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ファンタジーだった『聲の形』

 映画観てきた。これは素晴らしいファンタジーだ。

 『聲の形』は、『シン・ゴジラ』『君の名は。』よりも、荒唐無稽だった。前者は「ゴジラ」、後者は「入れ替え」が虚構だが、『聲の形』の"ありえなさ"は、ほぼ全編にわたる。いじめの描写が辛すぎて、原作は1巻しか読んでいない。そのため、この感想は的外れかもしれない。だが、このモヤモヤを溜めると体に悪いので吐き出す。

 『聲の形』は、聴覚障碍者の女の子と、彼女をいじめる主人公とのボーイ・ミーツ・ガールの話だ。彼はいじめたことを後悔し、暗転した人生を送るわけなのだが、数年の時を経て、再び彼女に会いに行く。彼の救われなさが、「×印を付けられた他者」や「水底からのような音声」に表象されており、要所で主観世界がドラスティックに変化するアニメ的な仕掛けは良くできている。特に、「その音を感じているのはどのキャラクターか」によって、わたしの「聴こえ」を使い分けているのが凄い。

 また、「映されなかった描写」が素晴らしい。全7巻を2時間の尺にするため、削らざるを得ないエピソードがあったはずだ。読んでないわたしには想像するしかないが、主人公たちを取り巻く友人や家族の間で、さまざまな軋轢があっただろう。本来なら口も利きたくない相手のはずなのに距離が縮まっていたり、異質な視線や口調によって、シーンの隙間に、「何かあったな」と感じ取ることができる。そこに、映画に映らない葛藤や時間、会話があったことが分かる。そういうまくり方は上手いので、原作を読みたくなる(友達のエピソードがかなり盛り込まれているのではないか)。

 そうした監督の技量は素晴らしいのだが、ストーリーに入るのに苦労した。トラウマレベルで後悔しているとはいえ、会いに行くだろうか? 贖罪の話にしても、そこから先の恋愛になるだろうか? つい親の視線で見てしまうのだが、二度と、顔も、見たくない男が、再び娘にかかわってきたら、母親は、"その対応"だけで済むのだろうか?(映画に描かれていないだけ?)。

 わたしの疑問を見透かしたように、「おまえは、自分を満足させるために、会いにきたのか?」とか「イジメてた奴とトモダチ? 何ソレ? 同情?」「トモダチごっこのつもり?」など、批判・揶揄するキャラが出てくる。言葉のトゲは、グサグサ刺さっているように見えるのだが、きちんと相対するでもなく流れていってしまう。隠れたテーマである「友達とは何か」への返歌が成されているものの、一般論で済まされているように見える。

 触れられるような声や、微妙な距離感が伝わってくるシーンは生々しいが、展開が現実離れしている。唯一、植野直花という女の子がリアルだ。小学生の頃から主人公に密かに恋心を抱き、いじめに加担し、物語の後半ではヒロインと最悪の形で向き合う。もう一度観るとき(または原作を読むとき)は、彼女を中心にしたい。

 ヒロインは耳が不自由なだけで、素直で、芯が強く、優秀で(映画館で配布された小雑誌で知った)、はっとするほどの美少女に描かれている。だれも近づいてこないの? お邪魔虫を追っ払う身内がいたからかもしれないが、他の友達の存在が皆無で、しかもよりによって自分を苛めていた男に(あえて?)向き合うなんて、おかしいだろ……

 次々と浮かんでくる疑問に、考えるのをやめた。これは、「そういうお話」なのだ。聴覚障碍やいじめを入口にした、ボーイ・ミーツ・ガールであって、そこにわたしのリアリティラインを持ち込むべきではない。そう考えると楽になって、あとは楽しめた。これは、ファンタジーなのだ。東京を蹂躙する大怪獣の話や、思春期の男女の心と体が入れ替わるお約束と一緒で、わたしが慣れていないだけなんだ。

 あるいは、映画に描かれなかったエピソードに、その答えがあるのかもしれない。一緒に観てた娘が帰るときに言った「お父さんは現実とアニメの区別がついていない」が刺さる。曰く、背が低くてヘンな頭の男子は出てくるけれど、かわいくない女の子が出てきてはいけない。西宮硝子(しょうこは、ガラスとも読めると教えてくれたのも娘)が、もし可愛い子でなければ、会いに行ったのかな? それは考えてはいけないのかな?

 この疑問に、答えられなかった。原作を読むと分かるのだろうか。Kindleだと第一巻が無料で読めるみたいだが、いじめ描写が相当キツイ(経験ある方にはトラウマを呼び起こすかも)。未読の方は気をつけて。


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コメント

変な言い方だけど、テレビドラマって演者は俳優、スターだからほとんど全員現実にはめったに居ないスゲーイケメン、美人ばかりだけどそれに作中では触れないことになってるでしょ。

物語は作者の創作で、これも現実にはめったに無い話。「ウソ」を「ウソ」人間たちに演じさせて、いわばマイナス×マイナスで創った現実だから、鑑賞者が進んで騙されようって気持ちがないとしらけるだけですよね。

それはアニメでも同じなのかな~?
もっとひどいのかな。
少なくとも俳優の現実の不祥事でしらけることは無いよ。

投稿: 虚構偽造 | 2016.09.20 07:50

感動ポルノになってるかなーと思ったけど、それほど感動ポルノって感じでもないのはよかった。なんか、聴覚障害者がヒロインっていう点で、なんつうか「そういう映画」って思われがちだと思うんですけど、僕のなかでは全然「そういう映画」ではなかったですよ。この映画の主題は「聴覚障害者との付き合い方」とかそんなんでは全然なくて「わかりあうのって難しい」っていうただそれだけの話。そういう物語の登場人物の一人がたまたま聴覚障害者だったんだなーっていう原作に対して思ってた印象が映画でもあんまり変わらなかったのは良かった。俺、このヒロインの西宮硝子を障害者を聖人みたいに描いてやがるとか、天使みたいに描いてやがるっていうスタンスの批評?感想?があんまり好きじゃなくって、そうだ、さっき「登場人物全員に何かしらの問題が」みたいなこと言ってたでしょ、西宮硝子の問題って別に聴覚障害じゃないですからね。植野が言ってるように自分一人が悪いみたいなスタンスで腹を割って話すつもりがない卑怯もんって見解だってよっぽど妥当だと思うし、彼女は彼女の勝手でそうするのがラクだからそうしてたわけで、だから友達なんかだってできるわけなくって、いじめっこが都合よく赦される話みたいに言う人もいるけれど、結局西宮自身もそういうスタンスで生きてたから自分に本当の意味で感心を持ってくれる人なんかずっといなくって、そんななかで自分のことわかろうと努力してくれそうな人がやっとこさ現れたもんだから元々自分をいじめてたとかも全部置いといて飛びついちゃう構われたら好きになっちゃう、それでうまくできなくなったら自分はいらないんだって思って死にたくなっちゃうっていう耳が悪いことはさておいて結構なメンヘラじゃんとか思ってるんですよ。メンヘラが悪いことだとは思わないし、聴覚障害者の苦悩は尊くそれをメンヘラと呼ぶことは許されないとも思わない。だからやっぱ、聴覚障害ってのは掴みではあったかもしれないけど、作品の中の一要素でしかないと思うし、西宮硝子というキャラクターは障害者である以上にひとりの人間として描かれていたんじゃないかな、と思う。

引用ここまで

投稿: | 2016.09.20 08:42

可愛いとか可愛くないで会いに行ったってのはないと自分は思います。
高校生になって小学生の頃を思い出したときにはっきりとクラスメイトの顔を覚えてるでしょうか。
同じ高校に通っているやつならともかく、転校してきて、また転校していった女の子のことを覚えているのか…。ぼんやりと可愛かった程度の記憶で会いに行こうと思うのか、疑問ですね。
それよりはやっぱり主人公の今を形成してしまった『イジメ』という出来事への贖罪の気持ちが強かったと思いたいですね。
結局死ななかったですけど、死のうと思っていたってのもありますし、ずっと心にわだかまりは抱いていたんでしょうね。 

まぁそこはともかくとしても自分もファンタジーだとは思いますね。
自分は「君の名は。」ほどは気になる部分はなかったですけど。そこは人の心の部分なので、納得とかとは別としても自分でいい落としどころを見つけたんだなって思います。

投稿: amuk | 2016.09.20 20:59

自分は原作のファンで映画の方は未視聴(観ようか迷ってる)なのでコメントするのもアレですが…

まずは主さんの疑問と同じく7巻分を映画の尺に抑えるとどうなるんだろうという不安があります。実際どうなっているのだろう。まあ売れっ子監督なら、原作と同じく「描かれない」要素とやらをさらに攻めの姿勢で逆用して上手くまとめているのかもしれませんが…

設定に関しては、リアル風ファンタジー(ファン的にはファンタジー風リアル?)という捉え方で良いと思います。原作ファンなので、皮肉を込めて、ではなく良い意味で笑。私も初見だったら主さんと同じような感想を抱いたかもなと想像してしまいます。
恋愛に関してや、登場人物の自己表現の不器用さに関しても、この作品にも創作物的デフォルメ・ご都合があると感じます。そして、それゆえ生まれた作品テーマの繊細さとのギャップは、良い意味も悪い意味もあるんだろうなと思います(ざっくりでスミマセン)。

想像するに、初見2時間という短い時間・濃い濃度で、形としてしっかりまとめられていると、なんか納得しなきゃいけないようなインセンティブが働いて余計モヤモヤするんじゃないでしょうかね?そう考えると娘さんはなかなか手厳しいように思えますね、「ガラス?何それ美味いの?」って言い返したい感じで笑

「君の名は。」を観て、恋愛モードとレスキューモードの同時進行でモヤモヤした口なので、近頃は悪意の無い初見モヤモヤさんの味方を気取りたい気分にかられています

投稿: 通りすがり2 | 2016.09.21 15:19

通りすがりの原作既読者です。
映画しか見てない人が自分と全く同じ感想を持っていて驚いています。

この物語ってやっぱり虚構なんですよね、作者が伝えたいことを表現するために必要な虚構だとは思いますが。
原作ではDainさんの想像通り、その虚構にリアリティを持たせるための言い訳のようなものが散りばめられています。
でもやっぱりベースは虚構なんです。
そしてそんな中で、唯一リアリティを持ったキャラが植野直花でした。
だから自分はこの作品で植野直花にしか感情移入できなかったし、原作でも映画でも彼女を主人公として見ていました。

でも彼女の視点で見るとこの作品って、悲劇のまんまで終わるんですよ。
表記上の主人公や聴覚障碍者の女の子視点で見ると一定のカタルシスを味わえます。
でも植野直花の視点で見ていると全然それが足りない物語なんです。
エンターテイメントとして成立していない。

自分はDainさんのようにリアリティラインを持ち込む事をやめて楽しむということはできませんでした。
だから自分がこの映画の原作が大嫌いでしたね。

投稿: | 2016.09.21 18:43

様々なご意見ありがとうございます。以下の反響もいただいています。

http://b.hatena.ne.jp/entry/dain.cocolog-nifty.com/myblog/2016/09/post-3791.html

http://blogos.com/article/191081/forum/

この記事への反響から得られた気付きのうち、最も大きいのは「時間」ですな。

「いじめた男に惚れる女」という、骨子かつ荒唐無稽なストーリーラインを、飲み込めるか否かがポイント。できる人は、ラブストーリーの文法に正しく則った物語として、救済とか贖罪とか交流に読み替えて楽しめる。できない人は、障碍者・トラウマ・いじめネタでのたうつ(経験がある人・感度が高い人には、辛い作品になってしまう)。

いったん、ファンタジーをカッコ「」でくくれば飲み込めるが、これ、カッコでくくれるの? というのがモヤモヤするところ。カッコでくくれば「良い映画」なのだが、「善い映画」ではないため、くくることに抵抗を感じる。

ただし、数年間という時をかけて飲み込むのであれば、また違うのかも。いくら作中では5年が流れていても、受け入れる側が「そういうもの」とみなすには「5年経ったというシーン」では難しいのかも。連載は2年かけて、映画は2時間という、受け入れる側の尺がある。この尺と感情があわないと、「そういうもの」と見なすことすら困難になるのだろうね(あるいは、どんなに時間をかけても癒えない傷がある)。


投稿: Dain | 2016.09.24 09:24

ファンタジーなのはそうなのだろうけど、原作を読めば解決しそうな疑問もあるので、原作を読んでほしいね。

投稿: | 2016.09.25 19:00

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