Posted: 2008.12.19 (Fri) by うちゃ in
意見など
「
歴史認識問題についていくつか」
上記のエントリーに始まった一連の議論、なんだか今年の正月に起きた一連の騒動を思い出す。
なんでも
南京事件は一つの例に過ぎないらしいので、それでは別のケースで考えてみることにしよう。
かつては有力な科学上の仮説であったが、現在では放棄された理論に
エーテルというものがある。古典的な光の伝搬物質という意味でのエーテルの存在は、今では否定されている(不要になった、と言う方が近い) そして、今でも”エーテルは実在する”と断言する人間はいる。
当然のごとく、専門家がまともにとりあうことはないし、一般常識のレベルであっても肯定されることはない。もちろん、教科書に”今も有効な仮説”として紹介されることもない。エーテル理論の居場所は、わずかにフィクションと科学史の中にあるだけであろう。このように、エーテル論者にとっては大変厳しい状態にあるわけだが、当然のごとく、「エーテルは実在すると断言する声に場所を与えるべきだ」なんておかしな事を言い出す人はまずいない。まあ、言ったとしても無視されるであろう。結局の所、エーテル理論の居場所としては妥当なレベルで収まっているということなんだろう。
エーテル理論のように宗教的にも政治的にもほとんどイデオロギー色の感じられない分野であれば、ただのマヌケな発言に過ぎないのであるが、もっとデリケートな題材を選べば、もちろん意味は変わってくる。例えば、エーテルの代わりに創造論を入れてみるとどうなるか。学術的な扱いとしてはエーテルと大差ないし、キリスト教の影響の少ない日本においては一般的にそれほど勢力のある主張ではない。だがアメリカではそうではない。そして創造論者は
権力をつかって自らの領域を拡大しようとしたことを考えれば、「場所を与える」などという発言があまりにも危ういものであることはわかるだろう。もし仮に、自然科学の体系が抑圧になっている、という主張を入れるにしても、それに対抗するに政治権力を使ったのではポストモダンどころか前近代への逆戻りである。
そして、歴史修正主義である。なるほど、確かに史学というのは不完全な体系かもしれない。研究者の思想的な偏りの影響も完全には除去できないのかもしれない。だが、まがりなりにも全国紙の紙面に、デタラメとしか言いようのない否定論が掲載され、自衛隊の高級幹部が否定論に立った見解を述べるとともに、隊での歴史教育をいじるこの日本の状況で、「否定論にも場所を与える」だの「声に耳を傾ける」だの、眠たいことを言うのもたいがいにして欲しい。
きみらの目は節穴なのか?