桃園川の、なづけかた
昨年、郷土資料館の関係の方とお話しする機会があり、桃園川の呼び方について気になることを聞きました。
いわく、桃園川という呼称については、いつごろ、だれが使い始めたかが、実は不明だということなのです。
これは、非常に興味をそそるお話でした。わたしたちは、あたりまえのように「桃園川」とか「桃園ちゃん」とか呼んでいるけれど、そのはじまりは、定かではない。
各文献でも、”桃園”についての由来は書いてある(鷹狩りに来ていた吉宗が中野駅周辺に桃の木を植えさせ、桃園と名付けた)けれど、よく考えてみたら、それだけでお茶を濁されている。
・・・そんなわけで、自分でも桃園川がその名で呼ばれだした経緯について、整理してみたいな、と強く思うようになりました。
今回は、流域である杉並~中野に関する、手持ちの史料で検討してみました。
まずは、比較的頼りにしてきた、”杉並の川と橋”からです。ここでは、桃園の由来については触れられている(pp.39)ものの、川の呼称とは関連付けられないままでした。残念ながら、その他の多くの史料と似たパターンです。
では、ここからは、ふるい順に見ていきます。
①”堀江家文書”の絵図をみると、江戸期の桃園川はたんなる”悪水流”あつかいで、名はありません(まだ中野近辺しか見ていませんが・・・)。
②”武蔵国多摩郡 馬橋村史”は昭和44年の編纂ですが、江戸期のことが書かれています。それによれば、江戸時代の馬橋(現・高円寺)では、桃園川にあたる流れのことを千川用水や阿佐ヶ谷流田用水、と呼んでいたようです。
③”東京府 豊多摩郡誌”(大正5年)の中野町の章では、桃園橋は登場するものの、その下を流れる川は善福寺分流という記載でした。川として扱われているのは神田上水のみで、桃園橋は”桃園の細流に架す、昔は石神井橋と呼べるよし”とのみ。桃園の細流、という表現がとても惜しい感じがしますが、まだ桃園川ではありません。
同、杉並村の章では、村内には善福寺川に架す橋がひとつあるのみ、ということなので、橋梁の項はあてにできません。水利の項で、桃園川にあたる流れについては千川用水支流と成宗辡天流として記載されています。なお、千川用水支流については3流あったとされます。また、成宗辡天流は天保新堀用水を指すものと捉えられますが、「末流中野地内にて神田上水渠に落つ」なので、この2つの川は、一部混同して書かれているように見えます。
④”杉並町郷土誌”(昭和5年)でも、桃園川は登場せず、千川用水および辡天川という記述となっています。
「本町の中央に源を発する辡天川」「阿佐ヶ谷を東に流れる千川用水」「川の主なるものは善福寺川と辡天川である」といった表現、さらには、辡天川の地下溝に水は流れていない(灌漑の必要がなくなったので)、(辡天川は)杉並中野町に入る、といった記述から、阿佐ヶ谷南付近までの桃園川を千川用水、天保新堀用水およびそれより下流の桃園川を辡天川、と呼んでいる可能性があります。しかし、③のように混同されている可能性もあります。
④”中野區史”(昭和18年)においても、桃園川は出てきません。
ここでは桃園川にあたる流れは、中野川と呼ばれています。
⑤”中野区史”(昭和29年)ではようやく、桃園川という記述が登場します。
しかし、河川の説明においては、桃園川のほか、善福寺分流、宮園川、谷戸川といった桃園川本流あるいは支流をさすような名称も同時に出ており、混乱している印象です。
この”中野区史”は、橋梁の項も参考になります。そこには、昭和7年と昭和12年の橋梁のデータが(おそらく)そのまま転載されているためです。
それによれば、昭和7年時点では、桃園橋や慈眼堂橋といった、桃園川に架かっている橋は”善福寺分流”、また、おなじく桃園川に架かるとされる箱堰橋や三味線橋は”宮園川”に架かるとされています。桃園川という呼称は皆無です。
つぎに、昭和12年の橋梁表では、現・桃園川緑道にある橋は概ね”桃園川”に架かるとされ、今度は前述の2河川名が消えています。
つまり、中野区において、昭和7年までは善福寺分流や宮園川等と呼ばれていたけれど、昭和12年には桃園川と呼ばれていることがうかがえます。
⑥”なかのの地名とその伝承”(昭和56年)においては、「この川の呼び名は、江戸から明治、大正、昭和の各時代にかけて幾度か変わり、そのたびごとに、その水路、源流についての認識も変わりながら現在に至っております」とあり、まさしく今回のテーマと重なる内容です。
そこでは、明治の中頃までは石神井川と呼ばれていたようだけれど、石神井川の支流ではないので誤りだろうということに触れています。さらに、昭和の初めに善福寺分流と呼んでいることについても異議を唱えたいそぶりです。(郷土資料館関係の方は、桃園橋のある道が石神井道だからでは、と推測していました。また善福寺~については、天保新堀用水のことを考えれば、わたしはアリだと思うんですが。)
⑦”高円寺むかしむかし”(1989年)という、地元の古老の話をあつめた冊子があります。それには、「川の両側に桃の木が植わっていたので桃園川と呼んだ」と記されています。これだけの情報では、かならずしも中野の桃園という地名から来るのではなく、高円寺において桃の木の風景からそう呼ばれ出したようにも取れてしまいます。ちょっと、根拠としては弱いけれども。
⑧1997年の”なかの区報”では、前述の吉宗が桃を植えさせた話を載せ、「以来、高円寺にかけての一帯に桃が植えられ、「桃園」と呼ばれるようになった」「桃園川はこのあたりを流れていたことからつけられた名前」と続けています。
中野駅南を中心とし高円寺方向へと広がる桃園、そこを通る川なので、桃園川。これが一番自然な由来という気はします。
以上、手持ちのものでざっと検討してみると、⑤の昭和12年が初出のようです。昭和7~12年をもう少し深追いしてみたいところです。といっても、桃園川が流れる天沼―阿佐ヶ谷―馬橋―高円寺―中野のすべてのエリアで呼称が統一されていたわけではないので、別称で呼ぶ文献についてどう扱うかはむずかしい課題です。また、由来については⑧のように吉宗が植えさせた桃園を流れる川、が有力です。
しかし、見てみると⑤も⑧も中野の文献です。杉並には、いつ、どのように浸透したのか?高円寺と阿佐ヶ谷と天沼で違いはあるのか?・・・謎は広がります。
はてさて、「桃園川」が堂々と誕生したのは、いつなのでしょう。旧流路の検証とあわせて、これも今年追いたい、大事なテーマとなりました。考えてみると、ほかの河川でも同じようなことが起きているかもしれませんね?
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コメント
新年にふさわしい新しいアプローチですねー!!!1w
「桃園ラブ」にあふれてるし。
興味深く読ませていただきました。
これを読んで「空川」やなんかも気になってきました…。
投稿: lotus62 | 2011年1月 7日 (金) 18時31分
なるほど。普通の地名もそうですが、
いつから、どうして呼ばれたかってなかなか謎ですね。
それだけ手持ち資料があるのがすごいですが(笑)
自分の仕事上での古い資料というと、
筆で描かれたような明治大正の公図なんですが、
ああいうのも青地(水)に河川名が入ってたりするのです。
調査した際に地域の人の使っていた呼称が記載され、
それが役場内で、あるいは地図作成時に使用され浸透、
という可能性もあるかなと最近思っていますが、
まあいかんせん現物が見れないですから・・・。
(しかもうちは23区の仕事は基本的にやってない・・・)
投稿: しかすけ | 2011年1月 7日 (金) 20時04分
気になって、買ったばかりのw「東京時層地図」で確かめてみました。
戦前の地図には桃園川の名は見当たりませんでした。(間違っていたらゴメンナサイ)
また、明治39~42年の一万分の一地図には「桃園橋」の名が記載されていました。
投稿: リバーサイド | 2011年1月 7日 (金) 23時41分
このような切り口の記事、面白いです。以前も話題になりましたが、川の名前の変遷や地域による呼び名の違いはなかなか難しいというか奥が深いですね。名前とはそもそも区別したり、同一のものとして特定するためのものですから、その必要がうまれて初めてつけられる訳で。そういう意味でひとつの川が統一された名前になる前提として、行政上管理の必要が生まれたり、人々の行動範囲や交流範囲が交通機関や商業の発達によって広がったりといったことがあるでしょうね。
桃園川の名称の定着については、昭和初期の改修工事(現在の暗渠と同じ流路への固定/統一)が関係しているのではないかなあと推測しています。
投稿: HONDA | 2011年1月 8日 (土) 11時28分
長らくお返事できずに、すみませんでした。
>lotus62さん
twitterネタを引きずりますねw そりゃあ、ラブなので考えちゃいますよ。でも長い課題になりそうです。
「空川」についてはたしか以前庵魚堂さんが仰っていた気がしますが、苦戦しそうですよね・・。
>しかすけさん
筆で描かれたような公図の話、とても貴重です!その推測も面白いし・・・。現在の公図は目にしたことがありますが、これをさかのぼって手に入れられるかどうか、気になってきました。ありがとうございます!
>リバーサイドさん
どうやら桃園橋はけっこう前からその名前みたいですね。そういえば今回の調べ物において、地図は確認してなかったのでありがたいですwふむふむ、戦前の地図にはナシ、と・・・。
>HONDAさん
ありがとうございます。呼称についてはいろんな角度でお話しができそうですよね。ほんと、奥が深いです。
HONDAさんの推測、さすがです。改修工事はかなりありえる話だとわたしも思います。けれどあまりアタリをつけすぎずに、幅広く情報を探っていこうと思います、1年計画ですからw
きっかけが何にせよ、今とても気になっているのは中野生まれの「桃園」という呼称を杉並がどのように受け入れたか、です。千川用水だとか、田用水だとか、どぶなどと呼んでいた杉並のひとたちは、この可愛らしい名称を喜んで受け入れたもしれない(徳川由来だし!)。そうでもないかもしれない。「これは桃園川だよ」と言われても、相変わらず「大どぶ」とか「弁天川」とか呼んだ人もいたでしょう。・・・でも役所レベルでは葛藤があったんじゃないのか?阿佐ヶ谷と高円寺の意地の張り合いとかをみていると、そんな気もしてしまいます。
こんなことを、検証できるかわからないけれど、課題として持っているだけで、ちょっとワクワクしてしまいます。
投稿: nama | 2011年1月11日 (火) 14時21分