明治維新の魁(さきがけ)とされる生野義挙のこと
以前このブログで文久3年(1863)8月に奈良で起きた『天誅組の変』のことを書いたが、『生野義挙』というのは、『天誅組の変』の2カ月後に尊王攘夷派が挙兵した事件をいう。いずれも明治維新の魁(さきがけ)ともよ呼ばれる事件なのだが、教科書などでは何も書かれていない。
たとえば、『もういちど読む 山川日本史』には、この事件前後の歴史をこう記している。
「攘夷の機運が高まるなかで、外国人殺傷事件もしばしばおこった。1862(文久2)年には神奈川に近い生麦で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件がおこり、翌年イギリス艦隊がその報復として鹿児島を砲撃するという事態に発展した(薩英戦争)。幕府も急進派の動きにおされて諸藩に攘夷決行を命じ、長州藩では下関の海峡をとおる外国船を砲撃した。しかし朝廷内では、保守派の公家が会津藩とむすんで、1863(文久3)年8月、武力を用いて三条実美ら急進派公家と長州藩の勢力を朝廷からのこらずしりぞけた(八月十八日の政変)。長州藩は翌64(元治元) 年、池田屋事件をきっかけに京都に攻めのぼったが、薩摩・会津両藩は協力してこれを打ち破った(禁門の変、蛤御門の変)。こうして朝敵となった長州藩は、幕府の征討(第一次長州征討)をうけることとなった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.214)
この記述では、朝廷内では攘夷をとなえる急進派が斥けられたことは記されているが、八月十八日の政変までは朝廷では尊王攘夷派の勢力が強かった。
【孝明天皇】
文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の大和親征行幸の詔勅が発せられている。
原文では「為今度攘夷祈願、大和国行幸、神武帝山稜春日社等御拝、暫御逗留、御親征軍議被為在、其上神宮行幸事」とあるが、これは孝明天皇みずからが大和に行幸し神武天皇陵に参拝するとともに、ここで攘夷親征の軍議を固め、そのうえで伊勢神宮に参拝するという意味である。
言うでもなく、この詔勅は開国を推し進めてきた江戸幕府の政策と相反するものであり、御親征の軍議を行なうということは、天皇が中心になって討幕運動を始めようとするようなものである。
そして、西国の雄藩であった長州藩はこの攘夷親征の強力な支持者であり、彼らは尊王攘夷の旗印のもとに幕府を倒し、そのあとに作られる政府の中心になろうとしていたと考えて良い。
当時は攘夷親征を実現しようとするいわゆる「勤王の志士」が全国各地に現われたのだが、彼らが攘夷をとなえ天皇親征を考えるに至ったのはなぜなのか。
『スーパー日本史』で古川清行氏の解説がわかりやすい。
「◎国学の影響も受けながら、『日本は神国である』と信じている者たちにとって、紅毛の夷狄(いてき:外国人に対する蔑称)の存在は唾棄すべきものであった。
◎しかもその夷狄は我が物顔に神州を横行し、支配階級である武士に対しても、優越的で横柄な態度を示している。これは武士の誇りを傷つけるものであった。それなのに、それにへつらう者が少なくないという状況もある。
◎幕府は、その夷狄の言いなりになって開国し、勅許を得ないで条約を結んだ。この行いは、尊王を志す者たちにとって許し難いことであった。
◎開国以来、物価の上昇が急激であった。そしてその原因は、夷狄によってわが国の富が吸い上げられていることにあると考えられた。
右のように考えてくると、尊攘論者にとっては、外国人やそれにへつらう者たち、また幕府の手先になって尊攘の活動を妨げる者たちは、まさに仇敵であり切り殺されても仕方のない理由をもつ者たちであった。
…
こうして1860年代の前半には、尊攘に逆らう者たちに『天誅』をくだすことが流行するようになった。天誅とは、『罪ある者を、天に代わって討ち果たす』という意味である。
◎1862年、朝廷に仕える公卿九条家の家来の島田左近が殺され、その首が四条河原にさらされた。左近は、安政の大獄のときに幕府方にたって活躍した人物である。
◎1863年、洛西の等持院に押し入り、足利尊氏・義詮・義満の木像の首と位牌を奪った者が、これを賀茂川原にさらした。これは、将軍家茂の上洛を前に、『鎌倉以来積み重ねてきた罪を償う措置を取らない限り遠からず全国の有志大挙してそれを糺すであろう。』という意志を表明したものであった。
などというのもその表れであるが、このころ天誅の犠牲になった者は、数知れないほどいたのである。」(『スーパー日本史』p.472)
以前このブログで、文久2年(1862)に起きた生麦事件のことを書いたが、この事件は決して単純な攘夷殺人ではなかった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-317.html
当時のわが国では、安全のために武士であっても狭い市中での乗馬は禁止されていたのだが、4人の英国人が騎乗のままで島津藩の行列に遭遇し、「馬を下りよと」命じられたにもかかわらず、それを無視して薩摩藩政の最高指導者・島津久光の駕籠に近づいて行った。
今の世の中でも、パレードの最中に中央にいる重要人物に向かって制止されても接近していく人物がいたとしたら、国によっては射殺されてもおかしくないだろう。
斬りつけられたリチャードソンらの尊大な振舞いは、当時の外国人からも強い批難があったのだが、幕府が結んだ安政の不平等条約では彼らに治外法権を認めていたために、わが国には外国人を裁く権利が存在しなかった。外国人がわが国の法律や慣習を意に介さずにやりたい放題にしていたことに憤慨する多くの日本人が出現したのだが、その要因の大半は外国人側にあったと言って良い。
そして尊王攘夷派の中から、いち早く挙兵して討幕の先駆けになろうとする者が出てきて、天誅組の変や生野義挙が起きたのだが、そのような経緯を教科書のような書物から読み取ることは困難である。このブログで何度も書いているように、戦勝国に都合の悪い話はことごとく戦後の歴史叙述から消されてしまっているのである。
では生野義挙がどのような事件であったのか、簡単に振り返っておこう。
先ほど、文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の大和行幸の詔勅が発せられたことを書いたが、孝明天皇が攘夷親征を決意されたからにはともに戦う兵士およびその兵糧や武器を調達するための資金が必要となる。
「天誅組の変」では先に大和入りして天領*である五條を平定しようと、中山忠光(明治天皇生母・中山慶子の実弟)、土佐脱藩吉村寅太郎、刈谷脱藩松本奎堂・備前脱藩藤本鉄石ら38名の同志が五條に向かい8月17日に五條代官所を襲撃したのだが、尊王攘夷派のやり方に反発する薩摩藩と会津藩とが、討幕に繋がる今回の行幸を阻止しようと手を組み、8月18日に宮中でクーデターを起こしたため、孝明天皇の奈良行幸が、急遽中止されることとなり、長州藩と尊王攘夷派公卿たちは京都から追放されてしまった。そのために天誅組は、皇軍御先鋒の大義名分を失い、反乱を起こした賊として討伐を受ける側に立たされ、9月27日に東吉野で壊滅してしまった。
*天領(てんりょう):江戸幕府の直轄領。幕府領、幕領とも言う。
【平野国臣】
この天誅組が大和で過激な行動を起こすことを危惧した公卿三条実美(尊王攘夷派)は、挙兵を中止させるべく平野国臣(福岡脱藩)を大和に送ったのだが、平野が到着したのは19日で天誅組が五條代官所を襲撃した2日後のことであった。
平野は21日に帰京したが、政局が一変した京都にいることは危険なので、但馬に逃れた。
但馬国は小藩の豊岡藩、出石藩以外は天領が多くを占めていて、生野銀山のある生野には代官所があった。生野義挙碑のあるあたりがその代官所の跡地だという。
また生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、薩摩脱藩の美玉三平と連携し農兵の組織化を図っていて、生野代官の川上猪太郎がこのような動きに好意的なこともあって攘夷の気風が強かったようだ。
【北垣晋太郎】
平野は、天誅組を援ける為に、但馬で声望の高い北垣晋太郎と組んで10月10日に生野で挙兵することを計画。
長州三田尻にて保護されている攘夷派公卿の誰かを迎えさらに武器弾薬を調達するために長州に向かい、公卿澤宣嘉を説得し、尊王攘夷派浪士、奇兵隊員らを乗せて長州から播磨に向かったという。そして一行は播磨国飾磨に上陸し、そこではじめて天誅組の敗北を知ることとなる。
【生野義挙絵巻】
平野は、天誅組が潰滅した以上は挙兵を中止すべきだと主張したが、結局、河上弥市(南八郎)らの挙兵強硬派の主張が勝り、11日に生野の手前の延応寺に本陣を置き、その夜に生野の代官所を襲いこれを占領した。
【澤宣嘉】
平野、北垣らは「当役所」の名で澤宣嘉の告諭文を発し、天領一帯に募兵を呼びかけたところ、その日正午には2000人もの農民が生野の町に集まったという。
しかしながら、幕府側の動きは早く、代官所留守から通報を受けるや豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、挙兵の翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動。
すると13日夜には肝腎要の主将の公卿・澤宣嘉が解散派とともに本陣から脱出。騙されたと怒った農民たちは、戦わずして逃れ、あるいは藩兵に応援して志士たちに銃口を向けることとなったという。
かくして生野での挙兵はあっけなく失敗にて終わるのだが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに、明治維新の導火線になった事件であると評価されている。事件の顛末を見れば、決してそれほど大きな事件であったとは思えない人が大半だと思うのだが、当時幕臣であった福地源一郎が昭和11年に著した『幕府衰亡論』で、天誅組の変(大和義挙)と生野の変(生野義挙)は徳川幕府を倒すきっかけになったことを述べている箇所がある。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで誰でもPC上で読むことができる。
【福地源一郎】
「此の両挙は、東西その期合せず、加うるに烏合の過激党にして、其の数も僅少なりければ、忽ちに幕府より命じたる近傍諸藩の為に追討さられ、旬日を経ずして敗蹟して静謐に復したりき。但し此の両挙は、当時においてこそ、左までの影響なき様に見えたれ、今日よりして深く時勢の変移を察すれば、幕府はこの為に頗る重傷を被りたりと言わざるべからず。世上の人心この敗蹟を憫れむの情は、即ち他日討幕の決意を作興したるものなり。尊王攘夷の名義を以てすれば、政府に抗敵するに兵力を以てするも、世論は之を咎めざるの実証を示したるものなりき。然らば即ち討幕の大火団は、此の一小暴動これが燐寸(マッチ)の導火となって、後日に爆発せりというべき。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918535/110
福地源一郎は、「尊王攘夷」を唱えていれば幕府に武力を用いて敵対しても、世論はそれを咎めないことが広く知られるようになっていき、そのことが、のちに幕府が倒れることにつながっていったと述べているのだが、旧幕臣の言葉だけに重たいものがある。孝明天皇が幕府の方針に抗して攘夷親征を決意したことが、想像以上に幕府に大きな影響を与えたのである。
生野の観光を終えて、宿泊先の香住に向かう。
毎年この季節に紅葉を楽しんだ後に、日本海のカニを食べることを楽しみにしているのだが、私がいつも宿泊する所は地元で獲れたカニを安く提供してくれそうな宿で、ここ数年は民宿を選ぶことにしている。今年は庄屋という宿でお世話になった。
あまり高くないコースを選んで別注でタグ付きの茹でガニをお願いしたのだが、なかなか大きなカニを用意していただいて嬉しかった。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-317.html
薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-318.html
薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-319.html
五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html
天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html
天誅組の足跡を追って天辻峠から十津川村へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-444.html
誇り高き十津川村の歴史を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-445.html
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