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人間の測りまちがい/スティーブン・J・グールド

 このとき買った本命の方。読み終わったので、少し感想を。
人間の測りまちがい-上
人間の測りまちがい-下
 
「差別ではない区別だ」というのは、差別を肯定しようとする人がよく使うロジックである。客観的に違っているのは明らかなのだから、扱いを変えるのは当然、という主張である。本書で取り上げられている科学者たちも、客観的な”差異”を見出し”区別”しようとする。しかしグールドは、彼らの研究は偏見と予断にとらわれていたことを明かしていく。
 本書の前半で取り上げられている人たち、頭蓋の計測や脳の重さによって人間をランク付けしようとした人たちは、現代の視点からは奇妙な考えにとりつかれているようにも見える。しかし、後半、IQと知能テストの項目を読めば、彼らを全く笑えないことがわかるはずだ。先人たちと全く同質の誤りが、今もまだ繰り返されている。
 本書で一貫して批判されているのは、「知能というのは生得的な能力であり、単一の尺度で直線的にランク付けできるものだ」という考えだ。科学者たちはこのことを証明しようと多くの”客観的な”データを集め、統計を取り、自説の正しさを主張してきた。だが、データの収集、統計処理、そして結果に対する考察、すべてのプロセスに予断や偏見が入り込んでいたことをグールドは明らかにしていく。それはこうした丹念な検証が行わなければ見過ごされていたかもしれないことではある。そしてこれは、この問題に限った話ではあるまい。おそらく彼ら自身、自分の中にある偏向を意識してはいなかったのだろう。自身はあくまで中立で客観的な考察を行っていたと考えていたようである。自らの偏見に気づくことができるかどうかというのは、科学者にとって大きな分岐点なのだろう。懐疑主義者であろうとするなら、まず最初に疑うべきは自分自身なのかもしれない。

 本書が単に一つの分野への批判で終わっていない点はここにある。とりあえず、自称中立の人たちは本書を百回くらい読んだらいいと思う。

ソラリスの陽のもとに/スタニスワフ・レム

 二度映画化されている古典SF。学生時代に一度読んだきりだったのだけど、ものすごく久しぶりに再読……というより、ほとんど忘れていたので初めて読んだようなもの(^^;

 二重恒星系の周りをあり得ない軌道で回る惑星ソラリス。その原因はこの星の表面の大部分を占める”海”にあった。この”海”はそれ自体が一つの巨大な生命で、惑星の動きをコントロールしていると思われていたのであった。人類は長年にわたってこの全く異質な生命とのコンタクトを試みるがことごとく失敗に終わる。そのソラリスの惑星ステーションにやってきた心理学者のケルビンは、この基地で異常な事態が発生していることを知る……。

 SFには多くの異星生物が登場するし、知性を持つものも少なくない。だが、ここまで圧倒的な”他者”として描かれた存在も珍しい。まず「生物である」というのも”海”の振る舞いを見た人間がたてた仮説に過ぎず、もしかしたらソラリスで起きていることは少し複雑な物理/化学現象でしかないのかもしれない(いや、それを言うなら、生命というのも「少し複雑な物理/化学現象」ってことになるのだが……)。
 それでも、異なる生命ということであれば、ずいぶん思索もされている、が知性となるとほとんどが人間のそれから大きく逸脱することはない。それは当然かもしれない、本書の中で、人が人以外の知性を求める動機について書かれている。少し長くなるけど引用してみよう。
われわれは人間以外の誰をも求めていない。われわれには地球以外の別の世界など必要ない。われわれに必要なのは自分をうつす鏡だけだ。(中略)そこでわれわれは自分自身の理想的な姿を見出したいと思う。

 結局の所、自分の姿を写す鏡として他者を求めているのに過ぎない人類に対して、ソラリスの”海”はあまりにも異質すぎた。だが、理解も共感も不可能でありながら、そこに確かに”知性”の存在を感じさせる相手がいれば、鏡として自らを映しださずにはいられないのか。もし、自分がその場に居合わせたら、やはりソラリスの”海”から、なんらかの悪意なり善意なりを受け取ってしまうだろうと思う。おそらくそこにはそんなものは存在していないだろうと知りながらも。

空の戦争史/田中利幸

 Apemanさんのところで紹介されていた新書本。実はしばらく前に読み終わっていたのだが、感想をまとめるのに時間がかかってしまった。
 第二次大戦のあたりから猛威を振るい始めた空爆――敵国の民間人を巻き込んだ爆撃――という戦法。だがその思想は、人間が空を飛ぶ手段を手にして間もなく生まれ、実際に試みられてもいた。いや、実際に空を自在に飛び回る機械・飛行機が発明される前から、相手の手の届かない高みから攻撃を行うというこの戦い方は、小説という形で夢想されてすらいたのだ。

 そして、飛行機が兵器として急速に発達していく第一次大戦では実際にこの戦法が使われていく。後に戦争の様相を変えてしまう空爆という手段は、思想としてはこの時期にほぼ出揃っていた。ただハードウェアの能力が低かった為に効果が限定されていたに過ぎなかったのだ。

 空爆というと、一般市民の殺傷を目的とした無差別爆撃と、攻撃対象を軍事目標に絞った精密爆撃に分けられる、と思われている。しかし、実際には精密爆撃が純粋に軍事目標のみに限定されたことは一度もなかったそうだ。これは、空からの攻撃というものが元々持っている不確実性によるところも多いのだが、空爆の特性から、軍事目標といえども基本的に狙われるのは非戦闘施設であるということもあるのだろう。思想的な背景が、前線での敵兵力をたたくのではなく、相手の後方、つまり生産・補給拠点を攻撃するというものだから当然である。そして、この思想に、陸・海軍に対する支援戦力という立場であった航空戦力を、独立した軍隊として認めさせようという思惑が見えるというのがなんとも。軍隊というのが典型的な官僚組織であるということを感じさせてくれる。

 そして、無差別爆撃の方はこの精密爆撃というのが実は大して効果が上がらないことから、その言い訳として生まれたようなところがある。生産力ではなく、相手国民に恐怖を与えて、戦争遂行の意思を削ぐ、というわけだ。これが成功すれば、実際に戦闘を行って兵員達に膨大な被害を出すよりも結果的には少ない犠牲で戦争を終わらせることが出来る、というのが無差別爆撃を主張するものたちの言い訳なのだが……そんなわきゃ無いというのは実際に起きたことを見ればあきらかである。

 意外な事に、第二次大戦で徹底的な無差別爆撃を行ったアメリカは、実際に戦争が始まるまでは無差別爆撃には否定的だった。これはアメリカが地勢的な条件から、本土を空爆される可能性がほとんどなかったことと無縁ではない。自国の非戦闘員に脅威が及ばないのであれば、敵国のそれに対して攻撃を行うというのは、フェアではないと感じられたのであろう。地理的に近く、常に相手からの空爆の脅威を感じているヨーロッパ諸国とは温度差があったのだ。
 実際にヨーロッパ戦線ではイギリス軍が無差別爆撃を行っているのに対して、形の上では精密爆撃を続けていた。だが、損害の割に効果が上がらないことから、徐々に無差別爆撃に移行していったようである。日本に対しては、人種的偏見もあった為に最初から抵抗は少なかった、というよりほとんどなかったようであるが。

 このように、無差別爆撃の引き金になるのは相手に対する恐怖の感情であるようなのだが、一旦始まってしまうと、相手の脅威が減じるにつれて爆撃の規模が拡大していくのである。対独、対日いずれの場合も抵抗が少なくなってからの方が熾烈なものになっていくのだ。もう一押しすれば相手を屈服させられるという感情がおこるというのもわかるのだが、この過剰な攻撃性はそれだけが理由なんだろうか? 
 

百億の昼と千億の夜/萩尾望都・光瀬龍

 光瀬龍の代表作といっていい小説を萩尾望都が漫画化した作品。仏教的な世界観をベースにした気が遠くなるようなスケール(なにしろ、インド人というのは桁外れにでかいスケールで物を考えてくれるようだし)を持った原作を、よくもビジュアル化したものである。時間的なスケールで言えば、宇宙の開闢から終りまで、そしてさらにそれを越えたところまで思いを馳せられるというのは、SFという形態でなければ味わえないところだろう。

 小説の方も読んでいるのだが、たぶん先に遭遇したのはこちらのマンガ版の方。だからオリオナエ、シッタータ、阿修羅王といった主要キャラクターたちは、先にこちらのイメージが浮かぶ。特に阿修羅王の造形は強烈で、破滅にあらがい、神よりも強大なものに戦いを挑む阿修羅たちの長が少女の姿をしているというのは、原作の光瀬龍の発想であるが、もうマンガ版の姿が焼き付いてしまって小説を読んでいてもこっちのイメージが頭に浮かぶ。

 そしてこの作品、全体を通して印象に残るのは、滅びて行く多くの都市に感じる寂寥感。かつて繁栄し、今は荒野の中で寂れて行くだけの街の姿。ものすごく遠くまで来てしまったという後悔にも似た感情。

 それにしても凄いのは、この作品が少年誌で週間連載されていたということ。黄金時代の少年チャンピオンって凄かったんだよ。

獣がいる

 十二国記の世界観のネタのひとつになっているということで、山海経を読んでみた。この本、古代中国怪獣図鑑として有名(?)なのだが、もともとは地誌/博物誌なのである。もちろんのこと、そこに書かれていることがすべてそのままその通りということにはならないのだけど。旅に出かけるときには必携のガイドブックってことになってたんだろうな。

 そんな本なので、結構記述はストイックだったりする。特に山経の方は本当に淡々と、そっけないくらいに簡潔である。
獣がいる、その状(かたち)は禺(さる)の如くで四つの耳、その名は長石、その声は人がうめくよう。

とか
獣がいる、その状は虎の如くで牛の尾、その声は犬がほえるよう。その名はテイ、これは人を食う。

とか、こんな感じで次々と妖しげな生き物が紹介されて行く。普通、怪獣とか妖怪とかって、なにがしかの物語がついていそうなものだけど(そして海経の方には、いくつかそういう物語も語られているのだけど)、そういうものは一切無しでただ単に、「これは人を食う」とあたかも当たり前の事実のように書いてくれる。この語り口には不思議な説得力がある。

 そして、そんな記述に混じって、
鳥がいる、その状は鴞(ふくろう)の如く、青い羽、赤いくちさき、人の舌、よくしゃべる

 なんて書かれているから、どんな生き物かと身構えてみれば、鸚鵡(オウム)だったりする。そういや、アニメ版の十二国記に出てたなぁ。

 獣がいる~、の文章はすっかり気に入ってしまったので、遊んでみたくなるな。

 獣がいる、その状、鹿の身(からだ)に馬の首、人面。よく人語をしゃべるが、解さない。その名を……。

 なんてね。

魔性の子/小野不由美

 先日のコメント欄で書いた十二国記(私は思いっきり間違えて書いとりますが(^^;)つい最近しばらくぶりに新作が発表になったということもあり、まだ未読の分もこのさい読んでしまおうと思った。

 十二国記は、中華世界風の異世界を舞台にしたファンタジー小説である。その世界には麒麟に選ばれた王がいて、妖魔がいてと、当然のように現実離れしている。しかし、まるっきり現代日本と接点がないというわけでは無く、まれに双方の世界で行き来が発生することもある。
 そしてほとんどの作品は、視点をあちらがわの世界に置いての物語になっている。それは、こちらがわの人間である中島陽子を主人公に置いた作品であっても変わらず、だからこそファンタジー小説になっているわけなんだが。

 この「魔性の子」に限っては、あくまでも視点はこちらがわに置かれている。そして、そうするとこれがホラーになってしまうのだな。何が違うのかというと、あちらがわの人物は、自分たちの住む世界とは異なる世界があり、時々そっちに流されたり、逆に異世界から人がやってくるということを常識として知っている。
 ところが、こちらがわの人間にしてみればそんなことは夢にも思わないわけで、今居る世界とは全く異なる理を持つ世界から干渉は、ホラーになってしまうわけだ。全く同じ世界観をベースにした物語でありながら、読んだ感触はまるっきり異なる。

 しかし、何が恐ろしいって、刊行順からすると、この外伝的作品がシリーズの一作目になるってところなんではないだろうか。私は本編の方から先に読んでいたから、ある程度この物語の中で何が起きているかはわかったんだが、いきなりこの物語に接した場合、本当にいったい何が起っているのか、もしかしたら最後まで読んでもはっきりとはわからないんではないだろうか? それだと、恐らくラストシーンにおける主人公の疎外感はもっと強く感じられたのではないかと思える。

 実は読む順番を間違えたのではないかと、ちょっと後悔している(^^; やっぱり先に読んでおくべきだったか。

マップス/長谷川裕一

 本屋に立ち寄ったら「マップス・シェアードワールド-翼あるもの」なんてのが出ていたので、思わず買って読んでしまった。「マップス」というのは長谷川裕一氏の長編SFマンガで、だいぶ前に完結しているものであるのだが、この本はその世界と共通する設定を持ったスピンオフ作品。なんて表現をしてしまうと味気ないか。本編の中では描ききれなかったあちらの世界のまだ語られていなかったストーリー集である。

 で、こういうものを読んでしまうと当然のごとく本編を読み返してしまうことになるわけだが。なんといってもこのマンガ、でたらめなスケールのでかさが最大の魅力である。スタート地点こそ地球なのだが、あっというまに全銀河のスケールにまで話がふくらみ、最終的には……えっと、どんだけ? さすがに、レンズマンを意識していた、というだけのことはある。あれもとんだ大風呂敷SFだったからなぁ。
 そしてこれだけ広げまくった大風呂敷をきちんとたたんでしまう力量もすごいものがある。ただ畳んだわけじゃなくて、広げまくったスケールはそのまんまで、スタート地点の地球に戻ってきちゃうんだもんな。

 そんなわけで、もとのストーリーの方は奇麗に完結しているわけだが、そこで産み出されたあまりにも魅力的な宇宙は読んだ人の中から消えずに残ってしまい、こんな形で再会することになった。そういやレンズマンの方もスピンオフ作品ってあるようだし。

……なんて思っていたら、本人の手による新作も出てたんだ。知らなかった。