死んだ談志
ん~‘スクリーンで観る高座’なんてどんなんですか、ありゃよくわかんないね。スクリーンで出演(や)るってことは、もう生の高座が持てないってんですかね。‘談志は天才だ’とかね、ん~‘落語界の風雲児だ’とかって言うのは、落語が理解(わか)っていない奴の言うことですからね。え~落語がわかっている人はそうことを言わない。落語家は人間が評価するものではないのです、人間はダメなもんだと確認させるために落語家が存在しているのです。噺(はなし)が‘上手(うま)い’なんてぇのはね、上手く聞こえりゃいい…落語家ってぇのは、人間が常識化できないような部分をさらけ出してやろうって奴だからね、特に立川談志ね…
『映画 立川談志』 観賞後記
《一周忌追善プロジェクト》だそうである。「追善」というのは生き残った側が勝手に‘善’だと思うだけで、死んだ談志が‘善’なワケでは無いのであるが…まぁとりあえず善しとしよう。…ん?《スクリーンで観る高座》…そうか、コレは『小三治』みたいな噺家‘映画’じゃあ無いのかぁ。…ん?《未公開映像で綴る 談志の落語哲学》…そうか、コレは『落語物語』みたいな物語‘映画’であるのかぁ。…一体全体どっちなんだ! コレ『映画 立川談志』は、《シネマ落語&ドキュメンタリー》と称するが、‘映画’として成立していない失敗作である。チケット料返せ!
《「やかん」、「芝浜」最円熟期の落語二席!》だそうである。2005年10月12日、国立演芸場で出演(や)った「やかん」、この「やかん」は噺が落ちてない、小三治みたいな噺家は落とさなくても好いが、談志みたいな落語家は落としてナンボだろうに…片耳の穴が無い? 2006年12月2日、三鷹市公会堂で出演(や)った「芝浜」、この「芝浜」は噺が落ちている。《…彼が人生の終幕に命懸けで吐露してみせた『芝浜』の、あのおかみさんの優しさ愛らしさ賢さは、正直で真っ当な人間を描いて絶品! それは幻想か? 錯覚か?! 「そうじゃねえだろう!!」。立川談志は、正気であろうと一所懸命勉めた日本人である。》(大林宣彦)…
そうじゃねぇだろう! 何を聴いてどこを観ているんだ! あのおかみさんの遠慮がちな俗っぽさこそ、立川談志が狂いたくても自意識を棄てられない、気恥ずかしさの証であろうがな! 談志の落語は、‘一所懸命’なんて過程評価は全く意味を成さない、語り部たる談志自身が‘出演(や)ったハズで出演(や)りきれない’という遣り切れない結果を味わうものである。「芝浜」をサゲた直後に、照れて恥じて自らのやりきれなさを笑う、しかし2006年の談志は‘どうだ’と言う自惚れも表情に混ぜる…そこを聴いて観ることができる。木戸銭は香典だ!
『映画 立川談志』は、《人間の業の肯定》から《イリュージョン》そして《江戸の風が吹く》へ、具体から抽象へ落ちていった哲学が、‘落語’ではなく‘談志’自身であったことを証明した。林家三平(初代)曰く、「立川談志さん、この方は落語界のテンサイですな…天の災と書く」…
《芸の神はこんな処か、もう少し楽しませてくれてもいいのに ──立川談志》
「談志の芸はこんな処か、もう少し楽しませてくれてもいいのに」 ──鳥目散帰山人
『映画 立川談志』 観賞後記
《一周忌追善プロジェクト》だそうである。「追善」というのは生き残った側が勝手に‘善’だと思うだけで、死んだ談志が‘善’なワケでは無いのであるが…まぁとりあえず善しとしよう。…ん?《スクリーンで観る高座》…そうか、コレは『小三治』みたいな噺家‘映画’じゃあ無いのかぁ。…ん?《未公開映像で綴る 談志の落語哲学》…そうか、コレは『落語物語』みたいな物語‘映画’であるのかぁ。…一体全体どっちなんだ! コレ『映画 立川談志』は、《シネマ落語&ドキュメンタリー》と称するが、‘映画’として成立していない失敗作である。チケット料返せ!
《「やかん」、「芝浜」最円熟期の落語二席!》だそうである。2005年10月12日、国立演芸場で出演(や)った「やかん」、この「やかん」は噺が落ちてない、小三治みたいな噺家は落とさなくても好いが、談志みたいな落語家は落としてナンボだろうに…片耳の穴が無い? 2006年12月2日、三鷹市公会堂で出演(や)った「芝浜」、この「芝浜」は噺が落ちている。《…彼が人生の終幕に命懸けで吐露してみせた『芝浜』の、あのおかみさんの優しさ愛らしさ賢さは、正直で真っ当な人間を描いて絶品! それは幻想か? 錯覚か?! 「そうじゃねえだろう!!」。立川談志は、正気であろうと一所懸命勉めた日本人である。》(大林宣彦)…
そうじゃねぇだろう! 何を聴いてどこを観ているんだ! あのおかみさんの遠慮がちな俗っぽさこそ、立川談志が狂いたくても自意識を棄てられない、気恥ずかしさの証であろうがな! 談志の落語は、‘一所懸命’なんて過程評価は全く意味を成さない、語り部たる談志自身が‘出演(や)ったハズで出演(や)りきれない’という遣り切れない結果を味わうものである。「芝浜」をサゲた直後に、照れて恥じて自らのやりきれなさを笑う、しかし2006年の談志は‘どうだ’と言う自惚れも表情に混ぜる…そこを聴いて観ることができる。木戸銭は香典だ!
『映画 立川談志』は、《人間の業の肯定》から《イリュージョン》そして《江戸の風が吹く》へ、具体から抽象へ落ちていった哲学が、‘落語’ではなく‘談志’自身であったことを証明した。林家三平(初代)曰く、「立川談志さん、この方は落語界のテンサイですな…天の災と書く」…
《芸の神はこんな処か、もう少し楽しませてくれてもいいのに ──立川談志》
「談志の芸はこんな処か、もう少し楽しませてくれてもいいのに」 ──鳥目散帰山人
コメント
to:しんろくさん
帰山人
URL
[2013年01月28日 23時36分]
さすがに真宗のお坊さんはキビシイなぁ…まぁ落語家は語ってナンボですから、これを偲ぶ者も「維摩の一黙」ってワケにはいかないのだろうけど…あ、喋り過ぎなのは私の方か(笑)
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追善というのも、可笑しな言葉で
亡くなって極楽にいって、仏になった故人にたいして、現世で煩悩にまみれているいいかげんな私たちがが善を送るようなことができると思っていることじたいが、なんか間違ってる感じがします
ご冥福も、慣用句みたいにつかわれてますが、同じように可笑しな言葉です