不羈の民
「国歌や国旗が嫌いなら日本から出て行け」みたいなことをコメント欄で言い出す奴とか、卒業式の国歌斉唱で起立しない来賓がいると「腸が煮えくり返る」人が教育長をやってたりとか、あるいは祝辞で「強制には反対である」というようなスピーチしたPTAを罷免したりとか、こんな話を聴いてしまえば、この学習指導要領の改訂がどういう結果をもたらすかということは想像できそうなものだろう。
何をどう勘違いしているのかしらんのだが、国旗国歌法に定められているのだから、なんてことを主張する人間もいる。しかしこの法律は単に「日本の国旗は日の丸です。日本の国歌は君が代です」ということを定めたに過ぎない。まあ、バターナイフをエクスカリバーと勘違いしたいというのは勝手ではあるが。それよりも問題は、少なくとも「国旗や国歌は敬わなければいけない」なんてことを法律で定めることはそもそも出来ない、ということを理解していない自称日本人がやたら多いことだろう。これは明らかに憲法で保障している思想信条の自由に対する侵害にあたる。
当然今回の改訂でも「君が代」についても「歌えるよう指導する」」
と決して強制するとは書いていない。いや、書きたくても書けないだろう。さすがにそこまで恥知らずではないだろうから。
しかし、前述の内容に過ぎず、さらに制定の際に「本法律において、国旗の掲揚等に関し義務付けを行うような規定は盛り込んでいない」とはっきり答えているにもかかわらず、このていたらく。「歌えるよう指導する」という通達がなにをもたらすと思うのだろう。私はこういうこと(愛国心を法律に書くということ)だと思うんだけどね。
中には、日本人でありながら国歌や国旗の意味を知らないのは問題であるとか、国旗や国歌に対する礼を知らないと恥をかくと言う人もいる。
だが、前者は知識の問題であり、後者は礼儀の問題。それを教えることにはむしろ賛成であるが、そのうえでどうふるまうかについて口を出される筋合いはない。そして礼儀というのは内心はなんでもいいから形だけでも頭を下げろ、と教えることではないはずだ。
これに関しては、以前に触れた十二国記の中の一遍「風の万里 黎明の空」の最後の二ページ程にある一連の問答があまりに素晴らしいので、思わず全部引いてきたくなるのだが、ここは特に強調したい部分だけ。(強調は引用者による)
礼とは心の中にあるものを表わすもので、形によって心を量るものではないだろう
地位でもって礼を強要し、他者を踏みにじることに慣れた者の末路は昇絋の例を見るまでもなく明らかだろう。そしてまた、踏みにじられることを受け入れた人々がたどる道も明らかなように思われる。
踏みにじられることを受け入れれば、「住まわせてもらっている」などとコメント欄で言い放つようになってしまうのだよね。それは「愛国心を持てない」などとは比較にならないほどの危険な状況であろう。この国の主人は私たち自身である、とは教えてもらわなかったのだろうか? 国歌や国旗の意味や、礼法などよりもはるかに大切な教えのはずだし、外国人に聞かれた時に恥ずかしいのはむしろこっちの発言だと思うのだがな。
はじめまして
うちゃさまの見解に同意します。
少なくとも民主主義国を標榜する限りにおいて、私たち自身が国を作っていく・愛される国にしていくという自律のほうが、(四の五の言わず)国を愛せと押し付けることよりどれだけ意味のあることか…。
2008.03.30 (Sun) | とみんぐ #- | URL | Edit