プチ天保新堀用水ブーム、きたる (1)
以前撮った金太郎車止め写真を眺めていたら、2015年に3時間かけて杉並区成田西にある金太郎ストリートの写真を撮っていたことがあった。
その写真をツイートしたところ、その家は現在更地になっている、というコメントをいただいた。
えーーー!
早速ストビューで見に行ってみる。
本当だ。(ちなみに暗渠ハンター氏が年初にその情報をツイートしたそうだが、気づいていなかった。)
なんてこった。
ここは、桃園川に関連する重要な場所のひとつである。「天保新堀用水のトンネル出口があった」とされる家なのだ。
天保新堀用水とは、「桃園川の最大支流」として紹介することもあるが、江戸時代に苦難に満ちた大工事を経て善福寺川と桃園川とをつないだ、じつにドラマチックな人工水路である。
郷土資料にも数多く(そして長く)記述があるし、天保新堀用水に限定した講演なども行われてきた。個人的には青梅街道という尾根を用水路が越えたこと、掘削時から既に暗渠だったこと、あたりが凛々しくて大好きだ。地形好きな人が桃園川マップを見て「ここ尾根越えてません?」と不思議そうな表情をするときなんか、自分が掘ったわけでもないのに鼻高々になる。
…けれど、何度かトークの中に混ぜ込んだことがあるものの、なんというか話そうと思うと皆が知っているような気がして、あえて紹介しなくてもいいんじゃないか、と気が削がれ、地元情報が得られても、あまりきちんとまとめたことがなかった。
なぜか今になってこんなふうに、天保新堀用水のトンネルのことや、水路まわりの長年の営みを、まざまざとイメージさせられるような瞬間が訪れた。
おかげで、わたしの中に「プチ天保新堀用水ブーム」がやってきた。
ご近所探訪ブームの一種なのかもしれない。必然かもしれない。兎に角それは、さざ波のようにやってきたのだった。
だから、満足するまでこの暗渠のことを書いてみたい。
ちなみに北斎美術館の竹村学芸員が杉並で天保新堀用水の講演をされたさい、古文書における表記についても調べられていた。呼称はまちまちであり、決定的な名は実はないそうである。ひとまず、「天保新堀用水」をここでは用いていく。
まずは、きっかけとなった工事現場のことを改めて。
この場所は、T家という、長く地元におられる家系の敷地である。長年この入口の植え込みに身を潜めていた、恥ずかしがり屋の金太郎がいた。
今は、腹を括って社交的になっている。
ストビューの後日、直接見にいってきた。すると門ができ始めていたので、(T家は健在なのだと)安心した。
ここに金太郎がある、ということは、水路が存在したことを意味する。
そして文献を見ると、水車もあったことがわかる。成宗(屋倉・田端)の水車。荻窪の古老、矢嶋氏の記憶画にも描かれる。
明治期の地図には、ちゃんと水車記号がある。
東京時層地図「明治の終わり」より。この地図にはトンネルが点線で描いてあり良心的
現在の地図も見てみよう。
情報が統合されていない頃、わたしはこの地図中央の三角地帯に水車があったものと思い込んでいた。
しかしやや前の住宅地図を見ると、なんと、この三角スペースには家が建っていた。そうくるか…。
バブル期の地図では、金太郎がいるほうの道はまだ道になっていなかった。この三角スペースは、水路跡を歩道に昇格させ、バブル期以降に出現したようである。なお、この位置から下流の杉並高校に至る水路は、地図によって描かれ方が変わる、摩訶不思議なところがある。
さて。肝心の水車は、T家の庭にあったとされる。工事の尽力者の一人だったので、水車の恩恵はそのためなのだろうか。
水車は、「水神の小祠のところにあった」と書かれている。
祠の位置が移動されていないとすれば、あそこが水車跡だ。この状況にある今だけ、見ることができる。
水路は矢倉台地をトンネルで抜けてくる。そのトンネル出口は、この敷地の西端だったと記される。わたしは地形等の状況から、「現在の敷地」ではなく、「かつてのT家の敷地」の西端と推測する。つまり、もっと西までが敷地のはずなのだ。
おそらく、この車の後ろの崖に穴が空いていたのではないだろうか。
台地に上がり、水路跡の方向を見る
水車が回っていた時代のことを、脳内CGで再生してみよう。
台地のキワにあけられたトンネルから、春から秋にかけ、どうどうと水が流れてくる。トンネルでは大鯉やウナギがとれたこともあるし、カワウソの巣もあった。トンネルは概ね、幅1.6m、高さ1.3m。水車堀もある。水車はその流れで回り、米・麦・蕎麦の精白や、粉の製作のために働いた。大正末期、モーターの普及により廃業するまで、働いた。
このいかにも人工的なトンネルと水路は、天保新堀用水の第1期工事により、出現したものである。
上流部の開墾により桃園川の湧水量が減ったこと、そして馬橋村にもともとあった桃園川支流(弁天川)が天保10年に枯れてしまったことを契機に(竹村氏の文献調査によれば、すでに天保7年時点で大打撃だったようだが)、水を得る必要が高まる。
流域の村は、善福寺川からの取水を代官所に依頼することにした。この記述から、桃園川の水量は善福寺川よりも心許ないことが想像される。
希望がかない、天保11年、工事開始。
善福寺川広場堰の取水口から矢倉台(先ほどのT家脇の台地)へのトンネル入口まで、また、矢倉台のトンネル出口から成宗弁天池の先、青梅街道手前のトンネル入口までを、開渠で掘削。トンネルは2箇所で、オール人力で掘っていった。「胎内掘り」と呼ばれる工法である。青梅街道のトンネル出口から先は、もともと存在する弁天川に接続することとしたが、改修もしているようだ。
スーパー地形に、成宗弁天池までの天保11年ルートをプロット。点線部分は胎内掘り
しかしながら矢倉台周辺のルートは、善福寺川付近の土手にカワウソが多く、巣を作られて水漏れし、天保11年中に大雨により決壊してしまった。なので、当該ルートをここでは「失敗ルート」と呼ぶ。
翌年、天保12年に、善福寺川取水口から成宗弁天池までのルートを堀り直し。こちらは成功している。
ところが苦労した失敗ルートのほうも、人々はたやすく諦めなかった。修復し、用水路と水車場に用いた。それが、T家の水車と水路になっている、というわけだ。T家の人がカワウソの巣を見ていることも、話がつながり興味深い。
失敗ルートのトンネルに思いを馳せてみる。
トンネル(からみて台地上)には3箇所の「のぞき」(マンホールの用途)があり、丸太で蓋をしていたという。「のぞき」の上は畑だったそうだ。今は畑どころか、住宅とマンションが隙間なく建っているため、「のぞき」の跡も何も感じられない。
しかし、中の記録は存在する。新日鉄社宅工事中に胎内掘りが発見され、ニュースとなったことがあった。杉並区広報の記事を教えてもらったが、新聞にも載っていた。ゴツゴツとした、胎内掘りのてざわりが写真からも感じられた。
新日鉄社宅は、今はもうない。集合住宅になっている。
成田西4−5。ここがおそらくそう。この建物の下にあったはずのトンネルは埋められ、いまは存在しない。
トンネルの入口は、このあたり。
やや分かりづらいが、上から見下ろしたところ。この台地の下にトンネル入口があったという。
ここから取水口までは、開渠となる。遡って歩いていこう。
崖下の、暗渠らしい道となる
マンホールが印象的
四角バージョンもある
以前、「桃園川探検隊」の方々とここを歩いたとき、これらの大径マンホールを見て「水門があったのかな?」と仰る方があった。こういったつくりは、中に一回り大きな人孔があることを意味している。下水道台帳を見てみる。
「水路敷」のみならず「暗渠・公共溝渠」の表記もある。マンホールについては、内径180cmのもの(大きめ)であるということ以外、特徴的な情報は見当たらなかった。
崖下のクネクネ路が、一直線の公園に変わる。この真っ直ぐな天神橋公園がそのまま失敗ルートの用水路の跡だ。この形をした水路の、古写真も残っている。この突き当たりが広場堰、善福寺川に出る。
以前は気づかなかったことだが、矢倉台を、天保新堀用水の隧道上に近づこうと思いながら歩くと、越境マンホールに出会いがちである。
狛江からの越境蓋
八王子からの越境。複数枚あった
現代版「のぞき」といえるマンホール。「のぞき」の痕跡はないものの、代わりにこういった面白いマンホール蓋に出会えるので、ここの場合は台地上を歩いてみるのもオススメだ。
どうも長くなりそうなので、数編に分けたいと思う。次記事に続く。
<文献>
高円寺パル商店街 「高円寺村から街へ」
杉並区教育委員会「杉並の通称地名」
杉並区郷土博物館紀要別冊 「杉並の川と橋」
杉並区立郷土博物館分館「荻窪の古老矢嶋又次の遺した記憶画」
杉並区広報
森泰樹「杉並区史探訪」
森泰樹「杉並風土記」
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