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人を惹きつけ、自分のことを好きにさせる技術『人蕩し術』

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「蕩し」という言葉がある。

「たらし」と読む。巧みな言葉や行動で、相手の心を魅了し、自分のことを好きにさせてしまうことを意味する。甘言を用いて女性を誘惑する「女たらし」という言葉もある。

『人蕩し術』は、ターゲットが人になる。自分を好きにさせる原理と実践が書いてある。「思いのままにヒトを虜(とりこ)にする」という宣伝文句がちょっとアヤしいが、中身といえば、まっとうというか王道そのもの。

企業や社会で成功する人には、共通したところがあるという。それは、「自分の周りに良い味方がいる」という点だ。本書は、豊臣秀吉や本田宗一郎の例を挙げ、人心の機微を察して魅了する「人蕩し術」に秀でたものこそが、成功のカギだという。

確かにその通りかもしれぬ。周囲を見回してみると、出世する人や成功する人は、人望が篤く、社内外の強力なネットワークがある人ばかりだ。もちろん「仕事ができる」は必須だが、そこからさらに上に行ける人は、何かしらの魅力(オーラ?)のようなものがある。

この「人を惹きつける力」というものは何か?それはどうしたら身に着くのか?

魅力は与えることで生まれる

答えはシンプルだ。

魅は与によって生じ求によって滅す

「人を惹きつける魅力は、相手に与えることによって生まれ、相手に求めると無くなる」という意味になる。例えば、タダでお金を配る人がいたら、その人の所に人は集まってくるだろう。そんなウマい話はあるはずないし、「魅力」と呼ぶのに抵抗はあるものの、人は集まる。

しかし、お金はいずれ無くなってしまう。だいたい豊臣秀吉や本田宗一郎はたたき上げの人で、配るような大金は持っていなかったはずだ。

では、配るようなお金を持っていない庶民は、何を渡せばよいのか?

本書では、人の本能的な衝動である「自己生存」「群居衝動」「自己重要感」から考える。どんな人であれ、次の3つの欲求があるという。

  1. 自己生存:生きていきたい
  2. 群居衝動:コミュニティの中に居たい
  3. 自己重要感:自分を重要だと感じたい

最初の「自己生存」を満たすのはお金だ。お金があれば衣食住を賄うことができる。お金を配る人に人が集まるのは、自己生存を満たすから。これはお金持ちしかできないやり方だ。

配るほどのお金を持っていない庶民は、「群居衝動」と「自己重要感」を満たすものを相手に渡せという。

人は社会的動物であり、一人では生きられない。友人、学校、会社、町内会から、スポーツチームのサポーター、趣味の集まりなど、常に何らかのグループをつくり、その中に居ることで安らぎを見出す。

しかし、世の多くの人たちは、この群居衝動をうまく充足できずに悩んでいるという。他人との接触において、ある種の気まずさや違和感のようなものが生じて、安らぐことが難しいというのだ。

そして、群居衝動をうまく満たすのが、自己重要感になる。グループの中で、自分が重要だという気持ちを満足させてあげればよい、というのだ。本書では言及されていないが、いわゆる「承認欲求」の強化版だと理解した。「ここにいてもいい」「あなたを受け入れる」という承認だけではなく、「あなたこそが必要だ」「あなたにここに居て欲しい」という強い表明だ。

相手の自己重要感を満たす

本書では、項羽と劉邦の例を挙げている。

美丈夫で、武芸と智謀に優れた項羽と、胴長短足でヤクザの親分上がりである劉邦、古代中国で覇を競った対照的な二人だ。二者が戦えば、項羽は百勝し、劉邦は百敗したというから、武将としてどちらが優秀かは、火を見るよりも明らかだ。

しかし、どちらが生き残ったかは歴史の示す通り。両者の違いは何か?劉邦は人心を魅了する一方で、項羽は人心を離反させたという。無教育であることを自覚している劉邦は、訪れた遊説者の言葉に耳を傾け、必要とあらば師として遇したという。対する項羽は自らの才覚に頼み、傲慢な態度を持って臨んだという。結果、優秀な人は項羽から離れ、劉邦に付き従ったというのだ。

劉邦の「相手を立て、相手の言うことに真摯に耳を傾ける」、これこそが食客たちの自己重要感を満たす行為になる。自分のことを理解し、評価してくれる人のためには、命を惜しまないことを、「士は己れを知る者のために死す」という(司馬遷のはず)。

多かれ少なかれ、人は誰しもプライドを持っている。このプライドを大事にしてくれる人がいたならば、その人に惹きつけられるのは当然だろう。

さらに、自己重要感を満たす例として、田中角栄を挙げている。最終学歴は小学校で、叩き上げで総理大臣にまで昇りつめた。人の名前を覚える名人で、議員全員の顔と名前はもちろん、主な官僚たちの名前、出身校、入省年次まで把握しており、事あるごとに名前で呼びかけていたという。

「金脈政治の権化だからカネとコネの力だろ?」とツッコミたくなるが、「自分のことを下の名前で呼んでくれる」のは、なかなか魅力的だと思う。というのも、私自身、似たような経験があったから。

年齢は一つ下で、めちゃめちゃ仕事ができる後輩がいた。ン十年前、少し一緒に仕事をしただけで、あれよあれよと出世して、取締役に収まっている。そんな彼とたまたまオンラインで同席したとき、「〇〇さん、お久しぶりです」と下の名前で呼ばれたのには驚いた。他の人は苗字で呼び捨てなのに、私にだけ「さん」だったので、くすぐったくて面はゆい気持ちになった。

この他にも、相手の自己重要感を満たす方法が紹介されている。「あいさつと笑顔と話しかけはセットで」「愛語施(お世辞)の使いどころ」など、知っておいて損はない技術だ。

多くの人は、自己重要感でもって自分のプライドを守っている。だから、プライドを高めてくれた人には心からの友情を抱き、反対に、自分のプライドを低めた人には強い憎しみを覚える。

出会う人が味方になるか敵になるかは、「相手のプライドをどう扱うか」の一点にかかっている。

天上天下唯我独尊のススメ

しかし、である。

やみくもに相手を立て、おべんちゃらを使い、傾聴する。お金はかからないものの、虚しくなったり疲れやしないだろうか。

そうならないよう、本書では、まず自らを愛せ、と説き、本田宗一郎の「自惚れのすすめ」を紹介する。曰く、

まず自画自賛をしろ。人間というのは「オレはダメだ」と本当に思ったら、もうどうしようもない。鼻もちならない。うぬぼれがないと、他人にも けっして惚れてもらえないものだ。「自惚れもやめれば他に惚れ手なし」だ。

つまり、相手の自己重要感を満足させる前に、自分自身の自己重要感を満足させることが肝要だという。自分のプライドは自分で満足させるのだ。

その方法として、自己暗示を紹介する。目を閉じて深呼吸をして、「自分は優れた人間である」「自分は価値のある人物だ」などと呪文のように自分に言い聞かせる(お薦めは、天上天下唯我独尊だそうな)。

自分が目にするもの、耳に聞こえ、鼻でかぎ、舌で味わうあらゆるものを尊いと感じろという。そういう自分が最高の存在だと、たとえフリでもいいので呟けという。そうやって自分を好きになることで、他人に魅力を分け与える余裕が生まれるというのだ。

ただし、重要なのは、自分の内のみに留めよと釘を刺す。自分の中のプライドは、決して外に示すなと説く。なぜなら、誰かのプライドを誇示されるのは、誰だって嫌だから。自分の内にのみ、自画自賛をするのだ。

「人蕩し術」まとめ

自分のプライドは自分で面倒を見て、相手のプライドを高めるために何を渡せるかを考える。

具体的には、相手のことに耳を傾け、相手のことを理解し、誉めるポイントを衝く。挨拶と笑顔と話題の提供は先手必勝で、常に相手の自己重要感を満足させることを気遣う。お金は配れないけれど、気遣いは無料だ。

そうすることで味方を増やし、敵を作らないようにしていく。「人蕩し」というと怪しそうな文言だが、まっとうなことを言っている。

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寄生獣、鋼錬、攻殻、進撃、火の鳥…SF×倫理学で現代を理解する『SFマンガで倫理学』

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  • かけがえのない自然を守るため、人を減らすのは悪か?
  • 合成獣の生成と命の再生は「命を弄ぶ」観点からどんな違いがあるのか?
  • みんなの健康のためなら「何をしても」許されるのか?

マンガを読んでいて、こうしたテーマにぶつかることがある。たいていは主人公に問いの形で突きつけられ、何らかの「選択」が迫られる。信念に則り選ぶこともあれば、状況に追われやむをえず選ばされることもある。物語は進む一方で、読者のわたしは「もやもや」に襲われる。

「ほんとうにそれで良かったのか?」という問いだ。

わたし個人が、この問いに答えようとすると、ああでもない、こうでもないとグルグルとあてもなく考え、思考は深まりも広がりもしない。考える道具立てが無いからだ。

何が善くて、何が悪いのか?こうした問いに、真正面から取り組むのが、倫理学だ。倫理学の歴史は古く、それこそ人類が「考える」ことを始めたときから誕生したといっていい。考えるにあたるフレームワークも、義務論、功利主義、徳倫理学、倫理的相対主義など、様々だ。

現役の倫理学者が、この問題に取り組んだのが、『SFマンガで倫理学』だ。わたしの「もやもや」に真正面から取り組み、倫理学の思考ツールを駆使して論点をクリアにし、現時点でどこまで議論が詰められているかが解説されている。

そして、理解を深めるための参考図書を解説し、同じテーマの作品も合わせて紹介してくれる。まさに至れり尽くせりの一冊なり。

ただし、本書の性質上、物語の核心にまで踏み込んでいるため、いわゆるネタバレをしまくっている。各節ごとに俎上に載せる作品が限定されているため、未読の作品があれば、節ごと飛ばすのが吉かも。

なぜ自然を守らなければならないのか?を『寄生獣』で考える

例えば、『寄生獣』を例に、「なぜ自然を守らなければならないのか?」という問いを深掘りする。

面白いのは、一歩引いて考えている点だ。「自然保護」というお題目を盾に、破壊的な抗議活動を行っている人がいる。そうした人々を前に、「そもそもその『自然』とは何か?」と問いかける。

「生態系が破壊され、人間が暮らしづらくなってしまうから、自然を守るべき」というのであれば、その『自然』とは、人間が暮らしていくために利用する、人間のための道具としての存在だろう(人間中心主義)。

一方で、人間という一つの種の繫栄よりも、生物全体を考える立場もある。「万物の霊長」と名乗るからには、人間のためだけでは正義は成り立たない。人間を中心に考えるのではなく、生物全体のバランスや生態系そのものに価値があると考え、これを尊重するアプローチがある(エコセントリズム)。

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岩明均『寄生獣』第9巻、講談社、1994、p.119より

『寄生獣』のタイトル回収で、寄生獣の定義を、「人を捕食する」から「自然を蝕む」ことへ逆転させたのは面白い。立場が違えば「自然」の定義すら変わってしまう。本書ではさらに、人間中心主義 vs. エコセントリズムの対立だけに着目すると、見落とすものが出てくるという。

それは、自然という概念そのものが持つ多様性だ。

一口に「自然」といっても、様々な種類がある。人の手によって部分的に管理され、特有の生物多様性が保たれている半自然がある。日本の里山、イギリスならコモンズ、アルプス地方のアルムが有名で、風防や治水の役割も果たしている。あるいは、野生動物保護区や自然公園といった、一定の目的の下、コントロールされた自然環境も存在する。自然とは、人の手の入り具合によって、ある程度のグラデーションを持った存在なのだ。

「自然」環境の破壊を悪と見なすなら、史上最大の環境破壊である「農耕」こそが悪になる。では人類は農耕を捨てるべきか?そうはならない。善と悪がはっきりしていれば白黒つけやすいが、そうは問屋が卸さない(人間=善、寄生獣=悪という構図になっていない点に似てて面白い)。

章末には、読書案内として吉永明弘・寺本剛『環境倫理学』や宮崎駿『風の谷のナウシカ』などが紹介されている(ミギーとナウシカを並べて読みたくなる)。

こんな感じで21作品が並んでいる(以下例)。既読の作品が多ければ多いほど、倫理学からの深掘りが面白い。読書案内、参考文献リストから、さらに広げて読むことも可能だ。

  • 人のクローンをつくることは許されるのか?
     
    手塚治虫『火の鳥 生命編』
  • なぜ自然を守らなければならないのか?
     
    岩明均『寄生獣』
  • 人と動物のキメラをつくることは許されるのか?
     
    五十嵐大介『ディザインズ』
  • どの生命をどこまで配慮すればよいのか?
     
    荒川弘『鋼の錬金術師』
  • 記憶能力を拡張することは許されるのか?
     
    山田胡瓜『AI(アイ)の遺電子』
  • 文明崩壊後の世界で生きる意味があるのか?
     
    つくみず『少女終末旅行』
  • 変容的経験に人生は翻弄されるのか?
     
    諫山創『進撃の巨人』
  • ロボットはどうあるべきか?
     
    石ノ森章太郎『人造人間キカイダー』

環境保護、人のクローン、人生の意味、人工知能など、物語の形で埋め込まれた現代の問題に、倫理学のアプローチから応える。SFマンガ×倫理学で考える一冊。



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人生を微分すると今になる『朝と夕』(ヨン・フォッセ)

「死ぬ前に小学生の一日をやってみたい」2chのコピペ。

 俺思うんだ・・・
 俺、死ぬ前に小学生の頃を一日でいいから、またやってみたい
 わいわい授業受けて、体育で外で遊んで、
 学校終わったら夕方までまた遊ぶんだ

 空き地に夕焼け、金木犀の香りの中家に帰ると、
 家族が「おかえり~」と迎えてくれてTV見ながら談笑して、
 お母さんが晩御飯作ってくれる(ホントありがたいよな)
 お風呂に入って上がったらみんな映画に夢中になってて、
 子供なのにさもわかってるように見入ってみたり

 でも、全部見終える前に眠くなって、部屋に戻って布団に入る
 みんなのいる部屋の光が名残惜しいけど、そのうち意識がなくなって…


 そして死にたい

 

このコピペ、tumblrで定期的に流れてくる度に染み入ってしまう。悩みとか不安とか何もなかった日常がいかに大切で、生きるとは何気ない日々の積み重ねだということが分かる(さらには、そんな日々がいかに貴重だったかは、失われて初めて気づくことも)。

にもかかわらず、わたしは気づかないフリをする。目先の雑事と、先々の不安で頭を一杯にし、振り返っても後悔ばかりしている。人生を微分したのが今日なのだから、幸せだと思って今日を生きないと、あっという間に人生が終わってしまうことを忘れる。

だが、ごくまれに、これを思い出させてくれる作品と出会うことがある。

例えば、カフカの再来と称されるブッツァーティの『タタール人の砂漠』や、アメリカ演劇史上の傑作と名高い『わが町』(ソーントン・ワイルダー)、あるいは語り手の幸せと完全に同期できるヴァージニア・ウルフの『灯台へ』が、私にとってそうだった。生活の中にこそ幸福があることを、しみじみ染み込ませてくれる大切な作品だ。

そんな大切な作品に仲間が増えた。

2023年にノーベル文学賞を受賞したヨン・フォッセの『朝と夕』だ。現代演劇の巨匠であり、ヨーロッパを代表する劇作家が著した中編小説だ。ノルウェーの漁村に生まれた男の、たった二日間を描いたお話だ。

小説全体は一つの長いモノローグにもメタローグにも見える。メタファーも含めたくり返しが多用され、句点が無いのが特徴だ。描写と感情と会話が一息に語られ、独特のリズムを生み出している。巧妙に(?)埋め込まれたキリスト教の表象や暗喩がイメージを喚起し、ある日常を何重にも深読みさせることもできる。

予備知識ゼロで、それこそ見返しのあらすじすら目もとめずに読み始めたのだが―――これが正解だった。序盤に抱いた違和感がどんどん膨れ上がり、「おいおい、嘘やろ?」と微妙な緊張感を保ちながら核心にたどり着いたとき、言い様の無い感情に襲われた。

この感情、表現が難しい。「言い様の無い感情」という常套句で逃げているわけではなく、言葉にするなら、「旅先ですこし話し相手になってくれた人と、連絡先を交換せずにさよならするとき」に近い。

これを名残惜しさ、さみしさと呼んでしまうと、取りこぼされる気がする。話し相手になってくれた人とは、もう二度と会えないわけではないし、もう一度、会えるはずだ。でも、そのときの「わたし」は今の私ではないことは確かだ……という気持ち。帯の惹句の「言葉にできないものに声を与えた」の通りだと思う。

人は、自分の人生を生きる他ないというが、これは、自分の日常を積み上げていくしかないことに等しい。この意味で、わたしは自分の人生を生きたあとで、もう一度、この人に会える気がする。

「人生」という大仰な言葉で伝えようとすると、卒業や就職、結婚といった「イベント」で考えてしまいがちだ。だが、その間を埋める圧倒的な「日常」こそが人生なのだろう。

「人生を微分すると今になる」と言われるが、本当は、人生を微分すると日常になるのかもしれない。

言葉にできない感情が通り過ぎた後、今日を、今を生きようと自覚させられる一冊。

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筒井康隆が『百年の孤独』を読んだら絶対に読めと命令形でお薦めしたガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』はどこまで笑っていいグロテスクなのか分からないバケモノみたいな傑作だった

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ホラー映画の紹介で「犬は無事です」といったキャプションがつくことがある。

怖い映画を見たいけれど、(たとえフィクションでも)犬が死ぬのを見るのは忍びない人に向けた配慮がなされる時代となった。同様に、惨たらしく子どもが殺されるような作品は、「悪趣味」だとか「下品」といった批判の的となり、厳しくゾーニングされる。

そういう配慮に慣れ親しみつつある身としては、ガルシア=マルケス『族長の秋』には頭ガツンとやられた。犬は死ぬし、子どもは助からない。50年前に世に出たからなのか、ラテンアメリカの腐敗国家を、配慮も容赦も踏みにじるように描いている。

治らない男色を恥じて自ら尻穴にダイナマイトを詰めてはらわたを吹っ飛ばす将軍。スコットランドから運ばれた60匹の狩猟犬に生きながら食い殺される母子。香辛料をたっぷりかけてオーブンでこんがり焼き上げられ、銀のトレイに横たえられた大臣。宝くじの不正に加担した子ども2千人の口封じにやったことなど、どこまで笑っていいグロテスクなのか分からない

奇妙なのはその語り口だ。

物語の中心には、カリブ海にある独裁国家の大統領がいるのだが、彼には名前が無い。無限の権力を持ち、何十年にも渡って国家を支配し続ける暴君であり、政敵を排除し、権力を保持するために残虐極まりない手段を用いる。

この大統領のエピソードについて語るとき、まず「われわれ」という語り手が設定される。この「われわれ」とは誰なのか?恐怖政治に怯える国民としても読めるし、粛清に怯える大統領の側近でもありだし、ずっと後世の人とすることだってできる。だが、「われわれ」が誰なのか、最終的に明かされることはない。

その語りの中に「わたし」が交じりだす。事件の目撃者としてなのか、「われわれ」よりも近距離で報告しはじめる。さらに「わし」「おれたち」という一人称が登場する(原文の使い分けに忠実に訳していると思われる)。そこへ突然、「おふくろ」「閣下」という呼びかけが説明抜きで入ってきて、読みにくいことおびただしい。

一文が長文で句読点が極端に少ない上に、会話を区切るカッコ「」は存在せず、全てが地の文に飲み込まれているのはコーマック・マッカーシーと同じだが、複数の一人称、複数の呼びかけが多重的に入り混じるポリフォニーは、ドストエフスキーを思い起こさせる(登場人物全員が、一斉にしゃべりだす、あの感覚だ)。

ラテアメ文学の十八番であるマジックリアリズムも健在だが、現実と幻想を混ぜすぎている。残虐描写がドン引きするほど極端なので、風刺的にカリカチュアライズされた現実なのか、文学的な効果を狙った幻想なのか、分からなくなる。

筒井康隆が、『百年の孤独』を読んだら『族長の秋』を読め(命令形)と書いていたので、何も考えずに読んだのだが、読み終えた今なら分かる。ガルシア=マルケスの魅力は本作で爆発している。現実の暴力を描こうとすると、死者数といった数字にしかならぬ。どれほど残虐なことがなされたかを伝えるなら、こんなハチャメチャな物語にする他ないのだ。

とうてい万人には勧められないが、『百年の孤独』を読んだ方には是非お薦めしたい怪作。



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