1-7 さんぽ:善福寺川支流

善福寺川支流の暗渠

プチ天保新堀用水ブーム、きたる (1)

以前撮った金太郎車止め写真を眺めていたら、2015年に3時間かけて杉並区成田西にある金太郎ストリートの写真を撮っていたことがあった。

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その写真をツイートしたところ、その家は現在更地になっている、というコメントをいただいた。

えーーー!

早速ストビューで見に行ってみる。

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本当だ。(ちなみに暗渠ハンター氏が年初にその情報をツイートしたそうだが、気づいていなかった。)

なんてこった。
ここは、桃園川に関連する重要な場所のひとつである。「天保新堀用水のトンネル出口があった」とされる家なのだ。

天保新堀用水とは、「桃園川の最大支流」として紹介することもあるが、江戸時代に苦難に満ちた大工事を経て善福寺川と桃園川とをつないだ、じつにドラマチックな人工水路である。
郷土資料にも数多く(そして長く)記述があるし、天保新堀用水に限定した講演なども行われてきた。個人的には青梅街道という尾根を用水路が越えたこと、掘削時から既に暗渠だったこと、あたりが凛々しくて大好きだ。地形好きな人が桃園川マップを見て「ここ尾根越えてません?」と不思議そうな表情をするときなんか、自分が掘ったわけでもないのに鼻高々になる。
…けれど、何度かトークの中に混ぜ込んだことがあるものの、なんというか話そうと思うと皆が知っているような気がして、あえて紹介しなくてもいいんじゃないか、と気が削がれ、地元情報が得られても、あまりきちんとまとめたことがなかった。

なぜか今になってこんなふうに、天保新堀用水のトンネルのことや、水路まわりの長年の営みを、まざまざとイメージさせられるような瞬間が訪れた。

おかげで、わたしの中に「プチ天保新堀用水ブーム」がやってきた。
ご近所探訪ブームの一種なのかもしれない。必然かもしれない。兎に角それは、さざ波のようにやってきたのだった。

だから、満足するまでこの暗渠のことを書いてみたい。

ちなみに北斎美術館の竹村学芸員が杉並で天保新堀用水の講演をされたさい、古文書における表記についても調べられていた。呼称はまちまちであり、決定的な名は実はないそうである。ひとまず、「天保新堀用水」をここでは用いていく。

まずは、きっかけとなった工事現場のことを改めて。

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この場所は、T家という、長く地元におられる家系の敷地である。長年この入口の植え込みに身を潜めていた、恥ずかしがり屋の金太郎がいた。

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今は、腹を括って社交的になっている。

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ストビューの後日、直接見にいってきた。すると門ができ始めていたので、(T家は健在なのだと)安心した。

ここに金太郎がある、ということは、水路が存在したことを意味する。
そして文献を見ると、水車もあったことがわかる。成宗(屋倉・田端)の水車。荻窪の古老、矢嶋氏の記憶画にも描かれる。
明治期の地図には、ちゃんと水車記号がある。

Img_5566東京時層地図「明治の終わり」より。この地図にはトンネルが点線で描いてあり良心的

現在の地図も見てみよう。

Img_5568水車付近を拡大。マピオンより

情報が統合されていない頃、わたしはこの地図中央の三角地帯に水車があったものと思い込んでいた。

2010yakuranosigemi このような、植え込みしかない三角形である。猛烈な水車感

しかしやや前の住宅地図を見ると、なんと、この三角スペースには家が建っていた。そうくるか…。
バブル期の地図では、金太郎がいるほうの道はまだ道になっていなかった。この三角スペースは、水路跡を歩道に昇格させ、バブル期以降に出現したようである。なお、この位置から下流の杉並高校に至る水路は、地図によって描かれ方が変わる、摩訶不思議なところがある。

さて。肝心の水車は、T家の庭にあったとされる。工事の尽力者の一人だったので、水車の恩恵はそのためなのだろうか。
水車は、「水神の小祠のところにあった」と書かれている。

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祠の位置が移動されていないとすれば、あそこが水車跡だ。この状況にある今だけ、見ることができる。

水路は矢倉台地をトンネルで抜けてくる。そのトンネル出口は、この敷地の西端だったと記される。わたしは地形等の状況から、「現在の敷地」ではなく、「かつてのT家の敷地」の西端と推測する。つまり、もっと西までが敷地のはずなのだ。

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おそらく、この車の後ろの崖に穴が空いていたのではないだろうか。

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台地に上がり、水路跡の方向を見る

 

水車が回っていた時代のことを、脳内CGで再生してみよう。
台地のキワにあけられたトンネルから、春から秋にかけ、どうどうと水が流れてくる。トンネルでは大鯉やウナギがとれたこともあるし、カワウソの巣もあった。トンネルは概ね、幅1.6m、高さ1.3m。水車堀もある。水車はその流れで回り、米・麦・蕎麦の精白や、粉の製作のために働いた。大正末期、モーターの普及により廃業するまで、働いた。

このいかにも人工的なトンネルと水路は、天保新堀用水の第1期工事により、出現したものである。


上流部の開墾により桃園川の湧水量が減ったこと、そして馬橋村にもともとあった桃園川支流(弁天川)が天保10年に枯れてしまったことを契機に(竹村氏の文献調査によれば、すでに天保7年時点で大打撃だったようだが)、水を得る必要が高まる。
流域の村は、善福寺川からの取水を代官所に依頼することにした。この記述から、桃園川の水量は善福寺川よりも心許ないことが想像される。

希望がかない、天保11年、工事開始。
善福寺川広場堰の取水口から矢倉台(先ほどのT家脇の台地)へのトンネル入口まで、また、矢倉台のトンネル出口から成宗弁天池の先、青梅街道手前のトンネル入口までを、開渠で掘削。トンネルは2箇所で、オール人力で掘っていった。「胎内掘り」と呼ばれる工法である。青梅街道のトンネル出口から先は、もともと存在する弁天川に接続することとしたが、改修もしているようだ。

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スーパー地形に、成宗弁天池までの天保11年ルートをプロット。点線部分は胎内掘り

しかしながら矢倉台周辺のルートは、善福寺川付近の土手にカワウソが多く、巣を作られて水漏れし、天保11年中に大雨により決壊してしまった。なので、当該ルートをここでは「失敗ルート」と呼ぶ。

翌年、天保12年に、善福寺川取水口から成宗弁天池までのルートを堀り直し。こちらは成功している。
ところが苦労した失敗ルートのほうも、人々はたやすく諦めなかった。修復し、用水路と水車場に用いた。それが、T家の水車と水路になっている、というわけだ。T家の人がカワウソの巣を見ていることも、話がつながり興味深い。

失敗ルートのトンネルに思いを馳せてみる。
トンネル(からみて台地上)には3箇所の「のぞき」(マンホールの用途)があり、丸太で蓋をしていたという。「のぞき」の上は畑だったそうだ。今は畑どころか、住宅とマンションが隙間なく建っているため、「のぞき」の跡も何も感じられない。

しかし、中の記録は存在する。新日鉄社宅工事中に胎内掘りが発見され、ニュースとなったことがあった。杉並区広報の記事を教えてもらったが、新聞にも載っていた。ゴツゴツとした、胎内掘りのてざわりが写真からも感じられた。

新日鉄社宅は、今はもうない。集合住宅になっている。

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成田西4−5。ここがおそらくそう。この建物の下にあったはずのトンネルは埋められ、いまは存在しない。

トンネルの入口は、このあたり。

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やや分かりづらいが、上から見下ろしたところ。この台地の下にトンネル入口があったという。

ここから取水口までは、開渠となる。遡って歩いていこう。

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崖下の、暗渠らしい道となる

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マンホールが印象的

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四角バージョンもある

 

以前、「桃園川探検隊」の方々とここを歩いたとき、これらの大径マンホールを見て「水門があったのかな?」と仰る方があった。こういったつくりは、中に一回り大きな人孔があることを意味している。下水道台帳を見てみる。

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「水路敷」のみならず「暗渠・公共溝渠」の表記もある。マンホールについては、内径180cmのもの(大きめ)であるということ以外、特徴的な情報は見当たらなかった。


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崖下のクネクネ路が、一直線の公園に変わる。この真っ直ぐな天神橋公園がそのまま失敗ルートの用水路の跡だ。この形をした水路の、古写真も残っている。この突き当たりが広場堰、善福寺川に出る。

以前は気づかなかったことだが、矢倉台を、天保新堀用水の隧道上に近づこうと思いながら歩くと、越境マンホールに出会いがちである。

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狛江からの越境蓋

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八王子からの越境。複数枚あった

現代版「のぞき」といえるマンホール。「のぞき」の痕跡はないものの、代わりにこういった面白いマンホール蓋に出会えるので、ここの場合は台地上を歩いてみるのもオススメだ。

どうも長くなりそうなので、数編に分けたいと思う。次記事に続く。

<文献>
高円寺パル商店街 「高円寺村から街へ」
杉並区教育委員会「杉並の通称地名」
杉並区郷土博物館紀要別冊 「杉並の川と橋」
杉並区立郷土博物館分館「荻窪の古老矢嶋又次の遺した記憶画」
杉並区広報
森泰樹「杉並区史探訪」
森泰樹「杉並風土記」

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荻窪暗渠展と西荻ドブエンナーレ

お知らせです。

9月からすでに始まっているのですが、、、11月27日まで、「荻窪暗渠展」開催中です。
場所は、杉並区立郷土博物館分館。天沼弁天池のあったところです。
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本日11月1日から、オリジナルコースター第三弾を、アンケート記入をしてくださった希望者に配布中です。もし興味のある方がいらっしゃいましたら、ぜひ。
もうひとつは明後日から開始の西荻ドブエンナーレ。
そのうち、上旬開催のイベントについてまずお知らせします。
Sho
11月5日、13時からは、銭湯にて上演される暗渠演劇「一輪の書」。
Siro
おなじく11月5日、19時からはギャラリー数寄和さんで荻窪圭さん・駒見学芸員と中世&地形の「凸凸凹トーク」。
これらふたつは、申込が必要なのでぜひぜひお申し込みください。
Suisha
11月6日、13時からは、善福寺池のほとりで「水辺の茶話会」。水車アーティスト対談、水車とのコラボ演奏などがあり、雨天でも用意があります。
こちらは投げ銭制なので、ふらりと来ていただいて大丈夫です。
今週、暗渠まつりがはじまりますよ~。

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西荻窪ひみつ暗渠 城山下支流(仮)の謎を解く

やや間の空いた、西荻窪シリーズ。まぁどれも間が空いてますけども。

今回は、以前謎を残したまま終えてしまった、善福寺川城山下支流(仮)をもう少し追求しようと思います。西荻窪には松庵川というエース級がいるけれど、松庵君ともども全体に情報がすくなくって、謎が多くって。だからこそ、おもしろくって。

この「謎の多さ」は、無駄のない区画や、過去のそれとは異なる地形や水路の形状、そして住民が少なかったことによる情報の無さからきているような気がします。そして、前者ふたつは、西荻独特の区画整理事業に由来するものであるようです。

その事業の立役者は、若くして井荻村村長となった内田秀五郎氏でした。
内田氏らの誘致により、畑と雑木林ばかりであったこの地に、大正11年に西荻窪駅が開業します。内田氏は、道路ひとつ整備するだけでも、各方面の負担の調整にとても苦労したという経験を通し、全村で耕地整理を行って道路を整備すれば、負担も公平だろうという考えに至ります。その後関東大震災が起き、移住者が増えだす時期でもあり。大正14年に井荻村土地区画整理組合がつくられ、翌年から工事開始。西荻の土地は、整然としていったのでした。

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東京時層地図から、ビフォーアフターを読み取ることができます。
この地域の工事は、昭和2年に本格化したといいます。そのとき、住民のひとりは「武蔵野だったこの地に」、道が「容赦なく横切り」、「忽ちにして碁盤の目を刻んだ」と憎々しげに描写しています・・・長閑な風景が失われることを惜しむひとは、この時代にも居たのでした。

ともあれ昭和の初めには、西荻窪の街並みは直線が多くなっていたのでした。対象となった土地の総面積は888ha。村独自で行ったものとしてはとても大規模な、珍しい事業であったといいます。善福寺川もこのときに改修され、何本もあった流れは幅5mに統一、周辺の田んぼは次第に埋められてゆきました。

善福寺川のみならず、他の水路の工事も進められました。上荻窪原の水路、という、まっすぐな雨水排水溝様のものが、実績のひとつとして載っていました。おそらくlotus氏が行っていたここの、3本のうちのどれかのことだろうと思います。
昭和15年の写真には、埋められる寸前のまっすぐな土管が写っています。その写真では片岸が少し高くなっていて、木々が鬱蒼としているので、城山っぽい雰囲気でもあります。城山下支流(仮)については、「区画整理の際に七ツ井戸(後述)がすべて埋められた」と、書かれてもいます。他は直接的な記述はないけれど、松庵川も、第二松庵川も・・・細い流れほど、地図にはビフォーもアフターもきっと載ることなく、粛粛と変えられていったことでしょう。

                   ***

さて城山下支流(仮)のおはなし。・・・結論からいうと、この城山下支流(仮)のことは、やっぱりすべてはわかりませんでした。けれど、善福寺川のあげ堀の一種で、主な用途はおそらく水車堀であったという考えには至っています。

その根拠となっているのは、

森泰樹「杉並風土記」より、
江戸期に、水車を動かすために落差をつけようと、善福寺川から引いた水路を城山の下を北から南に一直線にトンネルを掘って流した

西荻図書館前の案内板より、
川から引かれた水路が城山の下を通っていた/七ツ井戸と呼ばれた井戸(※)は、城山の南側に一列に7つ並んで掘られていた/城山=現在の西荻北二丁目19・33番一帯

※七ツ井戸・・・所謂飲料水確保の井戸というより、深い位置を水路が流れているため、その掃除用マンホールではないかといわれる。暗い森の中にあったため地元の人たちが恐れていて、説明的な記述が殆ど残っていない。

等の記述があって、この内容に従えば、城山というのは、

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(yahooさんありがとうございます。)この緑点線内のエリアだった、ということになります。そして、城山下支流(仮)の現存暗渠をプロットしたものが水色点線。なるほど微高地である城山に、少しかかるような不思議な位置を流れています。

そしてそして、七ツ井戸は”城山の南”という位置に、”北~南(地図上は縦)”という並びで在った、とされます。つまりこの赤丸内に七ツ井戸が、七つ並んで在っただろう、と推測できます。

その縦の流路を以前の記事の写真で示してみると、

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ここ(確かに両岸との高低差がひときわある)や、

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名所!と思っているここも、七ツ井戸跡地の候補になりえるのでした。
ふぅむ・・・この場所がむかしは不気味な雰囲気で、井戸が七つも並んでいたなんて。

下水道台帳をみてみると、現在、城山下支流(仮)下には実は下水管はほとんど通っていないことがわかります。いずれも狭い裏道なので、車道の下に付け替えられているようでした。しかし、この、七ツ井戸候補地の、南北に走る暗渠道だけは、下に今でも下水管が残っているのでした・・・(ここで何か想像をはたらかせたいところなのですが、これまた謎のまま・・・)

ではこれが水車用のあげ堀だとして、取水口は何処にあたるのでしょう?
この問いが、なかなか解けない難問なのでした。

あげ堀の取水口、それは堰のやや上流にあるはずです。善福寺川の西荻地区における堰は、4つあったとされます。旧地名(含通称地名)、関根、団子山、中田、本村に1つずつ、計4つ。このどれかです。
もっともそれらしいと思えるのは、「団子山」、現西荻北5丁目にあたるといわれ、関根橋の上流側に位置するもの。そもそも、関根橋という名称も、「関根」は後ろに控える(荻窪)八幡神社の神宮をつとめる小俣家の屋号が関根、という説明がなされるいっぽう、「堰があったから」という記述も見たことがあります。シンプルに、関根橋付近に堰があったと考えてもいいと思うわけです。

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その、関根橋から善福寺川をみたところ。

残念ながら、付近には暗渠の出入口のような穴はありません。

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カモさんたち。
善福寺川、つい先日も溢れてしまいましたが、ふだんはこんなに穏やかなんですよねぇ。このすぐ下流にある関根プール跡地は、調整池になるため鋭意工事中であるようで(付近の善福寺川沿いに住んでいる方談)、もう少し安心できるようになるまで、あと少し、かな。

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(東京時層地図の段彩陰影図より)この関根橋よりやや上流から取水していたとすると、あげ堀が通せるような、低めの場所があるといいんですが。・・・ここら辺?

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上記の位置、いまはこういう車道になっています。うーん・・・そうであるような、ないような。

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苦し紛れに、あげ堀があったであろう取水口から南、そして東へと歩いてみますが、うーん・・・。ここも、そうであるような、ないような。

前述の、区画整理事業のさい、このあげ堀前半部分はきれいさっぱりと失われたのだろう、と思っています。なぜならこの付近は、西荻窪駅から青梅街道に向かう道路沿いという重要な場所。おそらくはこの辺りの地面の高低差は均され、適当に盛土をされ、水路は道路化する以前に消滅させられたのではないかと思います。したがって、暗渠様の道は残ってはいないのではないか、と・・・。

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車止めがあるといえばある道だったけど。あまり水路の跡、という気はしないのでした。

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そのさき、もう少し東に進んでいけば、現存する城山下支流(仮)の上流端と出会えます。

が、はじまりより少し手前からも、空間がひらけています。この部分も水路だったのでしょうか。

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で、ここからが見える暗渠のはじまり。

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東京時層地図にて、その位置を示します。赤いピンの辺りが、現存する上流端。北にある高台が城山です。なんとなく、城山の左から、まあるく水路が城山の下を流れゆく感じ。

ここから先は、以前の記事と被ります。急ぎ足でみていくとしましょう。

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異なる季節に来ましたら、また異なる景色が見えました。

苔むす暗渠。

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ひみつ基地のような場所。

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このマンホールを椅子にして一杯やりたい。

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まっすぐまっすぐ。

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あれっ、階段だけ新しくなってる。

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最後の直線。

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そして善福寺川に、注ぐのでした。

さて、ゴハン。
今回は関根橋を渡って少し上ったところにある、「洋食のみかさ」です。
1969年から在るという、どっしりとした洋食屋さん。

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そこで洋食の王様みたいなメニューと出会いました。その名も「スペシャルナポリタン」。
え、奥に見える付け合わせは何か、って?

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ハンバーグとクリームコロッケ、でした!ウオォー!!
ナポの上にはがっつりとチーズ。ハンバーグのソースをときどきスパゲティに絡めて味を変えてもたのしい。近所のひとたちが次々入ってくる、色んな年齢層の方に愛されているような名店でした。

それにしてもこれは良い一皿だなぁ・・・。オトナのコドモ心を疼かせる感じ。

さて、満たされたところで、まとめ。

そういえばまだ水車の詳細に行き当っていません。この高台城山を、わざわざ深掘りしてまで通した水車堀、というのは、いったい誰のどういった資金でできたものなのでしょう。
この位置の善福寺川は蛇行ぶりを見ても、高低差の無いゆるやかな流れであったのかもしれませんが、それにしても新設水路にしては長く、難工事だったのではないかと思うのです。しかも、その水車もマボロシかというくらいに地図上には出てきません。江戸にできたはずの水車、明治より前になくなったのでしょうか・・・このモヤモヤを解くため、苦手な「江戸」にも手を出さないといけないかな、と思います。

上記の謎に少しでも迫るため、通称地名「城山」の由来に立ち返ってみましょう。
城山はこの地方の領主で、荻窪八幡神社を祀っていた武将の城址である、という説があります。
もしもこの話が本当ならば、この城山は中世の城のようなイメージで、館の周辺に水路が巡らせてあったかもしれない。ちょうど善福寺川が屈曲する地点なので、北、東、西には既に天然濠がある。しかし、南だけが無い・・・

ところが実は、「城山」の東に「出山」という旧地名があり、出山には葦の群生した沼や、氷を採った氷り場があったといわれます。たんに善福寺川と直結した湿地だったかもしれませんが、善福寺川支流といえるような、かすかな小川があったかもしれない、などと思ったりもします。

このようにして情報の断片を拙いながらもつなぎあわせていくと、

城山に中世の武将の館があり、その南(正確には南東)を囲う水路として、城山下支流(仮)が存在していたかもしれない。江戸に入って水車を設置するとき、城山下支流(仮)の流路を活用し、付け替えて掘り下げたり、水流を増やすため善福寺川から取水するなどして、城山下支流(仮)の新流路ができた。昭和2年の区画整理時に、上流部分は埋められ消失、中流以下は直線に改修され、もともと湿地様だったその地の湧水の排水用、あるいは雨水排水路として残され、今に至る。

城山下支流(仮)の誕生から現在までの歴史とその全容を、こんなふうに推測することができます。あくまで情報が少ないなかでの推測、きっと間違いやただの願望が何割かを占めていると思いますが。

それでもまだスッキリしない。水車の詳細、それから取水口の正確な位置・・・やっぱり、謎が残ってしまいましたね。

西荻窪、ほんとに奥ゆかしい街だなあ、と思います。まだまだ追わねばなりません。でもきょうは、ここまで!

<文献>
梅田芳明「武州多摩郡上荻久保村風景変遷誌」
森泰樹「杉並風土記」
「杉並の通称地名」

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アジヤソウのひとびと

アジヤソウ。

あじや草?鯵や、そう・・・?なんだかふしぎな響きの単語。

・・・アジヤ荘。そんな名の建物が、むかし杉並にあった。

             

アジヤ荘(昭和21年に建設)は2階建てで、2棟ある。13世帯が住んでいる。
ちかくには、善福寺川から取水された灌漑用水路が流れている。その幅、約1m50cm。

もともと低地だったものだから、雨が降ると床下に水が溜まってしまうことは多かった。

昭和28年のある日。
用水路の一部の排水をおこなっていたマンホールが、工事により埋まってしまう。すなわち、用水路の水量が増えてしまう、という事態が起きる。

雨天時にだけ起きていたアジヤ荘の水びたしは、田圃が水を使用する期間は常時、どんな天気の日にでも起きてしまうようになった。
こりゃタマラン、とアジヤ荘のひとびと。すごい湿気に、不衛生。なんとか手を打たないと、とても暮らしてゆけない。

ところがその灌漑用水路は、農家(S氏)の私有物だった。
S氏にとっては、灌漑用水路の水量が増えたのは、これ幸いといった感じだったそうだ。アジヤ荘チームはS氏に交渉しにいったが、物別れに終わってしまったのだった。

ここからが、壮絶。

アジヤ荘チームは、複数回にわたって、S氏に無断で水路をせき止める。
農家側、巧みにそれをこじ開ける。
アジヤ荘せき止める。
S氏こじ開ける。
・・・。

困ったアジヤ荘のひとびとは、区役所に訴える。
が、私有物なので区役所は手が出せない。

困り果てたアジヤ荘のひとびとは、こんどは警察署に訴える。
で、杉並署が「適切な処置をこうじることになった」のだそうだ。

ここで、新聞記事は終わっている。
その後のものがたりを、わたしは知ることができない。けれど、わたしはどうしてもこの場所のことを、もっと知りたくなってしまった。

・・・当時の善福寺川と、灌漑用水路を描いた図を見てみよう。

Ajiyasuiro        「杉並の川と橋」より。和田掘町第二土地整理事業概念図(P69)の一部

和田堀第二土地整理事業とは、昭和16年から始まり、戦争等による中断を経て、昭和35年までに行われたものだ。この図のように、河川の一本化、埋立や暗渠化等の工事が含まれている。

区立方南公園用地、と書かれたあたりが、アジヤ荘の場所であるようだ。たしかに、すぐ横に水路が走っている。これがあの、S氏所有の忌まわしき水路に違いない。

なお、”新水路”と書かれたものが現在の善福寺川の流れだが、当時は善福寺川本流はもっと北にぐねぐねとあった。周辺にこまごまと張り巡らされた用水路は、ここで稲作が行われていたことを示している。いまは佼成会関連の建物がどすんと建っているこの場所に、田圃が拡がっていたということは、言われてみなければなかなか想像がつかない。

・・・アジヤ荘が建っていた場所に行ってみる。

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たぶん、ここ。現在は方南公園だ。右手に崖が見える。左にいくと、善福寺川。

休日だったが、とても静かなところだ。

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方南町から歩いてくると、跡地に向かうにはこのような坂を下りることになる(右手が跡地)。たしかに低地だ。しかし、前掲の図にあった水路の痕跡はまるでない。

暗渠イコール川跡、とするならば、ここも暗渠ではあるのだが、いささか暗渠感が足りない・・・工事はずいぶんと壮大で、ずいぶんとキレイに終えられてしまったようだ。

そういえば、ここの航空写真はどうだったろう?
昭和22年の航空写真を見てみよう。

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                  gooさんありがとうございます。昭和22年航空写真

写真の上側に、作りかけの善福寺川新水路のようなものが見える。その南に田圃がならぶ。
アジヤ荘は昭和21年ころに建てられたというから、ここに写っているはず・・・写真左下のほうにある、2つの長方形の建物がそれだろうか(しかしこれは台地上のようにも思える)?灌漑用水路の流れも、いまひとつ判別しづらい。

ほぼ同じ位置の、もう少し後の時代を見てみる。

Ajiya38              gooさんありがとうございます。昭和38年航空写真

そこにはもうアジヤ荘はなかった。昭和38年時には、すでに方南公園ができていたようだ。田圃もなければ、用水路たちもない。

昭和39年開催の東京オリンピックのために、環七が急ピッチでつくられた頃だ。ちょうどこの場所も環七のすぐ近くであり、そして上述の整理計画の対象にもなっている。記事からすると氾濫が問題化しているのはアジヤ荘だけのようだから、他に建物はなかったのかもしれない・・・事情はよくわからないが、アジヤ荘はどうも、それほど長くは建っていなかった建物のようだ。

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アジヤ荘の記事を読んでいると、ああ、それは相当困っただろうなあ、とも思うのだけれど、思うのだけれど・・・そこに想像されるものとは、ほっかむり姿で夜中に水路を堰き止めに行くひとたちとか、「ったくやってらんねーやー!」と言いながら酒をあおるステテコのおじさんとか、「ほんとにSのじいさんったら!あーもう、そこまだ拭いてないんだから歩かないで頂戴!」と怒鳴りながらたすき掛けで掃除をするおばさんとか、溢れた水におもちゃを浮かべて遊ぶ子どもとか・・・なんだかそんな、ちょっとだけ微笑ましさを含んだ風景になってしまうのだ。

そんなことを思いながら、方南公園を後にする。

・・・いったいどういう「適切な処置」がなされたのか、その情報はどこにもない。
アジヤ荘も、いまはない。
張り巡らされた用水路、それもあとかたもない。

ないけれど、この地にはそんなものがたりが、たしかに在った。
なんのことはない、暗渠らしささえもない、この場所に佇んでみるのも、悪くないな、と思う。

                       ***

オマケ。
善福寺川が削った坂をのぼり、台地に上がると、”古き良きパン屋さん”的風貌のお店があった。
丸栄ベーカリー。

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ごはんを食べた直後だったけれど、こういう良い顔のパン屋さんには、入らざるを得ない。大好きなコーンマヨネーズのパン(2個入り)を買って、ぱくぱく食べる。まぁるくてかわいらしく、そしてパン生地がしっかり美味しかった。

・・・アジヤ荘のひとたちも、食べていただろうか?

<文献>
・「杉並新聞」第451号(昭和31年7月5日発行)
・杉並区郷土博物館「杉並の川と橋」

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マボロシのフィッシングセンター

「杉並新聞」を少しずつ読んでいます。
1ページ1ページ見るのでとても時間がかかるのですが、杉並ローカルな話題と昭和30~50年代の独特の言い回しに、目が離せなくなるのです。

今回は、そんな杉並新聞から、胸キュン杉並ネタをひとつ。

Fish1

行先は、ここ、善福寺川松ノ木支流(仮)です。

以前松ノ木支流(仮)の記事を書いたとき、nasunokaoriさんから成田東にあった釣り堀のことについて、情報を頂きました。このときと、このときです(コメント欄参照)、本当にありがとうございました。
その情報によれば、松ノ木支流(仮)の少し西に、”杉並フィッシングセンター”という釣り堀が、比較的短期間あったということでした。
とても胸おどる情報で、ぜひ、そのフィッシングセンター跡を見に行こう、と思っていました。

ええと、このあたりだったかな・・・。

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支流から、陸に上がります。この階段、なんで一番上がクイッてなってるんでしょうね・・・

パラパラと杉並新聞を読んでいたとき、まさにこの”杉並フィッシングセンター”がオープンする、という記事があったのでした。
ときは昭和44年、暮れ。翌年の元旦から、成田東に杉並区内最大の釣り堀(1800㎡)がオープンすることを告知する内容です。80人がいちどきに”へらぶなつり”を楽しめる、2つのマンモス釣り堀のほか、金魚や色鯉専門の2つの釣り堀もあるという。へらぶなつりは一日600円、半日400円・・・。

杉並区内の太公望たちは、大喜びしたことでしょう。

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ここがその、杉並フィッシングセンターのあった場所です。
近辺に駐車場はいくつもあれど、新聞のおかげで住所が特定できていたので、迷うことはありません。

ふむふむ、ここだったのか~。たしかに広いな~。

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釣り堀というと、なんとなくもと池だったり取水排水の便の良さそうなところだったりと、低地を思い浮かべますが、ここは思っていたより高い場所にあります。

このフィッシングセンターは、もとは養鶏場だったのでした。
経営者がこの地に移住してきた昭和6年、善福寺川流域は田圃や雑木林しかなく、この位置から大宮八幡までは民家が一軒もなかったそうです。・・・しかし次第に住宅が増え、近所から苦情が出てしまったため、38年やってきた養鶏場を閉めざるを得ない状況になりました。
そして、色々考えられた結果、家族揃っての釣りファンであることもあり、鶏舎跡を釣り堀とし、再スタートすることになったのだそうです。

昭和45年1月の新聞には、オープンしたての杉並フィッシングセンターの広告も出ていました。”ミノファーゲン製薬横入ル”、と。

しかし、nasunokaoriさんも触れられているように、この釣り堀はそんなに長くは存在していなかったようです。どんないきさつで、廃業することになったのかはわかりません。記事内には経営者の方のお名前まで出ていたので、その後どうされているのか、妙に気になってきました。

・・・すると、駐車場のすぐ近くに、経営者の方のお宅がありました。この駐車場の管理をされているようでした。なんとなく安心して、帰路につきます。

の、前に、自分のサガというか・・・釣り堀の排水ルートがないかどうかも、気になってしまいます。

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この丘のあたりにはそんな暗渠らしい道はありませんが、ゆるやかに、松ノ木支流(仮)の方に下っていく道があります。

で、その道を下りきったところと松ノ木支流(仮)の間には、

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こんな空間があります。ここ、あやしい。
柵の向こうにはフィッシングセンター跡が透けて見えます。うん、勝手にここを排水路跡と思って今後は歩くことにします。

もうひとつ、釣り堀ネタを。
nasunokaoriさんのコメントには、”高円寺にあった屋内釣り堀”の話もありました。それについての記事も昭和40年のものに見つけました。

どうやら杉並で最初の”屋内釣り堀”は、昭和38年に高円寺に出来たもの(=おそらく、教えていただいた小杉湯近くのもの)であるようです。そしてその後の1~2年でアレヨアレヨと杉並には11軒の屋内釣り堀が出来たのだそうです!
商店街のど真ん中、いずれも一等地。アクセスもよく、手ぶらで釣りが楽しめて、朝から夜11時頃までやっていて・・・。夜はサラリーマン、昼は子どもで人気だそうで。鯉、フナ、うなぎに、金魚、メダカ・・・”金魚すくい”まで!

随分とたのしそうに思えましたが、実は記事は、この屋内釣り堀業を憂慮するトーンで綴られていました。景品や買取りなど警視庁で禁じている行為を行っていたものがあったり、夜営業もあるので青少年のたまり場にならないかといったたぐいの心配がされていたのでした。

その後、屋内釣り堀に関する記事は出てきませんでした。
昭和30~40年代には釣り堀・屋内釣り堀業はかなり流行っていたことがうかがえますが、爆発的に増えたぶん、短命に終わったものも少なくない気がします。何かの規制がかかってなのか、経営悪化なのかはわかりませんが・・・。HONDAさんがかつて書かれていた釣り堀ブームについて、杉並を通してやっと実感が持ててきました。
釣り堀。大正から在る阿佐ヶ谷の釣り堀そのなりたちについての記事のように長くやっているものと、上記の釣り堀ブームのときに出来たものでは、立地や川との関連性等で違いがありそうです。また触れる機会があれば、調べてみたいテーマです。
現在まで残っている屋内外釣り堀さんたちにエールを送りつつ。

<参考文献>
杉並新聞第1307号(昭和40年8月12日発行)
杉並新聞第1716号(昭和44年12月25日発行) 

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またの名を観音川

”観音川”。
杉並にある、暗渠の1つであるはずのもの。
しかし、それを知る人は少ないでしょう。

初出は、平成6年の杉並郷土史会会報です。あの”松庵川”が名づけられたものと同一の記事(田中士郎「観音川と松庵川」)です。しかも、順序としては観音川がさきに紹介されていたのでした。

この”観音”とは、荻窪にある光明院のことを指しています。

Komyo

囲ったところが光明院の敷地です(gooさんありがとうございます)。甲武鉄道敷設の際に墓地部分を分断され、右側に環八が迫り、なんだか窮屈そう。

奈良時代、お坊さんがこの地を通りかかったときに、背負っていた観音様が急に重くなったので、その場所=荻の生えた窪地にお堂を祀った(=荻寺)と言われます。そのお堂が光明院であり、荻窪の地名の由来でもあります。

しかし、現在光明院があるのは、窪地というより明らかに高台。つまりは、光明院はかつては違う場所にあったはず。それはどこなのか?と、田中氏は推測していきます。
窪の場所については諸説あるようですが、田中氏は”現在の光明院と荻窪白山神社の間の低地”(上の写真の光明院の敷地のすぐ東)であると言っています。そして、その場所を通る小川があり、その川を”仮に観音川と呼ぶことにする”、としています。そして観音川の上流は、後に千川上水の分水と接続することにも触れています。

後日、同会報にて、松庵川についてはコメントが得られたものの、観音川についてはよくわからない的なコメントが1つあるのみ、松庵川のような盛り上がりを見せずに、話題は消え去っていきました。

・・・では、そんな川などなかったのでしょうか?
いえ、そこに水路はありました。六ヶ村分水(当ブログでは千川分水)のひとつと重なるようです。
実は、以前この川の下流部分を”四面道口からの田用水”として紹介したことがあります。ただし、取水口が何処かはわからずに。

今回も不確定要素はあるものの、上流端からご紹介することとしましょう。

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六ヶ村分水は青梅街道を流れてくるので、青梅街道の何処かを今回の流れの上流端とします。田中氏のいう観音川の始点とは厳密には異なってしまいますが、そもそも水源が明らかにされていないので、今回は便宜上そうします。

奥に見えるのが青梅街道。八丁通りと呼ばれる区間です。
この辺りで取水していたと思っ・・・ているのですが、実は文献により取水口の位置がまちまち。数ブロック東か西かといった感じですが、わたしが推すのはこの位置。

六ヶ村分水の取水口は殆ど北側にあるのですが、珍しく南側にある四面道口(下荻久保村口であったものに井口氏が与えた仮称)から南下し、善福寺川に向かう流れ。それが、今回追うものです。

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流路沿いには銭湯もありました。
ゴクラクヤ

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銭湯のあたりで直角に折れ、青梅街道と並走します。
上述のように、上流端について複数の情報がある中、ここだと思っているのは、銭湯と、この細道(とその先のあやしい空間)があるためです。

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その先、こういうあやしい空間。
水路は、ここ=城西病院の脇を通って環八に向かいます。史跡散歩地図でもここに暗渠マークがあります。

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道がなくなったので、迂回してる途中にあった、かっこいい魚屋さん。

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さっきのあやしい空間のつながる先は、ここかな?
でも、辛うじて追えるのもここまでで、

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環八を渡るあたりで、すっかり消え失せてしまいます。
この水路は環八に中流部をほとんど飲み込まれてしまったようです。たしかに、何度行ってもよくわかりません。

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南下していくと、連続麻雀牌マンホールがありました(正式名称は”伏越人孔”というようです)
このマンホールも暗渠サインのひとつと思っていますが、ここでは暗渠出現の前触れで、

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その先、やっとはっきりとした暗渠が現れます。
ここからは、前記事と重なりますがご容赦を。

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井戸?

そのさき、白山神社のほうから支流のようなもの(あるいはこちらからの分流か)がやってきて、

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白山通り(ハクサンタウンズ)に合流。

たまたまですが、妙に躍動感のある写真になってしまったので、

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振り返った写真もお見せします。
唯一の暗渠らしい区間でした。

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白山通りに出ます。ここは今はカラータイル張りの活気ある駅前商店街ですが、以前から”観音おんだし”と呼ばれる道でした(観音おんだしについても文献によりズレあり。というか、観音=光明院の前を通り青梅街道に出る道路、というものが複数こう呼ばれていたのかもしれない)。
おんだしというのは、道が悪く荷車の後押しをしたような道に名づけられるものですが、この通りの場合、”赤土のベトベトする道”であったとされ、そんな表現からも水の存在を想像します。

また大正初期の頃は、ここは”昼でも薄暗い切り通し”で、”崖下に湧水があった”と言われます。矢嶋氏の記憶画では、この写真左端あたりに、湧水の小川が見られます。観音川に注いでいた支流かもしれません。

そして水路は線路を越えます。

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越えた先、再び痕跡がなくなります。以前は水色実践部分かと思っていましたが、青色点線部分かとも思うようになりました。でも、下水管が通っているのは水色の道です・・・どちらか迷うところ。(yahooさんありがとうございます。)

ちなみに、水色も青色も含むこの一帯、”白山神社南側”は、沼地であり、草が群生していたといわれます。時代によっては、水路は一本ではなかったのかもしれません。

青色点線部分に行ってみましょう。

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こんなふうに窪池になっていることが味わえます。

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・・・うーん、でも暗渠なのかどうかはわかりにくいですねぇ。

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この先は道路もありません。

以降は、上記地図で点線と実線が重ねて書いてある道を通過して桃井二小の周辺を通り、善福寺川に注ぎます。
前記事ではその下流部においてもだいぶ迷ってましたが、桃井二小の前が水路になっていたことが確認できました。小学校の北東側と、南東側(こちらは商店街の前)をぐるりと”ドブ川”が囲い、途中で切れるものの忍川橋のところで落ちているように推測できます。おそらく、それが観音川の河口部です。

さて、このあたりにきたら、餃子の満洲がすぐ近く。これは満洲でしょう、ですよね・・・?と思いつつも、

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このようなとんかつ屋さんののサンプルニモマケズ、満洲ニモマケズ、

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この日行ったのはルースターというお店でした(だって予約してるんだもの)。
音楽食堂っていう看板に惹かれたのが最初です。上質なジャズやブルースやボサノバを、近くで聴ける(そして飲める)店。

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ジャークチキンとビールをたのしみながら、ジャズの夜。

このお店の裏手を、観音川はさらさら流れていたかもしれない。

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今回の行程です。??部分は、環八に飲まれて、ほんとうに痕跡のないところ。

千川分水のひとつ、四面道口(仮)からの田用水。またの名を観音川、という。
田中氏の言うとおり、ある時期までは”荻の窪”などからの湧水を集めた、ちいさな自然河川だったものに、用水路を接続した可能性もあるでしょう。

同時期に公表された松庵川が数々の暗渠者に愛され、こんなにも取り上げられているのに対し、この観音川の痕跡、そして存在感の薄さ。
川幅の細さからいって、松庵川のように氾濫などせず、コツコツと田圃を潤し続けていたかもしれない。ある日環八に飲み込まれ、静かに埋められていったのかもしれない。・・・そんなことを噛みしめながら、歩く。

決して、見た目に面白い暗渠ではないですが、その歴史と扱われ方の切なさの中に愛しさを感じる、そういったたぐいの暗渠でした。

<参考文献>
「井草のむかし」井口昭英
「おぎくぼいまむかし」杉並区桃井第二小学校創立50周年記念
「荻窪の古老矢嶋又次が遺した記憶画」杉並区郷土博物館分館
杉並郷土史会会報 第127号
杉並区史跡散歩地図
「杉並の地名」杉並区教育委員会
「杉並の通称地名」杉並区教育委員会

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善福寺川支流まんぷくツアー 後編

成田東支流(仮)を水源から下ってきたのが前回
善福寺川沿いで一休みしたら、こんどは別の支流に移ります。

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善福寺川の湧水、今日もヂャー――――!!っと元気。

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今度は、松ノ木支流(仮)を遡るのです。入口はここです。
松ノ木支流(仮)、善福寺川のヌシ、リバーサイドさんがもちろん記事にされてます。

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横に親水空間がありますが、ここに水が流れているのを見たことがありません。

崖上は松ノ木中。高射砲があったので、何回か過去記事でも触れています(←リンク先には戦時の高射砲陣地の航空写真アリ)。

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横に広がる、意味ありげな空間。

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河口は広めだった流路、ここら辺から暗渠らしくなります。

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成田東支流よりも、ずっと高低差があるように感じます。特に、左岸が高いです。

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上ることを拒む階段。

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ぽっちり外蛇口。

実は松ノ木支流(仮)にはコンクリ蓋暗渠は一切登場しないのですが、こんなふうにたのしみを添えてくれる脇役さんたちが居ます。

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交差する道路に出ると、すぐ隣に、成田東支流(仮)が走っているのが見えます(丸で囲んだところに、成田東支流(仮)の金太郎がいます、写真は松ノ木支流(仮)に立って撮ったもの)

暗渠を歩いているうえでは、成田東支流(仮)と松ノ木支流(仮)は交わることはありません。しかし、この2本は地図上では支流-本流の関係に見える(この場合、より短い成田東支流(仮)が支流となるのかな)し、地形図上では明らかに同じ谷にあります。

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前編のときに触れたように、成田東支流(仮)は”天水田圃”を潤す小川でした。しかも、”善福寺川との合流口まで”田圃は続いていたとされます。すなわち、成田東支流(仮)と松ノ木支流(仮)の水は合流していたと考えられます。ある時期からは、田圃を挟んで用水路・悪水路の関係だったのでしょう、その残骸として、2本がほぼ並行するかたちで下流部は残っているのでしょう。
「杉並の川と橋」においても、この2つの流れは”天水田圃南で合流”し、”松ノ木田圃の用水として利用された”とあります。天水田圃の広がりが、文献によって若干ずれているようですが、、、

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合流地点付近は、暗渠も入り組みます。こういうカクカク道と、左に走る道とに分かれ、住居の区割りもちょっとふしぎな感じ。

この、合流地点とものすごく近い場所に、銭湯”吉の湯”があります。

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というわけで、さっき素通りしてきた、成田東支流脇の”ゆ家和ごころ吉の湯”に入ります。

吉の湯、代替わりのときにリニューアルしたというようなことを、散歩の達人で読んだ気がするんですが、行ったことがありませんでした。ともかく、3年ほど前に建て替えたようです、壺湯などを備えたきれいな露天風呂と、ネイルアートなどの新サービスを携えて。風呂好きの、えいはちさんkekkojinさんからも評価の高いお風呂屋さん。じっさい、めちゃくちゃ充実したお風呂でした!!!

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最もうれしいのは、待合スペースで生ビールが飲めることではないでしょうか。ソフトクリームもあるし、かき氷も始めるみたい。こりゃ某所とか某所とか行ってらんないわ。絶対にまた来るわ。

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ちなみに吉の湯、となりに遊び場98番があるのです(遊び場○番の記事もそろそろ書くぞ・・・)。

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はぁ、さっぱりした。
ゆるゆる下っていきましょう。

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1ブロック隣には松ノ木の商店街が走ります。朝さんぽしにいったら、営業しているお豆腐やさんがあったので、うれしくなって買いました。

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大径マンホ。

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大径マンホすぐ脇には、何かを無駄にしない精神。

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そのさき、ぼさぼさ。

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最近、暗渠脇に暗渠関連グッズが置かれているのを見ることが多いです。蓋さんたち。

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松ノ木支流(仮)脇にはもうひとつ、熱海湯という銭湯が以前はあったようです。このあたりに。

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そのさき、五日市街道を渡ります。
成田東支流(仮)が五日市街道付近から湧き出しているのに比べ、松ノ木支流(仮)はひょろひょろと北上し続けます。
ただし、水源は明確ではありません。

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上流端と思しき場所。
ここの2ブロックほど向こう側には、桃園川の支流である、石橋用水路の水源が湧いていました。ささやかな分水嶺。

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上流端から少し東にあるのが、梅里中央公園。この、公園自体が含まれるかは定かではありませんが、近辺が湿地か何かだったのではないかと推測されています。
いま、その名残はありません。

さて、踵を返して買い食いに向かいます。目指すは、kekkojinさんに教えてもらった鳥一というお店。

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・・・ここかぁ。
これはすばらしい外観(というか、何度もここを通っているというのに、気づいていなかったヒドイわたし)。夕方に行ったら、数名の行列ができていました。
焼鳥の種類が豊富で、つくね(でかい)だけでも3~4種。焼鳥のほかにも、メンチとかミニメンチとか、フライドポテトとかフライドチキンとか、いろいろあってこりゃ何回も行かなきゃいけないね!

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善福寺川沿いに持って行って食べます。でかい。お肉、食べでがあっておいしー!
つくねは食べきれなかったので、持ち帰って目玉焼きを添えて焼鳥丼にしました。

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もう一軒。
実は、往路から既に気になっていたお惣菜屋さんがあります。小原惣菜店
お昼どき、ほかにもお店はあるというのに、近所の人がつぎつぎとここに向かうのです。すごい売れ行きだ。ぬう・・・これは、デキル店なんじゃないだろうか・・・

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かつ丼が美味しそうで。あと”スパゲティ”が気になって気になって。帰りにもまだ残ってたら買って帰ろう、と心に決めていたのでした。

そして、”スパゲティ”があったので、購入!たしか200円(300円だったかも)。お皿に移したら、がっつり一人のメインディッシュぶんはありました。味付けはもうまさにナポリターン。うまいうまい。
お隣のエビフライ、これもすごい。中くらいのが7尾入って、230円。なにがすごいって、すぐ下のショーケースには、同じ大きさのエビ天が1尾140円で売られてるんですよ。・・・え?これ、おかしくね・・・?・・・って、ふしぎに思うんだけど即買い。カリッと揚がった、おいしいエビフライでした。

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五日市街道沿いにはネパール風のカレーラーメンやカレーうどんのお店もありました。なんだそれ、キニナル!でも、もうまんぷくですたい。

・・・善福寺川支流暗渠のさんぽついでに、気になるお店でおいしいご飯。何度でも楽しめそうです。

<参考文献>
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館
「杉並の通称地名」杉並区教育委員会
「デウスエクスマキな食堂11年冬号 団地団地Revolution!商店喰いⅡアーケーダー」刈部山本

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善福寺川支流まんぷくツアー 前編

なんとも呑気なタイトルです。まんぷくツアー。
・・・要するに、善福寺川支流暗渠の近くで、いろんなものを食べながらさんぽしましょう、ということであります。その概要をtwitterで呟いた頃は寒い時期だったのでなかなか行かれず、暖かくなってから行ってまいりました!

新高円寺の駅からスタートし、五日市街道を西へと歩いていきます。

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五日市街道の新高円寺~善福寺川までの区間は、心なしか米屋さんが多いです。以前、五日市街道沿いの米屋さんが、水車を保有していたという話をチラと見たので、どの店だろう?などと米屋さんばかり見ていたためにそんなことを思ったわけですが・・・

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あれ、れれれ?
五日市街道沿いに、いつのまにかこんなカワイイお菓子屋さんができてました。焼き菓子カフェ「Harmonie(アルモニ)」、オープンしたてのようです。
かわいらしい飲み物・食べ物が並んでいて、控えめなイートイン席でひとり、ボォッとしたくなるような雰囲気。辛党のひとには、甘さ控えめにつくってある”胡椒スコーン”(ほんとに胡椒が効いてておもしろおいしかった!)やキッシュもあったので、ランチにも対応できるお店だと思います。

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この企画について呟いたとき、うどん系の方から教えていただいたのがこの店、夕虹。これまた五日市街道沿いにあります。肉汁うどんですって!!実にうまそう。そして店内にはお客さんがぎゅうぎゅうです。この日の昼飯候補は2軒あり、両店とも昼のみの営業だったのでかなり悩みましたが・・・涙を呑んでこちらをスルー。こんど食べにくるぞー!

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成宗教会。このあたりの住所は成田東ですが、かつては成宗であったことを思い出します。

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トマソンっぽいドア。でも飛び降りることは可能だし、高所ってほどではない・・・中所ドア、くらいでしょうかね。

五日市街道沿いのいろんな風景に心を奪われながら、いったん善福寺川を越え、関東バスのターミナルまで行きます。
そう、まずは、あそこで食べるのさ・・・どの駅からもアクセスがいまいちなのに、行列のできるラーメン屋さん、一歩

並ばずに入れましたが、すぐ後に満席になってました。

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まずは、餃子!・・・と、ビール少々。博多ラーメンの店ですが、なぜか「宇都宮餃子」です。

羽がすごいッス。はてしなく広がってる。・・・羽だけポリポリ食べたりね。
具は野菜がシャキシャキするヘルシーな感じ。

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本命はこれ。
納豆チャーハン!!!

うぁぁぁぁぁもう一目見た瞬間にコレは美味いってわかるビジュアル!
ちょっと味濃いめなんだけど、それがまた堪らない。止まらない。

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紅ショウガかけると美味しいよって、後ろの人が言ってたから、かけてみたの。
パラパラなの。納豆も絶妙な感じでそこに居るの。美味いのぉぉぉぉ!!
あー、これホント美味しいなあ。高校のときの生徒会長(が、以前松ノ木に住んでいた)に教えてもらった人気メニュー。ありがとう会長!

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ラーメンも頼みます、博多ラーメン。これもうまし。
でも、餃子半分とチャーハン殆どを食べちゃったので、控えめに替玉はしないでおきました。だって他の店も行くからね・・・。でも替玉のある店で替玉をしない勇気って相当なものでした・・・。

さあてと。ここから、暗渠に向かいましょ。
まずは成田東支流(仮)を水源から下りたいと思います。
成田東支流(仮)は、リバーサイドさんが紹介されてたもので、素敵だな、素敵だな、行きたいな、と思っていた暗渠です。

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水源と言われるのは、ここ、東洋幼稚園付近です。
この幼稚園、まるで小学校のようなつくりで、とても広々。校舎の再利用なのかと思ったのですが、昭和30年から在るという・・・。

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園庭には頬杖をついたラクダがいました。

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幼稚園敷地の脇が、微妙に低くなっていてミニ谷頭を思わせます。しかし、”幼稚園付近が窪地、低湿地”とされるので、もしかすると幼稚園を建てるにあたり盛土をされたのかもしれません。
ともかくこの幼稚園園庭から水が湧きだしていて、そのため昭和初年まで付近は”水流し”という通称名で呼ばれていたといいます。

湧きだした水は、すぐに五日市街道を横切るようです。しばらく、流路の痕跡はないのですが。

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地形で見てみると(google earthさんありがとうございます!)、水色の円内が成田東支流(仮)で、円の右上端あたりが東洋幼稚園です。
でも、左上端から始まる浅い谷のようなものも見え、そちらには何かないのか(言及する文献は無し)、とても気になるところ。

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西側の、浅い谷が曲がっているあたりに行ってみると、こんなふうにあやしい(段差はあるし、道幅も不揃い)雰囲気で、ほそ~い流れがあったんじゃあるまいかと、想像力が掻き立てられます。

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・・・でもまあ蓋などは無く。
明確に暗渠が始まるのはこの都営マンションの奥からです。

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コンクリートの道だと思って下ってゆくと、いつのまにやらそれがコンクリ蓋になるのです。

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・・・いつのまにか。
苔むしている脇腹もステキ。

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うつくしい御姿ですね・・・。

東田小学校から南西に広がるこの一帯は、かつては田んぼでした。さきほどの湧水と雨水が水源となる”天水田圃”であり、旱魃が多かったと言われます。基本が湧水だのみなので、あまり良い米は採れなかったのかもしれません。

この天水田圃は、善福寺川までずっと続きます。

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その先入れなくなって、次に見えるのはここ。
すごく狭い!
そして、進入禁止の枝が立て掛けられてあります。車止めよりも、さりげなくて、この枝のことがなんか好きになってしまいました。

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リバーサイドさんも触れておられた、染物屋さん。

通称地名の説明において、ここは昭和10年頃まで”牛入処(うしいれど)”と呼ばれていたとされ、「ここは染物屋があり淋しい場所であった」と書かれています。牛入処の由来については不明とされていますが、”牛込”に似たその字面からは、大昔に牧場的なものがあったように思えてきます。

さてその記述からすると、随分昔からあるらしきこの染物屋さん、反対側にも看板があり、現役のようです。・・・すぎなみ学倶楽部に、ここのことが載っていました。どうやら、独立されたのは昭和30年代のよう。・・・ということは、それより以前は、ここに別な染物屋さんがあったのでしょうか?成田東支流(仮)沿いに数軒並んでいた?それとも、情報提供者の記憶違い・・・?
わからない点もありますが、以前は成田東支流(仮)に直接落とされていたであろう染色工場の排水は、現在もこのコンクリ蓋下の下水管に落とされているのでしょうね。それはきっと一緒なんだろうな、と、足もとを眺めたりします。

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染物屋さんの脇から下流は、細~~い道となります。
これ、リバーサイドさんが通られた時にはコンクリ蓋暗渠だった道です。左岸のアパートが建て替えられて、暗渠の上に微妙に張り出し、コンクリ蓋に薄くアスファルトが盛られてしまったようです。

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鉄塔の真横でその細いアスファルト道が終わります。

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その先は安定感あるコンクリ蓋暗渠に戻り、横は銭湯(吉の湯、次回に詳述)の壁となります。あああ、この壁向こうの風呂に早く入りたい!

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すぐ足もとには、こんな石があって気になり・・・線下、と書いてありました。すぐそこに鉄塔あったもんね。

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コンクリ蓋はまだまだ続く。

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マンションがすぐ隣にあって、写真撮りながら興奮してる自分が一階の人に見つからないといいなぁ、などと思いながら通り過ぎます。

曲がる。

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金太郎が待っててくれました。

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黄色い植物だらけのおうちがありました。

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もう少し下ると、

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今度は薔薇がいっぱいのおうち。

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・・・なんかだんだん、ジャングル感出てきました。猫頻度も上がります。
もう少しで河口です。

その先、善福寺川のあげ堀と合流して成田東支流(仮)は終わります。

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・・・で、すぐ近くにコレがあるんすよ。釣堀武蔵野園。善福寺川沿いで最高に好きな場所です。

次はここで呑む!

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シンプルに、枝豆とびいる。

孤独のグルメ(TVのほう)では、ゴロちゃんがここで実にうまそうに食事していたので、随分混んでるかな?と思いきや、屋内席はわりと空いてました。

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あれ。屋外に席が増えてました。コッチの席は家族やカップルで比較的混んでました。でもこのテラス席、ちょっと前までは思いっきり釣堀だったんですけどw イケスの蓋になってると思いながらこのテラス席でビール飲むのも、なんかいいかも・・・w
武蔵野園の屋外部分、なんとなく、ツギハギにリニューアルしたようでした。ほんとは、ここのソース焼きそばが好きなんですが、ここではアッサリと飲み食いするにとどめ、次の目的地にまいります。

あれ、まだ二軒しか寄ってないですが・・・、行程が短めなので、そんなに大量に飲み食いできないことに気づいた、折り返し地点。

後編へ続く!

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西荻窪ひみつ暗渠 第二松庵川(仮)

西荻窪。松庵川のやや北に、もう一本暗渠があります。
ここもずいぶん、西荻らしくひみつめいてる暗渠。今回は、そこを歩いてみようと思います。

以前のデジカメと今のの混合写真なので、大きさが少々入り乱れますが、ご勘弁を・・・。

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ビターキャラメルソースのプリンで開始します。このカタチ、ナッツの置かれ方・・・かわいい!かわいすぎる!!
空音、というカフェでした。西荻であった某用事(これが、結構大変だったものだから)を済ませ、コーヒーを飲んでプリンを食べて。そうやって呼吸を整えて、暗渠へ向かったのでした。

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それは唐突に始まるんです。

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反対側はこう。とくに川の匂いはしません。
この暗渠は何者か、というと、記述がある文献は1つだけ。しかも、短い短い一文だけ。

女窪からの流れは、神明中学校の周りを流れて本村橋付近から善福寺川に落ちていた。(「杉並の川と橋」より)

所謂松庵川は、松庵窪の「男窪」からの流れであり、その流れについては当ブログ含めいろんな方が記事にされています。松庵窪とは、甲武鉄道の敷設用土採取跡地から水が湧いたものであり、西荻窪には線路を挟んで南北に2か所あったと言われます。北側にある「女窪」が、今回の水路の水源にあたります。

「女」窪が、現在の吉祥「女子」中学・高等学校の位置にあるということは、おもしろい縁と言えるでしょう。吉祥女子の中には潜入できないままですが、閲覧可能な情報からは内部に池というより噴水のような、人工的な池があることまではわかりました。が、これは、女窪の名残とは関係ないような気がしています。
そして、女窪から流れ出た水は、西荻窪の駅付近で線路を横断して、上記の写真の場所までくるようなのですが、その痕跡はいまではさっぱりわかりません。唯一手がかりとなる地図では、この写真の場所あたりまでの水路が点線で描かれているので、もしかすると最初から暗渠だったのかもしれません。

・・・不確定なことだらけ。

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わからないことばかりではありますが、しっかりと目の前に暗渠の道はあります。両側の地面が高いです。

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苔むしてもいます。

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どこまでもまっすぐ伸びます。

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カワイイ壁がありました。
クリーム、グレー、水色の色合いも、この扉のバランスも。

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まだまだまっすぐ続きます。

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護岸・・・ではないかな。
でもそしたら、この石たちは何から何を護っているんだろう。

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そして唐突に終わります。
ここから道路と混ざってしまい、そしていよいよわからなくなります。

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「現在位置」のあたりがちょうど、よくわからなくなってくる場所です。神明中のまわりを周る、と書いてありましたよね。・・・でも、正直に一番外側を大回りしてしまうと、本村橋には行かないんです。

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学校のプール(とその採水口)というと、暗渠沿いにあることが多いですが、それはココ。で、ココを通ると仮定しても、やはり本村橋には行かなくなっちゃうんです。地形的にもよくわからない、難所だと思います。

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神明中学校とブロックを分け合うのが、この天祖神社です。
神明中学校というより、この敷地の周囲を水路が走っていた方が、しっくりくる気がするんですが・・・。

この、神明中学校周辺(天祖神社の東側、神明中学校とその東並び一帯)には周囲に桜が植えられた馬場があり、ゆえに「桜の馬場」と呼ばれていたそうです。そして馬場の周囲には低い土手があり、土手の両側に深い溝があった、とのこと・・・。この溝は、この水路と関係あったでしょうか。なかったでしょうか・・・。

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よくわからないままとにかく下ってゆき、噂の本村橋のところにある合流口?まで来ました。

もやもやしっぱなしだったので、また別な日に再訪。

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遠目に見た本村橋です。橋名が示すように、この上荻2丁目のあたりは、「上荻窪村本村(ほんむら)」と呼ばれていました。村の中心であったことがうかがえます。
この本村橋付近、以前はいろいろなものがあったようです。

まず、この本村橋付近は通称「橋場」と呼ばれ、洗い場もあったそうです。この地で採れた出荷野菜を洗う場として重要だったそうで、記憶画を見ると、ずいぶんと広い洗い場で、大根を洗っている様子が見られます。

本村橋の上流は通称「榛の木原」で、冬には天然氷を製造していたといいます。
そしてこの写真の左手のどこかに、昭和初期まであった「穴稲荷」は、塚上に稲荷社があり、中腹に横穴(大昔からあったらしい)があり、その穴に榛の木原で作った氷を入れて保存したりもしていたという、実におもしろいところ。残念ながら、いまは跡形もありません。
善福寺川の川沿いの道が、本村橋の付近だけやたら広がっていて、ちょっと違和感があります。ここらへんに稲荷があったのでしょうか。

写真の本村橋の下に、2枚前の写真の合流口がわずかに見えますが、このあたり、合流口が他にもいくつもあるのです。前回あまりに謎が解けなかったので、どこかの年代に下流部が付け替えられて異なる流路になったと仮定して、辿ってみることにしました。

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本村橋から少しだけ下ったところにある合流口の上。奇しくも、ここは遊び場13番です。ただの道路みたいに見えますけどね・・・。
遊び場ということは、暗渠指数が高いはずです。

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おっ、こんなにメタルなマンホールは初めて見たよ?

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遊び場13番からまっすぐ行くと、ここに出ました。神明中学校の門ですが、ちょうど天祖神社の敷地との境目です。水路が天祖神社をぐるりと回ってくると仮定すると、色々とつながってくるんですがねぇ。
微地形専門ではないので足のレーダーが全然機能しませんが、地形的にもここがまあまあ低いような気がします(他の道よりは辛うじて)。

・・・数少ない手がかりさえも、無視するような仮説になってしまいましたが、消えた暗渠の行く末は、”天祖神社の周囲をぐるりとまわり、本村橋よりやや下流で合流する”と考えるのが今のところ自分にはしっくりきています。

ああ・・・もう何か食べよう、そうしようそうしよう。また、本村橋まで戻ります。

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隣の置田橋まで遡ります。この写真のあたりは、かつて田圃があったところ(かつ、上述の榛の木原=氷の製造場所も近い)。甲武鉄道は田圃に盛大に土盛りをして敷いたものなので、それ以前はもっと左側までも田圃だったことでしょう。ここは鍋屋田圃といい、昭和初年頃までそんなふうに呼ばれていたそうです。後述する本村庵蕎麦屋の屋号が「なべや」であったから、とのこと。・・・この田圃の向かいに、本むら庵があります。

・・・本むら庵で、蕎麦をたぐるとしましょう。
本むら庵は、創業大正13年。40年以上にわたり、石うすで挽いた蕎麦を手打ちにし、こだわった美味しいお蕎麦を提供しているお店です。

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入店する前に、うろうろしてみました。お店の裏手がこんな崖だったんですね。

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駐輪場になっている違和感スペースがあり、その先には謎の開かずの扉がありました。一応、このノブを回してみましたが、開きませんでした。

さぁさぁ、この地が本村と呼ばれていた頃のことを想いながら、蕎麦をいただきましょう。季節ものの、桜えび天おろしそば、にしてみました。

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桜えび天っ!!こうくるかー!
桜えびというから、てっきりかき揚げがくるものと信じて疑わなかった・・・。この形状だと、触感がとてもすてきで、一匹一匹の旨味とインパクトが凄いです。蕎麦をぜんぶ食べきるまで、天ぷらは冷めることなくサクサクでした。サックサク。おいしゅうございました!

今回の流路はこんな感じです。不明部分について、水色で薄く記しています。
善福寺川桜の馬場支流(仮)と名付けても良かったかもしれませんが、水源が女窪であることを考えると、「第二松庵川(仮)」と呼びたくなってしまいます。

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これまで、西荻窪の暗渠について、いくつか書いてきました。松庵川城山下支流(仮)、そしてこの、第二松庵川(仮)。
いずれも善福寺川の支流にあたりますが、その他にも共通点があると感じます。それは、ひとつには、文献がとても少ないこと。そして、直線(と直角)ばかりで構成されることです。まだ扱っていませんが、松庵川の排水路的に作られたらしきもう一本も、直線で善福寺川に向かいます。

これらをプロットしたものを見てみると、

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(松庵川の中流部以降はサイズの都合で割愛)
みごとに、曲線部分がまるでありません。実は松庵川の下流部になると、曲線を描く部分が出てきますが。でも、今回省いている、善福寺川の上流部にある他の支流たちも真っ直ぐだし、最上流部にある千川分水から引っ張ってきている流れもカクカク気味なんですよねぇ・・・。いずれも、悪水路、用水路、といった目的をもって、人工的に作られた「らしい」のですが。そうならそうで、もっと情報があってほしいのですが・・・。

もやっとするような、それがたのしいような、謎解き西荻窪。
第二松庵川(仮)、上流も下流も、まったく痕跡をとどめず、ただただ真っ直ぐな一本の暗渠が残るのみの川。
ひみつの多い西荻の川の中でも、もっとも「ワカラナイ」の多い川でした。

<参考文献>
・「荻窪の古老矢嶋又次が遺した記憶画」 杉並区立郷土博物館分館
・「杉並の川と橋」 杉並区立郷土博物館
・「杉並の地名」 杉並区教育委員会
・「杉並の通称地名」 杉並区教育委員会

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西荻窪ひみつ暗渠 善福寺川城山下支流(仮)

べつに、ひみつでもないんだけれど。
西荻窪には何本か暗渠があるのですが、それらに関する文献がとても少ないのです。
だから、ひみつめいてる暗渠ってことにしちゃいます。

松庵川はファンが多くて、行ってるひとも多いみたいだけれど、それでも関連文献は1~2個しかない、というありさま。今日とりあげる暗渠はもっと少なくて、いまのところ「杉並史跡散歩地図」で暗渠マークがついていただけで、ほかにはまだ文献が見つかってないものです。

西荻窪の駅、北口から出て、暗渠の先っちょへと向かいます。
その途中、まずはここ、銭湯跡地です。北口から線路沿いに、東へ進んだところ。

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むかしこの場所には、「第二喜志の湯」という銭湯があったらしいです。
銭湯跡地って、きれいさっぱりとマンションになることが多いイメージ(だいたい3階建ての)なんですが、ここは建物が残ってます!
いまは楽音という音楽スタジオになっているのですが、中身だけ入れ替えたみたいで、もう明らかに銭湯。ビルにはめ込みのちょっと新しい類の銭湯。写真だと伝わりづらいかな?前まで行って、うろうろしてみると、だいぶ雰囲気がわかると思います。

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それから、ここは、高射砲陣地があったとされる場所。
この桃井第三小学校校庭に、かつて高射砲が設置されたといわれます。目的は、荻窪にある中島飛行機工場を守るためであり、他にも久我山、松ノ木、下井草の計4か所に設置されたといわれます(「杉並風土記」より)。
ところが、gooの昭和22年航空写真を見ても、他の4陣地は写りこんでいるのに、ここだけは確認できません。うーん、ほんとにここにあったのかなあ?

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・・・この写真は中瀬中学校にあったとされる高射砲陣地。横を井草川が通っています。

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高射砲陣地は、水辺が近く、高くなっている位置に作られる傾向があるように思います。たしかにこの場所は、川も近いし、高台になっているようです。・・・ま、よくわからなかったのでこれは宿題として。

そこから、北へ進むこと2~3ブロック。

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暗渠の始点が出現します。一見、家の庭みたいな感じですが、やはり庭に混ざりきれていない雰囲気があります。

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そこから、細いコンクリ蓋の連続です。

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この暗渠はとても直線的です。用水路なのでしょうか。

家の塀のとなりに、擬態しそこなったような木の塀。

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その先、アパートの玄関になっていて、さらに先がこれ。
ゴミ捨て場になっています。
こんな雰囲気だったら、いつもはこの車止めを飛び越えて奥まで行っちゃうんですが、このときは残念ながらまだ足を怪我中でした。回り込むのさえひと苦労だったので、奥までは行けませんでした。・・・うーん、そんな理由で行けなかったとは悔しい。

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先回りします。
すると、一時通行止めを言われてしまいました。

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奥には飛び出しかけたマンホールと、苔が見えます。クランクになっています。

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その下流。地面にはかつて車止めが入っていたであろう、穴が見えます。
もっともっと水路敷アピールがなされていたんでしょうね。

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その、使用済の車止めはなぜかこんなふうに立てかけられていました。・・・これ、あの穴にはめてみたいぃぃぃ・・・

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橋跡、および、まっすぐなコンクリ蓋暗渠が始まります。さあ、杉並の本領発揮。

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左側の壁のヨレヨレ感と、暗渠のまっつぐさの良いコントラスト。

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道路と交差するときには、だいぶ盛られるようです。いつのものなのか、新しめの土嚢。

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だんだんと深くなって良い感じの道になってきて。
お約束の暗渠猫が登場しました。このコ、暗渠沿いにすまして座っていたので呼んでみたら、みゃーみゃー鳴きながらこっちに一目散に来てくれるじゃないですか! さわり放題です。でも、わたしではなく、後ろに居た近所のおばさんのところに行きたかったみたいでした。。。哀

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ここらへんは新しめのアスファルトで盛られていて、車止めもきれいです。近年工事が入ったんでしょうねえ。

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でもなぜか、その盛りが薄くなっていって、またコンクリ蓋になります・・・なんでしょう、アスファルトが切れちゃったのでしょうか・・・北国育ちとしては、ここに雪が積もったら、ぜひともミニスキーで滑りたい。

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反対側からみるとこんな感じ。

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そのさき、カクッと曲がって、

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また道路と交差盛り。

階段とスロープから選べます。やさしいですね。

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さて、これがラストの直線。

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フィニッシュです。中田橋のあたりで善福寺川に注ぎます。

で、この暗渠はいったいなんなのか。
冒頭に書いたように、なんだかはわかりません。でも、形状は用水路っぽいです。

なにか手がかりを得ようと西荻図書館に寄ったら、その一帯がかつて「城山」と呼ばれていたことが分かりました(橋名になって残っています)。図書館前にある案内板には以下のように書いてあります。

城山とは、善福寺川によって形成された急崖な舌状台地上に位置し、現在の西荻北二丁目19・33番一帯を指します。城山と言う地名の由来について、荻窪八幡神社の由緒書によれば、「後冷泉天皇の永承6年(1051)に、源頼義が奥州下向の際、この付近に布陣し、康平5年(1062)凱旋した時、八幡神社を修め、部将を停めておいた場所で、後世この一帯が城山の名を有した」と記されています。
 明治中頃までの城山は、杉や松等の密生する雑木林でしかも篠笹が群生しており、人が分け入ることもできないほどであったと言われています。当時は、善福寺川も台地直下を流れており、川から引かれた水路が城山の下を通っていました。また、七ツ井戸と呼ばれた井戸は、城山の南側に一列に7ツ並んで掘られていたようで、何故か土地の人々からは近付くことも恐れられていました。
 この鬱蒼とした雑木林も、大正11年の西荻窪駅の開設、昭和2年の区画整理事業等の影響によって徐々に失われ、昭和30年代前半までは辛うじて残っていましたが、今ではその面影は全く消え失せ、住宅地や公共施設としての新しい姿を見せています。

とても気になるのが、城山の下を通っていたという”川から引かれた水路”。これが、そうなのでしょうか?たしかに、城山のすぐ南側を通過してはいます。が、始点がよくわからないので、善福寺川から取水しているのかどうかわかりません。
「杉並風土記」では、水車を動かすのに落差をつけるため、蛇行する川から城山の下を一直線にトンネルを掘って水路を作ったことが書かれています。つまりは水車堀ということですから、今回辿ったような長めのカクカクした流路は違うような気がします。
「武州多摩郡上荻久保風景変遷誌」によれば、善福寺川の堰から取水した水が、城山の底を通っていた、しかも七つ井戸の底をこの水路が通っていたといいます。ずいぶん深いところに流れる水路であることがうかがえ、やっぱり、今回のものとは違うような気もします。
ただし、善福寺川が蛇行していたときの流路と照らし合わせる必要もあるので、結論が出せません。

・・・詳細はわからないままです。
とりあえず、この暗渠だって城山の下を通っているわけなので、城山下支流(仮)と名付けてしまいましょう。
Siroyamap

ヤフーの地図を拝借します。だいたいこんな感じの流路です。
関根橋のところに堰があったといいますから、そこから南下する暗渠をみつけることができれば、城山下支流(仮)が上述の水路と一致するかもしれません。みつけられなければ、なにものかわからないまま・・・要再訪、ですね。

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城山のあたりにはこんな風な、ちょっとかわいい集合住宅もありました。

駅へと向かう帰り道、ふと、懐かしい感じのする道がありました。むかし西荻に住んでいたときに、たぶん図書館の帰りに通った道です。上京した最初の年だと思います。
歩いていたら、石焼き芋屋さんが向こうからやってきたので、焼き芋が食べたいなと思い、ひとつ買ったのでした。わたしのイメージする焼き芋は、中がほっくり黄金色で、そして1本100円くらいで、甘くてとってもおいしいやつなんですが(山形ではそういう焼き芋屋さんにしか出会わなかった気がする)、そのとき買った焼き芋はおっきいけど中はべしょっとしていて薄い黄色で、甘くもおいしくもなくて、なのに1000円近くしたんです。
これには海外旅行でぼったくられた時以上のショックを受けて、速攻で山形の友人に「東京の焼き芋はひどい」と愚痴ったことを覚えています。

・・・お腹がすいてきました。

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パパパパパインで仕上げます。西荻の南口のわりとすぐのところに、パイナップルラーメンのお店があると聞き、もう、ずっとそわそわしてました。
初訪問時にはたいてい、シンプルなラーメンを食べようとするわたくしですが、このときは塩ラーメンの全部乗せを意味する「塩ラーメン、いっぱいん」を頼んでしまいました。
完全に「いっぱいん」と言いたいだけです。

店は予想以上に混んでいて(並んでいて)、そして店主の方のパイン愛が予想以上にすごく(パインの置物多数、パイン柄の服、飲み物もパイン系)。
肝心のラーメンですが、実にふしぎでした。スープには多量のパイナップル果汁が入っていると聞きます。が、麺をすすると、実においしい塩ラーメンなんです!だけど、スープを飲んだり、具のパインを食べたりすると、「・・・ん?」ってなるんです。で、またスープに麺を絡ませて食べると、すごくおいしい!って思うし、チャーシューも玉子もおいしい。で、またパイン食べて「・・・ん?」。の、繰り返しなのです。ミルフィーユ。
うーーん、なんて面白い体験なんだ、これは。きっと病みつきになる人がいそうな、そんな西荻っぽい味がしました。

暗渠も食べ物も、奥が深い、西荻の街。もう一本のひみつ暗渠も、よくわからないまま記事にすることになりそうです。

 

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