ラ・ビ・アン・キャフェ
大正が昭和へと改元される32日前の1926年11月23日に生まれた畔柳潤氏(虎ノ門「松屋珈琲店」前代表取締役/「日本コーヒー文化学会」顧問・元副会長)が、2015年5月7日に死去した。斎場での会葬御礼には、コーヒー家業の長らくの卸取引先である「小川軒」(新橋)のレイズン・ウィッチが用いられたという。そのレーズンは母の乳首を、そのクリームは母乳を示し遺したのであろうか?…昭和の世才に通じた人がまた逝った。
《大正時代に生れたから、ふくよかな乳房から母乳をすっていると、頭の上で母が飲んでいたコーヒーの一雫がポトリと落ちて、乳房を伝って乳首のところで母乳といっしょになって口に含んでしまった。乳首から顔を離して母を見上げて、ニッコリとほほえんだそうである。これぞ「カフヱ・オゥ・レェ・ママーン」であった。母の鼓動から伝って身についた母国語、それは僕にはコーヒーであった。》 (畔柳潤 『カフェ・ピルグリム コーヒーの巡礼』 プロローグ/いなほ書房:刊 2005年)
《カフヱ(キャフェ)・オゥ・レェ・ママーン》…講演する畔柳潤氏が必ずといっていいほどにマクラで使った話だ。畔柳潤氏のやや外連味を帯びた調子の話ぶりは、得意の手品と同様に一種の‘演芸’であった。聞き飽きた…と思うこともあったが、もう聞けないとなると懐かしくも寂しい。氏はコーヒー講演会の前後で各地のコーヒーショップを巡り、これを‘カフェ・ピルグリム’(コーヒーの巡礼)と称したが、《身についた母国語》まで《コーヒーであった》と言い及んだ氏の人生そのものが‘カフェ・ピルグリム’であったのかもしれない。
《今の珈琲は余りに定型的で詰らない。もっとファジィーな考え方が出来ないと、おいしく飲めない。もっとおいしい食物を幅広く知って、その変化を楽しむのでなくては、飽きてしまうのである。企業的にはマニュアル通りに理解していれば事足りるのが現状で、それが一般常識として話されるに過ぎないのである。(略) 珈琲を扱う時に余り人智を加えると、益々風味が損なわれる。(略) 日常の食事、食物に関心を払って比較すれば簡単明瞭に分り、おかしいのではないかと考えた方がよろしい。珈琲だけが特殊なものではない。(略) 何十年の営業経験の人は既成概念があり過ぎて誤り易い。鋭い感性の個人の方が素晴らしい評価をすることが暫々であるのも、食、香りの道の奥深さではある。》 (畔柳潤 『珈琲のある人生』 エピローグ/いなほ書房:刊 1992年)
コーヒー業界の各種団体で委員長や理事など要職を歴任した畔柳潤氏だが、威を張る風でもなく、だが、やや取り澄ました態にも感じられる時もあり、口を開けば時に歯切れのよい江戸弁が飛び出した。《歩くのが早かったこと、飛行場なりどこでも、居ないと思った時には、喫煙所に必ずいました》(「日本コーヒー文化学会ニュース」第66号 編集室だより)と星田宏司氏が述懐されている通りに、私が畔柳潤氏の‘べらんめえ’の調子を間近に聞いていた多くは催事会場の喫煙所だった。煙草を喫し難い時代になったと嘆く私たちは、「弱いものをいじめやがって」という氏の啖呵で溜飲を下げていた。‘La vie en café’(ラ・ビ・アン・キャフェ)を掲げていた畔柳潤氏だが、正しくは「珈琲と煙草のある人生」であったようにも私には思える。畔柳潤氏の「緑紅茶豆」というペンネームに、コーヒーと共に大正・昭和・平成と時代の色と匂いの移り変わりが示されているように感じるのは、私だけだろうか?…イキ(意気)と洒落っ気に隠れた俗気のある、旧いところのコーヒーの話をもう少し聴いておきたかった。コーヒー界は、また少し‘演芸’を失った。それがどれほどの喪失なのか?…私の《ラ・ビ・アン・キャフェ》が終わるまで考え続ける。
《大正時代に生れたから、ふくよかな乳房から母乳をすっていると、頭の上で母が飲んでいたコーヒーの一雫がポトリと落ちて、乳房を伝って乳首のところで母乳といっしょになって口に含んでしまった。乳首から顔を離して母を見上げて、ニッコリとほほえんだそうである。これぞ「カフヱ・オゥ・レェ・ママーン」であった。母の鼓動から伝って身についた母国語、それは僕にはコーヒーであった。》 (畔柳潤 『カフェ・ピルグリム コーヒーの巡礼』 プロローグ/いなほ書房:刊 2005年)
《カフヱ(キャフェ)・オゥ・レェ・ママーン》…講演する畔柳潤氏が必ずといっていいほどにマクラで使った話だ。畔柳潤氏のやや外連味を帯びた調子の話ぶりは、得意の手品と同様に一種の‘演芸’であった。聞き飽きた…と思うこともあったが、もう聞けないとなると懐かしくも寂しい。氏はコーヒー講演会の前後で各地のコーヒーショップを巡り、これを‘カフェ・ピルグリム’(コーヒーの巡礼)と称したが、《身についた母国語》まで《コーヒーであった》と言い及んだ氏の人生そのものが‘カフェ・ピルグリム’であったのかもしれない。
《今の珈琲は余りに定型的で詰らない。もっとファジィーな考え方が出来ないと、おいしく飲めない。もっとおいしい食物を幅広く知って、その変化を楽しむのでなくては、飽きてしまうのである。企業的にはマニュアル通りに理解していれば事足りるのが現状で、それが一般常識として話されるに過ぎないのである。(略) 珈琲を扱う時に余り人智を加えると、益々風味が損なわれる。(略) 日常の食事、食物に関心を払って比較すれば簡単明瞭に分り、おかしいのではないかと考えた方がよろしい。珈琲だけが特殊なものではない。(略) 何十年の営業経験の人は既成概念があり過ぎて誤り易い。鋭い感性の個人の方が素晴らしい評価をすることが暫々であるのも、食、香りの道の奥深さではある。》 (畔柳潤 『珈琲のある人生』 エピローグ/いなほ書房:刊 1992年)
コーヒー業界の各種団体で委員長や理事など要職を歴任した畔柳潤氏だが、威を張る風でもなく、だが、やや取り澄ました態にも感じられる時もあり、口を開けば時に歯切れのよい江戸弁が飛び出した。《歩くのが早かったこと、飛行場なりどこでも、居ないと思った時には、喫煙所に必ずいました》(「日本コーヒー文化学会ニュース」第66号 編集室だより)と星田宏司氏が述懐されている通りに、私が畔柳潤氏の‘べらんめえ’の調子を間近に聞いていた多くは催事会場の喫煙所だった。煙草を喫し難い時代になったと嘆く私たちは、「弱いものをいじめやがって」という氏の啖呵で溜飲を下げていた。‘La vie en café’(ラ・ビ・アン・キャフェ)を掲げていた畔柳潤氏だが、正しくは「珈琲と煙草のある人生」であったようにも私には思える。畔柳潤氏の「緑紅茶豆」というペンネームに、コーヒーと共に大正・昭和・平成と時代の色と匂いの移り変わりが示されているように感じるのは、私だけだろうか?…イキ(意気)と洒落っ気に隠れた俗気のある、旧いところのコーヒーの話をもう少し聴いておきたかった。コーヒー界は、また少し‘演芸’を失った。それがどれほどの喪失なのか?…私の《ラ・ビ・アン・キャフェ》が終わるまで考え続ける。
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