ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 市川編
溜まってきたバーチ編の放出ターンふたたび。
今回は地形と軍跡がみごとに絡まり合う、市川は国府台にゆきましょう。
あの暗渠へ・・・。
北総線の矢切で降車します。
叔母の家にいくため、北総線にはたくさん乗ってきました。「つぎは、やぎりー、やぎりー」とアナウンスされると「やぎりのわたし」を思い浮かべる方もあるのでしょうが、わたしは幼いころから、「やぎりのわたし」=「夜霧の私」だと思ってきました。そして八代亜紀が歌っている艶っぽい歌なのだと思い込んでいました。・・・思い込みが覆されたのは、実に最近のこと。
矢切の駅の改札を出ると、矢切の渡しの案内板とともに、渡し船がドンっと素朴に置いてあります。長年の勘違いを思い出して、バツの悪い気持ちになりながら、そそくさと地上に出ます。
さて地上に出ると、矢切駅の脇には既にダイナミックな地形が広がっています。
松戸街道を渡れば、今回追いかける暗渠とその谷も出現します。
ただし、ここはまだ上流端ではないのでしばらく遡らねばなりません。暑い暑い夏の日。駅を出た直後に道に迷ったわたしは、体力をこれ以上無駄にしないよう気をつけないと、たぶんほんとうにマズイ。ポカリスエットを手に、気を引き締めます。
コンクリ蓋暗渠が連なっていましたが、概ね侵入できません。コの字ウォークを繰り返しながら蓋を撮っていきます。ふたつの道路に挟まれた谷、真ん中に暗渠。ノボル、クダル、ノボル、クダル。
あ、また縦置き蓋だ(チバではときどき出会う)。
そして崖上の矢切神社を眺めながら曲ったさき、ひとつめの名所と出会います。
集合住宅の脇をコンクリ蓋が抜けていくだけのように見えて、
その背後には階段があるのだけれど、
階段の上にもまた蓋があるのです(その向こうは暫くアスファルトに埋もれますが、アスファルトのひびで暗渠の位置が少しわかる)。
この下の構造って、いったいどうなっているのでしょう。だって、上流から下流に向かって、上る階段がついているのです、流れと逆に。ふしぎな場所です。
このあたりは蓋が七変化するエリアで、ところどころ鉄板蓋の架かる鉄ハシゴ式開渠(ここはカラカラ)、
ちょっとした石カオス、
斜め掛けの蚊帳のようなカバーの架かる開渠(エアコン水がぽたぽた湿っていた)。
ここは手前のフェンスの破れっぷりや、隣の廃屋的空間により風情が倍増していました。
ゴミ捨て場&物置併用蓋。よくある現象。
と、ここで唐突に外環で分断され。暑いときに、暗渠みちを分断する歩道橋を目の前にすると心が折れかけて、もう帰りたい気持ちです。
けれど、猫またぎさんが以前いらしてこの先もあることを書かれています・・・行かねば、ねえ。
外環を渡ると、
あのフェンス、あやしい。
近寄ってみると、
おお、あったあった。
けど、 ここくらいで、あとは家々の間なのか下なのかに飲まれてしまい見ることはできません。
さらに遡って、新たなペットボトルも飲み干したころに、やっとハシゴ式開渠がでてきたと思ったら、
その上流はこれで、ぷっつり、でした。おそらくこれより上は無いので、ここが上流端、でいいのだと思うのですが。
この暗渠はいろいろと唐突で、こま切れ、という特徴があるような気がします。勿論ある時期までは流れのある、つながったひとつの川だったのでしょうけれど、埋められ、架けられ、変えられ、現在その名残はあまりにもぶつ切りです。そろそろもう蓋は無いかな、と思っても唐突に出現する”しぶとさ”も持ち合わせています。
・・・そんなこと言っててもまだ、半分も見てないんだった。
さて、最初の地点に戻って、今度は川を下ってゆきましょう。
踵を返し、こんどは松戸街道を歩きます。右手にさきほど遡った低地が見えます。この松戸街道とは、山を削って、囚人を使ってつくられた軍用道路。すこし、戦跡のかおりがしてきます。
ふたたび矢切駅へ。
その手前には低地をまるまる園庭にした矢切幼稚園。近くに支流の合流点や開渠があると猫またぎさんが書いていますが、わたしは気づきませんでした(体力の消耗激しく、引き返せず・・・)。
矢切駅の傍に、スパ銭がありました。さすが谷・・・でも、これは聞いてなかったぞ。わたしの持つどの地図にもこのスパ銭は載っていなかったのですが、もしこの存在を知っていたら、わたしはこのさんぽは河口から遡る計画にして、この場所でゴール、最後にひとっぷろ、キンキンのルービー。という極楽プランを練っていたことでしょう。ああもう!チバのスパ銭ってお得だし、入りたかったーー!
・・・と、涼しい顔をしながらも脳内では後悔しまくったのでした。風呂とプールは最後に入ることにしているので、今じゃない。いいさいいさ、崖下の道を下ってゆきましょう。
栗山雨水貯留、と書かれた下水施設が出現。
崖下のみち。イイです。
こんどは、汚水ポンプ制御盤。
しかし、こんなふうに道端に電話ボックスみたいに在るのは初めて見ました。
そのさき、ここも名所ではないでしょうか。
道路を押しのけるようにして、堂々と居るコンクリ蓋暗渠。土地の余白がすてきです。
こんどは道路の下に隠れますが、この鉄板蓋がぽつ、ぽつ、と存在を強調。
会社の敷地内の駐車場に入っていく(ここ、入ると出られないので注意)道が暗渠でした。カーブののち正方形の蓋が連なり、
その敷地から流れ出るところの外側には、橋跡が(静かに興奮)。
いまきた経路は水色点線ですが、東側にも暗渠様の空間が見えます。猫またぎさんはそちらに行かれて、たいへん良い思いをしたようなのですが、わたしは体力不足で行かれず。
そしてそのさき、緑地がひろがっていて、じゅん菜池公園でした。
じゅん菜池。初めて見たのは千葉の戦争遺跡の本でしたが、なんとも気になった名前でした。じゅん菜が採れたんだろうな。いまも採れるかな?端でじゅん菜食べられたりするかしら。ワクワクしながら突入。
※大正期の回想にもとづいた絵地図によれば、中国分3丁目の方の、もうひとつの谷頭にも”じゅん菜池”があったとされます。こちらの跡地にも訪れてみたいものです。
水辺が出現。
じゅん菜池の隣にある小さめの池。そのまんまですが小池と呼ばれていたようです。
こちらではじゅん菜が育てられていました!見つけられなかったけど(そもそも時期が少し前のよう)。ほかにハス、コウホネ、ショウブなどいろいろな植物が育てられていました。
じゅん菜池にジュンサイを残そう、という近隣のひとびとの活動があるようでした。きれいな湧水に育つというじゅん菜がいまもある、ということは、活動の成果なのでしょうね。
さてもうひとつ下流が待望のじゅん菜池。
ぽっかり、ひろがります。
こちらにはじゅん菜は現在無いという矛盾・・・しかし昔は、この池の片側にえらくたくさんのじゅん菜があったそうで、じゅん菜採りをした、という話はいくつも残ります。池端に舟を持つ家が3軒ほどあり、その舟に乗って採ったとか。のどかなもので、子どもらで勝手に舟を漕ぎ出し、サイダー瓶につるつる入れて採ったり、採ったそばからそのまま食べたりしていたそうです。
”さっそうたるまっ青なじん菜”とまで表現される、湧水育ちの採れたての天然じゅん菜。どんな味がするものなのか?という問いに対しては、地元のひとはくちぐちに(速攻で)「うまくないですよあれ」とか、「うまいってもんじゃないねえ」「食うもんねえからみんな食ったんだよね」などという反応で、実にシュールでした。じゅん菜・・・。
ほか、水泳(犬かき)、釣りなど、子どもたちの遊び場でもあった様子。
じゅん菜池緑地という名は公称のようですが、案内板を見ると「国分沼」が正式名称のようです。通称のほうが緑地名になったのでしょう。たしかに、じゅん菜の池として皆が親しんできたのだと思います。
ここらへん一帯、今ではずいぶん爽やかな景色ですが、かつては暗くおそろしげな場所でもあったそうで。地元のひとびとは「あっ、小池かあ、こっからきもい、気味わりいだ」と言って避けたり、じゅん菜池もさみしくて行かなかったものだ、と回想しています。おそらく、この池の上半分は怖い場所、真ん中あたり(のひらけた場所)は遊び場だったのではないかな、と思います。
池はすっぽりと谷底に嵌るように在り、その両岸は崖になっています。
この両側の崖上はつて、軍用地でした。東の崖上は東練兵場、もう少し下流の西側は西練兵場。こんなにのどかなこの場所の裏に、戦時中は射撃場がありました。
現在の陰影図(google earthさんありがとうございます)。
台地上に広がっていたのが東練兵場、きれいに真っ平らです。その西寄りで長四角に凹んでいる場所が射撃場であった場所。射撃場の北側に着弾地点である三角山も造成されたようですが、戦後三角山は削られています。
※射撃場は谷底が多いものですが、ここの場合は珍しく台地上でした。
昭和22年の航空写真も見てみましょう(gooさんありがとうございます)。
射撃場が細長く、わかりやすく延びています。
また、射撃場の東北にいくつかみえる丸は、高射砲です。昭和20年頃、東練兵場には7センチ高射砲が6門、8センチ高射砲が6門、それと照空分隊がおかれていました。
後述する西練兵場はやや下流の崖上、野砲隊、騎兵砲大隊、高射砲隊など、”砲”のつく部門がつぎつぎ置かれました、こんなふうに、じゅん菜池の谷は軍用地に挟まれていたのでした。
挟まれていたとはいえ交流があったとは言い難く、近隣の人は軍用地には入れず、音が聴こえるくらいだったようです。その”音”は地元のひとびとにはとても役立っていたそうで。たとえば朝6時には兵を起こすラッパ、夕方5時には演習から帰ってくる「ここはぁお国を何百里ぃ」という兵たちの掛け声、夜9時には消灯ラッパ。プラス、正午は真間山の鐘が鳴る。これらの音が聴こえてくると、「ほら9時だぞ、寝ようねえ」というふうに、みな時計要らずで生活や仕事に臨んでいた、というのです。とても自然に、軍隊とともにある生活。近からず、遠からず。
いっぽう、子どもたちはいつだって無邪気。排水路内で子どもたちが遊んだという、じつに微笑ましい話が残っています。
水が出るので下流側の田んぼを守るためにと、練兵場の水をじゅん菜池のほうへ流す排水路を拵えたという話があります。回想によれば、”中国分の坂を上った右手の一角”に、雨水を受ける”じょうごの口”があり、子どもたちはそこから土管に入り、真っ暗な中をくぐりぬけていって、じゅん菜池のところにある吐口から出る、という遊びをしていたというのです。ウォーター抜きのウォータースライダー的な。池の水位が低い渇水の時期でないとできない遊びだったそうですが・・・なんとうらやましい、暗渠遊びをしていたのか。
それから三角山に上って船橋の海を見たとか。射撃場へ弾を拾いに行ったとか。やはりこの地でも、子どもたちは軍用地も遊び場にしていたのでした。
1948(S23)年、さきほどの台地上、東練兵場は農耕をする土地となり、農地開発の団体に払い下げられました。しかし彼らは農業経験が乏しく、いろいろと苦労があったようです。
その組合から抜け、姉とパン作りを始めた飯島藤十郎というひとがいて、”値段の安いパンをたくさん売る”という方法により成功をおさめ、それが山崎パンのはじまりである、そうで。
なんと、このじゅん菜池のすぐ上が山崎パンゆかりの地であったとは。地産地消(※その土地に縁のあるものを食べる企画)を目論む場合、じゅん菜かパンかで迷うことになりそうです。
既述のように、大人たちが兵と交流することは無かったようなのですが、じゅん菜池の末端のほうにあった共同の洗い場で地元の人が野菜を洗っていると、馬を洗いに来た兵隊さんと遭遇した、という話は残っています。
ちょうど、池端のほうに洗い場を模したような空間(位置的には前述の絵地図と一緒)?と思って近づきましたが、たんなる水の流入口のようで・・・向きが逆であることが気になりました。むかしは、逆向きに流れ出していたでしょう。肝心の、池から出る水のみちは、いまは地下に埋まり、トイレなどの空間になっているようです。
堤のようになっている、じゅん菜池緑地とその下流の谷の間の道を渡ると、傍らに社があります。姫宮さま=蛇の神様です。明治初期か、もっと以前か、ジヘエというおじいさんが大嵐のあとにこのあたりに来て、倒れた松の木だと思って座ったものが大蛇だった。ジヘエさんはびっくり仰天、家に帰って寝込んでしまい、ぜひ祀ろうといって、姫宮さまをこの位置に祀った、といいます。もう一種、里見のお姫様が池に身を投げて亡くなり、白蛇になったという伝説もあるようです。沼と蛇と女性の言い伝え、ここにもあり。
ちなみにじゅん菜池の前にあった小池にも、大蛇がとぐろを巻いていたという伝説があり、一時期神社が建っていたそうです。
さて”堤”を降りて、次のエリアに行きましょう。
階段を下ると、でた、ぶつ切り!w
コンクリ蓋がちょこっとだけ残っていました(写真左側)。
これ以降は暗渠=道路となっているようです。
この真ん中のまっすぐな道。おもに畑の間を抜けます。点線が示すように、町境ともなっています。
車止めが何回も出現。
この道は地元でも暗渠として認識されていて、”弥生時代からの水路”なのだそうです。水路が田圃を潤す風景、ここにもあったでしょうか・・・
また、以前のこの低地の旧字名は”不入斗(いりやまず)”。他の場所でも聞いたことのある名ですね。
調整池?のような空間。
梨畑もあります。不入斗はとにかくのんびりとした空間です。
このあたり、台地下いたるところから湧水があった、という記述もあります。季節のせいかカラッとしていましたが、かつては水が湧き、流れ、風そよぎ・・・
ここの西側の台地上には先述の西練兵場、野砲15、16、17連隊がありました。いまは国立精神神経センター、千葉商科大学、和洋女子大学等の建つ文教地区となっています。
軍用地跡が大学になる例は少なくはないですが、この地に関してはもう少し因縁があります。もともと、1875(M8)年に、国府台への大学建設が予定され、農家からの用地買収まで済んでいました。ところが台地上で水が得にくかったこと、交通が不便なこと、なにより、計画の中心人物(田中不二麻呂)が文部省を離れたことにより、大学建設はとん挫しました。
その後1885(M18)年に、訓練によい地だからということで陸軍教導団(下士官養成機関)が移転してきます。その後野砲連隊、高射砲隊、工兵隊などと変わり、終戦となったそうです。
そして軍が退いた後、大学等がついに建設されたという複雑な歴史をもつ地なのでした。
しばらくまっすぐ道でしたが、ここで左折。
その名も「いなほ幼稚園」です。田圃の思い出が詰まった名前ですね
おつぎは、川跡の上に歩道。
石橋下公園の脇を過ぎます。さきほど旧字名”不入斗”を通り過ぎましたが、このあたりには石橋上、石橋下という名がつけられていました。崖上にある国分寺に持っていくはずの大きな石をこのへんに落としてしまったとかで、その石(要石、鏡石)が石橋の由来のようです。
石はこの川(地元の古老は”どぶ”と表現)のそばに50~70年前までは置いてあったけれど、その後真間駅に移され、いつしか無くなったとか。
傍らに石の湯。この名は要石からきているのでしょうね。
(まだ昼前なので入れない。)
唐突に平川用水路、と書かれた親柱のようなものが現れるも、ここで暗渠は途切れます。
この暗渠の前身は平川用水路という名なのか・・・?
いまのところ、そのような文献は見つかっていません。地元の古老からの聴き取りを見ると、平川というのは字名のことで、”平川には川がない”などと発言しており、地名として使用しているようでした。
また他の古老は、この水路のことを”じゅん菜池からきている”としたうえで”国分川”と呼んでいました。”真ん中の道”のことで、”今じゃコンクリでやっちゃったからね”とも言っているため、暗渠化されたことも認識したうえで国分川と呼んでいるわけです。けれど地図を見ると、国分川は国分川で流れています・・・ともかく、この暗渠のことを国分川と呼んでいるひとが、地元には居る。けれどそれじゃ混乱するので、わたしは猫またぎさんに倣って国分川じゅん菜池支流(仮)、と呼びたいと思います。
じゅん菜池支流はふたたびぶつ切りとなり、
やや北にずれたところで開渠、
赤鉄板蓋暗渠、
またもとの道筋に戻ってコンクリ蓋暗渠、と、最後に実力を発揮してから、
国分川に注ぐのでした。
ああー、もう疲れた。暑い。もう帰る。
というわけで他の季節なら歩くところ、バスに乗って市川駅へ。
駅前でもっともレトロな予感のするお店、ベルクへ入りました。
さて、ゴハン。
新宿のベルクはいいですね。さて、東のベルクはどんなかな。
ランチのA。ポークソテー和風ソースと、シイラフライ盛り合わせ。スープとサラダ付、650円也。サラダのキュウリの盛り付けが丁寧。ソースも頑張ってるし、これはコスパ良いんじゃないでしょうか。
色あせたサンプルがいかにも味わい深い、再開発後の市川駅前で堂々頑張る、良店だと思います。
この、食事を何処でとるかについては、いろいろと迷いました。前述の国府台の軍用地から市川の駅に向かう、根本という場所(台地を下りた/真間川より手前)には、カフェー街があったといいます。いま、ストビューでみてみると名残は無さそうだけれど、でも食べ物屋さん自体は少しあるので、そこで食べてもみたかった。
梨入りラーメンをまだ食べていないし、山崎パンをこの地で食べることもしていないし、軍跡の大学学食でも食べてみたいし。支流も行けてない・・・、積み残しアリアリの、市川編でした。
<文献>
「市川市史 第一巻」
市川民話の会「市川の伝承民話 第8集」
市川歴史博物館「戦時下の市川市域」
千葉県歴史教育者協議会編「千葉県の戦争遺跡をあるく」
文化の街かど回遊マップ 国分・国府台地区編
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