「のんびり力」を磨け
我々は、子供の時からいつも急き立てられ、せかせかさせられながら生きている。
少しでもぼーっとしてたら、「ぼーっとするな」、「きびきびしろ」と叱責され、「あれをやれ」「これもやれ」と指示された。
しかし、立派にものごとを達成し、幸福になる秘訣はぼーっとすること以外にない。
吉本隆明さんは、子供たちがぼーっとしているのを邪魔するくらいなら、我が国最大の思想家が自ら買い物カゴを持って買い物に行ったと言う。
多くの子供たちが、毎日のように塾やお稽古ごとに行かされ、ぼーっとしている暇もないが、もし行くなら、ぼーっとする稽古をさせてくれる塾にでも行けばいい。何かしていないと不安になるようなら、立派なノイローゼ候補者だ。
ぼーっとした自殺者なんていない。
運気というのが、せかせかしているなど聞いたこともない。
運気はゆったりしている。それにあわせて呑気(のんき)にしないと運気に同調するはずがない。
そもそも、「のんき」の正しい文字は「暖気」で、春のような暖かな気である。それはやわらかく、ゆったりとしたものに違いない。
「善は急げ」とか言う。それはあくまで「善」である場合だ。善とは、例えば、餓えている人に食べ物を持って行くとか、地震の被災者を救援に行くとかである。その時は急ぐべきだ。
しかし、自分のことはゆっくりやれば良い。
コリン・ウィルソンは、右脳に秘められた強大なエネルギーを汲み出すには、左脳のスピードを落とさないといけないとか言い、それについて難しい説明をしていたが、一言、「のんびりしろ」と言えば良いのだ。頭の良い人は、時に困ったものである。
私はコンピュータソフトの開発を仕事にしているが、急いで仕事をした時はロクなことはない。
ほとんどいい加減に、よそ事をやるついでにやったくらいで上手くいく。のんびりしている時に、良いアイディアが浮かんだり、致命的な間違いに気付くのだ。そのアイディアや気付きがなければ、結果は悲惨なものになりかねない。もちろん、設計手法やプログラミングテクニック等はある程度修得しないといけないが、それすら、のんびりやらないといけない。「C言語を1日でマスターした」なんて自慢したがる者はどこにでもいるが、放っておけば良い。ピッチングを1日でマスターした野球投手なんていないのだ。
もう忘れられかけているが、プロレスのジャイアント馬場さんのファイト振りがスローモーなことがよく笑いのネタになった。しかし、ライバルのアブドーラ・ザ・ブッチャーが、「馬場はゆっくりくる」ことを恐れ、かつ、賞賛していた。数少ないが馬場さんが大敗した時なんてのは焦った時だし、名勝負では、相手は馬場さんに焦らされて負けているのだ。勝ちを焦って飛び込んで行く時なんてスキだらけなものだ。
私は、最近、どうやればのん気になれるかばかり考えている。これほど大切なことはないと気付いたからだ。
私が、高校生の時、教師の言葉で唯一憶えているのは、「今の若い者は、『急がば回れ』ということを知らない」だ。私の中にもある叡智が観応したから憶えているのだろう。
ジョセフ・マーフィーがよく、聖書の詩篇にある「私は山にむかって目を上げる。わが助けはどこから来るのだろうか」という言葉を解説なしに引用していた。
正しい意味は知らない(神父や牧師の解説は難解過ぎる)が、「神様を信頼し、のんびり待ってろ」程度に考えている。
無限の力を秘めた無意識には時間はない。だから、夢中になって無意識でいると時間感覚が意識と全く合わない。あっという間に数時間経っていたり、逆に、一瞬の間に濃い体験をする。それは、意識が自分を引っ張り回さない時、つまり、せかせかしておらず、のんびりしている時だ。神がかり的に偉大なことがなされるのは、そんな時である。
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