空の戦争史/田中利幸
Posted: 2008.07.31 (Thu) by うちゃ in 本の感想
Apemanさんのところで紹介されていた新書本。実はしばらく前に読み終わっていたのだが、感想をまとめるのに時間がかかってしまった。第二次大戦のあたりから猛威を振るい始めた空爆――敵国の民間人を巻き込んだ爆撃――という戦法。だがその思想は、人間が空を飛ぶ手段を手にして間もなく生まれ、実際に試みられてもいた。いや、実際に空を自在に飛び回る機械・飛行機が発明される前から、相手の手の届かない高みから攻撃を行うというこの戦い方は、小説という形で夢想されてすらいたのだ。
そして、飛行機が兵器として急速に発達していく第一次大戦では実際にこの戦法が使われていく。後に戦争の様相を変えてしまう空爆という手段は、思想としてはこの時期にほぼ出揃っていた。ただハードウェアの能力が低かった為に効果が限定されていたに過ぎなかったのだ。
空爆というと、一般市民の殺傷を目的とした無差別爆撃と、攻撃対象を軍事目標に絞った精密爆撃に分けられる、と思われている。しかし、実際には精密爆撃が純粋に軍事目標のみに限定されたことは一度もなかったそうだ。これは、空からの攻撃というものが元々持っている不確実性によるところも多いのだが、空爆の特性から、軍事目標といえども基本的に狙われるのは非戦闘施設であるということもあるのだろう。思想的な背景が、前線での敵兵力をたたくのではなく、相手の後方、つまり生産・補給拠点を攻撃するというものだから当然である。そして、この思想に、陸・海軍に対する支援戦力という立場であった航空戦力を、独立した軍隊として認めさせようという思惑が見えるというのがなんとも。軍隊というのが典型的な官僚組織であるということを感じさせてくれる。
そして、無差別爆撃の方はこの精密爆撃というのが実は大して効果が上がらないことから、その言い訳として生まれたようなところがある。生産力ではなく、相手国民に恐怖を与えて、戦争遂行の意思を削ぐ、というわけだ。これが成功すれば、実際に戦闘を行って兵員達に膨大な被害を出すよりも結果的には少ない犠牲で戦争を終わらせることが出来る、というのが無差別爆撃を主張するものたちの言い訳なのだが……そんなわきゃ無いというのは実際に起きたことを見ればあきらかである。
意外な事に、第二次大戦で徹底的な無差別爆撃を行ったアメリカは、実際に戦争が始まるまでは無差別爆撃には否定的だった。これはアメリカが地勢的な条件から、本土を空爆される可能性がほとんどなかったことと無縁ではない。自国の非戦闘員に脅威が及ばないのであれば、敵国のそれに対して攻撃を行うというのは、フェアではないと感じられたのであろう。地理的に近く、常に相手からの空爆の脅威を感じているヨーロッパ諸国とは温度差があったのだ。
実際にヨーロッパ戦線ではイギリス軍が無差別爆撃を行っているのに対して、形の上では精密爆撃を続けていた。だが、損害の割に効果が上がらないことから、徐々に無差別爆撃に移行していったようである。日本に対しては、人種的偏見もあった為に最初から抵抗は少なかった、というよりほとんどなかったようであるが。
このように、無差別爆撃の引き金になるのは相手に対する恐怖の感情であるようなのだが、一旦始まってしまうと、相手の脅威が減じるにつれて爆撃の規模が拡大していくのである。対独、対日いずれの場合も抵抗が少なくなってからの方が熾烈なものになっていくのだ。もう一押しすれば相手を屈服させられるという感情がおこるというのもわかるのだが、この過剰な攻撃性はそれだけが理由なんだろうか?