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天龍八部 第十二集

 喬峯の不幸スパイラルが始まったようである(^^;

天龍八部 第十一集

 主人公二人、タイプは全く別々であるが、どちらも英雄と呼ぶのにふさわしいと思う。

天龍八部 第十集

 あの読まれなかった手紙が鍵なんだろうな、きっと。
 

天龍八部 第九集

 いままでは段誉が中心だったが、しばらくは喬峯の方にフォーカスが当たるのかな。

天龍八部 第八集

 このペースは危険だ(爆)

天龍八部 第七集

 いつのまにか丐幇の方でも副幇主殺害という事件が。しかしやっぱり物語の比重は段誉の方が大きい。

天龍八部 第六集

 段正淳のクオリティがやばいことになっている(笑) 丐幇関係も、なにやらいろいろ進んではいるのだが、大理国編の方が面白くて今のところ影が薄いなぁ。

天龍八部 第五集

 一応、掃除もしたことだし、続き続き。

天龍八部 第四集

 これで一枚目終わり。

天龍八部 第三集

 ここまでなかなか快調である。やっぱり主人公に感情移入できるかどうかというのは大事だよな、うん。

天龍八部 第二集

 いかん、面白いぞ(笑)

天龍八部 第一集

 結局見始めてしまった。時は北宋後期、ということで、いままで見た金庸ものの中では舞台となる時代が一番古い。第一集だとまだまだ話が始まったばかり、キャラクターも顔見せくらいなのだが、例によってキャラクター別に感想を書いていこうかと。

雪山飛狐 第三十三集・第三十四集

冒頭からいろいろ貼られてきた伏線は一応決着……でも話はまだ続くのであった。


人間の測りまちがい/スティーブン・J・グールド

 このとき買った本命の方。読み終わったので、少し感想を。
人間の測りまちがい-上
人間の測りまちがい-下
 
「差別ではない区別だ」というのは、差別を肯定しようとする人がよく使うロジックである。客観的に違っているのは明らかなのだから、扱いを変えるのは当然、という主張である。本書で取り上げられている科学者たちも、客観的な”差異”を見出し”区別”しようとする。しかしグールドは、彼らの研究は偏見と予断にとらわれていたことを明かしていく。
 本書の前半で取り上げられている人たち、頭蓋の計測や脳の重さによって人間をランク付けしようとした人たちは、現代の視点からは奇妙な考えにとりつかれているようにも見える。しかし、後半、IQと知能テストの項目を読めば、彼らを全く笑えないことがわかるはずだ。先人たちと全く同質の誤りが、今もまだ繰り返されている。
 本書で一貫して批判されているのは、「知能というのは生得的な能力であり、単一の尺度で直線的にランク付けできるものだ」という考えだ。科学者たちはこのことを証明しようと多くの”客観的な”データを集め、統計を取り、自説の正しさを主張してきた。だが、データの収集、統計処理、そして結果に対する考察、すべてのプロセスに予断や偏見が入り込んでいたことをグールドは明らかにしていく。それはこうした丹念な検証が行わなければ見過ごされていたかもしれないことではある。そしてこれは、この問題に限った話ではあるまい。おそらく彼ら自身、自分の中にある偏向を意識してはいなかったのだろう。自身はあくまで中立で客観的な考察を行っていたと考えていたようである。自らの偏見に気づくことができるかどうかというのは、科学者にとって大きな分岐点なのだろう。懐疑主義者であろうとするなら、まず最初に疑うべきは自分自身なのかもしれない。

 本書が単に一つの分野への批判で終わっていない点はここにある。とりあえず、自称中立の人たちは本書を百回くらい読んだらいいと思う。

雪山飛狐 第三十一集・第三十二集

 なんか今回、田帰農の一人勝ちのような気がするな。

異論の居場所

 「歴史認識問題についていくつか
 上記のエントリーに始まった一連の議論、なんだか今年の正月に起きた一連の騒動を思い出す。
 なんでも南京事件は一つの例に過ぎないらしいので、それでは別のケースで考えてみることにしよう。

 かつては有力な科学上の仮説であったが、現在では放棄された理論にエーテルというものがある。古典的な光の伝搬物質という意味でのエーテルの存在は、今では否定されている(不要になった、と言う方が近い) そして、今でも”エーテルは実在する”と断言する人間はいる。
 当然のごとく、専門家がまともにとりあうことはないし、一般常識のレベルであっても肯定されることはない。もちろん、教科書に”今も有効な仮説”として紹介されることもない。エーテル理論の居場所は、わずかにフィクションと科学史の中にあるだけであろう。このように、エーテル論者にとっては大変厳しい状態にあるわけだが、当然のごとく、「エーテルは実在すると断言する声に場所を与えるべきだ」なんておかしな事を言い出す人はまずいない。まあ、言ったとしても無視されるであろう。結局の所、エーテル理論の居場所としては妥当なレベルで収まっているということなんだろう。

 エーテル理論のように宗教的にも政治的にもほとんどイデオロギー色の感じられない分野であれば、ただのマヌケな発言に過ぎないのであるが、もっとデリケートな題材を選べば、もちろん意味は変わってくる。例えば、エーテルの代わりに創造論を入れてみるとどうなるか。学術的な扱いとしてはエーテルと大差ないし、キリスト教の影響の少ない日本においては一般的にそれほど勢力のある主張ではない。だがアメリカではそうではない。そして創造論者は権力をつかって自らの領域を拡大しようとしたことを考えれば、「場所を与える」などという発言があまりにも危ういものであることはわかるだろう。もし仮に、自然科学の体系が抑圧になっている、という主張を入れるにしても、それに対抗するに政治権力を使ったのではポストモダンどころか前近代への逆戻りである。

 そして、歴史修正主義である。なるほど、確かに史学というのは不完全な体系かもしれない。研究者の思想的な偏りの影響も完全には除去できないのかもしれない。だが、まがりなりにも全国紙の紙面に、デタラメとしか言いようのない否定論が掲載され、自衛隊の高級幹部が否定論に立った見解を述べるとともに、隊での歴史教育をいじるこの日本の状況で、「否定論にも場所を与える」だの「声に耳を傾ける」だの、眠たいことを言うのもたいがいにして欲しい。

 きみらの目は節穴なのか?

 

こ、これはいったい!?

 ちょっくら思うところがありまして、今日はある本を買いに出かけていったのですが、目当ての本を手にした後、売り場をうろついていたら妙な表紙のこんな本が?

「伝説の乗り物」がわかる-ノアの方舟、ペガサスからノーチラス号まで

 なんか、猫に車引かせてますけど!? 何この人。

 というわけで、思わず手に取ってしまい、中身を確認してみたところ、どうやら北欧神話の女神フレイヤ様

 馬車ならぬ二匹の猫に引かせた猫車に乗っていたらしい。
 確かに、この本に収録された乗り物の中で、絵にしたときのインパクトは一番大きいかもしれない(笑) つうか虐待してるように見えるんですが(^^;

*本命の方は読み終わったらなんか書くかも。

雪山飛狐 第二十九集・第三十集

 なんか構成に失敗してるような気がするんだが。

懐かしのゲーム

 iPhone用に懐かしのRPG、Rogueがリリースされたそうだ。懐かしの、などと書いておいてなんだけど、実はやったことないんだけどね(^^; 「トルネコの大冒険」の元ネタになったゲームだということは知っているんだが。

 この手の移植ゲームってもっと出てきても良さそうだが、アスキーさん「フリートコマンダー」とか出しません? ってか作っていい?

雪山飛狐 第二十七集・第二十八集

 そして時は流れて……

武侠スペシャル

 というMAXAMさんのプロモーションDVDを手に入れてしまった。収録されているのは武侠ドラマが八編と歴史ドラマが四編、そのほか現代劇やら香港TVBドラマなどのプロモーションビデオ。
 もちろん、プロモーション用なので、どのドラマも面白そうに見えるのだが、こちらで強烈な勧誘を受けてるおかげで、天龍八部が気になって仕方がない。これがまた、えらく面白そうなのだ。
 そういえば、去年の暮れもくだくだだったあるドラマの鬱憤を晴らすかのように、別のドラマを一気に見たような記憶が(^^;