無の味
《キリスト教主義の大学で、寮生活をしていた。少人数、全寮制の学園のため、食事は全員で一斉に食堂で食べる。とてもおいしいメニューばかり。ただし、朝食は毎日だいたい決まったメニュー。ご飯に生卵か、もしくはトーストにチーズ、コーヒー。ある日、決まりきった朝食に飽きていたわたしは、ご飯にコーヒーをかけてみた。悪くない。「コーヒー茶漬け」と銘打って、しばらく続けてみた。不気味なものを見るような周囲からの冷たい視線をものともせず、コーヒー茶漬けを楽しむ。それにも飽きてきて、さらなる刺激を求めたわたしは、コーヒー茶漬けに、生卵を入れてみた。コーヒーの苦みに、ほのかな米の甘み、そして生卵のマイルドさがそれらをやさしく包み、すべてが中和され、味が、消えた。無の、味がした。》 (あおしゅん 「コーヒーと米と生卵」/内田樹・高橋源一郎:選 「ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈日本版〉──日本中から届いた嘘みたいな本当の話」 第15回発表 「壮絶にまずい食べ物の話」/『嘘みたいな本当の話』 文藝春秋:刊 収載)
《〈日本版〉の場合、不思議なのは、書かれていることはほとんど視覚像が中心なんです。多少は心理描写もあるんだけど、「音」とか「匂い」とか「触覚」についての情報が少ない。痛いとか寒い、腹が減ったという、痛烈な身体感覚が書かれたものもほとんどない。だから、「壮絶にまずい食べ物の話」なんていうテーマを加えたんです。味覚の話が出てきたらいいなと。(略)…高橋さんはたぶん、奇妙な味の作品というか、オチのない話が好きみたいですね。僕は最後の一行でキュッとツイストが効くような感じのものが好きなんだな。それが救いになるような気がして。だから、ふたりとものハンコが押してあるものは出来がいいということになりますね。奇妙な味わいがあるのだけれど、ちゃんと定型性を保っているという。》 (内田樹:談/『嘘みたいな本当の話』 [巻末対談]柴田元幸×内田樹 ひとりひとりの“証言”を通じて日本が物語ったこと)
あおしゅん氏の「コーヒーと米と生卵」は、『嘘みたいな本当の話』に収載された7つの「壮絶にまずい食べ物の話」の中で、唯一《ふたりとものハンコが押してあるものは出来がいい》に該当する話である。確かに《奇妙な味の作品》であって、また《最後の一行でキュッとツイストが効くような感じのもの》でもある…《味が、消えた。無の、味がした。》のだから。 それにしても、《コーヒー茶漬けに、生卵を入れ》ると、本当に《すべてが中和され》て味が消えるのだろうか?…《無の、味がした。》ということは、味が有るのか無いのか? まるで、「無門関」の公案のようだ。《さらなる刺激を求めた》私(帰山人)は、やってみるしかない…
飯はムショ飯(米7割:大麦3割)とする。コーヒーはパナマのゲイシャとする。元の香味を特徴ある強いものにして、消えにくくするためだ。炊きたての飯に、淹れたてのコーヒーをかけて、その「コーヒー茶漬け」に生卵を落として、割り混ぜて食べる…コーヒーの香味が口と鼻に拡がる…玉子かけご飯の香味もする…ゲイシャの香りもあるし大麦の味もある。何だぁ、(各々の素材の香味が)バラバラに残っているじゃないか!…ん? 噛み続けると、ある瞬間から香りも味も《消えた》! ゲイシャや大麦の特徴ある香りも、全く感じられない。いや、頼りなく弱弱しい何か得体の知れない香味がする。これが、「無の味」か…不味い。いや、《壮絶にまずい》という判断さえしづらい意味で、壮絶に(?)美味くも不味くも無い…
「無の味」とは何か?…単に味が無いという意味での「無味」とは違うようだ。面白味や風情が無いという意味でならば近い感じか?…そもそも「無」とは何か? コーヒーの香味自体にも「無の味」があるのか?…ある時、僧が和尚に問うた、「コーヒーに仏性は有りや無しや」。和尚は答えた、「無」と。それは、有無の「無」でもないのだろうし、虚無の「無」でもないのだろう。それでは、コーヒーにおける「無の味」とは何だろう? とても興味深い…
コメント
味気無いという味は有るのか無いのか…人間はいつか必ず死ぬ。死んだ後にいくところは「無」である。やっぱり、人間って…面白!!
帰山人さん。
無の味とはイメージするならば
諦めのような感じでしょうか
諦めの悟りを開いたような
ちびまる子ちゃんの話の終わりによくある
『でろ~ん』みたいなものでしょうか。
味のような物理的な物と言うより
口に含んで心の中で『あ~』と嘆くような
精神的な要素の方が強い気がします。
百聞は一見にしかずですが
じょにぃも実践する勇気はありません(笑)
「諦め」「でろ~ん」「あ~」…どれもが「そう」とも言えるし「そうじゃない」とも言える。「無の味」は(今のところ)喩えようがない。しかし、喩えようがないから「無の味」とも想えない。ここからが科学です。
学生をやっていた頃、生豆を買う余裕は有っても、オカズを買う金がない時代、冷蔵庫にはイカの塩辛だけ。味噌汁も味噌がない。ドリップしたてのコロンビアを茶漬けのかわりに塩辛ごはんにかけて食したことを思い出しました。案ずるより,産むが安し。塩とコロンビアマイルド、米の甘味がそれぞれ独立して(stand alone complex?),,。空腹は最高のスパイスとも言いますが、まずくはなかった事を思い出しました。
この手の話、gag(ギャグ)と捉えて応ずる方々が多かったのですが、塩辛珈琲茶漬けにしろ卵珈琲茶漬けにしろ私はある種のgig(ギグ)だと思っています。《生豆を買う余裕は有っても、オカズを買う金がない》…好い2nd GIGの話をお知らせいただき感謝いたします。「なつかしい時間」は、昔も今も現在進行形であります。
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さすが帰山人さん
自身を実験台にw
でも本当に無(と言うか味気ない?)になるんですね。
面白そうですが自分はやりません(キッパリ)。