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源平両軍の兵士による掠奪から民衆は如何にして食糧や家財を守ろうとしたのか

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Category源平の戦い
前回の記事で、平氏軍も源氏軍も兵粮が不足していて、進軍する街道筋にある村々に押し入って、寺や神社や家々から手当たり次第に掠奪したり、穀物を刈り取ったりしたことを書いた。
しかしながら、西日本では治承四年(1180)から干ばつのために凶作が二年続き、京では餓死者が道にあふれるほど食糧の絶対量が不足していた。街道筋にある村々にとっては彼らの食糧を守ることは家族の生死にかかわる大問題であったのだ。
では、彼らはどういう方法で、食糧や家財を両軍の兵士の掠奪から守ろうとしたのだろうか。

延慶本平家物語

前回紹介した川合康氏の『源平合戦の虚像を剥ぐ』にはこう解説されている。

「では、彼らの財産のほうはどうなっていたのだろうか。自分達の米や麦、その他の資材が補給部隊によって家のなかから運びだされていくのを、避難先からこっそりうかがうしかなかったのであろうか。
 すでに引用した『延慶本平家物語』には、北陸道に向かう平氏軍にたいして山の上から抗議の声をあびせかけた村人たちの姿が描かれているが、こうした軍隊の追捕から、みずからの資材を守ろうとする彼らの具体的行動を知ることが出来るのは、これも…木曽義仲・源行家軍の入京を描いた『延慶本平家物語』のつぎの一節である。

 平家西国へ落ち給いしかば、其の騒ぎに引かれて安き心なし。資材・雑具、東西南北へ運び隠すほどに、引き失う事、数を知らず。穴を掘りて埋みしかば、或いは打ち破れ、或いは朽ち損じてぞ失せにける。浅猿とも愚かなり。

ここでは軍勢の追捕から逃れるために、京の周辺に資材・雑具を運び隠し、また穴を掘ってそれらを埋める民衆の動向が示されているのである。
京の周辺に資材・雑具を運び隠しているようすについては、…穴を掘って埋めるという方法は、17世紀に成立した『雑兵物語』にもその摘発の心得として、

又家内には米や着物を埋めるんだ。そとに埋める時は、鍋谷釜におつこんで、上に土をかけべいぞ、その土の上に霜の降りた朝みれば、物を埋めた所は必ず霜が消えるものだ。
それも日数がたてば見えないもんだ
と云う。能々(よくよく)心を付けて掘り出せ。(『雑兵物語』下巻 「荷宰料 八木五蔵」)

と語られており、屋内の床下には食糧や衣類を埋め、屋外の場合は鍋や釜に財物を詰めて土をかけていたことが示されている。穴を掘って土の中に埋める方法は、軍勢の掠奪から資材を守る方法の一つとして、近世に至るまで民衆の間で行われていたことが確認されよう(藤木久志『村の隠物・預物』)
それとともに、もう一つここで注目しておきたいのは、先に揚げた京中での義仲・行家軍の掠奪を記した『延慶本平家物語』のつづきの部分に、

家々には武士有る所もなき所も、門々に白旗*立ち並べたり。

と見えることである。
おそらくこれは、家の門に掲げられた白旗が源氏軍勢の寄宿先であることを表示し、その家は追捕の対象にならなかったことを利用して、寄宿地であるなしにかかわらず、皆が白旗を並べ立てたということなのであろう。」(『源平合戦の虚像を剥ぐ』p.140-142)
*白旗:源平の時代は源氏が「白旗」で平氏が「赤旗」を用いていた。

源氏の白旗と平家の赤旗

はじめのうちは、食糧や衣類を家の敷地のどこかに隠していたのであろうが、探す方も必死になって探すので見破られてしまうことが多く、次第に隠す場所が多様化していくようになる。

藤木久志氏の指摘によると、「町場から周辺の村へ、『里』村から『山』村へ、民家から寺社・有徳人の家などへ預ける『隠物』『預物』の習俗が拡がっており、戦乱から財産を保全する措置が取られていた」という。

川合氏の著書を読み進むと、大阪府箕面(みのお)市の山の中に西国三十三所の第二十三番札所となっている勝尾寺(かつおうじ)が、源頼朝方の梶原景時の兵に焼き討ちされる話が出ている。この事件を紹介する前に、それまでの源平合戦の流れを簡単に振り返っておこう。

寿永二年(1183年)五月の倶利伽羅峠の戦いで敗れた平氏が、都の防衛を断念して七月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちし九州大宰府まで逃れた。代わって木曽義仲が入京して京の治安に携わったのだが、義仲軍は京の食糧などを奪い取ること甚だしく、治安は悪化の一途をたどっていった。

そして八月・九月の収穫期を迎えるのだが、京の朝廷にとっての最大の問題は官物・年貢の確保であった。Wikipediaの解説によると、

西走した平氏は瀬戸内海の制海権を握り、山陽道・四国・九州を掌握していたため、西国からの年貢運上は期待できなかった。また東国も、美濃以東の東海・東山道は源頼朝政権の勢力下におさめられ、北陸道は源義仲*の支配下にあった。これら地域の荘園・公領は頼朝あるいは義仲に押領されていたため、同じく年貢運上は見込めなかった。さらに義仲は入京直後、山陰道へ派兵して同地域の掌握を図っていた。…さらに、入京した源義仲軍が、京中および京周辺で略奪・押領をおこなっていたことも併せて、京の物資・食料は欠乏の一途をたどり朝廷政治の機能不全が生じ始めていた。」
*源義仲:木曽義仲のこと。源頼朝の従兄弟にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8D%81%E6%9C%88%E5%AE%A3%E6%97%A8

後白河法皇像(神護寺蔵)
後白河法皇像(神護寺蔵)】

そこで後白河法皇は義仲を見放して十月に源頼朝に接近したのだが、それを知って怒った義仲は十一月に院御所を襲撃し、法皇を幽閉して政権を掌握した (法住寺合戦)。つづいて十二月には法皇に頼朝追討の院宣を出させている。
一方、源頼朝は翌寿永三年(1184)一月に、近江にまで進出させていた弟の範頼、義経に義仲追討を命じ、宇治川の戦い・粟津の戦いで鎌倉政権軍が木曽義仲軍を壊滅させている

このような源氏同士の抗争を機に勢力立て直しをはかっていた平氏は、以前平清盛が都を計画した福原まで進出し、数万騎の兵力を擁するまでに回復して、二月にはいよいよ京を奪回する計画を立てていた。それを阻止するために、一月二十六日に後白河法皇源頼朝に平家追討の宣旨を出している。
頼朝の命を受けて範頼と義経は二月四日に京を出発し、範頼は大手軍五万六千騎を率いて摂津を下り
、義経は搦手軍一万騎を率いて丹波から播磨に進んだ。
梶原景時は範頼率いる大手軍に属していたのだが、この景時の軍勢が山陽道を下る途中で勝尾寺を焼き討ちしたというのである。

勝尾寺の紅葉
【勝尾寺の紅葉】

川合氏は同上書でこう解説しておられる。

「そこで注目したいのは、寿永三年(1184)二月四日、摂津国勝尾寺が生田の森・一の谷合戦に向かうのに山陽道を下る梶原景時の軍勢によって焼き討ちされた事件である。『延慶本平家物語』や延宝三年(1675)書写の『勝尾寺縁起』(『箕面市史 第一巻(本編)』p.160)は、この襲撃の事情をつぎのように記している。

 元暦元年(寿永三年)二月四日、梶原一の谷へ向かいけるに、民共勝尾寺に物を隠す由をほの聞きて、兵の襲い責めしかば、老いたるも若きも逃げ隠れき。三衣一鉢を奪うのみにあらず、忽ちに火を放ちにければ、堂舎仏閣悉く春の霞となり、仏像・経巻併しながら夜の雲とのぼりぬ。…然るを今滅ぼす所は仏閣・僧坊六十八宇、経論章疏(きょうろんしゅうしょ)九千巻、仏像・道具・資材・雑物、すべて算数の及ぶ処にあらず。(『延慶本平家物語』第五本 「梶原摂津国勝尾寺焼払事」)

すなわち、景時の軍勢が勝尾寺に押し寄せた理由は、近隣の民衆が勝尾寺に資材を隠しているということを聞きつけたからで、寺僧が制止するのを排除して軍勢が乱入し、資材や衣類を掠奪したうえ、最後には焼打ちにまでおよんだのであった。勝尾寺再建のさいに作成されたと推測される『勝尾寺焼亡日記』によれば、衣類を剥ぎ取られた住僧は百余人にのぼり、抵抗した老僧が一人誅殺されたという。 (寿永三年二月『勝尾寺焼亡日記』<『箕面市史 史料編1 勝尾寺文書』26>)」(同上書 p.142-143)

近隣の人々が兵粮の協力をしないのは平氏に協力するものであるとの嫌疑から、景時の軍勢が勝尾寺を焼打ちしたものと考えるが、この寺はその後南北朝の内乱が勃発した直後の建武三年(1336)にも足利軍の掠奪にあっているという。

人々が大きな寺や神社に大切なものを預けたのは何も勝尾寺だけではなく、軍が動いた街道筋の多くの寺社で同様のことがあったそうだ。
民衆にとっては寺社の境内は聖域であり、自らの家族の生命と財産を守ることができるようにと祈りを込めてそこに預けたのであろう。

しかし民衆の祈りは裏切られ、寺社は何度も軍勢による掠奪にあっている。

寺社や近隣民衆は兵士による掠奪被害からなんとか逃れたいのだが、武器らしい武器も持たずに広い境内を守ることはそもそも不可能に近い。そこで寺社も民衆も掠奪にあわないために知恵を絞ることになる。

玉祖神社
【玉祖神社】

川合氏の著書を読み進むと、現存最古の「制札」が大阪府八尾市の玉祖(たまおや)神社に残されていることが紹介されている。そこにはこう記されているという。

河内国薗光寺(おんこうじ)は鎌倉殿御祈祷所なり。寺并(ならび)に田畑山林において、甲乙人等乱入妨げ有るべからざるの状件の如し
 文治元年十二月 日」

この「制札」は、文治*元年(1185)に頼朝の舅である北条時政が河内薗光寺に対して発給したもので、ここに出て来る「薗光寺」という寺は玉祖神社の神宮寺である。残念ながらこの寺は、明治維新後の神仏分離で廃寺にされたのだそうだ。
文治:元暦二年(1185)八月から文治に改元され、文治六年(1190四月に建久に改元となった。この時代の天皇は後鳥羽天皇。

この「制札」について、川合氏はこう解説しておられる。
「…一見すると平治において鎌倉殿(頼朝)祈祷所の聖域性を保障したものであるかのように理解されてしまう。
 が、文治元年十二月という時期は、同年十月に源義経・行家らの頼朝に対する反乱が畿内において勃発し、十一月末に一千騎の軍兵をひきいて上洛した北条時政によって、畿内近国に総力的な軍事動員態勢が敷かれた段階にあたる。まさにその時期に、総司令官の地位にある京都守護北条時政によって発給された制札である以上、これは明らかに鎌倉方軍勢による境内への乱入と寺中での追捕を停止(ちょうじ)する制札であったと考えられる(川合康『鎌倉初期の戦争と在地社会』)」(同上書 p.147-148)

治承・寿永内乱期の制札で現存しているものは玉祖神社のものだけなのだそうだが、平氏方として嫌疑をかけられた僧侶の居住する伊勢国河田別所で、鎌倉殿から札を賜るとの文治2年の記録があるという。河内薗光寺と同様な鎌倉殿御祈祷所の制札が、各地の寺社に給付されていた可能性が高そうだ。



川合氏はこう解説しておられる。
鎌倉方軍勢による追捕が広範に展開するなかで、それを回避するために、鎌倉軍の『味方の寺社』であることを表示する『鎌倉殿御祈祷所』という形式の制札が、祈祷や礼物を条件に寺社側からひろく要求され、給付されていったと考えられよう
 そして、ここで前述したような戦乱時における地域社会での寺社の役割を想起すれば、このような制札の発給は、たんに寺社内の僧侶・神官やその資財を安堵したにとどまらず、自分達の貴重な財産を隠し置き、自身の安全をもとめて避難してきたような近隣住民の安堵にもつながっていたはずである。」(同上書 p.150)

このような制札を受けることで寺社は建物等が守られ、人々の財産も守られて安んじて生活が出来ることとなる。また、鎌倉方からすれば、寺社側からの求めに応じて『鎌倉殿御祈祷所』制札を発給することで、鎌倉軍兵士の乱暴狼藉を禁止するとともに、寺社周辺の地域全体を喜んで鎌倉方に靡かせることが出来る。

養和の飢饉があったにもかかわらず、西国で掠奪するように兵糧を徴発してきた平氏や木曽義仲らは、民衆の支持を急速に失っていったと思われる。こういう場合人々は、兵粮に余裕がありそうな鎌倉の源頼朝の力に期待したことは当然だと思うのだ


源頼朝像(神護寺蔵)
【源頼朝像(神護寺蔵)】

源頼朝が西国で広く支持を集めていった背景には、このような「制札」を出すことで自軍兵士による掠奪を禁止することを約して、人々を安堵させた効果が大きかったのではないだろうか。次のURLで『吾妻鏡』の訳文と解説が出ているが、これを読むと頼朝は、自分の権威を利用して武士が狼藉を行っている状況を止める意思があったことがわかる。
例えば元暦*二年(1185)三月四日の記録では、頼朝は藤原(吉田)経房に仲介を依頼して後白河院にこのような書状を送っている。
*元暦(げんりゃく):寿永三年四月に元暦に改元され、元暦二年八月に文治に改元された。この元号は平氏方は使用せず、寿永を使用していた。

「…海を隔てた平家の追討は今だに終っていません。転戦する武士たちによる再三の狼藉も判っており、追討が済んでから相当の措置を行うつもりですが、既に代官二名を派遣しておりますから不心得者がいれば院宣に従って処理をいたします。頼朝の権威を利用する武士の違法行為を止めるつもりでいる事をご了解ください。」
http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/1185.html

よく平氏政権が短命に終わった理由として、平氏は文弱で武士としては勇猛さに欠けていたという類の解説を何度か聞いた記憶があるのだが、寿永二年(1183)の初頭までは何度も平氏軍が源氏軍と戦って勝利したことを考えると、平氏が勇猛さに欠けていたという説明は説得力に欠ける。
食糧が不足していた西国で、掠奪行為を繰り返した平氏や木曽義仲らは朝廷や民衆の支持を失い、源頼朝だけはそれを止めようとしたことに、もっと注目すべきではないだろうか。

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武士であることを捨てた弓の名人、那須与一
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