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もうひとつの藍染川の、ものがたり

かつて東京都内には、藍染川と呼ばれる川が何本かあったといわれます。
ひとつは、神田の紺屋町あたりを通るもの(痕跡が少なすぎるのため当ブログでは紹介していません)
それから、浅草のほうにもあるようですが、これは未訪。
そして、いま下ってきている、谷田川の下流部としての藍染川。いずれも現在は暗渠です。

・・・しかし、実はもう一本、あるのです。荒川区内だけで「藍染川」と呼ばれている川が。
その川のことを、以前一度だけ書いたことがあります。藍染川排水路、として。当時は大まかにしか知らなくて、三河島の汚水処理施設を見学したついで、という書き方でした。

荒川区で資料を漁っていて、この水路に秘められた区民の想いに初めて触れることとなりました。荒川区外と、区内で、こんなにも違うものなのか・・・。
呼び名もそんな違いのひとつ。自分にとってのこの水路の初出は川の地図辞典でした。そこには「谷田川排水路」として記載されています。ほか、「藍染排水路」と載っている古地図もありました。
地元の方々は、よくあるパターンですが「大どぶ」「どぶ川」などと呼んでいたようです(後日追記:「大下水」とも)。が、名を記すときには、荒川区内で出された資料ではこの水路の名称はいつでも「藍染川」です。そう、排水路だなんて、まず付きません・・・。
今回の記事は、そんな歴史や想いを込めて、荒川区視点で書き進めたいと思います。つまり、本記事では「藍染川」と呼んでいこうと思います。

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もうひとつの藍染川は、こんなかたちをしています。人工河川らしく、ほぼまっすぐ。

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水色点線部分の付け根で谷田川(・藍染川ですが、本記事では混乱を避けるべく、もとの自然河川=谷田川、谷田川の排水路=藍染川とします)から分岐し、水色部分は暗渠で道灌山下をくぐり、青色点線部分は当初は開渠でした。

この水路のはじまりについて。
大正2年に、「下水設定事業」というちょっと珍しい名称の工事が提案されます。北区・文京区・台東区を流れる谷田川が、流量に比して川幅が狭く、また構造が悪く(工事の主体の違いにより、土管が上流は太いのに下流は細いとかなんとか)、氾濫が多かったためです。

染井駒込西ヶ原田端上野台本郷台等左右一帯ノ高台ヨリ急転直下シテ本川ニ集中スル多量ノ雨水ヲ排除スルコト能ワズ・・・
谷中や根津あたりの頻繁な水害の描写はたしかに深刻で、ちょっとひどい夕立だと床下浸水という話やら、炊き出しのおむすびをタライに入れて水の中を押した話やら、部分改修工事はしたものの町の財政では賄いきれないという話やら。

だとしても、それがなぜこんな位置に、こんな形で排水路を設けることになったのか。もともとの谷田川の流路をなんとかすることはできなかったのか?
・・・すでに都市化の進んでいた谷田川下流部の拡幅には土地買収が必至で、河口までの長距離を管渠築造するとしても、いずれにせよ高額かつ困難となるので、当時田んぼばかりであった三河島方面に大排水路を設けることがもっとも合理的という結論だったようです。

そして決定されたこの排水路の設定工事は、大正4年に着工、大正7年に完成。

・・・ここまでの事業計画の話は荒川区以外のお話。荒川区史における藍染川事業の表現は、じつに苦々しいものでした。
台東区方面の溢水のための困惑を救うため、わざわざ区内に下水を設定して荒川に導くという事業で、これが現況においてはむしろ区民にマイナスの作用をしている。
いってみれば三河島村民を犠牲にして東京市民のためをはかったものであったといい得るのである。
(新修荒川区史 昭和30年発行)

こんなにも厭な顔をされた、藍染川とはなんだったのか。
現在は暗渠としての顔しか拝めませんが、分岐点から歩いて行ってみることとしましょう。

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分水装置が置かれたのは、このあたり。
その交差点のところを、谷田川本流が右から左へと流れていました。サンクスのあたりで手前方向に直角に分水していたと思われます。

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ゆるい登り坂を歩いてゆけば、西日暮里の駅前。高~い道灌山の下を、トンネルが通っているらしいです。
後日追記:つまりこの下は、もとから暗渠であったということ。大正4~7年の間に作られたこの暗渠部分は、幅2730㎝の、レンガ積みであったようです。その、内部の写真がたまたま2013年の下水道カレンダーに載っていました。

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・・・ほぅっとため息が出ます。
白汚零さんの写真集「地下水道」にも、藍染川幹線のいちめんのレンガが、モノクロで登場します。使い古されたレンガは丸みを帯び、ところどころ沈んだり隆起したりしていて、まるでうごめく蟲(クダムシ)たちのよう・・・。

JRの線路を越えたところからが、開渠となっていました。以前歩いたときには、疲れて端折っていた場所。

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ここです・・・ん・・・?
なんか、開渠の始点に違和感が・・・

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これは藍染川の始まりの遺構!?

おまけに蓋がけされた部分も色が違っていてはっきりとわかります。
上に乗っかっているのは、さくら水産です。明らかに藍染川よりも後からできておきながら、藍染川の遺構を中庭みたいに使っています・・・!さくら水産の中は、いったいどうなっているのでしょうか。

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あまりに気になってしまったので。改めて、さくら水産が開いているときにやってきました。

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この店舗じゃないですが、さくら水産と言えば学生のときワンコインランチを食べました。あと、友人が酔っ払いすぎて出禁になったとかならないとか・・・。

そんなわけで久しぶりのさくら水産でした。さくら酎ハイを飲み、魚の刺身や唐揚げやタタキなどを食べました。飲み切れないボトルワインを持ち帰ってよいのも、ありがたい。

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さきほどの写真の内側は、ここです。
座敷席へ向かう廊下であり、かつ、トイレと厨房でした。なるほどね!上から真下に、下水道にドボン!というなんとも効率的なつくり。
いや~~、スッキリw

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さ、ふたたび歩き始めましょう。

以前はこの川で染物を洗う光景が見られた、という記述がありました。最初、これは根津の藍染川と混同しているのじゃないか、と思ったのですが、実際にこの場所で染物を洗っていたという人がいました。大正8年に西日暮里に引っ越し、染物業をされていたようです。
この場所で染物を洗っていると、(道灌山下の暗渠部分から)落ちてくる水の音が大きくゴーゴーと響いてきたのだそうです。

やがて文京区などに水洗トイレができ、汚水が流れるようになったので川で洗えなくなり、前述の方は昭和48年に足立区に移られたそうです。

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設置された当初の藍染川は、「大どぶ」などと呼ばれはしたものの、まだまだ流れはきれいなもので、子どもたちは中に入ってタニシやドジョウを採って遊んでいたとのこと。中洲に草がたくさん生えていたので、飛び込んでも怪我をしなかったとか。
長くはない期間かもしれませんが、この藍染川で仕事をしたひと、遊んだひとが居たのです。

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京成のガード下までは、蓋がけ部分の色が違います。

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京成のガードをくぐり、その前に日暮里舎人ライナーのガードもくぐり、そして貨物線の線路をまたぎ・・・西日暮里駅前の線路の交錯具合はなかなかすごいですね。

後日追記:根津の藍染川というと、通称「バンズイ」という金魚屋さんの話がよく出てきます。こちらの藍染川にも、「大谷金魚」という金魚屋さんがありました。場所は、この写真からすると右斜め後ろあたり。
藍染川ができるより前、明治30年代からそこにあったそうです
(もとは湿地だったらしい)。明治終期の地図では、たしかにここにカクカクとした池が描かれています。大正初期にはもう少し緩やかなかたちになり、昭和7年の地図では池は消え、冠氏の別荘になっています。
大谷氏の話によれば、その池は養魚場であり、震災後に人家が増えたため、養魚場だけ足立区に移したのだそうです。残された瓦葺きの金魚問屋も昭和56年になくなり、ビルにかたちをかえました。
古地図でしか認識していなかった「カクカクとした池」にはそんな歴史があったのだと初めて知りました。現在はその場所は・・・地下鉄の変電所となり、白い箱のような建物が、のっそりと建っています。

この先はずっと、京成線の線路と並走します。

古地図を見ると、周辺をちょこまかと用水路が流れています。藍染川よりももっとむかしからそこに在った、この地の田んぼを潤してきた水路。

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それはおそらく石神井用水の分流で、たとえばそのうち1つは、ここで懸樋となって藍染川の上を通るようです。

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懸樋感ゼロでしたけどね・・・。用水はくねりながら遠ざかります。
こんなふうに幾つか、用水と交差するポイントがあります(大正期の地図では5ヶ所ほど)。藍染川設置のさい、石神井用水の水路を使用したと推測している文献がありますが、古地図と照らし合わせる限り、それは違いそうです。

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この暗渠の道は単調ですが、京成の高架裏を見ながら歩くのも面白いです。
ミドリ、ピンク、ブルー・・・いろんな色と柄。1つ1つ違います。

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かつてガード下にあったお店の名残も見かけます。

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ストリートビューでは、ガード下物件が1つだけ残っていました(googleさんありがとうございます)。
きっと、藍染川が開渠だった時からあった店。

むかしは、このガード下に店舗がずらりと並び、その前を藍染川が通り、その両脇には道路があったようです。その道路は、「焼き場道」と呼ばれていました。最初は日暮里火葬場へ行く道、その後は町屋火葬場へ行く道・・・方向が逆でも、焼き場へ行く道ではあった、というわけで。

藍染川が暗渠化されてからは、道は「暗渠通り」という通称に変わります。
いま、藍染川通りと藍染川西通りという名になっていますが、これは荒川区によれば、藍染川通りは平成14年に、藍染川西通りは平成16年に、地元の要望で名付けられたもの。
わりと最近なんですね。そして、地元の方々が今でも「ここは藍染川」と思っていることが伝わってくるようです。

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藍染川には、大きな橋が3つ架かっていました。

ひとつめの橋は子の神橋。新三河島駅前の明治通り沿いです。
大正15年に架橋された古株の鉄筋コンクリート製だったのが、明治通り拡幅とともに廃橋となりました。冬になると、トラックで雪を運んできては、ここでシャベルで掬って藍染川に流す、という光景が見られたそうです。

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この位置にあったのは、花の木橋。尾竹橋通りに架かるものです。

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現役時代の写真を見ると(gooさんありがとうございます)、と~っても広く、斜めに架かる立派な橋でした。
花の木橋の袂にあった飲み屋のおじさんが、川を流れてくるボールを拾っては近所の子にくれた、なんていう微笑ましい話も残ります。

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その花の木橋の親柱が、なぜかここに、ぽつんと立っていたのですが・・・もうなくなっていました。親柱のあった真後ろの建物がなくなり駐車場になって・・・そのときに失われてしまったのでしょうか。いやはや。

荒川区が出している資料にも最後の遺構と書いてあった、花の木橋親柱。何処かに移されていたらいいのだけど・・・今は行方が分からないまま。文末に以前の写真を載せておきます。

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ところで、暗渠感のない道ではありますが、この、地面を”乗っけた”感がすごいんです。
縁石はむしろ蓋がけ部分のアスファルトより低くなっているから、なんのためにあるのかわからないし。

暗渠化工事は鉄の棒の間にコンクリートを流し込むというもので、地元の人は見学したそうですが、今でも大きいトラックが通ると下に抜けてしまうんじゃないかと不安になって、なるべく端っこを歩くようにしている人もいるそうです。

夜になると川が白く見えるので道と間違えて人が落ちたとか、人が自転車ごと落ちて引き上げるのが大変だったとか、馬が落ちて皆で引き上げたとか、橋まで行くのが面倒で丸太を渡ったら落ちて死んでしまったとか、だから遊びに行くときは「川に気をつけて」と言われたものだとか・・・いくつも残るエピソードは、藍染川=落ちると怖いもの、ということを、子どもの頃から沁み込ませるには十分。

                        ***

藍染川周辺が市街地化してくると、川は汚れ、保健衛生上、交通上、防災上等の問題が生じました。昭和2年に三河島町長が東京府知事に下水道工事について上申しています。
昭和7~8年には、新三河島駅から上流と、町屋火葬場前から下流が暗渠となりました。昭和3~11年の地図を見ると、開渠の始まりから貨物線の間までは開渠のままで、新三河島駅から上流の僅かな区間のみが蓋され(下流部はまだ開渠)、その箇所が最初に着手されたのだとわかります。
ところが、満州事変の影響で工事は中断してしまい、しばらく残りは開渠のままで放置。再開は昭和31年、すべてが暗渠となったのは昭和35年でした。

とはいえ、蓋がけ後も、流量の多い幹線らしく、豪雨のときは冠水することもあったそう。さらに分水させるバイパス下水管が30年代後半に作られています。

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町屋駅前を通過します。ああそういえば、町屋駅前のパチンコ屋さんはもとは池で、戦時中までは釣堀があったそうです。この水は藍染川に注いでいたかしら・・・?

駅を過ぎたらまもなく、3つめの橋。子育橋といいます。

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子育橋はここ、博善社通りに架かっていました。町屋斎場の前です。斎場の裏にも沼があったとか、古地図では水路が見られたりとかで、いつもなら足を延ばしますが、わりと近い日にここでの告別式に出たばかりであり、その方のことを強く考えてしまってどうも斎場の水路跡を探す気にはなれませんでした。

子育橋には地蔵橋という別名もあります(子育地蔵が近くにあったのでしょうか)。

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子育橋のところは随分盛り上がっていて、地面の色も違っているので、もしかすると橋の構造物の名残かもしれません。

この3橋のほかにも、藍染川には木の橋がところどころに架かっていたそうです。大正期には約13橋、昭和初期には約16橋ほど。藍染川1号橋~同9号橋などといった、番号で呼ばれる小さめの橋だったようで、これらは昭和36年までにほぼ撤去されています。

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下水処理場の脇を通って、いよいよ河口です。
この三河島の処理場は、もともとは東京市の施設であり、当時郡であった三河島の人々はその恩恵を受けられなかったのだそうです。下水処理場は使えないわ、他区のための排水路が通されるわ・・・三河島村民のふんだりけったり感が前述のような区史にも表れているような気もします・・・

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隅田川に注ぎます。
この河口部分は、もともと町屋の火葬場への入堀のようになっていました。藍染川は、この入堀につなぐ形でつくられたのでしょう。藍染川に比べ入堀はやや幅広く、すこしうねっていました。今現在の道路のかたちにもそれは残っています。

さて、・・・おやつを食べよう。

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町屋駅前にもどり、ふと目についた正統派喫茶、みどり園でホットケーキとホットオレンジジュースをたのみました。コーヒーを頼もうとしたのですが、ホットオレンジジュースって何・・・と、引っかかってしまったわけです。ルノアールのホット野菜ジュースが悪くないように、ホットオレンジジュースも悪くなかったです。斎場帰りの人々が、思い思いに話をしていました。

現在、藍染川跡には分水地点からまるまる、藍染川幹線が走っています。藍染ポンプ所により三河島処理場へ連絡し、処理水を隅田川に放流しているといいます。いっぽう、もともとの谷田川に走るのは、谷田川幹線(か、無名の下水道)です。・・・つまり、現在もっとも「藍染川」の名を残しているのは、地上においても、地下においても荒川区といえるのではないでしょうか。
汚水の川となってからは忌々しくもあったのかもしれませんが、荒川区民がきれいな藍染川とともに暮らした時代も、たしかにあるのです。

さいごに。
大正のはじめ、氾濫の多かったこの藍染川の川底を浚い、その土を付近の地主であった冠権四郎氏の土地に盛ったという話があります。そして、そこに大正5年にできたのが冠町1~3丁目と冠新道。いまは平坦な土地に見える商店街ですが、ここは藍染川の土でできている、というわけです。
・・・わたしには山形で暮らした記憶しかありませんが、実は赤ん坊の頃、少しだけこの冠新道に住んでいました。いまでも、実家には荒川区と書かれた母子手帳があります。祖母が身体を壊さなければ、父が地元に帰るという選択をしなければ、わたしはこの小学校に通っていたかもしれない・・・と、藍染川沿いに建つ第6日暮小学校を見るたびに、あるような無いような縁を感じるのです。

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藍染川のものがたりを書きたくなったのも、どこかで、血が騒いだのかもしれません。

                        ***

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東京「暗渠」散歩では、2枚の小さな写真と、少しのキャプションで紹介された、もうひとつの藍染川。その背後には、たくさんのものがたりが詰まっています。

<参考文献>
荒川区教育委員会「荒川(旧三河島)の民俗」
荒川区教育委員会「街かどで拾ったよもやま話集」
荒川区民俗調査団「荒川区民俗調査報告書」
荒川区役所「荒川区土木史」
荒川区役所「新修荒川区史下巻」
荒川区立第六日暮里小学校創立40周年記念誌「ろくにち」
荒川区立第六日暮里小学校創立60周年記念社会科学習資料「ろくにち第三集」
白汚零「地下水道」
菅原健二「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」
東京都下水道局 2013年下水道カレンダー
谷中・根津・千駄木 其の三十七 
谷根千工房「谷根千同窓会」

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1-9 さんぽ:その他の暗渠」カテゴリの記事

コメント

いつも通勤帰りに見るさくら水産の「藍染川」の表示を不思議に思いながら十数年。さくら水産の前はJRかなんかの倉庫だった気がします。店では無かったです。良く調べて発表してくれました。労せず、わかりました。今日は台風が近づいているので。調べてました。

投稿: chika | 2014年7月10日 (木) 20時38分

>chikaさま

コメントありがとうございます。お近くにお住まいなのですね。
さくら水産は新しくできた感じですよね。この、さくら水産前がこの藍染川の痕跡がもっともよくわかる場所だと思います。今は下水道幹線が通っているわけなので、きっとがんばって雨水を排水してくれたことでしょう・・・

投稿: nama | 2014年7月11日 (金) 11時57分

こんにちは。
通りすがりのものです。藍染川、大変参考になりました。
小生も子供の頃この付近に住んでおり、祖父に連れられて藍染川排水路、いわゆる「おおドブ」辺りを散歩していました。

藍染川については、ちょうど今、下水道「藍染幹線」の修復工事を行なっていて、田端付近では連日工事を行なっています。この藍染川(谷田川)については、その水源が諸説あることに興味を持ち、小生なりにまとめてみました。お手すきの時にご確認いただき、何かご教授頂ければ幸いです。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935005041.html

よろしくお願い申し上げます。

投稿: ミリ波 | 2015年3月18日 (水) 11時17分

>ミリ波さま

こんにちは。コメントありがとうございます。
オオドブのお散歩をされていましたか!そういったかたに読んでいただき、コメントをいただけることは大変に幸せです。書かれたもの、もちろん拝読させていただきます(少し後になると思います、お許しください)。

実は最近何度か藍染川に行っているのですが、工事のエリアは通らなかったようです。3/22更新の「お知らせ」記事内で触れた「ミズベリング」にて、三土さんという方がその工事のことを書いていて、はじめて知りました。
http://mizbering.jp/archives/12955
ご参考までに。

投稿: nama | 2015年3月22日 (日) 13時57分

「暗渠さんぽ」拝見しました。子供の頃、荒川区で過ごしましたので、なつかしく思いました。当時は、町屋の駅から、隅田川までの区間をよく歩きましたので。私がいたころは、橋の上からつりをする子供が多く、川に落ちてしまった事故がありました。下流部分は暗渠になっていましたので、川に落ちると隅田川の出口でしか救えません。消防隊のお兄さんが、出口で川に飛び込み助けたことがありました。その後全区間暗渠になったと思います。藍染川であることは、当時知りませんでした。

投稿: | 2016年3月 7日 (月) 18時11分


コメントどうもありがとうございます。
開渠の藍染川とともに過ごしていらっしゃったのですね。
橋の上から釣り、ですか。ということは魚もいたのですね。流量もまあまあだったのでしょうか。時代により少しずつ変わるようで、おもしろいです。
子どもが落ちる事件・・・本当だ、火葬場の前からは先に暗渠化されていますね。暗渠部分を通過するときはさぞかし怖かったろう、と想像します。
いろいろに想像ふくらみました。感謝申し上げます。また何か思い出されましたら、ぜひ教えてください。

投稿: nama | 2016年3月 8日 (火) 17時11分

花ノ木橋欄干残っています
特別養護老人ホーム荒川花ノ木ハイムにあります
よろしかったら見に行ってください。
私も藍染川がまだ道路でふさがれる前から住んでいます
子どもの頃藍染川が氾濫して上流の金魚屋さんからの逃亡した金魚君たちをすくいに行きましたよ.楽しかった。

投稿: ガラス屋さん | 2020年2月 3日 (月) 10時50分

>ガラス屋さん

返信が遅れまして、申し訳ございません。
あの花ノ木橋欄干は、保存されていたのですね!花ノ木ハイム、諸々が落ち着いた頃にぜひ行ってみたいと思います。情報をくださいまして、ありがとうございます!

金魚というと、大谷金魚さんのでしょうか。やはり、逃亡金魚をすくいにゆかれていたのですね。花ノ木橋あたりまで流れてきていたんだとしたら、結構、下流まできてたのですねー、金魚。

投稿: nama | 2020年3月29日 (日) 13時45分

コロナ蔓延こまつた年明け
明けましておめでとうございます。
先日,何気なしに新聞を見ながら
広告チラシの中に藍染川記事が掲載
されている広告有り,藍染川欄干の写真が記載されていました,見に行っていただけたんですね
有難う御座いました。

投稿: ガラス屋さん | 2021年1月11日 (月) 10時20分

>ガラス屋さん

その藍染川記事が私が書いたものかわかりませんが、はい、花の木ハイム見に行きました!花の木橋に関して、何箇所かにお電話でのインタビューも行い、次に出す書籍に少しだけ書きました。情報くださり、どうもありがとうございました。

投稿: nama | 2021年4月21日 (水) 19時11分

はじめまして😀生まれも育ちも荒川区です。ふと 地元の事を調べたくなり、検索していたところこちらにたどり着きました。10年前の生地なので書き込みに気付いてもらえるかわかりませんが(^^;)父は子供の頃(昭和20年代)近所に住む友人達や弟とよく藍染川で遊んでいたそうです。
ちなみに、さくら水産の少し先に行った右側に駐輪場があるんですが、そこの脇の上り坂かを上がって真ん中付近まで行くとJRの敷地があるんですが、20年代初めはそこに音無川の一部が流れていたらしく、そこでもよく遊んでいたそうですが、藍染川と違い泥がすごく、服を汚して帰ってめちゃくちゃ怒られたそうです💦
泥水は落ちづらいですからね😅
ちなみに、父、叔父、私、娘と親子3代で六日小👍🏻

投稿: 下町っこ | 2022年12月22日 (木) 21時45分

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