スピルバーグ『レディ・プレイヤー1』を通じて、物語を面白くする映像技術、共感手法、映像の力を語り合う(追記あり)
物語に夢中になったことはないだろうか?
小説やマンガ、ゲーム、映画や舞台など、素晴らしい作品に出会ったとき、あまりの面白さに、あっという間に時が過ぎる。お話が終わり、我に返った後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気にならないだろうか。
- その物語の「面白さ」はどこから来たのか
- なぜ、自分が、そこを「面白い」と感じたのか
- その「面白さ」は一般化/再現できるのか
こうしたテーマを視野に入れ、古今東西の「面白い」作品について語り合う。これはという作品を取り上げ、物語を作る人、楽しむ人、広める人など、様々な視点から「面白い」について語り合うオンライン会が、「物語の探求」読書会だ(ネオ高等遊民サークルの分室)。
今回は、映画に詳しいどぶ川さんをゲストにお招きして、スティーブン・スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』をテーマに語り合った。面白い物語をどうやって映像にするか? 映像をどう工夫すると、物語が面白くなるのかなど、レクチャーしていただいた。
(以下、『レディ・プレイヤー1』のネタバレがあります)
<目次>
- 『レディ・プレイヤー1』=王道✖最新
- 「おじさん・おばさん」は必要か
- 観客の感情を計算したカメラの位置
- デブの白人がいない理由
- ちょっと不完全な方が、映画は面白くなる
- 人は動いているものをどうしても見てしまう
- ワンカットとは、記録でありドキュメント
- 『レディ・プレイヤー2』の可能性
- オマージュの物語作法
- 敵が強くないのは理由がある
スケザネ:始めますかそろそろ。今回のゲストはどぶ川さんです。
どぶ川:映画だけにどぶ川として名乗らせてもらいます。
ネオ:簡単に自己紹介をお願いします。
どぶ川:元々映画が好きで、若い頃から映画館で働いてて、映画製作とかにも携わっていた時期もありました。ネオさんに映画のことを教えたりとかしてて、そんな中で今回、『レディ・プレイヤー1』について話してくれって言われたので、今回参加しました。
ネオ:『レディ・プレイヤー1』観ろって言ったのもどぶ川さん。彼が働いていた映画館にも何度か足を運んでいたりして、一緒に映画を見に行ったこともあります。
スケザネ:ネオ民のマブダチということで。
ネオ:(笑)そうですね、映画を観る見識は確かなので、本日お越し頂きました。
一同:よろしくお願いします。
ネオ:画面共有のスライドを中心として、どぶ川さんに説明してもらいます。質問、コメントがありましたらチャットでお願いします。皆さん、映画は見ている前提でお話をしましょう。
1. 『レディ・プレイヤー1』=王道✖最新
どぶ川:『レディ・プレイヤー1』の面白さとしては、まずは題材でしょう。SNSのゲームで、たとえば『どうぶつの森』なんかが、レディプレイヤーワンの世界の先駆的なものなんかだと感じてます。
- ゲーム(仮想空間)が現実に介入している。もしかしたら「あるかもしれない」未来
- 「あるかもしれない」と思うことで、感情移入しやすい
- ここをベースにして、世界を救うボーイ・ミーツ・ガールという鉄板の物語を展開している
いったん、「あるかもしれない」とリアリティを感じさせたら成功で、あとは共感とか納得できたら、感情が入りやすい。この世界をつくったあと、超・王道である「世界を救う」「ボーイ・ミーツ・ガール」という、アメリカ映画の超・鉄板をやっている。王道✖最新を掛け合わせている。それが題材としての面白さになる。
だけど、面白い題材と物語をどう撮影するか? どう映像にするか? それが映画なんですよね。だから、画面で何をしているか、どんな人物が、どんなふうに映っているか、それをポイントに話します。
まず、オープニングですね。世界観の説明で、2045年かな、縦に積まれたトレーラーハウスの街並みを映しながら、主人公のモノローグから始まります。
もう、これ自体でワクワクするでしょ、子どもの基地みたいで。この、ハリボテ感が崩れそうでドキドキ感があるから、見ちゃいますよね。子どもが高い所へのぼっていると、もう目を離せなくなる、どうしても見てしまう画面なんです。このオープニングから一気に、感情移入させているんです。
スケザネ:なるほど! このオープニングは凄く引き込まれました。緻密に描かれてて、どんな世界なのか説明できちゃっているので、男の子がごちゃごちゃ言わないで、この映像をクローズアップしてくれているだけで良かったんじゃないかな、と思いながら観てました。
どぶ川:確かにそうかも……なんでスピルバーグがそういう風に「緻密な映像+男の子のモノローグ」にしたのかなと考えると、おそらく、物語に早く入りたかったんじゃないかと。だから一気に説明したのかなと。
スケザネ:すごい説明してましたよね、序盤。
どぶ川:世界の説明は中だるみもするし謎解きでもないから―――謎解きはゲームの中であるからいいでしょって、僕もそこまで細かい設定は覚えていなくて、何となくでいいでしょっていうアメリカの大雑把な感じが出ているんじゃないかと。
2.「おじさん・おばさん」は必要か
スケザネ:でもこれ、結構要素が多いんですよ。主人公の家庭環境とか、おじさんとおばさんが出てきちゃった時点で覚えるところが多い印象でした。
どぶ川:おじさんとおばさん、一応は必要だけど、キーになってはいないですよね。
スケザネ:変にあのおじさん、キャラ立っちゃってて、もっと出てくるのかと思ってたら……ちゃんと死んでて。
ネオ:爆死しましたからね!
一同:www
どぶ川:たいしていい所もなく、死に際の何かもなく、爆死しましたからね。
スケザネ:絶対あのおじさん、後半のアバターの中で再登場すると、俺は信じてましたからね。ホントに死んだんかいって。
どぶ川:もしかしたら、脚本つくる上で色々考えたんだけど、時間やらなにやらで「もういいや!」ってなったのかも。スピルバーグは、そういうところがあって、結構残酷なんですよね、「人」に対して。
Dain:おじさん・おばさんの肩を持つわけじゃないんですけど、「世界を救うボーイミーツガール」という物語を作るうえで、絶対必要な要素―――試練―――というのがあって、それが「おばさんが死ぬ」という出来事だったんじゃないかな。
親代わりのおばさんが死んで、主人公は復讐として立ち上がらなければらない。しかも、おばさんの死をただ起こすだけでなく、何らかのひっかけ、トリックが必要で、それがおじさんだったんじゃないかと。
どぶ川:家庭内のやり取りで、おばさんだけだったら、何となく流しちゃうかもしれないけど、「嫌なおじさん」がいることで、結局爆死はするけれど、盛り上がるんですよね。
スケザネ:あの荒廃とした時代状況で説明がつくんじゃないかと。極端な話、親がいない、どこかの施設の鬱屈した少年でもできたんじゃないかな。で、現実の世界は嫌だ、だから俺はゲームの世界で生きるんだ、というので十分だったと思う派です。
どぶ川:物語の経済性とかも考えてみても、どちらに転んでもおかしくなかったんじゃないかと。スパイスとしてどんな味付けをするかという話じゃないかな。
スケザネ:このお話、舞台立てが違う、世界が違う、さらに主人公はこんな家庭環境です、とバンバン説明しないといけないし、それを(観客が)理解しなければいけない。なので、序盤はすごい大変です。
もし俺がこの物語をするのであれば、受け手側に少しでも情報量の負担を減らしてあげたいなって思うんです。なので、おじさんとおばさんの情報量を減らしてあげたいな、っていうのが一番です。
旅立つ理由として「おばさんの死」は分かるけれど、後半になっておばさんの「お」の字も言わないじゃないですか、「おばさんの仇だ!」とか「みんなの仇だ!」とか。なんで、本当に犬死にだったな。
どぶ川:それが映画の面白さにもなってて。ちょっと前のことをすぐに忘れて、常に「今」だけで「その場」だけで生きていくっていうのが、映画を面白くすることがあるんです。物語を語るものなら小説とかあるんですけれど、映画って不完全なものが面白がられたりするんで、そこが不思議なところなんです。でもやりすぎると情報過多になって、観るほうが付いていけない時も出てきますね。
Dain:この映画を観る人の入りやすさ、「共感」からすると、「トレーラーハウスに住んできた」世代になるんじゃないかと。裕福でない貧しい人々、家庭の事情でおじさん・おばさんに引き取られて暮らしてきた人なのかしらんと思ったり。
今は地面に並べているけど、未来は縦に積み上げられているトレーラーハウスに住んでて、現実逃避したい少年って、「俺じゃん」「俺が昔そうだったじゃん」ってなるのでは。未来の話だけど、今と繋がっているための装置としてのトレーラーハウスとおじさんおばさん。
3.観客の感情を計算したカメラの位置
どぶ川:IOIの社員がゲームやるシーンのあたりとか。スピルバーグの表現の一つとして、「ゲームをやる人の姿」を、引きで、客観的に撮ることで、間抜けに見せています。やってる人は必死だけど、冷めた目でみたら、これでしょって。人の愚かさとかが皮肉めいてて、見てて面白くて、楽しい気分になります。
スケザネ:言われてみれば……! 確かにそうですよね。
どぶ川:これ逆に、カッコよく撮ると、ダサいんですよ。すげーカッコいい俳優さんが、はぁはぁ言いながら、何もないところを空を切ってパンチするって、ダサいんです。
Dain:こんな風にゴーグルかけてやるVRゲームで、”Beat Saber” というのがあるんですけど、その実況を思い出しました。前から飛んでくるブロックを両手のコントローラーで斬っていくんです。で、ゲームの中の映像を見ると大迫力ですげーカッコいい。一方、それをプレイする人そのものを撮って実況しているのを見ると、おっさんが汗だくになってふうふう言いながらやってて、めちゃカッコ悪い。
どぶ川:やっぱカッコよく撮ると、現実とは別物になるから、感情移入しにくくなる。観客に入りやすくするために、最初は「ゲームの外」から「引き」で面白可笑しく撮っている。
逆に最後の方とか、ウェイドがみんなに呼びかけるシーンでは―――ウェイドはイケメンじゃないんですけど(笑)―――ゲーム内のウェイドで撮っている。そこはちゃんとシーンの目的に合わせて使い分けている。
結局、このシーンは物語上どんな位置づけで、どんな感情を呼び起こす目的なのかを考えて、カメラの位置ってものが変わってくるわけですから。
Dain:なるほど! カメラの「位置」なんですね、考えたこともなかった。本人は必死なんだけど、この踊ってるかのように見えるためには、引きで撮るための位置にカメラがあるんですね。これ、アップで撮るとまた別の印象になっちゃうから……
どぶ川:そうですね、これ、後の説明にも出てきます。でもその前に、主人公メンバーの話を……ウェイドといい、その仲間といい、主人公メンバーがイケていない。これがいいんですよ! ギャップがあって。またストーリーに没入しやすくなるって。
スピルバーグって、もちろんイケメンと美女の映画もあるんですけど、そうじゃない人を撮るのがめちゃくちゃ上手くて、僕そっちの方が好きなんです。なぜかというと、美男美女だと映画の邪魔になるんですよ。これが例えば、ディカプリオとかブラピとかジョニーデップなら、もう映画が成立しなくなっちゃう。なんでもない奴らが大活躍する、という。
ゴーグル付けてもカッコいいって、ないでしょ。めちゃくちゃアホな姿です。その辺のキャスティングが上手い。物語の邪魔をせず、「どこにでも居そうな」感がある人が活躍するというのは、共感があって見てて気持ちがいい。
4.デブの白人がいない理由/原作だと「ぽっちゃり」
Dain:ただ一つ、キャスティングに違和感があるんです。これ、「ゲームの世界」をテーマにした映画でしょ。そして、白人、黒人、アジア系、女性など、色々な属性を入れているけど、「デブ」がいない。
僕の中の「ゲームが好きな人」のイメージとして、ピザとかコーラが好きで、コンピューターに詳しいというのがあるんです。確かスピルバーグの作品で『ジュラシック・パーク』の最初に出てくる、エンジニアの人。あの印象が強烈で、ペプシが好きでピザが好きで、めちゃくちゃ太ってたんですよ。
一同:いたいた!
Dain:そいつが恐竜の胚か細胞を盗み出して道に迷って酷い目に遭うところも含めて、「あいつデブだったよな」と覚えてるんです。今のでこれ思い出して、『レディ・プレイヤー1』にデブの白人がいない、ということに違和感があって、ちょっとだけ評価が下がっているんです。ピザとコークが大好きなデブが大活躍する話だったら、手放しで絶賛してたと思う。
スケザネ:言われてみれば……あんまり、メインメンバー以外にも太った人いなかったような……やっぱりあのゲームが身体を動かすから?
どぶ川:一人いました。会社でゲームの研究者の人。ラストでキスしてた。あと、オープニングのボクシングやってるおばちゃんかな。ちょっと太っている。
でもなんで太った人が少ないんだろう……と考えると、やっぱり主人公メンバーって、最後にアクションするんですよね。だからじゃないかと。あと、悪役の会社の社員って、SPとかそういう立場だから、太った体形にしなかったのでは。
スケザネ:「貧しい人たちが現実から逃れるためにゲームをやっている」という設定だと、貧しいが故に、必然的に太れない。会社にいる研究員は、給料も沢山もらえてているから……という説明が付かないかな。
どぶ川:同じこと考えてました。それ、スピルバーグがインタビューで聞かれたときの後付けの答えかなと。僕としての答えは、単なる撮影上の制約で、最後のアクションシーン撮るときに太っていると大変なので外したんだと思います。
Dain:いまチャットで、ゆすもひさんが面白いコメントしてて。原作のウェイドは太ってて、見やすく寄せたことが批判されているってあります。ソースはネット情報なので不確かですが。
どぶ川:ですねー、その辺は映像化する上での印象が大事だから、色々あったんじゃないかなと。
Dain:「アメリカ人でゲーム好き」っていうと、太ってるという印象があるから、どこかで入れないと。
どぶ川:『ジュラシック・パーク』だと、コンピュータに詳しい人で、ほとんど動かない。そんな設定があって、彼のスパイスとして、ペプシとポテチが大好きというキャラクターが生きるんだけど、『レディ・プレイヤー1』に関しては、どこにどういう風に入れるかが、すごく難しい。たぶん、原作のウェイドをまんま映画にしてないんじゃないかな。
スケザネ:エイチとかは、車を運転するだけでアクション少ないし、ゲームだとアイアンジャイアントを動かすとか、ゆっくりどっしりとした動きだから、太ったという属性が生かされるキャラになると思う。
どぶ川:エイチ、僕も現実に出てくるまで太ってると思ってました。
スケザネ:そんな話してたじゃないですか、ゲームとは全然違ってて、現実だと体重〇キロのデブだったらどうする!? ってセリフ。むしろサマンサのビジュアルがどうくるのか、気になってましたね。
どぶ川:何千億とかかけてエンタメのビジネスとしてやるからには、あんまり現実に寄せすぎるのも……
5.ちょっと不完全な方が、映画は面白くなる
どぶ川:逆走するシーン。ここは外せないですね。絶対にクリアできないステージで、謎を解明して、発見する面白さや、ゲームのゲームの中身が見えてる、裏技のような感覚と、「やったぜ!」勢いを表現したスピード感とか。子どもの頃、スーパーマリオで、画面の上を走る感覚が思い出されて、主人公と一緒に必死になってやってて嬉しい気持ちと重なります。
スケザネ:逆走したら勝手にクリアするのかな? と思ったら、「下」を通るんですよね、これはびっくりしました。
どぶ川:恐竜が下から出てくるとき、床がせり上がるようなギミックとかね、ゲームの仕組みが全部見えてる。
ネオ:あれだけ苦労しててクリア不可能だったステージが、楽勝で走れる爽快感というか。
どぶ川:「楽勝感」ってのがいいよね。なんか共犯的な感覚。裏技って悪いことじゃないんだけれど、なんかズルしている感覚というか。生理的に共感できる。そこまで持っていかせるというのは、凄いことなんじゃないかと。
スケザネ:レースの尺って結構長いですよね。一回やって失敗して、もう一回やって、ただただひたすら面白いところ。でも世界の説明のところ、鍵がどうとか、サマンサと会って陰謀だとか詰めに詰め込んでいる。艶っぽいBGMが流れているので、そういう気持ちにさせたいのは分かるけれど、情報量が多すぎてちょっと付いていけてない。自分はシナリオ書く人間なので、観客をどういう気持ちにさせたい脚本なのか気にしながらみちゃうんですけど、ここは早くて感動できないなーと。
どぶ川:職業とか一切忘れて、もう一回観ましょう。
一同:www
スケザネ:観終わってから、これそういう目線で見る映画じゃないやって気づいて……
どぶ川:そうそう。さっき言った、映画ってその辺を中途半端にすることで面白くなるとか、辻褄を語る時間があるんだったら、そこは捨てて次に進んだほうが見てる方としては面白くなったりします。映画って多少不完全な方が面白くなったりするんですよね。
Dain:物語を語るところと、物語を見せるところが、スパっと分かれているのかなと思いました。この世界がどうなっているとか、どんな状況になっているとか、物語を説明するシーンと、ひたすらスペクタクルに魅せるシーンと、きれいに割れているのが、『レディ・プレイヤー1』なのかと。なので、また観る時は、このシーンはどういう「意図」で作られているのだろうという目線で見ちゃいそうな……
スケザネ:そうですね。1回目のときは考えながら観ちゃいましたけど、2回目はもう気にせず、ただただ楽しんで観てました、シャイニングのところとか特に。これだけ映像で見せるシーンで、横でごちゃごちゃ設定を説明したら台無しになってしまう。だから、あいだあいだで説明するしか。ただ、感情移入するには情報が多すぎるので、要素を削ったほうがよいかも……
ネオ:僕なんかは、ただただひたすら面白いと観たんです。一般的には、細かいところの辻褄とかより、このレースシーン「だけ」は皆覚えているんですよね。そしてこの映画が狙っているのはそこでしょう。
どぶ川:でしょうね。世界中の人にみせるものだし、誰が見ても面白いという映画をスピルバーグは目指しているから、こだわるところが違うのかもしれません。
6.人は動いているものをどうしても見てしまう
どぶ川:ウェイドとサマンサのアバターがダンスするシーン。自由なカメラワークで観てて気持ちがいいです。でもこれ、実写でやったら爆笑シーンになりますね。試しにアバターではなく、現実の誰かを当てはめてみると分かります。
この世界観でCGと実写を入り交ぜているからこそ、成立させていますね。
CGだけだと結構飽きるんです。なので実写だとこうなっているとか、飽きさせない工夫をしています。ゲームの中だと自由で、それこそ夢のような動きができるじゃないですか。それを成立させるために、現実の中での動きを考えている。
物語の構造として、ゲームの中での動きと、現実の動きの対比をキワキワで成り立たせている。これが凄いなと。一歩間違えれば、しょぼい作品にもなりかねないので。この対比が、『レディ・プレイヤー1』で一番チャレンジしたところじゃないかなと。
さっきの「物語の説明」シーンの実写のほうも全体的に、人が歩きながら芝居したり、カメラが動いたり、画面自体にアクションがあって観てて気持ちがいいですし、シーンの切り方も絶妙な感じで、何より観てて飽きません。人って、動いていると、どうしても見ちゃうんですよね。自然と見れるようにお芝居をつけて、撮っています。
あと、スピルバーグって、結構特殊なカメラワークをする人で、「今どんな風にカメラ動かしたの!?」というシーンもあって、しかもそこがすごく流麗なんです。
Dain:そのシーンで、「カメラがどこにあるのか?」「それがどう動いたのか?」って、気にせず観てました。次は、カメラの位置を考えながら観ますね。
どぶ川:ダンスのシーンとかで、カメラが360度パンとかしてて、けっこうこれ、めちゃくちゃな動きをしているんですけど、これはもちろんCGだからできるんだよなぁと感心しましたね。
7.ワンカットとは、記録でありドキュメント
どぶ川:次はクルマの中の格闘シーン。まず表情が面白い! でも、ここだけじゃなくって、クルマの中から転げ落ちるんですよね。そして、格闘から転げ落ちるまでワンカットなんですよね。皆さん、ワンカットって言って伝わります?
スケザネ:切らずにそのまま撮り続けるというやつ、画面を切り替えないやつ。
どぶ川:そうですそうです、例えば iPhone で録画するとき、ボタンを押して撮り始めて、次にボタンを押して停止するまで、これがワンカットです。
で、トラックから蹴落とされて地面へ転がり落ちるまで、これをワンカットで撮っているということは、編集でウソがないんですよね。かつ、「人が蹴とばされて落ちて転がる」というのが一つの記録になっているんです。ドキュメントなんです。
僕が映画を見る時に意識しているのは、ワンカットでどこからどこまで撮るかというところなんです。そもそもカメラとは「記録するもの」として生まれているから、ワンカットで撮っているところ=記録、ドキュメントになるんです。
このワンカット、すごいことが起きているんですよ。人が蹴とばされてトラックから落ちて転がってるって。そういう記録なんです。そういうのをスピルバーグは、映像作家として入れてくる。映像の原理主義的なもので、「記録する」という観点から見ると、迫力があるんです、ウソがないから。観客は驚くんです、だって事故ですもの。事故が映っているんです。この顔も事故ですけど。
一同:www
どぶ川:だって映画じゃなくって、事故の映像とかあると見ちゃうでしょ。「世界の衝撃映像」みたいな番組やニュース。画面の力は強いから。だってこれ、こんな風に撮らなくたっていいでしょ。
Dain:その、「すっ飛ばされる一瞬」と、「転がっていく」というシーンを撮って、繋ぎ合わせれば、いわば安全にこの物語を進められるから? でもそうせずに、「飛ばされる→転がっていく」をワンカットで入れることで、これまでフィクションだった世界に、ノンフィクションっぽい迫力が出てくる……これが映像の力というやつ?
どぶ川:見ちゃいますからね、ワンカットだと。危ないとかそういったものはさておき、ここを割る人・割らない人が分かれてくる。で、割らない人の映画のほうが面白いと思う。
スケザネ:これだけ編集技術が進んでいるけど、やっぱりカットして繋げると、違和感とか起こるものなんでしょうか?
どぶ川:いや、違和感とかは残らなくて、昔から編集でできます。でも、割った時点で、カットとカットの間に、小難しく言うと、「見えない」時間が存在するんですよ。なぜなら、カットを割った時点で、時間が止まるから。そうすると、そのアクションというのは記録ではなくなってくるんですよ。
でもここはちゃんとワンカットの事故映像として意識的に撮ることで、迫力が違うんです。ワンカットを意識している監督というのは、映像の、画面の強さに対してすごく敏感になっているんです。そういう監督の映画は面白い。
スケザネ:すごい勉強になります、これ意識してませんでした。
どぶ川:カットを意識してみれば、ちょっと映画の見方が変わってくるかもしれませんね。例えば、スピルバーグの『宇宙戦争』、これも実写とCGを織り交ぜてるんですけど、どこからどこまでがCGなのか、ワンカットで見せてくれて区別がつかない。カット意識して見てるけど、面白すぎて、途中からそんなことどうでもよくなってくる。
一同:www
どぶ川:『宇宙戦争』の最後のシーンのとこなんですけど―――皆さん良いですか、ちょっと触れちゃって。
Dain:どうぞどうぞ。
スケザネ:僕は全然大丈夫です。
どぶ川:『宇宙戦争』の最後のところで、ミサイルがエイリアンに当たるんです。それを引きで撮ってて、ヒューっとミサイルが飛んで行って画面奥の、ちょっとしたビルぐらいの巨大なエイリアンに当たるんです。それが、ワンカットなんですよね。
そのときに、「あ、当たった!」って感じがするんですよ。
これ、もし、「ミサイルを発射する」、「ヒューっと飛んでいく」、「エイリアンに当たる」と3つにしてもいいんです、ウルトラマンの特撮みたいに。でもそうしない。人が撃ったミサイルが飛んで行って、ビルぐらいの怪物に当たるんです。すると、「当たった!」て感じるんです。何気ないシーンなんですけど、いままで全然当たらなかった奴らに、当たったという感じが伝わる。
Dain:youtubeのこの辺? チャットにURL貼りました。映画観てない人はネタバレになるので注意して下さい。エイリアンって、あのトライポッドっていう三本足の奴ですよね。確かにワンカットで撮ってて、「当たった」って感じがします。
(開始2分あたり)
どぶ川:そうですそうです、ここだここ! 実はそれまで、一回も当たらないんですよ。エイリアンのある構造のせいで、今まで全く当たらなかった。ここで初めて当たるんですけど、ほんとこれ、何気ないシーンですけど、ここに拘っている監督は面白いです。
Dain:今のお話で、僕がなぜ、とある twitter の動画を見ちゃうのかな、という謎が解けました。何かというと、バスターキートンとかいう人の、昔のコメディというかアクションの動画なんです。トーキー時代の、音声も何もない白黒映画のシーンなんですけど、見ちゃう。
男の人が線路を走ってて、後ろから列車が追いかけてきて、危ない! って思ったら、ぴょんと飛び移ったり、ビルから飛び降りたりとか、昔の映画なんで合成でもCGもなくて、全部本人がワンカットでやってる。これを見ちゃうのは、ワンカットでやっている、ドキュメンタリーの映像の強さに惹かれているのかな、と思いました。
史上最高のスタントマン──バスター・キートンの物理学
https://wired.jp/2016/12/12/physics-greatest-stuntman/
どぶ川:そうです、キートンの映画は、そういった文脈で語られるんです。マスターニートンとはちょっと違いますね。
一同:www
ネオ:マスターニートンの動画も結構ワンカットで撮ってますねwww カットするのは何かトラブルとか、言えないこと言っちゃったときとかw 記録性ゼロw
どぶ川:で、ワンカットの力の話でオープニングに戻ります。映画が始まって、トレーラーハウスの住宅街の全景が映ってて、カメラが寄っていくんです。いつカットが切り替わるかなと見ていても、ずっと寄っていく。すると、あるトレーラーハウスの一軒から、少年が出てくるんです。いつ切り替えたの!? と思うんです。ぜったい切り替えたはずなんですけど、分かんないですよ。これをワンカットで撮ったスピルバーグって、やっぱ凄いです。画面の強さが一気に出ている。
トレーラーハウスの集合体はCGのはずです、でもそこへカメラが近寄って行って、そこのドアからなんでCGじゃない生身の人間が出てくるの? ってそれをやられたら、こういった世界なんだ、って思っちゃいますもの。ここミニチュアかもしれませんが、それでもどこかで切り替えているはずなのに分からない。これを開始数分でこのワンカットは凄い。スピルバーグって結構こういうことをするんです。
スピルバーグは、一番新しいものを映画の形で作ったな、と思いますね。
8.『レディ・プレイヤー2』の可能性
スケザネ:『レディ・プレイヤー1』2018年の作品ですね。これ、続編とか出るんでしょうかね、『レディ・プレイヤー2』みたいな。でもこれ、なんで、レディ・プレイヤー・「ワン」なんでしょうかね?
Dain:今ふっと思ったのが、昔のゲーセンに置いてあるアーケードゲームですね。英語で「Player One」「Player Two」とかあって、コインを入れると、「Credit」が増えて、スタートボタンを押すと「Ready」となってゲームが始まる。なので、『レディ・プレイヤー1』なんじゃないかな。
スケザネ:なるほど!
Dain:映画の中でコインを一つもらってライフが増えるというのは、あれは「Credit」の意味だったんですね。たぶん若い人はピンとこないかもしれないんですけど、100円入れるとピコーンとかいってクレジットが増えるんです。「コイン=クレジット=ライフ」なんです。ゲーセンに通ってコインをつぎ込んだおっさん向けのネタですね。
なので、『レディ・プレイヤー2』の物語をやろうとするなら、2人プレイの協力型か対戦型か分からないけれど、1人でやる話にならないかもですね。
9.オマージュの物語作法
ネオ:この映画って、パロディとかオマージュの形でいろんな映画やアニメやゲームが入っていますよね。バックトゥザフューチャーとかガンダムとか。ぼくはそれが大好きで、SNSやゲームの世界で、ありものを再現したり、まんがのキャラを自分のアバターにするって、まさに現実にあることをきちんと再現していると思います。自分の車をデロリアンにするとか。でも賛否両論ある。知らないとつまらないとか、内輪ネタになってるとか。そういう部分については皆さんどうお感じでしたか。
スケザネ:「元ネタを知らないと分からない」というシーンを作っちゃいけないでしょう。知らなくても楽しめるけれど、元ネタを知ることで、もっと面白くなるという感じ。続編を作るなら、一作目を見ていなくても最低限楽しめる。けれど、一作目を見ていると、もっと面白い作りにする。
『レディ・プレイヤー1』が秀逸なのは、元ネタを知らなくても大丈夫なように作られていることと、元ネタがストーリーに絡むとき、「元ネタを知らない人」が配置されているところ。
ネオ:『シャイニング』のとことか!
スケザネ:そうそう! あそこで全員が『シャイニングだぜ!』となったらダメで、あれはエイチが「シャイニング! 怖いの嫌いなんだよ」って言ってるのが良いんですね。知らなくても楽しめるし、知ってる人がニヤリとすればいい。
Dain:すごく細かいネタがあちこちにあって、『ターミネーター2』で親指立てて溶鉱炉に沈むシーンがありましたね。それだけじゃなく、細かすぎるかもしれないけれど、『ターミネーター2』で、主人公の男の子を引き取っているおばさんいましたよね? 最初のあたりで頭刺されて死んじゃうおばさん。あのおばさんが着ている服が、『レディ・プレイヤー1』で爆死するおばさんが着ている服と一緒だったんじゃないかな……違ってたらごめん。
スケザネ:それに気づくDainさんも相当変態だとwww
Dain:『バットマン』とか『ストII』とか、分かりやすいネタで楽しんでもいいし、もっと細かい、マニアックなネタもきっと散りばめられているはずで、そういうネタを探しながら観るのも楽しい、宝探しみたいな映画じゃないのかな。
スケザネ:『レディ・プレイヤー1』は、『スターウォーズ』とかメジャータイトルの形で何十年後までも残る映画じゃない、と個人的には思います。でも、数十年後にマニアの間では垂涎の的になる、未来のオタク向けの宝物ですね。
10.敵が強くないのは理由がある
Dain:あと、物語的なところで気になるのがあって。この場は、物語の面白さを探求する会じゃないですか。その観点からして、この映画でちょっと不満に思えるところがあるのです。それは、『レディ・プレイヤー1』は、「敵が強い」というセオリー通りになっていないところ。
物語を面白くするために、敵をとてつもなく強くする必要があります。それを打倒して世界を救うわけですから。なのに、敵のボス弱くね? と思っちゃうんです。簡単に言うと、「パスワードをそんなとこに貼っておくなよ」って。マヌケすぎる。
もっと冷酷無慈悲なやつとか、淡々と仕事するマシーンみたいな奴とか……と考えていくと、そんな「部下」がいたな! と思い出して。ドクロっぽいコスをしてた部下とか、最後にアクションしてた部下とか。たぶん、強さの属性を部下に分け与えたから、ラスボスが弱くなってしまったのかも……
スケザネ:これ、問題は「ボスを2つ設定したこと」かなと思います。結局これって、「カギを見つける謎解き」と、「世界を支配しようとしている敵を倒す」の、2つになっちゃってる。主人公としては、謎を解いて鍵を見つけたいという動機で動いているのに、悪人が邪魔をする。謎を解きつつ悪人を倒さなきゃいけない。
「悪人を倒す」ならガチンコで悪人にすればいいけど、謎を解くための尺が足りないから、パスワード貼り付けるようなマヌケにしないといけない。強すぎたら、倒すために時間が足りなくなる。謎と悪人、詰め込みすぎなんですよね。
もし、「敵を強くする」要素を盛り込みたいんなら、鍵の3つ目を門番とかにして、そいつを強くすればいい。物語を節約できる。
Dain:おお! この物語は2つの目標があったんですね。「謎を解く」と「悪人をやっつける」というゴールで思い出しました。大昔に観たやつで、少年少女が地図を見つけて宝探しをするというのと、宝を奪おうとする悪人をやっつけるのを、同時進行でする映画。
そのタイトルは、『グーニーズ』、たしかスピルバーグが作ったはず。冒険あり、謎解きあり、ロマンスもありました。
スケザネ:なるほど!
どぶ川:①世界を守る②ボーイ・ミーツ・ガールの王道ですからね。「悪人をやっつける」が①世界を守ることで、「謎を解く」が②ボーイ・ミーツ・ガールにつながる。やっぱり身体を張って好きな女の子を守るというので、最後はリアルで戦わなければならない……映画はそういう風にできているのかも……あれほどCG見せて、ラストはまさかの肉弾戦ですからね。そうすると、ボスをあまりに強くすると弊害が出てくる。
スケザネ:現実の世界の中にゲームがあるボーイ・ミーツ・ガール系で行くと、結末ってこうなっちゃうんじゃないんじゃないかな。ゲームの世界で頑張ることと、現実世界でどう生きるかのバランス取るのがとても難しい。ゲームの世界をあんなに頑張って守ったのに、週に2日もゲーム禁止してるんだって……
どぶ川:僕はわりとあのラスト好きですね。皮肉めいたユーモアが効いてて。ゲームばっかりやってないで、現実も大事っていう。ゲームばかりやってた主人公に恋人ができて、現実の良さにも気づいたというのが洒落てて良いですね、映画っぽくて。
100分に渡る長丁場で、どぶ川さん、スケザネさん、ネオさん、そして参加された皆様、ありがとうございました。
何といっても、映画に詳しい方の意見を伺えたのが大きい。自分が観た経験が、また違った角度から光を当てられ、「そうだったのか!!」と気づくのは、たいへん愉快な経験だった。撮影の仕方で、観客の感情が変わってくるところなんて、描写の仕方で読者の感情を揺さぶる小説と通じるものがある。これは、どぶ川さんのおかげ。
そして、物語を作る側の脚本家の方から、この『レディ・プレイヤー1』をレビューするという経験は、大変タメになった。映画を観てて、消化不良になっていたり、「ごちゃごちゃしている」という言語化しにくいフラストレーションの根っこは、物語の情報量の密度だったことが、スケザネさんのレクチャーのおかげだ。
さらに、こうした場を設けていただいたネオ高等遊民さんには感謝しかない。映画愛好家と脚本家のお話がいい感じでクロスして、思いもよらないタメになるお話が伺えたのは、ネオさんのプロデュースのおかげ。
この読書会の後、原作となった『ゲームウォーズ』(アーネスト・クライン)を手にしたのだが、展開が全然違ってて笑った。ウェイドもエイチもサマンサも、めっちゃ太ってた(予想通り!)。
そして、ネタが凝りに凝りっていた。「『卒業白書』でトム・クルーズが持て余してたクリスタルエッグみたいに」とか、「机の上にフォークト=カンプフ検査機があった」など、ページをめくるごとに80年代~00年代のネタがゴロゴロ出てくる。ラストの決戦では、ガンダムやメカゴジラだけでなく、エヴァ(たぶん初号機)や勇者ライディーンまで出すところなんて、おっさんどものツボを知りすぎているなり。
『レディ・プレイヤー1』の映画に「詰め込みすぎ」という印象があったが、原作を読む限り、めちゃめちゃスリムにしていることが分かる。
さらに、原作小説の続編も出ている。もちろんタイトルは、”Ready Player Two” で、「最後のイースターエッグ」を探す展開になりそう。紹介を見る限り、もっと強い敵が登場するだけでなく、人類存亡の危機になるという。
過去の「物語の探求」読書会はこちら。
第1回:面白い物語の「面白さ」はどこから来るのか? 『物語の力』を読み解く
第2回:物語を作る側の視点から『ズートピア』の面白さ、怖さ、凄さを語り尽くす
2021.1.24追記
『レディ・プレイヤー1』のネタを300個紹介する動画を見つけたのでご紹介。
- VRゴーグルを掛けていたのがアタリ社のジョイスティック
- ダンスフロアでの銃撃戦では、『エイリアン2』でリプリーが使ってたアサルトライフルで反撃
- エイチのジャケットには「ロッキー・ホラー・ショー」のワッペンが貼ってある
- ジル・バレンタイン(バイオ・ハザード)、ビートルジュース、フレディ・クルーガー(エルム街の悪夢)など、ホラー系も充実してた
等々、とにかくネタ満載だ。BTTFのデロリアンとか金田のバイクのような分かりやすいやつから、細かすぎて伝わらないものまで、300連発ノンストップで紹介する。
『レディ・プレイヤー1』を視聴された方なら、驚くこと請け合いの動画なり。ちなみに、「おばさんの来ていた服がターミネーター2のおばさんと同じ」というネタは無かったw
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