谷なんです 梶ヶ谷編①
猫またぎさんが川崎で狂想曲を奏でている最中ですが、梶ヶ谷へ行ってきました。王禅寺のときのように、絵図の展示でココも気になっていました。
梶ヶ谷は以前弟が住んでいた地でもあり、「そういえば、”谷”だった!」な、地形なのでした。けっこう深い谷だった記憶があります。
江戸期のここは、末長村にあたります。絵図によれば、ちょうど梶ヶ谷駅付近には、おおきな溜池のようなものがあったようです。そしてその溜池から、南へと川が流れていました。
ここに、池が!と思いながら、梶ヶ谷の駅を見上げます。こんな気持ちでながめるのは、初めてですw
よくみると、駅の南側はこのように湿地帯にも思えるような、空き地でした。
その前にあった碑によると、末長~小字姿見台の中央を南北にはしる谷の名称は”池の谷”といい、谷の下手に池があったそうです。
”池の水は末長部落中央をせせらぎの如く流れ、野菜の洗い場に、防火用水に、大きくは灌漑用水として広範な水田を潤し、農業生活には欠くことのできない貴重な水源であった。”
と、碑にはあります。池の面積は約8300平米(橘村の村有地、末長住民が管理)あり、昭和12年に橘村が川崎市に合併の際、農家80戸の共有地として払下げた。ところが昭和38年、田園都市線の延長計画により、この共有地の中心が路線に入り、東急と住民が交渉を続けた。ついに昭和41年、共有地は駅の設置を条件に譲渡となり、その代金は末長の道路改修にあてられた。・・・と、まったく知らない歴史がそこには刻まれていました。
以前は、ここに住む人たちにとって、大切な池だったようです。街としては発展したのでしょうけれど、大切な池の上に駅ができる、ということは、いったいどんな気持ちがするものなのでしょうか。
・・・ともあれ。その碑のすぐ脇から、コンクリ蓋暗渠が始まっていました。
池の周囲の低地には茅が生えていたそうです。ここにも生えていたでしょうか。
池から出たせせらぎがあった道(絵図では主に道沿いに川があります)を、南に下ってゆきます。
左手には、急な階段。
右手にも坂が見えます。ここは一見緩やかですが、駅からここに下ってくるときに、えらい急な階段を降ります。
この、階段だらけの地形のせいで、梶ヶ谷で車を運転する(引越し等を手伝ったので)のに苦労した記憶があります。
この谷にはほとんどお店はありませんが・・・、数少ないお店のひとつに、暗渠サインのクリーニング屋さんがあります。”田園”だってw
ゆるやかに蛇行しながら暗渠がすすみます。
数年経ちますが、だいたい記憶どおりの景色です。唯一の違いは、以前はもっと野菜の無人直売所があったんですが。畑が減ったのでしょうか? 弟は、よくそういった直売所で野菜を買い、時には筍を買ってアク抜きして筍御飯を作ったりしていました。
川崎のあちこちで見られるような、凄すぎる蓋ってのは、ここにはあんまりありません。大きめのコンクリ蓋、たまにガードつきコンクリ蓋。
あ、今になって気付いたけれど、ここの塗り直された白い方は、スケキヨ化キャンペーンの一環でしょうかw
さて、わたしが勝手に谷底かなと思っていたところに辿りつきました。
暗渠趣味よりも前のことですが、梶ヶ谷駅付近のマンション×畑、という風景がこの位置で農村風景に変わるので、なんだか気になっていました。道は続くんだけど、入ってはいけないような感じも。
・・・そうか、ここも暗渠だったのか。この枯葉の積もった道が、さきほどのコンクリ蓋の続きです。
とても入りたい・・・けど、誰かの家の敷地のようにも見えるので、がまんします。
下流のほうで侵入可能なところを見つけ、入ってみました。すると、みごとなコンクリ蓋暗渠でした。
この暗渠、何軒かのお宅の庭先を流れているのですが、庭で作業をしているおばさまがいらして、ちょっと気まずかった。そこで、思い切って話しかけてみました(半分は不審者対策)。
その方はここの生まれだそうで、
・梶ヶ谷駅は、昔は沼だった。おばさまが幼稚園のころは、まだ駅は出来ていなかった。
・そしてこの川は小学生までは”土手の川”で、魚も少し居た。
・駅ができた後、だいたい25~30年前くらいに、この川は埋められた。
等々、教えてくださいました。(ありがとうございました。)
なんとー、梶ヶ谷駅って、そんなに新しい駅だったのかっ!!リアルに沼だったのかっ!!・・・ますます、梶ヶ谷駅を見る目が変わってしまいます。やっぱり、地元の方の話の方が、響き方がリアルですね。
不審者対策も無事終えたので、堂々と暗渠をさかのぼります。さきほどの落ち葉の暗渠が少し見えますね。
暗渠には橋が架かっていました。かわいいかわいい、自家用橋。
もう少し下流。左手に竹林がみえますが、その竹林からも樋が伸び、湧水らしきものが滴っていました。
いまも水は湧き、川となってこの下を流れています。もう、完全に勝手に、”梶ヶ谷川(仮)”と呼んじゃいます。
もう少し下流部に来ると、梶ヶ谷川(仮)は、道路の一部となります。
こんなふうに高い壁に囲まれ、コンクリ蓋で隠されていますが、数歩横へ行けば、ひろがるのはほぼ農村な風景です。・・・なぜ、この梶ヶ谷川(仮)を暗渠にしたのでしょうか。駅開業に伴い、上流部である駅付近が都市化し、ここもドブになったのでしょうか。おばさまの話からは、ドブで困った類のことは感じられませんでしたが・・・
いまも流れている、そのようすを見ることができます。梶ヶ谷川(仮)はいまも生きています。
さすがに魚はいないでしょうが、水はキレイです。
さすが川崎、よくみると実は変わった蓋でした。馬の蹄みたいなへっこみがついてる。・・・ひづめ蓋?
さあて、道路に出ます。久しぶりに住宅地って感じの風景。駅近辺とは違って、昔からお住まいの風景。
道に沿って立派なコンクリ蓋が続きます。
もう少し、下流まで。
ふと横を見ると、すんごい階段があって、頂上にはどうやら公園があるようなのですが(今思えば周辺の地形が良く見えたかもしれませんが)、絶対に登りたくない!と思いました。
梶ヶ谷、なんて、行く機会のある方は少ないかもしれません。けれど、少し縁のあるわたしは、ここにも暗渠があって、まだまだ続いていることが楽しくって仕方がありません。実は時間の都合で全部は追えなかったのですが、もう少し下流まで追った記録があります。なので、もう一回梶ヶ谷の記事が続きます。
| 固定リンク
「1-9 さんぽ:その他の暗渠」カテゴリの記事
- 日本経済新聞の暗渠記事に取材協力しました(2020.12.31)
- ライフルホームズ、暗渠記事に協力しました(2020.12.04)
- 「暗渠」で味わう街歩きの進化形 記事の先にある細かい話(2020.09.28)
- 滝の川 足元を流れていた川のこと 暗渠カフェで暗渠ソング(1)(2020.05.16)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
twitterから来ました(ようやくフォローしました、すみません)。自分も特集の続きを書かなきゃ、と気合を入れました(笑)
傾斜がほんとすごいですね。川崎から横浜のほうはけっこう無茶な階段があって、ちょっとふらふら歩くのも楽しそうだなーと常々思ってますが、埼玉県民になったので最近まったくあっちのほうに行ってません・・・。
荒れてそうな雰囲気だけどちゃんと歩ける暗渠になってるのもいいなあ。
投稿: しかすけ | 2010年12月28日 (火) 22時04分
最近は川崎の平べったいところばかり歩いており、地形の楽しさを忘れていました。
ここの地形はなかなかダイナミックですね。
最後の写真は、カメラをどういう向きで撮ったのか全く分かりませんw
すごい迫力写真ですね。
普通と意味が違う「不審者対策」という専門用語も面白いですね。
今度使わせていただきます。
投稿: 猫またぎ | 2010年12月30日 (木) 11時00分
>しかすけさん
いえ、むしろフォローをしていただき有難うございます。
そうですね、横浜・川崎ってすごい階段、すごい崖がいっぱいあるイメージです。ここにあるのも無茶な階段、ですよね。。梶ヶ谷川(仮)はほとんど歩けますので、ぜひぜひいつか。
>猫またぎさん
そういえば「堀」を歩かれてるところでしたね。川崎は地形的にも豊かですねえ!
最後の写真は、ちょっと見上げただけですよ。わたしはここ、登る気になれませんでしたが、猫またぎさんなら何往復でもいけそうですね(←いいすぎw)
不審者対策、そういえば通常は反対の意味ですかね。よく、適当な造語で喋っていたりします、わたし。ぜひ使ってくださいw
投稿: nama | 2010年12月31日 (金) 14時00分
梶ヶ谷に有った池は、お玉池と呼んでいました。私が久本小学校に通っていた頃、夏休みには久本神社脇の道から上り(頂上は茶畑、縄文土器も拾えた)カブトムシやクワガタを取りに友達と良く行きました。老人ホーム偕楽園の下は谷の様になっていて、そこには水田が有りました。お玉池の用水を使っていました。お玉池にはタナゴ、カラス貝(淡水の大型の貝←ボタンの材料)など色んな生き物が生息していました。池の周りは大きな杉が多数生えていました。林道になっていたんですよ。梶ヶ谷の駅の下には掘れば当時を偲ばせるカラス貝の殻が出て来る筈です。
大事な自然財産を無くした気持ちが、今でも私には有ります。
梶ヶ谷駅を車で通過するとき、当時の仲間たちとカブトムシ採りの事を思い出します。
45年前の夏休みを思い出す。
投稿: Shu | 2011年4月18日 (月) 15時58分
>Shuさま
コメントありがとうございます。あそこにあった池は、お玉池と呼ばれていたのですね。そして、お玉池は電車が開通する前までは、水田を潤していたのですね。木々に囲まれ、いろいろな生物が棲んでいた、大事な池だったのですね・・・。梶ヶ谷の駅前で、池にかんする碑を目にしたとき、地元の方に愛されていた場所だったろうと感じたのですが、まさにその想いをいまでも持ってらっしゃるShuさまのような方から言葉をいただいて、胸にグッとくるものがあります。・・・お玉池から流れ出ていたはずの小川には、いまでも湧水が流れていました。もしかするといまでも、駅前の湿地のようなところに、少しだけ水が湧いて、少しだけ生物もいたり、するのかもしれません。
貴重な少年時代のお話しをどうもありがとうございました。とても豊かな自然のもとで、遊びまわる子どもたちのことを想像することができました。感謝いたします。
投稿: nama | 2011年4月19日 (火) 16時46分
梶ケ谷周辺の詳細レポートありがとうございます。私は昭和48年の3月まで、この辺りに住んでました。(当時小学3年)「左手の急な階段」おぼえてます!
昭和47年に亡くなってしまった父はこの階段を昇るのに苦労していた話を母から聞いた事があります。家は階段を昇ってから歩いてさらにまた急坂を登り切ったとこにありました。昔は父がこの坂でスキーを滑っていたそうです。
で、私はここから徒歩で下って末長小学校まで毎日徒歩で通学していたのです。道はまだ舗装されてなくて緑が豊かで、たしか片道30分位の道のりだったと思います。田んぼが多くてまだ未開発なところも多く、心安らぐ風景でした。載せていただいた画像と見比べながらいつか歩いてみたいです。ありがとうございました。
投稿: MT54 | 2022年12月 1日 (木) 20時57分