発見史
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大日本帝国の水産講習所(現在の東京海洋大学の主要な前身)海洋調査部に所属する調査船「天鷗丸」は、1924年(大正13年)に日本海の地形調査を行い、日本海のほぼ中央部で未知の浅水部を発見した。最浅所の水深は 307メートルと計測された(※当時の数値)。この発見があるまでは、日本海は一様に深い海と考えられていた。 1926年(大正15年/昭和元年)、改めて大日本帝国海軍水路部の測量艦「大和」による精密測量が行われ、最浅所の水深として 236メートルという数値を得た。これにより、新発見の浅水部(堆)は「大和」の艦名から採って「大和堆」と命名された。 さらに、1930年(昭和5年)になると、海洋気象台の海洋観測船「春風丸」が大和堆の北にも最浅所が水深 465メートル(※当時の計測数値)の浅水部を新たに発見し、「春風堆」と命名した。しかし、翌1931年(昭和6年)に測量艦「大和」が精密測量を行ったところ、416メートル(※これも当時の計測数値)の最浅所を発見したため、こちらも測量艦「大和」の名にちなんだ「北大和堆」へと改名された。
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オスニエリアとされた化石はワイオミング州、ユタ州、コロラド州のジュラ紀後期オックスフォード期-チュートン期のモリソン累層(en)の岩石から発見された 。しかし2007年、ガルトンの手でモリソンの鳥盤類が再検討され、明確な化石はYPM 1875(ナノサウルス・レックスのホロタイプである大腿骨)とおそらく関連する体の骨のかけらのみであるとされた。ガルトンはこの大腿骨は標徴的ではなく、オスニエリアは疑わしい名だと結論し、2つの骨格を新属オスニエロサウルス(Othnielosaurus)とした。この判断が広く学会に受け入れられるかは見守られなければならないが、この種の分類学上の決定には先例がある(例えばマラスクス(en)とラゴスクスの問題)。
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発見史
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1991年、アンドリュー・ラインはPSR 1829-10の周囲に初めて太陽系外惑星を発見したと公表した。しかしこの発見は後に撤回され、その直後に最初の真のパルサー惑星の発見が公表された。 1992年、アレクサンデル・ヴォルシュチャンとデール・フレールは、ミリ秒パルサーPSR 1257+12の周囲を公転する複数の惑星からなる惑星系を発見したと公表した。これらは、最初に発見された太陽系外惑星でもあった。また最初の太陽系外の複数惑星系であり、最初のパルサー惑星でもあった。以前パルサー惑星の発見が取り下げられたことがあり、またパルサーが惑星を持ちうるのかという疑問も出されたため、この発見には当初疑念が持たれたが、本当に存在していることが実証された。同じ手法を用いて、より低質量の2つの惑星も後に発見された。 2000年、ミリ秒パルサーPSR B1620-26と連星を成す白色矮星WD B1620-26の周囲を公転する周連星惑星PSR B1620-26bが発見された。約126億歳と、これまで発見された中で最古の惑星であることが公表された。現在では、WD B1620-26の惑星は連星化する以前から存在したと考えられている。 2006年、地球から13000光年の距離にあるマグネター4U 0142+61が原始惑星系円盤を持つことが発見された。マサチューセッツ工科大学のDeepto Chakrabartyに率いられたチームがスピッツァー宇宙望遠鏡を用いて発見した。この円盤は超新星爆発によって残された金属に富んだ塵からでき、約10万年前に形成されたと考えられている。パルサーからのイオン放射が強くまた可視光の量が少ないため、パルサー惑星には我々が知るような生命はいないと考えられている。
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発見史
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この行動は、ドイツの鳥類学者エルヴィン・シュトレーゼマンによって1935年に『鳥類学月報』誌(Ornithologische Monatsberichte XLIII. 138)でeinemsenとして初めて記述された。インドの鳥類学者サリーム・アリーは1936年に『ボンベイ自然誌協会(英語版)誌』において、いとこのフマーユーン・アブドゥラリ(英語版)による観察の解釈を行い、その中でシュトレーゼマンの論文について考察し、この語はantingと英訳できるのではないかと提案した。 蟻塚の土を羽にまぶす鳥が観察されており、これも蟻浴と同等なものであると考える研究者もいる。
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発見史
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化石は、1832年、米国人古生物学者リチャード・ハーラン(Richard Harlan)によって米国はルイジアナ州にて発見された。1834年、爬虫類に属するものとして Basilosaurus の名で記載(生物学上の正式な命名)されている。1839年には英国のリチャード・オーウェン卿が、米国アラバマ州から出た保存状態の良い化石を分析し、この動物に対して正しく哺乳類としての学名 Zeuglodon を与えた。しかし、先取権の問題等があるため Zeuglodon に有効性は無く、今でも「爬虫類」の意を持つ Basilosaurus が正式な名称として使われている。 また、ドイツ人の化石収集家アルベルト・コッホが見世物興行に使っていた化石標本(「文化」の項を参照)も、そのうちの多くの部分がバシロサウルスの化石であったことが、1975年になって科学的に証明された。 その後もバシロサウルスの化石は世界の各地から数多く発見されている。米国(ミシシッピ州、フロリダ州)、英国(イングランド)、エジプトのワディ・アル・ヒタン、パキスタン、その他がそれである。
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「ショウナ・ホットスポット」の記事における「発見史」の解説
ショウナ・ホットスポットの存在は1985年にHartnadyとle Roexによって初めて報告された。この付近にはMeteor RiseとCape Riseと呼ばれる海山の列が存在するのだが、この海山の列の成因を、付近で他に知られていたホットスポットであるブーベ・ホットスポット(Bouvet hotspot)と関連付けるのは無理があった。それ故に、大西洋中央海嶺の南端部付近に未知のホットスポットが存在するであろうことが予想されたのである。
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発見史
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「ヨーロッパホラアナライオン」の記事における「発見史」の解説
化石は、ドイツの小村モースバッハ(Mosbach。)から数多くの骨片としてもたらされた。それらは現在、ヴィースバーデンで見ることができる。さらに、ハイデルベルク近郊のマウアーからは頭蓋骨化石がほぼ完全な形で発見されている。ヨーロッパにおけるヨーロッパホラアナライオンの最も古い化石は、イタリア・モゼール州のイゼルニアにて発見された約70万年前のものである。 ケニアのオルドヴァイから発見された約175万年前(更新世初期)のライオンの顎骨化石は、ヨーロッパホラアナライオンとの間に著しい類似性を示している。
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発見史
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天王星の衛星は1787年、惑星本体の発見者でもあるウィリアム・ハーシェルによって最初の2個が発見された。この時ハーシェルは「6個」の衛星を観測したが、そのうち4個は恒星を誤認していた事が後に明らかとなった。後にこの2個の衛星はウィリアム・ハーシェルの息子ジョン・ハーシェルにより、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『夏の夜の夢』に登場する妖精から、ティタニアとオベロンと命名された。 更に、1851年にウィリアム・ラッセルが2個の衛星を発見し、アリエルとウンブリエルと名付けた。1948年にはジェラルド・カイパーがミランダを発見している。 その後の天王星の衛星にはシェイクスピアかアレキサンダー・ポープの作品中の登場人物名がつけられている。 1985年から1986年にかけてボイジャー2号が天王星に到達し、新たに10個の衛星が発見された。このうちコーディリアとオフィーリアはε環(当時発見されていた中では一番外側の環)を挟むように公転する、いわゆる羊飼い衛星である。 ペルディータ (S/1986 U 10) は、ボイジャー2号により1986年に撮影された写真の中から1999年にエリック・カルコシュカが発見したものの、その後の追試観測ができなかったため、衛星の一覧から一旦除かれていた。しかし、ハッブル宇宙望遠鏡による観測によって2003年9月3日に再発見され、衛星であると確認された。 1997年以降に多数発見された天王星の赤道面と無関係の軌道を持つ外周の衛星に関しては、順行軌道の衛星はマーガレットの1例だが『空騒ぎ』、他の逆行軌道の衛星は『テンペスト』の登場人物から命名されている。 1997年9月6日、ブレット・J・グラドマン、フィリップ・D・ニコルソン、ジョセフ・A・バーンズ、ジョン・J・カヴェラーズらがハッブル宇宙望遠鏡で2個の衛星を発見した。 1999年7月18日、グラドマン、カヴェラーズ、マシュー・J・ホルマン、ジャン=マーク・ペティット、ハンス・ショールらが3個の衛星を発見した。この時点で発見された衛星数は20個(前述のペルディータが発見されてからは21個)に達し、翌年以降に木星・土星に多数の衛星が相次いで発見されるまでのわずかな期間ではあるが、天王星が太陽系で最多の衛星を持つ惑星とされていた。 2001年8月13日、ホルマン、カヴェラーズ、グラドマン、ダン・ミリサルェヴィクらが2個の衛星を発見した。また同じ日に撮影された写真から、2003年に新たな衛星が1個発見された。 2003年8月25日にマーク・R・ショワルターとジャック・J・リサウアーが2個、同8月29日にスコット・S・シェパードとデビッド・C・ジューイットが1個の衛星を発見した。 2016年10月、ボイジャー2号が撮影した画像からのα環・β環の振る舞いの研究から、これまでに発見されたどの衛星よりも小さな未発見の衛星が2個存在する可能性が示唆された。これによると、存在する可能性がある衛星の直径は 4~14 km と推定されている。
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大西洋の海底山脈の存在は1850年に予想された。1872年に大西洋横断電信ケーブルの敷設個所を調べていたチャレンジャー号が、海面下に存在する海洋底が浅くなっている箇所を発見した。そして1925年にソナーによって確認された。1950年代に地球の海底地形を図化していたチームが、海底に存在する奇妙な嶺と谷の連なりを明らかにした。その中央谷は活発な地震の巣であることが分かった。そして4万 kmの長さに及ぶ地球規模の中央海嶺の存在により、海洋底拡大説が導かれ、ウェーゲナーの大陸移動説が受け入れられるようになった。
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発見史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/13 22:03 UTC 版)
1855年にアルフレッド・ラッセル・ウォレスがこの洞窟周辺を探検した。彼はチャールズ・ダーウィンに宛てた手紙の中でこの洞窟に関してヒト族の化石が見つかるかもしれない遺跡であると記した。その後、英国の考古学者が1869年から1870年にかけて発掘調査を行ったものの、目ぼしい発見は出来ず、その後は放置された。 1950年代から1960年代にかけて、トム・ハリソンらはこの地で発掘調査を行い、大きな成果をあげた。彼らは1958年に2.5メートルの深さからディープスカル(Deep Skull)を発掘した。これをきっかけにして地元の大学や海外の研究者が考古学的研究をするようになり、多くの論文がサラワク州立博物館の論文雑誌に掲載されるようになった。1999年から2003年にかけてはイギリスとマレーシアが共同でニア洞窟プロジェクトを行い、ハリソンの業績の正確性を確かめる再発掘が行われた。
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2、3歯と顎骨の断片からなる最初の化石は、インドの地質学者A・ラオ(A. Ranga Rao)によって1971年、インド亜大陸のカシミール地方にて採取された岩の中に埋もれた状態のまま気づかれることもなく眠っていた。ラオが亡くなった後、未亡人が、原クジラ類に詳しい人類学者で米国はノースイースタン・オハイオ大学医学部所属のハンス・テーヴィスン(J.G.M.Hans Thewissen)に岩を譲渡したことが切っ掛けとなり、テーヴィスン率いる調査チームによって本種は偶然に見出され、科学雑誌『ネイチャー』2007年12月号への記事の掲載をもって世に知られることとなった。
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1973年(昭和48年)、泉福寺洞窟の第4次発掘調査の際、それまで世界最古の土器と考えられていた隆起線文土器しか出土しない泉福寺洞窟の第9層よりも、さらに古い第10層から発見された。泉福寺洞窟の発掘調査を指導していた、國學院大學講師(当時)の麻生優によって命名された。その後、1975年(昭和50年)の第6次発掘調査では、第10層より下の第11層では豆粒文土器のほぼ完全な個体が出土し、隆起線文土器の一種ではないことが明らかになった。
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発見史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 22:11 UTC 版)
ベルナール・クールトアによって1811年に海藻灰から発見された。彼の友人シャルル・デゾルム(英語版)とニコラ・クレマンがジョゼフ・ルイ・ゲイ=リュサックとアンドレ=マリ・アンペールにサンプルを送ったうえで1813年11月29日に発表した。 ゲイ=リュサックは12月6日にこの物質が元素もしくは酸化物であると発表した。アンペールからサンプルを提供されたハンフリー・デーヴィーは実験によりこの物質が塩素の性質に類似することを発見し、王立協会宛の12月10日付の手紙で、この物質が元素であることを発表した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 22:34 UTC 版)
1784年、イタリア人博物学者コジモ・アレッサンドロ・コリーニによって最初に報告された。当初はその分類の帰属や生態にさまざまな説が飛び交い、哺乳類や水生動物であると考えられていたこともある。初めて翼竜が空を飛ぶ爬虫類だとしたのは、19世紀のフランスの博物学者ジョルジュ・キュヴィエである。これまでに60以上の属が発見されている。
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発見史
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1904年に、矢部長克によって発見・発表された。その当初は標本が1個体しか得られていなかったことから、異常巻アンモナイトは奇形ではないかという研究者が多かった。1926年に清水三郎によって全く同様の巻き方を示す別の個体が発見されるに至って、ようやく種として一般に認識されるようになった。 2017年に、国際古生物学協会が「国際化石の日」を10月第2週の土日として制定した。それを受けて日本古生物学会は、矢部がニッポニテス・ミラビリスを新種記載した10月15日を「化石の日」とした。
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「カルカロドントサウルス」の記事における「発見史」の解説
戦禍に消えた化石と再度の発見 最初の発見となった特徴ある歯の化石は、フランス人古生物学者シャルル・ドペレ(en)と J.Savornin によって1927年、エジプトの白亜紀層からもたらされ、メガロサウルスの1種、Megalosaurus saharicus (メガロサウルス・サハリクス)と命名された。 加えて1931年には、ドイツ人古生物学者エルンスト・シュトローマーによって歯以外の部位の新発見がなされ、詳しい分析の結果saharicus 種には新属Carcharodontosaurus (カルカロドントサウルス属)の名が与えられることとなり、Megalosaurus 属から変更された。 その後これらの化石群は模式標本となっていたが、ドイツのミュンヘンに運ばれたのち、第二次世界大戦の戦禍に巻き込まれることとなり、ミュンヘン大空襲によって破壊されてしまった。このとき、スピノサウルスの模式標本も同じ運命をたどっている。 しかし、シカゴ大学のアメリカ人古生物学者ポール・セレノ(en)の手によって1996年にはモロッコで明らかにカルカロドントサウルスとわかるほぼ完全な頭蓋骨の化石が発見され、模式標本として再記載された。
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発見史
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「イスティオダクティルス」の記事における「発見史」の解説
1887年、イギリスの古生物学者ハリー・G・シーリー (Harry G. Seeley) は、南イングランド海岸沖合に位置するワイト島のWessex累層から産出した複合仙椎(Synsacrum:腸骨に繋がる癒合した脊椎)の化石を記載した。彼はその化石を恐竜や翼竜の物と比較したが、それを(既知のどの鳥類よりも恐竜に近いとはいえ)鳥類の物だと結論づけ、Ornithodesmus cluniculusと命名した。イギリスの地質学者John W. Hulkeはその年の内に、それまでに見た化石との類似点を発見し、オルニトデスムスは翼竜ではないかとの考えを示したが、シーリーは同意しなかった。1901年に自身が書いた翼竜に関する初めての一般向け書籍Dragons of the Airの中でシーリーは、ワイト島のAtherfieldでウィリアム・フォックス牧師によって発見され、1882年に大英博物館のものとなった別の標本(元・大英自然史博物館、現在のロンドン自然史博物館での標本番号NHMUK R176)を報告した。標本番号NHMUK R176は1888年にイギリスの博物学者リチャード・ライデッカーによって Ornithocheirus nobilis に分類されていたが、シーリーはオルニトデスムス属(その時までには翼竜類であるとみなすようになっていた)の別の種であると考えた。シーリーはその新種を Ornithodesmus latidens と命名した。ラテン語で"latus" は「幅広い」"dens" は「歯」を意味し、元々はフォックスとその友人達が使用していた名前だった。シーリーはおそらく仙椎の間に見られる類似性からこの新種を既存の属に分類したのだろうが、それについての説明はほとんど無い。 標本番号NHMUK R176は保存状態の悪い骨格であり、頭骨の後部・頚椎・胸骨・仙椎・右上腕骨・背心骨・左上腕骨・橈骨と尺骨の一部・手根骨・中手骨・翼指骨からなる。シーリーは O. latidens の模式標本を指定しなかったが、記載と図示にはNHMUK R176が用いられており、動物命名法国際審議会の判断ではこのことにより1901年の命名は有効となり、現在ではこの標本が模式標本であると見なされている。後の研究者は、NHMUK R176が使用可能な唯一の標本だった1901年にシーリーが O. latidens の上下顎と歯を記載し、その歯に基づいて命名しているが、NHMUK R176にはそれらの部分は含まれてはいない、という事実に当惑させられている。1888年のライデッカーの報告では現在と同様に頭骨は後部のみが挙げられている。しかし元々フォックスのコレクションには上下顎が存在していたのが紛失したのであり、シーリーは紛失以前にそれらを調査することが出来たのだという説がある 保存作業が完了する以前のNHMUK R3877 と NHMUK R3878 の化石塊。NHMUK R3877 の肢骨・胸骨・坐骨(右下) 1913年、イギリスのアマチュア古生物学者レジナルド・W・フーリー (Reginald W. Hooley) がさらに2つの O. latidens標本を記載したが、それらの標本は1904年にワイト島のAtherfield Point 近くの海でがけ崩れ後に採取されたもので、元の地層はVectis累層である。一つ目の標本NHMUK R3877は3つのブロックからなり、頭骨・頚椎・胴椎・肩甲骨・坐骨・両前肢の一部を含む。二つ目の標本NHMUK R3878は1つのブロックで、肩帯と両前肢の一部を含む。これらの標本はイングランドで発見された白亜紀翼竜の化石の中で最も完全なものの一例であり、NHMUK R3877は20世紀のほとんどの期間を通して3次元的に保存されているほぼ唯一の翼竜化石だった(翼竜の骨は多くの場合平たく潰されて圧縮化石になる)。フーリーは O. latidens について詳細に論じ、オルニトデスムス属を独自の科であるオルニトデスムス科に分類した。彼の論文はある議論で終わっていたが、その中で古生物学者チャールズ・ウィリアム・アンドリュース (Charles William Andrews) が、オルニトデスムス属が設立される基となった脊椎とフーリー標本の脊椎が著しく異なることから、O. latidens は本当にオルニトデスムス属に属するのかという疑念を表明していることが言及されていた。その後アメリカの古生物学者サミュエル・W・ウィリストン (Samuel W. Williston) はフーリーの論文へのレビューを記し、この動物の解剖学や分類に対するフーリーの結論の幾つかに異議を唱えた。フーリーのモノグラフの後、20世紀の残りの期間を通してこの動物に関する研究はほとんど発表されず、何十年もの間類似した翼竜は発見されなかった。 1993年、イギリスの古生物学者 Stafford C. Howse と Andrew C. Milner は O. cluniculus の唯一の標本であり模式標本でもある仙椎は翼竜のものではなく、マニラプトル類恐竜のものであると結論づけた(イギリスの古生物学者Christopher Bennettも独立に同様の結論に至った)。彼等は、O. cluniculus の仙椎はこれまで翼竜類の仙椎と詳細に比較されたことが一度もなく、O. latidens がオルニトデスムス属の実質上の模式種として取り扱われ、O. cluniculus を O. latidens のシノニムとして取り扱う研究者すらいた、ということを指摘した。それゆえ、限定的な翼竜の種としての "O." latidens には新しい属名が必要となった。2001年、Howse、Milner、David Martillは、"O." latidens を新属であるイスティオダクティルス属 (Istiodactylus) に移動した。この名はギリシャ語の"istion"「帆」と"daktylos"「指」に由来し、この大型翼竜の翼から来ている。彼等はまた、新しい科であるイスティオダクティルス科 (Istiodactylidae) を設立し、イスティオダクティルスをその科唯一の属とした。 さらなるイスティオダクティルス標本が後にワイト島で見つかり、その中には若年個体に属すると思われる歯骨の断片と、2002年から続いている篩による水洗法で発見された遊離した歯からなるIWCMS 2003.40も含まれている。21世紀初頭には中国からイスティオダクティルス科の翼竜が複数報告されている。2006年、Brian Andres と季強 (Ji Qiang) は中国の九佛堂累層 (Jiufotang Formation) 産の部分的な骨格に基づいてイスティオダクティルス属の2番目の種 I. sinensis を命名した(種小名はギリシャ語で中国をあらわす"sino"から来ている)。彼等はこれが I. latidens に非常に良く似ていることを認めたが、翼開長が2.7 m とずっと小さく、歯の数が多かった。2006年、呂君昌 (Lü Junchang) と共同研究者は I. sinensis が同じ地層から産出する Nurhachius ignaciobritoi の新参異名であるとの結論を出した。2008年になると呂等はそれを撤回してLongchengpterus zhaoiが I. sinensis の姉妹種であり、この2つはおそらく同じ種に属するとした。 2012年、イギリスの古生物学者Mark P. WittonはNHMUK R3877の頭骨写真を撮るために博物館を訪れていた際に、標本NHMUK R3877に属する顎の一部分を「再発見」したと報告した。その断片は1世紀の間引き出しの中に放置され、おそらくはフーリーの1913年の論文執筆直後に取り外され、明らかに何十年も完全な処理を受けずにいた。フーリーはその断片の図を載せていたが、その部分は彼の頭骨の復元に組み込まれず、フーリーが復元した頭骨長はそのため他の研究者たちによって追随されることとなった。Wittonは再発見したその断片が頭骨の前後をつなぐ要素となるのかどうか確認するために頭骨と合わせて見ようとし、博物館の他の翼竜研究者に許可を求めた。その顎の断片は頭骨の欠損していた部分にほとんどまるごと相当(足りない部分はほんの数ミリメートルだった)することが確かめられ、頭骨の長さはそれ以前に推測されていたよりもずっと短く、それにより I. latidens は他のイスティオダクティルス科翼竜とかなり異なることが示唆された。 Wittonによって更新された頭骨の復元は I. sinensis の頭骨と充分に異なっていたので、Wittonはそれらが同じ属には属さないと判断したが、I. sinensis を独自の属に分類するべきではないとした。Wittonは以前の研究でイスティオダクティルス属の2種がLiaoxipterus brachyognathusと同じグループにまとめられたことがあり、I. sinensis は独自の属ではなく Liaoxipterus 属の1種、または同じ地層から産出し差異もほとんどないことから同種の可能性すらある、と指摘した。彼はこの問題に関してはさらなる調査を待ち、暫定的に既存の分類を保持した。Wittonはイスティオダクティルス標本NHMUK R3877は今なお最も良く保存されたイスティオダクティルス科翼竜の骨格であり、この標本によってしか得られないグループの解剖学的詳細があると述べた。 Howseとその仲間は2001年に、現在では失われている I. latidens 模式標本の上下顎は1982年にイギリスの古生物学者ジェニファー・クラックによって存在が確認された標本CAMMZ T706ではないかとしたが、1960年代半ばより前の来歴は書類に残されていない。2021年、ロシアの古生物学者Alexander O. Averianov等は、基質から得られた花粉の分析によりその標本が I. latidens 産出元であるVectis累層産らしいと判明したことから、モスクワのヴェルナツキー国立地質学博物館にあるイスティオダクティルス科翼竜の上下顎前端標本SGM 1810–01も失われた模式標本であるかもしれないと考えている。この博物館のキュレーターであった地質学者アレクセイ・パブロフ (Alexei Pavlov) はその妻の古生物学者マリア・パブロワ (Maria Pavlova) と共に、地質学会に参加するために1888年に、その後再び1891年にイングランドを訪問しており、そのどちらかの際にその標本を得たのかもしれず、それによりロシアのコレクションに加わった可能性がある。Averianov等はこの標本をCTスキャンにかけ、解剖学的詳細を明らかにした。
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発見史
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「オーストラリアハイギョ」の記事における「発見史」の解説
1869年、シドニーにて博物館研究員をしていた生物学者のジェラード・クレフトは入植者によってその肉の色と味から「バーネット鮭」と呼ばれている魚のことを聞いた。その魚に興味を持ったジェラードは、報告者の家畜業者ウィリアム・フォースターにその魚をぜひとも送ってくれるように頼んだ。クイーンズランドに帰ったフォースターからほどなくして塩漬けにした数匹のバーネット鮭が届いた。種々の特徴からクレフトはこの魚が中生代の Ceratodus の生き残りであると考え、種小名をフォースターに献名して Ceratodus forsteri として記載した。後に本種は新設された Neoceratodus 属に移動された。
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発見史
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地元では古くから知られた木ではあったが、学問上の発見は、1893年(明治26年)のことである。当時、東京農科大学の大学院生であった白沢保美が奈良県吉野地方に向かった際に地元でこの名で呼ばれていた針葉樹の標本を持ち帰ったのがはじめで、翌年には球果や材の標本も手に入れた上で研究を行った結果、28年にこれをツガ属の新種として発表したのである。その翌年には現在の属に移されている。
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発見史
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2008年にロシアの西シベリアのアルタイ山脈にあるデニソワ洞窟で子供の骨の断片が発見され、放射性炭素年代測定により約4万1千年前のものと推定された。また、同じ場所で、大人の巨大な臼歯も発見されている。 2010年3月25日付のイギリスの科学雑誌『ネイチャー』(Nature)において、マックス・プランク進化人類学研究所の研究チームは、発見された骨のミトコンドリアDNAの解析結果から、デニソワ人は100万年ほど前に現生人類から分岐した、未知の新系統の人類だったと発表した。DNAのみに基づいて新種の人類が発見されたのは、科学の歴史上初めての事である。 2019年4月11日付けで学術誌『Cell』に発表された論文によると、デニソワ人には独立した3つのグループが存在し、このグループの内の一つは、ネアンデルタール人とデニソワ人の違いくらい、他の2グループのデニソワ人と異なっていることが示唆されている。
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発見史
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南九州と、石垣島までの南西諸島一帯のグスク跡を中心とした遺跡の発掘調査で、本土の須恵器に似た「類須恵器」と称される陶器が出土していたが、その生産地は不明のままであった。 1983年(昭和58年)、徳之島伊仙町阿三の亀焼地区で溜池造成の工事中に窯跡が発見され、地元方言で甕や壷を「カムィ」、亀焼を「カムィヤキ」と発音することからこの陶器の名称に採用された。 発見は2007年(平成19年)、「徳之島カムィヤキ陶器窯跡」として国の史跡に指定された。
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発見史
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南半球の人たちにとっては有史以前から知られており、発見者は特定できない。10世紀イスラームの天文家アル・スーフィーは著書『恒星の書』において、ほぼ北緯12度15分にあるバブ・エル・マンデブ海峡 Babd al Mandab (sic.) を境にして、バグダードやアラビアの北部では観えないが、アラビアの南部では観え、al-Bakr (「白い牛」の意)と呼んでいたと記している。 「- マゼラン雲」の名は、ポルトガルの航海家フェルディナンド・マゼランが1519年の世界周航において記録していたことにちなむ。それ以前の航海者は「ケープの雲」と呼んでいた。 イタリアの航海家アメリゴ・ヴェスプッチが1503年から1504年にかけて行った第3の航海において言及している「3つのカノープス」の1つが大マゼラン雲ではないかと考えられている。また、同じイタリアのアンドレアス・コルサーリ(英語版)が1517年の航海の際に描いたスケッチにも見えている。 1603年ドイツのヨハン・バイエルは星図『ウラノメトリア』において Nubecula Major としており、1679年フランスの宮廷建築家オギュスタン・ロワーエの星図には Nubes Major とある。1801年ドイツのヨハン・ボーデは星図『ウラノグラフィア』(Uranographia )においてバイエルを踏襲して Nubecula Major とし、なおかつ独立した星座「おおぐも(大雲)座」として扱っていた。
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発見史
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1850年までスカラ・ブレイは土に埋もれたままであった。しかし、その年の冬の大嵐が、スケラブラ (Skerrabra) と呼ばれてきた小丘から、草と土を根こそぎ剥ぎ取った。その結果、いくつかの石造建築物群の輪郭が露出し、スケイルの地主であったウィリアム・ワット (William Watt) によって最初の発掘が行われた。スカラ・ブレイが完全に姿を現したのは1928年から1930年にかけて英国人考古学者ヴィア・ゴードン チャイルド (en) が行った発掘作業のときである。この発掘は1926年の大嵐を受けてのものであった。
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発見史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 14:52 UTC 版)
前述の通りこの動物は世界で初めて発見された翼竜でもあり、その発見史は翼竜という生物そのものの理解の歴史と重なり合う。 この生物の化石が初めて報告されたのは1784年のことであり、ファルツ選帝侯カール・テオドールのコレクション管理を任せられていたイタリア人博物学者コジモ・アレッサンドロ・コリーニ(Cosimo Alessandro Collini) が選帝侯コレクションの中に含まれていた化石についての報告として発表している。その標本はゾルンホーフェン近くのパッペンハイムという街に住むフリードリッヒ・フェルディナント伯爵から送られた物であり、アイヒシュテット産と言われているが発見と贈与の正確な日時は不明である。コリーニはその生物が全く新しい生物であることを理解し、いくつかの点で鳥類に似ているが明らかに鳥類ではないと結論したが、詳しい分類や命名は行わなかった。
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発見史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 23:30 UTC 版)
長らく重脚目は、エジプトのファイユーム地方から見出される本種のほかには有力な発見例が無かった。本種だけはきわめて良質な標本を得る事ができたので、重脚目の代名詞ともなった。学名の項で触れた最初に発見された化石がそれであり、唯一の完全な骨格標本である(画像-1を参照)。 しかし、近年では、断片的ながらアフロ・ユーラシア大陸の広範な地域から重脚目の化石発見が報告されており、本種もまた、ファイユームのみならず、アフロアラビアに広く分布していたことが分かってきている。 化石は、北アフリカ(エジプト、リビア)、サブサハラ・アフリカ(アンゴラ)、アラビア半島(オマーン)から模式種アルシノイテリウム・ジッテリ(Arsinoitherium zitteli )が、エチオピアからはアルシノイテリウム・ギガンテウス(Arsinoitherium giganteus)とアルシノイテリウム・アンドレウシイ(Arsinoitherium andrewsii )が発見されている。
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発見史
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古細菌(archaebacteria)発見の歴史は細菌(eubacteria)発見の歴史に並行している。今日知られているような枠組みが完成する以前は、高度好塩菌、メタン菌、好熱菌それぞれ別々の枠組みで研究が進められていた。古細菌という枠組みができたのは1977年以降である。
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発見史
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「ラディオドンタ類#発見史」および「ラガニア#研究史」も参照 1980年代 1996年 2014年 2020年以降 アノマロカリス・カナデンシスの昔今の全身復元図 アノマロカリス、特にその模式種(タイプ種)であるアノマロカリス・カナデンシス(Anomalocaris canadensis)はカンブリア紀の古生物の中でも複雑な発見史をもつ。最初は19世紀後期から長い間に前部付属肢が甲殻類の胴部と思われ、20世紀後期を初めとしてペイトイア(=ラガニア)の特徴と混同して復元され、2010年代においてもいくつかの特徴を更新され続けていた。
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発見史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 07:30 UTC 版)
本種は1922年、米国人古生物学者ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンを隊長とするアメリカ自然史博物館の調査隊により、ゴビ砂漠のモンゴル国領内バヤンザグ(英名:Flaming Cliffs)にて発見され、1924年、彼によって記載された。東西冷戦下の1971年には、ポーランドとモンゴルの合同チームが、本種とプロトケラトプスの格闘する様子を留めた化石(「#鉤爪」を参照)を発見。さらには2007年、古生物学者アラン・ターナー等がモンゴルにて、羽毛がついていた証拠と言える等間隔に並ぶ突起(quill knobs)を有する前肢の化石を発見。続く2008年には新種が発見され、V. osmolskae と命名された。 現在のところ、化石はモンゴル、中国内モンゴル自治区、および、ロシアから発見されており、白亜紀後期の東アジアにあった大陸でのみ生息が確認されている。
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発見史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/24 10:26 UTC 版)
現在のところ唯一の種でもあるタイプ種はEuropasaurus holgeriで、成体および幼体の化石が海成の炭酸塩層("bed 93")から発掘されており、これには体長1.7 mから6.2 mの範囲の7個体の化石が含まれている。属名はヨーロッパと古代ギリシャ語で「トカゲ」を意味するsaurosより派生し、「ヨーロッパのトカゲ」という意味である。種小名はこの分類群の化石を最初に発見したホルガー・リュトゥケ(Holger Lüdtke)に献名されたものである。ホロタイプ標本(DFMMh/FV 291; Dinosaurier-Freilichtmuseum Münchehagen/Verein zur Förderung der Niedersächsischen Paläontologie)は同一個体に由来するばらばらの頭骨の一部、頸椎、仙椎で構成されている。 この標本およびこの分類群のものとされる他の全ての化石はニーダーザクセン州、ゴスラー近郊のランゲンベルク発掘地の"bed 93"で収集された
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発見史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/01/15 04:48 UTC 版)
このクモが最初に発見されたのは化石であった。四千万年前のバルト海の琥珀から発見されたものが Archaea の名で記載されたのが1854年であった。絶滅しているものと考えられたが、1881年にマダガスカルで発見され、この属名の下に記載された(A. workmani)。この科の名もこの属に由来する。ただし、その後に現生の種は Eriauchenius に移された。そのため、科の名を持つ属が現存しないことになっている。
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発見史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 16:11 UTC 版)
西洋へのこの動物の報告としては、ジェームズ・クック船長が1769年にニュージーランドに上陸したとき、マオリ族の族長から現生生物についての聞き取り調査をした際に聞いたトカゲの話が、その最初のものであるとする見方がある。ただし、ここで記録されているそのトカゲに関する証言は「体長は約2.5m、身体の幅はヒトと同じぐらい、地下の洞窟に住み、ヒトを襲って食う」という、生息場所以外の記述は実際のムカシトカゲとかなり異なるものである。 この生物に関する確実な記録としては、1838年にJ.S.ポラックというユダヤ人商人が出版した書籍の中に、「プレンティ湾の島々にすむトカゲ」として記されていることが確認できる。だが、実際にこの動物を捕獲して持ち帰ったのは、博物学者で探検家でもあったエルンスト・ディーフェンバッハ(英語版)であった。ディーフェンバッハはニュージーランド商会の後援のもと、ニュージーランドの各地を何年にもわたって旅し、地理学・地質学・動物学・植物学・文化人類学など各分野にわたる記録を残していた。原住民がトゥアタラと呼ぶ大型のトカゲがいるということを聞いたディーフェンバッハは、懸賞金付きでそのトカゲを探し求めたが長い間手に入らず、ようやく叶ったのは1841年、ヨーロッパに帰る10日前であった。ディーフェンバッハはそのトカゲをアガマ科の仲間と推測し、生きたまま持ち帰った個体をしばらく飼育していた。そしてその動物が死ぬと、大英博物館にその死体を寄贈した。 その標本を受け取って研究したのは、当時大英博物館で動物学部門の管理者であったジョン・エドワード・グレイであった。1842年、グレイはそのトカゲにHatteria punctata という学名を与えて発表したが、その後にこの動物の頭蓋骨が以前大英博物館に送られており、彼自身がそれに Sphenodon という学名(属名のみ)を1831年に与えていたことが判明した。そのため、学名の先取権の原則により、現在のこの動物の学名は Sphenodon punctatus となっている。しかし、Hatteria という名称もしくはこれに由来する語は、いくつかの言語で今でもムカシトカゲを指す単語となっている。
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発見史
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重脚目の化石は、1970年代まではエジプトのファイユーム地方以外から発見されることが無かった。 そのため、アフリカ大陸に固有の絶滅哺乳類と考えられてきた。 しかし、1980年代に入ると、モンゴル、トルコ、ルーマニアからも発見され、ユーラシア大陸にも広く分布していたことが明らかとなった。 その後も、北アフリカのリビア、同じくサブサハラ・アフリカのエチオピアとアンゴラ、アラビア半島のオマーン、および、中国が発見地リストに書き加えられている。
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発見史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/05/04 07:42 UTC 版)
ディオプロサウルスは1924年にウィリアム・パークス(英語版)により頭骨と下顎を含む部分骨格であるホロタイプ標本ROM 784に基づいて命名された。この化石は現在のカナダ、アルバータ州のレッドディア川近くにある恐竜公園層の底面から10mの高さの場所で収集された。
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発見史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 14:18 UTC 版)
タウリンは1827年にドイツの解剖学者・生理学者であるフリードリヒ・ティーデマンと化学者であるレオポルト・グメリンによってウシの胆汁中から発見された。「タウリン(taurine)」という名前は、ラテン語で雄牛を意味する「タウルス(taurus)」に由来する。
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