『ルパン三世 カリオストロの城』を映画館の大画面・大音響で観てきたら100分が秒だった

「さて、面白くなってきやがったぜ!」

「バカヤロウ!そいつがルパンだ、俺に化けて潜り込んだんだ!」

「今宵の斬鉄剣は一味違うぞ」

「奴はとんでもないものを盗んでいきました……あなたの心です」

VHSで1万回、DVDで1万回、金曜ロードショーで10万回くらい観てきた『ルパン三世 カリオストロの城』を、IMAXで観てきた。

ストーリー、セリフ回し、物語の緩急、名セリフ、名シーン、ラストのカタルシス、めちゃくちゃ好きだ。もちろん12万回観たので、次に何を言ってどうなるかは全部知ってる。でもこれは、これだけは劇場で観たかった(それもデジタルリマスター版をIMAXで)。

で、観たんだが、本当に一瞬だった。最初のカジノからラストのあのセリフまで、100分が秒だった(でも考えてみると、あれほどの物語と人物とアクションを100分でまとめるなんて凄いことだと思う)。

映画そのものは一瞬だったが、「なんでこんなに面白いのだろう?」とつらつら考えていると、新たな発見があった。これ、ルパンやクラリスだけでなく、「時計塔」がめちゃくちゃ重要だ。

「いや、時計塔が重要なのはあたりまえでしょ?いろいろイベントもあるし」とツッコミが入るかもしれぬ。もちろんその通りだ。

その通りなんだけど、「物語の構造」と「物理的な配置」と「演出の構造」が重なっているのが時計塔なんだ。以下に説明する。

これ、行きて帰りし物語として見ると、時計塔がその境界に立っている。カリオストロ城が俯瞰で映るシーンには、必ず城が左、時計塔が右に配置されている。なので観客の脳内にはこういう構造になっている。

カリオストロ城ーーーー時計塔ーーーー湖

で、ルパンはローマ水道から時計塔の下を通って城へ侵入しようとする。つまり舞台の右から左に向けて進んでいく。スクリーンが舞台でこれが演劇なら上手から下手に向かってルパンが移動するのが物語の前半の構造だ。

演劇の世界では、上手から下手への移動は、過去への遡行や困難への進行を意味する。ルパンが乗り越えなければならない障害や、過去の出来事を思い出すのは物語の前半にある。

そして、物語の後半では、今度はルパンは城から時計塔へ逃げていく。つまり、下手から上手へ移動する。演劇の世界では、勝利や成功、未来を意味する。

思い出しやすい例を挙げるなら、ルパンがぴよーーーーーーんっと飛ぶシーンは左に飛んでいたし、時計塔へ逃げるシーンは常に右を向いていた。

で、この上手→下手への移動と、下手→上手への移動の区切りは、時計塔の鐘が鳴るときで区切られている。

物語の最初、ボーンボーンと鳴るときに、観客には時計塔の存在が印象付けられ、かつ困難に向けて物語が進むことが示唆される。

そして物語のある重要な場面で、やはり連続でボーンボーンと鳴る。そこでは困難な状況から脱出し、勝利へ向けたスタートの鐘の音になる(さらに、最後に時計塔が鳴るときは、みなさんご存知のあのシーンになる)。

つまり、時計塔の鐘が連続で鳴らされるシーンは3回あり、最初の2回は、物語が進む方向が切り替わったことと重ね合わされている。

宮崎駿の映画初監督作品だが、この構造を意図して作り込んでいたに違いない。私が気づいていなかっただけで、スタジオジブリ作品にも「音響」と「キャラの進行方向」と「物語の構造」との重ね合わせがあるのかもしれぬ。

もはや金ローの定番であるこの傑作、ひょっとすると観たことがない人がいるかもしれない。もし、そんな人がこれを読んでいたら……羨ましい! あなたはこれから、カリオストロの城という大傑作を観るという幸せが待っているから。

そして、この作品を劇場で観たことがないあなた、あなたも幸せな人だ。100分を秒で溶かす体験が待っているから。おそらくあなたも5億回くらい観てきたとおもう。それでも45周年リバイバルが良いチャンスになるはず。

大画面で『カリオストロの城』を観るこの機会、お見逃しの無きよう。



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『後味が悪すぎる49本の映画』を読んだら、なぜファニーゲームが大嫌いなのか理解できた

後味が悪すぎる49本の映画

精神的ダメージがありすぎて、読んだことを後悔する小説のことを、劇薬小説という。生涯消えないほど深く心を傷つけるマンガのことを、トラウマンガと呼ぶ。

劇薬小説とトラウマンガは、このブログで追いかけているテーマだ。

最近なら、[BRUTUSのホラーガイド444] あたりが参考になるだろうし、最高傑作は、[スゴ本の本] の別冊付録で紹介している。許容範囲オーバーの激辛料理を食べると、自分の胃の形が分かるように、琴線を焼き切る作品を読むと、自分の心の形が分かるはず(痛みを感じたところが、あなたの心の在処だ)。

『後味が悪すぎる49本の映画』は、この映画版だ。観ている人の気分をザワつかせ、逃げ道を一つ一つ塞ぎ、果てしない絶望に突き落とし、胸糞の悪さを煮詰める―――そんな作品が紹介されている(49は主に紹介される作品であり関連する他の胸糞も合わせると100を超える)。

ハッピーエンド糞くらえとばかりに、嫌な映画をこれでもかと並べてみせてくれる。下品だったり悪趣味だったり、観た後、確実に気分が落ち込むような作品だ。

いわゆる、恐怖をテーマとしたホラーに限らない。ゾンビや殺人鬼がいなくても、おぞましく理不尽な映画は沢山ある。むしろ、モンスターが普通の人間に見える方が、何倍もおそろしく、リアルだ。

そんな胸糞作品を、なぜわざわざ観るのか?観るとダメージを食らうのに、時折、無性に食べたくなるのはなぜか?私の理由は、[なぜイヤな映画をわざわざ観るのか] で語った。

わたしが知らない胸糞映画

そして観るべき映画は本書から選ぼう。

なぜ本書が信頼できるのか?

それは、私にとって胸糞最悪の作品を、高く評価しつつ、かつ、私の知らないエグそうなのを紹介しているから。私の悪趣味にジャストフィットしながらも、未見の作品を先回りしてくれる、理想的な先達だからだ。

本書で紹介されている、ワースト10からも分かる。

もちろんワースト1が最悪中の最悪で、超有名な「ぜったいに観てはいけない」やつだ。私が観たのは3作品しかないが、正直、『ファニーゲーム』を凌駕する後味の悪さを堪能できるなら、ぜひ観たい。

  ワースト10 ミスト

  ワースト9 ファニーゲーム

  ワースト8 子宮に沈める(本書の紹介で観た。現実の方がエグい)

  ワースト7 未見

  ワースト6 未見

  ワースト5 未見

  ワースト4 ダンサー・イン・ザ・ダーク

  ワースト3 未見

  ワースト2 縞模様のパジャマの少年(本書の紹介で観た。唯一無二の絶望感)

  ワースト1 未見

ネタバレに配慮しつつ、読ませる批評も面白い。その作品が、どのように作用して、どんなダメージをどれくらい食らったかを、詳細にレポートしてくれる。著者自身のダメージのみならず、映画業界から社会現象への影響もまとめてくれており、ありがたい。

  • 史上最強の薬物防止啓蒙映画(レクイエム・フォー・ドリーム)
  • 2日くらい食事が喉を通らなくなった(バイオレンス・レイク)
  • 現実の顛末は検索してはいけない(子宮に沈める)
  • 唯一無二の絶望感(縞模様のパジャマの少年)
  • 最恐(ヘレディタリー/継承)
  • 鑑賞が拷問(ソドムの市)

おかげで、スタンリー・キューブリックが「全ての映画の中で最も恐ろしい」と評した作品や、映倫がR-18指定すら審理拒否した作品、裁判のやり直しまで引き起こした作品を知ることができた。

なぜファニーゲームが胸糞No.1なのか

本書のおかげで、嫌な気分の出所も分かった。

カンヌを騒然とさせ、発禁運動まで引き起こした問題作『ファニーゲーム』は、胸糞映画史上ぶっちぎりのNo.1だ。湖畔でバカンスを楽しむ親子3人と、そこを訪問する2人組の男の話なのだが、なぜこんなに大嫌いな作品なのか、2回観ても分からなかった。

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いや、おぞましさ、不快指数、いやらしさ、苦痛は分かりやすく伝染する(シナリオもカメラも、そういう風に仕込んでいる)。大ダメージを食らって立ち直れなくなるけれど、もう一度味わいたくなる。治りかけのカサブタを触って破って出血するように、また観たくなる(嫌いなのに!)。

なぜこんなに嫌いなのか?嫌いなのに観たくなるのか?

本書では、主人公補正というキーワードで解説してくれる。

脚本・監督のミヒャエル・ハネケは、ウィーン大学で心理学や演劇を学んだエリートであり、批評家から監督へ転身した経歴を持つ。そして、本作の中核にあるテーマは、ハリウッド映画への批判だという。

ハリウッド映画の主人公は、悪役に追い詰められ、窮地に陥っても、なんとか状況を打開しようとする。決してあきらめず、努力や工夫や運に助けられ、事態を好転させる(か、あるいは、そうでなくても何らかの決着に落ち着く)。

その展開は、観客が期待している「お約束」を満足させるために、主人公の行動が最終的に上手くいくように仕向けられている―――この主人公補正を見抜き、ことごとく潰していく。そして、絶対にやってはいけない「補正」を分かりやすく実行した後、どう考えても異常な展開に突き落とす。監督の悪意を、こう解説する。

これで観客の気分が悪くならないはずがないのだが、そんな観客に「あれれ、あなたは人が死ぬスリリングな映画が好きなんじゃないのかなナ?」と問いかけてくるのが本作なのだ。つくづく、性格の悪いインテリのおっさんの悪意が爆発したような映画である。

そうなんだ、映画が嫌いなんじゃなくて、監督の悪意が100%伝わってくるんだ。分かった上でやっているのだ、監督は。間違った意味でのカクシンハンなのだ。「映画でしょ!これは!最悪の!」と、こっちを指さしながらゲタゲタ笑っている監督が嫌いなのだ。計算されつくしたシナリオとセリフとカメラワークに、完全に手玉に取られ、かつ、映画を観て胸糞になっている自分も含めて計算されている展開が、とてつもなく嫌なのだ。

というわけで、本書のおかげで3回目が観たくなった(「役に立たないシナリオ」という前代未聞の展開が分かっていないので、確認してみる)。

こんな風に、未見の胸糞は観たくなり、二度と観たくない胸糞はもう一度観たくなるという、不思議なチカラを秘めた一冊。

あなたの胸糞をぜひ教えて欲しい。きっと本書で紹介されているはず。もしなければ著者である宮岡太郎さん( @kyofu_movie) に伝えると喜ばれるだろう。

 

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動物の鳴き声には言語的構造があった『動物たちは何をしゃべっているのか?』

高度なコミュニケーションは、人間だけのものとされていた。

普遍的な文法を元に言葉を組み合わせ、概念や意図を正確に伝える能力は、人間以外の生物には無いものとされていた。

しかし、近年の研究により、この考えは疑わしいと感じている。

ハチのダンス(※1)やクジラの歌(※2)、体色でコミュニケートするイカ(※3)、有機物を揮発して警告するトマト(※4)など、様々な反証が得られている。人がする方法でないだけで、仲間同士、あるいは種族を超えて意思を伝え合っている。

それでも、ノーム・チョムスキーやモーテン・クリスチャンセンといった言語学者は、獣の咆哮や鳥のさえずりは単純な警告やメッセージに限定され、言語の構造や文法が存在しないと考えていた。「高度な」コミュニケートができるのは人間だけだというのである(この傾向は、言語学者に強く現れているように見える)※5。

この固定観念にトドメを指すのが、『動物たちは何をしゃべっているのか?』になる。

本書は、シジュウカラの鳴き声を長年研究してきた鈴木俊貴(としたか)さんと、ゴリラ研究の世界的権威である山極寿一(じゅいち)さんの対談になる。

シジュウカラの鳴き声に単語や文法が存在することや、ゴリラを含む類人猿には、人間の言語の起源を紐解くヒントが隠されていることが分かる。さらに、なぜ「人間だけが言語を持つ」という固定観念が生まれたのかについて、鋭い指摘がなされている。

言葉はどうして生まれたのか?

まず、フィールドワークで培ってきた経験を元に、「言葉がどうして生まれたのか」という疑問について、ずばり「適応」だと答えている。

言葉を扱える個体のほうが、使えない個体よりも、うまく生存し、多くの子孫を残せたということになる。そして、言葉の種類や複雑さは、その種の環境によって左右されるという。

例えば、カラスの鳴き声は6種類しかないと言われている。種によって若干の差はあるけれど、200種類とされるシジュウカラと比べると非常に少ない。

これには理由があり、カラスは基本的に開けた、見通しのいい環境に住んでいる。互いが目視でき、視覚的なディスプレイでコミュニケートできるため、鳴き声はあまり必要とされなかったという。

実際、ワタリガラスはくちばしを使って人間の指のように対象を指し示すことが知られている。言葉(鳴き声)よりも身振りで意思疎通できるような環境にいるため、少ない種類でも問題なかった。

一方、シジュウカラは、鬱蒼とした見通しの悪い森に住んでいるため、視覚でのコミュニケーションでは不十分だった。天敵や食べ物の存在を、音声によって詳細に伝える必要があったため、鳴き声を発達させたのではないかという。

鳥は「高度なコミュニケーション」ができない?

言語学者が主張する「高度なコミュニケーション」とは以下を指している。

  • 文法性(単語を並べて意味を生み出すルールがある)
  • 恣意性(言葉の形とその意味との間に直接的な関係がない)
  • 分離性(音節、単語に分割して無数の言葉や文を形成できる)
  • 生産性(言語の組み合わせによって多様な表現を生み出す)
  • 超越性(「いま・ここ」以外の未来や仮定について表現できる)

そして、こうした特質は人間だけであり、動物の鳴き声はこのような高度なコミュニケーションができないという。

本当だろうか?鈴木俊貴さんのお話を伺ってみよう。

まず、シジュウカラの文法について。

シジュウカラは、「ピーッピ・ヂヂヂヂ」と鳴くことがあるが、これは2つの鳴き声の組み合わせになっているという。「ピーッピ」は「警戒しろ!」とい意味で、天敵が出たときに使う。「ヂヂヂヂ」は「集まれ!」という意味になる。

そして、シジュウカラは必ずこの順番で鳴くという。「警戒」が先で、「集まれ」が後のルールになっている。もしこのルールを破ったときに意味が通じないのであれば、それは文法であることを意味する。

この仮説を確かめるために、録音したシジュウカラの声で「ピーッピ・ヂヂヂヂ」と聞かせると、警戒しながらスピーカーに近寄ってきた。だが、ルールを破って「ヂヂヂヂ・ピーッピ」と聞かせると、適切な反応を示さなかったという。つまり、シジュウカラは「文法」を持っていると言えるのだ。

あるいは、言語の恣意性について。

例えば、「ヘビ」「snake」という音が蛇を示すことについては、人間の約束事にすぎない。これが言語の恣意性になる。

シジュウカラにとっての蛇は、「ジャージャー」だという。

これは、天敵であるヘビやタカ、モズのはく製を巣箱の傍に置いて、それを見たシジュウカラの鳴き声を調べたことにより判明している。録音した「ジャージャー」という声を聞かせると、シジュウカラは地面を見まわしたり茂みを確認したという。

でも、だからといって「ジャージャー」=「ヘビ」とは限らないのではないか?「ジャージャー」=「地面を確認しろ」かもしれない―――このツッコミに対しては、「見間違え」の実験を行っている。

木の枝に紐をつけて動かしながら、「ジャージャー」と聞かせると、シジュウカラは蛇と見間違えて枝を確認しに行く。一方で、枝を動かしながら別の鳴き声を聞かせても反応しない。つまり、「ジャージャー」という音は、シジュウカラにとっては蛇のシンボルだといえる。

このように、シジュウカラの言語における、文法性や恣意性、生産性について、研究成果を紹介してくれる(※6)。これは世界初の研究(※7)であり、シジュウカラは、「高度なコミュニケーション」ができないのではなく、誰も研究していなかったことが分かる。

ゴリラは過去や未来について語れない?

それでも……と言語学者は反論するだろう。

人間以外の生物は、「いま・ここ」に生きているに過ぎないと。過去や未来のことについて語ったり、仮定の話をするといったコミュニケーションは、人間という万物の霊長にのみ与えられた能力だと力説するだろう。

本当だろうか?

これは、山極寿一さんが体験したゴリラの「タイタス」の話がぴったりだ。

山極さんは昔、ルワンダで2年間、ゴリラと暮らしたことがあるという。その時に特に仲良くしていたのが、「タイタス」という6歳の子どものゴリラだったという。

ところがルワンダの内戦が激化して、研究が続けられなくなってしまい、タイタスとも離れ離れになってしまう。

長い年月が流れ、ようやくタイタスと再開したのは、実に24年ぶりだったという。タイタスは、平均寿命に近い、お爺さんになる。群れのリーダーである、シルバーバック(背中が銀色の成熟した雄ゴリラ)になっていたという。

山極さんはタイタスを見て分かったが、タイタスは山極さんのことを覚えていただろうか?

もちろん覚えていた。

山極さんのゴリラ語の挨拶「グッフーム」に応えるばかりか、するすると近寄ってきて、仰向けに寝転がったという。そればかりかゲラゲラ笑いだしてしまったというのだ(仰向けになったりゲラゲラ笑いだすのは子どもがすることで、大人のゴリラはそんなことはしない)。

山極さんはそこで気づく、タイタスは子どもの頃に戻ってしまい、子どものタイタスとしてコミュニケートしようとしていることに。記憶が眠っている身体を呼び覚まし、タイタスは、「昔こうして遊んだよな」と伝えようとしているのだ。

これはつまり、ゴリラは超越性を身につけている証左にならないだろうか。「いま・ここ」以外も語ることができる。にもかかわらず、できないと決めつけていたのは、人間だったのではないか―――そう山極さんは指摘する。

なぜ「人間だけが言語を操れる」とされたのか

二人の対談は面白い方向へ転がっていく。

なぜ、「人間だけが言語を操れる」という固定観念ができたのか?どうして、動物の言語について顧みられることがなかったのか。

そのヒントは、新約聖書にある。

「はじめに、ことばがあった。ことばは、神とともにあった。ことばは神であった」とあるように、人間は言葉を持つが故に他のあらゆる生物と峻別され、この地球の支配権を神から託された―――という偏見が、研究者の間で前提とされていたからだ。

その結果、「下等な」動物たちの鳴き声や吼え声は高度なコミュニケーションには程遠く、研究に値しないとされたため、その豊かな言語表現が見過ごされてきた―――「動物たちは何をしゃべっているのか」を研究してきたお二人の意見が一致するところがここ。

人間の「知性」を基準として、その差分を測定したり、その振る舞いを擬人化して説明するやり方だと、観測範囲を狭めているように見える。青い空も緑の木々も、環境に合わせて人が進化した結果、そう見えているだけであり、紫外線や地磁気を知覚できる鳥からすると、それは人固有の視野狭窄に過ぎないのだから。

シジュウカラとゴリラの研究から、人間の傲慢さまで見えてくる一冊。

 

※1 ミツバチのダンス

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%84%E3%83%90%E3%83%81%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9

※2 クジラの歌

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%AD%8C

※3 海の霊長類・イカの心を探る

https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2019/01/post-f769.html

※4 植物は知性を持っている

https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2016/01/post-a274.html

※5 言語学とは理系のものか?文系のものか?『言語はこうして生まれる』

https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2023/02/post-4283ae.html

※6 シジュウカラの言語能力と動物言語学の挑戦

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsaisigtwo/2022/Challenge-061/2022_01/_article/-char/ja/

※7 【世界初】鳥の言葉を証明!シジュウカラの鳴き声が示す単語と文法とは

https://www.nhk.jp/p/zero/ts/XK5VKV7V98/blog/bl/pkOaDjjMay/bp/p0XWGW8MX7/




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75歳以上は死を選べる制度『PLAN75』

75歳以上の高齢者に死ぬ権利を認める法案が可決され、通称「PLAN75」という制度が施行された日本。

75歳以上であれば、誰でも利用できる。住民票は不要で、支度金として10万円が出る(使い途は自由)。国が責任をもって安らかな最期を迎えるように手厚くサポートする制度だ。

この映画で最もクるのが、その生々しさ。

役所での手続き、コールセンターでのやり取り、いかにも「ありそう」な社会だ。劇中、制度への加入を促進するコマーシャルが流れるが、思わず信じ込んでしまえる。

あなたの最期をお手伝い

もちろん反対の声もあるだろうが、それを押し切って導入され、諾々と従ってしまうだろうなぁという肌感だ。

主人公は、78歳の角谷ミチ(倍賞千恵子)。夫と死別して以来、ずっと独りで暮らしてきた。つつましい暮らしを続けてきたが、あることがきっかけとなり、PLAN75を考えるようになる。

貧乏な老人は死ねというのか?

この物語のリアルさに拍車を掛けているのが、貧困の描き方だ。

もちろん生活保護という選択肢も残されているものの、そちらを選びにくいように描かれている。だんだんと彼女が追い詰められていくが、PLAN75を選ぶのはあくまでも自分、自己責任という社会だ。

撮り方によって、もっとおどろおどろしく描いてもいいし、ブラックユーモアをたっぷり混ぜてもいい。だが、そうしたケレン味を避け、ドキュメンタリータッチで淡々と描いている。

この映画を、「グロテスク」だの「あってはならない」と評するのは簡単だ。「良い映画だが、早く忘れたい映画」という評もある。

おぞましい、弱者切り捨てだとして、拒絶反応するのは楽だろう。自分の居心地の悪さを、そのまま「正しさ」として反発してしまえるのなら、とても簡単だから。不安を掻き立てる不協和音や、耳障りな電話のコールといった演出からも、そういったメッセージを読み取ることもできる。

だが、提示された社会が既視感ありまくりなのだ。「あってはならない」のではなく、自己責任という名のもとに切り捨てられる社会は、ここにある。自分がそこに立ったら、どうするだろう? と否が応でも考えさせられてしまう。それだけの説得力を持っている。

PLAN75が必要な理由

現時点でのわたしの結論はこうだ。

PLAN75を導入してほしい。なぜなら、わたしが利用したいから。75歳になったら「必ず」ではなく、75歳以上のいつでも好きな時に申し込めて、プランの実行中にいつでも好きな時にやめられる。死ぬときは選びたいと願っており、激烈でなく後始末の楽な奴を考えているから、願ったりかなったりである。

この映画では登場しなかったが、病気で苦痛だらけの毎日を過ごしている人や、あらゆる面で望みは絶たれ、ただ生きているだけの人がいる。考えてみると、貧困問題をクローズアップしていたものの、寝たきり・介護問題はスルーされていた(介護を受ける側は、あらかたPLAN75を実施済だと考えると寒くなってくるが)。

自分がその一人になる可能性は十分にあるため、そうなる前に、わたしが利用したいという独善的な理由だ。

しかし、親しい人がPLAN75を利用しようとするなら、それは全力で止めたい。たとえ何歳であったとしても、生きている限り、なにかしらの希望はあるはずだから(死んだらゼロだ)。苦しいことや辛いことも、後になって振り返ったら薄れて、代わりに、嬉しいことや楽しいことを思い出すだろうから。

矛盾しているだろ? 自分でも承知している。

「子のためなら、何だってする」

意図しているのかは不明だが、監督は、強烈な皮肉を利かせていることに気づいているだろうか?

フィリピンから出稼ぎにきた女性が登場する。故郷では夫と娘が待っており、病気の娘の手術代を稼ぐ必要があるのだ。だが、かなりの金額のため困っている。

それを、キリスト教の互助会でカンパしてもらうのだが、監督の意図としては、自己責任を押し付ける日本と対照的な存在とするためのエピソードらしい。

「フィリピンは9割がキリスト教徒で、助け合うという文化が根付いている。自分でなんとかしなさいという日本と対照的な存在として描きたかったのです」

早川千絵監督インタビュー

互助会のリーダーが、彼女を励ましてこう言う。

「私たち母親は、子どものためなら、何だってする」

だが、同じようなセリフを吐いて、PLAN75を選択した老母がいた。子どもや孫に迷惑がかからないよう、できるだけ身を小さくして生きて、そっと人生から退場する。溌溂とした若者ばかりのフィリピンの互助会メンバーと、老いた日本人グループが対照的だった。

老人は社会の「荷物」か?

『PLAN75』はカンヌ国際映画祭でカメラドール特別表彰が授与されている。これに遡ること40年前に、同じくカンヌでパルムドールを受賞したのが『楢山節考』だ。

貧しい村での口減らしのため、70歳になると楢山参り(姥捨て)をする風習があった。息子のことを思いやる老母と、母を捨てに行く息子の葛藤を描いたドラマになる。原作は深沢七郎の処女作だったはず。

もし、ブラックユーモアに全振りするなら、筒井康隆『銀齢の果て』になる。70歳以上の老人に殺し合いさせるシルバー・エログロ・バトルロワイヤル。刃物と弾丸が飛び交い、「長生きは悪」という黒い哄笑に塗れる老人文学の金字塔なり。

あるいは、戸梶 圭太『自殺自由法』を思い出す。

「死ぬ自由」が公的サポートを得た世界で、「使えない国民を自殺まで誘導する」国家プロジェクトが実行された世界だ。公共自殺幇助施設「自逝センター」に向かう人々の人間模様が滑稽なり。安楽死できるカプセル装置が近所にあり、死にたくなった人は、コンビニ感覚で死ねる。もし、「グロテスク」という形容を用いるなら、この小説のラストがぴったりだろう。

コミックなら藤子・F・不二雄「定年退食」になる(「退職」ではなく「退」)。

地球規模の環境汚染により、食糧難が深刻化した未来のお話だ。稼ぎの無い年金暮らしをしているのだが、食糧を節約しようと努力する。この世界は定員制で、抽選でもれた人々は、年金、食糧、医療、保険一切が打ち切られるというディストピアだ。ここでは、未来を担う若者に、老人が席を譲る世界になる。


これをさらに過激にしたのが、浅野いにお「TEMPEST」だ。

少子高齢化社会に対処するため、国は「高齢者特区」を建設し、そこで集中的に介護することで医療の効率化を図る。85歳以上の「最後期高齢者」になると、「人権カード」を国に返還し、実質的に「人」でなくなる。ラストの重苦しさでいうならば、これが最重量級だろう。

PLAN75は実施済み

実は、PLAN75はヨーロッパで施行されたことがある。名前は「T4」と呼ばれている。

もともとは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、医師の権限を拡大するという、限定的な計画だった。

しかし、計画は暴走し、医師が「生きるに値しない」と選別・抹殺していくことになる。

対象となった人は多岐に渡り、うつ病、知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中、ユダヤ人も含まれていた。こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。

歴史ではユダヤ人のホロコーストが有名だが、「社会の役に立たない」「弱者切り捨て」の立場を具体的に実行したのは、ナチスのT4と言える(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』)。

最後に、劇中のコマーシャルより引用する。わりと近い未来に、わたしたちは居る、と思っている。

PLAN75は、75歳以上の方なら、どなたでも利用できます
ご利用者の皆さまの、一人一人に寄り添った終活のサポート
まずは、お気軽にお問い合わせください
24時間365日電話サポート
あなたの最期をお手伝いします

もし、映画を観ることがあったら、スクリーンに映し出される題字に注目してほしい。「PLAN」の文字列は明瞭に映し出されているけれど、「75」の文字がぼやけているように見えた。わたしの見間違いかもしれないので、ぜひ、確かめてほしい。いったん導入されたら、「75」は、入れ替え可能だということを暗示しているのかもしれない。

PLAN75オフィシャルサイト

 

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なぜ鬱な映画を観るのか

「鬱な映画」と呼ばれる作品がある。

「鬱」と一言でいっても、その意味は幅広く、不安、違和感、自己欺瞞、悔しさ、自己嫌悪、敗北感などのネガティブな感情を指し示す、便利な言葉でもある。

そして「鬱な映画」というと、鬱病そのものを正面きって描こうとしている映画や、精神的な病をスパイスとして投影しているもの、あるいは、観終わるとダウナーな気分にさせるような作品など、これまた種々様々だ。

エンターテイメントなのだから、胸躍らせワクワクさせる展開や、観ててスカッとするシーン、あるいは感動で涙が止まらなくなるラストを求めるのではないだろうか。お金と時間と集中力を使って、わざわざ落ち込むような映画を観るのはなぜか。

一つは、怖いもの見たさというか、悲劇を味わいたいという動機が挙げられる。

不運な出来事に巻き込まれ、抜け出そうと足掻くものの、ことごとく失敗し、ラストは絶望の中で最悪の選択をしてしまう……極限状態に放り込まれた普通の人々の悲劇を、自分は、安全な場所で鑑賞する。

極限状態に陥った人はどうなるか、そこから戻ってくることが可能かを描いた映画は数多くある。いくつかピックアップしてみた(カッコ内は監督と公開年)。ナチス成分多めだが、わたしのためのメモなので、他にも強力なものがあれば、教えてほしい。

  • ダンサー・イン・ザ・ダーク(ラース・トリアー、2000)
  • レクイエム・フォー・ドリーム(ダーレン・アロノフスキー、2001)
  • シンドラーのリスト(スティーヴン・スピルバーグ、1994)
  • 縞模様のパジャマの少年(マーク・ハーマン、2008)
  • ソフィーの選択(アラン・パクラ、1983)
  • ホテル・ルワンダ(テリー・ジョージ、2006)

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が嫌われる理由

たとえば、このテの中で真っ先に挙げられるのが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だろう。

女手ひとつで息子を育てている母親が主人公であり、苦しい家計の中で、必死になって貯金をしている。なぜなら、彼女は視力が弱ってゆく病気で、いずれ盲目になるからだ。病気は遺伝性で、息子も遠からずそうなる運命にある。

手術を受けさえすれば治るのだが、そのお金が高額のため、それこそ身を粉にして働き続ける。彼女の努力や誠実さは、実に残酷な形で裏切られることになるのだが、この映画を有名にも悪名にもしているのは、そこではない。

観始めるとすぐに分かるのだが、この映画は2つのモードで進行する。一つは、失明の運命に怯えながら働く日々を描いた現実モード。もう一つは、目を輝かせ、元気いっぱいに走り回り、歌い・笑い・踊るミュージカルだ。

現実モードのカメラは手持ちで、焦点が合わず、意図的にブレている。一方、ミュージカル調のときのカメラは固定されているか、あるいはクレーンで撮られており、「いかにも映画」な感じがする。

つまり、主人公の現実と妄想が、交互に重ねられながら、物語は進行してゆく。現実が彼女を追い詰め、逃げ場が無くなり、恐ろしい結末に向かって進むほかなくなる一方で、妄想の中の彼女は自信と魅力に満ち溢れ、運命なんて跳ね飛ばす勢いだ。

そして、ラストに近づくにつれ、現実と妄想が合わさってゆく。ひどい手ブレが無くなり、ピタリと焦点が合うようになってくる。彼女は妄想の中のように、いや、妄想よりも懸命に歌い続けようとするのだが、ついに現実に追いつかれる。

この時、観客は思い知る、「これが現実だ」と。自分は安全な場所から悲劇と向き合おうとしていたのに、その座っている場所は、彼女を見ていた人々と同じ椅子だったことに気づかされる。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を酷評する人は、これが後味の悪いバッドエンドだから、という理由だけではない(そんな映画は沢山ある)。悲劇に感動したがってた動機ごと殴りつけられたからこそ、怒り狂っているのである。

無辜の女性が酷い目に遭うのを見て、心を痛め、涙を流したい。そうすることで、自分自身が向き合っている現実から一時だけでも目を背けたい……意識する/しないに関係なく、悲劇を味わい、号泣する準備をしていた所が、安全でもなんでもなく、現実とピタリ一致することが分かってしまう。

監督の意図を悪趣味だとかサディスティックと批判するのは容易い。でもこれ、手加減しているよね。ラストに、「あるもの」が彼女に手渡され、それが希望であるかのように扱われるが、監督が本当に邪悪なら、その持ち主を連れてきて、彼女を凝視するように仕向けるだろう。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が批判される理由を掘り下げると、「人が悲劇を見る理由」を裏切っているからであることが分かる。

『Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで』で予習する

もう一つ、鬱な映画を見る理由としては、精神を病んだ人が、どのようになるかを見たい、というものがある。「もし自分が心を壊したらどうなるか」を、映画でシミュレートするわけだ。

過酷な毎日に心をすり減らしている中、愛する人や大切な存在を失ったことがきっかけとなり、自暴自棄になる。何をやっても上手くいかなくなり、殻に引きこもり、自分を痛めつけるようになる。さらには生きる気力すら失い、茫然自失となる。

そこから、周囲の手助けにより自分を取り戻すようになるか、さらに酷い展開になるか、作品によって異なる。

だが、どれほどの負荷をかけると心が壊れて、そこから日常を取り戻すためにどんなプロセスがあるのかを、ひと連なりのストーリーで向き合うことができる。

鬱をリアルに描いた映画としてよく挙げられるのは、こちらになる。『鬱な映画』にあった。これも自分用のメモとして。

  • Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで(ダニエル・バーンズ、2014)
  • 普通の人々(ロバート・レッドフォード、1980)
  • めぐりあう時間たち(スティーブン・ダルドリー、2003)
  • シルヴィア(クリスティン・ジェフズ、2003)
  • リトル・ミス・サンシャイン(ヴァレリー・ファリス、2006)
  • なんだかおかしな物語(ライアン・フレック、2010)
  • メランコリア(ラース・トリアー、2011)
  • スケルトン・ツインズ 幸せな人生のはじめ方(クレイグ・ジョンソン、2014)
  • アノマリサ(チャーリー・カウフマン、2015)

たとえば、鬱状態の寛解を描いた作品として、『Cake ケーキ~悲しみが通り過ぎるまで』がある。

我が子を交通事故で失った母親が主人公だ。

自身も事故に巻き込まれ、肉体的にも精神的にも後遺症を負った彼女は、生きる理由を見出せず、周囲への怒りといら立ちを支えに、なんとか生き延びている。セラピーの会の中で人間的なつながりを見出そうとするのだが……という展開らしい。

もし、我が子を亡くしたなら、きっと耐えられなくなるだろう。だが、わたしがどのように苦悩するか、そしてどう回復するか(あるいはしないか)は、映画を通じて、予習することができる。

あるいは、わたしの親しい人がそういう目に遭ったなら、わたしはどう振舞うのか。正解なんて無いだろうが、どんな言葉があるのか、どういう振る舞いができるのかは、予め知っておくことができる。

当たり前なのだが、鬱病になった場合、きっと何もできないだろう。

以前、鬱に効く映画として『シネマ・セラピー』を紹介したことがある。だが、これは、気分が落ち込んだときにお薦めの作品であって、鬱病ではない。

実際に鬱病になったら、薬を飲んで横になるだけで、何かを能動的にしようという気力は全く出てこないに違いない。もちろん、映画を観ることすらできない。

映画を見る元気がある状態で、自分に降りかかる悲劇への振る舞いをシミュレートすることで、わたしは、家族も含め、現代を生きる適応度を高めているのかもしれない。




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なぜイヤな映画をわざわざ観るのか

いわゆる「胸糞映画」というジャンルがある。

下品だったり悪趣味だったり、観た後に気分が落ち込むような作品だ。

ずばり恐怖を主題としたホラーの枠に限らない。幽霊や殺人鬼がいなくても、おぞましく理不尽な展開を描いた映画はあるし、鮫やゾンビが出なくても、残虐バッドエンドに至る作品はある(体感だが、普通の人しか出てこない胸糞映画の方がエグい)。

わざわざお金と時間をかけるのだから、泣いて笑って感動するようなものを観たがるのではいのだろうか? もちろん普通はそうなのだが、胸糞映画も一定の需要がある(さもなくば、跡形もなく消えているだろう)。

私がそうだ。

読み手の心を抉り、読後感がトラウマになるものを「劇薬小説」と呼び、好んで摂取してきた(「危険な読書」にまとめた)。読書は毒書なのだ。

映画も然り。自ら切開することで、自分の皮膚という境界が分かるように、精神的に痛めつけることで、自分の心がどこにあるかを知らしめる子どもが酷い目に遭うシーンを観て「痛い」と感じる場所こそが、わたしの心の在処なのだ。

だが、なぜ、そういう作品を観るのか?

ただ「好きだから」だけでなく、その「好き」を支える動機は何か。私の個人的な好みを越えて、一定の需要がある理由はあるのか。

「ざまあみろ」という感情

よく言われるのが、「人の不幸は蜜の味」というやつ。

妬みの裏返しだ。他人の幸福―――例えば、お金、美貌、健康な身体、若さ、素敵な恋人や配偶者―――そういう「持てる」人に対し、羨ましいと感じる。その嫉妬が募りすぎると、やがて自分自身の身を焼くようになる。

だから、芸能人や政治化のスキャンダルが暴露され、みじめな姿を目にすると、この上もなく甘美に癒される。メシウマ(他人の不幸で飯がうまい)や、シャーデンフロイデ(ドイツ語)とも呼ばれる。

この「羨ましい」という感情と、「ざまあみろ」という感情は、苦痛と報酬のメカニズムだという研究がある(※1)。

若い男女が集められ、あるシナリオを読むように指示される。その際、主人公を自分に置き換えて読むように条件づけられる。シナリオの主人公は異なる設定になっている。

①被験者と同じような境遇だが、学業成績や能力に優れている

②被験者とは異なる境遇で、平均的な能力

様々なバリエーションの中で、上記①の場合に、被験者は強い羨望を感じ、前帯状皮質が活性化した。そして、妬まれた主人公が不幸になると、より強い活性化が見られたという。

前帯状皮質は、ACC(Anterior cingulate cortex)と呼ばれ、脳の左右の神経信号を伝達する脳梁を取り巻く"襟"のような形をしている。血圧や心拍数のような自律的機能、共感・情動といった認知機能、そして、身体の痛みに関係しているとされている。

この研究により、自分に似た境遇だが、自分よりも「持てる」人に対して、羨ましいという苦痛が生じ、その人が不幸になると報酬が得られるのではないかという仮説が立てられている。

では、この「ざまあみろ」という感情を味わうために、人が酷い目に遭う映画を観るのだろうか?

例えば、『ファニーゲーム U.S.A.』という作品で考えてみよう。ミヒャエル・ハネケ監督で、映画史上、最も”不快”な暴力が描かれている。ある家族が酷い目に遭うのだが、まったくもって楽しめない。

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湖畔の別荘でバカンスを楽しむくらい裕福で、上品で教養のある3人家族だ。そこに現れたのが、純白の手袋をし、純白のポロシャツを着た2人の青年。最初は礼儀正しく振舞うものの、徐々に残忍な本性を露わにしていく……

もし、メシウマの副菜としてこの映画を観るのなら、その純粋な暴力に打ちのめされるだろう。観客を本気で嫌な気にさせようと、監督が本腰で悪意を込めているのが分かる。覚悟を決めないと、正視すら難しいかもしれぬ。

おそらく、「ざまあみろ」という感情が成り立つためには、他人に降りかかる不幸のバランスが必要となるのかもしれぬ。株価の暴落で成金が貧乏になるとか、出世頭だったのに不倫がばれてクビだとか、そういった幸・不幸のバランスだ。

そして、天秤の不幸側があまりに重すぎる場合、「ざまあみろ」と感じた自分すら含めて打ちのめされるに違いない。

不安の排泄「カタルシス」

哲学・演劇からのアプローチだと、カタルシスを得るために観ると言える。

アリストテレスが『詩学』の中で主張している、精神の浄化のことだ。

身体の中に溜まった感情から解放されるとき、快楽をもたらすという理屈だ。物語を通じ、不安や恐怖、哀切や怒りといった、様々な感情を抱く。それは、登場人物の感情が観客に伝染する場合もあれば、監督の演出によって掻き立てられるときもある。

そこで呼び起こされた「怖れ(ポボス)」と「憐れみ(エレオス)」によって、観客が抱いていた感情は排出され、魂の浄化を得ることになる。これがカタルシスである。

ポイントは、怖れや憐れみを引き起こすためには、「不幸」の要素が必要だということ。多かれ少なかれ、物語の中には不幸がある。観客は自分に似た人物が不幸な目に遭うのを見て、自分もそうなるのではないかと怖れる。あるいは、理不尽な不幸に遭うのを見て、憐れみを覚えるのだ。

登場人物の行動が観客に及ぼす影響については、ミラーニューロンの研究が傍証になる。

ミラーニューロンとは、自分が行動するときと、他人の同じ行動を見るときの両方において活性化する神経細胞を指す。他人の行動を見て、まるで自分が同じ行動をしているように、「鏡」のような反応をすることから名づけられている。

ミラーニューロンは、新生児が他者の行動を理解し模倣する助けとなるとされている。身体の運動や、相手の表情を観察し、それを真似ることで、複雑な動作や経験を伝達していくことができる(※2)。

また、最近の研究では、扁桃体を含む大脳辺縁系や島皮質にも関与していることが明らかになっている。この部位は、情動や共感に深く関わっている。

他人の感情を自分のことのように感じるメカニズムは、ミラーニューロンの研究によって、明らかにされつつある。映画を観て、私たちが怖れや憐れみを感じる時、ミラーニューロンが活性化しているのかもしれない。

では、このカタルシスを得るために、人は胸糞映画を観るのだろうか?

もちろん、心を動かされ涙を流したり、溜まった鬱屈が解放されることで、スッキリするラストになる映画はあるだろう。むしろ、そういう作品の方が普通だ。

だが、観客の感情を捉えたまま、最後まで離さず、そのまま沼に引きずり込むような映画もある。モヤモヤした心を抱えたまま、一生忘れないことになる。

ジャック・ケッチャム原作の『隣の家の少女』がそうだ。原作であれ、映画であれ、この物語に触れたら、傷痕が残り続けることになる。

主人公はアメリカの片田舎の少年だ。隣に引っ越してきた少女に、淡い恋心を抱くところから物語は始まる。この作品のテーマは「痛み」だ。虐待・監禁・陵辱を受ける少女を、少年は、ただ眺めることしかできない。そのもどかしさに、観客は大いにミラーニューロンが活性化するに違いない。

だが、観客は、カタルシスを得ることはない。少女に襲い掛かる不幸に、怖れや憐れみを感じるかもしれない。それにもかかわらず、ラストに至っても感情は排出されない。物語は終わるし、因果の決着はつくが、傷痕は開いたままだ。

「物語はカタルシスを得るためのもの」という思い込みを逆手にとった作品なのかもしれない。

N/A

まとめ

この記事では、「なぜイヤな映画をわざわざ観るのか」という疑問に対し、以下の観点からアプローチしてみた。

  • 「ざまあみろ」という感情と、苦痛と報酬のメカニズム
  • 哲学・演劇の「カタルシス」と、ミラーニューロンの研究

少し抽象度を上げて、「なぜ悲劇を見るのか」という設問にすると、さらに以下のアプローチが生まれる。次のテーマとして追いかけてみよう。

公正世界説の援用:悲劇には不幸が生じる。「幸福→不幸」か、あるいは、「不幸→幸福」の順番の違いはあるが、必ず不幸がある。幸福~不幸の推移は、何らかの因果が示される。通常その因果は聴衆にとっての正義(=世界がそうあるべき、必ず正義は勝つ)に則っている。それを観ることで、世界が公正であることを再確認できる。

人生の予習:悲劇をもたらすものには、普遍性がある。持てるものを失う(金、地位、若さ、信頼、健康など)ことが、物語の中心になる。そのとき、登場人物は、どう振舞うのか(どう振舞うと、どんな結果になるのか)を学習するため。自分に降りかからない安全な場所から、安心して悲しみを味わう知的な喜び。社会や人間の醜い部分、汚い側面を拡大し、2時間で消費できるくらいのストーリーとして提供してくれる。本来であれば、そうしたえげつない部分は、危険を伴ったり、起きてしまったら避けることができない不幸として遭遇する。だが、映画館のシートという安全な場所から眺めることができる。不幸に繋がりそうなことを予測したり、それを回避するために先人(映画の主人公たち)が何を考え・行動してきたかを学習することができる。現代社会での適応率を高める人生の予習としての悲劇。

悲劇は「悲しみ」でない:アウグスティヌス『告白』第3章の悲劇論より。悲劇は悲しみではなく、「偽りの悲しみ」を扱っている。悲しい曲が悲しみを歌っているのではなく、短調の曲であれば人は悲しいと感じる。熟した果物が甘いのは糖分を含んでおり、摂取する側は栄養効率がいいし、果物側は種子を遠くまで運んでもらえる。人はネガティブに反応しやすいため、物語を遠くまで伝達してもらえる。文化的ミーム論。

人はなぜ悲劇を愛するのか : アウグスティヌス『告白』Conf.3.1.2~3.1.3の悲劇論

https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282814198178816

悲しい音楽はロマンチックな感情ももたらす

https://www.riken.jp/press/2013/20130524_1/#note2

Why Do We Like Sad Stories?

https://www.verywellmind.com/why-do-we-like-sad-stories-5224078

Why do we love tragedy?

https://www.quora.com/Why-do-we-love-tragedy

注釈

※1

 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/19213918/

Hidehiko Takahashi 1, Motoichiro Kato, Masato Matsuura, Dean Mobbs, Tetsuya Suhara, Yoshiro Okubo

When Your Gain Is My Pain and Your Pain Is My Gain: Neural Correlates of Envy and Schadenfreude,Science, 323,937-939,2009

※2

『進化でわかる人間行動の事典』p.210、小田 亮など、朝倉書店、2021




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スピルバーグ『レディ・プレイヤー1』を通じて、物語を面白くする映像技術、共感手法、映像の力を語り合う(追記あり)

物語に夢中になったことはないだろうか?

小説やマンガ、ゲーム、映画や舞台など、素晴らしい作品に出会ったとき、あまりの面白さに、あっという間に時が過ぎる。お話が終わり、我に返った後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気にならないだろうか。

  • その物語の「面白さ」はどこから来たのか
  • なぜ、自分が、そこを「面白い」と感じたのか
  • その「面白さ」は一般化/再現できるのか

こうしたテーマを視野に入れ、古今東西の「面白い」作品について語り合う。これはという作品を取り上げ、物語を作る人、楽しむ人、広める人など、様々な視点から「面白い」について語り合うオンライン会が、「物語の探求」読書会だ(ネオ高等遊民サークルの分室)。

今回は、映画に詳しいどぶ川さんをゲストにお招きして、スティーブン・スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』をテーマに語り合った。面白い物語をどうやって映像にするか? 映像をどう工夫すると、物語が面白くなるのかなど、レクチャーしていただいた。

(以下、『レディ・プレイヤー1』のネタバレがあります)


<目次>

  1. 『レディ・プレイヤー1』=王道✖最新
  2. 「おじさん・おばさん」は必要か
  3. 観客の感情を計算したカメラの位置
  4. デブの白人がいない理由
  5. ちょっと不完全な方が、映画は面白くなる
  6. 人は動いているものをどうしても見てしまう
  7. ワンカットとは、記録でありドキュメント
  8. 『レディ・プレイヤー2』の可能性
  9. オマージュの物語作法
  10. 敵が強くないのは理由がある

スケザネ:始めますかそろそろ。今回のゲストはどぶ川さんです。

どぶ川:映画だけにどぶ川として名乗らせてもらいます。

ネオ:簡単に自己紹介をお願いします。

どぶ川:元々映画が好きで、若い頃から映画館で働いてて、映画製作とかにも携わっていた時期もありました。ネオさんに映画のことを教えたりとかしてて、そんな中で今回、『レディ・プレイヤー1』について話してくれって言われたので、今回参加しました。

ネオ:『レディ・プレイヤー1観ろって言ったのもどぶ川さん。彼が働いていた映画館にも何度か足を運んでいたりして、一緒に映画を見に行ったこともあります。

スケザネ:ネオ民のマブダチということで。

ネオ:(笑)そうですね、映画を観る見識は確かなので、本日お越し頂きました。

一同:よろしくお願いします。

ネオ:画面共有のスライドを中心として、どぶ川さんに説明してもらいます。質問、コメントがありましたらチャットでお願いします。皆さん、映画は見ている前提でお話をしましょう。

 

1. 『レディ・プレイヤー1』=王道✖最新

どぶ川:『レディ・プレイヤー1』の面白さとしては、まずは題材でしょう。SNSのゲームで、たとえば『どうぶつの森』なんかが、レディプレイヤーワンの世界の先駆的なものなんかだと感じてます。

  • ゲーム(仮想空間)が現実に介入している。もしかしたら「あるかもしれない」未来
  • 「あるかもしれない」と思うことで、感情移入しやすい
  • ここをベースにして、世界を救うボーイ・ミーツ・ガールという鉄板の物語を展開している

いったん、「あるかもしれない」とリアリティを感じさせたら成功で、あとは共感とか納得できたら、感情が入りやすい。この世界をつくったあと、超・王道である「世界を救う」「ボーイ・ミーツ・ガール」という、アメリカ映画の超・鉄板をやっている。王道✖最新を掛け合わせている。それが題材としての面白さになる。

だけど、面白い題材と物語をどう撮影するか? どう映像にするか? それが映画なんですよね。だから、画面で何をしているか、どんな人物が、どんなふうに映っているか、それをポイントに話します。

まず、オープニングですね。世界観の説明で、2045年かな、縦に積まれたトレーラーハウスの街並みを映しながら、主人公のモノローグから始まります。

もう、これ自体でワクワクするでしょ、子どもの基地みたいで。この、ハリボテ感が崩れそうでドキドキ感があるから、見ちゃいますよね。子どもが高い所へのぼっていると、もう目を離せなくなる、どうしても見てしまう画面なんです。このオープニングから一気に、感情移入させているんです。

スケザネ:なるほど! このオープニングは凄く引き込まれました。緻密に描かれてて、どんな世界なのか説明できちゃっているので、男の子がごちゃごちゃ言わないで、この映像をクローズアップしてくれているだけで良かったんじゃないかな、と思いながら観てました。

どぶ川:確かにそうかも……なんでスピルバーグがそういう風に「緻密な映像+男の子のモノローグ」にしたのかなと考えると、おそらく、物語に早く入りたかったんじゃないかと。だから一気に説明したのかなと。

スケザネ:すごい説明してましたよね、序盤。

どぶ川:世界の説明は中だるみもするし謎解きでもないから―――謎解きはゲームの中であるからいいでしょって、僕もそこまで細かい設定は覚えていなくて、何となくでいいでしょっていうアメリカの大雑把な感じが出ているんじゃないかと。

 

2.「おじさん・おばさん」は必要か

スケザネ:でもこれ、結構要素が多いんですよ。主人公の家庭環境とか、おじさんとおばさんが出てきちゃった時点で覚えるところが多い印象でした。

どぶ川:おじさんとおばさん、一応は必要だけど、キーになってはいないですよね。

スケザネ:変にあのおじさん、キャラ立っちゃってて、もっと出てくるのかと思ってたら……ちゃんと死んでて。

ネオ:爆死しましたからね!

一同:www

どぶ川:たいしていい所もなく、死に際の何かもなく、爆死しましたからね。

スケザネ:絶対あのおじさん、後半のアバターの中で再登場すると、俺は信じてましたからね。ホントに死んだんかいって。

どぶ川:もしかしたら、脚本つくる上で色々考えたんだけど、時間やらなにやらで「もういいや!」ってなったのかも。スピルバーグは、そういうところがあって、結構残酷なんですよね、「人」に対して。

Dain:おじさん・おばさんの肩を持つわけじゃないんですけど、「世界を救うボーイミーツガール」という物語を作るうえで、絶対必要な要素―――試練―――というのがあって、それが「おばさんが死ぬ」という出来事だったんじゃないかな。

親代わりのおばさんが死んで、主人公は復讐として立ち上がらなければらない。しかも、おばさんの死をただ起こすだけでなく、何らかのひっかけ、トリックが必要で、それがおじさんだったんじゃないかと。

どぶ川:家庭内のやり取りで、おばさんだけだったら、何となく流しちゃうかもしれないけど、「嫌なおじさん」がいることで、結局爆死はするけれど、盛り上がるんですよね。

スケザネ:あの荒廃とした時代状況で説明がつくんじゃないかと。極端な話、親がいない、どこかの施設の鬱屈した少年でもできたんじゃないかな。で、現実の世界は嫌だ、だから俺はゲームの世界で生きるんだ、というので十分だったと思う派です。

どぶ川:物語の経済性とかも考えてみても、どちらに転んでもおかしくなかったんじゃないかと。スパイスとしてどんな味付けをするかという話じゃないかな。

スケザネ:このお話、舞台立てが違う、世界が違う、さらに主人公はこんな家庭環境です、とバンバン説明しないといけないし、それを(観客が)理解しなければいけない。なので、序盤はすごい大変です。

もし俺がこの物語をするのであれば、受け手側に少しでも情報量の負担を減らしてあげたいなって思うんです。なので、おじさんとおばさんの情報量を減らしてあげたいな、っていうのが一番です。

旅立つ理由として「おばさんの死」は分かるけれど、後半になっておばさんの「お」の字も言わないじゃないですか、「おばさんの仇だ!」とか「みんなの仇だ!」とか。なんで、本当に犬死にだったな。

どぶ川:それが映画の面白さにもなってて。ちょっと前のことをすぐに忘れて、常に「今」だけで「その場」だけで生きていくっていうのが、映画を面白くすることがあるんです。物語を語るものなら小説とかあるんですけれど、映画って不完全なものが面白がられたりするんで、そこが不思議なところなんです。でもやりすぎると情報過多になって、観るほうが付いていけない時も出てきますね。

Dain:この映画を観る人の入りやすさ、「共感」からすると、「トレーラーハウスに住んできた」世代になるんじゃないかと。裕福でない貧しい人々、家庭の事情でおじさん・おばさんに引き取られて暮らしてきた人なのかしらんと思ったり。

今は地面に並べているけど、未来は縦に積み上げられているトレーラーハウスに住んでて、現実逃避したい少年って、「俺じゃん」「俺が昔そうだったじゃん」ってなるのでは。未来の話だけど、今と繋がっているための装置としてのトレーラーハウスとおじさんおばさん。

 

3.観客の感情を計算したカメラの位置

どぶ川:IOIの社員がゲームやるシーンのあたりとか。スピルバーグの表現の一つとして、「ゲームをやる人の姿」を、引きで、客観的に撮ることで、間抜けに見せています。やってる人は必死だけど、冷めた目でみたら、これでしょって。人の愚かさとかが皮肉めいてて、見てて面白くて、楽しい気分になります。

スケザネ:言われてみれば……! 確かにそうですよね。

どぶ川:これ逆に、カッコよく撮ると、ダサいんですよ。すげーカッコいい俳優さんが、はぁはぁ言いながら、何もないところを空を切ってパンチするって、ダサいんです。

Dain:こんな風にゴーグルかけてやるVRゲームで、”Beat Saber” というのがあるんですけど、その実況を思い出しました。前から飛んでくるブロックを両手のコントローラーで斬っていくんです。で、ゲームの中の映像を見ると大迫力ですげーカッコいい。一方、それをプレイする人そのものを撮って実況しているのを見ると、おっさんが汗だくになってふうふう言いながらやってて、めちゃカッコ悪い。

どぶ川:やっぱカッコよく撮ると、現実とは別物になるから、感情移入しにくくなる。観客に入りやすくするために、最初は「ゲームの外」から「引き」で面白可笑しく撮っている。

逆に最後の方とか、ウェイドがみんなに呼びかけるシーンでは―――ウェイドはイケメンじゃないんですけど(笑)―――ゲーム内のウェイドで撮っている。そこはちゃんとシーンの目的に合わせて使い分けている。

結局、このシーンは物語上どんな位置づけで、どんな感情を呼び起こす目的なのかを考えて、カメラの位置ってものが変わってくるわけですから。

Dain:なるほど! カメラの「位置」なんですね、考えたこともなかった。本人は必死なんだけど、この踊ってるかのように見えるためには、引きで撮るための位置にカメラがあるんですね。これ、アップで撮るとまた別の印象になっちゃうから……

どぶ川:そうですね、これ、後の説明にも出てきます。でもその前に、主人公メンバーの話を……ウェイドといい、その仲間といい、主人公メンバーがイケていない。これがいいんですよ! ギャップがあって。またストーリーに没入しやすくなるって。

スピルバーグって、もちろんイケメンと美女の映画もあるんですけど、そうじゃない人を撮るのがめちゃくちゃ上手くて、僕そっちの方が好きなんです。なぜかというと、美男美女だと映画の邪魔になるんですよ。これが例えば、ディカプリオとかブラピとかジョニーデップなら、もう映画が成立しなくなっちゃう。なんでもない奴らが大活躍する、という。

ゴーグル付けてもカッコいいって、ないでしょ。めちゃくちゃアホな姿です。その辺のキャスティングが上手い。物語の邪魔をせず、「どこにでも居そうな」感がある人が活躍するというのは、共感があって見てて気持ちがいい。

 

4.デブの白人がいない理由/原作だと「ぽっちゃり」

Dain:ただ一つ、キャスティングに違和感があるんです。これ、「ゲームの世界」をテーマにした映画でしょ。そして、白人、黒人、アジア系、女性など、色々な属性を入れているけど、「デブ」がいない。

僕の中の「ゲームが好きな人」のイメージとして、ピザとかコーラが好きで、コンピューターに詳しいというのがあるんです。確かスピルバーグの作品で『ジュラシック・パーク』の最初に出てくる、エンジニアの人。あの印象が強烈で、ペプシが好きでピザが好きで、めちゃくちゃ太ってたんですよ。

一同:いたいた!

Dain:そいつが恐竜の胚か細胞を盗み出して道に迷って酷い目に遭うところも含めて、「あいつデブだったよな」と覚えてるんです。今のでこれ思い出して、『レディ・プレイヤー1』にデブの白人がいない、ということに違和感があって、ちょっとだけ評価が下がっているんです。ピザとコークが大好きなデブが大活躍する話だったら、手放しで絶賛してたと思う。

スケザネ:言われてみれば……あんまり、メインメンバー以外にも太った人いなかったような……やっぱりあのゲームが身体を動かすから?

どぶ川:一人いました。会社でゲームの研究者の人。ラストでキスしてた。あと、オープニングのボクシングやってるおばちゃんかな。ちょっと太っている。

でもなんで太った人が少ないんだろう……と考えると、やっぱり主人公メンバーって、最後にアクションするんですよね。だからじゃないかと。あと、悪役の会社の社員って、SPとかそういう立場だから、太った体形にしなかったのでは。

スケザネ:「貧しい人たちが現実から逃れるためにゲームをやっている」という設定だと、貧しいが故に、必然的に太れない。会社にいる研究員は、給料も沢山もらえてているから……という説明が付かないかな。

どぶ川:同じこと考えてました。それ、スピルバーグがインタビューで聞かれたときの後付けの答えかなと。僕としての答えは、単なる撮影上の制約で、最後のアクションシーン撮るときに太っていると大変なので外したんだと思います。

Dain:いまチャットで、ゆすもひさんが面白いコメントしてて。原作のウェイドは太ってて、見やすく寄せたことが批判されているってあります。ソースはネット情報なので不確かですが。

どぶ川:ですねー、その辺は映像化する上での印象が大事だから、色々あったんじゃないかなと。

Dain:「アメリカ人でゲーム好き」っていうと、太ってるという印象があるから、どこかで入れないと。

どぶ川:『ジュラシック・パーク』だと、コンピュータに詳しい人で、ほとんど動かない。そんな設定があって、彼のスパイスとして、ペプシとポテチが大好きというキャラクターが生きるんだけど、『レディ・プレイヤー1』に関しては、どこにどういう風に入れるかが、すごく難しい。たぶん、原作のウェイドをまんま映画にしてないんじゃないかな。

スケザネ:エイチとかは、車を運転するだけでアクション少ないし、ゲームだとアイアンジャイアントを動かすとか、ゆっくりどっしりとした動きだから、太ったという属性が生かされるキャラになると思う。

どぶ川:エイチ、僕も現実に出てくるまで太ってると思ってました。

スケザネ:そんな話してたじゃないですか、ゲームとは全然違ってて、現実だと体重〇キロのデブだったらどうする!? ってセリフ。むしろサマンサのビジュアルがどうくるのか、気になってましたね。

どぶ川:何千億とかかけてエンタメのビジネスとしてやるからには、あんまり現実に寄せすぎるのも……

 

5.ちょっと不完全な方が、映画は面白くなる

どぶ川:逆走するシーン。ここは外せないですね。絶対にクリアできないステージで、謎を解明して、発見する面白さや、ゲームのゲームの中身が見えてる、裏技のような感覚と、「やったぜ!」勢いを表現したスピード感とか。子どもの頃、スーパーマリオで、画面の上を走る感覚が思い出されて、主人公と一緒に必死になってやってて嬉しい気持ちと重なります。

スケザネ:逆走したら勝手にクリアするのかな? と思ったら、「下」を通るんですよね、これはびっくりしました。

どぶ川:恐竜が下から出てくるとき、床がせり上がるようなギミックとかね、ゲームの仕組みが全部見えてる。

ネオ:あれだけ苦労しててクリア不可能だったステージが、楽勝で走れる爽快感というか。

どぶ川:「楽勝感」ってのがいいよね。なんか共犯的な感覚。裏技って悪いことじゃないんだけれど、なんかズルしている感覚というか。生理的に共感できる。そこまで持っていかせるというのは、凄いことなんじゃないかと。

スケザネ:レースの尺って結構長いですよね。一回やって失敗して、もう一回やって、ただただひたすら面白いところ。でも世界の説明のところ、鍵がどうとか、サマンサと会って陰謀だとか詰めに詰め込んでいる。艶っぽいBGMが流れているので、そういう気持ちにさせたいのは分かるけれど、情報量が多すぎてちょっと付いていけてない。自分はシナリオ書く人間なので、観客をどういう気持ちにさせたい脚本なのか気にしながらみちゃうんですけど、ここは早くて感動できないなーと。

どぶ川:職業とか一切忘れて、もう一回観ましょう。

一同:www

スケザネ:観終わってから、これそういう目線で見る映画じゃないやって気づいて……

どぶ川:そうそう。さっき言った、映画ってその辺を中途半端にすることで面白くなるとか、辻褄を語る時間があるんだったら、そこは捨てて次に進んだほうが見てる方としては面白くなったりします。映画って多少不完全な方が面白くなったりするんですよね。

Dain:物語を語るところと、物語を見せるところが、スパっと分かれているのかなと思いました。この世界がどうなっているとか、どんな状況になっているとか、物語を説明するシーンと、ひたすらスペクタクルに魅せるシーンと、きれいに割れているのが、『レディ・プレイヤー1』なのかと。なので、また観る時は、このシーンはどういう「意図」で作られているのだろうという目線で見ちゃいそうな……

スケザネ:そうですね。1回目のときは考えながら観ちゃいましたけど、2回目はもう気にせず、ただただ楽しんで観てました、シャイニングのところとか特に。これだけ映像で見せるシーンで、横でごちゃごちゃ設定を説明したら台無しになってしまう。だから、あいだあいだで説明するしか。ただ、感情移入するには情報が多すぎるので、要素を削ったほうがよいかも……

ネオ:僕なんかは、ただただひたすら面白いと観たんです。一般的には、細かいところの辻褄とかより、このレースシーン「だけ」は皆覚えているんですよね。そしてこの映画が狙っているのはそこでしょう。

どぶ川:でしょうね。世界中の人にみせるものだし、誰が見ても面白いという映画をスピルバーグは目指しているから、こだわるところが違うのかもしれません。

 

6.人は動いているものをどうしても見てしまう

どぶ川:ウェイドとサマンサのアバターがダンスするシーン。自由なカメラワークで観てて気持ちがいいです。でもこれ、実写でやったら爆笑シーンになりますね。試しにアバターではなく、現実の誰かを当てはめてみると分かります。

この世界観でCGと実写を入り交ぜているからこそ、成立させていますね。

CGだけだと結構飽きるんです。なので実写だとこうなっているとか、飽きさせない工夫をしています。ゲームの中だと自由で、それこそ夢のような動きができるじゃないですか。それを成立させるために、現実の中での動きを考えている。

物語の構造として、ゲームの中での動きと、現実の動きの対比をキワキワで成り立たせている。これが凄いなと。一歩間違えれば、しょぼい作品にもなりかねないので。この対比が、『レディ・プレイヤー1』で一番チャレンジしたところじゃないかなと。

さっきの「物語の説明」シーンの実写のほうも全体的に、人が歩きながら芝居したり、カメラが動いたり、画面自体にアクションがあって観てて気持ちがいいですし、シーンの切り方も絶妙な感じで、何より観てて飽きません。人って、動いていると、どうしても見ちゃうんですよね。自然と見れるようにお芝居をつけて、撮っています。

あと、スピルバーグって、結構特殊なカメラワークをする人で、「今どんな風にカメラ動かしたの!?」というシーンもあって、しかもそこがすごく流麗なんです。

Dain:そのシーンで、「カメラがどこにあるのか?」「それがどう動いたのか?」って、気にせず観てました。次は、カメラの位置を考えながら観ますね。

どぶ川:ダンスのシーンとかで、カメラが360度パンとかしてて、けっこうこれ、めちゃくちゃな動きをしているんですけど、これはもちろんCGだからできるんだよなぁと感心しましたね。

 

7.ワンカットとは、記録でありドキュメント

どぶ川:次はクルマの中の格闘シーン。まず表情が面白い! でも、ここだけじゃなくって、クルマの中から転げ落ちるんですよね。そして、格闘から転げ落ちるまでワンカットなんですよね。皆さん、ワンカットって言って伝わります?

スケザネ:切らずにそのまま撮り続けるというやつ、画面を切り替えないやつ。

どぶ川:そうですそうです、例えば iPhone で録画するとき、ボタンを押して撮り始めて、次にボタンを押して停止するまで、これがワンカットです。

で、トラックから蹴落とされて地面へ転がり落ちるまで、これをワンカットで撮っているということは、編集でウソがないんですよね。かつ、「人が蹴とばされて落ちて転がる」というのが一つの記録になっているんです。ドキュメントなんです。

僕が映画を見る時に意識しているのは、ワンカットでどこからどこまで撮るかというところなんです。そもそもカメラとは「記録するもの」として生まれているから、ワンカットで撮っているところ=記録、ドキュメントになるんです

このワンカット、すごいことが起きているんですよ。人が蹴とばされてトラックから落ちて転がってるって。そういう記録なんです。そういうのをスピルバーグは、映像作家として入れてくる。映像の原理主義的なもので、「記録する」という観点から見ると、迫力があるんです、ウソがないから。観客は驚くんです、だって事故ですもの。事故が映っているんです。この顔も事故ですけど。

一同:www

どぶ川:だって映画じゃなくって、事故の映像とかあると見ちゃうでしょ。「世界の衝撃映像」みたいな番組やニュース。画面の力は強いから。だってこれ、こんな風に撮らなくたっていいでしょ。

Dain:その、「すっ飛ばされる一瞬」と、「転がっていく」というシーンを撮って、繋ぎ合わせれば、いわば安全にこの物語を進められるから? でもそうせずに、「飛ばされる→転がっていく」をワンカットで入れることで、これまでフィクションだった世界に、ノンフィクションっぽい迫力が出てくる……これが映像の力というやつ?

どぶ川:見ちゃいますからね、ワンカットだと。危ないとかそういったものはさておき、ここを割る人・割らない人が分かれてくる。で、割らない人の映画のほうが面白いと思う。

スケザネ:これだけ編集技術が進んでいるけど、やっぱりカットして繋げると、違和感とか起こるものなんでしょうか?

どぶ川:いや、違和感とかは残らなくて、昔から編集でできます。でも、割った時点で、カットとカットの間に、小難しく言うと、「見えない」時間が存在するんですよ。なぜなら、カットを割った時点で、時間が止まるから。そうすると、そのアクションというのは記録ではなくなってくるんですよ。

でもここはちゃんとワンカットの事故映像として意識的に撮ることで、迫力が違うんです。ワンカットを意識している監督というのは、映像の、画面の強さに対してすごく敏感になっているんです。そういう監督の映画は面白い

スケザネ:すごい勉強になります、これ意識してませんでした。

どぶ川:カットを意識してみれば、ちょっと映画の見方が変わってくるかもしれませんね。例えば、スピルバーグの『宇宙戦争』、これも実写とCGを織り交ぜてるんですけど、どこからどこまでがCGなのか、ワンカットで見せてくれて区別がつかない。カット意識して見てるけど、面白すぎて、途中からそんなことどうでもよくなってくる。

一同:www

どぶ川:『宇宙戦争』の最後のシーンのとこなんですけど―――皆さん良いですか、ちょっと触れちゃって。

Dain:どうぞどうぞ。

スケザネ:僕は全然大丈夫です。

どぶ川:『宇宙戦争』の最後のところで、ミサイルがエイリアンに当たるんです。それを引きで撮ってて、ヒューっとミサイルが飛んで行って画面奥の、ちょっとしたビルぐらいの巨大なエイリアンに当たるんです。それが、ワンカットなんですよね。

そのときに、「あ、当たった!」って感じがするんですよ。

これ、もし、「ミサイルを発射する」、「ヒューっと飛んでいく」、「エイリアンに当たる」と3つにしてもいいんです、ウルトラマンの特撮みたいに。でもそうしない。人が撃ったミサイルが飛んで行って、ビルぐらいの怪物に当たるんです。すると、「当たった!」て感じるんです。何気ないシーンなんですけど、いままで全然当たらなかった奴らに、当たったという感じが伝わる。

Dain:youtubeのこの辺? チャットにURL貼りました。映画観てない人はネタバレになるので注意して下さい。エイリアンって、あのトライポッドっていう三本足の奴ですよね。確かにワンカットで撮ってて、「当たった」って感じがします。

(開始2分あたり)

どぶ川:そうですそうです、ここだここ! 実はそれまで、一回も当たらないんですよ。エイリアンのある構造のせいで、今まで全く当たらなかった。ここで初めて当たるんですけど、ほんとこれ、何気ないシーンですけど、ここに拘っている監督は面白いです。

Dain:今のお話で、僕がなぜ、とある twitter の動画を見ちゃうのかな、という謎が解けました。何かというと、バスターキートンとかいう人の、昔のコメディというかアクションの動画なんです。トーキー時代の、音声も何もない白黒映画のシーンなんですけど、見ちゃう。

男の人が線路を走ってて、後ろから列車が追いかけてきて、危ない! って思ったら、ぴょんと飛び移ったり、ビルから飛び降りたりとか、昔の映画なんで合成でもCGもなくて、全部本人がワンカットでやってる。これを見ちゃうのは、ワンカットでやっている、ドキュメンタリーの映像の強さに惹かれているのかな、と思いました。

史上最高のスタントマン──バスター・キートンの物理学
https://wired.jp/2016/12/12/physics-greatest-stuntman/

どぶ川:そうです、キートンの映画は、そういった文脈で語られるんです。マスターニートンとはちょっと違いますね。

一同:www

ネオ:マスターニートンの動画も結構ワンカットで撮ってますねwww カットするのは何かトラブルとか、言えないこと言っちゃったときとかw 記録性ゼロw

どぶ川:で、ワンカットの力の話でオープニングに戻ります。映画が始まって、トレーラーハウスの住宅街の全景が映ってて、カメラが寄っていくんです。いつカットが切り替わるかなと見ていても、ずっと寄っていく。すると、あるトレーラーハウスの一軒から、少年が出てくるんです。いつ切り替えたの!? と思うんです。ぜったい切り替えたはずなんですけど、分かんないですよ。これをワンカットで撮ったスピルバーグって、やっぱ凄いです。画面の強さが一気に出ている。

トレーラーハウスの集合体はCGのはずです、でもそこへカメラが近寄って行って、そこのドアからなんでCGじゃない生身の人間が出てくるの? ってそれをやられたら、こういった世界なんだ、って思っちゃいますもの。ここミニチュアかもしれませんが、それでもどこかで切り替えているはずなのに分からない。これを開始数分でこのワンカットは凄い。スピルバーグって結構こういうことをするんです。

スピルバーグは、一番新しいものを映画の形で作ったな、と思いますね。

 

8.『レディ・プレイヤー2』の可能性

スケザネ:『レディ・プレイヤー1』2018年の作品ですね。これ、続編とか出るんでしょうかね、『レディ・プレイヤー2』みたいな。でもこれ、なんで、レディ・プレイヤー・「ワン」なんでしょうかね?

Dain:今ふっと思ったのが、昔のゲーセンに置いてあるアーケードゲームですね。英語で「Player One」「Player Two」とかあって、コインを入れると、「Credit」が増えて、スタートボタンを押すと「Ready」となってゲームが始まる。なので、『レディ・プレイヤー1』なんじゃないかな。

スケザネ:なるほど!

Dain:映画の中でコインを一つもらってライフが増えるというのは、あれは「Credit」の意味だったんですね。たぶん若い人はピンとこないかもしれないんですけど、100円入れるとピコーンとかいってクレジットが増えるんです。「コイン=クレジット=ライフ」なんです。ゲーセンに通ってコインをつぎ込んだおっさん向けのネタですね。

なので、『レディ・プレイヤー2』の物語をやろうとするなら、2人プレイの協力型か対戦型か分からないけれど、1人でやる話にならないかもですね。

 

9.オマージュの物語作法

ネオ:この映画って、パロディとかオマージュの形でいろんな映画やアニメやゲームが入っていますよね。バックトゥザフューチャーとかガンダムとか。ぼくはそれが大好きで、SNSやゲームの世界で、ありものを再現したり、まんがのキャラを自分のアバターにするって、まさに現実にあることをきちんと再現していると思います。自分の車をデロリアンにするとか。でも賛否両論ある。知らないとつまらないとか、内輪ネタになってるとか。そういう部分については皆さんどうお感じでしたか。

スケザネ:「元ネタを知らないと分からない」というシーンを作っちゃいけないでしょう。知らなくても楽しめるけれど、元ネタを知ることで、もっと面白くなるという感じ。続編を作るなら、一作目を見ていなくても最低限楽しめる。けれど、一作目を見ていると、もっと面白い作りにする。

『レディ・プレイヤー1』が秀逸なのは、元ネタを知らなくても大丈夫なように作られていることと、元ネタがストーリーに絡むとき、「元ネタを知らない人」が配置されているところ。

ネオ:『シャイニング』のとことか!

スケザネ:そうそう! あそこで全員が『シャイニングだぜ!』となったらダメで、あれはエイチが「シャイニング! 怖いの嫌いなんだよ」って言ってるのが良いんですね。知らなくても楽しめるし、知ってる人がニヤリとすればいい。

Dain:すごく細かいネタがあちこちにあって、『ターミネーター2』で親指立てて溶鉱炉に沈むシーンがありましたね。それだけじゃなく、細かすぎるかもしれないけれど、『ターミネーター2』で、主人公の男の子を引き取っているおばさんいましたよね? 最初のあたりで頭刺されて死んじゃうおばさん。あのおばさんが着ている服が、『レディ・プレイヤー1』で爆死するおばさんが着ている服と一緒だったんじゃないかな……違ってたらごめん。

スケザネ:それに気づくDainさんも相当変態だとwww

Dain:『バットマン』とか『ストII』とか、分かりやすいネタで楽しんでもいいし、もっと細かい、マニアックなネタもきっと散りばめられているはずで、そういうネタを探しながら観るのも楽しい、宝探しみたいな映画じゃないのかな。

スケザネ:『レディ・プレイヤー1』は、『スターウォーズ』とかメジャータイトルの形で何十年後までも残る映画じゃない、と個人的には思います。でも、数十年後にマニアの間では垂涎の的になる、未来のオタク向けの宝物ですね。

 

10.敵が強くないのは理由がある

Dain:あと、物語的なところで気になるのがあって。この場は、物語の面白さを探求する会じゃないですか。その観点からして、この映画でちょっと不満に思えるところがあるのです。それは、『レディ・プレイヤー1』は、「敵が強い」というセオリー通りになっていないところ。

物語を面白くするために、敵をとてつもなく強くする必要があります。それを打倒して世界を救うわけですから。なのに、敵のボス弱くね? と思っちゃうんです。簡単に言うと、「パスワードをそんなとこに貼っておくなよ」って。マヌケすぎる。

もっと冷酷無慈悲なやつとか、淡々と仕事するマシーンみたいな奴とか……と考えていくと、そんな「部下」がいたな! と思い出して。ドクロっぽいコスをしてた部下とか、最後にアクションしてた部下とか。たぶん、強さの属性を部下に分け与えたから、ラスボスが弱くなってしまったのかも……

スケザネ:これ、問題は「ボスを2つ設定したこと」かなと思います。結局これって、「カギを見つける謎解き」と、「世界を支配しようとしている敵を倒す」の、2つになっちゃってる。主人公としては、謎を解いて鍵を見つけたいという動機で動いているのに、悪人が邪魔をする。謎を解きつつ悪人を倒さなきゃいけない。

「悪人を倒す」ならガチンコで悪人にすればいいけど、謎を解くための尺が足りないから、パスワード貼り付けるようなマヌケにしないといけない。強すぎたら、倒すために時間が足りなくなる。謎と悪人、詰め込みすぎなんですよね。

もし、「敵を強くする」要素を盛り込みたいんなら、鍵の3つ目を門番とかにして、そいつを強くすればいい。物語を節約できる。

Dain:おお! この物語は2つの目標があったんですね。「謎を解く」と「悪人をやっつける」というゴールで思い出しました。大昔に観たやつで、少年少女が地図を見つけて宝探しをするというのと、宝を奪おうとする悪人をやっつけるのを、同時進行でする映画。

そのタイトルは、『グーニーズ』、たしかスピルバーグが作ったはず。冒険あり、謎解きあり、ロマンスもありました。

スケザネ:なるほど!

どぶ川:①世界を守る②ボーイ・ミーツ・ガールの王道ですからね。「悪人をやっつける」が①世界を守ることで、「謎を解く」が②ボーイ・ミーツ・ガールにつながる。やっぱり身体を張って好きな女の子を守るというので、最後はリアルで戦わなければならない……映画はそういう風にできているのかも……あれほどCG見せて、ラストはまさかの肉弾戦ですからね。そうすると、ボスをあまりに強くすると弊害が出てくる。

スケザネ:現実の世界の中にゲームがあるボーイ・ミーツ・ガール系で行くと、結末ってこうなっちゃうんじゃないんじゃないかな。ゲームの世界で頑張ることと、現実世界でどう生きるかのバランス取るのがとても難しい。ゲームの世界をあんなに頑張って守ったのに、週に2日もゲーム禁止してるんだって……

どぶ川:僕はわりとあのラスト好きですね。皮肉めいたユーモアが効いてて。ゲームばっかりやってないで、現実も大事っていう。ゲームばかりやってた主人公に恋人ができて、現実の良さにも気づいたというのが洒落てて良いですね、映画っぽくて。



100分に渡る長丁場で、どぶ川さん、スケザネさん、ネオさん、そして参加された皆様、ありがとうございました。

何といっても、映画に詳しい方の意見を伺えたのが大きい。自分が観た経験が、また違った角度から光を当てられ、「そうだったのか!!」と気づくのは、たいへん愉快な経験だった。撮影の仕方で、観客の感情が変わってくるところなんて、描写の仕方で読者の感情を揺さぶる小説と通じるものがある。これは、どぶ川さんのおかげ。

そして、物語を作る側の脚本家の方から、この『レディ・プレイヤー1』をレビューするという経験は、大変タメになった。映画を観てて、消化不良になっていたり、「ごちゃごちゃしている」という言語化しにくいフラストレーションの根っこは、物語の情報量の密度だったことが、スケザネさんのレクチャーのおかげだ。

さらに、こうした場を設けていただいたネオ高等遊民さんには感謝しかない。映画愛好家と脚本家のお話がいい感じでクロスして、思いもよらないタメになるお話が伺えたのは、ネオさんのプロデュースのおかげ。

この読書会の後、原作となった『ゲームウォーズ』(アーネスト・クライン)を手にしたのだが、展開が全然違ってて笑った。ウェイドもエイチもサマンサも、めっちゃ太ってた(予想通り!)。

そして、ネタが凝りに凝りっていた。「『卒業白書』でトム・クルーズが持て余してたクリスタルエッグみたいに」とか、「机の上にフォークト=カンプフ検査機があった」など、ページをめくるごとに80年代~00年代のネタがゴロゴロ出てくる。ラストの決戦では、ガンダムやメカゴジラだけでなく、エヴァ(たぶん初号機)や勇者ライディーンまで出すところなんて、おっさんどものツボを知りすぎているなり。

『レディ・プレイヤー1』の映画に「詰め込みすぎ」という印象があったが、原作を読む限り、めちゃめちゃスリムにしていることが分かる。

さらに、原作小説の続編も出ている。もちろんタイトルは、”Ready Player Two” で、「最後のイースターエッグ」を探す展開になりそう。紹介を見る限り、もっと強い敵が登場するだけでなく、人類存亡の危機になるという。

過去の「物語の探求」読書会はこちら。

第1回:面白い物語の「面白さ」はどこから来るのか? 『物語の力』を読み解く

第2回:物語を作る側の視点から『ズートピア』の面白さ、怖さ、凄さを語り尽くす

 


2021.1.24追記

『レディ・プレイヤー1』のネタを300個紹介する動画を見つけたのでご紹介。

  • VRゴーグルを掛けていたのがアタリ社のジョイスティック
  • ダンスフロアでの銃撃戦では、『エイリアン2』でリプリーが使ってたアサルトライフルで反撃
  • エイチのジャケットには「ロッキー・ホラー・ショー」のワッペンが貼ってある
  • ジル・バレンタイン(バイオ・ハザード)、ビートルジュース、フレディ・クルーガー(エルム街の悪夢)など、ホラー系も充実してた

等々、とにかくネタ満載だ。BTTFのデロリアンとか金田のバイクのような分かりやすいやつから、細かすぎて伝わらないものまで、300連発ノンストップで紹介する。

『レディ・プレイヤー1』を視聴された方なら、驚くこと請け合いの動画なり。ちなみに、「おばさんの来ていた服がターミネーター2のおばさんと同じ」というネタは無かったw

 

 

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物語を作る側の視点から『ズートピア』の面白さ、怖さ、凄さを語り尽くす

物語に夢中になったことはないだろうか?

小説やマンガ、ゲーム、映画や舞台など、素晴らしい作品に出会ったとき、あまりの面白さに、あっという間に時が過ぎる。お話が終わり、我に返った後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気にならないだろうか。

  • その物語の「面白さ」はどこから来たのか
  • なぜ、自分が、そこを「面白い」と感じたのか
  • その「面白さ」は一般化/再現できるのか

こうしたテーマを視野に入れ、古今東西の「面白い」作品について語り合う。これはという作品を取り上げ、物語を作る人、楽しむ人、広める人など、様々な視点から「面白い」について語り合うオンライン会だ。

「物語の探求」読書会(ネオ高等遊民サークル

今回の課題作は、『ズートピア』。2016年に公開されたディズニーのアニメーションで、アニー賞やアカデミー賞を受賞しており、かなり話題になった作品だ。ご覧になった方も多いと思う。

注意:『ズートピア』と『トイ・ストーリー4』のネタバレあり

Zootopia

目次

  1. ストーリーは、たったの100分
  2. キツネ避けスプレー=内なる差別意識
  3. 【重要】ジュディとニックは可愛い
  4. 人間っぽくさせない動物で人間社会をやる
  5. 没となったディストピアな『ズートピア』
  6. 『トイ・ストーリー4』の本質=「〇の〇離れ」
  7. なぜベルウェザー副市長は陰謀を企んだか
  8. 『ズートピア』を現実社会の写し鏡にしなかったわけ
  9. 『ズートピア2』はトイ・ストーリー型かアナ雪型か
  10. 勇気を持って、マンネリ化
  11. 自分では気づかない自分自身の良さ、「成長感」
  12. ズートピアの普遍性は「可愛い」と「笑い」
  13. 禁断の技:ボイスレコーダー

 

スケザネ:物語の探求第2回、課題作はディズニー映画『ズートピア』ですね。よろしくお願いします。

他3名:よろしくお願いします!

スケザネ:早速Dainさんがご用意いただいたドキュメントの説明から、お願いします。

Dain:まず、「ズートピア・メモ」を作りました。話したいこと、皆さんから伺いたいことが沢山あるので、とりあえず全部書きました。これに遊民さんから追記いただいているので、これをベースに話ができればと思います。

また、「ズートピア・シーン一覧」を作りました。全部のシーンと印象的なセリフを一覧化したものです。「あの場面のあのセリフが~」というときの参考にしてください。

スケザネ:これ入力だけでも結構、ホントありがとうございます。めっちゃ大変だったと思います。

ネオ:絵を文字にするって大変だからね。

Dain:ありがとうございます! 「シーン一覧」を作ってて気づいたのが、プロットポイントです。『シド・フィールドの脚本術』(※1)を読んでたとき「いい映画にはプロットポイントが2つある」ということを教わりました。プロットポイントとは、「ストーリーのアクションを加速させ、別の方向へと行き先を変えるような事件やエピソード」(※2)です。ズートピアのプロットポイントに印を付けましたので、脚本に詳しい皆さま、後で採点してください(笑)。

あと進め方だけど、どうします?僕がやる収拾がつかなくなるんだけど。

スケザネ:誰がやっても収拾つかないんで。大丈夫です。

Dain:では第一印象から順に話しましょう。私だと、最初の「おもしろい!」というのに加えて、この物語ってどんな風に作られてるんだろう? ということが気になりました。脚本苦労したんだろうなとか、そっちの方が気になってしまい、あんまり良い視聴者ではなかったですね。

ネオ:作り手あるあるな感じかな。

 

1. ストーリーは、たったの100分

Dain:そうそう。物語世界の設定だと、みんな何食べるんだろう?っていうのが、一番引っかかりました。チョコレートケーキやドーナツ、アイスキャンディーとか出てくるんだけれど、でもこの世界って、肉食動物って何食べてんだろうなあ?って。ハンバーガー食べてるんだったら、ハンバーガーのその肉って何の肉なんだろう?って引っかかってました。あと、『ズートピア2』が制作されているらしいのですが、2ってどんな話になるんだろう? というのも気になります。次はスケザネさん行ける?

スケザネ:はい、了解です。最初、黒幕は誰なんだろう? という所が面白くて夢中になり、次は気になるシーンを集中的に観て、結局3回観たんですけど、これはアメリカならではというか、人種や差別の問題とか、深掘れるんだろうなと思います。

あと脚本家の職業病ってやつで、ズートピアという世界の作りが上手いな、と唸らされましたね。

例えば冒頭で、ジュディが特急列車でズートピアに上京(?)するところ。そこで列車が来た時に、ネズミ用のちっちゃいドアとか、大型動物用のドアとか、ああいうちょっとした芸が細かくて、色々なものと動物たちが世界観として有機的に連関して結びついているっていう構造は、相当手が込んでるなーと、そこばかりに目が行ってしまって。

おそらく、まず『ズートピア』という世界を作るのが最初で、その後にテーマを作り、具体的にシナリオ展開していったんじゃないかな、と勝手に睨んでいます。なので、どういう風にこの世界を作っていったのか、むしろ僕はそっちのほうに関心がありますね。

今日はこの辺りをお話できればと思います。ではタケハルさんにバトンタッチしますね。

タケハル:そうですね。二点あって、まず一点目はスケザネさんに近いんですけど、美術ですよね。さっきスケザネさんが言ったネズミ用の入口があるとかもそうだし、街の中、街そのものが手が込んでてかなり面白いんですよね。

細かい処までよく出来てて、例えばジュディが帰ってきて、ニックと再会するところ。橋をくぐったところにニックが寝そべっていて、そこで橋をくぐった陰にジュディがいて……とか当たり前にさらっとやっちゃっているんだけど、再会する場所でよくあそこを思いつくよな、みたいなことが結構あって。背景の力がすごく大きく、それが世界観を含めて、そのキャラクターを立たせるための街並みとかが、すげー凝ってるなっていうのが一つ。

二点目は、脚本です。クレジット見た時に脚本に携わってる人がめっちゃいるんですよね。ジブリも結構そうなんですけど。10人とか12人とか平気でいるんで、やっぱりこう話全体が水も漏らさぬ造りというか。

例えばこの「ズートピア・シーン一覧」見ると、これまずシーンが多すぎるだろ、とか思わない? 上映時間は108分、ラストの歌が8分くらいあるんで、ズートピアって、結局100分なんですよ、たったの。100分でこれ全部やってる上に、何なら一つ一つのシーンがもっと細かいわけじゃないですか。

最初に幼いジュディの学芸会のシーンがあったし、その後に親子で歩きながら職業の話をして、お前はニンジン屋になるんだって言った後に、いじめがあって。これだけでもう3分ぐらいで、ぱぱっとやっちゃう? みたいな。しかもこれ連発されていくんですよね。

聞いた話なんですけど、ピクサーって脚本が分業で、ギャグに強い人とか、シリアスが上手な人とか分けてるっていうんです。それぞれの得意を持ち寄って、全体として成果を挙げられるって言うのが、アメリカ的だなと思いましたよね。日本でここまで人集めてやる脚本って、そんなに聞いたことないので、その辺が最初の印象ですかね。

ネオ:「最初の印象」がもうレベルが高すぎるって言うのが僕らの感想です。

全員:wwwww

タケハル:用意してるのよ、これは。聞かれると思っているから、第一印象。

全員:wwwww

スケザネ:今のタケハルさんの、シーンが多いというのは、言われて確かにって思うし、テンポ早いですよね、だからわずか100分にもこれだけ詰め込めていて。で、そのシーンでの問題意識というか、シーンが向かっていく先っていうのが絞り込まれてシンプルなんですよね。だから、テンポ早くても、観てるこっちが全然混乱しないし。

この物語の中って、各シーンで起きている問題トピックがちゃんと絞られているんですよね。そこの制御とか、観客への伝え方っていうのが、結構テクニカルにうまくやられてるんだと思うので。

タケハル:本当ですよ。だってそれだけ節約した時間をナマケモノに使ってるんですからね。

他3名:www確かにwww

タケハル:あの時間があったらもう3シーンぐらい進められますよ。

スケザネ:隣の奴にギャグ言うシーン、いらねーだろ。

タケハル:ホントホント。あの5秒あればみたいなことなのに。

ネオ:でもナマケモノのシーンをみんな一番覚えてるよね。

タケハル:そうなんだよね。その勇気よ!

スケザネ:オチ持ってきてるからね。あれはね。

Dain:確かにオチだったwww

タケハル:ま、ま、そんなところで。

Dain:次はネオさん?

 

2. キツネ避けスプレー=内なる差別意識

ネオ:まず最初に『ズートピア』をテーマにしようって僕が言い出したので、皆に観てもらってありがたいです。映画館で観た時に、「なんという傑作だ」っていう印象があったんですけど。

で、すげーって思ったのは、主人公のジュディの意識のところ。自分は差別されている側っていう意識だったんだけど、記者会見するくらいのいいポジションが得られたとき、今まで意識されてこなかった内なる差別意識っていうのが、思いっきり出てきてしまったみたいなところ。僕の哲学的な関心って、そういう自分の内面を見つめるところにあるんだけど、そういう面からしても、面白かったなっていうのが、ひとつですね。

あと印象に残ったシーンとして、駐車違反を取締りまくりますよね。もう他人を蹴落として手柄をあげるって感じで、誰も喜ばないようなやり方ですよね、年末みたいにwww 。出世とか実績っていうには、やっぱり他者の犠牲が伴うんだなーと。他人に害を与えないと自分が手柄を立てられないということが、なんかわかるなあとか。

スケザネ:いやあこれはいいセレクトしていただきました。

タケハル:ホントに!

スケザネ:じゃ感想はこれで一通りって感じですかね。

ネオ:皆さんもコメントで感想あれば、チャットでも自分の感想を。

スケザネ:ちなみに、皆さんもご覧になったんですかね?

ネオ:見た方はぜひ手を上げておいてください。

Dain:(チャットより)Mr.深煎りさんが、「狐用のスプレーを手放せていないのが印象的ですよね」って話されてますね。

ネオ:それが差別意識の表れですかね。それもちょっと難しいんだけどね。現実の女性が護身用のベルみたいなの持ってたら、男性に対する差別なのかって話になっちゃうから。それは難しいんだけどね。

Dain:差別や偏見の眼差しからすると、誰でも被害者から加害者になりうる、という話ですよね。「ああそうだな」と僕も思いましたね、

ジュディが「警察学校を主席で卒業する能力があるのに、駐車違反の取り締まりみたいな仕事をやらなければいけないの」みたいな言い方をしていて、それって駐車違反の取り締まりみたいな仕事は能力がある人にふさわしくない、っていう。それって、そういう人への差別や偏見じゃね?とかいうようなツッコミがスルッと出てくる。

記者会見でジュディが、ニックを傷つけることを言ってしまうところ。「あんなやつらみたいな」「あなたはあんな奴らみたいなものではない」なんて言い方をしてて、ニックから「あんな奴らみたいなってどんな事?」て言われるところ。それって、肉食動物に対する偏見じゃね? って隠しているのか、隠れているのか分からないけれど、そうしたものがポロっと出てしまう。差別や偏見は嫌だとジュディは思っているし、そうありたくないと言っているんだけど、それでもやっぱり自分はそうしていることに、自分で気づくという……

ネオ:ニックのおかげで気づけるっていう。

Dain:そうそう、ニックのおかげで気づけるっていう。

タケハル:ありましたね。

ネオ:Dainさんの聞いて思ったのは、こんな仕事は私がやるべきことじゃない、って思えるからこそ、あれだけ容赦のない取り締まりができると言うか、良くも悪くもプロ意識というか、その辺がうまくつながってすげーよ『ズートピア』。

タケハル:ありましたねえ。

スケザネ:象徴的なのは、キリンの車に駐車違反の切符を入れる時に、キリンのところに届かないから、標識みたいなのを踏み台にジャンプして、スッと差すシーンとか、ああいうところで何か遊び心が定期的に入るんですよね。また視点が変わっちゃうんですけど、あれは好きでした。

タケハル:それ結構大事だと思いますよ。最後の最後、ジュディがモノローグで、受け入れるってのは簡単じゃないって話をしているとき。虎と草食動物の子供がサッカーしてて、ジュディが間を通り抜ける時に、ジュディがボールを取ってリフティングするんですよね。別に入れなくてもいいんだけど、あのリフティングが入ることで、ちょっと見てられると言うか。そういう細かいものが積み重なると、スムーズに見ていられる。その工夫を抜きにして伏線をひたすら回収するだけにすると、意図が見えちゃうというか。

ネオ:遊びとか余剰のところが、全体を自然にするというか、そういう感じ。

タケハル:そこで手を抜かないというかね。

スケザネ:本当は駐車違反のシーンなんてすげー退屈ですもんね。それだけ切符を切ってるだけだったら。

タケハル:下手すれば、ジュディ嫌いになるかもしれないからね。

スケザネ:確かに、確かに。

 

3. 【重要】ジュディとニックは可愛い

タケハル:その流れで差別の話にも繋がるんですけど、無自覚であるジュディの方が問題みたいなとことか、さらにそれに対して、いや別にジュディは女なんだからいいだろう、みたいなところも言い出したりとか。

ただ僕が面白いなと思ったのは、そうと言っても、みんな結局ジュディとニックが好きなんですよね。ジュディとニックは可愛い。そこについてはブレがない。

これ逆に言うと、ジュディとニックがウサギとキツネだったから可愛く見えたけれど、草食動物と肉食動物だったら、例えばロバとハイエナだったらどうなんだろ? あんまり感情移入できなさそうなサイズだったりすると、全く同じことしても、この議論に行く前に、そもそもこの議論ができないんだけど。ただそうなると、それも差別じゃないの? みたいに思ったりとか。

Dain:はいはいはいはい。

ネオ:なるほどね。

スケザネ:そうなんです、そうなんです、そうなんです。

タケハル:だってね、ウサギはあんな目をしてないからね。ジュディはある程度、可愛く受け入れられるようにデザインされているんだけど、逆に言うと、ロバとハイエナのコンビでも受け入れられるやつが、差別のない精神を持っているかと言われると、それはちょっと違和感があるというか。その辺いろいろ考えましたよ、差別について。

ネオ:確かに。この作品のキャラの差別意識だけじゃなくて、僕らの持っているそういう感情というか、無意識的な評価だよね。「ウサギ=かわいい」とか「キツネ=ずる賢い」とか。

Dain:それを逆手にとって、うまく引き込んでいるのかもね。ジュディをウサギにして可愛くしているから、ジュディがそういう差別的なことを無意識にやってて、それをイラっとするかもしれないけど、それでもウサギだし可愛いし。その、可愛いという思いにはなかなか勝てないということですよね 。

タケハル:可愛いは正義

Dain:可愛いは正義。

タケハル:これは結構根源的なものがあるよな、と思いましたよ。

スケザネ:ふむふむふむー。

タケハル:でもね人間的には、ルッキズムみたいなことで、よくオーバーサイズのモデルとかの話をするんだけど、あれに対するのも、ちょっと僕は個人的には……いてもいいと思うんですけど、違和感があるのはあるかなというのが本音としてはありますね。

スケザネ:ちょうどこのまえ、『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』(※3)って本が出たんですよ、まさに今の話で。

例えば綺麗な蝶って色んな糞に止まるから結構汚いという、そういう話が飛び出してきて。動物に対するイメージって、昔から我々が勝手に作ってきたイメージなんですよね

だから、最後にアイドルのガゼルが効いてくる、って思ってて。ガゼルって温厚なイメージもあるし、あの役どころって、本当にぴったりだと思うんですよ。アイドルで、博愛精神みたいなものを体現しているんです。あれメスのガゼルで、オスはツノが生えていたりとか、徒党を組んで身を守ったりして結構強いんですよね。だからガゼルに託した意味って何なんだろうな?っていうのはずっと考えてます。

ウサギとかキツネは完全にこれは商業的にこうせざるを得ないと思うんですよ。それこそさっきのロバとかにはできないんですよ。ガゼルを持ってきてるのは分かるんだけど、なんかここを攻めたんじゃないかな、と。

タケハル:なるほど。

スケザネ:ここは攻められるというか、ちょっと謎ですね。そういう印象です。

タケハル:なんかね、日本人と西洋人の印象が違いますよね。ガゼルとかいないもんね。

スケザネ:ピンとこないですね。

タケハル:ちょっとピンとこない。

 

4. 人間っぽくさせない動物で人間社会をやる

Dain:『ズートピア ビジュアルガイド』(※4)にリッチ・ムーア監督のコメントがあって、ガゼルのキャラクターを作るとき、シャキーラっていうトップスターを参考にしたんだって。シャキーラって分かる? 俺分からん。

(チャットより)ゆすもひ:シャキーラはエロティックなダンスで歌うプエルトリカンです。

Dain:そのシャキーラの流し目の仕方とかをモデルに、ガゼルの動きを作ったんだって。ズートピアにはいろんな動物が出てくるんだけど、このガゼルのところだけ、わざと人間の髪型にしてて……

タケハル:ああ!確かに髪生えてた!

スケザネ:ああー!確かに。

Dain:なので、なんかズートピアって、人間っぽくさせないように、人間に動物の着ぐるみを着せたようにはさせないようにしてるのに、でもガゼルだけは特殊な存在にしたっていうのは今、まさスケザネさんの攻めてるっていうのはそこなのかもと思いましたね。

スケザネ:なるほど。たしかに人間の髪型だわ。

タケハル:すげえな、やりすぎだよ、はっきり言って。作り手からすると、すごいなって尊敬する反面、勘弁してくださいよっていう気もちょっとする。

スケザネ:わかります。それはわかりますわかります。めっちゃわかる。もう、そんな作り込むかね、みたいな。

タケハル:ほんとほんと。なんで思いついたんだよそれ、みたいな。この悔しさ。

スケザネ:悔しいですよね、わかる……差別の話にちょっと戻すと、物語を作るときに、こういう現実の問題っていうのにどれくらい向き合うかっていう話が出てくる。前回の物語の探求にあった寓意の話にまで戻るけど、この塩梅、すごい絶妙だなって思う。難しいんですよね、これ。差別の問題とか、人種、あとセクシャルな問題って、すごくセンシティブで、下手にやると叩かれて終わるんですよ。それこそ下品なやり方なんですけど、これを「人間」でやったりなんかしたら、絶対に問題が起こるやつ

タケハル:大変なことになるっすよ

Dain:人間でやったら問題起きるね、これ。

スケザネ:そうそう、これを動物に逃すっていうまず発想が違うんですよね。例えば、最初の開始10分で、「この世界でキツネは差別されてる存在なんだよ」っていうのをばーっとやっちゃう。で、観てる方には、なるほど、この世界でキツネは差別されてるんだと伝わる。まぁ、我々の持っているイメージとそう遠くないからすんなり理解できる。で、ジュディが駐車違反の取り締まりをしているとき、アイス屋に入っていくニックを見て、「ん?あいつ怪しいぞ」って目をするんですよね。

タケハル:したした。

スケザネ:ここすごく大事なシーンで、ジュディもあの瞬間、「キツネだから」って偏見で追ってるわけですよね。で、追っかけて中入った後、「パパだからいい人」って判断を下すわけじゃないですか。

Dain:あー

タケハル:したした

スケザネ:「息子思いのパパ=いい人」、「それを迫害するゾウ=悪い人」みたいな公式でいくと、「キツネ=差別される人」という公式を、ジュディも持ってることが簡潔に表されているんで。観るほうも無理なく受け入れられるというか。あの情報制御のバランス計算が本当にすごい。変に説明しすぎちゃうかもしれないし、逆に説明がなさすぎて、なんでキツネってこういう風に思われてんだろうってなっちゃうかもしれないのを、ほんとここは現実とフィクションの世界のちょうど、こう上手いバランスがとれて、見てる側にスッと入らせる。

タケハル:すごい時間かけて書いてますよ、あそこ、それこそ。

スケザネ:大変だと思いますよ。何回もリテイクしてると思う。

 

5. 没となったディストピアな『ズートピア』

タケハル:「シナリオ400本捨てた」とあるけれど、なんだっけ、誰かが言ってたけれど、「長いシーンを書くのは比較的簡単で、短いシーンを作る方が難しい」みたいな話、どっかで利いたことがあります。しかもセリフなしですからねここ。この一連の流れ、映画的な文脈でやっちゃうってのは、かなり頭を使わないとできないです。

スケザネ:うんうんうんうん

Dain:シナリオ400本捨てたってやつ、たぶん400本のシナリオを書いて捨てたんじゃなくて、400回ぐらい書き直したって意味だろうから、まあ捨てたっていうのは言い過ぎかも。それでも、何回も書き直したことは、よくわかりますね。

スケザネ:そうですねー、たぶん実際捨てられたエピソードもいっぱいあると思いますね。ほんとはこんな動物がーとか、レインフォレストとか、いろんな地区あったと思うんですけど、言及されるだけで行かない場所とか、ああいうところ絶対話があったりしたけど、結局それ捨てられちゃったんだと思いますね。

Dain:そういや捨てられたエピソードで思い出したけど、ニックと一緒にいたスナギツネかなんかの…

スケザネ:あー、赤ちゃんのふりしてた

Dain:それ、赤ちゃんの格好してたんだけど実はおっさんっていうやつ。あの二人は、実はハンバーガーショップで働いてたっていう話があったみたい。スナギツネは店員をやってて、ニックは機械のメンテナンスみたいなことをやってるとか。『ズートピアビジュアルガイド』見ると、店の名前は「シェチーズ」で、経営者の顔も載ってる。チーズバーガーにチーズが何枚入っているとか、パテが何枚とか、メニューまである。

スケザネ:細けぇ~

Dain:それ見てて気づいたのが、やっぱこの世界でもハンバーガー屋がある。ってことはこのパテは何の肉なんだろうなという疑問が出てきて。時間的な制約から外したのと、やっぱり食べ物系を入れるとまずいので外したのかな。

スケザネ:すごいな、ボツのハンバーガー屋までそんなに作り込まれてたんですね。

Dain:そう。ボツ案もね。さっきのレインフォレストも、ズートピアのどのへんに位置してて、どういう生態系になってるかも、事細かにビジュアルも含めて作り込んでいるんですよ。なのに、映画はほんとにさらっと流れるっていう、ほんとのワンシーンなんだけどね。

タケハル:いやー、でもすげえな、やっぱエネルギーのかけ方が!

Dain:「ズートピアの都市設計」を見ると、ズートピアの都市設計だけで、デザイナーさん4人いるみたい、すごいわ。最初にタケハルさんおっしゃってましたけど、最初に世界を、ズートピア作って、その後にストーリーを作ったんじゃないかしらって思います。

スケザネ:なるほどなぁ!

Dain:ボツ案で凄かったのは、「ズートピアの削除シーン」で知ったんだけど、最初はニックが主人公だったというやつ。ジュディなんて影も形も無かった。んで、肉食動物と草食動物が共存するため、肉食獣には首輪が義務付けられていて、「肉を食べたい」という欲望が起きるたびに、首輪に電気ショックが流れる世界なの。どう見てもディストピア。

スケザネ:へぇ~

Dain:「肉を食べたい」欲求を我慢しながら、草食獣と一緒に過ごさなければならない。当然、ストレスが溜まる。で、ニックの役柄なんだけど、そういう世界で、ちょっといかがわしいお店をやってる。人間でいうとアダルト関連で、押さえつけられた肉欲を解放できるようなお店なの。そこでは、ミニチュアの草食獣を襲って欲望を発散させるの。本物の草食獣を襲ったら電気ショックが流れて犯罪になるから。ニックは、そういういかがわしいお店の経営者を目指すっていうストーリーだった……らしい。

スケザネ:へえぇ~!

タケハル:絶対ディズニー無理でしょ!

Dain:ところが、あのジョン・ラセターっていう、ピクサーでは神様のような監督に、ある程度出来たものを見せたら、「こんなの観たい? こんな辛い世界に誰が住みたい?」ってぶった斬って、作り直しになりました。普通こう、動く絵まで物語を作り上げているのに、もう一度戻そうとするって、英断というか、勇気がすごいなぁって。

タケハル:このエピソード、いろんな示唆がありますよね。さっき僕もいっちゃいましたけど、そんなのディズニー撮るわけねえじゃんって、外からみてれば思うんだけど、少なくとも企画書あげて、絵までつけてるんだから、作ってる最中はそれわかんないっていうことですからね。クリエイティビティっていうか、自由に作るとき、やり始めるとなんでもありになって、ディズニーだからいいとかダメとか考えず、思いつかないところまで一旦は振り切るみたいな。そこにやっぱり、ジョン・ラセターはやっぱりすげえって思うけど、彼は自分でも話作るだけじゃなく、それをこう、ジャッジできる目を持っているのは、特殊ですよね。

Dain:なるほど!

タケハル:しかも、これからもっとまずいの、ジョン・ラセター、いまディズニーにいなくなっちゃったっていうのが問題で、そこには別の問題ちょっとありますけど。

スケザネ:たしかに、企画がある程度までいってから戻すっていうのは、業界としてよく聞きますし、まあ珍しいことではないんですけど、こうやって聞くと、わ、そこまでやったんだってのは驚きですね。だって、テーマの設定とか、対象年齢の設定とかからもう一回やり直したんでしょうけど、ほんとに。ジョン・ラセターすごいな。

Dain:それって物語の完全な作り直しですよね、カットを変えるとかシーンの入れ替えってレベルじゃなくって、物語の設定とか背景とか、根幹から変えて、まあ主人公変えちゃってるっていう時点でそうだけど。

タケハル:たぶん、このボツ案のアイディアとかも、どこかで使ってて、完全な無駄って無いとは思うけれど、実際やってる側としては、今更変えないでくれよみたいなことが……あと、なんならもう一個誘惑としてあるのが、多分この、ディストピアバージョンでも、ある程度の正解はあるっていうか、別にディズニーだってことを抜きにすれば、好きな人にはハマるかもしれないし。そういう誘惑をすべて退けてやり直すっていうのは凄い。

スケザネ:現実問題として予算とか締め切りもありますからね。

タケハル:そうそう、怖すぎますよ。まあでもこれも、今回までかもしれないですけどね。ジョン・ラセターいないから。

スケザネ:なるほど。

Dain:ダメ出しできる人。

 

6. 『トイ・ストーリー4』の本質=「〇の〇離れ」

タケハル:そうなんですよ!若干ずれちゃいますけど、『トイ・ストーリー4』ご覧になりました?みなさん。

スケザネ:あー、4見てないですねー。

タケハル:あんま先入観持たせちゃいけないですけど、それでもいうと、4は違うんじゃないかと。今までのテーマはどこにいったんだとか、バズそんなやつじゃなかっただろみたいなことが、結構あるんですよ。で、それがちょうどラセターが、セクハラ問題でいなくなった後にできた最初の映画が『トイ・ストーリー4』だったんですよ。で、注目してたら、いややっぱりラセターいないとダメだみたいなかんじがあってですね。

Dain:うわあ……

タケハル:いま『2分の1の魔法』やってますけど、そんなにウケてないのは、コロナだからしょうがないよねって感じで流れちゃってるけど、違うんじゃない? それじゃすまない問題がピクサーに起こってるんじゃない? 大丈夫か? クリエイティビティ落ちていないか? という危惧はありますね。

スケザネ:これあんまり、盛り上がってないですね。

Dain:そもそもそんなのやってるの、全然知らなかった……

ネオ:俺もこれはじめて知った

タケハル:コメントでゆすもひさんから「4好きの意見を聞くとよく理解できた」ってお言葉があります。

Dain :ちょっと発言できます? 4好きの人の意見。

ゆすもひ:ゆすもひです。こんにちは。喋らないほうがいいんですかね、これ?

スケザネ:大丈夫です。

ゆすもひ:この話、「親の子離れ」の投影っていう見方で見ると、当てはまるっていうことらしくて。たしかに4でアンディが変わりますよね。キャラまったく変わるんですけど、あれはもう親心って目で見てあげないとダメみたいな話なんですね。そこらへん掘って探されると、なるほどっていう意見が見つかるかもしれないなと思ってコメントしました

タケハル:なるほどー。俺も親離れできてないのかな。

ゆすもひ:親離れの話、それで見るとすごいよくわかります。

タケハル:ちょっと探してみよ。

Dain:ここで言う親とは? 誰なの?

ゆすもひ:親はアンディです。

Dain:アンディが親。なるほど。

ゆすもひ:あと、フォーキーがゴミか、おもちゃか問題ですよね。そのあたりも結構納得できる、私もわかんなくていろいろ探ったんですけど、「親の子離れ」だと、結構納得できる意見で、なるほどと思いました。

タケハル:ちゃんと調べよ。いや、ありがとうございます。

 

7. なぜベルウェザー副市長は陰謀を企んだか

ネオ:そうですね。みなさんのチャットでも、このシーンとか印象的でしたとかいうのあったらね、ぜひぜひってかんじです。

Dain:じゃあ僕から。ここでみなさんいると思うんで、いろんな意見を聞きたいなあっていうので。それは、「なぜベルウェザー副市長は陰謀を企んだか」ってところ映画だから、悪役がいるかなーって、物語を作るほうからするとベルウェザー副市長は非常に物語あるある。最初は協力者だったけど、実は黒幕っていう、教科書みたいな。面白さからすると正解だと。

で、今度は物語に没入して楽しむ方からすると、なぜ彼女が陰謀をたくらまねばならなかったのかっていう動機を考えると、ひっかかってて。

そのヒントになるのがラストの博物館、クライマックスのところ。ジュディに向けたセリフなんですけど、「ちゃんと評価されず、いつも低く見られて、あなたもうんざりのはずよ」。草食動物で、力が弱く体も小さいからといって、低く見られて、いい仕事をもらえずに、能力的にはあるのかもしれない。ベルウェザーに寄せると、能力的にはライオン市長よりも上かもしれないけれど、副市長の立場に甘んじているみたいな。

これをなんとかしたかったんだっていう、そんな話なのかなって。で、なんでそれで羊だけが悪役にするのかなっていうのが分からなくて、ネットで意見を探してみたら、「もしジュディが、駐車違反の仕事ばかり延々とやらされて、ニックに出会うこともなかったら、おそらくベルウェザー副市長みたいになったんじゃないかしら」という呟きをみて、ちょっとぞっとしましたね。ベルウェザー副市長は、ニックに出会えなかったジュディなんだと。

タケハル:おお~

スケザネ:いや~そうっすね、結構時代もあったので、オバマと白人的なことをずっと思い出していまして。要は黒人というものが大統領になった、で、白人側からすると面白くない感触に追いやられた人もいると思うんですね。で、恨みを募らせたっていう恨みの募らせ方も、単純にその仕事ができるできない以上の複層的なものがあったんじゃないかと思うんですよ。当時の一部の白人には。

で、結果としてその時の膿とかっていうものが今トランプって形になっていると思うんですよ。それが、さっきのニックと出会わなかったジュディと実は結構重なるところがあって。オバマ的なものをなんとかして追い落としてやろう、あいつらは危険なやつらだ、昔から危ないやつだったじゃないかっていうプロパガンダで追い落としていくっていうのは、なんかすごく納得できるキャラ造形というか。

現実から逆算しちゃうんですけど、ベルウェザー副市長に落とし込むのであれば、もともと肉食動物っていう危険だったやつが今トップにいて、で、私は地下の狭苦しい汚いところで秘書みたいな仕事をさせられていると、私なんか票集めの道具ですよ、私の方がきっと仕事もできるのにと鬱屈してくる

だから、ジュディから仕事を任せてもらった時、すごい誇らしそうな、嬉しそうな顔になったりとかするのはそういうところだと思うんですよね。私はできるんだと。ジュディの「私は警察学校首席で出たし仕事ができる」っていう自意識は、たぶん同じものをベルウェザーも持ってるんじゃないかと。

しかも女性でってところもポイントだと思っていて、そういういろいろな恨みが彼女の草食民意識とか性意識とかいろいろなものが結構凝縮されて、復讐に走ったんじゃないか、陰謀に走ったんじゃないかっていうのは、自分の考えですね。

Dain:なるほどすごい! 納得っていうか、言われてみるとそうかつながるわーっていうとこあります。

ネオ:市長っていう地位も、女性を官僚につけるってことでイメージアップみたいなことが現実にもあったりするじゃないですか。これに利用されてるって自覚もベルウェザーはもってて、もう明らかに言葉でセリフとしてでてるから、そういうところでの鬱憤みたいなものはきちんと表現されてるなとは思いますね。

Dain:なるほどー。ありがとうございます、腑に落ちました。当時の政治の、あんまり生々しく描いちゃうと炎上する燃料になっちゃうから、黒人白人女性の話も、動物の形にして、まさに戯画化というか、比喩として寓話化してやってるんだなーっていうのも含めて理解できました。

 

8. 『ズートピア』を現実社会の写し鏡にしなかったわけ

ネオ:そうなんすよね。だから、スートピアのすごいところって、完全にまるっきり同じにはしてないんですよね。だから普通だと、黒人がちゃんと評価されず低く見られるって偏見があると考える方が自然じゃん。スケザネさんの説明だと、オバマ大統領が誕生して、なんか白人の鬱憤がたまったみたいになるけど、でもズートピア的に考えると、むしろベルウェザーは数で言えばマジョリティなんだけど、草食動物で、でもずっと差別されてたっていうような側だから、ズートピアって完全に同じじゃないっていうのがすごい。

現実社会とズートピアが、分かりやすいパラレルな関係にはなってなくて、必ず、ちょっと微妙に違わせてるっていう。だから、草食肉食がマイノリティ、マジョリティっていうふうにもわけられないんだよね。アメリカ社会の反映というか。だから数でいったら草食動物のほうが圧倒的に多いんだけど、アメリカ社会って白人の方が多いわけで、みたいな。そのへんがよく考えられてるなっていうか、すごいなって思うところ。

スケザネ:なるほどね!

ネオ:だから、逆にこの作品を見て、自分がすごい揶揄されてるとか思う人がいないんじゃないかなって気がするんですよね。

タケハル:そうね。言い方あれだけど、都合の良いところで感情移入できるようになっちゃうから。

Dain:確かに。

スケザネ:確かに、確かに。

タケハル:よくよく見ると違うんだけど。

Dain:そうか、これネオさんの言う通り、ストレートっていうか、現実を寓話化するときに示すほうと示されるほうが、本当リニアにというか、きれいにパラレルに移行しちゃうと、「揶揄されているのは自分だ!」ってすぐわかっちゃうから、そこはうまく作り込んでいる。微妙にずらしてたり捻ってたりしていると。

ネオ:まあそうなんじゃないかなあ。

Dain:なるほど。そのために、タケハルさん言う通り、自分ではなく他の人を表象しているがために楽しめる。楽しめるっていうか、自分のことは言われてないように都合よく受け取ることができるっていう。そこまで仕掛けられてるかと思うと、ちょっと恐ろしいぐらいの物語の作りようを感じますね。

ネオ:まさにそうしなかったら、動物に比喩した意味がないってことになりかねないですかね。動物に比喩するから、ある種他人事というか、そういうふうに見れるっていうところも関係あると思うんですよね。動物にしても自分のことだと思っちゃったら意味がないというか。だから、あと例えば最初に凶暴になった動物ってなんでしたっけ?

タケハル:カワウソ?

ネオ:カワウソ。そう、そういう微妙なところ!全然馴染みがない感じの。

スケザネ:肉食なんだあ、くらいの。

ネオ:ライオンが凶暴になったとかさ、オオカミが凶暴になったとかさ、ああってなるけど。え、カワウソ?みたいな。だから誰も揶揄されてるように感じないっていうのはあるかもしれない。

タケハル:そういやいま思ったけど、イヌとかネコっていたんだっけ?

ネオ:オオカミはいたよね。

タケハル:いなかったんじゃないかな。

スケザネ:いまパッと出ないですね、少なくとも。

Dain:『ズートピア』の全員が出てるビジュアル見てるけど、コアラ、シマウマ、ハリネズミ、リスとかいるけれど、イヌ・ネコはない。ないわー

タケハル:受付はチーターです。チーター。

スケザネ:これ本当に英断だと思うのが、絶対海外展開を考えてたはずなんですよ、ピクサーだし。っていうことは、アメリカに限らずいろんな国の人がピンとくる動物を選んでいると思うんですよ。よくちゃんと日本でも「ああ、あの動物ね」ってなったってのがすげえなって思ってて。裸のクラブの虫いっぱい集まっているあいつ、まあわかんなくはないけど、ぐらいでしたけど。あとほぼわかんないことなかったんで。あのへんって相当気を遣ってるはずですよね。

タケハル:あのハエたかってるのよく出したよね。結構ギリギリだと思ったけど。ウシ・ブタだったり…

Dain:そうそう。これ僕の謎にもつながるんですけれど、いない動物を言うとイヌ・ネコいないし、サルもいないし。

スケザネ:サルいないのかあ。

 

9. 『ズートピア2』はトイ・ストーリー型かアナ雪型か

Dain:たぶんサルは人間を彷彿とさせるからいないんだろうけど。あと、やっぱり食べ物を避けてるように思えてて。警察署長はアフリカ水牛ですけど、あれは肉用じゃないし。普通に食べ物を思い浮かべるウシ、ブタ、ニワトリっていうのはいないなあって引っかかったところなんで。『ズートピア2』やるんだったら、このへんの問題を明らかにしてくれるとおもしろいんだろうけれど。やり過ぎかも。

タケハル:こうなったら『ズートピア2』はあれですね、「植物からの抵抗」みたいなことがテーマに。動物は、当たり前のように植物を食べてるけど、私たちには進化する余地もない、みたいな展開で。それぐらいしないと、鳥とか海の動物とかだと予想ついちゃってる気がするんですよ。

ネオ:確かに、ディスニーで植物が主人公とかってあんまりないよな。

タケハル:木がしゃべるとかあるかもしれないけど、これぐらいやんないとね。ちょっと前に植物のほうもハマってた時期があって。植物は基本、食われる立場にいるけど、植物こそが生物を支えてる、みたいな話。雑草とかも、人の入らないところに生えたりとかして、文句言わないとか。なんか全然違う角度から攻めるっていうのはありかもしれないけれど、ヒットするかはわからない。

ネオ:植物の孤独を描くっていうのが。

タケハル:そうそう孤独ね。めちゃめちゃメジャーじゃないな、どうにも(笑)

ネオ:サボテン主人公にしてほしい。

タケハル:ちょっとおもしろそうだね。サボテンだったらね。

スケザネ:『ウォーリー』とかね。ちょっと植物をめぐる話だったりしたけど。

ネオ:『ウォーリー』はよかったなあ。

スケザネ:続編の話だけど、ピクサーとかディズニー系の続編でパターンがあると思ってて、アナ雪型とトイ・ストーリー型のどっちかがあるかなと思ってて。

トイ・ストーリー型は螺旋状で。『4』はちょっと横に置いておくとしても、基本的に上にやっていく型。いきなり新しい大事件がボーンと出てくるとか、進んでいる感じではないと思うんですよね。基本的には同じメンバー、同じ時代感、同じ感覚で、上に積みあげていく感じ。

アナ雪型は、時間が完全に進むんで。『1』で起きたこと踏まえて、今度こういう新しい事件が起きます、ボン、みたいな。これ本当に難しいんだと思うんですよね。こっちのアナ雪型は。『アナ雪2』ってそんなにいい評判聞かないし、『1』は俺好きだったんだけど、『2』はちょっと微妙だったんですよ。

『ズートピア』は、このアナ雪型にいくしかないんじゃないかという懸念が正直ありまして。もうおおむねのことが終わってしまった、このズートピアでもう一回お話を作るには、やりようはあるんだけれども、最近のピクサー的には新しい大事件――それこそ植物が反乱してくるとか――を起こすしかもうやりようないんじゃないかな。でも、個人的に観たいのは『トイ・ストーリー』みたいにそのズートピアでまた何か、その完結した中で新しい何かを起こすっていうほうが観てみたい気はするんですけどね。

 

10. 勇気を持って、マンネリ化

タケハル:アナ雪型になるのか。俺も個人的にはトイ・ストーリー型でやってほしいな。もうバディができたんだから。ニックとジュディっていう。もうドラマとかで、一話完結で街の事件を解決する程度とかね。いいんじゃないかなと思うんだよね。無理してがんばらなくてもいいんじゃないかな。っていうかもうがんばらないでくれもう、みたいに言いたくなっちゃう。

ネオ:『スター・ウォーズ』のアニメ版みたいな感じでいいと。

タケハル:そうそうそう、いいよいいよ。『マンダロリアン』でいいよ。『クローン・ウォーズ』でいいよ。

ネオ:確かにね。警察官のバディ、『相棒』でいいよってことか。

タケハル:『相棒』でいいの。毎回新しい犯人が出ればいいの。

Dain:それ言うとバディものの、刑事・警察ものの映画で『リーサル・ウェポン』ってシリーズで続いてたんだけれど、みんな知ってるかな? おっさんしか知らんかもしれん。

スケザネ:「1987 アメリカアクション映画」っていうのが出た。

Dain:そんな昔なんだ。確かね、『4』ぐらいまで出てたはず。

スケザネ:ほんとだ、続編ありますね。TVドラマシリーズも2016年から放送中みたいです。

Dain:知らんかった。デコボココンビのバディもので反りが合わないんだけど、無理やりバディにさせられちゃって。あとは次から次へと新しい事件が、新しい犯人がっていう、そんな話。もし『ズートピア』がそっちにいくんだったら、『ズートピア1』がバディ誕生で、『ズートピア2』がそのバディものっていう。昔からの映画のお作法を守っていけば、きっとずっと続けていけるだろうなあ。なんだけれど、それがおもしろいかっていうと、「普通におもしろいね」っていうぐらいかなあ。どうなるんだろう。

ネオ:タケハル先生の話を聞いて思ったのは、これ完成されたすばらしい世界じゃないですか。まさに「ユートピア」になったわけじゃないですか。その世界観をやっぱり壊しちゃだめだって思う。だから、まさにみんなが住みたくなるような世界での小さな出来事とかを扱っていけばよくて。それでだんだん進んでいくごとに、例えば草食動物がついに市長になるとか、そういうことがあってもいいかもしれないけど、根底の世界観としては安心できる「水戸黄門」みたいな続編でいいと思う

タケハル:ずいぶん草食動物的な発想になってきたけど。

ネオ:変に植物の反乱とか、やんなくていいような気がすんだよ。

タケハル:確かに、そう考えるといらないかもしれない。

ネオ:やりたいならもう別の世界でなんかこう。

スケザネ:『アナ雪』は別の世界に行っちゃったんだよな、だからな。

タケハル:偏見出ちゃうけど、白人のほうが狩猟型っていうかさ、次なる地平を求めるみたいなことで、新しいことやりたがるんじゃないかな。草食人物たちは、やっぱり「水戸黄門」なり「寅さん」なり、農耕生活になってんじゃねえかな。

Dain:おそらく『2』の企画書でも、バディものにしようって案があるはず。

スケザネ:あるでしょうね。

タケハル:なあなあ展開しようっていうのはあるでしょう。

Dain:せっかく「ズートピア」っていう世界があるから、そのなかで次から次へといろんな事件を起こせばっていうふうにすればってありだと思う。けれど、実際その物語に予算を割り当てる人が、本当にそれを選ぶかどうかになると、どうなんだろう? 安全すぎるとかって言うのかしら。投資としては安全だと思う。いま僕が思ったの深煎りさんがコメントしてくれて、「社会風刺が入るような」っていう感じが。バディもので、その時その時の社会風刺がチョロチョロっとこう入れているっていう。

ネオ:『ドクターX』でいいってことですね。あれは要所要所時事ネタでふざけてる。

スケザネ:最後、麻雀して終わる。

ネオ:「忖度」とか言い出すし。

タケハル:やっぱりこれ、勇気を持ってマンネリ化してほしいですよね

スケザネ:いやあ、それはいい言葉。

ネオ:すばらしい。

Dain:いい言葉だ。マンネリ化でいいとは言わんけれど、そうそう。

スケザネ:でも、これマンネリ化できるやつですからね。十分舞台がそろってるから。『アナ雪』は無理なんですけど、これはできるんですよ。

Dain:世界がすごいもん。「ズートピア」が。

スケザネ:まだまだ全然消化不良というか、描けてないところたくさんあるし、見てみたいところたくさんあるし。俺は幼なじみのギデオン・グレイとかけっこう気になってるんで。あいつの扱いってもっとけっこう重要な感じで出てくるのかなって思ったら、パイ職人やってんのかよって感じだったりとか、ああいうところとか気になるし

タケハル:確かに、ギデオン・グレイだけで1話作れるからね。

スケザネ:絶対できますよね。

タケハル:なんなら2話で。前後編とかで。

ネオ:いろんなことが起こっても不自然じゃないっていう世界観を構築できてるよね。だから、例えば『アナ雪』でなんか起こそうとしても、「別にいいよ」とかって思うかもしんないけど、ズートピアで全然知らない動物がなんかしだしたとなると、「へえ」ってくらいになる。

スケザネ:新しい動物出すっていうのは絶対映えるもん。おもしろい動物。

タケハル:両親が都会に来るだけでも1話。

スケザネ:確かに、あの両親おもしろそうだなあ。

タケハル:「市長、恋に落ちる」とかさ。

スケザネ:無限に出せるな。

タケハル:無限にできるだろ、これ。

ネオ:重たくも軽くもできるのは、異種類どうしの恋愛とか。キツネとウサギ、今のところそういう混血っていないと思うんだよね。『ズートピア』って。

Dain:ないね、うん。ないない。

ネオ:まあ生物学的に無理なのかも知んないけど、そうなるとどうなのかなあって当然考える。めっちゃ重たくなりそうだけど。

タケハル:たまにはスパイスと一緒の回があったりね。

スケザネ:明らかにとっ散らかるな。

ネオ:ナマケモノで1話作れるし。ほぼ進まない、みたいな。

Dain:『3』も出したらやばいかな。サルは絶対出さないだろうなって思うけれど。

ネオ:サルは悪者じゃねえかなあ。

Dain:うん。悪者で、なおかつ科学技術に長けてて、なおかつ宇宙とかを目指そうとしてって大きくなっちゃうな。

ネオ:それかもう、『おさるのジョージ』みたいなの出すっていう。

スケザネ:愛嬌ある感じね。ちょっとね。

ネオ:『おさるのジョージ』は来てもいいんじゃないかな。でももう、『おさるのジョージ』もいる場所ない。みんなジョージくらい頭いいからな。

Dain:ズートピア壊しちゃったらダメだろうなあ。沈めるとかっていうのもダメだろうし。

ネオ:どうして沈めるって発想が出てきたの?

Dain:ものができたから壊しちゃえっていう発想。オチは「ズートピアとは何か」って話にする。結局、ズートピアって建物とか道路とか施設じゃなくって、そこに暮らすみんなの多様性を認める共同体なんだ、みたいにすればできるかなあって思ったけど……それどっかで聞いたことあるなあって思ったら小松左京の『日本沈没』と同じテーマや。ちょっと飛びすぎ感ある。要するに、日本という土地が沈んでも「日本人」っていう文化なり考え方は世界中に散らばってという発想。

スケザネ:場所じゃないよっていう。

Dain:そうそう、場所じゃないよっていう。あと思ったのが、『ズートピア』観る前の想像からなんだけど、動物たちのユートピア=『動物農場』というやつ。ジョージ・オーウェルの小説が浮かんじゃって。もし風刺も絡めて、なおかつエグいところも入れてってやろうとすると、『動物農場』路線に行くのかしらんって思った。ストーリーをかいつまむと、とある農場で家畜たちが反乱を起こして、人間たちを追い出しちゃう。で、動物だけで平等なコミュニティを作ろうってまさに「ズートピア」みたいな場所を作ろうとする。だけど、ちょっと賢いブタが他の動物をこき使うようになって。でも他の動物たち、ウシやウマやニワトリたちは言われるがまま働いて、何でおれたちの生活こんなに苦しいんだろうって思っているんだけれど、前人間がやってたことと同じことをブタがやるようになってて、気づいたらブタが人間に成り代わっていましたっていうオチ。これを『ズートピア2』に入れて、ブタの代わりにサルを入れてなんだけど、もうあれだけ世界ができあがっちゃってるから難しいだろうなあ、なんてなことを妄想してました。

スケザネ:それやるなら『1』しかなかったかもしれないですね。

Dain:『1』だろうな。

スケザネ:今さら壊せないでしょうね、きっと。

Dain:壊せない、ちゃんとできてるから。

タケハル:ディズニーは『モンスターズ・インク』で前日談という手を使ったので、『(モンスターズ・ユニバーシティー』だったら『モンスターズ・インク』より前だから。前の話するというのであればありですね。

ネオ:『モンスターズ・インク』あったな。

スケザネ:確かに、前日談パターンあったな。

タケハル:まあ、でも今回しつこいくらいにもうジュディとニックが最後相棒になってるから、あれだけ警官になっといてやらんのかい、みたいな感じしますけどね。

スケザネ:今さら警察学校時代の話されても、みたいなところはありますよね。

 

11. 自分では気づかない自分自身の良さ、「成長感」

スケザネ:けっこう自分が思ったのは、動物がどうとか種族がどうとかっていうよりも、自分自身の成長感としていいところがたくさんあるなって。「自分自身のいいところって自分自身では気づけていない」ってこの1つの作品のテーマかなあと思ってて。

さっきの虫がいっぱいたかってるあいつの話ありましたけど、実はあいつが一番記憶力いいとか、あれってあいつわかってないじゃないですか。「象は記憶がいいね」とかって言ってましたけど、自分のこと気づけてないとか。

ニック、実は警察官としての能力が高いのを、ジュディが気づいて見込むわけですよね。「あなたに依頼しようと思ってたの」って言って、ニックはそこで「おれにそんな能力があるんだ。じゃあがんばってみようかな」っていう顔になってたりとか。みんな自分のいいところって、自分自身で気づいてなくて、自分自身で押さえ込んでしまっていて、人によって、人との出会いとかで、それを今度気づかせてもらうっていうか。この作品、人種とかそういう話がどうしても前面に出てきてしまうがゆえに忘れられがちというか、あんまり目を向けられていないのかなと思ったんですけど、これは大事なテーマなのかなと感じていました。

タケハル:かなり普遍的な問題でもあるからね。

ネオ:一緒にしていいのかわかんないけど、自分の差別意識には自分では気がつけないって話とちょっとつながるかもしれない。

スケザネ:ああ、確かに確かに。

タケハル:ひっくり返したらね。

ネオ:成長できるとか、見方が変わるとかっていうのは、自分じゃなくって他者を通してっていうことは全体にあるのかもしれない。

タケハル:成長は確かにテーマとしてあったよね。最初のセリフですげえおもしろかったけど、ジュディが「警官になりたい」とか言ったら、お父さんお母さんが「ニンジンはすごくいいぞ」「ニンジンでみんなのために役立とう」としか言い出して。でもお父さんお母さんは可能性に対して、ここは塞いどいてみたいなことしてるんだけど、ジュディだけは外を見てるみたいな。そのジュディですらいろいろ問題はあるんだけど、今のとこ普遍的な問題としてみんな思ってることだし、お父さんお母さんは善意だしってところはうまく入ってる。

スケザネ:お父さんお母さんは間違っちゃいないってところも、大事なポイントかもしれないです。

 

12. ズートピアの普遍性は「可愛い」と「笑い」

タケハル:ずっと思ってたのが、「ニックとジュディがやっぱり可愛い」っていう話で。

ちょっと話が飛ぶんですけど、よく美しさの基準は変遷するみたいな話あるじゃないですか。平安時代のおかめ顔とかみたいなこと言うんですけど、でも思うに、このジュディとニックに関しては、例えば100年後見てもまだ可愛いんじゃないかって思うんです。動物だし。もっと個人的なこと言うと、「美は変遷する」ってウソなんじゃないかって思ってて。なぜかというと、例えば『ミロのヴィーナス』、ぶっちゃけ今見ても美人だなって思うわけじゃないですか。時代時代によって多少の好みみたいなのはあるっちゃあるけれど、もうちょっと普遍的に可愛いとかっていうものって。

今のポリコレ的な見方とか色々あるけど、たぶんそれを乗り越えて通じる可愛いさというものは、『ズートピア』にはあるって思うんですよね。「可愛い」が存在しないことには共感がまったくできないようになっちゃうか、もしくはすごく心の広い人だけが共感できる映画ってことになっちゃうから、可愛いさの基準みたいなのはあったかなあって。

ネオ:それ見た目だけど、エピソードのカッコ良さみたいな、例えばストア派のセネカが紹介しているエピソードとかってやっぱり今聞いてもかっこいいとか男らしいとかって思ったりするからね。そういう普遍性っていうものはあるのかもしれない。

タケハル:差別意識とかで乗り越えられるとか、変わっていくほうもあるんだけれど、むしろ変わっていかないものをキャッチしつつ、変わっていくものに対してきちんと追いつくみたいなのはすごくよくできてるよな、意識してるのかなって

人間としても普遍的に反応しちゃう部分は抑えつつ、おそらく10年と言わず5年ぐらいしたら古くなっちゃうのかもしれないと思うけど一応入れる、みたいなこともどっちもやってるからレベル高えなとは思ったかな。

ネオ:それで言うと、笑いもそうだよね。前回の読書会にも出てきたけども。ナマケモノのあれってもう100%笑うよね。100年後でも。

タケハル:そうそう、100年経っても。逆に、羊のもふもふを叩くとか。アフロの人に対してアフロたたくの失礼みたいな話で。アフロの人は「たたいてもいい?」ってみんなに言われるらしいんだけど、それは本人すごく嫌だみたいなことで、それは羊も一緒ってなるけど。それはもしかしたら、100年後には無くなっているかもしれないね。

スケザネ:あれは、日本だとちょっとピンとこなかったですね。

タケハル:そうそうそうそう、わかんなかった。

ネオ:確かに、確かに。笑いに関して言えば、シェイクスピアとかモリエールで笑えるところはいまだに笑えるし。

タケハル:そうね。ネオに教えてもらった、モリエール『守銭奴』のやつ。文字通り守銭奴で金にがめついやつなんだけど、執事がやってきて、「お客様です」みたいな。それで守銭奴が「そんなの後にしろ!」みたいなこと言うんだけど、召使いが「いや、お金を持ってきているんですが」、守銭奴「すぐに通せ!」みたいに手のひらを返す。これは貨幣経済が続く限り、1000年くらいは笑える。

Dain:人間が生きている限り、貨幣経済は続きそう。

タケハル:ベーシックインカムが普及したらなくなっちゃうかもしれない。

スケザネ:電子マネーが普及してもそうかもしれないですね。

タケハル:もしそうなったら、モリエールを読んだ未来の人は、当時は人が現金を持ち歩いていること自体に驚くかもしれない

スケザネ:その話でいうと、もはやぼくらは、電話を自宅で受けることにピンとこない。みんな携帯だから。固定電話は古びる速度、結構早かったですね。

タケハル:電話で言ったら、電話が来てるよってジェスチャーがありますよね。手を受話器の形にして耳元で手を振るやつ。あれとかもう子供は理解できないみたいですね。

ネオ:ジェスチャーも変わるわけだね。

 

13. 禁断の技:ボイスレコーダー

スケザネ:ちょっと細かいところなんですけど、録音できるペン。ボイスレコーダー。出てきたとき、小道具の使い方として、しょぼいなと思ったんです。最初は、ニックをジュディがはめたところに出てきます。(詐欺師と呼んでくれる? ってシーン)

あれは、映画内エピソードとしては、めちゃくちゃしょぼいです。録音して、騙してってだけ。しかもそのボイスレコーダーの話を、「詐欺師って呼んでくれる?」っていうセリフまでつけて、何度も何度もこするんですよね。

それこそ最後の解決のシーンもそうですし、ジュディとニックが仲直りする時もボイスレコーダーやりましたし、3~4回ぐらいこすって、色んなセリフをそこに重ねている。これは作り手側のすごい意地悪な見方をすると、たぶん思いつかなかったんじゃないかなと感じます、ボイスレコーダー以上におもしろいシナリオが。この小道具が一番しょぼいと思うんだけど、他に思いつかなかったから、そのしょぼさを隠すために何度も重ねる。いろんなセリフを重ねて意味深く持たせるしかなかったかと思う。

ネオ:それは超重要だと思います。ボイスレコーダーってどんな作品、刑事ドラマにしてもなんにしても一番がっかりする仕掛け。しょうもなっ、みたいな。トリックの禁じ手の一つなんじゃないかな。

タケハル:クリシェですね。細かいところで、録音ペンのデザインを人参にしてみたりとか、何回も重ねるとか、なんとか見えないようにしてるけどもクリシェはクリシェかもしれない。

スケザネ:クリシェがゆえにとにかく色々つけてなんとかして。これ、作り手側の逃げ手法です。ほかにアイデアがない時に、それだけだと安っぽく見えちゃうから色々つけて、意味深く見せる。これだけこすったら許してやろうとは思うけど。

ネオ:これ今回一番聞いて、いい話だったなあ。

タケハル:素材は微妙でもソースがおいしいから許してやるみたいな。

Dain:生々しい話ですね。おそらく、肉食獣のディストピアの初期の案がボツになって、焦ったのではないかなと。こんなんじゃだめだとちゃぶ台返しされて、でもスケジュールは決まってて、そんな中でもなんとか物語を新しく作らないといけない。ものすごく当たり前なんですけど、映画作る時に最初にしなきゃいけないないことは、物語をつくるということで、それがボツになった。

じゃあもう一回、別の主人公で・・・どうする・・・って、でも作らなきゃいけない。そんなギリギリのところで、できる精一杯だったんじゃないかな。最後の副市長のベルウェザーのセリフをどうやってひっくり返すかとか、色々考えて、やっぱりボイスレコーダーだ! ってなったんじゃないかなあ。んで、ここだけでボイスレコーダーを使っても……ってなったら、じゃあニックのところで使おう! でも2カ所だけだと伏線が広がりすぎるから途中で入れた方が……じゃあニックと仲直りするところでも入れよう! そんな感じで最後のパズルのピースを埋めるためにボイスレコーダーが使われたんじゃないかと

スケザネ:まさにそうだと思います

タケハル:クリエイターたちの息切れが聞こえるよね

Dain:物語作家のね。ゴールだと思ってハァハァ言ってたら42.195km走ったのに、まだ走るよみたいな。もう1回って。しかもシナリオは最初に作んなきゃいけないから

ネオ:ボイスレコーダーを使ったら、必ずその前に何かしゃべらなきゃいけないよね。そこでペラペラしゃべるっていう不自然さがどうしても出てくる。刑事ドラマで犯人暴かれたらペラペラしゃべりだすみたいな不自然さが。

全員:それはあるなあー。

タケハル:絶対言っちゃダメなのに言うよね。

ネオ:ボイスレコーダーのがっかりさって、不自然なセリフを呼び起こさなきゃいけないっていうところにあるのかもしれないね。本当に悪いやつはそんなヘマしないで粛々とやる。だからボイスレコーダーを使うと、最終的に相手のドジによって解決する。

スケザネ:『相棒』でも「語るに落ちる」パターンで見せる回があるけど、何かしらひと手間加えた話の方が印象に残る。単純に言わせてしめしめではなくて、言わせるために導入を持たせたとか、小細工しといたとか、そういう工夫がないと物足りない

ネオ:そういう言質をとる系だと、例えばドラゴンボールでピッコロがセルと戦うときに左腕を吸収されて、もうこれでは勝負ついたと言ってセルにペラペラ語らせる場面があるんだけど、あれはまあまあ自然な気がするんだよ。でもあれもセルはドジってるんだけど、「気づかなかったとはドジだな」って言ってるし。まあ不自然かー。要するに問題点は、相手のドジに期待する脚本・プロットになっちゃうってことだよね。

タケハル:裏を返せば、そこまで分かってるのになぜ使っちゃうかってところ。それはやっぱり必要性があるわけで、ピッコロとセルの話でいえば、セルの設定がわからないとこの先読者がついていけないだろうっていう作る側の恐怖がある。まんがの場合は毎週連載するから説明しないと無理な気がするけど、映画に関しては勇気のある作家は説明しないよ。

その例でいくと、最近ですけど『テネット』ね。テネットは話がやたらややこしいんです。時間がひっくり返ったり。なんだけど説明全然しないんです。説明するとしても、グッとまとめてパパっとやる。映像とかの迫力で見てられるけど、たぶん家で観たら相当しんどいと思う。気が散ったら話わかんなくなっちゃうから。金曜ロードショーなら絶対無理。CM入ったらもう無理ですよ。何の話かわからなくなる。

Dain:『テネット』は見てないけど、物語の世界の中で物語をペラペラ説明されるとがっかりする。それがネタとして使われてて、しょっぱいなっていうのはさっきのボイスレコーダーにつながるのかな。物語の世界なんだから、説明のセリフではなくて行動のセリフとか絵で見せてほしいと。西暦何年、人類が絶滅に危機にーとか、映像を数秒流せばわかるじゃんって。高望みなのかもしれない。でもディズニーだったらやってくれって思う。

タケハル:これをさらに応用してるのはスターウォーズです。要は冒頭に文章でどかどか説明しますよね。あれは思いきりましたね。伝統芸能化してる。

スケザネ:あれやらせてもらえたら楽だなあ

タケハル:あれがなぜ許されてるんだお前らはって思うね。

ネオ:『アオイホノオ』というまんがで主人公がスターウォーズを「途中から始まって途中で終わる」と言ってるけど、まさに冒頭字幕はそういうことだね。

スケザネ:あと10分なので締めに入りましょうか。

Dain:前回の様子をブログで取り上げたとき、反応よかったです。スケザネさんやタケハルさんの物語のとらえ方が素晴らしいとか。

ネオ:ネオさんは何が素晴らしいとか言ってました?(笑)

Dain:ネオさんのことは特に何も(笑)

スケザネ:さてまとめに入りましょう。自分としても色んな視点を得られました。この会を通じて、見落としがたくさんあったことにも気づけて面白かったです。最初に戻ると、タケハルさんの「シーンが多いのにテンポがいい」とか、なるほどと思いました。ズートピアの続編の話とかも面白かったです。

タケハル:やってみて、Dainさんのレジュメあるなしではだいぶ変わりますね。これあるおかげでスムーズな議論ができました。シーン一覧もそうですし、資料の一覧も非常にありがたかったです。あとはスケザネさんのボイスレコーダー理論も納得でした。トイストーリーのことも勉強しないといけないなー。

ネオ:次回は『レディ・プレイヤー・ワン』でやろう。

 

※1 『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』シド・フィールド、フィルムアート社、2009

※2 『シド・フィールドの脚本術』p.167

※3 『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』松原始、山と渓谷社

※4 『ディズニー ズートピア ビジュアルガイド』KADOKAWA


ちょうどこれを書いているときに、ズートピアのアニメシリーズ化が発表された。

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオが制作し、『Zootopia+』(ズートピア・プラス)になるという。

シリーズものだから、おそらく、ジュディ&ニックのバディもので、ズートピアを舞台に、いろんな事件を解決していく展開になるのかと。「ズートピア」という世界観をいじらず、「勇気を持ってマンネリ化」した企画に拍手!

この楽しい場所を作りだしていただいた、ネオ民さん、スケザネさん、タケハルさん、ありがとうございます! そして、ご視聴&チャット参加いただいた「物語の探求」メンバーの皆さま、ありがとうございます! さらに、文字起こしをご協力いただき、ありがとうございます。

 

 

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ファンタジーだった『聲の形』

 映画観てきた。これは素晴らしいファンタジーだ。

 『聲の形』は、『シン・ゴジラ』『君の名は。』よりも、荒唐無稽だった。前者は「ゴジラ」、後者は「入れ替え」が虚構だが、『聲の形』の"ありえなさ"は、ほぼ全編にわたる。いじめの描写が辛すぎて、原作は1巻しか読んでいない。そのため、この感想は的外れかもしれない。だが、このモヤモヤを溜めると体に悪いので吐き出す。

 『聲の形』は、聴覚障碍者の女の子と、彼女をいじめる主人公とのボーイ・ミーツ・ガールの話だ。彼はいじめたことを後悔し、暗転した人生を送るわけなのだが、数年の時を経て、再び彼女に会いに行く。彼の救われなさが、「×印を付けられた他者」や「水底からのような音声」に表象されており、要所で主観世界がドラスティックに変化するアニメ的な仕掛けは良くできている。特に、「その音を感じているのはどのキャラクターか」によって、わたしの「聴こえ」を使い分けているのが凄い。

 また、「映されなかった描写」が素晴らしい。全7巻を2時間の尺にするため、削らざるを得ないエピソードがあったはずだ。読んでないわたしには想像するしかないが、主人公たちを取り巻く友人や家族の間で、さまざまな軋轢があっただろう。本来なら口も利きたくない相手のはずなのに距離が縮まっていたり、異質な視線や口調によって、シーンの隙間に、「何かあったな」と感じ取ることができる。そこに、映画に映らない葛藤や時間、会話があったことが分かる。そういうまくり方は上手いので、原作を読みたくなる(友達のエピソードがかなり盛り込まれているのではないか)。

 そうした監督の技量は素晴らしいのだが、ストーリーに入るのに苦労した。トラウマレベルで後悔しているとはいえ、会いに行くだろうか? 贖罪の話にしても、そこから先の恋愛になるだろうか? つい親の視線で見てしまうのだが、二度と、顔も、見たくない男が、再び娘にかかわってきたら、母親は、"その対応"だけで済むのだろうか?(映画に描かれていないだけ?)。

 わたしの疑問を見透かしたように、「おまえは、自分を満足させるために、会いにきたのか?」とか「イジメてた奴とトモダチ? 何ソレ? 同情?」「トモダチごっこのつもり?」など、批判・揶揄するキャラが出てくる。言葉のトゲは、グサグサ刺さっているように見えるのだが、きちんと相対するでもなく流れていってしまう。隠れたテーマである「友達とは何か」への返歌が成されているものの、一般論で済まされているように見える。

 触れられるような声や、微妙な距離感が伝わってくるシーンは生々しいが、展開が現実離れしている。唯一、植野直花という女の子がリアルだ。小学生の頃から主人公に密かに恋心を抱き、いじめに加担し、物語の後半ではヒロインと最悪の形で向き合う。もう一度観るとき(または原作を読むとき)は、彼女を中心にしたい。

 ヒロインは耳が不自由なだけで、素直で、芯が強く、優秀で(映画館で配布された小雑誌で知った)、はっとするほどの美少女に描かれている。だれも近づいてこないの? お邪魔虫を追っ払う身内がいたからかもしれないが、他の友達の存在が皆無で、しかもよりによって自分を苛めていた男に(あえて?)向き合うなんて、おかしいだろ……

 次々と浮かんでくる疑問に、考えるのをやめた。これは、「そういうお話」なのだ。聴覚障碍やいじめを入口にした、ボーイ・ミーツ・ガールであって、そこにわたしのリアリティラインを持ち込むべきではない。そう考えると楽になって、あとは楽しめた。これは、ファンタジーなのだ。東京を蹂躙する大怪獣の話や、思春期の男女の心と体が入れ替わるお約束と一緒で、わたしが慣れていないだけなんだ。

 あるいは、映画に描かれなかったエピソードに、その答えがあるのかもしれない。一緒に観てた娘が帰るときに言った「お父さんは現実とアニメの区別がついていない」が刺さる。曰く、背が低くてヘンな頭の男子は出てくるけれど、かわいくない女の子が出てきてはいけない。西宮硝子(しょうこは、ガラスとも読めると教えてくれたのも娘)が、もし可愛い子でなければ、会いに行ったのかな? それは考えてはいけないのかな?

 この疑問に、答えられなかった。原作を読むと分かるのだろうか。Kindleだと第一巻が無料で読めるみたいだが、いじめ描写が相当キツイ(経験ある方にはトラウマを呼び起こすかも)。未読の方は気をつけて。


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『たまこラブストーリー』で幸せな記憶を

 観たら幸せになるアニメ。テレビ版を見てなくても問題なし。

 ラノベを読んだりアニメ観るのは、なかった青春を甘酸っぱい記憶で上書きするため。ほら、「最後には、どうか幸せな記憶を」と言うじゃない。深夜、リアル過去を思い出して布団抱きしめ煩悶するより、美しい場面を反芻するほうが、よっぽど精神に良い。俺が死ぬときの走馬燈フォルダに保存しておこう、この河原のシーンは。

 これ観て思うのは、どうして俺は人を好きになったのだろう、ということ。スペック・縁はともかく、年がら年中、彼女のことばかり考えていたことがあった。万有引力の法則をどうして閃いたのか?という質問に、アイザック・ニュートンが応えたとおり。

 By always thinking unto them
 寝ても覚めても、そのことばかり考えていただけです

 わたしの場合、運あって一緒になれたのだが、今でも二人で話し合う。「あれは、それ以前でも以後でもダメで、タイミングというか、勢いというか、何かがあった」ってね……その何かが、本作では「リンゴが落ちる」になる。くり返し出てくるリンゴのモチーフは、上の台詞と、知ってしまった故の恋の痛みとともに響く。告白しなければ、ずっと万有引力の法則に則って、たまこのまわりを周回する、『たまこマーケット』のもち蔵のままだっただろう。

 しかし、人は変わる。あれから1年経ったら、1歳トシをとるということ。高校三年生になって、それぞれの進路を決めるということ。進学、就職、留学……背中を押してもらったり、勇気を持って一歩踏み出したり。変わってしまうのが怖い=知ってしまうのが怖いことは、知の果実を味わうことと一緒なり。

 それでも、変わらない「好き」がある。この映画には三つの「好き」がある。最初の二つは、ど真ん中でど直球のラブストーリーだから、ある意味安心して(?)気持ちを託すことができる。けれども、三つ目の彼女の「好き」は痛い、辛い、見えにくい。二回目に観たとき、彼女の視線に同期してしまい困った、映画館じゃなかったらのたうち回っているか、一緒に叫んでいただろう。

 ラストシーンは当然として、途中で刺さる場面があるので困る。思い出が襲いかかってくるタイミングの唐突さ加減が絶妙で、ほとんど反則だ。オートリバースのB面(古ッ)の件なんて、完全に油断しててタオルが間に合わなかった。「好き」の引き換えだな。人を好きになるということは、うつろう存在に自分の気持ちを渡すこと。大人になってずいぶん経つが、わたしにはその覚悟があるのだろうか。

 大人になるとはこういうこと。おかげでいい記憶ができた。死ぬときはこれを思い出して逝くつもり。

 おまけ。新宿ピカデリーで観るのなら、入口のオブジェで驚いた後、エスカレーター登った上からもち蔵を確認しておくこと。

Tamako

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