研究したくても、ほか史料が出て来なければ、仮説は立てられても立証は困難ですね。単に観光地の箔付けで名前が利用されている可能性も考えられますね。『七箇条起請文』にある『源蓮』という名が那須与一であると書かれている本がありますが、実際に『七箇条起請文』を読んだだけでは、『源蓮』と那須与一が同一人物であるという論拠がみえてきません。
『七箇条起請文』の現代語訳テキストは次のURLにありますが、これだけでは納得できない人が殆んどだと思います。
http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1204/02genkyuu/02genkyuu.pdf

おそらく、いくつかの伝承と結び付けた上で誰かが仮説を立てたのでしょうが、もう少し詳しく知りたいところですね。

2016/07/29 (Fri) 21:39 | EDIT | REPLY |   

Mayumi  

合唱曲「那須与一」

いきなりのコメント申し訳ありません。

那須塩原市に住んでる娘の長女がコンクールのために結成された特設合唱部に部活を引退した後、
夏休み後から入り県大会中学校混声の部で10年ぶりの金賞を受賞し先日関東大会に出場しなんと、初の全国大会出場の切符をゲットしました。

なんとも関係のない話をすみません。
でも、いきさつをお話ししたかったものですから。
しばらくお話しさせてくださいね。

その曲が郷土のヒーロー『那須与一』を題材にした合唱曲でした。
コンクールのCDを聞きましたら、本当に感動しました。
山場の与一の心情、結審が痛いほど伝わる歌声に涙が出てしまいました。

そこで、那須与一を少し調べてみたくなりました。

那須与一は大昔、中学の国語の教科書で知ってるくらいで
歴史の時間にも取り上げられなかったので、
私にとっては印象が薄かったんです。

そこでネットで検索いたしましたら、こちらにたどり着いたんです。
おかげさまで、とてもよくわかりました。
孫娘たちも先生と与一のことをよく話し合って、
この曲にいどんだことと思います。

本当の合唱部は女生徒15~6名しかいないので募集したそうです。思いのほか男子が集まってくれたので先生は何年も温めていた「那須与一」をうたわせたらしいです。

奇しくも偶然に全国大会は「♪さりとてや~しまァ~」の唄い出しにもあるこの物語の舞台である屋島、四国は高松なんですよ。
那須与一の引き合わせなんじゃないかと思うくらいです。
与一の思いを胸に力いっぱい唄って来てほしいと思います。
全国大会は10月30日です。
与一のように歌の矢は金賞という的を射ってほしいところです。

このページを読んだ後に孫娘たちの唄った
「那須与一」のCDを聞いたらまた感動が大きくなったような気がします。
ありがとうございました。

2016/09/20 (Tue) 23:08 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 合唱曲「那須与一」

Mayumiさん、ありがとうございます。

6年も前に書いた記事にアクセスして頂いただけでもありがたいのに、コメントまで頂いてとてもうれしいです。

また、お孫さんの全国大会出場決定おめでとうございます。全国大会が高松というのも那須与一つながりで面白いですね。

もしかすると審査員も贔屓してくれるかも知れませんね。いい結果が出ることをお祈りします。



2016/09/20 (Tue) 23:43 | EDIT | REPLY |   

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