一日中やること
新渡戸稲造は「武士道」で、毎日、必ず実行する修行のようなものを持つことが大切であると言う。
そう言われれば、一流の人物には、単なる日常の習慣や生業とは別に、特別に行う何かを持っているのではと思う。
新渡戸稲造自身は、水行(冷水を浴びること)と決めたが、風邪をひいて高熱のある日も休まずに実行して医者に怒られたというが、そのくらいの心構えは必要と思う。
確かに、こういったことの効果は大きいのではと思うが、さらに先に進み本物になるには、一日に一度の制限付きでやるのではなく、一日中やることが大切である。
毎日、瞑想をする習慣があるのは良いことであるが、それがそんなに良いと分かれば、一日中やらないといけない。
この意味は難しいかもしれない。
岡田式静坐法を創案した岡田虎二郎は、静坐は一日中やるもので、生活しながら静坐するようでは駄目で、静坐しながら生活するようでないといけないと言った。
いくらか具体的には、一日中、腹に力を入れろと言ったという話があるが、これには意味するところがあるのだろう。
岡田虎二郎は、腹に力がつけば金はいくらでもできると(おそらくどうでもいいことのように)言ったが、それは直感的にも正しいと思う。
その虎二郎も崇拝した法然は、念仏の教えを説いたが、やはり一日中、実際に念仏を唱え、その数は一日6万回であったという。まさに、念仏しながら生活していたと言うか、生活イコール念仏であった。
また、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠も、常に下腹に力を入れていたことが伝えられている。
腹に関しては、常に丹田(へその下10センチ程度の内側あたり)に意識を置けと言う者もいるし、内海康満さんは、意識すべきは本当は仙骨であると言う。
また、胃の裏側の太陽神経叢という者もあれば、臍であると言う者もいる。足立育朗さんは、意識を集中しろと言ったのではないが、潜在意識は膵臓(すい臓)にあると言う。
いずれにしても腹なのだ。アイドル歌手の中にだって、腹に手を当てると落ち着くので、歌う時も腹に手を当てると言う人が昔からよくいたし、そんな人は本当に魅力があった。あなたもやると良い。
武士はなぜ、腹を切ることで誠意を示したのかにも意味があるはずだ。
ラマナ・マハルシは、真我を実現する(悟りを開くとか、真の自己である神であることを実現するといった意味と思う)には、「私は誰か?」と自己を問い続けることが重要だと言うが、それは常に行わなければならない。
ある教養のない女性がマハルシに「私でも真我を実現できる方法を教えて下さい」と尋ねると、マハルシは、常に自分に向かって「私」と心で言い続けなさいと答えた。「私」というのは、最高のマントラ(呪文)であり、「オーム」というマントラでさえ2番目なのだと言う。
あるいは、「どんな想いが起こっても、その想いを追いかけず、『この想いは誰に起こったのか?』と尋ねよ。答えは、私にであるに決まっている。そこですぐさま、『私は誰か?』と尋ねよ」と言う。
マハルシの場合、身体の中で重要な部分はハートの座で、それは両方の乳頭の中心から指2本分右にあると言う。
禅の極意とは、やはり一日中やることであるらしい。飯を食うことも禅なら、寝ることも禅、女を抱くことも禅である。
心の一部の力を使って行うことにあまり意味はなく、大きな成果もない。心の全てを使った活動こそが我々を高みに押し上げるのだと思う。
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