1-1 さんぽ:桃園川

桃園川、およびその支流

失われた桃園橋のこと

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桃園川に架かる桃園橋。この立派な橋が撤去された。

桃園川は杉並区と中野区を流れていた川だが、その遺構のありようは、2つの区で異なっている。
大きな特徴を挙げるなら、杉並区にはコンクリート蓋暗渠の支流が多く残り、中野区には立派な石橋が残る(両者、逆は少ない)ということ。中野区に残る立派な石橋は、かうしん橋、宮園橋、そしてこの桃園橋だ。この3橋はそれぞれに秀でた特徴があり、どれも良い。

その3橋のうちの一つ、桃園橋が撤去されることになった。
もともと、桃園橋付近は、周辺の店が建て替えられては後ろに引っ込んでゆくので、道路の拡張があるのだなと理解はしていた。桃園食堂であるとか、中野センターであるとか、実に味わい深い、古き良き建物がこの10年でどんどんなくなった。桃園川脇の食堂三好弥のみが、建て替わっても営業を続けてくれるので救われていた。


したがって、
「桃園橋もいつかなくなってしまうかもしれない。」
これは、何年もの間、頭の中に常にある心配事だった。

けれど一向にそんな気配もないし、桃園橋は御成橋でもある立派な橋(中野区の文献にもやたらと出てくる)なのだから、きっとこのままいけるのかもしれない。と、最近はちょっと安心もするようになっていた。

そんな中での、工事の情報。

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令和3年4月1日から、令和5年8月9日まで、桃園川緑道を一部通行止めする、という立て札。そして、桃園橋撤去の報。

嗚呼、ついにきてしまった。
一旦(なぜか)安心してしまったわたしにとっては、ジェットコースターのように落胆する感覚があった。

 

桃園橋はなんだか立派すぎるので、そういえばこの橋をきちんと見つめたことはまだなかったかもしれない。
どのような橋だったのか、ということを、手持ちの資料から少しだけまとめてみる。

『新編武蔵風土記稿』の中野村桃園図に、桃園川が寄生虫のようにニョロニョロと描かれる。ここに載る橋が桃園橋だ。

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吉宗が桃を植えさせ、行楽地とした中野の桃園は、現在のマルイの裏あたりの丘。中野五差路がその入り口であるという。
桃園は鷹狩りの場所でもあり、吉宗以降の将軍たちが訪れている。桃園橋は、将軍が桃園に鷹狩りに行く時の御成橋であった、というわけだ。
(中野五差路には、今でもなんとなく「境界」感がある。あの感じは江戸から続くものと考えると、少しおもしろい。)

将軍が通る際、桃園橋の橋板は「将軍のための橋板」に取り替えられる(赤絨毯のような感覚だろうか?)。その橋板を保管していた場所が橋場であり、「橋場橋」はもう少し下流にある(たしか、天神川との合流点近く)。
桃園川に架かる橋は数多あるが、桃園橋はとりわけ「重要」で、「有名」な橋だったのだ。

また桃園橋は、吉宗の頃には「石神井橋」と呼ばれていたと書くものもある。桃園川を石神井川だと勘違いした人による呼び方だと思うが、それゆえ「石神井橋」も間違いだろう。
前にも書いたことがあるが、桃園川はその呼ばれ方がある時期まで揺れている。公的な資料においても、だ。

中野町誌によれば、昭和7年頃の橋梁表には、桃園橋は”善福寺分流”に架かる”木橋”として載っている。幅は4.65m。
善福寺分流と呼ぶのは、天保時代に善福寺川から取水した天保新堀用水を桃園川につなげたことを考えると、間違いではない、とわたしは思う。

中野区誌に載る昭和12年12月の橋梁表には、桃園橋は、”桃園川”に架かる”鋼鉄桁橋”とある。令和まであったものと同一だ。

昭和18年の中野区誌には、桃園川は”中野川”として載っている。つまり、桃園川の名称がブレていた頃でも、桃園橋はすでに桃園橋であった。「桃園川に架かる橋」というよりは、「桃園に向かう橋」の意でつけられたということなのか。そもそも、いつ名付けられたのか。これまた、桃園川の名称同様、迷宮入りしそうなテーマである。

 

以下は、昭和8年の火災保険特殊地図に載る桃園橋。橋の様子はわからないが、もうこの頃には川の名前はさておき、「桃園橋」だ。そしてこの3年後、昭和11年に、桃園橋は立派なものに架け替えられる。

 

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撤去が知らされた後、メンズノンノから撮影協力の依頼が舞い込んだ。
宮沢氷魚さんが暗渠好きなので、どこかの暗渠で撮影がしたい、という。当初の依頼内容からわたしは違う暗渠を発想していたのだが、暗渠マニアックス間で検討し、桃園川にして「中央線」と絡め、桃園橋の勇姿も写してもらおう、という計画とした。

 

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桃園橋で談笑する、氷魚さんと高山氏。撮影日は奇跡的に3月末(この日になったのは氷魚さんの都合だったので、わたしはこれ以来、氷魚さんを「持ってる人」だなと思うようになる)。氷魚さんも、撤去の寸前であることを知って驚いていた。


撮影中、「この橋、私と同じ歳なのよ」と言って通り過ぎる女性がいた。その女性は桃園橋を愛おしそうに見ていた。
ここに川が流れ、橋があったことにも気づかない人がいる一方で、愛で続ける人もいる。その女性を引き止めて話したくて仕方がなかったが、撮影中だったので、おとなしくしていた。

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撮影のため、クルーは上流に遡っていく。これでこの姿は最後になるな、と思い、何度も写真に撮った。

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これまで撮った写真と、特に変わらないかもしれない。けれど、何度も撮った。そしてこの位置でしばらく、橋を見つめていた。いつになく去り難かった。

 

 

出来上がったメンズノンノには、まさかの暗渠が。桃園川に桃園橋が。これはもう宝物だと思って、大事にしまってある。

紙面だけではなくて、webにも記事があり、また、動画も残っている。桃園川撤去寸前の、貴重な記録といえる。
宮沢氷魚のタイムレスに会いに行く 第6回

この回のおかげで、宮沢氷魚さんのファンのかたが暗渠に興味を持ってくださるなど、うれしいことも起きた。暗渠はやっぱり、人をつなぐ。

 

 

4月1日以降、計画通りこの区間の桃園川緑道は通行が止められ、橋は覆われた。
しばらくは桃園橋はそこに佇んでいたが、ついにスッパリと斬られ、消えてしまった。

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撮影時に「同じ年だ」と言っていた女性の顔が頭をよぎる。あの女性は、どんな心持ちでこの道を通るのだろう。

 

一方で、この斬り方には、保存しようという意思も感じる(する気がなければ、砕いて終わりなのではないか)。この後、どこかで桃園橋を見ることができるだろうか? 中野区の資料館か、はたまたこの場所に剥製のように戻すのか。

(あえて、問い合わせていないので)その情報はないけれど、わたしはいつかその時がくるのを、待っている。

 

<参考文献>
『中野町誌』昭和8年
『中野区誌』昭和18年
『中野区誌 下巻二』昭和29年
中野区中央図書館「中野の橋あれこれ」H15
中野区立歴史民俗資料館 「地域教材情報 No.8」
中野区立歴史民俗資料館 「地域教材情報 No.39」


 

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プチ天保新堀用水ブーム、きたる (1)

以前撮った金太郎車止め写真を眺めていたら、2015年に3時間かけて杉並区成田西にある金太郎ストリートの写真を撮っていたことがあった。

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その写真をツイートしたところ、その家は現在更地になっている、というコメントをいただいた。

えーーー!

早速ストビューで見に行ってみる。

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本当だ。(ちなみに暗渠ハンター氏が年初にその情報をツイートしたそうだが、気づいていなかった。)

なんてこった。
ここは、桃園川に関連する重要な場所のひとつである。「天保新堀用水のトンネル出口があった」とされる家なのだ。

天保新堀用水とは、「桃園川の最大支流」として紹介することもあるが、江戸時代に苦難に満ちた大工事を経て善福寺川と桃園川とをつないだ、じつにドラマチックな人工水路である。
郷土資料にも数多く(そして長く)記述があるし、天保新堀用水に限定した講演なども行われてきた。個人的には青梅街道という尾根を用水路が越えたこと、掘削時から既に暗渠だったこと、あたりが凛々しくて大好きだ。地形好きな人が桃園川マップを見て「ここ尾根越えてません?」と不思議そうな表情をするときなんか、自分が掘ったわけでもないのに鼻高々になる。
…けれど、何度かトークの中に混ぜ込んだことがあるものの、なんというか話そうと思うと皆が知っているような気がして、あえて紹介しなくてもいいんじゃないか、と気が削がれ、地元情報が得られても、あまりきちんとまとめたことがなかった。

なぜか今になってこんなふうに、天保新堀用水のトンネルのことや、水路まわりの長年の営みを、まざまざとイメージさせられるような瞬間が訪れた。

おかげで、わたしの中に「プチ天保新堀用水ブーム」がやってきた。
ご近所探訪ブームの一種なのかもしれない。必然かもしれない。兎に角それは、さざ波のようにやってきたのだった。

だから、満足するまでこの暗渠のことを書いてみたい。

ちなみに北斎美術館の竹村学芸員が杉並で天保新堀用水の講演をされたさい、古文書における表記についても調べられていた。呼称はまちまちであり、決定的な名は実はないそうである。ひとまず、「天保新堀用水」をここでは用いていく。

まずは、きっかけとなった工事現場のことを改めて。

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この場所は、T家という、長く地元におられる家系の敷地である。長年この入口の植え込みに身を潜めていた、恥ずかしがり屋の金太郎がいた。

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今は、腹を括って社交的になっている。

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ストビューの後日、直接見にいってきた。すると門ができ始めていたので、(T家は健在なのだと)安心した。

ここに金太郎がある、ということは、水路が存在したことを意味する。
そして文献を見ると、水車もあったことがわかる。成宗(屋倉・田端)の水車。荻窪の古老、矢嶋氏の記憶画にも描かれる。
明治期の地図には、ちゃんと水車記号がある。

Img_5566東京時層地図「明治の終わり」より。この地図にはトンネルが点線で描いてあり良心的

現在の地図も見てみよう。

Img_5568水車付近を拡大。マピオンより

情報が統合されていない頃、わたしはこの地図中央の三角地帯に水車があったものと思い込んでいた。

2010yakuranosigemi このような、植え込みしかない三角形である。猛烈な水車感

しかしやや前の住宅地図を見ると、なんと、この三角スペースには家が建っていた。そうくるか…。
バブル期の地図では、金太郎がいるほうの道はまだ道になっていなかった。この三角スペースは、水路跡を歩道に昇格させ、バブル期以降に出現したようである。なお、この位置から下流の杉並高校に至る水路は、地図によって描かれ方が変わる、摩訶不思議なところがある。

さて。肝心の水車は、T家の庭にあったとされる。工事の尽力者の一人だったので、水車の恩恵はそのためなのだろうか。
水車は、「水神の小祠のところにあった」と書かれている。

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祠の位置が移動されていないとすれば、あそこが水車跡だ。この状況にある今だけ、見ることができる。

水路は矢倉台地をトンネルで抜けてくる。そのトンネル出口は、この敷地の西端だったと記される。わたしは地形等の状況から、「現在の敷地」ではなく、「かつてのT家の敷地」の西端と推測する。つまり、もっと西までが敷地のはずなのだ。

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おそらく、この車の後ろの崖に穴が空いていたのではないだろうか。

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台地に上がり、水路跡の方向を見る

 

水車が回っていた時代のことを、脳内CGで再生してみよう。
台地のキワにあけられたトンネルから、春から秋にかけ、どうどうと水が流れてくる。トンネルでは大鯉やウナギがとれたこともあるし、カワウソの巣もあった。トンネルは概ね、幅1.6m、高さ1.3m。水車堀もある。水車はその流れで回り、米・麦・蕎麦の精白や、粉の製作のために働いた。大正末期、モーターの普及により廃業するまで、働いた。

このいかにも人工的なトンネルと水路は、天保新堀用水の第1期工事により、出現したものである。


上流部の開墾により桃園川の湧水量が減ったこと、そして馬橋村にもともとあった桃園川支流(弁天川)が天保10年に枯れてしまったことを契機に(竹村氏の文献調査によれば、すでに天保7年時点で大打撃だったようだが)、水を得る必要が高まる。
流域の村は、善福寺川からの取水を代官所に依頼することにした。この記述から、桃園川の水量は善福寺川よりも心許ないことが想像される。

希望がかない、天保11年、工事開始。
善福寺川広場堰の取水口から矢倉台(先ほどのT家脇の台地)へのトンネル入口まで、また、矢倉台のトンネル出口から成宗弁天池の先、青梅街道手前のトンネル入口までを、開渠で掘削。トンネルは2箇所で、オール人力で掘っていった。「胎内掘り」と呼ばれる工法である。青梅街道のトンネル出口から先は、もともと存在する弁天川に接続することとしたが、改修もしているようだ。

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スーパー地形に、成宗弁天池までの天保11年ルートをプロット。点線部分は胎内掘り

しかしながら矢倉台周辺のルートは、善福寺川付近の土手にカワウソが多く、巣を作られて水漏れし、天保11年中に大雨により決壊してしまった。なので、当該ルートをここでは「失敗ルート」と呼ぶ。

翌年、天保12年に、善福寺川取水口から成宗弁天池までのルートを堀り直し。こちらは成功している。
ところが苦労した失敗ルートのほうも、人々はたやすく諦めなかった。修復し、用水路と水車場に用いた。それが、T家の水車と水路になっている、というわけだ。T家の人がカワウソの巣を見ていることも、話がつながり興味深い。

失敗ルートのトンネルに思いを馳せてみる。
トンネル(からみて台地上)には3箇所の「のぞき」(マンホールの用途)があり、丸太で蓋をしていたという。「のぞき」の上は畑だったそうだ。今は畑どころか、住宅とマンションが隙間なく建っているため、「のぞき」の跡も何も感じられない。

しかし、中の記録は存在する。新日鉄社宅工事中に胎内掘りが発見され、ニュースとなったことがあった。杉並区広報の記事を教えてもらったが、新聞にも載っていた。ゴツゴツとした、胎内掘りのてざわりが写真からも感じられた。

新日鉄社宅は、今はもうない。集合住宅になっている。

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成田西4−5。ここがおそらくそう。この建物の下にあったはずのトンネルは埋められ、いまは存在しない。

トンネルの入口は、このあたり。

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やや分かりづらいが、上から見下ろしたところ。この台地の下にトンネル入口があったという。

ここから取水口までは、開渠となる。遡って歩いていこう。

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崖下の、暗渠らしい道となる

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マンホールが印象的

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四角バージョンもある

 

以前、「桃園川探検隊」の方々とここを歩いたとき、これらの大径マンホールを見て「水門があったのかな?」と仰る方があった。こういったつくりは、中に一回り大きな人孔があることを意味している。下水道台帳を見てみる。

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「水路敷」のみならず「暗渠・公共溝渠」の表記もある。マンホールについては、内径180cmのもの(大きめ)であるということ以外、特徴的な情報は見当たらなかった。


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崖下のクネクネ路が、一直線の公園に変わる。この真っ直ぐな天神橋公園がそのまま失敗ルートの用水路の跡だ。この形をした水路の、古写真も残っている。この突き当たりが広場堰、善福寺川に出る。

以前は気づかなかったことだが、矢倉台を、天保新堀用水の隧道上に近づこうと思いながら歩くと、越境マンホールに出会いがちである。

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狛江からの越境蓋

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八王子からの越境。複数枚あった

現代版「のぞき」といえるマンホール。「のぞき」の痕跡はないものの、代わりにこういった面白いマンホール蓋に出会えるので、ここの場合は台地上を歩いてみるのもオススメだ。

どうも長くなりそうなので、数編に分けたいと思う。次記事に続く。

<文献>
高円寺パル商店街 「高円寺村から街へ」
杉並区教育委員会「杉並の通称地名」
杉並区郷土博物館紀要別冊 「杉並の川と橋」
杉並区立郷土博物館分館「荻窪の古老矢嶋又次の遺した記憶画」
杉並区広報
森泰樹「杉並区史探訪」
森泰樹「杉並風土記」

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阿佐ヶ谷暗渠マップ作成に協力しました

地図ラーの会さんにお声掛けいただき、阿佐ヶ谷暗渠マップに情報提供をしました。

もともとは、4月の最終週に阿佐ヶ谷でイベントがあったはずで、そのときに、このマップ付きの暗渠ツアーをおこなう予定でした。

阿佐ヶ谷の桃園川支流本流をめぐり、川の記憶や、微妙な地形や地割を少人数で味わうようなツアー。残念ながら中止というか、開催日未定の延期状態です。でも、折角つくったので、マップは出来上がり次第販売する方向となりました。5月5日、発売開始です(もう買えます、たぶん)。

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こんな表紙。発売中の他のマップに比べ、中央線色が前面に出ているような気が。
何故ロボットやハトがいるのか、わたしにもさっぱりわかりません。中央線はカオスだからか?そして高山氏の「うさんくささ」が見事に表現されているのには、感動してしまいました。(もしかして西荻にある某学習塾のポスターもヒントにしているのか・・・?!)
あ、大丈夫です、わたしたち全員、大真面目につくりました。

コンパクトサイズに折りたためて、A3表裏。うんちく面と、マップ面の裏表です。桃園川の本流と支流に、情報を集中させています(笑)。

橋を端折りがちな自分にしては珍しく、橋梁情報をそれなりに入れました。杉並区の昭和37年の橋梁マップを参考に。
桃園川の流路については、特に、阿佐ヶ谷の駅周辺の支流に関しては、いつも最後まで迷うんです。僅かな年代の違いによって描かれ方が変わるので、どこまで含めるのか、、と、今回もやっぱり迷いました。最終的には「昭和」であれこれ揃えました。

桃園川がイキイキするように、地元の方から聞いた話もあれこれと盛り込みました。今はもうなくなってしまったお店でインタビューさせてもらった内容、飲み屋さんで聞いた貴重な体験談、阿佐ヶ谷のもつ豊な人情味が紙面から伝わりますように。一方で、戦後ゴタゴタ系のお話は割愛しました。端折ったエピソードは、ツアーガイドのときにでも、さらりとできると良いなと思っています。
…これらの情報を、あの紙面内に見やすく可愛くおさめるスキルも驚異的!

さて、そんなわけで、ひっそりと発売を開始した阿佐ヶ谷暗渠マップ。こちらから入手できます。地図ラーさんたちの販売物一覧はこちら
阿佐ヶ谷近くにお住まいのかたは、何かのついでに歩いて楽しんでいただけますように。阿佐ヶ谷から遠いかたは、残念ながらまだしばらくはいらっしゃれないと思うんですが、この地図を眺めて妄想暗渠さんぽをしていただけたら、そしていつか来ていただけたら、と思います。

それにしても、チャチャっとこういうマップや冊子を作れてしまう、地図ラーの会長&副会長のコンビって最強だと思います。わたしには、何年かかってもまず作れない。こういう形で、桃園川暗渠のマップを作っていただけたこと、心から感謝します。

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さらなる天神川のこと

今回は、備忘を兼ねたちょっとした記事です。
桃園川支流である天神川(呼称が何通りかあり、わたしはこう呼んでいる)。
かつて何度か書いているものの、この記事で、流路の詳細を追ったのがおそらく最後。流路も水源と思しき池も、年代ごとに微妙に描かれ方が異なる、なかなか追手を惑わせてくれる暗渠だ。ごく最近になって下流部に支流の開渠が見つかるなど、目が離せない憎い奴。

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あるときふと「街ブラ研究会in中野」という情報が流れてきて、『東京「暗渠」散歩』の執筆者の一人でもある軍艦島の黒沢さんが、このエリアに馴染みのある人としてナビゲーターをするというので、参加してきた。7月の初め。
黒沢さんの子どもの頃は、この天神川跡の道はもっとジメジメとしていて、歩きたくない感じがしたそうだ。子どもの頃から暗渠を感じていたとは、さすが黒沢少年。
より下流の天神川のことを、親御さんが「あのドブが臭くて」と仰っていた記憶もあるのだそう。

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天神湯の裏側。
ここには、以前は湯を沸かすための木材が積まれていたという。そうか、煙突が折れてしまっことがずっと気になっていたが、もう木材は、つまり煙突は使われなくなっていたのか。

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天神湯の前の通り。
ここは北野天神社の参道ということもあって、店が並んでいる。
後から黒沢さんに「仕込みだったんですか?」と聞いてしまったほど、タイミング良く花屋の店主さんが現れて、あれこれ昔の話を教えてくれた。
花屋さんの口から、「その道はドブだった」という言葉が漏れ、思わず鼻息を荒くするわたくし。それはわたしたちが今、天神川の跡だと言いながら歩いてきた道のことだ。暗渠にされる前の姿をこの花屋さんはご存知で、なかなか汚かったという。

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我慢ができなくなり、思わず尋ねた。「あっちにも、もう一本ドブありましたよね?」
天神川の流路は、この天神湯付近では二本存在し、その「もう一本」の方が、実は現在の佇まいとしては上物なのだ。とても狭く、曲がりくねっていて、立ち入り禁止の秘められた感じがまた良い。

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花屋さんはもちろん、もう一本のこともご存知だった。
気になっていたことを、併せて訊いてみる。「どちらの方が後まで流れていましたか(暗渠化が遅かったか)?」・・・すると、「もう一本」の方が暗渠化が遅かったという。そして「もう一本」は、割と最後の方まで清流だったというのだ。
幅広の流路の方が排水路に転用され、そして汚いこと、住宅増加に伴い道路を増やしたかったことなどにより、先に埋められたのかもしれない。
狭い方の流路は、最後まで湧水が流れていたのかもしれないし、傾斜がありそうなので滞留しにくかったのかもしれない。さらに、狭い方の流路の脇には、近年まで、染物屋さんがあった。花屋さん曰く、遠くからもお客が買いにくるような、有名な染物屋さんであった、とのこと。ある時期までは、この天神川の清流を使って作業をしていたことだろう。
何回歩いても、新たな情報、人、謎と出会えるので暗渠はおもしろい。今回は、天神川の往時をより豊かに感じられる材料をいただけて、本当によかった。街ブラ研究会の皆様、花屋の店主さん、どうもありがとうございました。

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散歩の達人「中野・高円寺・阿佐ヶ谷」号に寄稿しました

6月21日に発売された散歩の達人に、暗渠(桃園川)で寄稿しました。
高山氏との共同執筆です。

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偶々、お話をいただいたとき、ここは支流がカオスだからと、「混沌」をテーマとした桃園川の該当エリア記事を書こうと思って。
そうしたら今回の特集ページをめくると、最初の方でも「混沌」がキーワードで。
まぁ、そうだよな。と思いつつ、「暗渠から見たこのエリア」が、街の特徴と重なっていることがやはりおもしろい。

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そして偶然か意図的なのか、暗渠のページが、目次の一覧からはどこにあるかよくわからない(暗渠的)・・・。
大好きな雑誌に書くことができ、非常に幸せでした。
ドバドバっと迫り来る物量、という、いまの散達からするとやや異色のページに仕上がっていることと思います。暗渠を良く知らない方が、「うわっ!」と少しでも気にしてくださったらうれしいです。

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荻窪暗渠展と西荻ドブエンナーレ

お知らせです。

9月からすでに始まっているのですが、、、11月27日まで、「荻窪暗渠展」開催中です。
場所は、杉並区立郷土博物館分館。天沼弁天池のあったところです。
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本日11月1日から、オリジナルコースター第三弾を、アンケート記入をしてくださった希望者に配布中です。もし興味のある方がいらっしゃいましたら、ぜひ。
もうひとつは明後日から開始の西荻ドブエンナーレ。
そのうち、上旬開催のイベントについてまずお知らせします。
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11月5日、13時からは、銭湯にて上演される暗渠演劇「一輪の書」。
Siro
おなじく11月5日、19時からはギャラリー数寄和さんで荻窪圭さん・駒見学芸員と中世&地形の「凸凸凹トーク」。
これらふたつは、申込が必要なのでぜひぜひお申し込みください。
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11月6日、13時からは、善福寺池のほとりで「水辺の茶話会」。水車アーティスト対談、水車とのコラボ演奏などがあり、雨天でも用意があります。
こちらは投げ銭制なので、ふらりと来ていただいて大丈夫です。
今週、暗渠まつりがはじまりますよ~。

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金太郎計測

今回は、「わかるひとにしかわからない度」が、非常に高い記事の予感。
しかし、どうしても調べたくなってしまったのです。
そのきっかけは、「阿佐ヶ谷暗渠マニアック!」の講演準備中、最近見返していなかった資料たちに久しぶりに目を通したときに現れたコレ。うっとりするような若々しい金太郎(注)がいたのでした。
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                     (”高円寺 村から町へ”より)

注:車止めは暗渠サインのひとつですが、かならず暗渠上にある、遊歩道と書かれた”杉並区オリジナルの車止め”というものが存在します。描かれたイラストが、熊&またがりまさかりをかついだ金太郎なので、諸々省略して「金太郎」と呼んでいます。

古くなり、どんどん姿を消してゆく金太郎。おそらく30年ほど前の写真で見ると、今見るよりもずっと真新しいので、見入ってしまいました。そして、ふと、あることに気が付きました。
・・・パネル部分の外枠って黒かったっけ?
Kitakinhiki
 
よく見る金太郎は、こんなふうに、最も外側は白いはずなんです。黒枠の金太郎なんて、いたかな・・・

手持ちの写真を調べてみると、いたいた!一体だけ、いました。
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六ケ村分水、今川支流(仮)上にある金太郎。
これは黒枠だし、最初の写真と同一のパネルのようです(設置場所は違います)

この今川の水色金太郎は、多くが赤か緑のなか「水色」というだけで(あとから塗られたものでしょうけれど)かなりのレア金太郎だったのですが、「黒枠」という点でもレアという、本当に希少種であることが判明した、というわけです。

さて、この白枠と黒枠、どうしてこのような違いが出たのでしょうか。
 
・車止め自体のサイズが違うため、トリミングして使われている
・使用年代か何かの違いにより、異なる業者が製造している
仮説はふたとおり挙げることができましょう。
まずは、1つめの仮説を検証するため、計測しに行ってきました。
Imakin0_2
 
今川の黒枠金太郎。横は内径45センチ、外径55センチ。縦は内径60センチ、外径70センチ。
次、白枠の金太郎。

Ozakin
 
小沢川支流上流端にいる金太郎。この真新しい緑色も、珍しいですね。
測ってみると、横は内径45センチ、外径55センチ。縦は内径60センチ、外径70センチ。おお、黒枠さんと同じサイズでした。
 
念のため、もうひとつ別な暗渠で測ってみましょう。
Kitakinhiki_2
 
桃園川北側流路(仮)の金太郎。
横内径45センチ、外径55センチ。縦内径60センチ、外径70センチ。うん、どうも、統一された規格があるようです。

ちなみに、この金太郎は顔が剥がれてしまっているので、もっと状態の良いはずの、上流部分のものを見に行きました。
Kitaima
 
と思ったら、いつの間にかなくなっていました。ああああああ・・・・・

Kitamukasi
阿佐ヶ谷は松山通りに面するところ。少し前までは、こんな風に鎮座していたのですが。
はぁ、残念。やっぱりどんどん失われていっていますね。

ところで、
Imakinkakudai
 
よく見るともう少しだけ、違いを感じませんか?

Ozakin0
・・・ほら。

並べてみると、
Hikaku1

うわぁ、顔、めっちゃ違う!!

ほかにも、細かいところが微妙に微妙に違っていて、

Hikaku2
もうこれは、違う人が描いたものといってよいでしょうね。
そして、違う業者さんに委託したと考えていいのではないでしょうか。
さきほど2つ掲げた仮説のうち、
・使用年代か何かの違いにより、異なる業者が製造している
こちらは残され、次なる検証をする必要が出てきました。検証材料としてなんの資料に当たればいいかは見えているのですが、結構時間がかかりそうなので、第一の検証はひとまずここまで。

白枠とか黒枠とかいうのもちょっとややこしいので、
「細眉金太郎」→杉並区に置いて現在ほとんどのシェアを占める白枠のほう
「太眉金太郎」→現在非常にレアになっている、黒枠のほう
と、眉で呼び分けたいと思います。
で、あちこちにある金太郎、ほんとに細眉でしょうか?・・・確認してみましょう。
Kitakinhiki_3
 
さきほどの、桃園川北側流路(仮)の剥がれちゃったやつ。
この金太郎だってよく見ると、
Kitakintarou
おおー、眉だったら片方だけ残ってるよ!!ヤッタ!
でもって、細眉金太郎でした!YEAH!

Igusahiru
井草川にある、後ろ向き君はどうでしょうか。
Igusakintarou
ああ、やっぱり細眉だ。
先日の展示用につくった金太郎顔ハメパネルはどうかな~?
Kaohame
 
おお。意識してなかったけど多数派だった。細眉金太郎だ。
ではでは、昨年作った、金太郎焼きゴテは・・・?

Yakiin
ああっ、なんと、眉が無い!前髪の切れ込み具合は太眉金太郎っぽく見えるけれど、これは珍種の眉無し金太郎だ・・・!

Kintaroupan
この眉無し金太郎、オズプラスのパン特集号にもちゃっかり載せていただきました。
はからずも、太眉くんと細眉くんがケンカしないですむ結果に。

Kintaroumukasimini
まあ、そんなこんなで、もう見尽くしたと思った対象にも、まだまだ秘められた奥深さがあるということを実感したのでした。
さあ、設置年度の検証等、つぎの作業もたのしそう。ですが、それはまた少し先の機会といたします。

この1年の間にも、少しずつ減っている金太郎。次歩くときは、眉毛の太さを確認したりなど、してみてはいかがでしょうか。
 

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勝手に暗渠強化月間の御礼と、ガード事件追記

まずは御礼から。

2週連続企画だった阿佐ヶ谷暗渠マニアック!(座学&フィールドワーク)、
カルカルでの境界集会、
4月のイベントが無事終了しました。
雨だったり、予定時刻より早く始まったり(笑)、いろいろありましたが、ご参加のみなさまにも、スタッフのかたがたにも、たいへんお世話になりました!どうもありがとうございました。
遡って先月の各種暗渠イベントにお越しくださったみなさまにも、改めて御礼申し上げます。
ひといきついたら、またエンジンをかけなおしたいと思います。

あ、そうそう、そうこうしている間に、東京スリバチ地形入門と東京暗渠散歩に増刷がかかりました。ありがたいことです。

今日は徒然書きになっちゃいますが・・・中央線ガードなすりつけ事件の追記をば。
あの記事を書いた後、中央線高架化の時期等について、情報をくださったかたがいらっしゃいました。おふたりの許可を得て、ここに掲載します。tweetをつなげるため、原文を多少変更しましたがお許しください。

「骨まで大洋ファン」さまからの情報。

交通技術1962年8月号に「中野―三鷹間線路増設工事」開始の記載あり。
昭和36年に高架工事着工とあるため、国鉄と杉並区の争いはスルーではないか。
「昭和32年頃から議論されていたという記載を考えると昭和33年に揉め事になるというのも奇異な感じが」とも。


(→「頃から」あたりが割と微妙なことで、当該エリアでは少し後から話が来たのかもしれません・・・あるいは「32年頃」という記述そのものがずれている可能性。などと、わたしとしては思います。)

「ふろっぐねすと」さまからの情報。

現在の中央線ガード(馬橋架道橋)は、昭和41年、中央線中野~荻窪間が複々線化されたときに完成。青梅街道の天沼陸橋の部分がネックだったので、この高架部分は昭和40年には完成していたのではないか。昭和41年の複々線化に先立って、先に中央線高円寺~阿佐ヶ谷間(前後を含む)の高架化も行われている。
複々線の用地を使って、複線の線路を1本ずつ上に上げていく。こちらは、昭和39年にはでき上がり、それから残った用地で、複々線にした。中央線の桃園川をまたぐ盛土部分は、昭和39年に高架化されて解消し、現在の形になったのは昭和41年。高架複々線の計画はおそらく昭和32年ごろにはできていると思われる。
昭和33年に杉並区と係争があって、同時進行で国鉄側は高架複々線化を計画中、高架化が6年後の昭和39年、そして昭和41年に現在の形、という流れ。杉並区と国鉄の係争は、「もうすぐ高架複々線にしてガードを広げます」という話になったのではないか。

(なるほど!とすっきりする結論!)

おふたりの情報を合わせると、ちょうどこのなすりつけ事件の最中か後に、国鉄が話を出して、いつのまにか騒ぎは収まったのかな、という気がします。骨まで大洋ファンさん、ふろっぐねすとさん、ありがとうございました!

その話題のガードの写真を、オマケで。

Gado
その昭和33年の杉並新聞の写真です。
この2年前、常磐線において、ガードの低いところをトラックが荷物を満載して通ったら上がぶつかって、線路をひんまげてしまい、列車が転覆したという事件があったそうで・・・

たしかに、そんなことになったら怖いし、この写真を見ると地元の人が騒ぐのも、さもありなん、という感じがしますね。

・・・ん。常磐線の低いガードっていうのも、もしかするともとは水路用だったりとかしないかしら・・・?(謎は続く・・・)

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3月イベントのお知らせ

3月後半、いくつか暗渠のイベントをしますので、ぜひいらしてください!
1つめ。 3月20日(日) 昼
西荻ラバーズフェス の古本屋ステージにて、
11:15頃から、
「ロスト・リバー・ハンティング~暗渠道入門」(トーク&ツアー)
少しだけ暗渠の話をして、1時間半ほどのツアーを行います。
ツアーは、フェス会場から始まって2か所の用水路暗渠(六カ村分水)をたどり、その地のむかしに思いを馳せるもの。特別に潜入?する場所もあります。
10~15名ほど、参加費無料。
当日会場で希望者を募りますが、予約者優先、予約されたい方は西荻案内所まで。
2つめ。同じく3月20日(日)夜は、
「観光まちづくりシンポジウム すぎなみ「道草のススメ」 桃園川と飲み屋街散歩」
というトークをします。
午後5時 ~ 午後7時
開催場所:細田工務店リボン館2階(阿佐谷南3丁目35番21号)
内容:杉並区内に迷宮のように広がる桃園川(暗渠)と中央線沿線に今も広がる風情ある個性的な飲み屋街をテーマに、歴史的背景から生み出される個性的な「まち」の形成について各専門家による独自の視点からお話し頂きます。
申込:当日、直接会場へお越しください。
講師:吉村生(暗渠研究家)、髙山英男(暗渠研究家)、小川勝久(マイタウン阿佐谷協議会会長)、森口剛行(阿佐ヶ谷飲み屋さん祭り実行委員長)、松原隆一郎(杉並まちなみ愛好家・東京大学教授)
定員:120名(先着順)費用無料
3つめ。3月21日(祝)は、船橋にて、
「暗渠マニアック!+千葉スリバチ学会 滝口さんと歩く城門川」
というまち歩き。
集合場所:飛ノ台史跡公園博物館(※)の入り口前に午前10時集合。
※東武アーバンパークライン(野田線)「新船橋駅」から徒歩約8分、東葉高速線「東海神駅」から徒歩約12分、京成線「海神駅」から徒歩約15分。
小雨決行(悪天候の場合の中止連絡は千葉スリバチ学会のページで行います)、途中参加、途中抜け可、参加費無料です。
午前の部 集合10:00 @飛ノ台史跡公園博物館
飛ノ台史跡公園博物館の山本さんに公園内、行田海軍無線塔跡地、日本建鐵跡地を説明していただきながら散歩をします。その後、昼食休憩。
午後の部 再集合13:00 @飛ノ台史跡公園博物館前
船橋地名研究会会長の滝口さんによる説明を聞きながら、城門川を水源から下ります。
申し込み不要。午前か午後どちらかだけの参加も可能です。
4つめは、3月22日~29日。
「松庵川展」を、西荻案内所で行います。
こちら、会期中にさまざまに形を変える、いきもののような展示になりそうです。
詳細は追って。
4月5月も予定あり、後日お知らせします!

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中央線ガードなすりつけ事件

今回は、東京人中央線特集号でボツになった、小ネタをひとつ。
中央線と桃園川を絡めた記事を書いたのですが、その中にどうにも組み込めなかった、暗渠が巻き起こした騒動のお話があるのです。お得意、杉並新聞からの情報です。


ではさっそく、昭和33年の阿佐ヶ谷~高円寺に飛んでみましょう。

                   ***

 

杉並学院高校(旧菊華高校)の周辺には、そのむかし、ぐるりと水路が走っていた。

Senro7

              東京時層地図「高度成長前夜」からキャプチャ

  

菊華高校のすぐ南を川が流れている。これは桃園川本流で、現在は緑道になっているところ。

ほかに水路は描かれていないものの、青丸の位置にも流れてくる傍流が、ある時期まではあった。いまは、北側支流や北側流路などと呼ばれる、非常に素敵なカーブ蓋を持つ暗渠のことである。

 

Senro6

                東京時層地図「明治のおわり」よりキャプチャ

明治の地図を見ると、もう少しわかるかもしれない。桃園川が田圃のための用水路として現役だったころだ。この田圃マークの中を、3~4本の水路がうねうねと走っていた。そこに学校ができ、水路の名残が南北にあったというわけだ。

また、菊華高校の脇の桃園川本流には、雨乞いのための場所があった。

Senro8

ここが、雨乞いをした場所と言われているところ。これも、もしかするとこの地に水が集まってくるからなのかもしれない。
現在はただの緑道で、そういえば桃園川の手描き水路マップが石碑になり置いてあるところ。むかしもいまも、人が足を止めたくなる場所、なのかもしれない。

さきほどの地図で青印がついていたところは、今は何の変哲もない中央線の高架下である。しかし、数十年前は盛土の上に線路があって、ところどころガードで抜けていた。そのガードが、昭和33年、ちょっとした事件を生んでしまう。

このガードが矮小であることが、そもそもの発端。
幅3m弱、高さ2.5mしかなく、トラックがぶつかってしまう危険がある、という。
困るのは地元の人たち。改善の必要がある。しかし、誰が、どこのお金で・・・?


杉並区と国鉄との、言い争いが始まる。

国鉄の言い分としては、

「このガードはもともと阿佐ヶ谷周辺の湧水処理のためにつくられた。それを暗渠化したものなので、サイズは水路用の規定2.5m(道の場合4m)にしてある。それが勝手に道路にしてしまったのに文句を言われても・・・」

というもの。

区役所の言い分としては、

「大正時代からここは道だから公道なのに・・・」

ということで、話が進まない。
近所の人は戦々恐々だというのである。昭和33年というと、

Senro7

ちょうどこの頃だ。
青印のところが事件の舞台である。たしかに道だ。
そうか、この頃はすでに高校北を流れる傍流は暗渠化されていた、ということか。「阿佐ヶ谷近辺の湧水処理」というと阿佐ヶ谷弁天池を思い浮かべるが、阿佐ヶ谷弁天池は本流の近くであり、本流に流せば済む。阿佐ヶ谷弁天池以外で湧いた水も、このようにガードを拵えるほどに大量だった、ということなのだろうか。
 
現在のながめは、こうである。

Senro1

すっかり大きなガードになっている。あのあと、どちらかが折れて工事が行われることはあっただろうか。そのまま、現在のような高架化の工事に至ったのだろうか(後者のような気がするが)。

ここを、むかしはこんな争いがあったのか・・・と思いながら通り過ぎるのも、またおもしろい。

 

Senro3

そういや、ガードに水路っぽい名前はついていないものか?うろうろしてみたが、ガードの名前は見当たらなかった。
ガードというか、全体に高架だから、わざわざ道路と交差する場所に名前など付けないのだろうか。

 

Senro10

上流に移動し、桃園川本流の上に立つ。

ここにも、ガード名を書いたプレートはなかった。

Senro11

しかし、馬橋架道橋というプレートはあった。これは、さらに上流。
駅近く、もともとの道路が交差してくるところである。

 
桃園川緑道と中央線の交差も、考えてみればもともとは道はなく水路のみ(前掲の地図でもそう)。水路のためのガードは、特に名前がつくことはないのだろうか。たとえそれが道になっても?
解けない疑問も残ったが、北側支流の中央線近辺の暗渠化は本流よりも早く、大正時代かもしれない、ということなど、新たな暗渠情報も得られたネタであった。
 
さて、ゴハン。

Senro12

富士ランチ(本blog登場二回目)。
ハンバーグカレー、680円也。

期待どおり、懐かしいような、うちのカレーという味がした。まろやかで優しく、ほっとする味。
ところがそれだけじゃないんです。中に忍び込ませたハンバーグは、店主が目の前で丁寧に成形しじっくり焼いたもの。一口ぶんスプーンで切ろうとすると、肉汁がちろちろと溢れ出る。その肉汁をカレーにまぜて、そしてハンバーグのかけらと白米とともに、お口にダイブ。
・・・至福。
富士ランチ、本当に阿佐ヶ谷の宝です。

阿佐ヶ谷は、そんな昭和やら、水路をめぐったエピソードやらが、ところどころに隠れた街。それにしても・・・結局、あの争いはどう展開したのかな。やっぱり気になってきたので、もうちょっと調べてみたいと思います。

 

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