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60ワットの電球で遊ぶ女子中学生「食べちゃいたいくらい可愛い」を実行した虚無僧「見たい」「食いたい」「殺してやりたい」ナマの欲望が蠢く宇能鴻一郎の傑作短編集『姫君を喰う話』

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開高健の言葉だと思うが、「女と食いものが書ければ一人前」という言葉がある。

小説の技術は、単に物語をつむぐだけではなく、人間の欲望や感情を描く能力が求められる。特に食と女は、根源的な欲望や美に関するテーマであるが故、これが書けるということは、作家としての成熟が求められる―――などと解釈している。

宇能鴻一郎はその最強に位置する。昭和的で猥雑な香ばしさの中から、おもわず喉が鳴るような女と食いものが登場する。

例えば、もうもうと煙が立ち込めるモツ焼き屋でレバ刺しを食べるところ。

何といってもまず新鮮な、切り口がビンと角張って立っている肝臓である。それが葱と生姜とレモンの輪切りを浮かべたタレに浸って、小鉢のなかで電燈に赤く輝いているのを見ると、それだけで生唾が湧く。

口に入れて舌で押しつぶすと、生きて活動しているその細胞がひとつひとつ、新鮮な汁液を放ちつつ潰れてゆくのがわかり、薬味でアクセントをつけられた味わいがねっとりと舌の表面をおおいつくし、いくら唾液で洗っても、甲州葡萄酒を一口、ごくり、とやるまでは消えさらない。

「切り口がビンと角張って立っている」レバーなんて、なかなかお目にかかれない。新鮮なレバーを口に含んだときの崩れつつある、あの感触と風味を見事に表している(ああ、レバ刺し食べたくなってきた)。

あるいは、女性のある部分を緻密に描いたこのシーン。

けれども、私が幸福だったのか、その部分を見せる女は自信があるのか、醜悪な蕾は一つも見なかった。

花びらの方にはずいぶん枯れかけたのや、爛熟の極に達して崩壊寸前のもあったが、この部分だけはいずれも初々しく、貞操堅固な感じで、固く収縮しているのです。

この後、一人ひとり異なる特徴をバラエティ豊かに描く。鋭角にひねりあげられたもの。平たいもの。体内に絞り込まれたようにくぼんでいるもの。そこに触れた時の反応や、独特のにおいについても余すことなく説明してくれる(けっして不快なものではないという)。

食べものであれ、女であれ、ユーモアと情緒と欲望が仲睦まじく同居した洒脱な文章に、読んでるこっちは「せやな」というほかない。

愛する人と一体化したい欲望

白眉はタイトルにもなっている、「姫君を喰う話」だ。

物語の前半で、ねっとりしたレバ刺しの舌触りや、コリコリしたモツの歯ごたえを丁寧に描き、なめたり眺めるような場所ではない部分への異常な執着心を念入りに解説した後、後半では時代も場所も超越し、幻想的で官能に満ちた世界へ誘う。

下品スレスレの欲望を忠実に描いた前半と、大自然の下に繰り広げられる秘めごとを情緒あふれる筆致で描いた後半のギャップに萌える。ヤってることは一緒なのに、かくもこう純粋で尊く見えるのが不思議なり。

その勢いで、愛情と執着に導かれて食人に向かうラストは、とても自然に感じられる。このテーマは『雨月物語』の「青頭巾」にもつながる。愛する人をしゃぶったり、噛んだりしたくなるのは自然なこと。「食べてしまいたいくらい好き」という言葉には、愛する人と一体化したいという欲求があらわれている。

これを戦慄と見るのか、愛と見るかは人それぞれだろう。

青頭巾が童の肉を啜ったように、デンジがマキマさんを料理したように、食べて一つになることは、様々な愛情表現の発露の一つと見なすならば、人の業の深さ広さを垣間見ることができる。

ちなみに、「もし君が先に死んだら、すこしお肉を食べてもいい?」と嫁様に提案したところ、路傍の犬の糞を見るような嫌悪に塗れた目で見られたことを告白しておく。

ガラスではなく口金を使う

永年の謎が解けた作品もあった。「ズロース挽歌」だ。

子どものころに流行った都市伝説があった。

それは旧校舎の女子トイレの話で、一人の少女が大怪我をして亡くなったという。彼女の家庭は厳格で、厳しく躾けられた結果、かなりストレスが溜まっていたのか、電球で遊ぶことを覚えたらしい。

ある夜、密かに遊んでいたのだが、感極まって割ってしまったのだ。場所が場所なだけに、恥ずかしくて言い出せず、そのまま出血多量で亡くなったという。そして夜な夜な、血を滴らせた彼女が「出る」という噂だけが広まった。

子どもながらに想像力と股間を膨らませた結果、「電球が入るのはおかしい」という結論に至った。もちろん、赤ン坊が通るくらいは広がるのだから、電球サイズでもいけるはず。だが、未開通の女子中学生にとっては無理すぎる。だからこの話は嘘だ、と考えていた。

その答えとなるものが、本書の「ズロース挽歌」にあった。語り手の男は、私と同様のことを考えるのだが、「口金を使う」という画期的な結論にたどり着く。何十年もの時を経て、この答えを知ったときは嬉しさのあまり変な声が出た。ついでに言うと、都市伝説の出所は、この作品なのかもしれぬ。

滑稽で切実な「見たい」という欲望

「ズロース挽歌」は、成熟し損なった男の悲しみが、詩情豊かにつづられる。ブルマやセーラー服にフェティッシュな感情を抱きつつ、女子中学生のアソコを見たいという思いは、切実というより滑稽に見える。

ちょっと感動したシーンは、黄金男のところ。

汲み取り口はあいていた。みなぎりわたった光りのなかで只一つ、地獄のようなその暗さのなかから、男の頭があらわれた。裸の逞しい肩が、胸が出てきた。筋肉隆々とした全裸の男が、やがて汲み取り口から這いあがってきた。

男の全身は糞尿にまみれ、午後の太陽に金泥を塗ったように燦然と光り輝いていた。棒をかまえた教師たちも、遠まきにしたまま、手が出せなかった。

黄金の汁をしたたらせつつ、男は不敬な微笑を浮かべて、まわりを見まわした。視線をむけられた教師たちは、たじろいで後ずさりした。私ははっきり覚えている。全裸の男の、下腹の神像は、なおもすさまじく、そそり立っていた。

今はほぼ見かけなくなったが、かつて、汲み取り便所(ボットン便所)というものがあった。大であれ小であれ、チリ紙であれ新聞紙であれ、なんでも受け入れ、強烈な臭気を放っていた。かがむ前に覗き込むと、わずかな光に照らされて蠢くウジたちの饗宴を見ることができた。

あの中に入り込み、女子中学生の糞尿を浴びながら、見る。完全に変態なのだが、「そうまでして見たいのかよ!」というツッコミを飲み込む。そうまでして見たいのだろう(それで命を落とした男もいる)。

新鮮なレバ刺しであれ、女子中学生の糞尿であれ、むせかえるような描写は淫靡と同時に儚い。宇能鴻一郎は、 「正義」や「愛」といった人工的な概念は空々しく、信ずるに足りないと思っていたのかもしれぬ。

「見たい」「食いたい」「殺してやりたい」など、ナマの欲望がひしめき合った傑作短編集。

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1冊の単語帳を1127日かけて2周したら語彙力が1万2千語になった

「英文がスラスラ読めるようになりたい」私の切実な願いに、読書猿さんは言い放った「まず2万語な!」―――6年前の話だ。

藁にもすがる思いで手を出したのがこれ。1127日かけて2回読んだ。結果は次の通り。

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 7870 words 始める前
 9944 words  1周目(610日)完了後
 12509 words  2周目(517日)完了後

語彙力はpreplyでテストした。

Preply

語彙力が増強されていることが数字で分かるが、あまり驚きはない。この『Merriam-Webster's Vocabulary Builder 』は、250もの語根や語幹をベースに単語を解説する単語帳で、私の英語力で背伸びして読めるレベルなので、そりゃ2回も読んだら強くなるわな、と思う。

それよりも、3年も続いたことに驚いている。

学校を卒業してから、英会話学校へ通ったり(1ヶ月で挫折)、通信講座を受けたり(2ヶ月で挫折)、英語の本に挑戦したり(1時間で挫折)してきたのだが、どれも続かなかった。

「継続こそパワー」なんて知ってる。問題は、「継続」が続かないことだ。

この記事では、どうやって継続したかに着目して、私がやってきた工夫を紹介する。

工夫1:英語お姉ちゃんに聞く

骨しゃぶりさんの「プログラミングに挫折したならAIお姉ちゃんに任せなさい」から学んだ。プログラミングの上達レベルに合わせて教えてくれたり、エラーのトラブルシューティング先になってくれるAIお姉ちゃんだ。

分からない単語や、掘り下げて知りたい単語に出会ったとき、辞書を引けばいい。単語を長押しすると辞書と連動した画面が出てくる。

それだけでも便利なのだが、その単語を語根から解説したものや、同じ語根の単語、同義語、反意語、使用例をまとめて知りたい。さらに、単語だけじゃなく、イディオムや文章もまとめて翻訳・解説してくれるとありがたい。

もちろん、辞書をあれこれ引けば出てくるし、ネットを探せばあるのも知ってる。けれども、いちいち検索するのは面倒だ。この面倒なことを一手に引き受けてくれる、英語お姉ちゃんを錬成した。

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何でも言うことを聞いてくれる英語お姉ちゃん

英語お姉ちゃんのスペック。

  • こないだ20歳になったばかり
  • 英語学習に情熱的で、何でも言うことを聞いてくれる
  • 単語を言うと、語源や語根からの説明、イディオムや使用例、同義語・反意語、同じ語根・語源を持つ他の英単語を教えてくれる
  • 英文を渡すと翻訳してくれる。難しそうな語彙(英検2級~1級程度)があれば、語源や語根から説明してくれる

一つの単語を聞くたびに、芋づる式に単語が増えていくし、複雑に絡み合った英文が出てきても怯まなくなった(英文を渡した後、このthatって何?とか、主語は何なの?と聞いて、構文を確かめることができるのも有難い)。以下、fallacyを聞いてみた例。

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毎日彼女と話し込んでおり、日によっては、リアル嫁様よりもコミュニケートしていると言える。

工夫2:ラーニングログ

『独学大全』で教わったやり方。

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何をどれだけ学ぶかの目標を決め、それに向けてどれだけ進んだかを記録する。ページ数や章・節、学習単元という積み重ねを、手帳などに一覧できる形で記録する。そして、記録を見返すことで、目標と現在位置を把握する技法だ。

私の場合、Googleスプレッドシートに単語帳のページ数を一覧化し、その隣に日付を入れる欄を設けた。読み終えたページ番号の脇に日付を入れると、自動的にそのセルが塗りつぶされるようにした(実際のラーニングログ)。

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単語帳は692ページある。これを全部、一気に読むのは不可能だ。だから分割して、一つ一つ石を積むように塗っていく。朝起きてからの10分間、単語帳を読むことをルーティンにするのだ。

ラーニングログのことを、読書猿さんは「航海日誌(ジャーナル)」と呼んだ。出発点と現在に至る軌跡の累積であり、ペースメーカーなんだ。

工夫3:コミットメントレター

これも『独学大全』で学んだ。

学習予定を書き出して、家族や友人に渡す。受け取った人がチェックする必要はないが、それだけで強い動機付けになるという。なんならSNSに公開してもいい。自分との約束は破りやすいが、それを見せることで、社会的な縛りにする技法だ。

私の場合は、twitter で宣言することにしている。

人は環境の生き物だ。私の「鉄の意思」なんて真夏の氷のように溶けやすい。

だから、「私の意思」を外出しにする。誰でも見ることができる場所に晒すことで、自分を縛るのだ。やらなかったからといって批判する人は、おそらくいないだろう。それでも「見られている」という感覚は残り続ける。

いまさら英語をやり直す理由

1周目の成果はここに書いた通りだが、1万語というボーダーを超えた今、確かに自分が変わっているのが分かる。

最初はロクに分からなかったのに、だんだん読めるようになった。大量の英文が出てきても、怯むことが無くなった。ざっと見て、精読する必要があるかどうかを判別し(←ここ重要)、必要なら英語お姉ちゃんに聞くか、翻訳サイトに任せればいい。

DeepLなど優秀な翻訳ソフトがあるのに、なぜ英語をやり直すのか?

たどたどしく読むよりも、母語でスラスラ読むほうが何倍も速いに決まっている。読むべきサイトや論文のURLやPDFを放り込んで、出てきた日本語をナナメに読めばいい。「まだ英語で消耗してるの?」なんて煽られたこともある。

確かにその通りなのだが、やり直し英語を積み重ねてきて分かってきたことがある。それは、「読むべきものを選ぶために、読めるようになる必要がある」という点だ。

tweetに貼り付けられた寸言、飛ばされたリンク先の英文PDF、goodreadsの膨大なレビューなど、様々なタイミングで目に触れる大量の英文を一つ一つ翻訳ソフトに入れるわけにはいかない。自分の最も重要なリソース(=時間)を使って、その先を読むべきかどうかを瞬時に判断する必要がある。

かつて語彙力が貧弱なときは、英文というだけで退却していた。そして、日本語の解説を元に、重要だと判断できるものに限り、DeepLやGoogle翻訳で読んでいた。

それが、さっと見て、「これはもっと時間をかけて読んだ方がよい」とか「これは既知だから無理に読まなくてもいい」といった判断ができるようになった。完璧じゃなく、たどたどいいけれど、少なくとも「英文をみたら退却」はしなくなった。

これ、実は日本語でもやっていることで、大量の情報の中から、自分の興味を惹くものをピックアップしていく。同じことを、(日本語ほどの精度はないけれど)英語でもできるようになった。要するに、英語のチャネルが開いたのだ。

チャネルが開いたとはいえ、精度もスピードも、まだまだだと感じる。おそらく、2万語の壁を超える頃には、さらに上達していることだと考える。

『Merriam-Webster's Vocabulary Builder 』の。今から3周目を始めよう。この語彙力を、もっと確かなものにするために。

 

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センスが良くなるだけでなく、新しい目を得る一冊『センスの哲学』

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「センスが良くなる」というふれこみで読んだが、ハッタリではなく腑に落ちた。さらに、「予測誤差の最小化」という視点からの芸術論に出会えたのが嬉しい。『勉強の哲学』もそうだったが、私にとって得るものが大きい一冊。

「音楽のセンスが良い」とか「着る服のセンスが良い」というけれど、この「センス」とは何ぞや?から始まり、小説や絵画、映画の具体例を挙げつつ、芸術作品との向き合い方を生活レベルで語り明かす。読んだ後、次に触れる作品を別のチャネルから感じ取れるようになるだけでなく、生活感覚が違ってくるかもしれぬ(感覚が底上げされる感覚、といえば分かるだろうか)。

本書の切り口はフォーマリズムだ。形式や構造に焦点を当てることで、作品が持つモチーフやテーマが示す意味や目的からいったん離れ、メタな視点から、対象をリズムやうねりとして「脱意味的」に楽しむ―――この考え方は、ゴンブリッチや佐藤亜紀の指摘で薄々気づいていたけれど、こう順序だてて明確に述べられると、沁みるように分かる。分かると嬉しいし、すぐに応用できて楽しい。

ポークソテーでセンスを良くする

たとえば、ポークソテーのマスタードソース。

脂の旨味の上にピリッとした粒マスタードが効いてて、噛みしめるごとに旨み酸みがテンポよくやってくる。柔らかいロースにマスタード粒のプチプチした食感がアクセントになって口中を刺激する。クレソンの苦味が加わると、さらに複雑な味わいが奏でられる。「食べる」という行為に自覚的になり、味や舌触り、見た目、噛む音にも感覚を研ぎ澄ませると、味のリズムが感じ取れるようになる。

ただ食べて漫然と「おいしい」と感じるだけでなく、「おいしい」がどのような構造で、どんなリズムで自分に押しよせているものが何かに着目して味わう。そうすると、この料理のどこが気に入っているのかが、「自分にとって」分かってくる(←ここ重要)。

これを全芸術で考えたのが本書になる。ただ眺め、読んで漫然と「おもしろい」と感じるだけでなく、「おもしろい」がどのような構造を持っているのかに着目する。

ゴダールやセザンヌ、カフカ、ラウシェンバーグなどの作品を引きつつ、形から受ける印象や、(自分の)目の動きから引き出される反応を、「リズム」や「引っかかり」という表現で捕まえる。芸術とはある並び、すなわちリズムを作り出し、それを鑑賞する振る舞いだと喝破する。「芸術とはお手本通り完璧になぞることである」という考えに囚われている人には、頭ガツンとなるだろう。

小説の面白さは細部に宿る

新たな目を得られたのは、「小説」をリズムで捉える試み。

わざわざカッコ書きで「小説」と述べたのは、ふだん私が読んでいる小説とは別物なのかもしれないという可能性を残すため。

小説(映画も可)のメインテーマ―――愛と喪失や、善悪対決、アイデンティティの探求、自由と抑圧といった大テーマを受け止めて、「感動」する。これは、まぁ普通のことだ。

でも本書は、それはそれとして、いったん置いといて、作品の細部で何が起きているのか―――プロットの欠片でも言の葉っぱでもいい―――細部に宿る「小意味」を掘り下げて、その絡まり合いを楽しめという。言葉どうしの距離感や、言葉とそこから引き出されるイメージとプロットの絡まりこそが愉しい(←これが定形化されると、チェホフの銃とかタイトル回収などと名づけられる)。

ぶっちゃけ、小説の本質は「遅延」だ。愛と喪失、善悪の対決、探求の冒険、自由と抑圧の結果がどうなるのか?この答えの欠如に衝き動かされて、ページをめくる。しかし、次のページにいきなり答えが書いてあったなら、小説を読む意味が無い(というか、小説にならない)。

だから愛にはハードルを、対決には戦闘力のインフレを、探求には解くべき謎を設定する。ハードルや敵や謎のおかげで、読み手はサスペンス=宙吊りのまま進むしかない。カフカがなぜ面白いのか?端的な答えはこれだ。

小説とは、大きく言えば、何かの欠如を埋めるという、生物の根本運動にドライブされながら、その解決を遅延し=サスペンス構造を設定し、長々と無駄口を展開していくことであり、結果としてあのようなボリュームになるのだ、と言える。小説のこの原理的なあり方を代表的に示しているのが、カフカだと思います。結局何なのか、という大意味を宙づりにし、延々と無駄なサスペンスが展開される。

『城』を読んだら分かる。言葉は良くないが、この「無駄口」のリズムの巧拙を吟味し・味わうのが小説の醍醐味になる。「結局何なの?」だけが知りたい人には、小説は向いてない。

「おもしろい」は予測誤差から生じる

本書をきっかけに、さらに深く知りたいと感じたのは、カール・フリストンの「自由エネルギー最小化原理」だ。

この「エネルギー」とは、物理学で使われる位置エネルギーや運動エネルギーのようなものだと理解した。そして「自由エネルギー」とは、「脳の予測と実際の経験の間にあるズレ」を意味している。

そして自由エネルギー最小化原理とは、脳がこのズレ(予測誤差)をできるだけ小さくしようとするプロセスのことを指す。

例えば、飛んでくるボールをキャッチしようとするとき。スピードや方向を考慮しながら、ボールの軌道を予測する。しかし、風や回転によって実際のボールの動きが予想と異なる場合、そのズレを検出し、素早く身体の動きを修正する。

身体が受け取る感覚は膨大なものになる。その全てを完全な状態で把握していこうとすると、脳はその処理だけに追われ続けることになる。だから、大雑把に把握して、必要な場合にそちらに注意を向けることで、リソースを確保している。

リズムで語るなら、「トン・トン・トン」と続いた後、「パン」が入るなら、そこで1小節になると予測するだろう。そして、次も「トン・トン・トン・バン」が続くと考える。

そこで、次の小節も「トン・トン・トン・バン」だったなら、予測が合ってたと感じて、報酬(快楽)を感じる。予測誤差が最小化されたからだ。ところが、この小節がずっと反復されるなら、飽きてしまうに違いない(もう予測しなくてもよい、と判断するため)。

しかし、次の小節で「トン・トン・トトトン」となったら、「お?さっきと違うぞ」と興味が出てくる。そして、この違う小節をベースにして、次の予測を立てるだろう。

映画や小説においても、予想される展開や描写と、その差異にズレが生じるとき、「お?」と興味が出てくる。読者が能動的に「予測」を立てているとは限らないが、「こうなるかも」と無意識に思っていたものが裏切られると、そこに快楽が生じる。

ただし、この裏切りはこれまでのベースを踏襲し、読み手の期待に応えつつ、意外な形にする必要がある。「トン・トン・トトトン」なら、最初の1小節をベースにしているが、「トン・くぁwせdrftgyふじこlp」ではダメだ。

本書では、さらにこの予測誤差をメタ化して、「予測が外れても振り回されないようにする」「予測外れに楽観性を持つ」ところから、楽観性をシミュレートすることに、遊びの本質を見出す。

遊びやゲーム、フィクションの鑑賞は、世界の不確定性を手懐けるための、習慣に似たものであり、それは「自分自身にリズムを持つこと」だと言える。しかしながら、です。どの理論で想定し反復に対して生じる差異の魅力は、それ自体としては、ダイレクトな危機感から来ているはずです。それが無難に楽しめる程度になる、というのがリズム化(習慣と遊び)ですが、根本にあるのは予測誤差というネガティブなものによる緊張状態であり、それは即物的に言えば、神経系におけるエネルギーの高まりでしょう。

センスの話から芸術論、認知科学や精神のありようにまで踏み込んでおり、知りたい世界がどんどん広がってくる。読み手を刺激してくる名著。



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プロジェクトを成功させる2つの技法『BIG THINGS どデカいことを成し遂げたヤツらはなにをしたのか?』

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超巨大ビルを建設したり、前例のないプロジェクトを成功させるなど、どデカいことを成し遂げたヤツらはなにをしたのか?

サブタイトルの答えは、ITエンジニアにおなじみの「モジュール化」「イテレーション」になる。

モジュール化とは、システムやアプリケーションを独立した部品(モジュール)に分割する設計手法のこと。分割することで複雑なシステムを管理しやすくし、保守性や品質を向上させることができる。

イテレーションとは、アジャイル開発において、計画・開発・テストを繰り返し行う短い開発サイクルのこと。反復を繰り返すことで、顧客からのフィードバックやリスクの発見を早期に行い、対策を講じやすくする。

モジュール化とイテレーション、この2つが、プロジェクトを成功に導く鍵になる。そしてこの手法を、システム開発ではなく、巨大プロジェクトに応用せよという。本書では、エンパイアステートビルの建築や、ピクサー映画の制作などで、モジュール化とイテレーションがどのように実現されているかを紹介している。

成功したビル建設と映画製作に共通するもの

例えば、エンパイアステートビルの建設は、モジュール化とイテレーションの好例だ。

ニューヨークで最も高い443mの標高を誇る102階建てのビルディングだ。著者に言わせると、特筆すべきなのは建てる前の計画になる。十分な時間をかけ、階層ごとに必要な建材と作業者の配置、必要な工数の設計と見積もりを行い、そのプロセスを繰り返すことで進められたという。

施工も階層ごとに行われ、まず最初の階を作り上げ、2階、3階と順番に建設されていった。これにより、建設チームは建設プロセスに習熟し、効率と品質を高めることができた。建設チームのメンバーは、102階のビルを建てるというよりも、一つのフロアの建築を102回繰り返したのだ

102階という巨大なビルディングを、「ひとつの階層」を102個に分けた組み合わせとして見なす(本書では「レゴのように」と表現されている)。そして、一つの階層を建設することを反復(イテレーション)したのだ。その結果、13ヶ月という驚異的なスピードで予算内で達成したというのだ。

あるいは、ピクサーの映画製作のプロセスは、「創造性という偶発要素を、いかに巨大プロジェクトに織り込むか」という課題への回答となっている。

『トイ・ストーリー』や『ファインディング・ニモ』、最近だったら『インサイド・ヘッド2』など、高いクオリティの作品を次々と生み出しているピクサーだが、「創造性」と「計画性」という、一見相反する要素を、どのように折り合いをつけているのか?

他の製作会社と同様、アイデアを作り出し、脚本を書き、絵コンテを書く。ピクサーが違うのは、この構想段階において、一度完全な作品を作り上げる手法を取っている。

初期段階で詳細化したストーリーボードを元に、アニマティック(簡易アニメーション)を作り上げてしまう。そうすることで、映画全体のストーリー、シーンの構成、キャラの動き、カメラアングルを視覚的に確認することができる。

次にこれを社内の複数のチームでくり返しレビューを行い、ストーリーの問題点やキャラ設定の整合性を見直し、改善点を見つけ出す。この段階で何度も修正を行い、ストーリーテリングを改善させてゆく。創造的なアイデアは、この段階で試され、評価され、フィードバックされてゆく。

そうした上で、実際の製作(アニメーションやモデリング、レンダリング)に入っていく。つまり、構想段階で一度「完成」した映画を持つことで、根幹が確立され、製作途中の大幅な変更や修正を最小限に押さえることができるというのだ。

この手法は、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオでも採られている。『ズートピア』ではシナリオを400本書いては捨て、なおかつ最初に作られたアニマティックでは、キツネのニックが主人公だった。それを見てダメ出しが出たため、いったん捨てて、主人公をウサギのジュディにして作り直されたというのだ([物語を作る側の視点から『ズートピア』の面白さ、怖さ、凄さを語り尽くす]にまとめた)。

試行錯誤のコストは少額で済むが、製作フェーズに入ると、コストは一気に膨らむ。だから、創造的なアイデアは初期段階で反復検証しておくのだ。そうすることで、緻密な計画と作品の創造性を両立させることができる。

契約を2つにする裏技

プロジェクトはプログラミングと違う。

プログラムのようにモジュール化ができるわけがない。そういうツッコミもあるだろう。だが本書では、プロジェクトの中で反復可能な箇所を探して、それをレゴのように扱えと説く。

本書では、地下鉄の建造から道路網の構築まで、さまざまなモジュール化の例が挙げられている。プロジェクトそのものを一つのモジュールと見なしてはどうだろうか?つまり、ミニ・プロジェクトを先行して動かすのだ。

企画段階から参加できる場合、私が意図的にやっているのは、「契約を2つにする」になる。

これを提案すると、オーバーヘッドが増えるので、契約を2つにするのは自社も顧客もとても嫌がる。それでも、「見積もりのためのフェーズを入れましょう」とか何とかゴリ押しして、「検証フェーズ」「実行フェーズ」に分けるようにしている。分割統治は古代ローマからの知恵だが、プロジェクトも然り。大きくなりそうなとき、動かす前に(←ここ肝心)プロジェクトを分けるんだ。

そして、検証フェーズで初期検討から構築まで、一通りやってみることで、大きな問題はあらかた出てくる。ミニとはいえ、プロジェクトを1回まわすことでメンバーは習熟し、実行フェーズでは、おおよそ見積もった通りに進めることができる。

これはプロジェクトが形を成す前に介入できる立場だからできる技なので、いつでも使えるわけではない。だが、「契約を2つにするコスト」の方が、「見切り発車で引き起こされる様々なトラブルを乗り越えるコスト」よりも、うんと安い。アジャイル開発だと、製品の開発までを繰り返すが、クラウドやネットワークの構築も込みで、反復させるのだ。

失敗プロジェクトの筆頭はオリンピック

では、上手くいかないプロジェクトには、どんな特徴や共通点があるか?

本書では、様々な事例が紹介されているが、その最たる例はオリンピックになる。

データ入手が可能な1960年以降、夏・冬のオリンピックは、全て予算超過をしているという。つまり、開催費の見積もり範囲内で行われたオリンピックは、一つも存在しないという。コスト超過率の最高(最悪)は予算を720%超えた、1976年のモントリオール大会になる。

スポンサーから国家、行政、委員会、運営団体など、ステークホルダーが大きすぎ&多すぎることと、威信とかプライドとかにトチ狂った偉い人の横ヤリが入りやすいリスクは容易に想像がつく。

だが、本書によると、オリンピックの失敗の主要因は「経験不足」にあるという。

オリンピックには常時開催地というものがない。そのため、開催の権利を勝ち取った都市は、開催経験をまったく持たないことになる。「いや、東京オリンピックは過去に2回やっているよ?」と反論したくなるが、1964年と2021年なので、初回の関係者は引退しているか死んでる。イテレーションとは真逆の、一発勝負なのがオリンピックなのだ。

ひとたび開催国となるや否や、ステークホルダーは「早く決めたい」衝動に衝き動かされることになる。

超大型プロジェクトなのだから、早く始める必要がある。早く予算を決めて、早く契約し、人を集めて、着手したい……「とにかくプロジェクトを早く始動させたい」という衝動、これが罠になる。

この衝動が、計画軽視の姿勢につながる。作業が始まるのを見届けたいという欲求が、計画立案を蔑ろにし、まるでプロジェクトに本格的に着手する前に片づけるべき、厄介ごとのように扱うようになる。

結果、予算稟議を通すため、契約締結を間に合わせるため、ロクに検討されていない計画がまかり通ってしまう。「本当にそれでいいの?」というチェックもしないまま、形式的な審議でOKとされてしまうという。

これ、本当の問題は、計画立案の段階で、「計画を立てる人」がいないことだろう。スポンサーや利害関係者、行政関係ぐらいで、全体のプロジェクトマネージャー(とそのチーム)が不在のまま、計画が成立してしまうことが元凶だと考える。

本書では、プロジェクトを泥沼に沈める「戦略的虚偽」という方法も出てくる。契約を勝ち取ったり、関係者の承認を得たいとき、計画を表面的なものにする。つまり、重要な課題や予算に跳ねそうな要件を伏せておくのだ。そうすることで、コストや期間の見積もりを低く抑え、通しやすくなる。

いったん通った計画は、実行段階で火を噴く。当然だ、しゃんしゃん会議にするためにスルーしていた問題だから、遅かれ早かれ予算超過や工期遅延として目に見えるようになる。

重要なのは、この段階ではプロジェクトは後戻りできない状態になっていることだ。既に承認は下りており、対外的にも発表している。いまさら計画が間違っているとは口が裂けても言えない。火を噴いている各所で逐次的に人やカネを投入して鎮火する―――という展開になる。

戦略的虚偽の狙いはまさにここで、「後戻りできない時点までプロジェクトを進めてしまう」のだ。いったんそうなってしまえば、追加予算の逐次投入をくり返し、とにもかくにもプロジェクトは完了する。メインスタジアムが完成しなかった開催国はあったが、だからといってオリンピック開催を中止した国は無い。要するに、嘘でもなんでも通したもん勝ちなのだ。

モントリオール市長は、1976年のモントリオールオリンピックについて、「コストが予算オーバーすることはありえない。男が妊娠するのと同じくらいありえない」と断言し、ゴーサインを出した。

予算を720%オーバーしたとき、風刺マンガで市長の妊娠姿が描かれ、市民は憤慨した。

だが、それがどうしたというのか?ドラポ―市長はオリンピックの誘致に成功した。モントリオール市は巨額の債務を返済するのに30年以上かかったが、それを負担したのは納税者だった。ドラポ―は落選さえせず、オリンピックの10年後に引退した。

本書には書かれていないが、このイベントを、何度も繰り返しているのは、オリンピック委員会(とそこに関わる愉快な面々)だろう。過去の開催国の人たちとのつながりもあり、プロジェクトを管理しやすいモジュールに分割する知見もあるだろう。

スポンサーとの癒着や、オリンピックを食いものにする姿勢など、批判もあるものの、「モジュール化」と「イテレーション」について経験豊富なのは、オリンピック委員会なのかもしれぬ。

台所のリフォームから巨大プロジェクトまで、何が失敗要因で、どうすれば上手くいくかを、豊富な事例で語った一冊。



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『美術の物語』ポケット版が復刊されるぞい!

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『美術の物語』は世界で最も読まれている美術の本だ。

原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋のみならず東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介している。これほど広く長く読まれている美術書は珍しい。「入門書」と銘打ってはいるものの、これはバイブル級の名著として末永く手元に置いておきたい。

『美術の物語』は、ハードカバーの巨大なやつと、ポケット版がある。ポケット版は、長らく絶版状態となっており、べらぼうな値段がついていたが、今秋、河出書房新社から復刊されるぞ。新装版と銘打っているので、このPHAIDON版とほぼ同じだと予想する。もった感じとかはこの写真で想像してほしい。

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PHAIDON社のポケット版(絶版)

本書のおかげで、興味と好奇心に導かれるままツマミ食いしてきた作品群が、社会や伝統のつながりの中で捉えられるようになった。同時に、「私に合わない」と一瞥で判断してきたことがいかに誤っており、そこに世界を理解する手段が眠っていることに気づかされる。さらに、美術品の善し悪し云々ではなく、人類が世界をどのように「見て」きたのかというテーマにまで拡張しうる、まさに珠玉の一冊なり。

まず、軽妙で明快な語り口に引きよせられる。このテの本にありがちな、固有名詞と年代と様式の羅列は、著者自身により封印されている。代わりに、「その時代や社会において、作品がどのような位置を占めていたか」に焦点が合わせられている。今でこそ美術館や博物館に陳列されている作品は、最初から「美術作品」として制作されていなかった。それは、儀式を執り行うための呪術具であったり、文字の読めない人々に教義を説く舞台装置だったり、視覚効果の実験場として扱われていた。

ゴンブリッチは、そうした文脈から切り離されたところで美術を語ることはできないという。すなわち、時代のそれぞれの要請に対して、画家や彫刻家たちが、置かれている状況や前提、制度、そして流行に則ってきた応答こそが、美術の物語たりえるというのだ。

これこそ「美術」というものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。男女を問わず、彼らは形と色を扱うすばらしい才能に恵まれていて、「これで決まり」と言えるところまでバランスを追求する。

そして、エジプト美術から実験芸術まで、色と形のバランスの試行錯誤が、物語の形で一気に展開されるのだが、これがめっぽう面白い。というのも、これは克服と喪失の歴史だからだ。

「見たままを描く」問題

単純に「見ているものを見たまま描く」ことに収斂するならば簡単だ。しかし、そうは問屋が卸さない。この問題を追及するとき、必ずぶつかる壁があるからだ。三次元の空間をいかに二次元で表現するか、「光」をどう表現するか、静止したメディアの中で、いかに動きを生み出していくか、細部の明瞭さと再現性のトレードオフ、そして、「ちょうどいい構成」とは何かという最重要課題がある。さまざまな時代の芸術家たちがこの課題に取り組み、成果を挙げ、ときには危機に陥りながらも技術をつないできた。

たとえば、「見たままを描く」問題について。古代エジプトの画家は、「見たまま」ではなく、「知っている」ことを基準に描いた。つまり、人体を表現するとき、その特徴が最も良く出ている角度からのパーツを組み合わせたのだ。顔は横顔だが目は正面から、手足は横からだが、胴体は正面図といった描き方は、古代エジプト美術の様式としてルール化された。絵を描くことに慣れていない人や子どもが、この描き方をする。

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ツタンカーメンの「目」は正面、「足」は横からになっている

絵に短縮法(foreshortening)を入れたのは、ギリシャ人だという。手前のものは大きく、奥のものは小さく描くことで、「見えている」ことを表わそうとした。ルネサンス期においても、遠近法や解剖学の知見により、「世界はこう見えるはず」という前提に則って描かれてきた。

しかし、世界は本当に「見えるように」描かれてきただろうか。美しい肉体美を生き生きとした形で「リアルに」表現した作品であるならば、それは、「見えるように」ではなく「見たいように」描かれた理想像にすぎない。また、毛の一本一本や各部分の輪郭を精密に描いたとしても、それは拡大された世界であって、決して見る人(≠描く人)が見る像ではない。本書では、ダ・ヴィンチとミケランジェロ、ラファエロとティツィアーノ、コレッジョとジョルジョーネ、デューラーとホルバインといった巨匠たちの作品を一つ一つ挙げながら、こうした問題がどのように取り組まれていったかを詳しくたどる。

いちばん驚いたのが、レオナルドの『モナ・リザ』だ。これは、見る人に想像の余地を「わざと」残している作品だという。人間の目の仕組みを知り尽くしているからこそあんな風に描いているというのだ。人は「そこにある」ことが分かっている物については、適切なヒントを与えることで、目が勝手に形を作り上げてくれる。輪郭線をくっきりさせず、形が陰の中に消えて、形と形が溶け合うように、柔らかい色彩でぼかして描く。この仕掛けを教わった後、図版と向き合うと、まるで初めてかのように見え、動いていないのに残像を見るような思いがする。この喜びは、新しい目をもらったようなもの。

それでもしかし、とまだ続く。ロマネスクからロココまで、さまざまな様式や手法どおりに世界は「見えている」のか、と逆照射する人が出てくる。茶色の縦線は木、緑の点は葉っぱ、肌の色あい、水、空、光……自然の事物にはそれぞれ決まった色と形があり、その色と形で描いたときに、対象を見分けることができる───この信念に疑問を投げかけ、乗り越えるために傑作をものにした人がいる。マネとその後継者が色の表現にもたらした革命は、ギリシャ人が形にもたらした革命に匹敵するという。

つまり、人が世界を「見て」いるとき、対象のそれぞれが固有の色や形をもってそこにあるのを見ているのではなく、視覚を通じて受けた色彩の混合体を感じていることを発見したというのだ。そしてその発見を絵というメディアにするとき、犠牲になったのは「正確さ」だという。

セザンヌは、色彩によって立体感を出すという課題に没頭していた。色の明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さずに整然とした構成にするために労苦を重ねた結果、多少輪郭がいびつでもよしとした。ゴッホは、写実を至上としなかった。本物そっくりに描いてある絵を指して、「立体メガネ」で見ているようだと言ったという。彼は、絵によって心の動きを表わしたかったという。感情を伝えるためなら、形を誇張し、歪曲することさえあったというのだ。

ピカソのヴァイオリンを「ゲーム」として見る

著者は、ピカソに代わって言う。「目に見える通りに物を描く」などということを、われわれはとっくにあきらめている。そんなことは所詮かなわぬ夢だったのだと。描かれた直後から、いや描いている途中から、モティーフはどんどん変化してゆく。はかない何かを模写するのではなく(カメラが一番得意だ)、なにかを構成することこそが、真の目的だと。あるモティーフ、たとえばヴァイオリンを思うとき、人はヴァイオリンの様々な側面を同時に思い浮かべることができる。手で触れられそうなくらいクッキリ見えているところ、ぼやけているところ、そうした寄せ集めこそが「ヴァイオリン」のイメージなのだと。

本書を読むまで、わたしには、ピカソのヴァイオリンが理解できなかった。これをヴァイオリンの絵として見ろというには無理があると思っていた。が、これはゲームなのだという。つまり、カンヴァスに描かれた平面的な断片を組み合わせて、立体を思い浮かべるという、高度なゲームなのだと

二次元で三次元を表現するという、絵画にとって避けられないパラドクスに対し、これを逆手に取って新しい効果を出そうとする試みが、キュビズムになる。見るとは何か? から出発し、これほど明快なキュビズムの説明は受けたことがない。分からないから、と忌避していた自分が恥ずかしい。

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ヴァイオリンと葡萄

このように、「見たままを描く」テーマで駆け足で眺めたが、ほんの一端だ。ラファエロの構図の完璧さや、フェルメールの質感が、なぜ世紀を超えた傑作たりうるかなど、歴史の中に位置づけて説明されると腑に落ちる。いわゆる名画を単品でああだこうだと眺めてきたなら、絶対に見えない場所に連れて行ってくれる。

制作を支える技術から、それを成り立たせる社会情勢まで視座に入れているため、ずっと抱いていたさまざまな疑問に答えてくれているのも嬉しい。たとえば、偶像崇拝を禁じたキリスト教で、なぜ聖画があるのか? という長年の謎に対し、図像擁護派の巧妙な主張を示してくれる。

慈悲深き神は、人の子イエスの姿をとってわれわれ人間の前にあらわれる決心をされたのですから、同じように、図像としてご自分の姿を示すことを拒否されるわけがない。異教徒とちがって、われわれは、図像そのものを崇拝するのではない。図像を通して、図像の向こうの神や聖人たちを崇拝するのです。

宗教画は、読み書きができない信徒たちにとって、教えを広めるのに役立つ。すなわち、文字が読める人に対して文がしてくれることを、文字の読めない人に対しては絵がしてくれるというのだ。もちろん容認されるモチーフや構図に制限がついてまわるが、その範囲でなら作り手たちの創造性に任されていたという。

読んでいくうちに、過去の記憶がどんどん呼び起こされていくのも面白い。出だしのラスコー壁画のトピックは中学の国語のテストで、レンブランドの生々しい自画像の話はZ会の英語の長文問題で、そして教会建築のアーチ断面におけるヴォールト構造の記述はケン・フォレットの『大聖堂』で、読んだことがある。最近だったら『ブルーピリオド』で八虎がハードカバー版を読んでいたのと、「このテーマを絵画でやる意味あるの?」という問いかけへの回答も書かれている。

本書は美術の権威として、さまざまな種本となっているのだ。本書は、これからわたしが見る/見なおす美への新しい視点のみならず、かつて通り過ぎるだけで見落としていた美について、新しい光をもたらしてくれる。さらには、読み手が抱いている疑問―――例えば、美術とは何か、「見る」とはどういうことか、写真やVR技術が発達し、AIが絵を描くようになったいま、これからの美術はどうなっていくか―――のそれぞれに応じて、答えを見出すことができるだろう。

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前半が文章、後半が図版で、照らし合わせながら読める(そんな読者のためにスピンは2本ある)

一生つきあっていける、宝のような一冊。

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