大飢饉の西日本で平氏や源氏はどうやって兵粮米を調達したのか
【「平家物語絵巻」洲股合戦のこと(部分・林原美術館蔵)】
その翌年の治承5年(1181)は、閏2月に平清盛が没した後、4月には尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において平氏軍と源行家軍との間で行われた墨俣川の戦いで平氏軍が大勝している。前年の大凶作のあとだけに、兵粮米の調達にかなり苦労したようだ。
川合康氏が『源平合戦の虚像を剥ぐ』で、このように解説している。
「治承5年2月、尾張国まで進出してきた源行家を中心とした反乱勢力を美濃・尾張国境の墨俣川で迎撃するために、2月7日に『官使・検非違使を美乃国に遣わし、渡船等を点じ、官軍に渡すべしの由、同じくもって宣下す』という宣旨が発給され」(『玉葉』治承5年2月8日条)、それをうけて伊勢国留守所は2月20日に『早く宣旨状に任せて、二所太神宮・神戸・御厨・御園ならびに権門勢家庄園・嶋・浦・津等を論ぜず、水手・雑船などを点定し、尾張国墨俣渡に漕送すべき事』という下文を出している(治承5年2月20日『伊勢国留守所下文』<書陵部署象壬生古文書『平安遺文』8-3952>)
伊勢国内において伊勢神宮領・権門勢家領を問わず徴発を命じており、これなどは典型的な一国平均賦課の形態といえよう。なお、このときに水手・雑船だけではなく、兵粮米の徴集もおこなわれていたことは、じっさいに伊勢神宮領で徴発を完了した2月24日の『大神宮司庁出船注文』の一艘に『兵粮米積む』と記載されていることから明らかである。(治承5年2月『大神宮司庁出船注文』<書陵部署象壬生古文書『平安遺文』8-3956>)」(講談社学術文庫『源平合戦の虚像を剥ぐ』p.127-128)
このように、諸国の国衙機構を通じて、国内の荘園・公領を問わず平均に賦課されることを「一国平均役」と呼ぶそうだが、このような調達方法には限界があり、その不足分を賄うために富裕者(有徳人)を対象とした賦課も行なわれた。
「治承5年2月7日、『京中の在家、計らい注せられるべきの由、仰せ下さる。左右京職の官人、官使、検非違使等これを注す』という内容の宣旨が出され(『玉葉』治承5年2月8日条)、京中在家の検注(屋敷地の規模や住人の調査)が左右京職の官人・検非違使らに命じられている。…
…京中在家の検注の目的は、京都に屋敷を有する住民のうち『富裕の者』を調査・把握し、その者を対象に兵粮米を賦課しようとするものであって、同時にまた院宮・諸家の備蓄米の徴発をも実施し、京都住民の飢餓の窮状を救おうとするものであった。
…
このような有徳役による兵粮米の徴発は、治承5年5月には大和国においても実施されている。そこでは、『国中有徳者』にたいして兵粮米賦課をおこなっていた『官兵の使』が、賦課を逃れようとする『有徳者』の屋敷に乱入し、倉を検封するなどの実力行使におよんだことが知られるのである(『吉記』治承5年5月4日条)。」(同上書 p.129-130)
平氏はこのようなやり方で兵粮を集め、墨俣川の戦いでは平氏軍が大勝したのだが、前年の干ばつによる大凶作のため各地で餓死者が出ているなかで、こんな強引な徴発方法を繰り返そうとして公卿たちの反発を買うこととなる。
「…治承5年には養和*の大飢饉がひろがるなか、平氏はこのほかにも西海・北陸道などから運上物を点定して兵粮米にあてるなどの提案をおこなって、なんとか兵粮米を確保しようと躍起になるが、これは公卿たちの反対にあって実現せず(『玉葉』治承5年2月6日条)」、『兵粮已に尽き、征伐するに力なし』(同前)とか『凡そ官兵兵粮併しながら尽き了んぬ。更にもって計略なし』(『玉葉』治承5年3月6日条) と呼ばれた状況は、容易に打開しようがなかったのである。
大飢饉がさらに拡大した翌養和2年(1182)3月、左大臣吉田経房は『兵粮米の事、万民の愁い、一天の費え、ただ此の事に在るか』と日記に記している(『吉記』養和2年3月26日条)。こうした状況のなか、目立った軍事行動がなくなり、戦線が膠着化していったのは、むしろ自然のなりゆきであった。」(同上書 p.130)
*養和:治承5年(1181)7月14日に改元され、養和2年(1182)5月27日に寿永に改元された。源頼朝の源氏方ではこの元号を用いず、引き続き治承を使用した。
【餓鬼草子】
前回記事で紹介したとおり、鴨長明は『方丈記』でこの頃の京都の惨状を「乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に滿てり」「築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香、世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり」と書いている。食糧の絶対量が不足していて人々が飢餓で苦しんでいる状況下では、兵粮米が集まらないことは当然であろうし、強引に集めれば人々の恨みを買うことは誰でもわかる。
しかし、大飢饉の年が明けて寿永2年(1183)となると、平氏は木曽義仲を征討するため大規模な北陸道の遠征計画を立てている。前年は凶作ではなかったにせよ、4万とも言われる平氏軍の兵粮米を調達することは容易ではなかったはずだ。
川合康氏によると寿永2年に北陸道に進軍していった平氏軍は、往路の兵粮を北陸に向かう路次の地域で徴発することが朝廷から認められていたという。
【川合康氏】
そのありさまが平家物語に出ていて、川合氏の同上書に引用されている。
「片道給わりてければ、路次持て逢える物をば、権門勢家の正税官物、神社仏寺の神物・仏物をも云わず、押し並べて会坂関(おうさかのせき)より、是れを奪い取りければ、狼藉なる事おびただし。まして、大津・辛崎・三津・川尻・真野・高嶋・比良麓・塩津・海津に至るまで、在々所々の家々を次第に追捕す。かかりければ、人民山野に逃げ隠りて、遥かに是れを見遣りつつ、おのおの声を調えてぞ叫びける。昔よりして朝敵を鎮めんが為に、東国・北国に下り、西海・南海に赴く事、其の例多しといえども、此の如く、人民を費やし国土を損ずることなし。されば源氏をこそ滅ぼして、彼の従類を煩わしむべきに、かように天下を悩ますことは只事に非ずとぞ申しける。」(『延慶本平家物語』第三末「為木曽追討軍兵向北国事」)
平氏軍は源氏を討伐するのではなく、進軍する街道筋にある村々に押し入って、寺や神社や家々から手当たり次第に掠奪したことが記されている。
川合氏はこう解説しておられる。
「寿永2年は前年の収穫・納入で事態は少し好転したとはいえ、大軍勢の遠征をまかなう兵糧を畿内近国で確保することができなかった平氏は、朝廷公認のもとに、ここでいわば現地調達方式に切りかえたのである。三、四月が農村では冬作麦の収穫期にあたっていたという事実も、このこととけっして無関係ではないだろう。
しかし、やっとの思いで大飢饉をしのぎつつあった街道沿いの村々にとっては、たとえ朝廷の承認を得たものであったとしても、これは残酷な掠奪行為にほかならない。その意味で、村人たちが山野に避難しつつも、集落を見下ろす山の上から平氏の軍勢にたいし、『かように天下を悩ますことは只事にあらず』と大声で叫んだという『延慶本平家物語』の記述は、この時期の民衆たちの心情をよく描いているといえよう。
しかし、このような路次追捕は、平氏軍による北陸道遠征に特殊なものとはならず、これ以後各地で展開するようになる。」(『源平合戦の虚像を剥ぐ』p.132-133)
【源平倶利伽羅合戦図屏風】
こんな具合に平氏の北陸追討軍は進軍していったのだが、5月11日の越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れてしまう。義仲は篠原の戦いにおいても平氏軍に勝利して沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍していく。
平氏は都の防衛を断念して7月25日に安徳天皇らを擁して西国に逃れたのち、28日に木曽義仲が入京している。木曽義仲は京中の狼藉の取締りを委ねられたのだが、それがとんでもないことになる。
九条兼実は木曽義仲や源行家の軍勢が入京して1ヶ月余りたった寿永2年9月の状況を日記『玉葉』に記している。原文は漢文だが、読み下し文が川合氏の著書に出ている。
9月3日
「凡そ近日の天下、武士の外、一日も存命の計略なし。仍(よ)つて上下多く片山田舎等に逃れ去ると云々。四方皆塞がり、…畿内近辺の人領、併しながら苅り取られ了んぬ。段歩残らず、また京中の片山および神社仏寺、人屋在家、悉(ことごと)くもって追捕す。其の外たまたま不慮の前途を遂ぐるところの庄公の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆もって奪い取り了んぬ。此の難市辺に及び、昨今買売(ばいばい)の便を失うと云々。天何ぞ無罪の衆生を棄つるや。悲しむべし、悲しむべし」(同上書 p.134)
9月5日
「京中の万人、今においては一切存命するに能わず。義仲、院の御領己下、併しながら横領す。日々倍増し、およそ緇素貴賤(しそきせん)涙を拭わざるはなし。憑(たの)むところ只頼朝の上洛と云々」(同上書 p.135)
【木曽義仲像(徳音寺所蔵)】
義仲軍は狼藉を取締るどころか京の食糧などを奪い取ること甚だしく、京の人々は頼朝の上洛により義仲が成敗されることを期待するようになっていく。頼朝は翌年に入京しているのだが、頼朝が引連れた軍(鎌倉軍)の場合はどうであったのか。
川合氏はこう述べている。
「…翌寿永3年(1184)1月に義仲軍を破って入京した鎌倉軍は、たしかに京中の治安維持には勤めようとするものの、たとえば生田の森・一の谷合戦に向かうさい、摂津国垂水東・西牧において『路次たるにより、追討使下向の時、雑人御牧に乱入し、御供米を取り穢し、住人らを冤陵(えんりょう)*す』(寿永3年2月18日『後白河院庁下文案』<春日神社文書、『平安遺文』8-4131>)と訴えられるような掠奪をともなって進軍した…」(同上書 p.135)
*冤陵:無実の者に暴力を加えて苦しめること
このように、源氏も平氏も掠奪をしていたのだが、このような行為は源平に限らずどの武将も良く似たもので、騎兵とは別に、軍の中に兵粮の稲の刈取りを組織的に行う歩兵が存在していたというのだ。
川合氏の解説を続ける。
「このような部隊は、院政期においても確認することができ、たとえば康治元年(1141)10月に、目代(もくだい)・在庁官人らにひきいられた紀伊国衙の軍勢が大嘗会所役をめぐって大伝法院領に乱入したさいには『数百軍平』とともに『数千人夫』が催され、彼らは稲・大豆の刈取りや、在家・諸堂における資材や雑物の追捕・運搬活動に従事しているのである。(康治元年10月11日『紀伊国大伝法院三綱解案』<根来要書上、『平安遺文』6-2481>)
治承・寿永内乱期の路次追捕が、たんなる場あたり的な掠奪ではなく、遠征を行うにあたり当初から予定されていた『合法的』軍事行動だったとすると、当然この時期の軍隊にも、兵糧の刈り取りや追捕活動を専門的におこなう補給部隊が組織されていたはずである。そして、目代ひきいる紀伊国衙の軍勢が発向したさいに、こうした活動に従事する存在として国内で人夫が徴発されていた事実をふまえるならば、おそらく治承・寿永内乱期においても、工兵隊と同様に、兵士役によって徴発された一般民衆が補給部隊を構成したものと思われる。」(同上書 p.136)
「兵粮の現地調達」については、大凶作のため飢饉が発生しているような状況では容易ではないことは誰でもわかる。こんな時期に進軍する兵士に必要な食糧を手配しようとすれば、現地でかなり強引に奪い取るしか方法はなかったと思うのだが、そうすることで政権に対する人々の信頼は急速に失われていったことであろう。
一度信頼を失ってしまえばそれを取り戻すことは容易ではなく、いずれ豊作となった際に人々が簡単に兵糧を差出すとは思えない。
その後平氏が短期間で源氏に滅ぼされたことや、源氏が鎌倉を本拠地としたことは、このような観点から考察することも必要ではないだろうか。
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【ご参考】このブログで、わが国で起こった大きな飢饉の事を何度か書いてきました。
我が国のカロリーベースの食料自給率は39%しかありません。もし世界的な凶作で食糧不足となれば、いずれの国も自国民のための食糧確保を優先することが確実となります。
自国民の食糧生産を他国に依存しすぎることは過去の歴史に照らして危険なことではないでしょうか。
アイスランドの火山爆発と天明の大飢饉
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飛騨地方を舞台にした悪代官と義民の物語
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田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか
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