著者が「読むな」と言った本
今日、名著として知られる本にも、著者は「読むな」「読ませるな」と本気で言ったものがある。
例えば、親鸞聖人の言葉を思い出して弟子の唯円が書いたと言われ、世界的にも賞賛される「歎異抄」は、最後に「外の人に見せないよう」と書かれていた。
親鸞の師である法然の主著とも言われる「選択(せんちゃく)本願念仏集」は、九条兼実(かねざね)という公家の依頼で書いたが、わざわざ最後に、気が進まず書いたと記し、一度読んだら壁底に埋めて、机の上などに置かないようにとまで書いている。
これには、現代では想像も出来ないような当時の事情もあった。それらを外部の者に見られたら、同朋にどんな災いが降りかかるか分からないし、実際、その危険は大きかったはずである。
しかし、理由はそれだけではなく、真理そのものが歪められるのを恐れたとも思えるのだ。
岡田虎二郎は、亡くなる前に書いたものは全て自分で燃やしたという。それで、虎二郎の教えは弟子によって「岡田虎二郎先生語録」として書かれ、一時は書籍にもなったが、現在は普通に入手する術もないと思われる。
アイザック・ニュートンも、数学や物理学関連以外のものは全て燃やしている。ニュートンは、科学はついでにやっていたと言われることもあり、錬金術や聖書の研究の方に熱心だったとも伝えられている。
D.H. ロレンスは、「無意識の幻想」のはしがきで、いきなり「一般の読者は手を触れぬ方が無難」と書き、その後、読むことを断念することを薦める文をしつこいまでに続ける。
「私は一般の読者向けに書いていない」「書いたものが市場に晒されるのは著者の不運」「読む資格があるなどと自惚れるな」「すぐにくずかごに捨てよ」と激しい。「限られた少数の読者」がいることは最後に認めるが、それでも、読まない方がどちらかというと最善であることをほのめかしている。
英文学者、詩人、画家であり、タオイストの加島祥造さんは、「肚(はら)」で「無意識の幻想」を賞賛しており、彼は限られた読者ということであるのかもしれない。確かに彼はそれに相応しいと思う。
ロレンスの場合、逆に、人々に関心を持たせるためのパフォーマンスであると勘ぐる向きもあると思うが、読んでみた結果、絶対にそうでないと思う。普通の人は読むべきでないと断言する。
お釈迦様は、文字自体がない状況であったとも聞くが、伝説によると、お釈迦様は悟りを開いた時、「こんなこと、普通の人に分かるはずがない」と思って入滅(早い話が自殺)しようとしたが、思い直したと言われる。
人々に読ませよう、読ませたい、読まれたい、伝えたい、知って欲しい、理解して欲しいというのは、ある意味、欲望で、そこに何らかの不純化が生じるのは避けられない。
そもそも、言葉というのは不完全で、齟齬や誤解が発生しないと考えること事態が間違っているのも確かだ。
著者が、「読ませない」ことを前提に書いたもの、あるいは、神話のような形で伝わったものの中にこそ本物があるのかもしれない。
カール・ケレーニイが、偉大なホメーロス自体より、名もない詩人がホメーロス風に書いた「ホメーロス讃歌」を重要視するようなことを書いているのを見たことがある。
自分がないこと。それが真理と同等であると私は感じる。
その中で、本というほどのものではないが、法然の遺言ともいえる「一枚起請文」(いちまいきしょうもん)や、一休禅師の遺言といった、ごく短い文こそ、まさに真理の書と思う。
一枚起請文
尚、一休禅師の遺言は、「心配するな、何とかなる」である。いざとなったら開けるようにと、臨終の際、弟子に渡したと言われている。
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