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筒井康隆が『百年の孤独』を読んだら絶対に読めと命令形でお薦めしたガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』はどこまで笑っていいグロテスクなのか分からないバケモノみたいな傑作だった

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ホラー映画の紹介で「犬は無事です」といったキャプションがつくことがある。

怖い映画を見たいけれど、(たとえフィクションでも)犬が死ぬのを見るのは忍びない人に向けた配慮がなされる時代となった。同様に、惨たらしく子どもが殺されるような作品は、「悪趣味」だとか「下品」といった批判の的となり、厳しくゾーニングされる。

そういう配慮に慣れ親しみつつある身としては、ガルシア=マルケス『族長の秋』には頭ガツンとやられた。犬は死ぬし、子どもは助からない。50年前に世に出たからなのか、ラテンアメリカの腐敗国家を、配慮も容赦も踏みにじるように描いている。

治らない男色を恥じて自ら尻穴にダイナマイトを詰めてはらわたを吹っ飛ばす将軍。スコットランドから運ばれた60匹の狩猟犬に生きながら食い殺される母子。香辛料をたっぷりかけてオーブンでこんがり焼き上げられ、銀のトレイに横たえられた大臣。宝くじの不正に加担した子ども2千人の口封じにやったことなど、どこまで笑っていいグロテスクなのか分からない

奇妙なのはその語り口だ。

物語の中心には、カリブ海にある独裁国家の大統領がいるのだが、彼には名前が無い。無限の権力を持ち、何十年にも渡って国家を支配し続ける暴君であり、政敵を排除し、権力を保持するために残虐極まりない手段を用いる。

この大統領のエピソードについて語るとき、まず「われわれ」という語り手が設定される。この「われわれ」とは誰なのか?恐怖政治に怯える国民としても読めるし、粛清に怯える大統領の側近でもありだし、ずっと後世の人とすることだってできる。だが、「われわれ」が誰なのか、最終的に明かされることはない。

その語りの中に「わたし」が交じりだす。事件の目撃者としてなのか、「われわれ」よりも近距離で報告しはじめる。さらに「わし」「おれたち」という一人称が登場する(原文の使い分けに忠実に訳していると思われる)。そこへ突然、「おふくろ」「閣下」という呼びかけが説明抜きで入ってきて、読みにくいことおびただしい。

一文が長文で句読点が極端に少ない上に、会話を区切るカッコ「」は存在せず、全てが地の文に飲み込まれているのはコーマック・マッカーシーと同じだが、複数の一人称、複数の呼びかけが多重的に入り混じるポリフォニーは、ドストエフスキーを思い起こさせる(登場人物全員が、一斉にしゃべりだす、あの感覚だ)。

ラテアメ文学の十八番であるマジックリアリズムも健在だが、現実と幻想を混ぜすぎている。残虐描写がドン引きするほど極端なので、風刺的にカリカチュアライズされた現実なのか、文学的な効果を狙った幻想なのか、分からなくなる。

筒井康隆が、『百年の孤独』を読んだら『族長の秋』を読め(命令形)と書いていたので、何も考えずに読んだのだが、読み終えた今なら分かる。ガルシア=マルケスの魅力は本作で爆発している。現実の暴力を描こうとすると、死者数といった数字にしかならぬ。どれほど残虐なことがなされたかを伝えるなら、こんなハチャメチャな物語にする他ないのだ。

とうてい万人には勧められないが、『百年の孤独』を読んだ方には是非お薦めしたい怪作。



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