Posted: 2008.03.12 (Wed) by うちゃ in
意見など
前回書いたことの続きであるが、また別の論点から書いてみよう。
今回の件に関して、まだ真実がどうであるかはっきりわかっていないのに、一方的に被害者の言葉だけを信じるのはおかしいのではないか? ということが言われたりする。確かに、花岡氏や新潮社に対して抗議をしている側の主張は一見そうとられかねない部分はあるのだが、そういう話ではない。これは、従軍慰安婦の証言に対する評価にも通じる所があるので、少し説明しておこう。(あくまで私の理解する範囲なので、これが正解かどうかはわからないけどね)
一般に事が犯罪として認識されるためには、まず”被害の事実”というのが語られる必要がある。これを語るのは被害者とは限らず、第三者のこともあるだろうし、まれに加害者の自首というケースもあるわけだが、この”被害の告発”というプロセスが発端となることには変わりがない。そして多くのケースで告発を行なうのは被害者であることは間違いないだろう。
このときに配慮しなければいけないことは、被害について語ることについて、告発者、および多くのケースで告発者を兼ねる被害者が脅威を受けるようなことがあってはならない、ということだ。これには二つの意味がある。
ひとつは当然のこととして被害者の人権を守らなければいけないということ。すでに犯罪被害を受けている上に、それを回復しようとする過程で更に傷つけられるというのは理不尽きわまりない。
もうひとつは、被害の告発を行なうことが告発者にとって脅威になってしまえば、告発を行なうものがいなくなってしまう。社会側の犯罪に対する一連の防衛機構を動かし始める最初のプロセスが働かなくなってしまうということだ。特に性犯罪のように親告罪となっているケースでは、被害者が沈黙してしまえば、事件そのものを追えなくなってしまう。
そして被害者に対する脅威とは具体的に何かといえば、例えば、
・ことさらに被害者の落ち度をとがめだてする
・被害者の証言の矛盾点を強調する
・不確実な憶測を元に事件性を否定する
・事件を告発すると被害者にとって損害が発生するかのように恫喝する
・被害者の匿名性を暴こうとする
といったことだ。これらをやってくれたのがジャーナリストを僭称している花岡氏やら新潮社である。これがいったいどういう事態を引き起こしたのか。見事に被害者が沈黙してしまった。彼等が最低のセカンドレイパーと呼ばれるゆえんである。しかも被害者の沈黙を大喜びで報道しているとは救い難い。自分たちがどれだけこの社会に害毒を撒き散らしているか自覚していないわけだ。
こういう行為をくり返していれば、被害の告発は行われなくなり、犯罪に対する一つの有効な防衛機構が失われる(発動プロセスが殺されれば働かないよね)。(もちろん防衛機構は犯罪摘発ー>裁判ー>刑の執行が唯一というわけじゃない。もうひとつの有効な防衛機構=教育に対する悪影響もあるはずだが、ちょっとそちらまでは頭が回ってないので、ここでは触れない)
(実はこのエントリーを書いたのは、j.seagullさんの
こちらのエントリーを読んで考え込んでしまったからなのだが。読み違えていたら申し訳ない)
さて、こういうことを言うと、どういうわけか「推定無罪の原則」とか「痴漢冤罪」とか「被疑者の人権」とかを持ち出してくる人がいるわけだが、それについてはまた別のエントリーとしよう。