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ココアな集会

 今日はしばらくぶりにCocoa勉強会に参加。ここ二回くらいキャンセルしていたので、ほぼ半年ぶりくらいの参加になる。
 今回は、勉強会に参加して初めて発表ということで、かなり緊張して行ったのだけど、まあなんとか無事に終わらせることが出来て良かった。私の本業もソフトウェア開発であるのだけど、やっぱり完全に趣味でやっているCocoaの開発の方が純粋に楽しめているのだなあ、というのを改めて感じた。
 採算とか考えなくても良いなら、ずっと好きな世界でやっていきたいのだけど、そうもいかんのだよねぇ。今の仕事は仕事として好きではあるのだけどね。やっぱりちょっと違うな、と感じた一日であった。

 パソコン通信時代からお世話になっていたソフトである、JEditやJTerm の作者である松本さんと会ってお話が出来たのも、かなり嬉しかったりする。

暮れてゆく空は/遊佐未森

 あまりにも奇麗な景色を見てしまうと、胸が痛いような、切ない気持になってしまうことがある。ちょうど今ごろの季節の夕暮れ時なんかは、澄んだ空気が終ってしまった夏を思いださせて特にそんな気分になってしまう。
暮れてゆく空は
戻らない季節のようで
淋しいけれど
いつもきれい

 この曲は、決して淋しい曲調ではなく、むしろ明るい感じすらあるのだけれど、未森さんの澄んだ歌声が、そんな風景を思わせる。いや、風景というよりその雰囲気まで一緒に。
 取り戻せないで過ぎていくものって、なんであんなに奇麗なんだろうね。

作詞:工藤順子
作曲:外間隆史
アルバム「ハモルニオデオン」

君の青春は輝いているか/佐々木功

 この曲は80年代の終わり頃に放映された特撮ヒーロー番組「超人機メタルダー」の主題歌である。私はこの曲を「お説教ソング」と呼んでいるのだが、ジェームズ三木先生入魂の歌詞がすさまじいすばらしいのだ。
君の青春は輝いているか
ほんとうの自分を 隠してはいないか
君の人生は 満たされているか
ちっぽけな幸せに 妥協していないか

 ヒーロー番組のテーマ曲でこんな歌詞。先生手加減無しです(笑) ここは歌い出しのところだけど、全編こんな感じの曲なのだ。これを佐々木功の声で歌われるんだから、なんかTVの前で正座して聴かないといけないような気になってしまう。
 しかし、自分の子供が「ちっぽけな幸せに妥協していないか」なんて歌ってたら親もびっくりだよね(笑)

 なんて、ネタっぽく書いてはいるけれど、実は私、この曲が大好きである。

作詞:ジェームズ三木
作曲:三木たかし
編曲:田中公平

みんなで歌おう

 またもや国歌ネタ。今回はあえて「音楽」カテゴリーで。
 
 色々書いたものの、私は国歌なんかいらない、とまでは言わない(反対している人の中にはそう考えている人もいるみたいだけどね)。ついでに、君が代も国歌としては相応しくないとは思っているけれど、別に嫌いってわけじゃない(好きじゃないけどね)。

 音楽とか歌には、ついこのあいだも実感したように、人と人の間の垣根をとっぱらってしまう力がある。だからみんなが歌える歌があるっていうのはかなり倖せなことのはずだ。国歌でも、みんなでカラオケとかに歌いに行ったときに、「じゃあ、シメに歌っちゃおうか」なんてノリで歌えるようなら楽しいではないか。なんつうか、お上を仰ぎ見て歌うんじゃなくてさ、自分たちの歌として歌えたらいいと思う。日本って国は、上にいる人間が作っている国じゃなくて、自分たちで作ってる国だろ、少なくとも建前上は。

 しかし、どういうわけだか、今の国歌のあり方って、逆に「歌う人」と「歌わない人」の間に垣根を造ってしまうように働いてるんだよな。それは大変な不幸だと思う。でも人間は一人ひとり違うのだから、全部が全部同じ歌を好きになるとは限らないじゃないか。だから無理して一曲に決めなくても良いんでないのかな。まあ一応君が代も残すことにしておいて。他にも幾つか作っとけば、君が代は歌えなくてもそっちなら歌えるかもしれない。
 コメントでタコラさんに教えてもらったように、他の国の国歌って勇ましいのが多い。独立戦争とか革命で出来た国だと、やっぱりそういう歌になりがちというのもあるだろうね。でも日本だとあんまりそういうのは似あわないような気がする。もうちょっとまったりしたやつでひとつ(笑)「さくらさくら」とかが良いって話もあるみたい。
 私、個人的にはこんなのがいいな。こっちでもOK。日本の国歌だとしても、歌うのは日本人だけじゃなくても良いじゃないか。

 もっとも、沢山あっても、卒業式は君が代じゃなければ駄目だとか言い出しそうだけどね。

バビロン5/第44話「シェリダン暗殺計画」

 原題「THE FALL OF NIGHT」
 シェリダン「不当な攻撃から身を守ってしまって申し訳ない」

愛と敬意が欲しいのであれば

 かなり昔、こんなことを書いたことがある。(人のブログのコメント欄でだけど)
「おねがいします」と言って差し出した手に、どう応えるかについては相手にまかせてあるから、握り返してくれた手の中に愛があるのだ。
最初から拒絶する自由を奪ってしまっていたら、あなたが手にしたのは愛ではない。

 学校で教えたいのは国旗や国歌に対する敬愛のはずだよね。だとしたら、「歌わなければ、立たなければ処罰する」と脅して従わせてしまったら愛も敬意も得られない、そうは思わないか?

 国歌だから歌え、国旗だから敬え、それは教育かよ?ってことだ。犬を躾けてるんじゃないんだからさ、国旗と国歌の意味をちゃんと教えた上で、それにどう向き合うかを本人に考えさせたらどうだ? いいか、小学生だって卒業するときには12歳、高校生なら18歳だぜ。自分の頭で考えさせろっての。

 その上で納得できない相手をどうするかだけど、他人を妨害するような行為はまずいかもしれないが、歌わないとか起立しないという程度のことに目くじら立てないほうがいいんでないの? 納得できなくても起立しろ、歌え、というのはつまり面従腹背しろと教えるわけだろ。それは教育としていいのか? 
 
 それでも起立しろ、歌えというのであれば、君たちが欲しいのは敬意じゃなくて追従なんだ、と思うことにするよ。

 ついでに、私が日の丸や君が代に対してどう考えているかはこちらこちらを読んで欲しい。
 
 うちのコメント欄はこんな方針なので、「通りすがり」さんからのコメントに対する回答を少し。
例えば会社で朝礼のとき、社歌を歌わなくてはならないとき、嫌いだからといって歌わなくても善いのでしょうか。

 私は忠誠心を量る道具として音楽を使うような相手は、誰であろうと一片の敬意も払いません。そのような会社であれば入社しようとは思わないでしょう。
 社歌を歌わないくらいのことで処罰するような会社はろくなもんじゃない、というのが私の評価です。
社会人には、公の立場と、私的な立場とがあると思います。
公の立場のときは、その規律に従わなくてはならないと思います。

 その規律は正当なのか? という異議申し立てに対して、憲法に照らし合わせて考えたら不当である、というのがこの判決ですよね。学校が不当な規律を教えるわけにはいかないでしょう。

DESTINATION/中森明菜

 知らないうちに新しいアルバムが出ていた(^^;
 私は歌い手としての彼女は大好きなのだけど、じゃあオリジナルのアルバムで良いのがあるか、というとちょっと悩んでしまう。正直言うと歌姫シリーズみたいなカバーアルバムとか、ベスト版とかの方が好みなんだよね。

 というわけで、かなりしばらくぶりに買ったオリジナルアルバム。序盤は割と流して聴いていたのだけど、6曲目のGAMEから目が覚めました(笑)なんか本領発揮という感じ? このアルバム10曲目の落花流水にピークがあると思うのだけど、ひさしぶりにぞくぞくきましたよ。最近あまりメディアに出てくることも少なくなってしまったけれど、活動を続けていって欲しいな。やっぱりいいよ。

収録曲
紅夜 -beniyo-
嘘つき
Seashore
眠れる森の蝶
鼓動
GAME(アルバムヴァージョン)
夜の華
華よ踊れ(アルバムヴァージョン)
LOVE GATE
落花流水(アルバムヴァージョン)
Only you
Grace Rain


Akina Nakamori - Destination

異議があります!

 国旗掲揚時、都教委の教職員への起立強制は違憲…地裁
 国旗国歌の強制に対する違憲判決ということで、確かに喜ばしいことではある(地裁なので上でひっくり返される可能性はあるのだが)。だけど、ちょっとだけひっかかるのだよ。それは、
判決はまず、「日の丸」や「君が代」について、「明治時代から終戦まで、皇国思想や軍国主義思想などの精神的支柱として用いられ、国旗、国歌と規定された現在でも、国民の間で中立的な価値が認められたとは言えない」と判断。

 こういうところ。もしこれらに中立的な価値が認められていれば問題ないのだろうか? こっちのエントリーでの非国民さんのコメント、
音楽を心から愛し、かつ、音楽の喚起する情動こそが国境を越えると期待するものにとって、これほどの侮辱はありません。

 これに深くうなずいてしまう身としては、いかなる曲であれ強制的に歌わせたり、起立させたりすることはちょっと許せないのだ。音楽というのは忠誠心を試すための道具に使うものじゃないぞ。私にとっては音楽に対する愛情の方が祖国愛を上回るのだ。

 例えばさ、私の好きなこれとかこれ。もしこれらの歌をけなされたり、「そんなもの歌うな」と言われたりしたら頭に来るだろう。 だけど、だからといって歌わなければ処罰する、なんとことをされたら悲しい。自分の好きな曲のために他人が処罰されるなんてあんまりだ。

 断言してしまうが、これらを強制している人たちは、君が代自体は好きでもなんでもないのだ。ただ自分たちに従わせるための道具に過ぎない。でなければ強制なんてまねは出来るものか!

失ったもの

 ちょっといまさらではあるのだけど、イラクの大量破壊兵器の存在に続いてアルカイダとの関係も否定され、アメリカがイラク戦争の根拠が無くなってしまった。
 ところでこの期に及んでまだこんなことを言っているわけだが、たとえその時点でどれだけ合理的な理由があろうとも、大量破壊兵器があるという判断は結果として間違えていたことに変わりはない。もっとも、誤ってはいないというのは、”アメリカを支持したこと”の方だと言いたいのであろうから、実際に無くても問題はないってことなのだろう。

 イラク戦争開戦前にはずいぶん反対の声もあった。大量破壊兵器の存在やアルカイダとの関係についても疑問視していた人もいたように覚えている。一方で賛成の理由としては、北朝鮮のような国があることを考えると、アメリカに逆らうことはできない、というものがあった。北朝鮮の軍事的な脅威に対抗するためにアメリカの軍事力を当てにしている以上、反対は出来ないという考え方だね。

 さて、その後北朝鮮の軍事的脅威は減ったのだろうか? イラク戦争当時から、北朝鮮の軍事力のうち日本にとって直接脅威となる可能性のあるものは弾道ミサイルだけだ。一般戦力はほとんど問題外だろう。で、弾道ミサイルというのは、防ぐことが非常に難しい兵器ではあるのだけど、通常弾頭を使っている限り脅威は大したことはない。
 だが、弾頭に大量破壊兵器を使われると、とたんに厄介な兵器に変わる。別にすべてを核弾頭にする必要なくて、通常弾頭の中に少しだけ紛れ込ませるだけでも防御側の負担が大きくなる。飛んできたものをすべて落とさなければ脅威が消えないからだ。なので、大量破壊兵器を所有するのとしないのとでは、脅威のレベルが全く変わってしまう。

 ところで、イラクの場合、大量破壊兵器は持っていなかったにもかかわらずアメリカに攻撃されてしまった。イラク戦争の前は、アメリカと敵対関係にある国にとって、大量破壊兵器を持っていることが国防上のリスクになっていた(建前としては)。これがイラク攻撃のおかげで、持たないことが安全を保障しなくなってしまった。そうなれば自国を守るために、大量破壊兵器を持とうとするのは当然である。イラク攻撃はかえって北朝鮮の脅威を上げてしまったのではないか。

 それともう一つ、このときアメリカを全面支持したことで、北朝鮮に見限られた様な気がするのだ。北朝鮮はこのときまでは、日本にアメリカとの間の仲裁役を期待していたのではないかと思うんだ。ところが、ほとんど自身では判断することなくアメリカの後ろについていく姿を見て、「使えねぇ」と思われたんじゃないか。だったら直接アメリカと交渉した方がいい。そう判断されたんでは? どうもこのころから日本の扱いがぞんざいになったような気がする。(いや、ちゃんとおっかけたわけじゃありませんが)

効果あったかも

 八月の頭にやせようと決意してから一月半くらい経った。で、成果はどうかというと……痩せました、2.5kg(もしかしたらもうちょっと)くらい。
 運動もあるのだけど、食事の量を全般的に減らしたのと、寝る前に何か食べるのをやめたのが大きいかも。
 さて、最近iPod nano買ってから、ちょっとこれが気になっている。一応正式対応しているのはNikeだけなんだけど、他のメーカーのでも無理すればつかえないことも無いらしい。日本での発売はいつくらいになるんだろう。
 

補充物資

 近所のスーパーには置いてないので、今日、二駅ほど足をのばしてこいつを補充してきた。

 タンドリーペースト。これがあればタンドリーチキンを作るのにほとんど手間がかからない。その割には美味しいので良く作るのだが、これ一瓶で数ヶ月は持つので結構リーズナブル。今日買いに行ったら、同じメーカーのカレーペーストがあったので次は買って使ってみようかと思ったり。

 とか言いながら、今日の晩飯は水餃子だったのだけどね(笑)

バビロン5/第43話「謎の尋問者」

 原題「COMES THE INQUISITOR」
 セバスチャン「哀れだな、おまえは肩書きや家柄や他人の呼び名に頼らなければ、自分は誰かという簡単な質問にも答えることができないのか?」

グエムル 漢江の怪物

 今日はジャバさんのところハムニダ薫さんのところで絶賛されている「グエムル 漢江の怪物」を見てきた。以下、ネタバレを含むので隠します。

買ってしまいました

 やっぱり買ってしまった。

 青いやつです。無くしてしまった30Gを買い替えようかとも思ったのだけど、見た目がまるっきり同じものをもう一度買うのはなんだかすごくしゃくなので、それについては来年あたりに予想されているフルモデルチェンジまで待つことにした。
 だけど、やっぱりiPod無しで通勤するのは寂しいので、nanoでしばらくはしのごうかと。どのモデルを選んでも、ライブラリの全曲は入らないから色の好みを優先することにした。黒も良かったんだけど、値段が30Gのやつと一緒だし。
 

安っぽい言葉

 以前、二回ほど犬を飼っていたことがある。犬種は二回ともポメラニアンだった。最初に飼った子は、良く言えば繊細、実のところかなりの意気地無しで甘ったれだった。ちょこっとどこかをぶつけたくらいでも、痛かったんだと訴えて来るような子だった。ま、それはそれで可愛いんだけどね。やっぱり小さい犬って神経質なのかな、なんて思っていたのだけど、二回目に飼った子はこれがまた正反対の豪快な性格をしていた。そりゃもう、こいつ神経無いんじゃないかというくらいに。

 こちらで取り上げられているkomichiさんのところに来たコメントを読んで、最初に思い出したのは最初に飼った犬のことだったりする(笑) コメントを削除されたくらいで「言論弾圧」とは、なんて”繊細”なんでしょう。そういえば、gegengaさんのところにも、簡単に言論弾圧とか言ってしまう人が来ていたっけ。これに関しては黒蜥蜴さんが詳しく考察してくれていて、私が何か付け加えるような所はないのだけど。まったく、なに甘ったれたことを言っているんだか。

 しかし、面白いのがこの手の人間に限って本当の言論弾圧に関してはやたらと鈍感だったり寛容だったりする。komichiさんの所に来ていた人がどうだかはわからないけれど、例えば立川の反戦ビラ事件についての見解を聞いてみれば、十中八、九、ビラを配った側が悪い、と言い出すことだろう。相手がリアルな権力を使ってくるような場合は、逆らうことなんかできないわけだ。でも、本当の言論弾圧っていうのはそういうものだぜ。

3・D天国(ヘブン)/PSY・S

 NHK「みんなのうた」で放映されたのだけど、どのアルバムにもベストにも収録されていない、結構レアな曲。「Monster's Dance」まで収録されている「GOLDEN☆BEST」にもなぜか入れてもらえなかった。
 ところがいつのまにかYOU TUBEにはアニメつきでアップされている。恐るべしYOU TUBE!!!。しかし、このアニメはありなのか?(笑)かなり微妙な出来だと思う。
 デジタルな歌詞なんだが、どこかにアナログな雰囲気を残している曲だ。PSY・Sにしては珍しく時代を感じさせるところがある。
どっちつかずはキライ
もっと毅然としなきゃ
カッコつけてもムダね
きっと見透かされてる

 なんでこの部分はこんなにノリがいいんだろうと思ったら、「どっち」「もっと」「カッコ」「きっと」と揃ってるわけね。

作詞:神沢礼江
作・編曲:松浦雅也
アルバム
「みんなのうた さとうきび畑」

ついに対応!

 昨日の深夜というか、今日の早朝というか、アップルのイベントで新しいiPodシリーズや映画ダウンロードも出来るようになったiTunesが発表になった
 実のところ、ほとんどは事前の噂で流れていたもので、iPod nanoのカラーバリエーションなんかは写真まで流出してたりするのだが、新型Shuffleはちょっと不意をつかれた感じ。初代よりもだいぶ小さくなっての登場。とはいえ、初代Shuffleのときに比べると携帯音楽プレイヤーの小型化と低価格化はずいぶん進んでしまったから初代ほどのインパクトはないかな。USBに直に差せなくなったのは減点かもしれない。

 どっちかというとあんまり期待してなかった分、iTunesの変化の方がインパクトがでかいかもしれない。アルバムジャケットサーチは視覚的にもかっこいいし、いままでアートワークを付けていなかった曲にもぜひ付けたいと思わせるものになっている。そして待望のギャップレス再生についに(というかようやくというか)対応! これは、もうずーっと前から対応して欲しいと思っていた機能なので素直に嬉しい。本来繋がっているはずの曲間が切れるのは結構なストレスで、その点だけはウォークマンがうらやましかったから。

 つうわけで、落としてしまったiPod(結局出てこなかった(;_;))の代わりに新型を買ってしまうかどうか検討中である。

それボランティアじゃないから

 以前、スターウォーズEP1の日本語字幕の訳が可笑しい、ということが話題になった。その中で「ローカルな星人」というのと並ぶ珍訳に「ボランティア軍」ってのがあったんだ。ここは「義勇軍」と翻訳するのが正しい。もともとボランティア(volunteer)ってのは義勇兵とか志願兵っていう意味がある。a volunteer armyってのが「義勇軍」ね。たぶんこれをそのまま「ボランティア軍」と訳してしまったのだろう。volunteerは動詞としても使われ、これは「志願する」とか「自発的になにかを申し出る」という意味になる。

 何にせよ「自分から進んで」というところが重要なわけ。ボランティア精神っていうのは本来そういう意味だ。だから、こんなふうに「ボランティア活動を必修化する」なんてのはおかしい(まあ、すでにあちこちで言われていることだが)。また、ボランティア活動を奉仕活動と言い換えたりしているが、奉仕活動=ボランティア活動ではないんだ。奉仕に対応する英語はserviceであってvolunteerじゃない。公に奉仕する活動はserviceなのね。military serviceって言ったら兵役のことだ。

 で、彼らの言い分から見て、養って欲しいのはボランティア精神じゃなくてサービス精神の方なんだろう。個人が個人として自発的に公の領域に係わっていく、というのがボランティア思想のキモのはずなんだが、そんなことは望んでいないのだ。あくまでもどんな奉仕をするかを決めるのは公の側であって、そこに個人の自発的な意志は欲しくないってことなんでないの。
 そうでなければ「義務化する」なんてボランティアから最も遠い発想は出てこないよね。

バビロン5/第42話「戦いの暗号通信」

 原題「THE LONG, TWILIGHT STRUGGLE」
 ジ・カー「独裁者も侵略者も武力によって民を永遠に拘束することは出来ない。宇宙で最も大きなパワーは自由を求める魂だ。そのパワーの前では政府も暴君も軍隊も決してかないはしない」

引力の虹を感じた日

 昨日はmixyPSY・Sコミュメンバーによる、4回目のオフ会。今回も二十名を越える大人数での開催となった。今回は映像オフということで、みんなで昔のライブビデオを突っ込み入れつつ見ながら、呑んだり食べたりしゃべったりしよう、というコンセプトだった。実は今回は私も企画側のサポートをしていた。

 場所は前回と同じパセラ池袋本店。このお店、オフ会での利用も多いみたいで、昨日も、他のオフ会のメンバーらしい胸からネームプレートを下げた人たちを見かけたのだが、ネームプレートだったら絶対負けないもんね(笑)今回もよしつぐさん制作の特製品である。

 またこんなクオリティ高いもの作っちゃって、次回どうするのよ(笑)

 そして、会場に入るとなぜか席にも着かず立ち話を始める参加者たち(笑)。今回は、前回と続けて参加の人たちが結構多かったので、3ヶ月ぶりの再会にすでにみんなテンション上がっちゃっているのだった(笑)

 なんとかみんな席に収まり(^^; オーダーも済んでいよいよ開始。ツアービデオなんて何度も見ているんだけど、ファンの人たちと一緒に見るというのはまた全然違う楽しさがある。つうかね、まさか曲に合わせて大合唱が起こるなんて思ってもいませんでしたよ(笑) 突っ込み入れつつ、まったり飲み食いなんて甘かったよ(^^;
 初めて参加する人もいるので、今回も途中で自己紹介タイムが入る。前回はぴやのさんが翌日が誕生日だったのだけど、今回はみをさんがついこのあいだ誕生日だったということで、またみんなで「ハッピーバースデー」を歌う。まだ知りあって間も無かったり、初対面だったりするはずなのに、なんだろうねこの懐かしいような和やかな雰囲気は。「引かれあう星と星のように」って「引力の虹」をちょっと思い出したりして(^^)
 そして、一次会の最後はやっぱりみんなでカラオケ。もうマイクいりません(笑)。みんない~い感じに壊れてたなぁ。

 一次会が終わって店を出てからあたりの明るさにちょっとびびりつつも、そのままの勢いで二次会、三次会と遊び続け、気がつけば終電間近。また11時間くらいぶっ続けで遊びとおしてしまった(^^;

 皆さんお疲れさま。楽しかった。また遊ぼうね。

歴史的に意義のある死ってなんだ?

 この前のエントリーにブックマークでこんなコメントがついていたんだけど、
無駄死にと言う言葉を使うことで、歴史的にある程度意義のあることについても無駄に死なせた者という責任を被せようとしている人もいるのでありましょう。

 もともと、あのエントリーが青狐さんの「褒めてごまかすメソッド」の影響を受けて書いたものだったのだ。個人の死に対して、”歴史的に意義がある”なんて形で持ち上げるのはどうかと思う。というのがまずひとつ。もっとも、このメソッド自体に賛同できないってことかもしれないね。
 とはいえ、もう少し考えてみて欲しい。歴史的に意義のあることっていうのは、生きているうちにするもんだろ? 死んでしまってからではできないよな。死人が何かしてくれるわけじゃない。だとしたらさ、歴史的に意義のあるような立派な仕事をした人を死なせてしまった、というのは追求されなくて良いのか? 死なずに生き延びてくれれば、もっと何かを為してくれたんじゃないだろうか。
 そう、”歴史的に意義のある死”という概念自体、私は拒絶したいのだよ。

バビロン5/第41話「あばかれるテレパス」

 原題「DIVIDED LOYALTIES」
 タリア「サイ・コープスは母であり、父だ」

無駄死にっていうと怒られるけれど

 青狐さんのエントリー靖国神社と「ほめてごまかすメソッド」を読んでの感想。
 ここで感謝とか敬意とかいう言葉によって何かがごまかされていると書かれているように、私もどうも英霊に感謝とかいう言葉には違和感を感じてしまう。「ありがとう」はなんかそぐわないんだよな。感謝の言葉をかける資格はあるんだろうか?

 戦死者に対して無駄死にという言葉を使うと「死者を冒涜するな」と怒る人がいるのだけど、無駄に死んだのは彼らの責任ではない。無駄に死なせた側の責任だろう。無駄死にと言う言葉を使わせないことで、無駄に死なせた者の責任を追及させまいとしているのではないか、そんな疑いを持ってしまうのだ。本来なら「無駄に死なせた」という形で自分に向かってくるはずの言葉を、死者に代わりさせている。死んでからも弾よけに使うのだろうか。

 彼らが無駄に死んだことを認めなければ、本当に彼らの死は無駄になってしまうんではないか、そんなふうに思う。

別の生物種であればいいのか?

 昔、といってもそれほど大昔じゃない。100年ちょっと前くらいのことだ。黒人と白人は同じ人類であるかどうかというのが真面目に科学者の間で議論になったことがある。黒人は白人に比べて劣った”種”であるから、黒人が白人に支配されるのは当然である、と考えた人たちがいたのだ。もちろん今ではそんなことは完全に否定されている(だが、まだそういうことを信じている人はいるかもしれない)。

 ではちょっと思考実験である。もしも仮に、この地球上に人類と似てはいるけれど、人類より優れた知性を持ち、人類よりも強大な力を持った生物がいたとしよう。彼らが人類に対して、「おまえたちは劣った種なんだから、おれたちが支配して管理してやるよ」なんてことを言い出したら、それを正当な主張と認めるかな?

外宇宙から知性体が訪れたとして、あんたは変な生き物だが人間として扱ってやると人類に言われて喜ぶと思うか? お前さんにとって人間は万物の尺度だが、俺にとってはとんでもない話だ

 平井和正「インフィニティー・ブルー」より。このセリフ、犬に言われているんだよ(笑)

人犬平等論

 小松左京の作品に「継ぐのは誰か」というのがある。この作品、ミステリー仕立てのSFとしてかなり面白く、長さもそれほどではないので、興味があったら是非読んでみて欲しい。
 このエントリーで取り上げようとしている「人犬平等論」っていうのは、この作品の中で「賢者」と呼ばれている人物によって語られた言葉だ。犬は人間よりはるかに下の卑しむべき存在なんかではなく、人間には勝手に犬を人間の上や下にランクづけする権利など無い、という彼の言葉は、当時高校生だった私にかなり大きな影響を与えたようだ。
 実際に単純に生物としての優劣なんてものはそんなに簡単に序列がつけられるものではない。個々の特質についてある種のほうがこちらの種より良く適応しているということは出来たとしても、その生物全体としての優劣なんて比べようもないんだ。
 そして「賢者」はこんなことも言っている。
犬を卑しみ、さげすみ、犬をぶち、犬を殺す人間は、ついには、人間をも、格づけ、さげすみ、ぶち、殺すようになります

 これは極論なのかもしれない。しかし、本来そんなに簡単に優劣なんて物を決められないのに、勝手に相手を上だの下だの決め付けて自分勝手な優越感や劣等感に躍らされている人間は、やっぱり他者に対して攻撃的になるのではないだろうか。
 本当に相手が平等な存在だと理解でき、同等の存在として尊敬できなければ、本当の意味で相手に協力を求めることなどできない、これもまた「賢者」の言葉だ。

(このエントリーはとある場所に書き込まれたコメントに触発されて書いたものである。その内容は書き写すのも嫌なのでここには書かないが……)

バビロン5/第40話「伝染病の恐怖」

 原題「CONFESSIONS AND LAMENTATIONS」
シェリダン「デレン、もしもう一度会えたなら、どうか私のことをジョンと」

バビロン5/第39話「マルカブ人の幻覚」

原題「KNIVES」
ロンド「麿の手は血で汚れた、過ちであろうとこの道を突き進む」