7 ゆるやか鉄

引込線、廃線跡など

中央線ガードなすりつけ事件

今回は、東京人中央線特集号でボツになった、小ネタをひとつ。
中央線と桃園川を絡めた記事を書いたのですが、その中にどうにも組み込めなかった、暗渠が巻き起こした騒動のお話があるのです。お得意、杉並新聞からの情報です。


ではさっそく、昭和33年の阿佐ヶ谷~高円寺に飛んでみましょう。

                   ***

 

杉並学院高校(旧菊華高校)の周辺には、そのむかし、ぐるりと水路が走っていた。

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              東京時層地図「高度成長前夜」からキャプチャ

  

菊華高校のすぐ南を川が流れている。これは桃園川本流で、現在は緑道になっているところ。

ほかに水路は描かれていないものの、青丸の位置にも流れてくる傍流が、ある時期まではあった。いまは、北側支流や北側流路などと呼ばれる、非常に素敵なカーブ蓋を持つ暗渠のことである。

 

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                東京時層地図「明治のおわり」よりキャプチャ

明治の地図を見ると、もう少しわかるかもしれない。桃園川が田圃のための用水路として現役だったころだ。この田圃マークの中を、3~4本の水路がうねうねと走っていた。そこに学校ができ、水路の名残が南北にあったというわけだ。

また、菊華高校の脇の桃園川本流には、雨乞いのための場所があった。

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ここが、雨乞いをした場所と言われているところ。これも、もしかするとこの地に水が集まってくるからなのかもしれない。
現在はただの緑道で、そういえば桃園川の手描き水路マップが石碑になり置いてあるところ。むかしもいまも、人が足を止めたくなる場所、なのかもしれない。

さきほどの地図で青印がついていたところは、今は何の変哲もない中央線の高架下である。しかし、数十年前は盛土の上に線路があって、ところどころガードで抜けていた。そのガードが、昭和33年、ちょっとした事件を生んでしまう。

このガードが矮小であることが、そもそもの発端。
幅3m弱、高さ2.5mしかなく、トラックがぶつかってしまう危険がある、という。
困るのは地元の人たち。改善の必要がある。しかし、誰が、どこのお金で・・・?


杉並区と国鉄との、言い争いが始まる。

国鉄の言い分としては、

「このガードはもともと阿佐ヶ谷周辺の湧水処理のためにつくられた。それを暗渠化したものなので、サイズは水路用の規定2.5m(道の場合4m)にしてある。それが勝手に道路にしてしまったのに文句を言われても・・・」

というもの。

区役所の言い分としては、

「大正時代からここは道だから公道なのに・・・」

ということで、話が進まない。
近所の人は戦々恐々だというのである。昭和33年というと、

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ちょうどこの頃だ。
青印のところが事件の舞台である。たしかに道だ。
そうか、この頃はすでに高校北を流れる傍流は暗渠化されていた、ということか。「阿佐ヶ谷近辺の湧水処理」というと阿佐ヶ谷弁天池を思い浮かべるが、阿佐ヶ谷弁天池は本流の近くであり、本流に流せば済む。阿佐ヶ谷弁天池以外で湧いた水も、このようにガードを拵えるほどに大量だった、ということなのだろうか。
 
現在のながめは、こうである。

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すっかり大きなガードになっている。あのあと、どちらかが折れて工事が行われることはあっただろうか。そのまま、現在のような高架化の工事に至ったのだろうか(後者のような気がするが)。

ここを、むかしはこんな争いがあったのか・・・と思いながら通り過ぎるのも、またおもしろい。

 

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そういや、ガードに水路っぽい名前はついていないものか?うろうろしてみたが、ガードの名前は見当たらなかった。
ガードというか、全体に高架だから、わざわざ道路と交差する場所に名前など付けないのだろうか。

 

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上流に移動し、桃園川本流の上に立つ。

ここにも、ガード名を書いたプレートはなかった。

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しかし、馬橋架道橋というプレートはあった。これは、さらに上流。
駅近く、もともとの道路が交差してくるところである。

 
桃園川緑道と中央線の交差も、考えてみればもともとは道はなく水路のみ(前掲の地図でもそう)。水路のためのガードは、特に名前がつくことはないのだろうか。たとえそれが道になっても?
解けない疑問も残ったが、北側支流の中央線近辺の暗渠化は本流よりも早く、大正時代かもしれない、ということなど、新たな暗渠情報も得られたネタであった。
 
さて、ゴハン。

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富士ランチ(本blog登場二回目)。
ハンバーグカレー、680円也。

期待どおり、懐かしいような、うちのカレーという味がした。まろやかで優しく、ほっとする味。
ところがそれだけじゃないんです。中に忍び込ませたハンバーグは、店主が目の前で丁寧に成形しじっくり焼いたもの。一口ぶんスプーンで切ろうとすると、肉汁がちろちろと溢れ出る。その肉汁をカレーにまぜて、そしてハンバーグのかけらと白米とともに、お口にダイブ。
・・・至福。
富士ランチ、本当に阿佐ヶ谷の宝です。

阿佐ヶ谷は、そんな昭和やら、水路をめぐったエピソードやらが、ところどころに隠れた街。それにしても・・・結局、あの争いはどう展開したのかな。やっぱり気になってきたので、もうちょっと調べてみたいと思います。

 

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東京人中央線特集に寄稿しました

おしらせです。

2月3日発売の東京人3月号は、10年ぶりの中央線特集です。
中央線のいまを彩る、妖しい魅力に満ち溢れた一冊。その「中央線の魔力」にて、記事を書かせていただきました。

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既出ネタもありますが、新ネタも織り交ぜ、「桃園川と中央線の関係」について書いてます。

大好きな桃園川、そしてずっと好きだった中央線。何種類かの縦糸をうっすらと編み込み、独特な暗渠記事にしてみました。

最後にはお店紹介も。ここぞと気合を入れ、唯一無二の個性派7店舗。すべて暗渠に絡めて紹介しています。

よく見てみれば、桃園川が登場する箇所はほかにも。それから、中央線がらみでお世話になっているかたたちもたくさん登場されています。・・・濃いんじゃないかな、と思います。

ぜひぜひ、お手に取って見てみてください。どうぞよろしくお願いします!

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西武安比奈線と水路たち

去年の年末。もうすぐ足の手術があるという時期でした。
しばらくさんぽができなくなるからと、ちょっとだけ遠くへ行くことにしました。・・・ちょっとだけ、ね。

行きたいところは、山ほど。その中で、この一区切りのさんぽに選んだのはココです。

西武安比奈線。廃線マニアには有名な、かの休止線。
東京からも比較的気軽に行くことができ、フォトジェニックな廃景がひろがるところ。

ネットでも本でも、取り上げられることは多めです。ファンが多いらしく、いろいろな知識が披露されています。しかしわたしは鉄系の知識を、あまり持ち合わせていません。そんなこともあって、安比奈線に”交叉してくる水路たち”にも力点を置いて、書いていこうと思います。

”廃線好き”ふたりに、”貨物線好き”ひとりが、”休止線”をゆく。西武安比奈線三人道中、はじまり、はじまり。

                         ***

それはとても、澄んだ冬空に映える景色たちでした。安比奈線を歩くときって、付け根側(南大塚駅)からか、それとも終点側(安比奈駅)からか、始点は人により異なるようです。バスの時間、昼食の場所と時間、そしておもしろみを考え合わせ、終点側からスタートすることにしました。

冬の朝、南大塚駅に集合。バスに乗って、

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泉福寺という停留所で降ります。

・・・使う人とか居るんだろうか、このバス停。

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・・・さっそく面白いことになってます・・・w

ここから、入間川目指して歩きすすみます。

この、泉福寺あたりの地名は”泥辺(ドロベ)”といい、”泥=清水が流れるところもしくはその流れの端の意”ということで、この近くにはどうやら湧水点があったかもしれないようです。また、ここらへんの地名を”増形”といいますが、増形の白山神社もちょっとおもしろそうでした。

・・・つまり、我々は知らずにいろんなものを見逃しながら、安比奈線へと行き急いだのでした。

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なにもない道を進みます。

すると唐突に。広大な荒地に、新しく道路を作るようでした。

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まるで特撮ものの撮影現場のよう。

とても、とても、遠くに来たような気持ちになりました。

やがて、入間川の近くに着きました。入間川を渡る、水道橋が見えます。
・・・そこに、

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うおーーー。廃な線路、登場!!
ちょっと、感動。こういうのが見たかった。緑道になど、なっていないもの。数十年、放っておかれたもの。
まずはこれを、安比奈駅のはじっこまで遡ります。

西武安比奈線、とは。大正14年開業、全長3,2kmの路線です。
砂利採取を目的とした貨物線。このレールの上を、陸軍鉄道連隊の蒸気機関車が走っていた、といいます。そう、
津田沼の記事のときに触れた、終戦後に軍の演習線を京成に取られてしまった代わりに、西武が譲り受けた資材の一部が、ココを走っていたのです。
関東大震災後の復興を目論んだ砂利採取事業にはじまり、東京オリンピック前には1日7~8往復はしていたという、安比奈線。昭和42年に砂利採取が禁止となり、休止へと至ります(昭和30年という記載も)。なぜ廃止ではないのかというと、ここに西武の車両基地をつくる案があるから、なのだそうです。

”休止”線であるからこそ、たくさんの置きざりにされたものがそこにはあって、歩き甲斐があります。
しかし、進めば進むほど、この路線が時間を取り戻すことなんて、できるのか・・・?という気持ちにもなってきます。

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廃・・・。架線柱と枯れ木とのコラボレーションは、圧倒的な存在感。
冬ならではかもしれません。

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鬱蒼とした竹林。普段だったらこんなとこ入ろうとも思わないんですが、メンバーにひとり、勇者が居ました。勇者は、こういうところもなんの躊躇もなく入っていくのです・・・!ズボッ!
つられて突入。竹とかが若干刺さって、イテテ、イテテテテテ、ってなりながら、ついていきます。

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そしたら、竹藪の中にも線路、ありました!

あまりにもおかしなシチュエーションなので、より一層興奮します。嗚呼、軍手持ってきてて、良かった。

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朽ちた柱のようなものもありました。
ほかにも、コンクリのかけらのようなものとか、金属製の何かとか。ただの竹林にはないようなものがいろいろ落ちてました。

いやー、これは、入った甲斐があった。

ちなみに、地元の地図にはここらへんに「珍しい野草あり」とか「マムシに注意」とか書いてあったりしました。ゾゾゾゾゾ。知らぬがホトケ!

ザザザザ、スポッ!という感じで竹林を抜け、

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少し進むと、安比奈駅の残骸が出現します。
現役時の写真を見てみると、ここには周辺にうず高く砂利が積まれていて、ひとが居て、賑わっていて・・・あまりに違う風景。

ここで終わり、かとおもいきや、

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河原と逆側に細めの線路が延びていて、もう少し追えるようです。限界まで行くことにします。

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のわー。なぜか、大量の芋!芋の街川越だからなのか・・・?

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その先、線路の下に空洞がある場所がありました。

下に人が潜って点検する場なのかな?
ここらへんは、資料上では線路が4股に分かれています。点検場だったり、待機する場だったりするのでしょうか。もう、地面がぐちゃぐちゃなので歩けず、明確にわかるのはここぐらいでした。

さあ、ではここが最終端ということで、引き返しましょう。

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枯れ枝の存在感・・・。

ためいきが出るほど、格好良い風景の連続です。

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安比奈駅から入間川の河原まで、砂利採取用のトロッコ線が走っていた、といいます。
河原で採取された砂利は、選別機にかけられて貨車へ詰め込まれる。そして都心へと送られる・・・その線路上に、ドイツ・コッペル社製のE型蒸気機関車が長らく放置されていたらしいのですが、いまは無く。

2方向の架線柱が並びます。左側は点検場にむかうもの。
右側は、砂利採掘にむかうもの。

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さて。最初に線路に出会った地点に戻ってきました。

右手に、モトクロスの練習場がありました。そこでは何人かが練習に励んでいて、久しぶりにこの世の人間に会った、という感じがしました。さっきまで、異世界に行っていたかのような心持ち。

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なぜか、車止め。

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線路をただただ歩きます。道路の盛土によって途切れるようで、

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途切れない。

枕木はほとんど消え失せていて、木の根が自然の枕木のようになっていたりします。

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やっと、最初の鉄橋が現れます。
池部用水という水路に架かる、池部橋梁。

以前はもっと廃感があったらしいのですが、NHKの朝ドラに使われたため、整備されてしまい非難轟々であるとかなんとか。結構人さんがこの辺でトロッコを見つけていましたが、ありませんでした。

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その下には確かに谷がありましたが、枯れていました。地図上では開渠なので、農閑期は止めてあるだけなのでしょうか?いや・・・久しく流れていないような雰囲気だけど。
思わず、谷底に降り少し先まで歩いてみてしまいましたが、残る行程を考え、おとなしく戻ります。

池部用水のほか、前川用水、とも書かれているものもあります。もっと下流側に行くと開渠表示となる地図もあります。

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先に進みます。だいぶ線路らしくなりました。
ここはいまも、たまに電車が走っているかのような風情。

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枯葉をカサリ、カサリと踏みながら歩く。
映画のセットのよう。冬に来て、良かった。

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森のような空間をスポッ!と抜け、また違うエリアに出ます。

ここからが、水路が交叉してくるエリアです。

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さっそく2つめ。資料には「横断下水渠」とのみ書かれる、名もなき水路。
枯れているように見えますが、この先にはきれいに補強されたコンクリ護岸があります。

安比奈線は難なく渡ってゆきます。

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線路の「上」に架けられた橋も。

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また水路。これも無名で、資料には、横断下水渠とか、「あくすい」とか書かれています。

朽ちた枕木がすてき。

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次の水路には、水が流れていました。西ノ谷溝渠というようです。
ここまで渡ってきた水路たちは、拡大した地図を見てみると、すべてさきほどの池部用水に落とされていくように見えます。

しばらくすすみます。
そろそろ、おなかがすいてきた。

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ちょっと変わった状態の水路がありました。この先にも水路の窪みは続いているのに、なぜかここで水は止まり、淀んでいます。いったいこの後どうしたいというのか。・・・結構人さんが行かれた時も同じ状況で、「暗渠になりそうな雰囲気」と書かれていましたが、この水路は数年間こういう状態であり続けているみたいです。

この水路は長瀞用水、この僅かな橋は長瀞川橋梁、というようです。享保橋という名で書かれる資料もあったので(それは後ろの道路に架かるものかもしれないけれど)、この道路はずいぶん古くからありそう。
長瀞用水はもっともっと北西まで遡ることができ、実はさきほど見てきた名もなき水路群は、この長瀞用水の分水であるように見えます。長瀞用水から落とされ、池部用水につながる水路たち。往時は、たくさんの田んぼを潤していたのでしょう・・・

さて、いったんゴハン。
地図をながめながらこの安比奈線プランを練ってみれば、ここに立ち寄らないわけにはいかない。ちょっと、横に逸れます。

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埼玉川越総合地方卸売市場、花いちで昼飯。(自然にここに行ってました・・・結構人さんと店選びが被りやすいww)

市場めしは、本当に好き。ゴハンの前後に、市場を見て回れるのも良い。しかしここ、ずいぶん並ぶのね・・・。何を食べるかさんざん迷った挙句、有頭海老が食べられないわたくしですが、海老フライの定食にしてしまいました。食べられない部分を寄越された、隣の人がいい迷惑。わはは!

ビールも飲んで、エネルギー充填して、さあ再開です。

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長瀞川橋梁のところにふたたび戻り(ここに居た飼い犬の、寂しそうな雰囲気が忘れられない)、少し進むと、こんどは少し広めの開渠。広町用水というようです。・・・枯れています。

隣に民家があるわけですが、この、庭にあるイスとテーブルはかなりうらやましかったです。廃線&水路の真ん前!

Nagatoromap

広町用水は、まもなくさきほどの長瀞用水とあわさり ます。

さらに少し進むと、

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おつぎは、ザ・鉄橋!という感じの橋が。葛川橋梁です。

森を抜けたところ以降、交叉してくる水路がだんだんゴージャスになってくる気がします。わたしたちの旅を、じわじわと盛り上げてくれるような、ありがたき演出。

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下に流れるのは、なかなかきれいな浅い用水路。葛川というようです。
リバーサイドさんの記事を参照すると、葛川も時期によっては流れが止まるようです。

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錆が実にきれい・・・

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長い長い。

葛川橋梁は、安比奈線最長の橋。とても立派です。

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そしてすぐにもう一本。

こちらのボロッとしたほうは、赤間川橋梁。
真下を赤間川が流れます。赤間川とは、新河岸川の上流部にあたるもの。江戸期からそう呼ばれており、フナ、ライギョ、コイ、ドジョウ、タニシ、ヤツメウナギなどが採れたそうです。
水源は、東陽寺(弁天池があるらしい)あたりと言われていましたが、江戸期に入間川から取水するようになりました。それにより水量が増えた新河岸川は、舟運の発達につながり、川越の発展に寄与したといわれます。

赤間川は赤間川用水路とも呼ばれ、舟運のみならず水田等にも利用されていました。昭和16年から改良工事が始まったのが、戦争により工事内容が変わってしまったりしたそうです。昭和の初めは、とにかく水量を増やすために苦心している様子。戦後も、アメリカ空軍に分水して用水が不足したりしています・・・改修工事はなんと昭和52年まで続き、やっと改善がみられたそうで。

この赤間川も、東京の水路同様、都市排水路化する時代があります。水質の問題の他、洪水の問題もあり、かつては赤間川→伊佐沼→九十川→新河岸川、という流れ方をしていたのを付け替え、赤間川→新河岸川とし、洪水を防いだのだそうです。

なかなか、波乱万丈川生の赤間川。

Akamamap

いまひとつはっきりしませんが、資料によると、この2つの橋のうちどちらかが「捨場橋」という別名を持っている可能性があります。人が渡る橋と考えると、少し位置がずれるかもしれませんが・・・いずれにせよ、この2本の水路が走る低地は、かつて捨て場だったのかもしれません。
そういわれてみると、たしかに畑地があるくらいで荒れ地のような場所で、捨て場感、あるかも・・・。

赤間川に、さきほどの長瀞用水、広町用水、葛川も合わさって、やがて新河岸川となります。わたしは新河岸川というと、河口部分の大きなものしかイメージできませんでしたが、上流部はこういう風景だったのですね。

つまりここで、最初に横切った池部用水、その次のミニ水路群、そして最後の用水や小川がすべて、脳内でつながるわけです。安比奈線に絡む水路はすべて、新河岸川に至るということ。そして荒川へ・・・

さて、水路頻出地帯はこれでおわり。あとは線路を楽しみます。

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その先、市街地に入っていきます。また風景が一変。

安比奈線はほぼ菜園だったり、

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植物園になってたり。こういうとこ、暗渠に似ています。

ここらへん、フラワーゾーンと呼ぶこともあるようですね。メルヘンw

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線路わきに団子屋さんがあったので、調達してきました。素朴ですてき。線路上で歩き食べ。

「どら焼きを走らせる!」の名言が出た場所でもあります。

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国道16号を渡り(線路が下に埋まっているのが見えるし、そこだけ中央分離帯が無いですね)、

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もうすぐ、ゴール。
南大塚駅が見えてきます。

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駅には、犬釘やら、レールの残骸やらがいっぱい積まれていました。再利用のときを待つものたちなのか・・・?

「なんだあれ、宝の山じゃん!!(少し分けてくれ!)」と、廃線好きは興奮してしまいます。

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もうちょっと進むと、南大塚手前の踏切のところにも名残がありました。

これにて、安比奈線あるき、終了~。周囲も薄暗くなってきたので、移動します。そうそう、この後、折角だからって川越まで歩いたんでしたw

                        ***

おまけ。
ゴールである南大塚駅は川越駅のとなり。この日、夜に川越の遊郭跡も見ていました。そのころにはもうへろっへろになっていたので、ほとんど執着できませんでしたが・・・何軒か気になったので、

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後日、資料を探しに来たときに再訪。
ここは、遊郭時代の建物(大正期)が食事処となっているお店。

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牛タンのシチューがおススメのようですが、残念、あたしゃタンは食べられません。
日替わりのランチにしたら、鰻丼が出てきました。期せずして川越で鰻が食べられた。この日は立っているだけでもしんどい真夏日だったので、冷やし茶碗蒸しがうれしかったです。

冬と夏、両極端な季節に来てしまいましたが、付近にはほかにも趣ある建物がたーくさん残っているので、安比奈線をサクッと済ませて川越散策とセットにするのも、アリだと思います。

                        ***

西武安比奈線。わたしが生まれるより前に、この線路の時間は止められてしまいました。
かさり、かさりという枯葉の音以外は何もしないような、しずかなしずかな、眠っている線路。

安比奈線が運んだ砂利は、東京オリンピック前の東京でも使われた。・・・と、いうことは、もしかするとその中には、コンクリートの板となって、都市河川の蓋になったものもあったかもしれない?もしかしたら、暗渠の生まれ故郷のひとつ、かも・・・なんて、あとから想像してみると、一層味わいが深くなっていく気がします。
なにより、あの場所のあの風景を見るだけでも、とてもいい。澄んだ冬空にとても合う、良きさんぽでした。

<参考文献>
イカロスMOOK「実録 鉄道連隊」
入間第二用水土地改良区「第二用水の概況」
「イラストマップ大東みてあるき」
刈部山本「デウスエクスマキな食堂10年夏号別冊 B充アルバム00-廃景・西武安比奈線-」
川越市大東公民館「ふるさとの川めぐり」
「川越の歴史散歩」
NEKOMOOK「写真で見る西武鉄道100年」
リバーフロント整備センター「身近な川について考えよう 不老川流域編」

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 続・鎌ヶ谷編

千葉は鎌ヶ谷編のつづき。前回は、船橋市の飛び地から延びる支流をからめ、鎌ヶ谷と船橋の市境を見ながら二和川という川を遡ってきました。
今回は、おなじ二和川を逆向きにして、上流から攻めてみることにします。

思いっきり位置が変わって・・・降りる駅は、滝不動。これまた今まで掠ったことのない、聞いたこともない駅でした。

駅からすぐ近くに牧場があります。このへんにはポツポツと牧場があり、何か売っているところもあればいないところもあり。佐久間牧場には、アイスクリーム工房が併設されているというので足を延ばしてみました。

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牧場のソフトクリームー。
屋外には個性あふれる椅子が並べられていて、牛舎や鳥小屋を眺めながらペロペロできます。畑がひろがる先に浅い窪みのようなものが見えますが、これは今日は辿らない流域のものなので、見つめるだけ。

ほかに、ジェラート(ミルク味とイチゴ味)、牛乳も試しました。朝っぱらからこういう食べ方をするってのは、さんぽ直前はよくないですねw 店のない地帯を歩くので、本当はお腹を壊しちゃいけないんですが・・・。お腹に一抹の不安を抱えながら、さんぽ、しゅっぱーつ。

のどかなのどかな、いなかみち。開渠で描かれた二和川の、尽きる位置に行きます。

上流部は前回のような市境ではなく、

Hutawajouryuu_2


ばっちり船橋市にあります。yahooさんありがとうございます。

赤丸のあたりに行ってみると・・・、

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開渠の二和川が尽きる箇所のさきには、コンクリ蓋暗渠がありました!
さてこれが何処まで延びてゆくのか・・・

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植木鉢蓋が民家の脇に並びます。

すると、

Kmgy64

別れは唐突に。

ここでボツッ!と途切れてしまうのでした。え??え???
まったくの平らな土地、窪みもない、公園もない、神社もない。つまり水源サインがない。

え????となりながら、周囲を探しましたが、この延長線上に畑が広がっていて、そこが微妙に低いかなというくらいでした。

・・・湧水池から出る流れではなかったのかもしれません。

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で、さきほどのコンクリ蓋暗渠は、三咲本通り商店街の反対側からいきなり開渠となります。

覗いてみたら、あまりきれいではない水がそれなりに流れていました。あんな、ボツッ!と始まる水路で、水が流れているなんて考え難い。。雨水にしては晴れているし、常に一定量流れ続けているように見えるけれど。

頭の中にたくさんの疑問符をのこしながら、二和川を下り始めます。

Kmgy66

いったい、この水はどこからきたんだろう・・・

近づいてみます。

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きちゃない・・・

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それにくらべて、両岸の景色は実にサワヤカ。

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畑の真ん中を流れていくときもあります。

丁寧に整えられた畝の、すがすがしい真っ直ぐさ。

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畑、車道、農道、住宅地、そして鉄塔と、のどかなところを歩き続けます。

ふと道端にこんなものが。

・・・烏山川のテルコを思い出しました。思い出しますよねそりゃ。改めてテル子のことを検索してみると、あの後ネット上ではテル子の謎を解いた方などもいらっしゃるようで、本人に会ったという記事まであります。というより開渠時代の烏山川の話が聞けているのがうらやまー。

一方、この船橋の女神はなんなのか・・・。また謎のまま放っておき、先に進むとしますw

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のどかでいいんだけれど、やや単調な風景。
それも船橋市域で終了します。もうすぐ、鎌ヶ谷市との境目がやってくるのです。

船橋部分の最後を、振り返ってみるとこういう感じ。
ほんわか~。

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で、そのさき、ここに市境があります(冒頭の地図の、左側にも載っています)。

そこには鎌ヶ谷市の水路の立札が建っていて、以下は鎌ヶ谷市域の二和川。その風景とは・・・、

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おうふ!
船橋市域の最後の風景と全然違います!!すぐ隣なのに!

ハシゴ式開渠じゃなくなったし、めっちゃ住宅の隙間になってるし、なにより、排水管がめっちゃ突き出ている。つーか、いきなり汚い・・・。

しばらく鎌ヶ谷市を歩きます。

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排水管、こんなふうに詰まってるのもあるけど、

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基本的にはほとんど現役のようです。

ほら、すぐそこで汚水がアブクを立てて流れ込んでいる・・・

実は、鎌ヶ谷市域での二和川が汚いことは、前回の遡上のときに既に感じていました。家庭から排水が流れ込んでいる様子も、上流に来るにつれて頻繁に見られていました。
だから、さっきの市境で「鎌ヶ谷市部、汚い気がする」のは、実は嗚呼やっぱりな、という反応でもあったのです。

・・・鎌ヶ谷市における水路と排水の話を少し、はさみましょう。

鎌ヶ谷市内4水系のうち、この二和川属する「真間川水系」は住宅が多いのに下水道の未整備なエリアもあるようで、BOD(生物化学的酸素要求量)が比較的高い・・・というか、市内で最も水質が悪い、といわれています。
水路への生活排水の流入割合はこの15年ほどの間に約半減はしたものの、いまだ3割ほどは流れ込んでいる状況のようです。そうか、生活排水、まだ結構流入しているのですね・・・

後日追記:ここらへんの排水の流入状況は、ドブ川雑記帳(大石俊六さん)のこの記事の下部にある図が近いと思います。

奇しくもlotus62氏が水質調査みたいなことを始めているので、それに乗っかってみようとしたら・・・あらら、指標が違うので比べられない・・・lotus氏が挙げているのは亜硝酸、COD、アンモニウム、リン酸、でしたが、こちら鎌ヶ谷市の報告書にあるのは、BOD、SS(浮遊物質量)、DO(溶存酸素量)、大腸菌指数、などでした。しかも、二和川より下流である大柏川のデータしかなく。大柏川では、BODが基準を上回っていたのが、平成21年にやっと下回ったということです。二和川にはもっと濃縮された汚水が流れている印象なので、おそらくもっと汚れている数値となっていることでしょう。

昭和57年に出された鎌ヶ谷市史においては、水路が「悪臭漂う悪用水路と化している」ことが述べられています。昭和55年時点での鎌ヶ谷市の下水道普及率は0パーセント、千葉県内でも遅れていることも言及されていました。整備と浄化は課題である、と・・・
平成23年に出された資料でも、「未だに家庭排水等の多くが河川、水路へ流入し、水質汚濁や悪臭等の発生を招いている」とあります。今もなお、二和川の浄化は大きな課題として残り続けているといえます。

未来に向けて、さまざまな水質改善のプランがあるようで・・・10年後に二和川をまた歩いたとき、キレイになっていたりしたら、良いなあ。

そんなわけで、歩いているときは、”生活排水が開渠に流れ込むさま”を何度も見ながら、信じられないと珍しいとが入り混じるような気持ちになったり、むかしの東京都内の河川のことを思ったり、していました。

さて、二和川下りに戻りますか。

Kmgy77

しばらくゆくと、水路工事中の看板があり、

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レア感のある”臨時暗渠”も見ることができました。

Kmgy781

もう少し下流では、コンクリ蓋が再登場して歩けたり、
調整池があったり、

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住宅街の中を開渠と暗渠が交互にカクカクしながら下って行ったり、

Kmgy80

住宅の中でもところどころ畑が残っていて、またのどかな気持ちになったりしました。

・・・たえず排水が流れ込んでいて、汚さはあるのですが。

Kmgy81

ふしぎな場所もありました。
なぜ、こんなに集合させるのか。木下街道のすぐ脇で、大きな車道の隣に突如出現する違和感、石の古さと真新しいコンクリートの不釣り合い、このかたちの違和感、なんだかすごく気になりました。
そしてすぐ後ろを、クランク状に二和川が流れていました。

千葉に来るようになって、こんな風に”集合”させるものにしばしば出逢います。松戸でも2つほど、似たようなものを見ました。

・・・この謎も解けぬまま、今回最大の目的地の話にうつります。
それは、

Kmgy83

この、ばかでかい橋脚のこと。

陸軍の鉄道第二連隊が残した、鎌ヶ谷最大の遺構。どん、どん、どん、どんと計4つ。

少しばかりむかし、ここには、陸軍の演習線が走っていたのでした。
津田沼~松戸を結ぶ、演習線路松戸線。そう、
津田沼記事で書いた鉄道第二連隊の基地からはじまり、そして、松戸記事で書いた、相模台に達する路線です。
約34km、1926年から5年ほどかけて敷設されたこの路線には、軽便機関車が走ったようです。敷設、といいましたが、ここは演習線、車両を脱線させては戻す、撤去してまたつくる、といった訓練が繰り返し行われていました。

最初は、木製の橋が架けられました。”鎌ヶ谷架橋作業”という古い絵葉書が何枚も残っていて、この場所が演習線の中でも見ごたえのある場所だったことをうかがわせます。
橋についても撤収、架け替えが何度も繰り返されたので、橋梁の構造は必ずしも一定ではなかった、といいます。今残るコンクリの橋脚は、昭和16年につくられたもの。

Kmgy84

公園の中に佇むそれは、なにしろ威風堂々。

子どもがボール遊びをしに来ていました。
サッカーボールを蹴る幼女とおばあちゃん、野球の捕球練習をする二人組の男の子。テニスラケットを持った女の子たちも待っていて・・・、そうか、あの橋脚のあらゆる側面についていた丸い跡はボールの跡で、それは地元の子どもたちとこの軍事遺構が調和している証なんだろうな。

昭和44年頃、これを邪魔だと思った行政が撤去を試みたけれど、あまりに強固なつくりだったため断念した、という話が残っています。そのおかげで、子どもたちがボール遊びをしに来られるという・・・
ぼうっと子どもたちを眺めながら、ベンチに座ってお弁当を食べました。

軍と住民との交流は、当時もあったのだそうです。
演習線上にはところどころに駅舎があり、鎌ヶ谷にもあって、訓練日と演習日以外は住民にも開放していたそうです。レールを走っていたトロッコ車両は、軍が使わないときには付近の農家も使用できたから、サツマイモなどを乗せて押して運んでいったということです。
・・・そこに描かれてはいませんが、他の地でのエピソードによくみられるように、きっと、子どもたちもトロッコで遊んでいたのではないでしょうか。いまもむかしも、子どもたちがここで遊ぶ・・・

Kmgy85

橋が架けられた、ということは、ここは谷であったわけです。しかも、今回のメイン、二和川の谷です。暗渠好きにはありがたいことに、この公園内を二和川は”暗渠で”流れていました。

写真に見える、道のようなものがコンクリ蓋暗渠です。その下を、二和川のやや汚れた水が、滔々と流れているというわけ。暗渠と軍跡のコラボレーション!

ただし、むかしは少し違う流れ方だったようです。

鉄道第二連隊に在籍していた方の語りに、次のようなものがあります。
「最初は下は川かと思いましたが、水は流れていなかったです。確か窪地でした。そういう地層のところへ、訓練を兼ねて橋を架けたんじゃないかと思います。木橋でしたね。」

水の流れは見えなかった・・・つまり、ここは以前は川というよりは湿地だったのではないでしょうか。目をつむって想像します。湿地に木の橋、キビキビと働く兵士たち・・・

Kmgy86

公園のすぐ下流も暗渠になっていて、住宅街への近道なのか、途切れることなく人が通っていました。人気暗渠だねぇ。

Kmgy88

傍らには、こんなすてきな原っぱもありました。

春のあたたかな時期だったので、数十分間、横になってごろごろしていました。草を摘むひと、遊ぶ少女たち、「ごはんだよー」と呼びに来るお母さん。

Kmgy89

その先、再度開渠となり、あとは、前回の記事の位置につながります。
馬込十字路を過ぎたあたりから、急に「鎌ヶ谷市」は狭くなって、船橋市をぎりぎりのところで遠ざけながら、二和川は下ってゆくのでした。

                         ***

ところで、

Kamagayamapkanasugi

ここが一体どうなっているのか、も、気になって仕方がありません。

このカブトムシの足みたいな場所の、足の付け根はこうなってました。

Kmgy892

二和川に注ぐ支流暗渠。
開渠のドブだった時代がそう遠くはないような風貌です。

Kmgy90

カブトムシの足をつま先方向に追ってみると、市境は道になっていてこんな感じ。

断定はできないものの、左側が川跡のように見えます。この位置かどうかはわからないとしても、川はあったんじゃないかと思える、ゆるい谷状の道でした。

Kmgy91

その、谷がどこまで続くかが関心事なわけですが・・・、ここがおそらくは上流端でした。
窪地にサッカー用のグラウンドがあり、その隣の敷地もなんだか余っています。つまり、湿地や沼でもあったような雰囲気です。そしてそれより先は、家の敷地だったので入れなかったけれど、グラウンド=沼が始まり、と思うとしっくりくるのでした。

Kamagayatikeikanasugi
陰影図で見ると、こうです。google earthさんありがとうございます。

赤丸のあたりがグラウンド。右に谷が続くようには見えますが・・・歩くことはできなかったし、ひとまず、二和川支流の始点は赤丸のあたり、としたいと思います。
カブトムシの足の先っちょと第一関節の上がどうなっているかというと、関節の上はどうも調整池もしくは池があるようです。どちらもくっきりとした谷になっていて、金杉川、という別な川の水源にあたる模様。

金杉川は海老川の支流であり、それはまたいつか、船橋を歩くときに触れることになるかもしれません。でも、どうもこのカブトムシ足の部分は河川争奪っぽくも見えるし、、また謎が残ってしまいました。

ま、いくつか残しちゃったものもあるけれど、とりあえず、ゴハン。

Kmgy92

馬込沢駅前にて。
ぎょうざが食べたいな、と思いました。
ぎょうざんぽう・・・、自慢の餃子がありそうな雰囲気です。

しかし、入ってみると居酒屋の和食系メニューのみで、餃子が無い。
おそるおそる聞いてみると、うちは餃子屋ではない、とのことで・・・ぎょうざんぽうは閉店し、居抜きで別店になったようです。よく見れば、入り口のドアに別なお店の名が書いてあります。いやーでも、ぎょうざんぽうの看板は上にも横にも掲げてあって、どう見てもそっちが勝ってるww

で、そこからが鎌ヶ谷のいいところ。
店主とその奥さまらしき方がガチで接客してくださるんですが、我々の餃子欲を感じ取ってくださって、本来メニューには無い、餃子を出してくださったんです・・・!

なんでも、おふたりが自分たちで食べようと思って、お取り寄せしていたおいしい中華屋さんの餃子だとか。しかも残り一食ぶんだとか・・・

Kmgy93

うわーん、ありがたすぎる(涙)!!
しかもこの餃子、すごくおいしかったー!ある意味、幻の餃子。おじさま、おばさま、本当にありがとうございました。

餃子パクパク、ビールぐびー。このお店の方もそうだけど、ニコニコ湯の方、前回の飲み屋さんの方、それから書かなかったけれど、暗渠沿いで出逢った何人かの方・・・鎌ヶ谷の旅は、ずいぶんとそこで会った”人”の印象が強い気がします。

                         ***

おまけ。

鎌ヶ谷の橋脚跡、行くのに最適な季節は、

Kmgy94

なんといっても桜の季節です。

谷へと降りていくときに見える桜。

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橋脚の隙間を埋めるように咲く桜。

Kmgy96

そして、暗渠と橋脚と桜。手前の道のようなものがコンクリ蓋暗渠です。

おまけ2。
鎌ヶ谷大仏駅に帰ろうとした日、公園から北西に歩いてみました。

Kmgy97

すると、道端に陸軍境界石が出現します。

Kmgy98

もうちょっと進むとよれよれっとした2本目が登場。
この日は3本見つけました。

そして、鎌ヶ谷大仏駅にいくまっすぐな道”グリーン通り”を歩いていくと、

Kmgy99

なんだかすごく気になるスペースが出現するのです。

両側を道に挟まれた、細~いスペース。上水の暗渠にときどきこういうものがあったり、あるいは、どちらかの道が暗渠だったりします。なんだろう、堀でもあったのかな?いや、それはないよね・・・

Kmgy100

その狭いスペースは残り続け、花壇になりました。
違和感のあるものはまず水路にからめてしまう自分ですが、後から調べてみると、このスペースこそが演習線の線路跡なのでした。さきほどの公園~陸軍境界石~このグリーン通りへと、続いていたのです。

橋脚の話のときに触れたこの演習線路松戸線は、現在の新京成電鉄の母体となっています。しかし、何か所か回り道をカットされたところがあって、鎌ヶ谷周辺はまさに悲しきカット部分、あるいは楽しき廃線跡部分なのでした。

Kmgy101

グリーン通り沿いにある、湯乃市というスーパー銭湯に寄って、ひとっぷろ。チバのスーパー銭湯、だいたい6~700円で入れてしまうので、寄り癖がついてしまいました。

もちろん上がったらルービーでプハー。

さてさて、さいごに、今回の行程。

Kmgymaplast

二和川のほか、演習線の位置も示します。
実は、市境カオス地帯のあの川が、有名な橋脚を遺すこの川とイコールだということ、今回まで知りませんでした。二和川のポテンシャル・・・!
幾重にも見どころを持つ、二和川とその周辺。川筋をたどる旅、市境沿いに進む旅、廃線跡に切り替えて両方味わう旅・・・いろんな”謎解きさんぽ”ができる地だと思います。

<参考文献>
イカロスMOOK「実録 鉄道連隊」
「鎌ヶ谷市史 上巻」
「鎌ヶ谷市史 資料集17 近・現代 聞き書き」
「鎌ヶ谷市生活排水対策推進計画 鎌ヶ谷市一般廃棄物(生活排水)処理基本計画(平成23年度)」
「戦争の記録と記憶 in 鎌ヶ谷」
高木宏之「写真に見る鉄道連隊」

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紙はこぶ、十条倉庫の汽車ポッポ

ご連絡 蓋コレクション館を久々に更新しました。地方の蓋を中心に、11蓋追加されておりますので、よろしければご覧ください。

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さてさて、期せずしてラーメン×暗渠の記事が2つ続きました(ほんとはあと2つあるんですが、置いといて)。今回は、久しぶりの”ゆるやか鉄”記事にしようと思います。
ちょうど、味噌maxさんとlotus62さんが王子・十条の左側をやっておられるので、わたくしは右側をば。

2011年の、5月のさんぽ。王子駅で降ります。
Kita2_2

何度か降りたことはある駅ですが、今回、ちいさな水路が線路をくぐっていることに気づきました。

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ちょろちょろと水が流れています。

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顔をあげると・・・、このときは、さくら新道もあったのでした。
王子駅のホームから見える、さくら新道のトタンの赤が、良い色だなと思って思わず写真に収めたのでした。

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ホームから北を眺めます。
JRの線路のとなりに、まるで合成写真のように、セピア色の線路が横たわっています。
これが、本日のテーマ、北王子線(日本製紙十條工場北王子専用線)です。

北王子線は、1927年に須賀線(後述)とともに開業しました。
もともとは「王子製紙株式会社十條工場」へとつながる専用線です。王子製紙の本社は東銀座で見かけましたが、最初は王子にあったわけですね、そっか、そりゃそうか。
今回はこれを、ゴールまで歩いてみたいと思います。

Kita6

では、駅から出て、北王子線に沿って歩き始めましょう。
上を新幹線が走っています。北王子線線路は一番コッチ側にあるので、横目で見ながら歩けます。

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あれ・・・、線路沿いに、なんだかへんな土地。

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線路がだいぶこっちに近づいてきます。
JRのほうは砂利がきれいに敷かれているのに、北王子線の線路には草がぼうぼうしてます。自分の鉄度合はそんなに高くないので、そもそも、この北王子線がいま現役なのかどうか、このときは知らずに歩いています。なんでここに来たかったかというと、マイ地図を眺めているときに、ここに引込線を見つけたから。ただそれだけでした・・・。

Kita9

歩道橋があったので上ります。
あ~、良い眺めじゃ~。
あ、そろそろ右に逸れていきそうですね。

Kita10

というわけで、一緒に右に曲がっていきます。
ふと、車止めに目が行きます。水路があったのか・・・?実は、ここに来たいと強く思った背景にあるのは、lotus氏の書いている新金貨物線の記事。この、新金貨物線を通して、わたしは「そうか、貨物線を歩けば、交差する水路跡がぼうぼうとした好い塩梅に残っているのが見られる!」と、一気に貨物熱が上がったのでした。
なので、線路と交差する水路がないか、期待して見てみるんですが・・・、ここはあんまり暗渠サインがないです。。

Kita11

おお、踏切。
この専用線、現役ではあるのだろうな。そんな雰囲気の踏切。

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凛とした線路。
草が生え、鉄は細くてよれよれに見えるけど、でも迷わず伸びてる。

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線路も見るけど、暗渠もね。こんなふうに違和感のある・・・水路っぽい土地があって、この延長線上にもあやしい場所がいくつかあって、暗渠かもなあ、などと思ったのですが、よくわからないままです。
しかもこれ、北王子線と交差しないし。そう、新金貨物線みたいに贅沢に水路と交差する線路じゃないのよ、ココは!(ちょっとがっかり。)

Kita15

ペコちゃんの飴を舐めます。・・・今回の記事に登場する食べ物はこの飴だけ。
この時期、わたしは胃を壊していて、一日中ろくにものを食べられないという状態にありました。いつもだったら、王子に来たならあれやこれや、ってなるんですが、もちろん酒なぞ呑めません。幸い体は動くので、歩くのですが・・・、そうそう、こんな時期も、あったよなあ。。

Kita16

あ、あの奥の建物は。
新幹線で帰省するとき、いつも見える建物。
窓からぼぉっと眺めていると、このカラフルな「木」がとてもよく目に留まって、そのたびに、なにかのホールとかかな、いや駐車場かな、などと、少しだけ想像するのでした。
結局、答えが出ないので、次に目に入ってくる川とか鉄塔とかに意識が行き、この建物がなんだかはわからないまま。そうやって、何年も。

そうか、ずっと気になってたあの建物が、今回のゴール地点なのか。

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ゴールに向かう前に、ちょっとだけ目を東に逸らしましょう。
かつては、北王子線の途中から、同じく貨物線の須賀線が分岐していたといわれます。須賀線は、大日本人造肥料(現・日産化学工業)へとつながる専用線でした。
いやぁ・・・大日本人造肥料ってなんかすごい響き。人造のあたりかな。

須賀線との分岐地点が、いまは公園になっていて、暗渠の公園みたいに違和感ありありな感じでそこにあるんです。その公園を分岐後の位置からみたのが上の写真です。

Kita18

須賀線は向こうに延びていきます。

「北区の鉄道遺産群」という鉄道総合技術研究所の方の講演を、北王子線めあてで聞きに行ったことがあるのですが、「ポニーワンレントラス」というちょっとすてきな言葉は覚えられたものの、北王子線の話はほっとんど出てこなかったのでした。むしろ須賀線のことが少し話されました。須賀線開業時に、「AB10形蓄電池機関車」を新製し用いたそうで、なぜなら須賀線沿いには周囲に火薬工場があったため、スパークすると危ないから。
この線路(今は見えないけれど、想像して)の先には、火薬工場があったんだな~。他にも須賀線が通るエリアには色々な工場があったので、いつか須賀線も歩いてみたいものです。

Kita19

北王子線に戻ります。

近づいてみると、建物の壁には白い鳥が舞っていました。
あれ、黒い鳥もいる。

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ここが到着地点のようです。
会社の門には「日本製紙物流株式会社」とありました。冒頭では王子製紙の専用線だと書きましたが、ややこしいことに現在この場所にあるのは日本製紙物流です。

印刷局に葉書用紙を補給するため明治43年に設立された王子製紙は、戦後の財閥解体に伴い3つに分割され、うちこの十條工場は十條製紙となり、のちに日本製紙となります。その日本製紙がこの工場跡を引き継いだため、現在ここにあるのは日本製紙系の会社になるようです。敷地はもっともっと広かったのですが、1943年に工場が閉鎖し、1976年に団地になったようです。

Kita21

外から、中をながめます。

後から知ったのですが、北王子線はこのとき、東日本大震災の影響で運転を休止していたのでした。ここで輸送しているものは、岩沼・石巻の工場で生産された紙なので・・・。

写真の、後ろに積まれている紙たちは、もしかすると震災前のものなのかもしれません。

Kita22

この、機関車たちも、いつまた動かしてもらえるのかわからないまま、じっと待っていたのかもしれません・・・。

ニュースを見たら、北王子線は2011年7月に一部運転を再開(現地の鉄道と工場の一部が操業を開始したため)したようです。朝1本のコンテナと昼に返却コンテナの1日1往復。通常は1日4往復ということなので、まだまだかもしれないけれど、でも再開はうれしい。
その後のニュースが出てこないので、いま北王子線がどのくらい復活しているかはわかりません。

Kita23

外側をぐるぐる歩いていると、ふとこんなのが。

「花咲けば 十条倉庫の 汽車ポッポ」

ふふふ。ほんわかしますねぇ~。

Kita25

ちなみに、時層地図をみたところ、この道をはじめ、周囲にはぐるりと水路があったらしいです。
それから、工場脇に大きな運河のようなものがあったようです。その運河、もともとは「神谷堀(甚兵衛堀)」という、江戸時代に排水を目的として掘られたものが、明治時代に製紙工場の新設に伴い拡張され、物資の搬出先にも利用されるようになった、というもの。
注: 神谷堀と甚兵衛堀は一緒にしてはいけないという記述もwebで見ましたが、ちょっと詳細が分かりません。

進んでいくと、巨大な団地。古地図を見ると、その団地のあたりから神谷堀が始まっていたようです。

Kitaouji

gooの昭和38年の航空写真を見てみると・・・、こんな風に、神谷堀ははじまって、隅田川につながっていたのでした。結構広いですね。

Kita27

今は埋められています。神谷堀の跡を隅田川まで行ってみると、跡地はこんなふうに駐輪場や公園などになっていました。神谷堀公園には、護岸が残っているそうです。
北王子線に交差してくる水路がなかったのは残念だけれど、むかしは北王子線のゴールから、またつながっている水路があった。そこには、東北で作られた紙が運ばれてきてた・・・つながる、つながる。

結構前のさんぽ記録ですが、なんだか、さまざまな思いが去来する記事でありました。   

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都電荒川線のりほうだいのたび 後編

Arak18

気が早いようですが、いったんぎゅーんと三ノ輪まで向かってしまいます。荒川線三ノ輪橋駅は、初めて降ります。この、ふるい商店街は何かの雑誌で見て、かなり気になってたのでした。
甘味に焼鳥・・・、見ためも中身も、みごとにレトロ。かなり買いたくなりますが、、ここは、がまん。がまんにするのには理由があります。それは、三ノ輪に早めに来た目的=三ノ輪ラムネを飲むために!(ラムネ工場のとなり、”まつのや”で飲めるようなんですが、4時に閉まっちゃうので。)

Arak19

ちょっと歩きます。丁度よいことに、三ノ輪ラムネまでは、音無川を辿って行けるのでした。

あ、これ。暗渠にあるやつ。。ここも、たしか、音無川流路だったような?(うわ、アウェイなのでちゃんと覚えていません;;) ・・・しかし何故ここのは、目張りがしてあるのでしょうね?

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さてさてラムネ工場へと向かいます。予想通り、音無川の流路は、ふつうの道路であまり暗渠感がありません。

が、ここらへんでわたしの暗渠センサーが何かを感知!
団地っぽいものがあって、それからこの歩道なんかちょっと変!・・・降りて行きます。ラムネはちょっと、後回しw

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降りきったところには、第二東日暮里保育園があって、

そしてこれですよ!”駐車禁止”の車止めの奥の細い道!! でたー、名もなき暗渠!!

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大興奮につき、ラムネは後回しですw

辿ります。入口がちょうど音無川だったので、そこに注いでいく支流のようですね。ちょっと人工的にカクカクしてます。
この道の奥の建物から、洗剤と乾燥機の良い匂いがしました。コインランドリーか、なにかあるのでしょうか。元銭湯とか??

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曲がった先も、やたらまっすぐ。左側はちょっとした崖です。

この奥がつきあたりで、真新しいオリンピックの建物が建っており、この流れの行く末はわからなくなってしまいました。

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保育園と公園をぐるっと囲むような暗渠です。公園には、いまのところ世田谷に多い気がしている、ハイカラ井戸(裁断系)がありました。

まあ、あんまり追って遠くへ行ってもラムネが飲めないし、と、踵を返します。かなり暗渠感があって、意外な収穫に大満足です!

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と、音無川本流に戻った矢先、な、なんと、もういっこ、まるで鏡のように暗渠がアルジャナイデスカ・・・

うわーん、ラムネがぁ・・・。とか思いながらも、暗渠の引力に負けてしまいます。

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おおう、こっちのはすぐ終わってました。出口の先はまっすぐな歩道があるだけでした。

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では、音無川本流に戻って、いよいよラムネ工場を探します。本流はこんなふうにクネったりしていました。

と、なんと音無川沿いに、ラムネ工場はありました!以前、HONDAさんlotus62さんが、水窪川と隣接するラムネ工場のことを書かれており、わたしはラムネが大好きなので、とても興奮する情報で・・・わたしもひとつ、妙正寺川ちかくに見つけました(今度書きます)。あれは隣接とまでは言えないけど、ラムネ工場って川沿い率が高いのでは・・・?

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ここが、三ノ輪ラムネ。
まつのやは、お隣にあるお蕎麦屋さんでした。が、閉まってます。こ、このために飲まず食わず(数十分だけど)で来たのに~・・・!手持ちの情報と違うのが悔しくて、ラムネ工場の方に尋ねてみました。すると、今日はまつのやは定休日、ラムネの小売りはしないとのこと・・・ガクーーッ。

どうしても飲みたかったので、周辺をうろうろ探してみましたが、三ノ輪ラムネを売ってるお店は見つけられませんでした(ここで他社のラムネを飲んだら負けです)。すごすごと三ノ輪橋へ帰り、ソフトクリームを舐めましたとさ・・・

ここで、わたしの”東京のラムネ工場”欲に、火がついてしまいました。三ノ輪ラムネはおろか、東京中の全ラムネを飲んでやりたいと思います。暗渠サインになるかどうかも、検証します。・・・また、特集モノが増えちゃいますねw

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ラムネの話はそのくらいにして。
つぎは、尾久に戻って花街さんぽです。ぜん~ぜん知りませんでしたが、尾久はその昔、なかなかの花街で、阿部定事件の舞台でもあったのですね。
小台~宮ノ前~熊野前あたりは、そういう視点でうろうろします。小台近くには、こういう近代的な割烹がなぜかあります。かつて”熱海温泉”(ほかにも草津とか有馬とか)という温泉旅館があったそうなので、元はそれなのかな?尾久の花街の名残はほとんどないので、貴重な生き残りです。

Arak30 熊野前の近く、荒川パレスボウルという荒川区唯一のボウリング場は、小泉園という立派な温泉旅館があったところだというのですが、現在、それらしき建物は見当たりません。調べてみると、荒川パレスボウルは2005年に無くなっています。手書きのスコアだったというので、それだけでもレトロで素敵だっただろうな~と思うのですが、、、いま、その跡地すらわかりません。駅前の妙に新しい薬屋さんがあるところは、跡地なのかなあ?

ちょっと小腹が減ってきたので、いったん尾久銀座へむかいます。尾久銀座しか知りませんでしたが、熊野前の近辺は商店街がいっぱいありました!熊の渡し商店街を背にしながら熊野前商店街をあるき、川の手もとまち商店街を通って東尾久3丁目に向かいました。軽くコロッケなどを食べましたが、そのコロッケ屋さんの頭上にはぶどうが育っていて、「これ、実ったら好きに食べていいんだよ」なんて、店主が言っていました。すっごいほのぼの!w

東尾久3丁目までくると、隣駅である町屋2丁目との間にある、”江川堀”の暗渠を探したくなります。荒川区にはかつて、江川堀・地蔵堀・八幡掘、といった灌漑用水路があったというのです。

Arak31_2 江川堀、下流の方は遺構があるようなんですが、荒川線より上流となると、ろくに手掛かりがありません。かつて村境だったという記述をヒントに、とりあえず現在の町境をあるいてみました。うぅぅん・・・、クネってはいるけれど、どうなんだ?少し西に、もう一本怪しい道があるし。。こっちの道の暗渠サインは、銭湯”栄湯”くらいです(えんとつが見えます)。ま、よくわからなかったので、どろどろの汗を流すべく、とりあえず栄湯でひとっ風呂!いーーやーー、なかなかイイ風呂屋、イイ湯でした!

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そして、今度は宮ノ前まで戻ります。のりほうだい切符を駆使しすぎて、なんだか自分は顔パスみたいな気分になってきましたw ・・・そのため、切符を見せずに乗り込んじゃって、車掌さんから「お、お客さーん!」と止められてしまったり。

ここは宮ノ前にある、碩運寺。これは尾久花街のもととなる、尾久温泉の発祥の地です!大正3年に、住職が井戸を掘ったところ温泉が湧いたため、”寺の湯”ができ、その後盛況になって”不老閣”として独立。その後さきほどの小泉園や、熱海、草津温泉などができ、花街の原型になったということです(「荒川区史跡散歩」より)。
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つまり、ここらへんもだいぶ賑わっていたはずなのですが・・・、温泉はとうに枯渇し、現在はしぃ~んとしています。10年前までは、多少料亭が残っていたらしいのですが、今回歩いた範囲では名残は見つけられませんでした。

碩運寺の前に地図があったので、見てみます。すると、あ!まさにここの足元に、八幡堀があったんだ!!青い点線で八幡堀が”すいろみち”として描かれているではないですか。えらいぞ、荒川区。

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八幡堀の流路は、こういった地味~な道路でした。このまま進むと、暗渠サインであるクリーニング屋さんがあったり、花街サインぽい(?)寿司屋さんがあったり。

大塚三業通りのような派手さやわかりやすさはないものの、ここもまた、暗渠×花街の地。

ただし、今回歩かなかったもっと北側、西尾久3丁目の隅田川近辺には、”清水滝”という川魚料理の店&人工滝の名残が若干あるらしいし、尾久八幡公園はかつてすべて堀だったという豪快な歴史をもつし、この一帯、再訪せねばなあ、と思っています。

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ふぅ・・・、日が暮れてきました。

そろそろ、帰り支度です。まずは、荒川車庫前で下車し、引込線をじろじろ見ます。都電のひろばみたいなところは既に施錠されていましたし、引込線から出てくる電車(←が、砂を撒くのが見たかった)もないので、もう、ほんと、ただ引込線を見に降りただけww

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もう日が暮れちゃいました。いちおう、王子駅前で降り、来るときに気になった石神井川フェイク部分をながめます。

暗くってだめだめな写真ですが、右からフェイク川がやってきて、音無橋のあたりから暗渠でやってきた流れと合流するようです。暗渠の吐口が2口あって、理由が知りたかったですが。。そして、フェイク川の最後は、スパーンと切れていて、このように断面が見えるのです。地面の下に、穴があるように見えます・・・暗すぎてよくわからないけれど、この場所がものすごいサイボーグ地点だってことはわかりました。

Arak37

よーし、今回は、これでお終い!

早稲田で降りて、せっかくここらへんに来たのだからと、鶴巻町の油そば屋さんへいくことにしました。暗渠感の無い、蟹川の流路を歩いて・・・、どの駅からも遠い、東京麺珍亭本舗。ここは自分的油そばナンバー1の店。大盛りで食べるのがちょうどよいです。

う~~ん、やっぱり、おいしい!ゴチソウサマ!!

と、満足して帰途についたのでした。

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都電荒川線のりほうだいのたび 前編

ブログ1周年記念イベント的に、やってみました。川跡以外の何かに沿って、いくつもの谷底を見るよろこび。荒玉水道道路イッキで味をしめたというのもありますw

荒川線を選んだのにはちょっとした理由もあります。わたしは赤ん坊のときに少しだけ西日暮里にいたので、母子手帳が荒川区なのです。父親が単身で住んでいたことも、両親の新居だったこともある地です。故郷といえば山形、ではありますが、荒川区はちょっとしたルーツでもあるのでした。・・・とはいえ荒川線の駅との縁はありません。それでも、「荒川」っていう名前がついているだけで、親しみを感じるということなのでしょう。荒川線は大好きな路線です。

というわけで、のりほうだいのたび。少し前に、えいはちさんが都営のりほうだいをやってらして、700円でしたね。わたし、同じ値段かとおもっていたら、なんと都電だけに限定すれば、1日のりほうだいで400円なのでした!これはすごい。すごいコスパですよ!?

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事前に川跡、赤線跡、自分的観光名所などをリストアップして一覧表に。 1日かけて、何往復してもいいぞ、ってな心持ちで、雑司ケ谷へ向かいました。鬼子母神前から乗るまえに、まず一箇所・・・

弦巻川跡を歩いて鬼子母神へいき、境内にある、超レトロ駄菓子屋さんに向かいます。ここで駄菓子でも買って、と、思っていたら閉まってました。がぼーん。

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気を取り直して乗車。これから、楽しめる場所はきっとやまほどあるんだから!鬼子母神前~都電雑司ケ谷の間で、弦巻川のつくった谷を越えるんですが、これが結構立派な谷でした。
そのまま、水窪川も越えて、大塚駅前へ。”大塚駅前”ってすごい駅ですね~。もう、ただのJRのガード下じゃないか。

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大塚には、おたのしみがあります。この大塚三業通りは、名前のとおり、花街のあった場所でありながら、しかも谷端川(うーん、わたしは小石川って呼びたいのですがこの位置で小石川とはあまり呼ばれまい)の川跡でもあるという、超豪華なところ!!

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谷端川は、JRのガードをくぐるここらへんの位置を、向こうからこちら側へと流れていたようです。そしてぐにゃりと曲がって、三業通りへと注ぎこむ。

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大塚三業通りは、こんなふうに、ラブホと料亭が同時に存在する場所が、あちこちにある通りなのでした。

アースダイバーに、谷底×エロスの描写があったような。そんなことをぼんやりと思い出しました。ここらへん、夜はいったい、どんな雰囲気になるのでしょう。

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谷端川の暗渠サインは残念ながら、あまりありません。

クネクネと蛇行する道と谷底地形、道沿いにあるこの銭湯”金春湯”くらいでしょうか。

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裏路地がたいへん面白かったです。こういう、風情ある建物がぽつぽつ見られ、どんどん探検したくなってしまいます。

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さらに、この”大豊”とか、

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”浅元”とか、どーんと在って、名前だけ書いてある建物が。

料亭らしいのですが、自分のイメージする”料亭”とはどこかバランスが違い、古くて、閉鎖的な建物。いったい、どんなひとたちがここにやってくるのでしょう?

また、駅近くのもうちょっとオープンな居酒屋ではメニューに”殿様遊び(コンパニオン、生バンド、レザーカラオケ)”などと書いてあって、ちょっと笑えました。

Arak10さて、つぎはどこで降りようか。何もなさそうな場所でも、駅名が”暗渠的に”気になったら、降りることにしました。

ここは巣鴨新田。”新田”あるところ、用水路があるだろうと。巣鴨新田駅近くには、またも谷端川がありました。そしてそこに向かっていくような、暗渠らしき道も。この写真は「それっぽい」道なんですが、赤い服のおばちゃんがずっと居て通りづらかった。。。

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そろそろ、お腹がすいてきました。ちょっとした腹ごしらえに、と、”庚申塚”で下車します。

駅のホームにある店として有名な、”いっぷく亭”で、焼きそばとおはぎのセットを食べます。都電の写真があるわ、都電は走ってくわ、撮り鉄さんが兵隊のような秩序で写真を撮っているわで、面白い場所です。

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巣鴨地蔵通りも行きたかったですが、ちょっと置いといて、つぎは駅名が気になる”滝野川三丁目”です。後日訂正、”滝野川一丁目”でした。闊歩マンさんご指摘ありがとうございました。

しばらく歩けば、藍染川の水源のひとつに近づけるようでしたが、あまり駅を離れないことにしていたので、ここは尾根部分をはしる、千川上水王子分水の流路を見てお茶を濁します。

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そして、王子駅前の石神井川フェイク部分、荒川車庫の引込線なんかをウハウハ眺めつつ、とりあえず荒川遊園地前まで行ってしまいます。さあ、あらかわ遊園へ!
あらかわ遊園手前に、おいしいたこせんのお店、”ふく扇”があるので、そこでたこせんをパリッ。うーまー!!

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あらかわ遊園にも、入ります。へへへ・・・お目当ては、食事処のビール!

からあげをつまみに、ビールを飲みます。テラス席が2席だけあって、暑いからか不人気だったので、あえて座りました。そしたら、なんと、ここからは隅田川が見えるのですね!!期せずして、川べりビールができちゃったわけです。
ここって川好きさん(川で酒呑みたい人)にとって結構な穴場なのではないでしょうか?
それから、生まれたばかりの山羊を見たり、釣りをしたりしました。

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あらかわ遊園は、以前は大人向け娯楽施設だったのだそうです。大正11年に、王子電気軌道株式会社が絡んでつくられた、滝や築山、展望塔、そして大浴場のあるいわば”御殿”だったそう(「荒川区史跡散歩」より)。

この釣堀は、かつての池跡なのでしょうか、それとも昔からあるのでしょうか。遊園地に釣堀、という組み合わせが斬新に感じますが、そういえばレトロ釣堀のある和田堀公園も、以前はもっと遊園地チックな場所だったというので、昔は定番の組み合わせだったのでしょうか・・・?

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その、娯楽施設の前は、煉瓦工場(明治5年~)だったのだそうです。水運と土(ここの土が煉瓦作りに適していた)と燃料の入手しやすい条件を備えていた場所だったようで。
そして今もぐるっと周囲には煉瓦塀が残っているのでした!とても見事です。あらかわ遊園よりもぐるっと一回り広く、民家の塀になっています。

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!!
不意に、トンネルらしきものがありました!

むひょー、わたしの大好物”埋められたトンネル”ではないですか!!ぬおぉー、ミステリアス!・・・といっても、場所柄そんな怪しい目的ではないのでしょうけど。でもでも、すごいインパクトです。

・・・と、行きたかったところ、予定外の出逢い、いろいろとおりまぜながら、荒川線のたびは後編に続きます。ちなみに、ここまでの下車は5回。計10回以上は、乗り降りしていると思います。のりほうだい、万歳!!

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国立駅の北側を歩く

Kuni20 今回は、国立駅の反対側へとまいりましょう。玉川上水に近づけば分水はあるようですが、地図でみたところ駅近辺は水の気配がありません(う~ん、やはり暗渠とはあまり縁のない街?)。ツツツ、と地図を見て行くと、釘づけになったのはむしろ中央線から伸びる、引込線跡のようなもの!
よ~し、北側は、引込線の廃線跡さんぽじゃ~!

今回は、小雨が降ったり蒸し暑かったりと、お天気がいまいちでした。写真も色が微妙・・・。工事で見えにくいですが、中央線から分岐してくる名残があります。

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そしてその先は、いきなり駐輪場。軌道に沿って、ゆるく弧を描いています。

駅前にある暗渠が駐輪場になっていることがわりにあるように、引込線跡も駐輪場になったりするのですね。いきなり暗渠との共通項発見です。

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さらには車止めまで出現しますよ~。これ、暗渠ですよって紹介されたら、信じてしまいそうです。

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しかし、ちゃあんと柵が残ってます。嗚呼、みごと。

こりゃ、暗渠じゃないですねえ。でも、廃止されたものの上に、別な用途のものができて、人によってはその歴史を知らずに使っている・・・、遺構や違和感のある場所・・・、ここらへんが近いですかねえ。

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その先がびっくりゾーンです。

マンション横に、線路跡(白い柵の向こう側で、全方面から囲われています)。そして謎の階段が線路とマンションをピタッとつないでいる。マンション手前側の、階段と同じ素材の屋根がついてるところは、変電設備のようです。

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”ちょっとした違和感”を通り越して、こりゃ異形です。すっごく気になります。

錆びた階段。階段の先は3階の廊下と踊り場にくっついています。何かを載せるの?鉄道関係者の住むところなの?何かの実験に使ったの??

うわ~~、なんだろこれ!

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下にも回り込みます(しつこくてごめんなさい)。

3階の廊下とつながる、扉のようなものが見えますね。

はふ~~ん、謎です!

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マンションの先、道路を渡ると、また柵があって、あとは延々近づけない空間です。

草がぼうぼうですが、線路が残っているのが見えます。

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で、この引込線はどこにつながっているかというと・・・、鉄道総合技術研究所、でした!

ここらへんからだんだんと線路が増えてきて、なんかいろんな研究がおこなわれている場だったような雰囲気です。他のサイトを見ると、数年前はここに電車の車両みたいなものがいくつも置いてあったようですが、今は無いです。というか、ほとんど見えない・・・

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こういった高めの柵で覆われています。見たいのになあ。

そういえば途中で思い出しました。昔、”院のOBでJRで研究してる人”の実験に協力したことがあります。わたしの専門からすると隣の畑だったんですが、JRにウチの領域の研究もあるんだな~、などと面白く感じた覚えがあります。
で、肝心の、何の実験に協力したか、っていう記憶はまったく残っていませんwwわれながら、恐ろしい記憶力の無さだな・・・

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引込線は研究所の周りをぐる~~っと回っていたようなんですが、地図上で跡が残っているのは西側ばかり。その西側の角の部分に、こんなマンションが建っていて、屋上にいっぱいついてるアンテナがごつくて、気になります。

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周囲をぐるぐる回って、引込線を覗けそうなポイントをさがします。おお、なんか変電所のようなものが。

ちなみにここの住所は、国分寺市光町。この「ひかり」は、この研究所で新幹線「ひかり」が開発されたことからきているのだそうです。鉄の方には当たり前の知識かもしれませんが、わたしときたら「うわー東芝町とか工場地帯みたい!!」と、もはや何萌えなのかわからなくなってくる興奮ぶり。

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・・・で、研究所の正面まで行ってみりゃよかったんですが、この日もう1本廃線を見る予定だったので、そちらへと向かいます。カフェでもあったら寄りたかったんですが、見つからず。ソフトクリームが食べたかったですが、ミニストップも無く。。

次なる廃線、それは立川方向へ行くと出現する”立川飛行場引込線”です。現在は緑地になっていて、立川市部分は”栄緑地”ですが、最初に訪れた地点は国分寺市部分の”西町緑地”です。

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この見た目、まるで暗渠の緑道ですね・・・違いは、谷部分ではないことと、緩くカーブはするけど蛇行はしないことくらいでしょうか。

「立川市史」によると、大正11年、立川に陸軍航空大隊を新設することが決まり、同年のうちに用地接取。立川には飛行第五大隊が駐屯することになりました。これにより立川は「空の都」となって人口が急増したとのこと・・・しかし、実は立川飛行場の民間飛行場としての利用が、立川の発展には貢献していたのだそうです。外国機が飛来し、それを見に一般客が押しかける(見物席もあったそう)、そんな光景が、昭和6年の軍用基地一本化(民間飛行場は羽田に移転)まであったのだそうです。
この引込線は、立川飛行場に資材を運搬するためのもので、戦後も米軍に燃料を運び続けていたとのこと。そして基地返還とともに廃線となりました。
飛行場と引込線については、imakenpressさんがお詳しいようすなので、ここもいつかimaken節で紹介くださったら良いなあ~~。

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こんなのどかな場所も。凄い勢いで走っている若者、猫に餌をやるおばあさん、さんぽする夫婦・・・。

これが緑道の右側。そして左側には広大な敷地の中に、陸上自衛隊・航空自衛隊が居るのです。そしてその更に西に、ここで飛行機を製造していた企業”立川飛行機”の現在の姿である”立飛”の分身、新立川航空機の敷地もあります。

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もっと北へ行けば、立飛企業の敷地があって、モノレール立飛駅まであるという気になるスポットですが、そこまで行く元気はない気がしたので止め。・・・立飛企業は、てっきり飛行機関連の会社かと思っていたら、現在は不動産賃貸業中心なんですね。ちょっとビックリ。

南砂小学校の裏門です。小学校の脇を掠めるのも、暗渠っぽい。

Kuni36 遺構はあまりよくわかりませんでしたが、踏切跡っぽい場所はありました。

しかし、ちょっと単調で飽きて&疲れてきてしまいました。どうも、支流暗渠に目覚めてからは、緑道に対する執着が減ってしまってます。駅はすでにはるか後方なので、バスを見つけて帰ります。
芋が好きなので、近くにあった”芋窪街道”がひどく気になりました。芋がごろごろ取れたのでしょうか・・・後で調べると、否、もとは”井野窪”だそうで、残念。しかし同じような農作物の名のつく地名なのに、”茗荷谷”と”芋窪”、前者の爽やかさと、後者の田舎っぽさは何なのでしょう。いや、大好きなんですけどね、芋。

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元・交通博物館、その後

突然の鉄ネタ。
以前、万世橋の交通博物館の解体が始まったことを書きました。3月のことです。
そして、わたしはその解体現場の近くへは毎週行くのだけど、常に時間ぎりぎりの移動のため、あまり見にいけずにいました。たしか、5月あたりにチラと見てみたら、まだ3月とさほど変わらないように感じた覚えがあります。
今回は、10分ほどウロウロ出来る時間を確保したので、さて、じっくり眺めるぞ、と。

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昌平橋方向から歩いていくと、

ああ・・・!無い・・・

ついこの前まで残っていた、白いビルの残骸が、無い。。
ついに、交通博物館の建物は無くなってしまったようです。

Kotu2

近づいて、解体現場を見てみようとしましたが、前回同様。頑丈なフェンスに阻まれ、中は見えないのでした。

しかし、3月よりかは今は日が長いのです。なんとか隙間をさがし、デジカメをねじ込むような気持ちで写真を撮ります。小心者なので、ねじ込めないのです・・・

すると、中はもう片付き始めていました。

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えいっ、もう一箇所。

こちらは瓦礫の山です。・・・たくさんの人たちを、楽しませてくれた建物の瓦礫たち。少し、さみしさを覚え始めたところで、ちょうど中央線が通ってくれました。うれしいことです。しかも、全身オレンジの中央線です。いまだにこの車両じゃないと、わたしは中央線だと思えないのです。

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もう少し移動して、一枚。

万世橋駅の駅舎の遺構でしょうか。そういえばここはこの後どうなるのでしょうか。この跡地、JR東日本が保有するようではあるのですが、いったいどう使われるのでしょうか・・・

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すくなくとも、このような表示を見ることはもう出来ないんだよな、と、改めて。

そんなに鉄ではないはずのわたしなのですが、妙にしんみりしてしまうのでした。

鉄つながりで、もうひとつ。
マニアパレルさんで、”廃線T”なるものを売っていらっしゃいます!そんなに鉄じゃないけど(←しつこいw)、ひそかにこの柄がいいな~と思っていたものが商品化されたので、買っちゃいました。これを着て、この夏は廃線跡を歩こうと思います!・・・ゆるやか鉄なわたしは、どうも最近「地下鉄」「中央線」のほか、「引込線」「貨物線」あたりにツボができたようで、後者の廃線なんてかなり好物な気がします。廃線ってたぶん、暗渠と共通項があるのでしょうから・・・。
と、いうわけで、鉄な方、廃線マニアな方、このTシャツいかがですか~~?w

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万世橋近辺と、あこがれの橋

Mansei   わたしは本務先のほかに、非常勤として2か所で働いています。そのうち一つは神田でして、神田川の近くです(ちなみにもう1つは紅葉川沿い)。古い建物や名所(私好みの)が多く、さんぽにも良いとこなんですが、いかんせん本拠地での仕事が終わった後に行くので、夜だわ店は閉まってるわ・・・通ってる年数の割にあまり散策はしてきていないのでした。

そんななか、銀座線神田駅の、日本最古の地下街があるところの入口が、こんなこと(工事中)になっていたのでかなり焦りました。

Kandaeki_2

地下、地下鉄、古いもの、って、わたしの大好きな3拍子揃ったこの、神田の地下街、須田町ストア。もともと相当な寂れ感があり、かくいう自分も店舗を利用するわけではなく、考えてみればなくなっちゃう可能性だってあるわけで。
地上の景色を見て愕然とし、「タノムー、なくならないで、なくならないで!」と祈りながら、ここを見に行きました。

ああ、良かった、なくなってない。店舗は営業してる、って書いてありました(営業時間終わっちゃったけど)。
ちなみに、リンクさせていただいている、aquiraさんがうつくしい写真を撮っていらっしゃいます。しかも営業中の写真。

Mansei2_2 それから、元・交通博物館が解体されていると知り(さきほどのaquiraさんによる)、ついふらふらと。
解体現場、夜に忍び込めたら嬉しかったですが、そんなわけにもいかないようで、頑丈に閉まった扉の向こう側を眺めるのみ。もしかしたら万世橋の遺構が覗き見れやしないかと期待してしまいましたが、そんなこともなく、、、なんか特ダネでも撮ってやろうという意気込みむなしく、こんなピンボケ写真しか撮れていません(涙、涙)。

Mansei3

物足りなくなって、さらにふらふらと歩いていくと、あれれ、ガード下の、肉の万世じゃない側にも、肉の万世がお店出してる・・・?

ここ、以前は無線のパーツ屋さん?だった気がします。いったいいつのまに撤退されたのでしょうか。職場から近いというのに、ぜんぜん知りませんでした。

Mansei6

そしてそのアキバ側。

あれぇー、こんな空間あったっけ・・・?

以前はなんかがあったはず、と思いましたがもはや思い出せません。ここも結構通っているはずなのになぁ、、、どうなってるんだわたしの記憶。

Mansei4_2   

と、そこに、古く、錆びた色の電信柱のようなものと看板があり、かなり目を引きました。

んんん、これも、以前から見られたっけ・・・?周囲に建物があって、見えなかったのじゃないかと思うのですが、いかんせん記憶があやしい。もし、建物が撤去されたことにより今だけ見えているのだとしたら、貴重なものですよね。

Mansei5_2

ショーワ って書いてあります。

(夜にきれいな写真が撮れないデジカメのようで、見づらくてすみません、、、)

Sakaeya さて、ここらへんには、まつや(蕎麦)、みますや(大衆酒場)、松栄亭(洋食)、、、趣のあるお店が多く、いったいどこへ行けばいいのか迷いますが、とりあえずコチラ。

すばらしき外観、サカエヤミルクホール。これは前に行ったときの写真。
有名店ですが、最初にここを発見したのは偶然の通りすがりで、当時「ミルクホール」がなんなのか露知らず、牛乳瓶とダンスホールみたいなものが頭の中で混じり合って、たいへんでした。

Sakaeya2

ここでは、非常にレトロでシンプルなラーメンが食べられます。懐かしさの入ったうまさだけじゃなく、ちゃんとうまい、です。

ラーメン大盛り!

頼んで、

ずるずるずる~~~

食べて、

たいへん満足しました。

それから、以前とある史料で見て以来、とってもあこがれていた面白そうな橋が、岩本町付近にあるようなので行ってみました。それは、弁慶橋と言って、なんと三方向から渡れる橋というもので、江戸の名所だったようです。うーん、なんだかカッコイイゾ!と思い、少しでも名残を見たくて現地へ向かいます。

Benkei

・・・これがあこがれの弁慶橋です。

えぇ~~・・・説明板はかなりのあっさりとしたもので、三方向云々の記述もなく、何処から何処へ架かっていたのかさえ、ぜんぜんわかんない・・・たぶん、ここらへん、と思ってパシャリ。くっ・・・これじゃただの夜の道。
この弁慶橋の廃材を使って、赤坂見附のほうの橋が作られたそうなので、それも見とけばよかったかな。

ちなみにこの橋が架かっていた”藍染川”は、かの有名なへび道を有する藍染川ではなく、神田駅西口付近を水源とし、神田のオフィス街をひたすら通り抜ける、地味な藍染川です。去年、神田で飲んだ後にふらふら歩いてみたことがあります。
今回は歯切れの悪い写真ばかりだったこともあるし、そのうち昼間に、”もうひとつの藍染川を歩く”を、やってみたいと思います。

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