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進化論的アプローチで意識の難問に挑む『意識と目的の科学哲学』

N/A

「意識とは何か」という問題のスナップショット。

新書サイズのわずか85ページで、神経生理学、科学哲学、心の哲学の学際領域をコンパクトに圧縮している。いわば意識のハードプロブレムの最前線を切り取った小論といえる。読む前と読んだ後で見え方が変わってしまう本をスゴ本を呼ぶのなら、本書はその名に相応しい。この問題の捉え方そのものが変わってしまったのだから。

例えば、「意識の問題はヒトの問題なのか?」という切り口だ。

提唱者のD.チャーマーズが掲げた「脳の物理的な状態と、感じる、見る、思うといった主観的な経験との関連性を解き明かす」という命題には、「ヒトにとっての」という語句が隠れている。

わたしは今まで、問題文そのものを疑うことをせず、マリーの部屋とかクオリアについて学んできた。だが、立ち止まって考えると変だ。意識の問題は「生物にとっての」という語句から考えるべきだ。

アナバチは「愚か」なのか?

本書では、アナバチの巣穴の実験を紹介している。

産卵の季節になると、アナバチは卵を産むための巣穴を掘り、そこへ獲物を運び込む。獲物は毒針で麻痺しているので腐ったりはしない。卵からかえった幼虫は、新鮮な獲物にありつけるという寸法だ。

では、獲物を新鮮に保存できるアナバチは「賢い」のか? そうではなく、素朴な本能に導かれて機械的に行動しているに過ぎないという指摘がある。

アナバチの行動パターンは次の通りになる。

 1. 麻痺した獲物を巣穴の入口まで運び、置いておく

 2. いったん穴に入って異常が無いか確かめる

 3. 外に出て、獲物を引きずり込む

この2.のとき、人の手により獲物を数インチ動かしてしまう。入口から動かされたものの、アナバチはすぐに獲物を見つける。そして巣穴の入口にまで運んだ後、再び巣穴を確認しようとする。

さっき巣穴を確認したばかりなのに、「獲物を動かされた」ことにより、もう一度確認しようとする。2.で異常なしなのだから、多少動かされたとしても、3.をしても不都合はない。人間だったらそう考えて行動できるのだが、昆虫は自動機械みたいなものだからできない。これは何度くり返しても同じで、アナバチは40回以上も確認したと報告されている。

この話は有名なやつだから、ご存知の方も多いだろう。ダグラス・ホフスタッター『メタマジック・ゲーム』や、ダニエル・デネット『自由の余地』を始め、このエピソードは広く紹介されている。

問題は、この実験の元ネタだ。

この実験は、『昆虫記』で有名なファーブルの実験結果になる(『昆虫記』第4巻第3章:無分別な本能)。ファーブルは昆虫の本能と人間の理性を峻別しており、興味深い生態ではあるものの、アナバチは「愚か」な存在になる。

そして、この実験は追試されている。

モーガン『動物行動』によると、同じ条件で体系的に検証したところ、異なる結果が得られた。2.を延々と繰り返すのではなく、「数回で巣穴に引きずり込んだ」と報告されている。アナバチは自動機械でもなんでもなく、状況の変化に応じて行動を修正できるくらい「十分な知性をもつ」と結論付けられている。

アナバチの例は意識のイージープロブレムの範疇かもしれないが、私が興味深いと感じるのは、「理性と本能を峻別して、人間だけに理性がある」と見なす考え方そのものだ。

人間至上主義の誤謬

なぜ人間だけを特別視して、ヒト以外を本能に従うだけの機械的なものに見なすのか?

これは、近年における他の学問分野での変化を眺めると、腑に落ちてくる。

例えば天文学だ。太陽系ではない惑星である「系外惑星」は長い間見つからなかった(近年になってモデルを見直し、爆発的に見つかっている)。

光学技術はあるにもかかわらず、「太陽系というモデル」に基づいていたため、極めて狭い視野で観測したためだ。太陽系こそが惑星の理想モデルであり、そのサンプル値から外れる対象は、無いものとして扱われていたからだ。

あるいは、地球で生物が誕生したという主張だ。

深海の熱噴出孔から原生生物が生まれたとする説は、「たまたまそこで生物が見つかったから」に過ぎない。近い将来、大気圏外や別の惑星(エウロパが有力)からも明白な証拠が発見されるだろう。それでも、地球で生命誕生説は支持されるに違いない。

「アナバチの愚かさ」「太陽系という理想」「地球こそが生命誕生の地」―――これらに共通するのは、人こそが最も秀でた存在であり、ヒトが住まうこの場所こそが、宇宙の中で特別な場所である、という認識だ。そして人以外のあらゆる生物は、知性の劣ったものである、という考え方だ。

このバイアスの中心に、キリスト教を中心とした西洋文化があると考える。

地球や生命、宇宙の始まりといった形而上的な問題について、人の考えは、そのバックグラウンドにある文化に影響される傾向がある。「神に選ばれて、キリストが誕生した特別な場所」でなければならない地球は、かつては宇宙の中心とされた。もちろん現代で天動説を信じる人はいないだろうが、太陽系や地球をあるべきモデルとしたがるバイアスは、形を変えて残っている。

かつてヨーロッパにおいて、「世界がなぜこうなっているのか」という問いに対し、キリスト教が答えを示してきた。そしてヨーロッパを中心として進展した自然科学がこれに取って代わり、「世界を説明する役割」を担ってきた。その結果、自然科学がヒトを特別視するバイアスに汚染されているのは必然と言えるだろう。

そして近年の実験や観測は、そうしたバイアスから逃れ出るエビデンスを見つけ出す時代になっている。八百万の神を信じ、付喪神を奉ってきた者からすると今更感があるものの、世界の捉え方が変わってきていると考えると面白い。

生物学的自然主義

意識の哲学に話を戻せば、ホフスタッターやデネットは、ヒトを特別視する時代の人物となるだろう。

一方、本書では、ファインバーグ『意識の進化的起源』やギンズバーグ『動物意識の誕生』、そしてゴドフリー=スミス『タコの心身問題』が取り上げられている。いずれも2010年代の後半に出版されており、最新の研究成果に基づき、人間至上主義のバイアスから離れた「生物にとっての意識の問題」に焦点を当てている。

そこでは、人だけを特別視するのではなく、生物にとって意識を定義する特性は何か?というアプローチを取る。ファインバーグの仮説によるとこうだ。

  • レベル1:全ての生物に当てはまる一般的な生物学的特性(身体化、自己組織化、適応etc…)
  • レベル2:神経系を持つ動物に当てはまる反射(速度、適合性etc…)
  • レベル3:感覚意識を持つ動物に当てはまる神経生物学的特性(階層的行動、表象・心的イメージetc…)

面白いのは、意識というものを徹底的に生物学的な特性として捉えようとする姿勢だ。消化や細胞分裂、酵素の分泌といった生物学的なプロセスと同じように考えている。これは、意識というものを物理学に還元しようとする立場と鋭く対照をなしている。

確かに、森羅万象なんでも素粒子で説明できると言ってる人よりは実り多そうな気がする。また、この仮説だとハナから除外されているが、植物もターゲットに入るかもしれぬ。『植物は知性をもっている』に見出せるように、環境の変化に意思をもって対応し、コミュニケートする植物の進化的起源まで射程に入れると、さらに面白くなるだろう。

意識の「ハード」プロブレム

ただし、こうした感覚器官からの電気的・化学的信号からのアプローチでは、意識のイージープロブレムを浚っていることになる。一人称的な意識まで踏み込むにはどうすればよいか?

クオリアのような主観的な意識は外から判別できないため、文字通りハード(困難)な問題だとされている。

これに対して、状況を見極めてどのような行動をしたかという観点から斬り込んでいる。

感覚器官からの入力に対し、単純に受動的・機械的に反応する生物が生き残る見込みは極めて低い。環境の変化に応じて行動を変えるだけでなく、その行動がどのような結果に至るかを予想したり学習できるかが、生き残りを左右するだろう。

特定の行動を選択する上で、その生物個体にとって、「その行動がどんな価値を持つのか」という評価がついてまわる。この評価に結びついた、一人称的な視点から情報を受け取ることが「意識的な経験」と呼ばれるのではないか、という仮説が立てられている。

主観は外側から直接観測することはできない。だが、ある意識が何らかの目的や価値に照らして取ってきた行動は、適応のプロセスで辿ることができる。意識は適応的な行動選択の土台であるというアプローチで、意識を炙り出そうとする考え方だ。

意識のハードプロブレムについて、「常識」がアップデートされてゆく。その最前線を見る一冊。



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死ぬときに思い出す傑作『イギリス人の患者』

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死ぬときに思い出す小説の一つ。

あれを読めば良かったとか、これがまだ途中だったとか、未練は必ずあるはずだ。どんなに読んでも足りることはないから。そんな後悔の中で、エピソードや描写を思い出し、読んでよかったと言える作品の一つが、『イギリス人の患者』だ。

映画が公開されたときだから、20年以上前に読んだのだが、いま再読しても美しい。詩的で情緒豊かに紡がれる、四人の男女の破壊された人生の物語だ。

あらすじはシンプルだ。

第二次世界大戦の終わり、イタリア北部の半ば廃墟となった修道院が舞台となる。そこで生活を共にするのは、看護婦のハナ、泥棒のカラヴァッジョ、インド人の工兵のキップ、そしてイギリス人の患者となる。人生のわずかな期間にすれ違う男女が、自身の半生を思い出す。

ただし、けっして読みやすい、ストレートなお話ではない。

時系列は無警告で前後するし、エピソードの粒度や解像度はバラバラだ。後になって、作者が計算ずくでやっていることに気づいて舌を巻くのだが、わざとつかみどころのないようにしている。全ての登場人物から距離を置いた書き方で、読み手が、感情移入させないように仕組んでいる。

例えば、家族の死が登場人物に知らされるシーンがある。普通の物語なら、そんな重要なイベントを出すときは、登場人物が知る時と、読者が知るタイミングを合わせる(その方がドラマチックになるから)。

だが本書は、先に読み手に知らせる。読者には事前予告しておき、後に、登場人物に知らせる。読み手は、普通の小説とは異なり、一歩引いて、枠の中の世界を観察するかのように感情を眺めることになる。これに描写の分からなさ感と相まって、「幻想的な」とか「詩的な」と評されている。

これは「合う人にだけ深く刺さり、そうでない人はそれなりにすら楽しめない」と言われるくらい読み手を選ぶ作品だ。再読すると、そのサービス精神の無さを改めて感じる(若書きだからではない。マイケル・オンダーチェが49歳の脂の乗り切った時に書いた3作目だ)。万人ウケする作品ではないのに、映画公開時、テレビや新聞で激賞されていたのを思い出し、なんだかなぁと呟く(映像美が凄まじいので、そこを評価されたのかもしれぬ)。

じゃぁこれ、世界の描写の美しさだけを目指した、表層的な作品かというと、違う。

世界的に権威ある文学賞であるブッカー賞を受賞するだけでなく、ブッカー賞の50周年を記念して、「ブッカー賞の中のブッカー賞」となったのが本作だ。そんな作品が表層をなぞるはずがない。

4人の被写界深度はめちゃくちゃ浅い。だから、体言止めが多用された彼・彼女の心は手で触れられるくらい露わになる。一方、周囲は朧になる。重要イベントは読者にだけ予告されているので、観察よりは窃視するように見て取れる。作者は登場人物が嫌いなのだろうかと、ふと思う(ただし工兵のキップを除く)。

一方、周囲は霧の中のようにかすんでいる。ピントが全然合わないので書割ですらない。このコントラストが強すぎるので、ストーリーとして何が起きているのかつかみにくくなっている。醒めつつある夢の中で自己はハッキリしているのに、周りがぼんやりしている、そんなもどかしさを感じたことはないだろうか。それに似ている。

じゃぁ読み手を煙に巻くような不親切な小説かというと、そうでもない。

タイトルにもなっている、イギリス人の患者がカギになる。

炎上する複葉機から救い出された時には既に全身が燃えさかっており、地上に激突した衝撃で両足は破壊され、身じろぎもままならない。皮下組織まで熱傷を負い、特にひどいのは脛から上で、紫色を通り越して骨だ。

幸いにも喋ることはできる。とはいえ第二次世界大戦の末期だ。エジプトとリビアの間の砂漠で撃墜されたため、当然、スパイとして疑われる。取調官に対し、イギリス人の患者は、十字軍とサラセン人の歴史のこと、フィレンツェの聖母マリアのこと、キプリングの文体のことを並べ立て、煙に巻く。

唯一燃え残った携行品はヘロドトスの『歴史』で、非常に細い文字で詩句警句、観察日記、備忘録が書きこまれているものの、男の身元が分かる情報は一切無い。

一体、この男は誰なのか?というミステリーが、読み手を牽引する要素となる。男の運命を追っていけば、一応、話のスジは追えるようになっている。けれども、ドラマティックな要素は全て過去の中で、いま進行するのは、終わってしまった愛、戦争、欲望、裏切りを振り返るしかない感情に襲われる。

痛み止めのモルヒネで朦朧となって呟くひと言、ふた言に惹かれる。その言葉にお構いなしに、けれども献身的に尽くす看護婦ハナとの絡みが好きだ。

やがて戦線が移動し、より安全な施設へ移動しようということになっても、男とハナの二人だけは残る。そして、廃墟同然の場所でささやかな生活を始める。

男の人生がどんなもので、なぜそんな運命となったかは、後に明らかになるのだが、私はそれよりも、この二人だけの生活の方が好きだ。後に、この生活に加わるカラヴァッジョとキップの半生も心痛むが、物語スタート時点の、戦争に破壊された人生を拾い上げて、それでも生きている限り生活を続けていく態度が好きだ。

私が死ぬときに思い出すシーンの一つは、ここ。

物語にいくら穴があいていても、女は頓着せず、聞いている男への配慮もしない。とばした章の粗筋など語らず、ただ本を持ってきて、「九十六ページ」「百十一ページ」と言って読みはじめる。ページ数だけが位置を示す標識だった。女は患者の両手を取り、持ち上げて匂いをかいだ。まだ病人臭がする。

瓦礫の山で入れない部屋がいくつもあり、階下の図書室には砲撃で穴があき、月の光や雨が自由に入ってきて、年中ずぶ濡れの肘掛け椅子がある。女は図書室に忍び込み、適当な本を取ってきて、男に読み聞かせるシーンだ。

ここから犬の足の裏の臭いの話になり、彼女の父親の話になり……と取り留めもなく過去が紡がれてゆく(どれも好き)。他にも沢山ある。物語の本筋に関わらない、なんてことのない描写なのだが、惹かれる。誰かの思い出や、他人の夢の出来事を共に眺めるような読書になる。

「誰が何しているのかよく分からない」という人には映画をお薦めする。観て聴く芸術だからこそ、被写界深度は深く、何が起きているのかを映(ば)えるように枠内に収めてくれる。(私を含め)泳ぐ人の洞窟のシーンに心撃たれた人も多いが、ここも思い出してしまうだろう。

何もかもが手遅れになって、自分ではどうすることもできず、ただ、終わるのを待つしかない。それでも、生きている限り、生きていることを続けていくしかないし、生きていくということは、(ここで書くのを含め)語り続けていくことなんだと思わせる。

最期は、こういう記憶と共にしたいと思う傑作。

 

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「ミスを罰する」より効果的にミスを減らす『失敗ゼロからの脱却』

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ミスや失敗をなくすため、ヒューマンエラーに厳罰を下すとどうなるか?

一つの事例が、2001年に起きた旅客機のニアミス事故だ。羽田発のJAL907便と、韓国発のJAL958便が駿河湾上空でニアミスを起こしたもの。幸いにも死者は無かったものの、多数の重軽傷者が出ており、一歩間違えれば航空史上最悪の結果を招いた可能性もあった。

事故の原因は航空管制官による「便名の言い間違い」にあるとし、指示をした管制官と訓練生の2名が刑事事件に問われることになる。裁判は最高裁まで行われ、最終的には2名とも有罪となり、失職する。判決文にこうある。

そもそも、被告人両名が航空管制官として緊張感をもって、意識を集中して仕事をしていれば、起こり得なかった事態である

[Wikipedia:日本航空機駿河湾上空ニアミス事故]より

芳賀繁『失敗ゼロからの脱却』は、これに異を唱える。

事故は単一の人間のミスにより発生するのではなく、直接・間接、様々な要因が複合的に関連している。便名の呼び間違えの他に、次のような要因があるという。

  • 管制システムの異常接近警報が出るのが遅れたため、管制指示を出す時間的余裕が短かった
  • 2名は別便への呼びかけに応答がなく気を取られていた上、直前の類似の便名の航空機と交信をしていた
  • 管制官は訓練生に対する訓練実施方法のレクチャーを受けていなかった
  • 907便はTCAS(空中衝突防止システム)の回避指示(上昇)と管制指示(降下)が逆指示になっていたが、この場合どちらに従うべきかは制度上明記されていなかった
  • シートベルト着用サイン消灯直後だったため、非着用、装着不十分な乗客が多数いた

システム上の問題や、制度上の不備、偶発的な不運が重なり、切迫した状況が作り出され、事故に至ったのであり、ヒューマンエラーは原因ではなくむしろ結果なのだという。

正直者がバカを見る

にもかかわらず、因果関係が把握しやすい特定個人にのみ責任を追及するとどうなるか?

被告席に立たされることを回避するため、自分に不利となることには、極力、口をつぐむことになるだろう。不利益な証言を正直に話すほど有罪判決が下される、「正直者がバカを見る」ことになるからだ。

過失をゼロにすることは不可能だ。だが、過失を重大事故に結びつけるリスクを減らすことはできる。そのためにも、当事者を免責にした上で真実を全て語ってもらい、原因究明や再発防止の手立てに役立たせる―――最高裁の判断は、この考えに逆行しているという。

裁判官は一罰百戒のつもりかもしれない。だが、このような人が多くなると、ただでさえぶ厚いマニュアルはさらに厚くなり、インシデントの報告書はさらに増え、安全確認をするための手順はもっと煩雑になる。

いくら対策を積み上げても事故そのものはなくならず、徒労感だけが増す。ミスを報告すると厳しく追及されるのなら、大事に至らないものは自己判断で見逃したりモミ消したりするだろう。

1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300のヒヤリハットがあるというハインリッヒの法則で喩えるならば、この土台の部分が崩されることになる。

[Wikipedia:ハインリッヒの法則]

こうした危機的状況を回避するため、目指すのは「エラーゼロ」ではないというのが本書の主旨だ(エラーゼロからの『脱却』と言っている根拠はここにある)。

安全を再定義する

エラーゼロから脱却するために、まず安全を再定義せよと説く。

今までは、「安全」とは事故やリスクといった「安全でないこと」「うまくいかないこと」が極力少ない状態を指していた。

例えば、原発やワクチンや水道水の安全性について語るとき、ある基準値を定め、その値より低ければ、「安全である」とみなしていた。リスクが許容水準以下であることが、安全だとする考え方だ。

だから、安全を測定するときは、事故の数やトラブルの件数で表すし、安全目標は事故件数やミスの削減になる。

しかし、これは逆じゃない?と問いかけてくる。

「安全である」ことをリスクの反比例で考えるのではなく、「うまくいくこと」の正比例で考えるのだ。

例えば、料理の美味しさを表現するのに、「不味くない度合い」を持ってくるのは変だ。料理の美味しさは「どれくらい美味しいか」で評価するべきだろう。安全についても同様に、ポジティブな面から測定せよと説く。

システムが想定どおり動作し、パフォーマンスが維持され、期待した結果が得られる。環境要因や人為的なミス、あるいは予想外の突発的な事態が起きたとしても、うまく吸収・回避して、仕事は滞りなく行われている状態―――これを「安全」とせよと説く。

この、新しい安全の考え方のことを、「セーフティII」という。

そこでは、「うまくいっていること」から学ぶ。リスクが発現したら対処するといった後手後手ではなく、プロアクティブに予見し、うまくいく方法を増やそうと行動する。人間はミスを犯すトラブルの元ではなく、環境の変化に柔軟に対応するレジリエンスな必要要素とみなす。

そして、セーフティIIの実践をレジリエンスエンジニアリングと呼び、その手法を紹介している。

例えば、レジリエンスエンジニアリングでは、「なぜ事故が起きたか」ではなく「なぜ事故が起きないか」に着目する。

この視点から取り組むのであれば、インシデントが事故につながらなかったことを称賛する姿勢になる。チームの中で素直に意見が言えることや、職位が上の人にも気がねなく発言できる雰囲気が求められる。

心理的安全性が保証された中で、自分の立場や相手の感情に遠慮することなく、「安全=うまくいく状態」に目を向けるようになる。失敗は避けるものというよりも、そこから学ぶものとして扱われる。

エラーを処罰する基準

では、ミスには目をつぶるのか?

ミスや失敗よりも「うまく行くこと」を重視するのであれば、ミスは懲戒されないのか? それでは再発防止にならないのではないか? といいたい方もいるだろう。

本書では、懲戒する/しないの判断基準を示している。

第一の基準としては、「意図的な違反には厳しく、意図しないエラーは寛容に」という原則だ。

うっかりミスの結果として違反したものは除外して、故意の違反は罰するべきだという。勤務中の飲酒、非常ブレーキの無断解除、報告すべき事象をわざと報告しなかったのであれば、それは処罰する必要がある。

第二の基準としては、誠実な勤務態度にある。

誠実に勤務していてもエラーを犯すことがある。そのようなエラーは咎めても仕方ないという。反対に、不誠実な態度、なげやりな作業の中で起きたエラーは責任追及してもよいという。ただし、誠実/不誠実の判定は難しく、後知恵バイアスの影響もあるという。

そして第三の基準は公正性だという。

同じエラーであっても、上司との人間関係や経営者の判断によって処罰されたりされなかったりすると、従業員は疑心暗鬼に陥る。同じ現場の人が「あれで処分されたらたまらない」と思ったり、「あれで処分されないで済むのか」と感じるような判断ではダメだという。

こうした基準はあるものの、実際に起きたエラーへの適用は難しいものがある。

上司にとってNGである行為であっても、現場からすると「仕方がない」ミスというものがある。誠実/不誠実の線引きも難しい。

こういうときは、置換テストをせよという。エラーを犯した当事者と同じ作業分野で、同等の資格と経験を持つ他の人間に置き換えて、「同じ行動をする可能性があるか?」と問うのだ。その答えがYESなら、当事者を非難するべきではない。

また、どこに線を引くかというよりも、誰がその線を引くかが重要だと説く。

過失を定義する際に用いられる、「適切な注意」「十分な慎重さ」「標準的な技量」は極めてあいまいで、許容できる/できないのどちらにも倒すことができる。そこに「客観的な」境界線を引くことは不可能になる。

だから、組織や社会の中で権威を持ち、「境界線を超えた」と言う正当性を持ち、中立的な立場で判断できるのは誰かを考えよという。その判断に至るルールや価値を説明することができ、かつ、判断の合意に至る透明性を持つ存在になる。

ニアミスが起きた原因を、2名の管制官のせいにした最高裁の裁判官は、その判断基準を、「国民の常識」に照らしたそうな。本書を読む限り、この裁判こそが、ヒューマンエラーの事例に見える。



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やり直せない過去は変えてしまえばいい『グレート・ギャッツビー』

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おっさんになって再読すると、違った面が浮かび上がって面白い。

若いころに読んだときは、自己中男の醜さや、頭空っぽの女の美しさが印象的だった。自己陶酔的な語り手に鼻白んだことも覚えている。

だが、いま読み返すと、ギャッツビーのひたむきな愛が眩しく、可愛そうなくらい未熟で愚かに見える。人生を折り返して、やり直したくてもできなくなった親爺からすると、ギャッツビーの愚かしさは、一周回って愛おしいものになる。

ギャッツビーを「愚か」というのは言い過ぎじゃない? そういうツッコミが聞こえる。

貧乏な生まれながら身一つでのし上がって大金持ちになったギャッツビーが、有り余るカネを湯水のように使って夜な夜なパーティを開く―――愚かに見えるかもしれないが、ちゃんと理由があるからで、それを「愚か」と呼ぶのは言い過ぎだろう……というツッコミだ。

しかし、私が「愚か」と感じるのは、そこじゃない。例えば、語り手である「私(ニック)」と話すこのシーンだ。

「デイジーに無理な注文をするのもどうだろうね」と、私はあえて口出しめいたことを言った。「過去を繰り返すことはできない」
「できない?」ギャッツビーには心外のようだ。「できるに決まってるじゃないか!」

ギャッツビーが自分の富を見せつけるのは、デイジーに見てもらうためだ。

まだ金持ちになる前の自分とつきあってくれた過去を思い出してもらい、そこからやり直すためだ。デイジーは好きでもない男と結婚し、子どもまで産まされ、不幸な人生を歩んでいる。ならば彼女を救い出し、あの頃に戻って、もう一度初めから愛し合おうとする。

だけど、過去をやり直すことなんてできるのか?

既に時は流れている。「好きでもない男と結婚」といっても、本当に愛情の欠片もなかったと言えるのか。互いに約束をしたわけでもないし、なにしろ若かった。「あの時はギャッツビーを愛していた」とは言えるが、その後は思い出の中にいた人だ。

そんな人が現れ、「やり直そう」と言ってくれる。しかし、過ぎてしまった過去を無かったことにはできない。決定的なシーンでのデイジーの言葉がこれだ。

「いまのわたしは、あなたを愛してる。それだけじゃだめなの? いまさら過去は変えられないのよ」これだけ言うと、泣きだすしかなかった。「あの人を愛したこともあるの──だけど、あなたも好きだった」

もしギャッツビーが、この当たり前のことに気づけていたなら、あんな酷い結果にはならなかっただろう。だが、ダダっ子のように「過去をやり直せる」と我を張る彼は、幼く愚かしく見える。

おっさんになったから言える。過去に戻ることはできないけれど、過去にまつわる焦点を変えることはできる。過去を見ている「今」に働きかけることによって、昔のことのどこに焦点を当てて、どう感じるかを変えるのだ。

例えば、「いまのわたしは、あなたを愛している」というセリフに焦点を当てる。かつてデイジーに不幸な結婚生活があったとしたら、それを「いまの」幸せを味わうためのエピソードとしてしまえばいい。

思い出は、思い出したときに現実化する。だから、何を思い出すかを「今」選べばいい。この取捨選択を意図的にするかどうかは、現在の心情に左右される。そして、過去を思い出す「今」を積み重ねる時間が、その過去がどんなものだったのかを決めるのだから。

ギャッツビーはこれを知らなかったのは、若さゆえだろう。そして、有り余る富ゆえに目が眩んだからかもしれない。だけど、もう若くもやり直せもしない私からすると、この愚かしさは眩しすぎるのだ。

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スタニスワフ・レム『虚数』とテッド・チャン『あなたの人生の物語』に共通するもの

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共通するテーマは、「人間の科学」だ。

「人間に関する科学」ではなく、「人間の科学」という言い方は、ちょっと奇異に聞こえるかもしれない。

なぜなら、科学とは人間が探求する知識体系であり、探求分野だから。「科学」の一語だけでこと足りる。わざわざ「人間の」と修飾語を付けているということは、人間じゃない存在、人間以上の存在が探求する領域を扱う科学だってあるかもしれない―――「人間の科学」は、そういう可能性を示唆している。

レム『虚数』に収録されている「GOLEM XIV」は、この可能性の先に存在する、非常に高い演算能力を持つAIだ。人間以上の知性を持つ存在が、「科学」を探求したらどうなるか? その結果を人間に対し、講義の形で伝えようとすると、何が語られるか―――を記した講義録が、「GOLEM XIV」になる。

人間が扱える処理能力や情報量は、人間のサイズに収まっている。コンピュータを使ってもいいし、それまで積み上げてきた様々な理論や方程式を用いてもいい。だが、最終的に理解できて扱える範囲は、人間以上にはなれない。

この観点から、ブライアン・グリーンなどのゴリゴリの還元主義者を眺めると、とてもナイーブに見える。彼は「宇宙のあらゆることは粒子の振る舞いで説明できる」なんて言い放つのだが、それを「人間に対して」説明できる「形式」にまで落とし込むのは、人間の科学ではない。

例えば、量子コンピュータを使っても100年かかる情報量と、アインシュタイン並みの天才を100人揃えないと理解できない複雑な科学理論があるとしよう。仮にそんな理論があったとしても、人間が気づくはずがないし、関心の俎上にも上らない。人間を拡張しない限り、現れてこない科学なのだ。

では、人間を拡張すると、どんな科学になるか?

チャン『あなたの人生の物語』に収録されている短編「理解」がまさにそれ。

事故で脳に損傷を負った男が主人公で、ある実験的な薬が投与される。この薬は脳細胞を再生するのみならず、驚異的な速度で知能を向上させる効果があった。男は短期間で並外れた知識と認知能力を得て、人間の知性を超えた存在へと変貌していく。

彼の目に映る「人間の科学」は、タペストリーになる。それも、パターンのあちこちに欠損がある穴だらけのタペストリーだ。男はより広い視野から眺め、見落とされてきた構成図のギャップを埋めることができる。

男にとって「人間の科学」はこう見える。

もっとも明確なパターンを持つのは自然科学。物理学は、基本的な力のレベルのみならず、その外延や含意において見事な統一性を許容する。”光学”だとか”熱力学”だとかの分類はたんなる拘束要因であり、無数の交差部分に物理学者が目を向けるのをさまたげるものだ。

人間のレベルに興味が持てなくなるところなんて、GOLEM XIVと似ている。そんな彼を待ち構える運命は、皮肉としか言い様がない。

もう一つ、『あなたの人生の物語』にある「人類科学の進化」も、同じテーマになる。人間以上の存在からすると、「人間の科学」がどのような位置づけになるかという思考実験だ。

こちらは特殊な遺伝子治療により、知能が発達した超人類(メタヒューマン)が普通に生まれる世界だ。

人間以上の存在を語るSFは多い。だが、この設定の語り方が非常に秀逸だ。わずか数ページの「記事」のように書かれている。

もともとこの短編は、科学雑誌『ネイチャー』用に執筆されたものだという。結果、科学記事風な体裁をとっている。そして、超人類にとって「人間の科学」を扱った学術誌は、おそまつで通俗的な代物になり下がっているというのだ。

一方、超人類の刊行物は膨大な数におよび、人間にとっての科学は、それを翻訳し、解釈する学問になっている。人間の科学者は、独創的な研究を追求するのではなく、文献学者のような存在になる。

さらに面白いことに、超人類たちは、超人類たち同士でのコミュニケーションを図ろうとする。デジタル神経伝達技術を用いるのだが、これは普通の人間には速度も情報量も追いつかない。そして、お察しの通り、超人類は「人間」への関心を失ってゆく。

こうした一連の短編を並べて見ると、科学とは、人間レベルの認知能力や処理能力にカスタマイズされたカッコつきの「科学」になる。そして、人間の肉体やら脳構造の制約をとっぱらったAIが自律的に取り組んでいくならば、それは、「AIの科学」とでも呼ぶものになるだろう。

「AIの科学」と「人間の科学」は、しばらくの間、並走していくだろうが、拡張可能で疲れを知らぬAIが圧倒するのは明白だろう。そのうち、ある部分については、形式的な裏付けがなくとも、AIの科学の結果だけを受け入れるようになるかもしれない(なぜなら、AIの科学が正確な予測を出せるようになったなったとしても、なぜそうなっているかの理解が【人間にとって】複雑すぎるから)。

この場合、人間にとって「AIの科学」は科学というよりも応用するべき技術―――誤解を恐れずに言うなら、A.C.クラークの「十分に発達した科学」になるのかもしれぬ。

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