但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて

「安国寺」というと、南北朝時代に足利尊氏・直義兄弟が京都天龍寺の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の菩提を弔うために各地に建てたと伝えられ、この但馬安国寺も全国に68ある安国寺のうちのひとつなのだが、いろいろ調べるとそれらの寺をすべて新たに建てたわけではなく、一部は既存の寺院を改称したケースも多いらしい。
この寺は鎌倉時代後期に無本覚心(法灯国師)による開山といわれ、貞和元年(1345年)に「安国寺」と改称されたものだという。
その頃の境内は現在地より南方三百メートルのところにあり、寺伝によると足利幕府より朱印と三百石余の禄が与えられ、七堂伽藍を有した大寺院だったそうだが、享保2年(1717)に火災ですべてを焼失してしまったという。
その後現在地に近い山地に草庵が建てられて、出石宗鏡寺の末寺になったというが、その後も何度か火災に遭い、現在の本堂は明治37年(1904)に落慶した建物なのだそうだ。
思ったよりも本堂は小さくて、これといった文化財は残されていないのだが、毎年紅葉の時期になるとテレビによく報道される寺であることをご存知の方も多いのではないだろうか。
安国寺の裏庭は狭く、斜面にドウダンツツジが流れるように植えられているだけなのだが、11月の半ばには真赤に色づいて、本堂の座敷の障子越しに見る紅葉が額縁の絵のようになる。

この写真を観光客の誰もが撮れるように、裏庭のツツジの近くには観光客が近寄れないようにロープが張ってあって、本堂には観光客を数十人ずつ順番に誘導し、座敷で紅葉の写真を存分に撮影させた後、本堂から出て頂いて座敷が無人となる状態をつくる。そこで次のグループが本堂の外から座敷の障子越しに見るドウダンツツジの写真を撮影し、それから本堂に招き入れられる…。そのようにして手際よく観光客を回転させていた。
本堂を出て外に廻って、庭の斜面を彩っているドウダンツツジを見てもそれなりに美しいものなのだが、やはり障子越しで見るのが一番良い。

庭はこのドウダンツツジがなければただ斜面があるだけのことなのだが、この狭い空間を見事に活かしていることに感心してしまう。
このドウダンツツジは現在の本堂が建てられた際に裏庭に植えられたのだそうだ。とすると樹齢はおそらく110年程度だということになるが、文化財をほとんど焼失してしまったにもかかわらず斜面にドウダンツツジを植えたことで、今ではこの寺に全国から観光客が訪れるようになり、結構な町おこしになっている。
地元の方がテントを張って地元の農産物などを販売しておられたので、椎茸と銀杏を買って帰った。採れて間もない椎茸なのだろう、ずっしりと重くて肉厚で、帰宅後食べたらとても旨かった。
次の目的地に向かう途中の朝来市和田山町で車を停めて『はっかく亭』で昼食をとる。 ここで休息をとったのは、せっかく但馬に来たのだから、新鮮な野菜と少しばかり但馬牛を買い込んで帰りたかったからだ。隣に新鮮野菜の産直店があり、向かいに但馬牛の『太田家』がある。

グループで牧場を経営しておられる肉屋さんはこの近くに他にもいくつかあるのだろうが、数年前に会社の同僚から教えてもらった『太田家』しか知らないので今年もまた来てしまった。ここでは柔らかくておいしい肉が安く買えるのでお勧めだ。
買い物を済ませてから次の目的地である丹波市柏原(かいばら)町の柏原八幡神社に向かう。

この神社は、平安時代の万寿元年(1024) に京都の石清水(いわしみず)八幡宮の分霊を祀った柏原別宮として創建されたのち、貞和元年(1345)の南北朝時代の争乱により社殿が焼失。間もなく再建されたが戦国時代の明智光秀の丹波攻めの兵火でふたたび焼失し、その後羽柴秀吉が黒井城主の堀尾吉晴に社殿の造営を命じて天正13年(1585)に現在の社殿(国重文)が竣工している。

社殿の前に立つ狛犬は柏原出身の石工・村上照信により文久元年(1861)に制作され、佐吉の傑作だとされているそうだ。次のURLに様々な角度からの狛犬の画像があるが、よく見るとなかなか迫力のある狛犬である。
http://www.228400.com/tatsumi/tanbasakichi/sakichi/sakichi-11.html
この神社の魅力は何と言っても素晴らしい三重塔(県指定文化財)。ここでは神社の象徴的建造物である鳥居や本殿の背後に、仏教の象徴的建造物である三重塔が聳えるという、珍しい光景を見ることが出来る。

昔はこのような光景を各地で見ることが出来たと思うのだが、明治初期の廃仏毀釈で全国の神仏習合的な施設のうち仏教施設が徹底的に破壊されてしまった。
以前このブログでも書いたが、この柏原八幡宮の本家である京都の石清水八幡宮はもともとはお寺であり、「男山四十八坊」と言われるように石清水八幡宮護国寺を中心とした多くの仏教施設があったのだが、明治元年の廃仏令で僧侶は還俗させられ俗人となり、法施や読経を禁じられ、堂宇も撤去されるか、一部は神殿に変えられてしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-53.html
男山の多くの寺院にあった阿弥陀如来像などの仏像や曼荼羅等の文化財はほとんどが売却されたり捨てられてしまったのだが、本尊であった薬師如来とそれを護る十二神将像は人目を避けるように運ばれて、今は淡路島の東山寺(とうさんじ)に祀られている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-50.html
本家の石清水八幡宮にあった仏教施設が徹底的に破壊されたにもかかわらず、柏原八幡神社の境内の三重塔がなぜ残されたのだろうか。
境内には以前、神宮寺であった乗宝寺という寺が存在していて、三重塔はその寺の所有であったそうだ。明治の廃仏毀釈の時に乗宝寺の他の堂宇は取り壊されたのだが、この三重塔については中に安置されていた大日如来を取り除いて、この塔を神社の「八幡文庫」と呼ぶことで取壊しを免れた経緯のようだ。
このように神社の境内の中に塔が残されているような事例として、昨年は兵庫県養父市にある名草神社の朱塗りの三重塔のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html
また三年前には奈良県桜井市の談山神社・十三重塔のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html
何れの事例も、寺院であったものを無理やりに神社にしたものなのだが、柏原八幡神社はは神仏習合の荘厳な風景を今も残す数少ない事例なのだと思う。
Wikipediaによると、神社の境内に塔が残されているのは今では全国で18例があるだけなのだそうだが、こういう貴重な景色をカメラに収めることが出来て大満足だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE

ところで柏原八幡神社の鳥居の近くに、大きなケヤキの木がある。樹高22mで推定樹齢は1000年と言われている大木なのだが、なんとこの木の根の1本が、幅8メートルの奥村川をまたいで自然の橋を形作っており横から見ると、その根の太さに驚いてしまう。

地元では「木の根橋」と呼ばれているようだが、このケヤキは兵庫県文化財(天然記念物)にも指定されているようである。
https://www.city.tamba.hyogo.jp/soshiki/bunka/ookeyaki.html
丹波市柏原町を後にして、最後の目的地に向かう。
この旅行の初日に、兵庫県加古川市の鶴林寺や姫路市の随願寺を訪ねてきたのだが、2つの寺の共通点は「高麗僧恵便(えべん)」にゆかりがあることである。
このブログで何度か書いたことだが『日本書紀』には、わが国で仏教が拡がったのは敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国にいた恵便という僧を師としたことから始まると明記されている。
そして恵便にゆかりのある安海寺という寺が、兵庫県多可郡多可町八千代区中村に残されている。

敏達天皇13年(584)に仏像2体を手に入れた蘇我馬子は司馬達等らに仏教修行者を探させて、播磨の国にいた高麗人の恵便を見つけて仏法の師としたのだが、国内に疫病が流行ったために排仏派の物部尾輿(もののべおこし)らは、仏教信仰がその原因であるとして排仏活動を行ない、恵便も迫害を受け還俗させられたらしい。
そして、現在の八千代区大矢笠形谷にある稚児岩の洞窟に閉じ込められたと伝えられている。
その場所に室町時代にはお寺があったらしく、それが安海寺の前身だとされている。
予約すれば中に入って拝観できたかもしれないが、この寺の本尊の木造阿弥陀如来坐像は平安時代の後期のもので、兵庫県の文化財に指定されているそうだ。
ネットでいろいろ調べていくと、安海寺の佐藤住職は恵便についてかなり研究しておられるようだ。2008年に「高麗僧恵便 播磨ゆかりの地サミット」というイベントが姫路市で行われ、パネラーとしてこの寺の佐藤住職が話された内容が、在日の方の機関誌『平和統一News第20号』「播磨と渡来人(第5回)」に出ている。渡来人の話は在日の方が興味を持たれることは当然だと思う。
http://fpuhg.main.jp/news20.pdf
どこまで史料の裏付けがあるかはよく解らないが、このイベントで佐藤住職が話された内容を姫路市の英裕司氏が要約されたものが、ネットで見つけることの出来る恵便という人物についての一番詳しい文章である。
しばらく引用させていただく。
「今から1400年前、恵便法師は弟子の百済僧 恵聡(えそう)を伴って日本へ来られた。
しばらくして、仏教に反対する物部氏による仏教弾圧がはじまる。この時、恵便法師と弟子の恵聡は捕らえられ、生駒山に送られた。しかし、都に近いとの理由で今度は播磨の赤穂に流され、最後に播磨の多可郡八千代(安海寺のある地域)に流された。物部氏は、二人を無理やり還俗させた上、『右次郎』『左次郎』と呼び、逃げないように家に閉じこめた。(他の伝承では弾圧から逃れ、隠れ住んだという話が主流だが、ここでは捕えられ幽閉されたということになっている。)
その間、還俗した恵便法師は村の娘と恋におち、一子を授かる(?!)。村娘の名前は、『恵忍』といったそうだ。数年後、恵便法師は一人息子を弟子の恵聡に託し、ひそかに朝鮮半島に逃亡させることに成功する。これが故に、恵便法師笠形山の洞窟に幽閉されてしまう。今も恵便法師がわが子の無事を祈りながら、彫ったとされる山石の地蔵菩薩が残っている。
ほどなく聖徳太子を中心とする崇仏派が排仏派の物部氏を滅亡させるといった政変が起こるのであった。
その後、仏教の指導者をさがして、蘇我馬子の使いが播磨の地にやって来た。ここで恵便法師は中央に復帰することになった。(この辺りの経緯は事実である。都からの使いが直接、幽閉されていた山奥に来たのか、それとも恵便法師がこの場所から脱出して、播磨の姫路に隠れ住んでいた時に、都の使いが来たのかはっきりしない)ともかく都に戻った恵便法師は、蘇我馬子の師となり、3人の尼僧を出家させるなど大活躍した。
時は流れて、595年、弟子の恵聡が恵便の子を連れて日本に戻ってくる。実はこの恵便の子こそは、名を恵慈(えじ)といい、のちに聖徳太子の師となった有名な高僧なのである。なんと高僧 恵慈と恵便法師が前述したように親子であったのだ。」
聖徳太子の仏教の師となった「恵慈」は『日本書紀』では「慧慈」と違う字で書かれていて、「恵便の子」であるとは一言も書かれていない。恵便が娘と恋に落ちた話や、二人の間に恵慈を生んだという佐藤住職の話は何を根拠にしているのだろうか。
ところで相生市のホームページにも、恵便についてこんな伝承が残されていることが紹介されている。
兵庫県相生市矢野町瓜生に羅漢の石仏があり、欽明天皇の時に、矢野に流された恵弁と恵聰の2人が瓜生の岩窟に入り、すべての人を仏に引き合わせようとの願いからその石仏を彫ったというのだ。
しかしその伝承には恵弁と恵聰が還俗させられて『右次郎』『左次郎』と呼ばれたことは佐藤住職の話と一致しているものの、恵便が恋に落ちて子供ができたという話はないようだ。
http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/den_min/densetu/04.htm
相生市のホームページも根拠となる文書についての記載がないのは残念だが、恵便に関しては『日本書紀』の記述とは異なる伝承が複数残されていることは注目して良いだろう。どこまでか真実であるかは人によって感じ方が異なるのだと思うのだが、この時期に恵便という渡来人がわが国に仏教を広めたことについては確かな事だと思うのだ。
帰宅途上中国自動車道で渋滞に巻き込まれて帰るのに随分時間がかかってしまったが、あまりよく知らなかった播磨や但馬の聖徳太子と恵便のゆかりの地を巡り、紅葉もカニも楽しめて、いい旅行だった。
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