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笑傲江湖/藍鳳凰

 武侠ヒロインということであれば、現在放映中の笑傲江湖にも、聖姑さまこと任盈盈筆頭に、魅力的な人たちは数多く出演している。可憐な美少女尼僧の儀琳ちゃんや、わがままな妹キャラの小師妹。やさしいママさんである寧女侠、更にはあらゆる意味で最強の東方不敗(違)
 でもみんな書いちゃったしなぁ、と思っていたけど、この人のことを忘れちゃいけなかった。

バンテージポイント

 いやいやいや、これは面白いです。上映時間90分と短めながら、その間まったく緊張感を途切れさせれることなく最後まで見せきってしまっているため、ものすごく充実感がある。それでいて見ている最中には時間を忘れさせてくれるという、サスペンスものとしては理想的でしょう。
 しかし、まだ見ていない人に中身を話してしまうと確実に恨まれる映画でもあります。というわけで、以下は隠させていただこう。見る前に読んではいけません。

不羈の民

 碧猫さんのこちらのエントリーに関して。もうこの件については以前に散々書いたので、改めてエントリーとしてあげておくこともあんまりないんだが。

「国歌や国旗が嫌いなら日本から出て行け」みたいなことをコメント欄で言い出す奴とか、卒業式の国歌斉唱で起立しない来賓がいると「腸が煮えくり返る」人が教育長をやってたりとか、あるいは祝辞で「強制には反対である」というようなスピーチしたPTAを罷免したりとか、こんな話を聴いてしまえば、この学習指導要領の改訂がどういう結果をもたらすかということは想像できそうなものだろう。

 何をどう勘違いしているのかしらんのだが、国旗国歌法に定められているのだから、なんてことを主張する人間もいる。しかしこの法律は単に「日本の国旗は日の丸です。日本の国歌は君が代です」ということを定めたに過ぎない。まあ、バターナイフをエクスカリバーと勘違いしたいというのは勝手ではあるが。それよりも問題は、少なくとも「国旗や国歌は敬わなければいけない」なんてことを法律で定めることはそもそも出来ない、ということを理解していない自称日本人がやたら多いことだろう。これは明らかに憲法で保障している思想信条の自由に対する侵害にあたる。
 当然今回の改訂でも「君が代」についても「歌えるよう指導する」」
と決して強制するとは書いていない。いや、書きたくても書けないだろう。さすがにそこまで恥知らずではないだろうから。

 しかし、前述の内容に過ぎず、さらに制定の際に「本法律において、国旗の掲揚等に関し義務付けを行うような規定は盛り込んでいない」とはっきり答えているにもかかわらず、このていたらく。「歌えるよう指導する」という通達がなにをもたらすと思うのだろう。私はこういうこと(愛国心を法律に書くということ)だと思うんだけどね。

 中には、日本人でありながら国歌や国旗の意味を知らないのは問題であるとか、国旗や国歌に対する礼を知らないと恥をかくと言う人もいる。
 だが、前者は知識の問題であり、後者は礼儀の問題。それを教えることにはむしろ賛成であるが、そのうえでどうふるまうかについて口を出される筋合いはない。そして礼儀というのは内心はなんでもいいから形だけでも頭を下げろ、と教えることではないはずだ。

 これに関しては、以前に触れた十二国記の中の一遍「風の万里 黎明の空」の最後の二ページ程にある一連の問答があまりに素晴らしいので、思わず全部引いてきたくなるのだが、ここは特に強調したい部分だけ。(強調は引用者による)

礼とは心の中にあるものを表わすもので、形によって心を量るものではないだろう


地位でもって礼を強要し、他者を踏みにじることに慣れた者の末路は昇絋の例を見るまでもなく明らかだろう。そしてまた、踏みにじられることを受け入れた人々がたどる道も明らかなように思われる。


 踏みにじられることを受け入れれば、「住まわせてもらっている」などとコメント欄で言い放つようになってしまうのだよね。それは「愛国心を持てない」などとは比較にならないほどの危険な状況であろう。この国の主人は私たち自身である、とは教えてもらわなかったのだろうか? 国歌や国旗の意味や、礼法などよりもはるかに大切な教えのはずだし、外国人に聞かれた時に恥ずかしいのはむしろこっちの発言だと思うのだがな。


大喜利かよ

 毎年毎年飽きもせずよくやるなぁ、と呆れて感心してしまうのだが、今年も例によってこんなのを出しているようだ。
平成20年度・新入社員のタイプは「カーリング型」

 カーリング型……だれがうまいこと言えと(^^; いつも思うんだが、これって本気にしてる人ってどのくらいいるんだろうか? せいぜいがお偉いさんがなんかしゃべる時の話の枕か、飲み屋で話題が尽きた時のネタ程度の扱いなんじゃないかねぇ。真面目に受けとるようなもんじゃないと思うのだが、どうなんだろ?

 だって、最後の
自分の将来は自分の努力で切り開いていくという、本人の意志(石)が大事になろう。

とか、うまいこと言おうとしてすべっちゃった落語家みたいではないか。

魔性の子/小野不由美

 先日のコメント欄で書いた十二国記(私は思いっきり間違えて書いとりますが(^^;)つい最近しばらくぶりに新作が発表になったということもあり、まだ未読の分もこのさい読んでしまおうと思った。

 十二国記は、中華世界風の異世界を舞台にしたファンタジー小説である。その世界には麒麟に選ばれた王がいて、妖魔がいてと、当然のように現実離れしている。しかし、まるっきり現代日本と接点がないというわけでは無く、まれに双方の世界で行き来が発生することもある。
 そしてほとんどの作品は、視点をあちらがわの世界に置いての物語になっている。それは、こちらがわの人間である中島陽子を主人公に置いた作品であっても変わらず、だからこそファンタジー小説になっているわけなんだが。

 この「魔性の子」に限っては、あくまでも視点はこちらがわに置かれている。そして、そうするとこれがホラーになってしまうのだな。何が違うのかというと、あちらがわの人物は、自分たちの住む世界とは異なる世界があり、時々そっちに流されたり、逆に異世界から人がやってくるということを常識として知っている。
 ところが、こちらがわの人間にしてみればそんなことは夢にも思わないわけで、今居る世界とは全く異なる理を持つ世界から干渉は、ホラーになってしまうわけだ。全く同じ世界観をベースにした物語でありながら、読んだ感触はまるっきり異なる。

 しかし、何が恐ろしいって、刊行順からすると、この外伝的作品がシリーズの一作目になるってところなんではないだろうか。私は本編の方から先に読んでいたから、ある程度この物語の中で何が起きているかはわかったんだが、いきなりこの物語に接した場合、本当にいったい何が起っているのか、もしかしたら最後まで読んでもはっきりとはわからないんではないだろうか? それだと、恐らくラストシーンにおける主人公の疎外感はもっと強く感じられたのではないかと思える。

 実は読む順番を間違えたのではないかと、ちょっと後悔している(^^; やっぱり先に読んでおくべきだったか。

流れが変わってきたんだろうか

 昨日見たニュースなのだが、
ビックカメラ有楽町店のAppleショップが1周年
 この一年で、Macの売り上げが二倍くらい増えているという話。まあ、もちろん未だにマイナーであることに変わりはなくて、特に仕事で使うPCになると、Windows前提というものは今でも多数派であるわけではあるが。

 それでもやはり、数年前にCPUをIntel製に変えたあたりから徐々にではあるが認められつつあるような。何が違うといって、メディアの取り上げ方がだいぶ変わってきた。以前はMacの記事を書いていたのは、いわゆるMac系のライターだけであったのだが、最近は元麻布春男氏のようなWindows系のライターによる、それもかなり好意的な記事が書かれるようになってきた。
 またOSがunix系になったことで、オープンソース系の人も使いはじめてるというのも影響しているのかもしれない。アメリカ市場ではだいぶ回復して台数シェアで14%を突破したそうだ。アメリカでも企業向けは相変わらずWindowsであることには変わりがないそうだが。それだけ個人ユーザーが延びてるということではないかという話。

 もっとも、ここに来る人は未だに9割くらいがWindowsなので、まだまだ少数派ではあるのだが。

like tears in rain

 結構前になるのだが、8人くらいで映画の話をしていたときに、私以外に「ブレード・ランナー」を知っているのが一人しかいなかったことがあって、えらくショックだった(^^; いやだって、「ブレード・ランナー」ですよ? 「2001年宇宙の旅」とか「スター・ウォーズ」とかと同じくらい後のSF映画、アニメのビジュアルイメージに多大な影響を与えている。そりゃ公開当時はほとんどヒットしなかったけどさ(^^; (このとき一緒に見に行った、ディックファンの友人はかなりけなしていた)

 まあ、それはともかくとして、この映画について語るのであれば、やはりレプリカントたちについて触れずにはいられまい。姿は人間と変わらず、身体能力と知能は人間をしのぐ、遺伝子工学によって作り出された人造人間。そのあまりの出来の良さ故に、最初から4年という限定された時間しか生きられないものたち。これは彼等が自らの感情を持たないように、と設計者によってもうけられた安全装置であったのだ。

 だが、生まれ落ちた彼等は、そんな造物主の思惑を超えて生きはじめてしまった。自分たちが何者であるのか、存在しないはずの家族の写真を集めたり、仲間の死に涙を流したり。それは本当は持ってはいけないはずの感情ではなかったのか。

 登場するレプリカントのなかでも、やはり最も存在感と魅力にあふれているのは首領格のロイ・バティであろう。この名前は、演じたルトガー・ハウアーの名と共にSFファンの心に深く刻み込まれたのではないだろうか。
 このエントリーのタイトルは、そのロイが、酸性雨の中で死んでいくシーンのセリフから。
 "I've seen things you people wouldn't believe. Attack ships on
fire off the shoulder of Orion. I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhauser gate. All those moments will be lost in time, like tears in rain.
Time to die."

 これまで仲間を殺してきたデッカードを、墜落死寸前まで追い込みながら、命を救った後に、独白のように語られる。彼は、彼自身として存在していたことを誰かに伝えたかったのだろうか? 

(なぜか、碧猫さんのこちらのエントリーを読んでたら、彼のこのセリフが浮かんでしまったので、エントリーにしてみました。)

羊の戦略

 碧猫さんのところで、中国国家主席宛にダライ・ラマ大師と対話を開始するよう促す請願書署名というのを知ったので、早速署名してきた。

 実際にはチベット族側からの暴力というのも発生してはいるようなのだが、中国側の枷を完全に外してしまえば、どういうことになるのかは明白である。どれだけ中国政府がいやがろうと、外部からの批判と監視の、対話に向けての圧力はかけないと危ない。といっても、相手にしてみれば、”自治区内の安全と良民の保護”という建前を前面に押し出してくるだろうな。つうか、それ以外に軍を動かす正当性なんて確保できないだろう。
 少なくとも、何の大義名分も無しに好き勝手できるというわけではなくなっている、というのは救いになる。

 さて実は今回の件、こっちのエントリーを思い出したりしていた。やはり軍隊なり国家なりに対しては、普段から強めの枷がかかるようにしとかないと危ない。この件に関しては、最近の日本についてもちょっと危惧している。

騒いでいた高校生に対して、注意を聞かないからと銃口をつきつけた警官を援護する人たちが結構居る
・反戦ビラを配ったら、逮捕されて家宅捜索までされる。しかも、それを支持する人たちがこれまた結構な数存在する。

 少数派は多数派に合わせろ、合わせない奴を従わせるためには力を使ってもいい、とかいう考えかたを支持してると危ない。その力を公権力に与えちゃわない方がいい。いったん事が起きたら、自分たちが羊の側にいることは忘れないようにしとかないとね。

PSY・Sレビュー リスト

今まで書いたレビュー記事のインデックス。
――曲――

Teenage
from the planet with love
I・E・S・P(アイ・エスパー)
Big Kitchen
景色
星空のハートエイク
Paper Love
Desert
私は流行、あなたは世間

WOMAN・S
Everyday
コペルニクス
Ready For Your Love
Brand-New Menu
Another Diary
May Song
Down The Slope
ジェラシー"BLUE"
Old Fashoned Me

Simulation
電気とミント
青空は天気雨
TOYHOLIC
Lemonの勇気
Sweet Targedy
Long Distance
Cubic Lover
ガラスの明日

Parachute Limit
Spiral Lovers
(Shooting Down) The Fiction
Romeo
EARTH~木の上の方舟
Angel Night -天使のいる場所
Siver Rain
Robot
薔薇とノンフィクション
Hourglass 時の雫

Wondering up and down ~水のマージナル
WARS
ファジィな痛み
Stratosphere~真昼の夢の成層圏
遠い空
(北緯35°の)heroism
See-SawでSEE
STAMP
引力の虹
WARS -Reprise-

Kisses
遊びに来てね
マイティ・スマイル
1/2の永遠
Bronze
氷のヴィジョン
空の日
セパレイト・ブルー
GIMMICK
風の鏡

夏服とスケート
あさ~from day to day
宝石の島
ダブル・ダブル
オーロラの不思議な街
どうして?
Moonshine
PUZZLE
最後の楽園
in the Nude
ひみつ perspective love

倖せが迷う森
青空がいっぱい
D・I・V・E
金色の音符
ハートのパティオであいましょう
Anemometer-真夏日の風速計
VISION
約束と偶然
Blue Star
The Seven Colors

Power Stone
Believe in Music
be with you
sign
魔法のひとみ
花のように
もうちょっとだね
月夜のドルフィン
雨のように透明に
Seeds
Lotus

WAKE UP
Chasing The Rainbow
サイレントソング
Christmas in the are
3・D天国(ヘブン)
CHILD
Monster's Dance
Friends or Lovers

――アルバム――
Different View
PIC-NIC
Mint-Electoric
Non-Fiction
ATLAS
SIGNAL
HOLIDAY
Window
Emotional Engine

Two Hearts
Two Spirits
HOME MADE
Two Bridges
GOLDEN☆BEST

Collection
SweetHome & TO-Y

マップス/長谷川裕一

 本屋に立ち寄ったら「マップス・シェアードワールド-翼あるもの」なんてのが出ていたので、思わず買って読んでしまった。「マップス」というのは長谷川裕一氏の長編SFマンガで、だいぶ前に完結しているものであるのだが、この本はその世界と共通する設定を持ったスピンオフ作品。なんて表現をしてしまうと味気ないか。本編の中では描ききれなかったあちらの世界のまだ語られていなかったストーリー集である。

 で、こういうものを読んでしまうと当然のごとく本編を読み返してしまうことになるわけだが。なんといってもこのマンガ、でたらめなスケールのでかさが最大の魅力である。スタート地点こそ地球なのだが、あっというまに全銀河のスケールにまで話がふくらみ、最終的には……えっと、どんだけ? さすがに、レンズマンを意識していた、というだけのことはある。あれもとんだ大風呂敷SFだったからなぁ。
 そしてこれだけ広げまくった大風呂敷をきちんとたたんでしまう力量もすごいものがある。ただ畳んだわけじゃなくて、広げまくったスケールはそのまんまで、スタート地点の地球に戻ってきちゃうんだもんな。

 そんなわけで、もとのストーリーの方は奇麗に完結しているわけだが、そこで産み出されたあまりにも魅力的な宇宙は読んだ人の中から消えずに残ってしまい、こんな形で再会することになった。そういやレンズマンの方もスピンオフ作品ってあるようだし。

……なんて思っていたら、本人の手による新作も出てたんだ。知らなかった。

神雕侠侶/李莫愁

 武侠ヒロイン祭り、この人でいいのか?? いいんです、もちろん、だって……

祈りにも似た美しい世界/KOKIA

 以前、アルバム「aigakikoeru」について書いた時に少し触れたこの曲。実は歌い出しの
「祈りにも似た美しい 音楽の世界を ありがとう」

 このワンフレーズがすべてを言い表しているのである。ただこれだけのことを伝えるために、一曲使っちゃうんだよな。しかし、なんだろうね、この圧倒的なまでの喜びは。歌うことが嬉しくて、この世の中に音楽を見いだしたことが、これほど幸せなことだということ。聴いているこちらにもひしひしと伝わってくる。
「私の神は音楽の中にある」と高らかに歌いあげているけれど、これはKOKIAさんの実感そのものなんだろうな。でなければこれだけの説得力は生まれないだろう。もちろんこの曲自体が美しい音楽になっていることもあるんだけどね。

作詞・作曲:KOKIA

射雕英雄伝/穆念慈

 売国奴と呼ばれた楊康が心を開いたただひとりの女性。射雕英雄伝におけるもうひとりのヒロイン。それが念慈ねえさんである。

麗人/沢田研二

 いまではすっかり廃れてしまった音楽ジャンルに歌謡曲というのがある。ああ、もちろん、最近になっても古い歌が”発掘”され、化粧直しをしてよみがえったりすることはあるにしても、以前のように毎週毎週新しい曲が生まれてくるようなジャンルでは無くなってしまってもうずいぶんになる。(いや、最近TV見てないから、こんなこと偉そうに言っていいのかわからないんだが(^^;)
 
 その歌謡曲の世界で、長いこと王者として君臨していたのが沢田研二だと思う。どこか作り物じみていて、アクが強くて、派手で……。「勝手にしやがれ」「カサブランカ・ダンディ」「TOKIO」「ストリッパー」とヒットナンバーを並べればわかってもらえるだろうか? 私と一緒に歌いに行ったことがある人は知ってると思うが、実は大好きなんである(笑)
 
 さて、その中でも一番好きなのがこの「麗人」。黄金期と呼べる時期の中でもかなり終りの頃の曲なんだが、あらゆる束縛を嫌い、今この瞬間だけの自由を求める。やたらと怖いけれど、とっても粋な生き方ができそうで。
気ままな夢を ひろげる自由を
あなたの腕から 奪っちゃいけない

 正直に言うが、私はこの歌にかなり感化されている(笑)
 

沢田研二 - ROYAL STRAIGHT FLUSH[3] - 麗人


作詞:阿久悠
作曲:沢田研二
編曲:後藤次利

断仇谷/王英

 王英姑の兄(爆)。和平鎮・鎮主の息子である方有為と友情を結ぶが、山賊・黒風砦の手にかかって死亡(笑)……ということになっていたが、後に復活した(笑)



断仇谷/王英姑

 順番から行くと青竹翁あたりなのだが、なんとなく阿九、青弟と続いたので、ほかの武侠ヒロインでまだ書いてない人を取り上げてみたくなった。
 というわけで、最初は断仇谷から。”お嬢”と呼んでいたこの人。

碧血剣/夏青青

 元の名は温青青。だが、自分の父が金蛇郎君・夏雪宜であることを知ってからは夏青青を名乗るようになった。とはいえ私、すっかり青弟と呼ぶのに慣れてしまったので、いまさら青青姑娘とか言われてもピンとこなかったりする(爆)

推定無罪は誰のために

 こちらこちらのエントリーの続き。前回予告した通り、推定無罪の原則について。

 ちょうどいいタイミングでというか、痴漢冤罪事件が発生している。これは、特に毎日電車通勤をしている男性サラリーマンにとっては他人事ではない。もっとも遭遇しやすい冤罪事件である。それはもちろんその通りなんだし、この件について怒りの声を上げるのは良くわかる。わかるけど、じゃあ逆のパターンについてどのくらい本気になって怒ってくれるんだろう? 想像したことはあるのかな、痴漢のケースが一番多いと思うが、こういった性暴力にあったにもかかわらず、訴えられずに泣き寝入りしてしまうケースの多さを。

 確かに現在の日本において、犯罪容疑者の推定無罪の原則が守られているとは言い難い……というより、マスコミにしろ警察にしろ、逮捕=事件解決、その時点の容疑者が犯人、という図式をほとんど疑っていないようにすら見える。だから、痴漢冤罪の様な事件で、こういった形で取り調べや裁判、報道の手続きについて、批判に曝されることは望ましいことではある。だが、どういうわけだかこういう批判は、ことが性犯罪のケースになると声が大きくなる上に、警察や検察システムだけでなく、被害の告発者に向かうことも多い。
 念のため、痴漢冤罪って今回報道されたケースのように、完全に悪意を持って相手を陥れたケース”だけ”じゃないからね。被害の事実はあったけれど、相手を誤認したケースがあり、恐らくこちらのケースの方がはるかに多い。でも、実際にニュースになるのは今回のような極端なケースだろうと思う。

 だからこそ、いくら冤罪事件が発生しているからといって、被害に遭ったと主張する人間を攻撃してもいいということには、必ずしも全然ならない。少なくとも、まだ全貌が明らかになっていない時点で、被害を主張する側を攻撃するのはどう考えても正当化など出来はしないのである。

 これに関して言えば、どうも「被害者の人権」と「加害者(あるいは被疑者)の人権」が常にバーターであるかのように錯覚している人がいるようなのだが。加害者や被疑者の人権を制限したら被害者の人権が守れるわけではなく、もちろん逆に被疑者の人権を守るためには被害者の人権を制限しないといけないということでもない。

 どちらの人権も共に守らなければならないんだが、沖縄の事件の時には、被害者への人権侵害を撒き散らす奴らを批判すると、被疑者の人権だとかを盾にとってくる人がいたりするわけだ。
 あのね、もちろん被疑者については推定無罪の原則で臨むべきだし、彼を犯人犯罪者と特定したうえで非難するのは間違いだけど、一部のジャーナリストを僭称する人やそれにくっついてる人たちが、被害者に対して馬鹿丸出しの説教したりくだらない憶測で被害の事実を否定しようとしたり恫喝して口封じしようとしたりしたことはまぎれもない事実ですから。
 上にあげたような二次被害を与えた人たちには推定無罪の原則なんて適用されません。あなたがたは有罪です。

追記:つっこまれました(^^; 修正。

碧血剣/阿九

 滅びゆく王朝のお姫さま。ドラマ版では原作に比べてはるかに深く掘り下げられることで、彼女の悲劇はより強調されることになる。

song of pocchong ~雫の唄/KOKIA

 そろそろKOKIA様と様付けで呼びたくなってきました。なんか、文章で書くのが野暮にすら思える。ただひたすら、多重コーラスが奏でる雫たちのリズムとメロディーに浸っていれば充分なんじゃないかってね。
 というわけで、まずは一回聴いてきておくれ(笑)

KOKIA - The VOICE - song of pocchong ~雫の唄

 この唄聴いたら、こっちの曲のことを想いだした。ときどき、ちょうどいいあんばいの量で雨がふった時なんか、滴り落ちる雫の音が音楽のように聞こえる時ってないだろうか? そういう時って、聞き入ったりはしないにしても、ぼーっと耳を傾けてると落ち着くような感じ。
 でも、この唄はもっと楽しそう。落ちてくる雫が命を持ったみたいに。この人ほんとに唄が好きなんだな。なんかね、三分半くらいで終わっちゃうのがちょっともったいないみたいなので、エンドレスにして聴いてたりする。

 試聴でも雰囲気はつかめるとは思うけれど、最後のほうで嬉しい裏切りがあるので、ちゃんと全部聴くように(笑)

作曲:KOKIA

碧血剣/袁承志

 ようやく登場(^^; 主人公だよ。

碧血剣/穆人清

 道長の次は、やっぱりこの人でしょう。

禁止ワードの設定を間違えたようで

昨日はコメントもトラックバックも受け付けない状態だったようです。すみませんでした。
今は大丈夫のはず。

碧血剣/木桑道長

 爺あっての武侠ということで(笑)


被害について語ること

 前回書いたことの続きであるが、また別の論点から書いてみよう。

 今回の件に関して、まだ真実がどうであるかはっきりわかっていないのに、一方的に被害者の言葉だけを信じるのはおかしいのではないか? ということが言われたりする。確かに、花岡氏や新潮社に対して抗議をしている側の主張は一見そうとられかねない部分はあるのだが、そういう話ではない。これは、従軍慰安婦の証言に対する評価にも通じる所があるので、少し説明しておこう。(あくまで私の理解する範囲なので、これが正解かどうかはわからないけどね)

 一般に事が犯罪として認識されるためには、まず”被害の事実”というのが語られる必要がある。これを語るのは被害者とは限らず、第三者のこともあるだろうし、まれに加害者の自首というケースもあるわけだが、この”被害の告発”というプロセスが発端となることには変わりがない。そして多くのケースで告発を行なうのは被害者であることは間違いないだろう。
 このときに配慮しなければいけないことは、被害について語ることについて、告発者、および多くのケースで告発者を兼ねる被害者が脅威を受けるようなことがあってはならない、ということだ。これには二つの意味がある。
 ひとつは当然のこととして被害者の人権を守らなければいけないということ。すでに犯罪被害を受けている上に、それを回復しようとする過程で更に傷つけられるというのは理不尽きわまりない。
 もうひとつは、被害の告発を行なうことが告発者にとって脅威になってしまえば、告発を行なうものがいなくなってしまう。社会側の犯罪に対する一連の防衛機構を動かし始める最初のプロセスが働かなくなってしまうということだ。特に性犯罪のように親告罪となっているケースでは、被害者が沈黙してしまえば、事件そのものを追えなくなってしまう。

 そして被害者に対する脅威とは具体的に何かといえば、例えば、
・ことさらに被害者の落ち度をとがめだてする
・被害者の証言の矛盾点を強調する
・不確実な憶測を元に事件性を否定する
・事件を告発すると被害者にとって損害が発生するかのように恫喝する
・被害者の匿名性を暴こうとする
 といったことだ。これらをやってくれたのがジャーナリストを僭称している花岡氏やら新潮社である。これがいったいどういう事態を引き起こしたのか。見事に被害者が沈黙してしまった。彼等が最低のセカンドレイパーと呼ばれるゆえんである。しかも被害者の沈黙を大喜びで報道しているとは救い難い。自分たちがどれだけこの社会に害毒を撒き散らしているか自覚していないわけだ。

 こういう行為をくり返していれば、被害の告発は行われなくなり、犯罪に対する一つの有効な防衛機構が失われる(発動プロセスが殺されれば働かないよね)。(もちろん防衛機構は犯罪摘発ー>裁判ー>刑の執行が唯一というわけじゃない。もうひとつの有効な防衛機構=教育に対する悪影響もあるはずだが、ちょっとそちらまでは頭が回ってないので、ここでは触れない)
 
(実はこのエントリーを書いたのは、j.seagullさんのこちらのエントリーを読んで考え込んでしまったからなのだが。読み違えていたら申し訳ない)

 さて、こういうことを言うと、どういうわけか「推定無罪の原則」とか「痴漢冤罪」とか「被疑者の人権」とかを持ち出してくる人がいるわけだが、それについてはまた別のエントリーとしよう。

碧血剣/玉真子

 やはりこの方に触れずにはいられない。

リスク管理というのは何の冗談なんでしょうか?

 いい加減周回遅れもいいところの話であるのだけど、未だにこんな状況であるので、やっぱり黙っておくわけにもいかんかなと思い、エントリーをあげることにした。言いたいことは幾つかあるけど、これはその一つ目。

 なぜか性犯罪が報道されると、必ずといっていいほど被害者の行動に落ち度を見いだして、わざわざ言及する人が現われる。前にも書いたけれど、これは典型的なセカンドレイプであるわけだが、そう指摘した場合、十中八九、リスク管理についての発言である、って反論してくるんだけどさ。
 リスク管理って、将来発生するかもしれない危険なり、機会の損失なりにそなえるものであって、リスクが顕在化してしまってから、こういう行動を取っていればよかったんだ、なんて言うのはリスク管理じゃありませんよ?
 不幸にして(そう不幸にしてだ、いかに完璧なリスク管理を行なっていたとしても、顕在化する確率を0にすることは出来ない)危険に遭遇してしまった場合に必要なのはリスク管理ではなく、それによって発生する被害を最小限におさえること。こうしておけばよかったのに、なんてものは何の役にも立たないどころか、有害ですらある。なぜなら、ほとんどのケースで、正に救済を必要としている当人を責める形になってしまうからだ。これでは被害が拡大するだけである。

 あくまでリスク管理の話をしたいのであれば、すべては危機が収束してから、それもなるべく当事者からは離れたところで行なうべきものであろう。危機が収束していない時期に、同種の被害が起きないように取れる対策は、短期的、対症療法的なもの(例えば、夜間外出禁止とかね)になる。これもリスク管理とは言わない。

 それに、知らない人について行っちゃいけない、だとか、未成年者が夜間繁華街にいちゃいけない、なんてのはリスク管理にもなってない。単純に今回発生した一次要因だけに注目して、それを闇雲に回避しようとしているだけじゃん。こういうのは場当たり的な対症療法というやつであって、”リスク管理”なんて名づけるようなものじゃないよ。これ知人が犯人だったり、昼間の通学路での事件だったりしたらどうするんだよ? 見知らぬ人であるケースや繁華街で遭遇するケースと比べて、それほど可能性が低いとは思えないだろうに。(問題です。被害者と加害者の関係って、全くの通りすがりと、ある程度の知り合いとでどちらが多いでしょうか?)

碧血剣/何守

 原作を読んだら更にファンになってしまった。

彗星夜襲隊――特攻拒否の異色集団

 2003年に光人社NF文庫より出版されていたものの、長いこと入手困難になっていた本書が、つい先頃新装版となって出ているのを知ったのでご紹介。
 アマゾンへのリンクも貼っておこう。
 彗星夜襲隊―特攻拒否の異色集団 (光人社NF文庫) 

碧血剣/安剣清

 最初はそうでもなかったのだが、いつのまにか結構なお気に入りキャラになってしまった。