西荻窪ひみつ暗渠 第二松庵川(仮)
西荻窪。松庵川のやや北に、もう一本暗渠があります。
ここもずいぶん、西荻らしくひみつめいてる暗渠。今回は、そこを歩いてみようと思います。
以前のデジカメと今のの混合写真なので、大きさが少々入り乱れますが、ご勘弁を・・・。
ビターキャラメルソースのプリンで開始します。このカタチ、ナッツの置かれ方・・・かわいい!かわいすぎる!!
空音、というカフェでした。西荻であった某用事(これが、結構大変だったものだから)を済ませ、コーヒーを飲んでプリンを食べて。そうやって呼吸を整えて、暗渠へ向かったのでした。
それは唐突に始まるんです。
反対側はこう。とくに川の匂いはしません。
この暗渠は何者か、というと、記述がある文献は1つだけ。しかも、短い短い一文だけ。
女窪からの流れは、神明中学校の周りを流れて本村橋付近から善福寺川に落ちていた。(「杉並の川と橋」より)
所謂松庵川は、松庵窪の「男窪」からの流れであり、その流れについては当ブログ含めいろんな方が記事にされています。松庵窪とは、甲武鉄道の敷設用土採取跡地から水が湧いたものであり、西荻窪には線路を挟んで南北に2か所あったと言われます。北側にある「女窪」が、今回の水路の水源にあたります。
「女」窪が、現在の吉祥「女子」中学・高等学校の位置にあるということは、おもしろい縁と言えるでしょう。吉祥女子の中には潜入できないままですが、閲覧可能な情報からは内部に池というより噴水のような、人工的な池があることまではわかりました。が、これは、女窪の名残とは関係ないような気がしています。
そして、女窪から流れ出た水は、西荻窪の駅付近で線路を横断して、上記の写真の場所までくるようなのですが、その痕跡はいまではさっぱりわかりません。唯一手がかりとなる地図では、この写真の場所あたりまでの水路が点線で描かれているので、もしかすると最初から暗渠だったのかもしれません。
・・・不確定なことだらけ。
わからないことばかりではありますが、しっかりと目の前に暗渠の道はあります。両側の地面が高いです。
苔むしてもいます。
どこまでもまっすぐ伸びます。
カワイイ壁がありました。
クリーム、グレー、水色の色合いも、この扉のバランスも。
まだまだまっすぐ続きます。
護岸・・・ではないかな。
でもそしたら、この石たちは何から何を護っているんだろう。
そして唐突に終わります。
ここから道路と混ざってしまい、そしていよいよわからなくなります。
「現在位置」のあたりがちょうど、よくわからなくなってくる場所です。神明中のまわりを周る、と書いてありましたよね。・・・でも、正直に一番外側を大回りしてしまうと、本村橋には行かないんです。
学校のプール(とその採水口)というと、暗渠沿いにあることが多いですが、それはココ。で、ココを通ると仮定しても、やはり本村橋には行かなくなっちゃうんです。地形的にもよくわからない、難所だと思います。
神明中学校とブロックを分け合うのが、この天祖神社です。
神明中学校というより、この敷地の周囲を水路が走っていた方が、しっくりくる気がするんですが・・・。
この、神明中学校周辺(天祖神社の東側、神明中学校とその東並び一帯)には周囲に桜が植えられた馬場があり、ゆえに「桜の馬場」と呼ばれていたそうです。そして馬場の周囲には低い土手があり、土手の両側に深い溝があった、とのこと・・・。この溝は、この水路と関係あったでしょうか。なかったでしょうか・・・。
よくわからないままとにかく下ってゆき、噂の本村橋のところにある合流口?まで来ました。
もやもやしっぱなしだったので、また別な日に再訪。
遠目に見た本村橋です。橋名が示すように、この上荻2丁目のあたりは、「上荻窪村本村(ほんむら)」と呼ばれていました。村の中心であったことがうかがえます。
この本村橋付近、以前はいろいろなものがあったようです。
まず、この本村橋付近は通称「橋場」と呼ばれ、洗い場もあったそうです。この地で採れた出荷野菜を洗う場として重要だったそうで、記憶画を見ると、ずいぶんと広い洗い場で、大根を洗っている様子が見られます。
本村橋の上流は通称「榛の木原」で、冬には天然氷を製造していたといいます。
そしてこの写真の左手のどこかに、昭和初期まであった「穴稲荷」は、塚上に稲荷社があり、中腹に横穴(大昔からあったらしい)があり、その穴に榛の木原で作った氷を入れて保存したりもしていたという、実におもしろいところ。残念ながら、いまは跡形もありません。
善福寺川の川沿いの道が、本村橋の付近だけやたら広がっていて、ちょっと違和感があります。ここらへんに稲荷があったのでしょうか。
写真の本村橋の下に、2枚前の写真の合流口がわずかに見えますが、このあたり、合流口が他にもいくつもあるのです。前回あまりに謎が解けなかったので、どこかの年代に下流部が付け替えられて異なる流路になったと仮定して、辿ってみることにしました。
本村橋から少しだけ下ったところにある合流口の上。奇しくも、ここは遊び場13番です。ただの道路みたいに見えますけどね・・・。
遊び場ということは、暗渠指数が高いはずです。
おっ、こんなにメタルなマンホールは初めて見たよ?
遊び場13番からまっすぐ行くと、ここに出ました。神明中学校の門ですが、ちょうど天祖神社の敷地との境目です。水路が天祖神社をぐるりと回ってくると仮定すると、色々とつながってくるんですがねぇ。
微地形専門ではないので足のレーダーが全然機能しませんが、地形的にもここがまあまあ低いような気がします(他の道よりは辛うじて)。
・・・数少ない手がかりさえも、無視するような仮説になってしまいましたが、消えた暗渠の行く末は、”天祖神社の周囲をぐるりとまわり、本村橋よりやや下流で合流する”と考えるのが今のところ自分にはしっくりきています。
ああ・・・もう何か食べよう、そうしようそうしよう。また、本村橋まで戻ります。
隣の置田橋まで遡ります。この写真のあたりは、かつて田圃があったところ(かつ、上述の榛の木原=氷の製造場所も近い)。甲武鉄道は田圃に盛大に土盛りをして敷いたものなので、それ以前はもっと左側までも田圃だったことでしょう。ここは鍋屋田圃といい、昭和初年頃までそんなふうに呼ばれていたそうです。後述する本村庵蕎麦屋の屋号が「なべや」であったから、とのこと。・・・この田圃の向かいに、本むら庵があります。
・・・本むら庵で、蕎麦をたぐるとしましょう。
本むら庵は、創業大正13年。40年以上にわたり、石うすで挽いた蕎麦を手打ちにし、こだわった美味しいお蕎麦を提供しているお店です。
入店する前に、うろうろしてみました。お店の裏手がこんな崖だったんですね。
駐輪場になっている違和感スペースがあり、その先には謎の開かずの扉がありました。一応、このノブを回してみましたが、開きませんでした。
さぁさぁ、この地が本村と呼ばれていた頃のことを想いながら、蕎麦をいただきましょう。季節ものの、桜えび天おろしそば、にしてみました。
桜えび天っ!!こうくるかー!
桜えびというから、てっきりかき揚げがくるものと信じて疑わなかった・・・。この形状だと、触感がとてもすてきで、一匹一匹の旨味とインパクトが凄いです。蕎麦をぜんぶ食べきるまで、天ぷらは冷めることなくサクサクでした。サックサク。おいしゅうございました!
今回の流路はこんな感じです。不明部分について、水色で薄く記しています。
善福寺川桜の馬場支流(仮)と名付けても良かったかもしれませんが、水源が女窪であることを考えると、「第二松庵川(仮)」と呼びたくなってしまいます。
これまで、西荻窪の暗渠について、いくつか書いてきました。松庵川、城山下支流(仮)、そしてこの、第二松庵川(仮)。
いずれも善福寺川の支流にあたりますが、その他にも共通点があると感じます。それは、ひとつには、文献がとても少ないこと。そして、直線(と直角)ばかりで構成されることです。まだ扱っていませんが、松庵川の排水路的に作られたらしきもう一本も、直線で善福寺川に向かいます。
これらをプロットしたものを見てみると、
(松庵川の中流部以降はサイズの都合で割愛)
みごとに、曲線部分がまるでありません。実は松庵川の下流部になると、曲線を描く部分が出てきますが。でも、今回省いている、善福寺川の上流部にある他の支流たちも真っ直ぐだし、最上流部にある千川分水から引っ張ってきている流れもカクカク気味なんですよねぇ・・・。いずれも、悪水路、用水路、といった目的をもって、人工的に作られた「らしい」のですが。そうならそうで、もっと情報があってほしいのですが・・・。
もやっとするような、それがたのしいような、謎解き西荻窪。
第二松庵川(仮)、上流も下流も、まったく痕跡をとどめず、ただただ真っ直ぐな一本の暗渠が残るのみの川。
ひみつの多い西荻の川の中でも、もっとも「ワカラナイ」の多い川でした。
<参考文献>
・「荻窪の古老矢嶋又次が遺した記憶画」 杉並区立郷土博物館分館
・「杉並の川と橋」 杉並区立郷土博物館
・「杉並の地名」 杉並区教育委員会
・「杉並の通称地名」 杉並区教育委員会
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コメント
ここ、夜に1回通っただけでしたので、
縁石とか全く気づきませんでした。
神明中学校から先は左に流れていくんですね。
投稿: リバーサイド | 2012年6月 5日 (火) 21時25分
>リバーサイドさん
夜って、きっとここを通る人はあんまりいないのじゃないかな、と想像します。そしてとても暗そうですね。。
神明中付近の流路は記事にも書いた通り自信がなかったのですが、ツイッターでHONDAさんも同じ推測だと聞き、これでいいんじゃないかなーと思い始めましたw
投稿: nama | 2012年6月 6日 (水) 14時50分
第2松庵川の神明中学校南側道路沿いから校庭を横断し北門向いの交番(新)角から善福寺川の願泉寺対岸に至る水路の神明中学校内の水路ついて。。。。
昭和14年の国土地理院1万分の1地図を見ると、まだ校舎はなく、斜めに道路が横切っています。
恐らくこの斜め道路に沿って水路があったものと推察されます。昭和23年、現在地に開校したが、建築された校舎は周辺道路に対し斜めに建築され、昭和53年に改築された現校舎も同様です。これは、水路に沿って建設されたものと推定され、従って、交番向い側から校舎に沿って斜めに引いた線が水路と考えてよいと考えます。
投稿: wata104 | 2023年3月31日 (金) 19時41分