6 軍事もの

ちょっとだけ軍事

ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 市川編

溜まってきたバーチ編の放出ターンふたたび。
今回は地形と軍跡がみごとに絡まり合う、市川は国府台にゆきましょう。
あの暗渠へ・・・。

北総線の矢切で降車します。
叔母の家にいくため、北総線にはたくさん乗ってきました。「つぎは、やぎりー、やぎりー」とアナウンスされると「やぎりのわたし」を思い浮かべる方もあるのでしょうが、わたしは幼いころから、「やぎりのわたし」=「夜霧の私」だと思ってきました。そして八代亜紀が歌っている艶っぽい歌なのだと思い込んでいました。・・・思い込みが覆されたのは、実に最近のこと。
矢切の駅の改札を出ると、矢切の渡しの案内板とともに、渡し船がドンっと素朴に置いてあります。長年の勘違いを思い出して、バツの悪い気持ちになりながら、そそくさと地上に出ます。

さて地上に出ると、矢切駅の脇には既にダイナミックな地形が広がっています。

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松戸街道を渡れば、今回追いかける暗渠とその谷も出現します。
ただし、ここはまだ上流端ではないのでしばらく遡らねばなりません。暑い暑い夏の日。駅を出た直後に道に迷ったわたしは、体力をこれ以上無駄にしないよう気をつけないと、たぶんほんとうにマズイ。ポカリスエットを手に、気を引き締めます。

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コンクリ蓋暗渠が連なっていましたが、概ね侵入できません。コの字ウォークを繰り返しながら蓋を撮っていきます。ふたつの道路に挟まれた谷、真ん中に暗渠。ノボル、クダル、ノボル、クダル。

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あ、また縦置き蓋だ(チバではときどき出会う)。

そして崖上の矢切神社を眺めながら曲ったさき、ひとつめの名所と出会います。

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集合住宅の脇をコンクリ蓋が抜けていくだけのように見えて、

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その背後には階段があるのだけれど、

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階段の上にもまた蓋があるのです(その向こうは暫くアスファルトに埋もれますが、アスファルトのひびで暗渠の位置が少しわかる)。

この下の構造って、いったいどうなっているのでしょう。だって、上流から下流に向かって、上る階段がついているのです、流れと逆に。ふしぎな場所です。

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このあたりは蓋が七変化するエリアで、ところどころ鉄板蓋の架かる鉄ハシゴ式開渠(ここはカラカラ)、

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ちょっとした石カオス、

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斜め掛けの蚊帳のようなカバーの架かる開渠(エアコン水がぽたぽた湿っていた)。
ここは手前のフェンスの破れっぷりや、隣の廃屋的空間により風情が倍増していました。

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ゴミ捨て場&物置併用蓋。よくある現象。

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と、ここで唐突に外環で分断され。暑いときに、暗渠みちを分断する歩道橋を目の前にすると心が折れかけて、もう帰りたい気持ちです。
けれど、猫またぎさんが以前いらしてこの先もあることを書かれています・・・行かねば、ねえ。

外環を渡ると、

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あのフェンス、あやしい。
近寄ってみると、

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おお、あったあった。
けど、 ここくらいで、あとは家々の間なのか下なのかに飲まれてしまい見ることはできません。

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さらに遡って、新たなペットボトルも飲み干したころに、やっとハシゴ式開渠がでてきたと思ったら、

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その上流はこれで、ぷっつり、でした。おそらくこれより上は無いので、ここが上流端、でいいのだと思うのですが。

この暗渠はいろいろと唐突で、こま切れ、という特徴があるような気がします。勿論ある時期までは流れのある、つながったひとつの川だったのでしょうけれど、埋められ、架けられ、変えられ、現在その名残はあまりにもぶつ切りです。そろそろもう蓋は無いかな、と思っても唐突に出現する”しぶとさ”も持ち合わせています。

・・・そんなこと言っててもまだ、半分も見てないんだった。

さて、最初の地点に戻って、今度は川を下ってゆきましょう。

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踵を返し、こんどは松戸街道を歩きます。右手にさきほど遡った低地が見えます。この松戸街道とは、山を削って、囚人を使ってつくられた軍用道路。すこし、戦跡のかおりがしてきます。

ふたたび矢切駅へ。
その手前には低地をまるまる園庭にした矢切幼稚園。近くに支流の合流点や開渠があると猫またぎさんが書いていますが、わたしは気づきませんでした(体力の消耗激しく、引き返せず・・・)。

矢切駅の傍に、スパ銭がありました。さすが谷・・・でも、これは聞いてなかったぞ。わたしの持つどの地図にもこのスパ銭は載っていなかったのですが、もしこの存在を知っていたら、わたしはこのさんぽは河口から遡る計画にして、この場所でゴール、最後にひとっぷろ、キンキンのルービー。という極楽プランを練っていたことでしょう。ああもう!チバのスパ銭ってお得だし、入りたかったーー!
・・・と、涼しい顔をしながらも脳内では後悔しまくったのでした。風呂とプールは最後に入ることにしているので、今じゃない。いいさいいさ、崖下の道を下ってゆきましょう。

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栗山雨水貯留、と書かれた下水施設が出現。

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崖下のみち。イイです。

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こんどは、汚水ポンプ制御盤。
しかし、こんなふうに道端に電話ボックスみたいに在るのは初めて見ました。

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そのさき、ここも名所ではないでしょうか。
道路を押しのけるようにして、堂々と居るコンクリ蓋暗渠。土地の余白がすてきです。

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こんどは道路の下に隠れますが、この鉄板蓋がぽつ、ぽつ、と存在を強調。

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会社の敷地内の駐車場に入っていく(ここ、入ると出られないので注意)道が暗渠でした。カーブののち正方形の蓋が連なり、

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その敷地から流れ出るところの外側には、橋跡が(静かに興奮)。

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いまきた経路は水色点線ですが、東側にも暗渠様の空間が見えます。猫またぎさんはそちらに行かれて、たいへん良い思いをしたようなのですが、わたしは体力不足で行かれず。

そしてそのさき、緑地がひろがっていて、じゅん菜池公園でした。
じゅん菜池。初めて見たのは千葉の戦争遺跡の本でしたが、なんとも気になった名前でした。じゅん菜が採れたんだろうな。いまも採れるかな?端でじゅん菜食べられたりするかしら。ワクワクしながら突入。

※大正期の回想にもとづいた絵地図によれば、中国分3丁目の方の、もうひとつの谷頭にも”じゅん菜池”があったとされます。こちらの跡地にも訪れてみたいものです。

水辺が出現。

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じゅん菜池の隣にある小さめの池。そのまんまですが小池と呼ばれていたようです。

こちらではじゅん菜が育てられていました!見つけられなかったけど(そもそも時期が少し前のよう)。ほかにハス、コウホネ、ショウブなどいろいろな植物が育てられていました。
じゅん菜池にジュンサイを残そう、という近隣のひとびとの活動があるようでした。きれいな湧水に育つというじゅん菜がいまもある、ということは、活動の成果なのでしょうね。

さてもうひとつ下流が待望のじゅん菜池。

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ぽっかり、ひろがります。

こちらにはじゅん菜は現在無いという矛盾・・・しかし昔は、この池の片側にえらくたくさんのじゅん菜があったそうで、じゅん菜採りをした、という話はいくつも残ります。池端に舟を持つ家が3軒ほどあり、その舟に乗って採ったとか。のどかなもので、子どもらで勝手に舟を漕ぎ出し、サイダー瓶につるつる入れて採ったり、採ったそばからそのまま食べたりしていたそうです。
”さっそうたるまっ青なじん菜”とまで表現される、湧水育ちの採れたての天然じゅん菜。どんな味がするものなのか?という問いに対しては、地元のひとはくちぐちに(速攻で)「うまくないですよあれ」とか、「うまいってもんじゃないねえ」「食うもんねえからみんな食ったんだよね」などという反応で、実にシュールでした。じゅん菜・・・。

ほか、水泳(犬かき)、釣りなど、子どもたちの遊び場でもあった様子。

じゅん菜池緑地という名は公称のようですが、案内板を見ると「国分沼」が正式名称のようです。通称のほうが緑地名になったのでしょう。たしかに、じゅん菜の池として皆が親しんできたのだと思います。

ここらへん一帯、今ではずいぶん爽やかな景色ですが、かつては暗くおそろしげな場所でもあったそうで。地元のひとびとは「あっ、小池かあ、こっからきもい、気味わりいだ」と言って避けたり、じゅん菜池もさみしくて行かなかったものだ、と回想しています。おそらく、この池の上半分は怖い場所、真ん中あたり(のひらけた場所)は遊び場だったのではないかな、と思います。

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池はすっぽりと谷底に嵌るように在り、その両岸は崖になっています。

この両側の崖上はつて、軍用地でした。東の崖上は東練兵場、もう少し下流の西側は西練兵場。こんなにのどかなこの場所の裏に、戦時中は射撃場がありました。

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現在の陰影図(google earthさんありがとうございます)。
台地上に広がっていたのが東練兵場、きれいに真っ平らです。その西寄りで長四角に凹んでいる場所が射撃場であった場所。射撃場の北側に着弾地点である三角山も造成されたようですが、戦後三角山は削られています。
※射撃場は谷底が多いものですが、ここの場合は珍しく台地上でした。

昭和22年の航空写真も見てみましょう(gooさんありがとうございます)。

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射撃場が細長く、わかりやすく延びています。
また、射撃場の東北にいくつかみえる丸は、高射砲です。
昭和20年頃、東練兵場には7センチ高射砲が6門、8センチ高射砲が6門、それと照空分隊がおかれていました。

後述する西練兵場はやや下流の崖上、野砲隊、騎兵砲大隊、高射砲隊など、”砲”のつく部門がつぎつぎ置かれました、こんなふうに、じゅん菜池の谷は軍用地に挟まれていたのでした。

挟まれていたとはいえ交流があったとは言い難く、近隣の人は軍用地には入れず、音が聴こえるくらいだったようです。その”音”は地元のひとびとにはとても役立っていたそうで。たとえば朝6時には兵を起こすラッパ、夕方5時には演習から帰ってくる「ここはぁお国を何百里ぃ」という兵たちの掛け声、夜9時には消灯ラッパ。プラス、正午は真間山の鐘が鳴る。これらの音が聴こえてくると、「ほら9時だぞ、寝ようねえ」というふうに、みな時計要らずで生活や仕事に臨んでいた、というのです。とても自然に、軍隊とともにある生活。近からず、遠からず。

いっぽう、子どもたちはいつだって無邪気。排水路内で子どもたちが遊んだという、じつに微笑ましい話が残っています。
水が出るので下流側の田んぼを守るためにと、練兵場の水をじゅん菜池のほうへ流す排水路を拵えたという話があります。回想によれば、”中国分の坂を上った右手の一角”に、雨水を受ける”じょうごの口”があり、子どもたちはそこから土管に入り、真っ暗な中をくぐりぬけていって、じゅん菜池のところにある吐口から出る、という遊びをしていたというのです。ウォーター抜きのウォータースライダー的な。池の水位が低い渇水の時期でないとできない遊びだったそうですが・・・なんとうらやましい、暗渠遊びをしていたのか。

それから三角山に上って船橋の海を見たとか。射撃場へ弾を拾いに行ったとか。やはりこの地でも、子どもたちは軍用地も遊び場にしていたのでした。

1948(S23)年、さきほどの台地上、東練兵場は農耕をする土地となり、農地開発の団体に払い下げられました。しかし彼らは農業経験が乏しく、いろいろと苦労があったようです。
その組合から抜け、姉とパン作りを始めた飯島藤十郎というひとがいて、”値段の安いパンをたくさん売る”という方法により成功をおさめ、それが山崎パンのはじまりである、そうで。
なんと、このじゅん菜池のすぐ上が山崎パンゆかりの地であったとは。地産地消(※その土地に縁のあるものを食べる企画)を目論む場合、じゅん菜かパンかで迷うことになりそうです。

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既述のように、大人たちが兵と交流することは無かったようなのですが、じゅん菜池の末端のほうにあった共同の洗い場で地元の人が野菜を洗っていると、馬を洗いに来た兵隊さんと遭遇した、という話は残っています。

ちょうど、池端のほうに洗い場を模したような空間(位置的には前述の絵地図と一緒)?と思って近づきましたが、たんなる水の流入口のようで・・・向きが逆であることが気になりました。むかしは、逆向きに流れ出していたでしょう。肝心の、池から出る水のみちは、いまは地下に埋まり、トイレなどの空間になっているようです。

堤のようになっている、じゅん菜池緑地とその下流の谷の間の道を渡ると、傍らに社があります。姫宮さま=蛇の神様です。明治初期か、もっと以前か、ジヘエというおじいさんが大嵐のあとにこのあたりに来て、倒れた松の木だと思って座ったものが大蛇だった。ジヘエさんはびっくり仰天、家に帰って寝込んでしまい、ぜひ祀ろうといって、姫宮さまをこの位置に祀った、といいます。もう一種、里見のお姫様が池に身を投げて亡くなり、白蛇になったという伝説もあるようです。沼と蛇と女性の言い伝え、ここにもあり。

ちなみにじゅん菜池の前にあった小池にも、大蛇がとぐろを巻いていたという伝説があり、一時期神社が建っていたそうです。

さて”堤”を降りて、次のエリアに行きましょう。

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階段を下ると、でた、ぶつ切り!w
コンクリ蓋がちょこっとだけ残っていました(写真左側)。

これ以降は暗渠=道路となっているようです。

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この真ん中のまっすぐな道。おもに畑の間を抜けます。点線が示すように、町境ともなっています。

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車止めが何回も出現。

この道は地元でも暗渠として認識されていて、”弥生時代からの水路”なのだそうです。水路が田圃を潤す風景、ここにもあったでしょうか・・・

また、以前のこの低地の旧字名は”不入斗(いりやまず)”。他の場所でも聞いたことのある名ですね。

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調整池?のような空間。
梨畑もあります。不入斗はとにかくのんびりとした空間です。

このあたり、台地下いたるところから湧水があった、という記述もあります。季節のせいかカラッとしていましたが、かつては水が湧き、流れ、風そよぎ・・・

ここの西側の台地上には先述の西練兵場、野砲15、16、17連隊がありました。いまは国立精神神経センター、千葉商科大学、和洋女子大学等の建つ文教地区となっています。

軍用地跡が大学になる例は少なくはないですが、この地に関してはもう少し因縁があります。もともと、1875(M8)年に、国府台への大学建設が予定され、農家からの用地買収まで済んでいました。ところが台地上で水が得にくかったこと、交通が不便なこと、なにより、計画の中心人物(田中不二麻呂)が文部省を離れたことにより、大学建設はとん挫しました。
その後1885(M18)年に、訓練によい地だからということで陸軍教導団(下士官養成機関)が移転してきます。その後野砲連隊、高射砲隊、工兵隊などと変わり、終戦となったそうです。
そして軍が退いた後、大学等がついに建設されたという複雑な歴史をもつ地なのでした。

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しばらくまっすぐ道でしたが、ここで左折。

その名も「いなほ幼稚園」です。田圃の思い出が詰まった名前ですね

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おつぎは、川跡の上に歩道。

石橋下公園の脇を過ぎます。さきほど旧字名”不入斗”を通り過ぎましたが、このあたりには石橋上、石橋下という名がつけられていました。崖上にある国分寺に持っていくはずの大きな石をこのへんに落としてしまったとかで、その石(要石、鏡石)が石橋の由来のようです。
石はこの川(地元の古老は”どぶ”と表現)のそばに50~70年前までは置いてあったけれど、その後真間駅に移され、いつしか無くなったとか。

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傍らに石の湯。この名は要石からきているのでしょうね。
(まだ昼前なので入れない。)

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唐突に平川用水路、と書かれた親柱のようなものが現れるも、ここで暗渠は途切れます。

この暗渠の前身は平川用水路という名なのか・・・?
いまのところ、そのような文献は見つかっていません。地元の古老からの聴き取りを見ると、平川というのは字名のことで、”平川には川がない”などと発言しており、地名として使用しているようでした。
また他の古老は、この水路のことを”じゅん菜池からきている”としたうえで”国分川”と呼んでいました。”真ん中の道”のことで、”今じゃコンクリでやっちゃったからね”とも言っているため、暗渠化されたことも認識したうえで国分川と呼んでいるわけです。けれど地図を見ると、国分川は国分川で流れています・・・ともかく、この暗渠のことを国分川と呼んでいるひとが、地元には居る。けれどそれじゃ混乱するので、わたしは猫またぎさんに倣って国分川じゅん菜池支流(仮)、と呼びたいと思います。

じゅん菜池支流はふたたびぶつ切りとなり、

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やや北にずれたところで開渠、

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赤鉄板蓋暗渠、

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またもとの道筋に戻ってコンクリ蓋暗渠、と、最後に実力を発揮してから、

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国分川に注ぐのでした。

ああー、もう疲れた。暑い。もう帰る。
というわけで他の季節なら歩くところ、バスに乗って市川駅へ。

駅前でもっともレトロな予感のするお店、ベルクへ入りました。

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さて、ゴハン。

新宿のベルクはいいですね。さて、東のベルクはどんなかな。

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ランチのA。ポークソテー和風ソースと、シイラフライ盛り合わせ。スープとサラダ付、650円也。サラダのキュウリの盛り付けが丁寧。ソースも頑張ってるし、これはコスパ良いんじゃないでしょうか。
色あせたサンプルがいかにも味わい深い、再開発後の市川駅前で堂々頑張る、良店だと思います。

この、食事を何処でとるかについては、いろいろと迷いました。前述の国府台の軍用地から市川の駅に向かう、根本という場所(台地を下りた/真間川より手前)には、カフェー街があったといいます。いま、ストビューでみてみると名残は無さそうだけれど、でも食べ物屋さん自体は少しあるので、そこで食べてもみたかった。
梨入りラーメンをまだ食べていないし、山崎パンをこの地で食べることもしていないし、軍跡の大学学食でも食べてみたいし。支流も行けてない・・・、積み残しアリアリの、市川編でした。

<文献>
「市川市史 第一巻」
市川民話の会「市川の伝承民話 第8集」
市川歴史博物館「戦時下の市川市域」
千葉県歴史教育者協議会編「千葉県の戦争遺跡をあるく」
文化の街かど回遊マップ 国分・国府台地区編

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ババノダカタノシミズガワ

「清水川」といったとき、何処を思い浮かべる人が多いものでしょうか。

わたしの場合、「清水川」は新宿区にあります。

Kako

山手線に乗っていると河口が見える、あの暗渠。
あれぇ、ソレっぽいなぁ、とフンワリ思っているうちに通り過ぎてしまう、あの風景。
フンワリ気持ちも通り過ぎ、そして辿るのも忘れてしまう、という按配で今に至る。

そんなところに川なんてあったっけ?いやいや、あるんです。
山手線のせいで、起伏が誤魔化されているやつが。

Innei

                   東京時層地図(段彩陰影図)よりキャプチャ

真ん中をはしるは山手線。そして、山手線を挟んで両側に凹地が在ります。

東側の窪地=馬尿川のことは、以前書きました。
あの暗渠は人気が高い気がするけれど、そのすぐ西にも谷があることは意外と知られていないのではないでしょうか。いや、知っていても、記事に起こすほどの魅力が感じられない、のかもしれない。あまりにも痕跡が無い場所だから・・・。

しかしわたしはここを書きたかったのです。
なぜならこの川は、「陸軍の研究所から流れ出る」川だったから。

明治のころからこの一帯は軍用地であり、戸山ヶ原、と呼ばれていました。
戸山ヶ原は山手線の東西に延びる、羽を広げて飛ぶ鷲の後ろ姿のようなかたちをした土地。
軍用地でありながらも、一般人が自由に出入りしていた、といいます。しかし、その”羽”の下に二か所、一般人の入れない場所がありました。東は射撃練習所、そして西は陸軍科学研究所技術本部です。

この秘匿感・・・まさにその、陸軍科学研究所から流れ出た清水川は、僅かな距離をソソクサと流れ、神田川に注ぎます。
明治期の地図を見ると、神田川沿いに清水川、という字名が存在しています。

Mowari

                    東京時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ

神田川がいまよりも少し蛇行多めですね。

時層地図では清水川の流れ自体はみることができませんが、明治44年製の地図で載っているものがひとつ、ありました。

また、戸塚町誌には、秣川(=馬尿川)、蟹川とともにその存在が堂々載っています。

清水川
細流素々として戸山より落ち、大字戸塚地内を南北に流れて山手線ガード下にて神田上水に入る。

残念ながら、”戸山より落ち”以外に水源に関する記述はありません。当然水源が知りたいものの、肝心の水源があるらしき位置が、前述の地図では軍用地のため白抜きとなっていてわからぬという不運。地形をみると、緩やかな谷がもっと南の方まで伸びているようにも見えます。まずは、その先端まで、気のすむまで行ってみるとしましょう。

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「おほくぼ」駅前まできました。
この先まで緩やかに低くなっているように見える地形図もありますが、実際には平坦に感じます。そうそう、大久保駅前、このごちゃっとした飲み屋群が気になっていました。あいてないんで、また後日。踵を返し、

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すごすごと、線路をこえます。

桜のきれいな時期でした。

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                     東京時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ

この、うっすらとした等高線を足裏に感じられないものか、と思いながら歩きます。ちなみに、日出園・萬花園というのは、つつじ園のこと。大久保といえばつつじ、という時代もあったようです。

谷の先端がこの辺にあったような気がしてならない・・・というところを通過するのですが、依然平坦なまま。

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まだ高低差は感じない。
なのに、そこにあるホテルには湖畔と書いてあります。
何故”湖畔”なのか。谷頭地形に遭遇しないモヤリ感もあいまって、いったいここのどこが”湖畔”なのかと問い詰めたくなります。

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やっと前方に窪みが見えてきました。

これは、うれしい。

次第に暗渠感も出てきます。

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暗渠にゴミはつきもの。

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タクシー会社もつきもの。

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道路を渡ると、社会保険中央総合病院の敷地に入ります。
陸軍科学研究所の跡地は、「都立衛生研究所」「国立科学博物館分館」「呉羽科学」「社会保障中央総合病院」となりました(1988年当時の記載による)。ほかにも、あれこれ関連施設の変遷はあるのかもしれません。いまは表記上は、病院のみ残っているようです。

・・・ひっそりとした土地でした。
水色丸部分、壁の向こうの地面は高くなっています。なるほどここが清水川の谷。

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                  東京時層地図(関東地震直前)よりキャプチャ

大正期、いまいる場所(青丸)ははこういう土地でした。

陸軍科学研究所。広大な土地に、建物が少しだけあります。ここで、どのような研究がおこなわれていたのか?

・・・ここ百人町にあったのは、「第6陸軍技術研究所」および「第7陸軍技術研究所」でした。第6は化学兵器(毒ガス研究など)、第7は物理的基礎研究で、第7はのちに多摩に移る、とあります。
毒ガス、というと、まず思い浮かぶのは陸軍習志野学校。手持ちの資料には、この2箇所の施設を関連づける記述は見当たりません。しかしなんたる偶然か、陸軍習志野学校があった土地の、最寄駅も大久保(京成の)。なのです。

(陸軍習志野学校および周辺の暗渠については取材済で、長編すぎるのでなかなか更新できませんが、いずれ書きます。)

さてこの土地、いまは、一般人でも入れます。

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駐車場から、川跡を下っていこうとしました。が、残念ながら北に抜ける出口はありませんでした。

仕方がないので病院の裏に回ると、

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そこにはなんともいえぬ、放置された空間がありました。ベンチもありはするけれど、手入れはされていないようで・・・しかし木々は茂り、しっかりと花は咲く。満開の桜。

・・・まるで秘密の花園。

ヒマラヤスギは、陸軍のいたところにつきもの、と思っているのですが、ここのヒマラヤスギはどうでしょうか。

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研究所の外に出ます。百人町の住宅街は、ところどころムシクイになっていて、何かを待っているようでした。

百人町から研究所跡をながめると、新旧建物のコントラスト。

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さらに下り、西戸山公園にきました。

窪みはいよいよ明確になり、清水川を感じられるようになります。

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こういう角度で流れ込んでいたのではあるまいか、と思っています。

このあたりを描いたらしき、回想による画がありました。

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                    「戸山ヶ原、今はむかし・・・」より

科学研究所は、「変わったかたちの煙突」と「独特のサイレン」という印象が強かったのだそうです。

土管から流れ出る清水川。橋がいくつか架けられ、昭和13年時点で幅1.5m、深さ1m、ケタは2mおきに20cmほどのものが並んでいたそうです。「どぶ川」と呼ばれたこの流れは、子どもたちの遊び場であったそう。

また別角度の写真もありました。

Smz3

                     「戸山ヶ原、今はむかし・・・」より

戸山ヶ原に座るカップル。

見つめる先には、清水川。

「どぶ川」と橋、憩うひとびと。軍用地とは思えない長閑さです。

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わたしも斜面に座り、見えないはずの清水川を見つめながら、大久保で買ってきたビビンバ弁当を食べました(ほんとうは高田馬場でバインミーを買うはずが、定休日だったのでした)。

ちょうど、目の前では子どもたちが遊んでいました。かつての戸山ヶ原でも、こんな声が響いていたのかしら。

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そのさきは山手線に向かって公園内をまっしぐら。

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ここの記憶画もあります。
前述の明治44年の地図にはクネクネとした道路があり、水路もそれに沿って小さな蛇行を繰り返していましたが、

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                     「戸山ヶ原、今はむかし・・・」より

昭和11年当時はこのような流れでした。
いつしか真っ直ぐに付け替えられたのでしょう。

清水川は、ハシゴ式開渠で線路のすぐわきを流れていたそうです。周辺の植物の描写もありました・・・ここに広がるは、椎、栗、楢の木々と、足元に笹。未舗装の素朴な小径。

もう少し進むと、暗渠と重なる位置で工事をしていました。

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これはだいぶ深く掘られている様子・・・山手線からも見えます。直接覗き込みたかったですが、交通量が多いのと路側帯が狭いのとで、命が惜しくて渡ることすらできなかったです。

覗けなくて残念。

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高田馬場駅に向かいます。

昭和13年の記憶画を見ると、ここに左手から合流してくる人工の流れもあったようです。戸山ヶ原の西側、赤土の原っぱの中央に凹みがあり、降雨時のみ泥水の渓流ができたのだそうです。

まだそのころ、高田馬場駅に南口はありませんでしたが、清水川はちょうど現南口にあたる位置から暗渠となり、神田川に向かっていったといいます。たしかに、前述の明治の地図でも、その位置までが開渠です。

ところで、

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高田馬場といえば、駅のホームから見える滝。

Taki

なんで滝?と、ポカーンとするひとが多かろうと思うんですが・・・、

この滝の下を、まさに清水川が流れていた、ということになるんですよ。

そう思うとたちまち、この滝はすごく由緒正しい気がしてきませんか?w オーナーの意図は、おそらく違うんだろうと思うけど、でも、この流れはきっと、暗渠者には清水川を彷彿とさせるものとなるはず!

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実際は暗渠らしさの全然ない道なんだけども。滝の下、痛快うきうき通り。

どうでもいいけど、ここから見える、五右衛門がある場所にかつてあった富士ラーメンに比較的行っていたんですよね。富士ラーメンに富士そばに東京富士大学。・・・富士、多いな。

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さかえ通りまできました。

もう少しで神田川というわけです。しかし、改修前の神田川は前掲の古地図のように、もっと北側を蛇行していました。すなわち清水川も、もう少し北東まで流れていたと考えることができ、明治の地図ではこの位置よりも右手奥から出現するように読めるのですが・・・、今ある名残はちがっていて、

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さかえ通りの入り口に鎮座している、この駐輪場が川跡のようです。

最後に来て、暗渠らしさがやっと出た感。

しかし、入ることはできませんでした。自転車を置いているふりをして、入ればよかったでしょうか・・・どうも、そういった勇気が出る日と出ない日がわたしにはあるようで。この日は出ない日でした、残念ながら。

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仕方がないので、いっきに終点まで。河口を拝見します。
桜の花びらがたくさん流れていました。

この、山手線前後の神田川のうねり具合、たいへん好みです。

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この日の〆は、馬場の駅前のレトロ喫茶店”ロマン”にて、クリームソーダ。
ロマンはナポやホットケーキなどの必須事項を押さえているばかりでなく、各種アルコール、それにシューマイやソーセージといったガチ酒用つまみも置いているのです。これな。・・・秀逸。いつか”ロマン飲み”がしたいなあ。

                        ***

高田馬場の、清水川。

まあ、言ってみればほとんど痕跡はありません。
しかし、陸軍の秘密の土地はいまでも秘密の花園であり、幻の渓流はいま、謎の滝が代役となりうるかもしれません。
ふふ、ちょっと強引だったかも。でも、暗渠とは想像するものでもあります。清水川は、都内屈指の想像力の鍛錬ができる川、といえるかもしれません。
「おいしくない」ことをグルメレポーターが「個性的な味」と評するように、「暗渠感がまるでない」ことを、「想像力が鍛えられる場」と表現する提案をしてみようかしら?

すべては、そこを歩くひとしだい。

<文献>
濱田熙「戸山ヶ原 今はむかし・・・」
「戸塚町誌」
「新宿区地図集-地図で見る新宿区の移り変わり-」
山田朗氏”陸軍登戸研究所―戦争の記録と記憶・保存と活用―”講演資料

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シカク■スリバチのなぞ

スリバチとは、逆円錐形をあらわすことばであるはずだ。だから、「四角スリバチ」なんて、ことば自体がすでに矛盾を孕んでいるかもしれない。

でも、世の中ってものはおもしろくって、四角いスリバチだって、あるところにはある。最初にそれを知ることになったのは文京区、東京大学の本郷キャンパスと浅野キャンパスに挟まれた、この地でのこと。

Sikaku1            Googleさんありがとうございます。文京区の、向ヶ岡といわれるところ

なぜ東大のキャンパスがこのように分断されているのか?よく見れば、気になる地割り。そんな問いをもって、この地のことを調べる人もいる。
時代を遡ってみると、さらにこの場所のシカクさが浮き出てくるかのようだ。

Sikaku2

              東京時層地図よりキャプチャ。明治9~19年頃の向ヶ岡

古地図には大きな池が描いてあるから、両脇の崖から水が滴っていたのかもしれない。あるいは、もう少し上流の、谷頭から来る水を溜めていたのかもしれない。とはいえ、こんな地形は自然にできるものではない。ここは、もとからあった谷戸を利用し、成形された場所だったのだ・・・なんのために?

明治期、このシカクい土地には射的場があった。射的といっても、こんにち我々が想像するようなお祭りのそれではない。警視庁のもので、西南戦争に派遣された関係者が狙撃演習を行ったという。その後、東京共同射的会社となり、一般人にも向けられた練習場となった。
江戸期のここは水戸藩駒込邸の敷地であり、その頃から池が谷戸の下方に認められる。明治に入り、そのスリバチの四方に土手を作り、さらなる谷地形をつくり、弾を防ぐ壁としたのだそうだ。

谷地形があるということは、そこには川が流れていたということ。ただしこの、射的場の川は無名川で、名を定めている文献は見当たらない。そういうとき、筆者は勝手に名づけることも多いけれど、この川については付け忘れてしまった。なので、みなさんどうぞお好きな名前で、心の中で呼んでください。
明治期の古地図を見ると、道路脇に水路が描いてあるものがある。そして、東京大学構内にある三四郎池から流れ出す小川が、この無名川に合流していた。実はいまも、東京大学の池之端門近辺には橋状のものや、石垣に埋まりつつある合流口があって、水路の名残を感じることができる。付近は地形を改変され続けたこともあり、流末がはっきりしないが、いにしえは石神井川の支流、近世以降は不忍池に注いだと考えられる

現在この地を歩いてみると、ほぼ、ただのシカクい住宅地だ。・・・いや、シカクさはわかりにくいかもしれない。一応、チーズドッグみたいな擁壁の崖を認めることは出来るものの、住宅に遮られて視界が悪い。

Sikaku3

              現代の向ヶ岡の内部。 住所は、文京区弥生二丁目だ

上述のようにわざわざ谷を掘って成形したものの、その後埋めて宅地化したのだという。とある考古学者によれば、この土地を掘れば、池跡が出てくる可能性が高いのだそうだ・・・いまを生きる私は、地面の下の池を想像して歩くのみ。それだって、楽しいけれど。

もう少しだけ、スリバチ感の残っているシカク地帯もある。港区青山。ここには、いまも谷が残っているように見える。

こちらも射的場だが、こんどは陸軍のものである。長方形の敷地で、全面と左右に土手があり、凹地の各所に門があったというつくり。そのまんまだが、俗に「鉄砲山」といわれていた。射的場の下には蛇ヶ池(じゃがいけ、もしくはへびがいけ)があり、葦が生え、魚がたくさんいたという。
なんと斉藤茂吉が「赤光」にて、ここの湧水のことを詠んでいた。

「射的場に 細みづ湧きて流れければ 童ふたりが水のべに来し」

同じく「赤光」には、子どもが土を掘って弾丸を見つけ、喜んでいるという描写もある。青山、といえばシャレオツタウン、いま描写したような風景を想像する人は、あまりいるまい。

青山霊園の少し南に、そのスリバチはある。買い物をするような店もなく、はっきりいってここに行く用事などない。しかし、シカク見たさに、行ってみる。そうか、ここか・・・

Sikaku4                   青山に密かに在る、細長い谷地形

そこは妙に余白を感じる、運輸会社などの敷地になっていた・・・侵入することはできない、深い谷を見下ろす。
そう思って歩いて帰ってきたら、それは大きな間違いだった。実際の射的場跡は、2倍以上も広かった。

Sikaku5           東京時層地図よりキャプチャ。左は文明開化期、右はバブル期。
                  前掲の写真は、緑点線内を写しただけだった。

明治期の蛇ヶ池は、まるで真夏の夜に青山霊園から抜け出てきたヒトダマみたいに、陸軍用地に食い込んでいる。
・・・どうやらここは、もっともっと広いシカクスリバチがあったのが、盛り土されてしまったようだ。

こちらの川には名がある。その名を笄(こうがい)川という。渋谷川の支流であり、天現寺橋のところが河口にあたる。笄川は青山霊園を中心として北に向かって咲くリンドウの花のようなかたちをしていて、この蛇ヶ池はいわば花弁のような位置にあって、その水源のひとつだった。かつては、蛇ヶ池の脇を小川が流れ、その下にひろがる笄田圃を潤していた。

江戸期の絵図を見るとここは青山家の下屋敷の敷地であり、空白が多く地形がよくわからない。しかしその時から蛇ヶ池はあったようだ。すなわち谷があったのであり、向ヶ岡同様、ここのシカクももとの谷戸を利用したものだ。
明治以降の地図を時代順に並べて見ると、だんだんと埋められ住宅になっていくさまがよくわかる。しかしよく見ると、今の区割にも名残がある。バブル期の住宅地のかたちは、射的場とほぼ同じなのだ(そして、いまもそうだ)。

Sikaku6              東京時層地図よりキャプチャ。現代の段彩陰影図。
                  オレンジ点線内が射的場のナガシカク部分。

1つ前の写真と比較してみてほしい。ナガシカクの左下にはいまも窪地として残っており、そこに青山葬儀場がすっぽりとおさまっている。
かつてはもっとスケールの大きかったシカクスリバチは、お弁当箱の脇についた箸入れみたいな、細い一部分だけ残して埋められてしまったのだった…。さきほどの向ヶ岡との共通点の、なんと多いことか。  

軍の射撃場といえば、戸山も有名だ。戸山公園や早稲田大学理工学部のある一帯である。ここに陸軍射撃場が置かれたのは、江戸期の鉄砲隊が由来する(鉄砲百人組の大縄地を転用)という。あのあたりの場所に縁のある人は、思い浮かべてみてもスリバチらしさなど感じないのではないだろうか。しかし、戸山公園もまた、川の流れる緩やかな谷であった。

ここに流れていたのは、馬尿川もしくは秣(まぐさ)川。神田川の支流だ。水源については確実な文献は見当たらないが、大久保の韓国料理店街の脇から谷戸が始まる。下流に行けば少し前までは湧水があったというし、味わい深い擁壁の残る、人気のある暗渠だ。この、ノンビリとした名は、馬の餌である秣が流域に置かれていたからとかいう、本当にノンビリした理由でつけられたようだ。流域、というか射撃場と同じ場所に競馬場があった時代もある、馬に縁のある地のようだ。  

“戸山ヶ原”と言われていたこの地は、陸軍用地ではあったものの一般人も出入り自由だった。旗が上がると子どもたちが弾を拾いにいったりしたというし、「トンボ釣り」「カブトムシ捕り」というなんとも長閑な遊びにここで興じていたともいう。青山然り、陸軍用地にはこのように子どもが戯れるエピソードがよくついてくる。

明治期、戸山には「三角山」という実弾の着弾地があったが、弾が山を越えて中野やら落合まで行ってしまい、住民が危険にさらされたというので、昭和3年に蒲鉾型の7本×300mの鉄筋コンクリート製の射撃場になった。

Sikaku7          東京時層地図よりキャプチャ。左は昭和戦前期、右は現代の段彩陰影図。
            

いずれのスリバチも、陰影図ではある程度シカク感がわかるが、実際に訪れるとそれほどはっきりとはわからない。もっと、いまもしっかりと見られるシカクスリバチは、存在しないのか?

…最もはっきりしているものは、大田区にある。

Sikaku8            東京時層地図よりキャプチャ。大森駅西側の段彩陰影図。

くっきりと存在するシカク。そこから延びる谷は複雑な地形をかたちづくっている。

 この谷にかつてあった川は、池尻堀という。いくつもの水源が存在していたようで、流末は六郷用水に注ぐものだ。池尻堀の谷はダイナミックに入り組んでいるばかりか、美しいフラクタル状になっていて、陰影図を見ているとどうにもうっとりしてしまう。暗渠者に人気が高いのもうなずける。  

Sikaku9          東京時層地図よりキャプチャ。1つ前の陰影図と同じ場所の、昭和戦前期。

ここ大森のシカクスリバチもまた射撃用のものであり、前出の向ヶ岡の射的会社が明治22年に移転してきたものだった。
ところが何を思ったか、隣にテニスコートが建設される。テニスクラブのwebには「西洋列強の文化の中で育まれたスポーツマンシップも会得しよう」という理由だったと書いてある。そしてなぜだか、慶應義塾大学庭球部の要請によりテニスコートを増やし、慶大庭球部と一般のテニスクラブが一緒になって「大森庭球倶楽部」が開設された、というのだ…大正12年のことだ。

Sikaku10          入新井町誌より。射撃場とテニスコートが隣り合わせ、というクールさ加減  

いまもテニスコートは健在で、大森駅の東口から一山越えると、大森テニスクラブが現われる。

Sikaku11

ここが谷頭だ。テニスクラブ入口から下を眺めると、そこにはすばらしいナガシカクが拡がっている。

Sikaku12

射撃場跡の石碑もある。陸軍の射撃場は広いものであったが、警視庁系はコンパクトであり、今もシカクさ加減がよく味わえる。ちなみに、深大寺にも射撃場跡があるが、こちらはもっともっと深く、今もしっかりとした谷である(今度は深すぎて写真におさまらない)。さぞ上等な、天然の防御壁となっていただろう。

そういえば、色町も、よく目にするシカクのひとつ。中沢(2005)いうところの「湿った面」である色町は、スリバチ等級でいうと低くなるかもしれないが、その多くは低湿地につくられている。そして、とくに吉原や洲崎などの遊郭は、きれいな長方形をしている。吉原に関しては、低湿地のなかに、ぽっかりと浮いた島のようにつくられている…。

Sikaku13          東京時層地図よりキャプチャ。左はバブル期、右は現在の段彩陰影図

銃と、性。これらは、人の生と死というつながりをもつものだ。生と死とは、目を背けることができないものだ。綺麗な上澄みではない、どろどろとした情緒がうずまくものだ。そういったものが、谷底という低地に溜まっているということは、なんら不思議ではないのかもしれない。

「谷に集まるのはムーミンだけではない」。このようなある特殊なヒトやモノ、そしてさまざまな生き死にのものがたりが、スリバチの底には横たわっている。  

                        ***

なぜ、この記事をボツにしたのかというと。
原稿をある程度書き進めた段階で、マトグロッソの一連のスリバチ記事を最初から通して読み直してみた。なんとなく、このネタが書かれていないわけはないよな、と少しざわつくような心持ちでいたからだ。
案の定、エピソード6には射撃場の話が・・・。ちゃんと読もうよ、自分。・・・いや、記憶が蘇ってきたら、たしかにそれをちゃんと読んでいたし、御殿山の箇所に反応して「わたしは軍事萌えもあるから、暗渠者だけどここも萌えるよ!」などと、ぶつぶつ言ったことも思い出した・・・ちゃんと覚えてようよ、自分。 
わくわくしながらスタートした本記事は、残念ながらお蔵入り。でも、お蔵入りはもったいないので、特に新しい視点もないけれど、ブログには載せておこう、と思うに至ったのである。

                        ***

オマケ。 
陸軍用地は戦後それぞれ、かたちを変えて歴史をつないでいる。では、向ヶ岡から大森に移った民間の射的会社は、その後どうなったのであろうか。横浜のほうに移ったという情報があるものの、文献上詳細は分からなかった。横浜の古地図を見てみると、大正期に全国射撃大会が行われたという場所が馬場にある。当時このあたりは人家も少なく、深い谷戸がある射撃の適地であったという。その深い谷戸は、入江川の流域にあった。

Sikaku14            横浜時層地図(昭和戦前期)よりキャプチャ。東寺尾~馬場のあたり

Sikaku15

台形のような、シカクのような。実際に現地に行ってみると、そこにはコンパクトな、しかしインパクトのある台形を住宅が埋めつくしていた。みごとな「ガケンチク」に、横浜らしさを感じる。

地図の年代を遡って見ていくと、近隣の別の場所に射撃場が現れる。地元の資料を見ると、もとはもっと東にあった射撃場が、上記の地に移転してきて、昭和15年まで存続したということである。
その、移転前の場所とは、明治のある時期までは成願寺という3ツ池のある寺の敷地だった。その池の向こうに射撃場があり、一年中銃声が聞こえてきた、という記録が残っている。

Sikaku16                 横浜時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ

こちらはより広い。ナガシカク、というよりは、もう少し滑らかなかたちかもしれない。ほとんど地形を弄らなかった、ということかもしれない。
池を囲むように別荘が建ち、製氷池で氷の作られるしずかな(たぶん、銃声以外は)場所だったという。ここに、明治36年に、總持寺移転が決定する。

Sikaku17

                 横浜時層地図(戦後転換期)よりキャプチャ

大きなお寺は、なんとなくむかしからそこにあったような気がしてしまう。しかし、もと射撃場であった寺、というのも存在するわけだ。
今はこのような風景だ。

  Sikaku18

總持寺。いまの大駐車場のあたりに、明治21年からしばらくのあいだ、射撃場があった。射撃場が移転し、その場所は龍王池という池となったが、それも埋立てられ、いまはこのように駐車場になっている。 

Sikaku19

・・・じつは、この場所はわたしが最初にスリバチ学会のフィールドワーク(下末吉の回)にお邪魔したときに、最初に立ち寄って、集合写真を撮った場所なのだった。
なんという一致。スリバチ学会からいただいた原稿のお話、最初に思いついていそいそと書きはじめたストーリーは、まわりまわって、最後にまたスリバチ学会にもどってきたのであった・・・これもまた、スリバチがつなぐ縁なのかもしれない。

Sikaku20

年末に行った総持寺には、屋台の準備がなされていた。射的場跡地に、現代の射的屋がある風景・・・おあとがよろしいようで。

<参考文献>
「入新井町誌」
斉藤美枝「鶴見總持寺物語」
「新宿区町名誌」
「新宿区立戸塚第三小学校周辺の歴史」
中沢新一「アースダイバー」
中嶋昭「鶴見ところどころ」
原祐一「向ヶ岡弥生町の研究―向ヶ岡弥生町の歴史と東京大学浅野地区の発掘調査の結果― 徳川斉昭と水戸藩駒込邸」東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9
港区教育委員会「増補港区近代沿革図集 赤坂・青山」
港区三田図書館「明治の港区」
「わがまち大久保」

<関連記事(本ブログ内)>
夜の馬尿川
三四郎池支流(仮)の流れる先は
ゲゲゲの湧水(前編)
洲パラダイス崎

<関連記事(他サイト)>
大森テニスクラブ
あるく渋谷川入門 笄川東側
暗渠ハンター 山王崖下の池尻堀?
etc...

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 続・鎌ヶ谷編

千葉は鎌ヶ谷編のつづき。前回は、船橋市の飛び地から延びる支流をからめ、鎌ヶ谷と船橋の市境を見ながら二和川という川を遡ってきました。
今回は、おなじ二和川を逆向きにして、上流から攻めてみることにします。

思いっきり位置が変わって・・・降りる駅は、滝不動。これまた今まで掠ったことのない、聞いたこともない駅でした。

駅からすぐ近くに牧場があります。このへんにはポツポツと牧場があり、何か売っているところもあればいないところもあり。佐久間牧場には、アイスクリーム工房が併設されているというので足を延ばしてみました。

Kmgy60

牧場のソフトクリームー。
屋外には個性あふれる椅子が並べられていて、牛舎や鳥小屋を眺めながらペロペロできます。畑がひろがる先に浅い窪みのようなものが見えますが、これは今日は辿らない流域のものなので、見つめるだけ。

ほかに、ジェラート(ミルク味とイチゴ味)、牛乳も試しました。朝っぱらからこういう食べ方をするってのは、さんぽ直前はよくないですねw 店のない地帯を歩くので、本当はお腹を壊しちゃいけないんですが・・・。お腹に一抹の不安を抱えながら、さんぽ、しゅっぱーつ。

のどかなのどかな、いなかみち。開渠で描かれた二和川の、尽きる位置に行きます。

上流部は前回のような市境ではなく、

Hutawajouryuu_2


ばっちり船橋市にあります。yahooさんありがとうございます。

赤丸のあたりに行ってみると・・・、

Kmgy62

開渠の二和川が尽きる箇所のさきには、コンクリ蓋暗渠がありました!
さてこれが何処まで延びてゆくのか・・・

Kmgy63

植木鉢蓋が民家の脇に並びます。

すると、

Kmgy64

別れは唐突に。

ここでボツッ!と途切れてしまうのでした。え??え???
まったくの平らな土地、窪みもない、公園もない、神社もない。つまり水源サインがない。

え????となりながら、周囲を探しましたが、この延長線上に畑が広がっていて、そこが微妙に低いかなというくらいでした。

・・・湧水池から出る流れではなかったのかもしれません。

Kmgy65

で、さきほどのコンクリ蓋暗渠は、三咲本通り商店街の反対側からいきなり開渠となります。

覗いてみたら、あまりきれいではない水がそれなりに流れていました。あんな、ボツッ!と始まる水路で、水が流れているなんて考え難い。。雨水にしては晴れているし、常に一定量流れ続けているように見えるけれど。

頭の中にたくさんの疑問符をのこしながら、二和川を下り始めます。

Kmgy66

いったい、この水はどこからきたんだろう・・・

近づいてみます。

Kmgy67

きちゃない・・・

Kmgy68

それにくらべて、両岸の景色は実にサワヤカ。

Kmgy69

畑の真ん中を流れていくときもあります。

丁寧に整えられた畝の、すがすがしい真っ直ぐさ。

Kmgy70

畑、車道、農道、住宅地、そして鉄塔と、のどかなところを歩き続けます。

ふと道端にこんなものが。

・・・烏山川のテルコを思い出しました。思い出しますよねそりゃ。改めてテル子のことを検索してみると、あの後ネット上ではテル子の謎を解いた方などもいらっしゃるようで、本人に会ったという記事まであります。というより開渠時代の烏山川の話が聞けているのがうらやまー。

一方、この船橋の女神はなんなのか・・・。また謎のまま放っておき、先に進むとしますw

Kmgy71

のどかでいいんだけれど、やや単調な風景。
それも船橋市域で終了します。もうすぐ、鎌ヶ谷市との境目がやってくるのです。

船橋部分の最後を、振り返ってみるとこういう感じ。
ほんわか~。

Kmgy72

で、そのさき、ここに市境があります(冒頭の地図の、左側にも載っています)。

そこには鎌ヶ谷市の水路の立札が建っていて、以下は鎌ヶ谷市域の二和川。その風景とは・・・、

Kmgy74

おうふ!
船橋市域の最後の風景と全然違います!!すぐ隣なのに!

ハシゴ式開渠じゃなくなったし、めっちゃ住宅の隙間になってるし、なにより、排水管がめっちゃ突き出ている。つーか、いきなり汚い・・・。

しばらく鎌ヶ谷市を歩きます。

Kmgy75

排水管、こんなふうに詰まってるのもあるけど、

Kmgy76

基本的にはほとんど現役のようです。

ほら、すぐそこで汚水がアブクを立てて流れ込んでいる・・・

実は、鎌ヶ谷市域での二和川が汚いことは、前回の遡上のときに既に感じていました。家庭から排水が流れ込んでいる様子も、上流に来るにつれて頻繁に見られていました。
だから、さっきの市境で「鎌ヶ谷市部、汚い気がする」のは、実は嗚呼やっぱりな、という反応でもあったのです。

・・・鎌ヶ谷市における水路と排水の話を少し、はさみましょう。

鎌ヶ谷市内4水系のうち、この二和川属する「真間川水系」は住宅が多いのに下水道の未整備なエリアもあるようで、BOD(生物化学的酸素要求量)が比較的高い・・・というか、市内で最も水質が悪い、といわれています。
水路への生活排水の流入割合はこの15年ほどの間に約半減はしたものの、いまだ3割ほどは流れ込んでいる状況のようです。そうか、生活排水、まだ結構流入しているのですね・・・

後日追記:ここらへんの排水の流入状況は、ドブ川雑記帳(大石俊六さん)のこの記事の下部にある図が近いと思います。

奇しくもlotus62氏が水質調査みたいなことを始めているので、それに乗っかってみようとしたら・・・あらら、指標が違うので比べられない・・・lotus氏が挙げているのは亜硝酸、COD、アンモニウム、リン酸、でしたが、こちら鎌ヶ谷市の報告書にあるのは、BOD、SS(浮遊物質量)、DO(溶存酸素量)、大腸菌指数、などでした。しかも、二和川より下流である大柏川のデータしかなく。大柏川では、BODが基準を上回っていたのが、平成21年にやっと下回ったということです。二和川にはもっと濃縮された汚水が流れている印象なので、おそらくもっと汚れている数値となっていることでしょう。

昭和57年に出された鎌ヶ谷市史においては、水路が「悪臭漂う悪用水路と化している」ことが述べられています。昭和55年時点での鎌ヶ谷市の下水道普及率は0パーセント、千葉県内でも遅れていることも言及されていました。整備と浄化は課題である、と・・・
平成23年に出された資料でも、「未だに家庭排水等の多くが河川、水路へ流入し、水質汚濁や悪臭等の発生を招いている」とあります。今もなお、二和川の浄化は大きな課題として残り続けているといえます。

未来に向けて、さまざまな水質改善のプランがあるようで・・・10年後に二和川をまた歩いたとき、キレイになっていたりしたら、良いなあ。

そんなわけで、歩いているときは、”生活排水が開渠に流れ込むさま”を何度も見ながら、信じられないと珍しいとが入り混じるような気持ちになったり、むかしの東京都内の河川のことを思ったり、していました。

さて、二和川下りに戻りますか。

Kmgy77

しばらくゆくと、水路工事中の看板があり、

Kmgy78

レア感のある”臨時暗渠”も見ることができました。

Kmgy781

もう少し下流では、コンクリ蓋が再登場して歩けたり、
調整池があったり、

Kmgy79

住宅街の中を開渠と暗渠が交互にカクカクしながら下って行ったり、

Kmgy80

住宅の中でもところどころ畑が残っていて、またのどかな気持ちになったりしました。

・・・たえず排水が流れ込んでいて、汚さはあるのですが。

Kmgy81

ふしぎな場所もありました。
なぜ、こんなに集合させるのか。木下街道のすぐ脇で、大きな車道の隣に突如出現する違和感、石の古さと真新しいコンクリートの不釣り合い、このかたちの違和感、なんだかすごく気になりました。
そしてすぐ後ろを、クランク状に二和川が流れていました。

千葉に来るようになって、こんな風に”集合”させるものにしばしば出逢います。松戸でも2つほど、似たようなものを見ました。

・・・この謎も解けぬまま、今回最大の目的地の話にうつります。
それは、

Kmgy83

この、ばかでかい橋脚のこと。

陸軍の鉄道第二連隊が残した、鎌ヶ谷最大の遺構。どん、どん、どん、どんと計4つ。

少しばかりむかし、ここには、陸軍の演習線が走っていたのでした。
津田沼~松戸を結ぶ、演習線路松戸線。そう、
津田沼記事で書いた鉄道第二連隊の基地からはじまり、そして、松戸記事で書いた、相模台に達する路線です。
約34km、1926年から5年ほどかけて敷設されたこの路線には、軽便機関車が走ったようです。敷設、といいましたが、ここは演習線、車両を脱線させては戻す、撤去してまたつくる、といった訓練が繰り返し行われていました。

最初は、木製の橋が架けられました。”鎌ヶ谷架橋作業”という古い絵葉書が何枚も残っていて、この場所が演習線の中でも見ごたえのある場所だったことをうかがわせます。
橋についても撤収、架け替えが何度も繰り返されたので、橋梁の構造は必ずしも一定ではなかった、といいます。今残るコンクリの橋脚は、昭和16年につくられたもの。

Kmgy84

公園の中に佇むそれは、なにしろ威風堂々。

子どもがボール遊びをしに来ていました。
サッカーボールを蹴る幼女とおばあちゃん、野球の捕球練習をする二人組の男の子。テニスラケットを持った女の子たちも待っていて・・・、そうか、あの橋脚のあらゆる側面についていた丸い跡はボールの跡で、それは地元の子どもたちとこの軍事遺構が調和している証なんだろうな。

昭和44年頃、これを邪魔だと思った行政が撤去を試みたけれど、あまりに強固なつくりだったため断念した、という話が残っています。そのおかげで、子どもたちがボール遊びをしに来られるという・・・
ぼうっと子どもたちを眺めながら、ベンチに座ってお弁当を食べました。

軍と住民との交流は、当時もあったのだそうです。
演習線上にはところどころに駅舎があり、鎌ヶ谷にもあって、訓練日と演習日以外は住民にも開放していたそうです。レールを走っていたトロッコ車両は、軍が使わないときには付近の農家も使用できたから、サツマイモなどを乗せて押して運んでいったということです。
・・・そこに描かれてはいませんが、他の地でのエピソードによくみられるように、きっと、子どもたちもトロッコで遊んでいたのではないでしょうか。いまもむかしも、子どもたちがここで遊ぶ・・・

Kmgy85

橋が架けられた、ということは、ここは谷であったわけです。しかも、今回のメイン、二和川の谷です。暗渠好きにはありがたいことに、この公園内を二和川は”暗渠で”流れていました。

写真に見える、道のようなものがコンクリ蓋暗渠です。その下を、二和川のやや汚れた水が、滔々と流れているというわけ。暗渠と軍跡のコラボレーション!

ただし、むかしは少し違う流れ方だったようです。

鉄道第二連隊に在籍していた方の語りに、次のようなものがあります。
「最初は下は川かと思いましたが、水は流れていなかったです。確か窪地でした。そういう地層のところへ、訓練を兼ねて橋を架けたんじゃないかと思います。木橋でしたね。」

水の流れは見えなかった・・・つまり、ここは以前は川というよりは湿地だったのではないでしょうか。目をつむって想像します。湿地に木の橋、キビキビと働く兵士たち・・・

Kmgy86

公園のすぐ下流も暗渠になっていて、住宅街への近道なのか、途切れることなく人が通っていました。人気暗渠だねぇ。

Kmgy88

傍らには、こんなすてきな原っぱもありました。

春のあたたかな時期だったので、数十分間、横になってごろごろしていました。草を摘むひと、遊ぶ少女たち、「ごはんだよー」と呼びに来るお母さん。

Kmgy89

その先、再度開渠となり、あとは、前回の記事の位置につながります。
馬込十字路を過ぎたあたりから、急に「鎌ヶ谷市」は狭くなって、船橋市をぎりぎりのところで遠ざけながら、二和川は下ってゆくのでした。

                         ***

ところで、

Kamagayamapkanasugi

ここが一体どうなっているのか、も、気になって仕方がありません。

このカブトムシの足みたいな場所の、足の付け根はこうなってました。

Kmgy892

二和川に注ぐ支流暗渠。
開渠のドブだった時代がそう遠くはないような風貌です。

Kmgy90

カブトムシの足をつま先方向に追ってみると、市境は道になっていてこんな感じ。

断定はできないものの、左側が川跡のように見えます。この位置かどうかはわからないとしても、川はあったんじゃないかと思える、ゆるい谷状の道でした。

Kmgy91

その、谷がどこまで続くかが関心事なわけですが・・・、ここがおそらくは上流端でした。
窪地にサッカー用のグラウンドがあり、その隣の敷地もなんだか余っています。つまり、湿地や沼でもあったような雰囲気です。そしてそれより先は、家の敷地だったので入れなかったけれど、グラウンド=沼が始まり、と思うとしっくりくるのでした。

Kamagayatikeikanasugi
陰影図で見ると、こうです。google earthさんありがとうございます。

赤丸のあたりがグラウンド。右に谷が続くようには見えますが・・・歩くことはできなかったし、ひとまず、二和川支流の始点は赤丸のあたり、としたいと思います。
カブトムシの足の先っちょと第一関節の上がどうなっているかというと、関節の上はどうも調整池もしくは池があるようです。どちらもくっきりとした谷になっていて、金杉川、という別な川の水源にあたる模様。

金杉川は海老川の支流であり、それはまたいつか、船橋を歩くときに触れることになるかもしれません。でも、どうもこのカブトムシ足の部分は河川争奪っぽくも見えるし、、また謎が残ってしまいました。

ま、いくつか残しちゃったものもあるけれど、とりあえず、ゴハン。

Kmgy92

馬込沢駅前にて。
ぎょうざが食べたいな、と思いました。
ぎょうざんぽう・・・、自慢の餃子がありそうな雰囲気です。

しかし、入ってみると居酒屋の和食系メニューのみで、餃子が無い。
おそるおそる聞いてみると、うちは餃子屋ではない、とのことで・・・ぎょうざんぽうは閉店し、居抜きで別店になったようです。よく見れば、入り口のドアに別なお店の名が書いてあります。いやーでも、ぎょうざんぽうの看板は上にも横にも掲げてあって、どう見てもそっちが勝ってるww

で、そこからが鎌ヶ谷のいいところ。
店主とその奥さまらしき方がガチで接客してくださるんですが、我々の餃子欲を感じ取ってくださって、本来メニューには無い、餃子を出してくださったんです・・・!

なんでも、おふたりが自分たちで食べようと思って、お取り寄せしていたおいしい中華屋さんの餃子だとか。しかも残り一食ぶんだとか・・・

Kmgy93

うわーん、ありがたすぎる(涙)!!
しかもこの餃子、すごくおいしかったー!ある意味、幻の餃子。おじさま、おばさま、本当にありがとうございました。

餃子パクパク、ビールぐびー。このお店の方もそうだけど、ニコニコ湯の方、前回の飲み屋さんの方、それから書かなかったけれど、暗渠沿いで出逢った何人かの方・・・鎌ヶ谷の旅は、ずいぶんとそこで会った”人”の印象が強い気がします。

                         ***

おまけ。

鎌ヶ谷の橋脚跡、行くのに最適な季節は、

Kmgy94

なんといっても桜の季節です。

谷へと降りていくときに見える桜。

Kmgy95

橋脚の隙間を埋めるように咲く桜。

Kmgy96

そして、暗渠と橋脚と桜。手前の道のようなものがコンクリ蓋暗渠です。

おまけ2。
鎌ヶ谷大仏駅に帰ろうとした日、公園から北西に歩いてみました。

Kmgy97

すると、道端に陸軍境界石が出現します。

Kmgy98

もうちょっと進むとよれよれっとした2本目が登場。
この日は3本見つけました。

そして、鎌ヶ谷大仏駅にいくまっすぐな道”グリーン通り”を歩いていくと、

Kmgy99

なんだかすごく気になるスペースが出現するのです。

両側を道に挟まれた、細~いスペース。上水の暗渠にときどきこういうものがあったり、あるいは、どちらかの道が暗渠だったりします。なんだろう、堀でもあったのかな?いや、それはないよね・・・

Kmgy100

その狭いスペースは残り続け、花壇になりました。
違和感のあるものはまず水路にからめてしまう自分ですが、後から調べてみると、このスペースこそが演習線の線路跡なのでした。さきほどの公園~陸軍境界石~このグリーン通りへと、続いていたのです。

橋脚の話のときに触れたこの演習線路松戸線は、現在の新京成電鉄の母体となっています。しかし、何か所か回り道をカットされたところがあって、鎌ヶ谷周辺はまさに悲しきカット部分、あるいは楽しき廃線跡部分なのでした。

Kmgy101

グリーン通り沿いにある、湯乃市というスーパー銭湯に寄って、ひとっぷろ。チバのスーパー銭湯、だいたい6~700円で入れてしまうので、寄り癖がついてしまいました。

もちろん上がったらルービーでプハー。

さてさて、さいごに、今回の行程。

Kmgymaplast

二和川のほか、演習線の位置も示します。
実は、市境カオス地帯のあの川が、有名な橋脚を遺すこの川とイコールだということ、今回まで知りませんでした。二和川のポテンシャル・・・!
幾重にも見どころを持つ、二和川とその周辺。川筋をたどる旅、市境沿いに進む旅、廃線跡に切り替えて両方味わう旅・・・いろんな”謎解きさんぽ”ができる地だと思います。

<参考文献>
イカロスMOOK「実録 鉄道連隊」
「鎌ヶ谷市史 上巻」
「鎌ヶ谷市史 資料集17 近・現代 聞き書き」
「鎌ヶ谷市生活排水対策推進計画 鎌ヶ谷市一般廃棄物(生活排水)処理基本計画(平成23年度)」
「戦争の記録と記憶 in 鎌ヶ谷」
高木宏之「写真に見る鉄道連隊」

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 松戸編

松戸ってどんな街?

・・・じつは、よく知らないんです。
わたしにとっては、親戚宅に行くときの乗換駅なだけでした(しかもちょっとの期間だけ)。降りたことはないものだから、町並みも地形も、なんにも、知らない。

今回は暗渠と軍跡をたどるため、その松戸に降り立ってみました。

Matudotikei1_2

こんな地形みたいです(google earthさんありがとうございます)。 だ、大胆だな~!

まずは、川のある方向へ。駅から西へ行けば、川、川、川です。

江戸川と、

Matudo1

坂川(これが一番駅から近い)と、

Matudo3

樋古根川。

この、川たちに挟まれたエリアに、かつて色町があったといわれます。

平潟遊郭。

川との縁抜きには、語れない場所。
平潟遊郭は、上述の坂川と樋小根川の間に在りました。

Yukakumap

この位置です(googleさんありがとうございます)。

平潟は、川の”砂州でできた自然堤防の上”にあると描写されます。形は細長いですが、吉原と同じように、町とは切り離された場所。

樋古根川に寄り沿うように、遊郭が在る。この樋古根川を当時地元の人は排水川(排水堀)と呼んでいて、それは江戸川の旧流路でもあり、幅10m足らずの小さな川だった、といいます。たぶん、幅は今も同じくらいでしょう。

・・・では、この地にどのようにして遊郭ができたのか。

ときを遡って、江戸のころ。
近くには、松戸宿。ここ平潟は本河岸といわれ、多くの船が出入りしていました。

男が乗るその船らに、小舟で漕ぎ寄せ、洗濯、掃除などをし、一夜を共にし、朝食の支度をして去る、という女性たちがいたとか。その商売が陸に上がり、1626年、松戸宿平潟河岸には1軒につき2人の”飯盛女”を置くことが許可されることとなりました。不法に女性を増やしては手入れがあったり、周辺の農民が仕事を怠るとか、風紀が乱れるといった批判に遭いながらも、なんだかんだと儲けの多い商売、明治には遊郭になりました。
関東大震災が、ここが栄える契機になったということです。最盛期には100名以上の娼妓を擁し、建物は・・・内藤新宿からやって来た資産家内田氏が建てたのが「三井家(改称前は九十九楼)」。大正12年頃に、吉原に負けないという意気込みで建てられたものです。凝ったつくりで、ガラスにも味があり、店の名の入った煉瓦、窓枠やタイルもすばらしく、銘木をふんだんに使用した豪華絢爛の一軒だったそうです。
「福田家」と「百年」は洋風でカラフルなステンドグラスをちりばめ、緑のペンキで塗られていたそう。廓によって客層が若干違ったようでもありますが、どの廓も枯山水の中庭を持ち、川に面した眺めの良い部屋は、少し広めだったそうです。
また楼主の住処と店は橋でつながっていて、”現実を離れて夢の世界に導く仕掛け”なのだそう。2階の”本部屋”もひとつひとつ反り橋から入るつくり。

戦後、それらは売春宿、ダンスホール、旅館などに変わりました。建物はつぎつぎとなくなってゆき、ついに平成6年、最後に残る三井家も壊されてしまいました。それから廓だったところは学生寮、日大歯学部へと、どんどん時が流れ、どんどん変わってきています。

平成も25年のいま、遊廓の名残は、はたしてまだあるのでしょうか・・・?
坂川から平潟へと歩いて行ってみます。

Matudo4_2

少し離れた橋を渡ったところに、道標がありました。
当時のもののようです。”左 平潟遊郭”と。

左に歩いてゆくと、たしかに平潟遊郭跡に着きます。東端から入ってゆきましょう。

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赤丸が東の大門のあたりです。
大門は、頂上に外灯を乗せた角柱で、三種の石粉を外側にまぶしてあったといいます。大門を幻視しつつ・・・。

右側の白丸は、現在なににもなっていない空き地ですが、少し低くなっています。ここは、ちょうどこの形のまま、当時は田んぼでした。そして田んぼの隣は湿地で葦が生え、田んぼとの間には溝があった、と・・・吉原と同じ!

大門から入り、遊郭のメインストリートを行ったり来たりします。
すると、

Matudo8

古い外灯がありました。

Matudo9

おお、平潟、と書かれた住所表示もありました(現在は松戸市松戸という味気ない住所です)。

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ここは、当時「高村タクシー」があった場所。

いまは住宅ばかりのメインストリートですが、表札を見ていると、平潟時代の駄菓子屋さん、洋食屋さんなどと同じ苗字の方が、同じ位置に住まわれています。

Matudo11

この新しめのホテルの名前は「せんだんや」といいます。
この位置には、遊郭時代は「せんだん屋」という木賃宿があったそう(近藤勇も泊まったとか)。

この裏手には釣り好きの福田家が経営する釣り堀もあったとか。

Matudo13

平潟神社には、水神さまが祀られていました。
そして・・・九十九楼(三井家)の名が刻まれています。

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来迎寺の前。
明治の頃、お寺の鐘は時を知らせるものでしたが、客に少しでも長く遊ばせようという魂胆により、夜の鐘が数十分も遅れるので、町の人が困ることもあったとか。
来迎寺には娼妓の墓もあるそうです。お寺の前の色んなものが埋め込まれたこの塚には目を奪われます。右にあるものは庚申塚でした。

建物そのものはないものの、一見たんなる住宅街のそこここに、遊郭のカケラは残っていました。

                         ***

川の話に戻ります。

松戸のひとが「川」(あるいは「おおかわ」)というときは、それは江戸川のことなのだそうです。
鮒の雀焼き、鯰の天ぷらに蒲焼きにお味噌汁。江戸川の魚はおいしい、と松戸の本には書いてあります。川の恵み豊かな、穏やかな土地なのか、というと・・・とんでもない、そこには水との長い闘いの歴史がありました。

江戸川のすぐ東を、下総台地の湧水を集めて流れるのが坂川です。この坂川、流山おおたかの森あたりにあった牛飼い池を源とし江戸川に注ぐのですが、水が増えると逆流しがちだったといい、松戸市史にも「坂川は普段は北流する逆川」とあります。

その江戸川は1783年の浅間山の大噴火により、泥が流れ込み川底が高くなってしまいます。坂川の水が、ますます江戸川に流れにくくなります。この排水の悪さは田畑への被害になるため、何度も幕府に願い出(それも容易ではないこと)、坂川の河口は次第に南側へと掘られていきました。

1815年に松戸の赤圦まで。1836年に栗山の南まで。しかし落差の少ない坂川、そこまで延長しても、水害はなくなりません。ここらの川べりの土地は、とくに農家にとっては長らく苦難の地であったといえます。

Matudo16

先ほどの、平潟遊郭を離れて坂川を下ってゆくと、その”赤圦”があります。
あれ、なんだか2股になっているみたい。

Matudo17

2流に挟まれた岬のようなところの上にも、住宅がありました。

ここらへんの水は随分と停滞しています。

Matudo18

たしかに、淀んでいます。

Matudo19

赤圦樋門からゆったりと江戸川に流れていっていました。

ところで、さきほどの水害が絶えなかった松戸の歴史は、ひとつの建造物でがらりと変わります。

1909(明治42)年、樋野口に排水機場ができ、それは大煙突とゴーゴーという蒸気機関の音がシンボルの、当時「東洋一の力がある」といわれた迫力モノで。その蒸気機関が昼夜問わず頼もしく排水をしてくれるようになったことで、やっと水害がなくなったのだそうです。

その後松戸では良質の米・もち米が採れるようになり、それで白玉粉をつくったら評判となり。つまり松戸は白玉粉の誕生の地かつ名産地であるそうなのです。なんと、現在も白玉粉生産日本一の玉三。知らなかった・・・

Matudo22

わたしたちがいま、おいしい白玉だんごを食べられるのは、この樋野口排水機場のおかげ。
って、ここ、実はさきほどの平潟遊郭の裏側、樋古根川の出口なのでした。

さて、赤圦の手前で分岐していた坂川。もう一本の方を追ってみます。
すると、松戸の市街地の方に近づいてきました。春雨橋を渡ると・・・、

Matudo20

あれ、このあたり、川底が見えるくらい綺麗になってる!
いつのまにか「ぼくのゆめ」叶ってるじゃん!

と吃驚すると同時に、

思ってたのと反対方向に流れている・・・!!

江戸川はこの坂川のちょいと向こう側で、正反対の向きに流れているはず・・・。

Matudo21

混乱していると、横には明らかな暗渠が。
松先稲荷神社の参道に橋が渡してあって、これは数十年前には流れていたような雰囲気ですね。

ご近所の方が休憩中だったので、この暗渠が昔小川だったのではないかということと、坂川の流れは反対向きではないかということを尋ねてみました。
すると、ここに水が流れていた覚えはないということ(嫁がれてきたらしい)、そして坂川については「なんで反対向きか、教えてあげようか」と言われたのですが、「江戸川から持ってきてるからなんだよ」という腑に落ちないお答え・・・。「え、矢切(やぎり)のほうからずっとですか?(ひええ、思っていたのと完全に反対向きだ!)」と聞くと、「あら、あなたここらへんの人じゃないでしょう。ここではね、やきり、って言うのよ。」という話に移行して終了。
相手をしてくださりありがとうございました・・・しかし、悶々が残った・・・

後日調べてみると、この松先稲荷脇は、数十年前までは水が滔々と流れていたそうです。
それから、ここの部分の坂川は、以前は反対向き(江戸川と同じ向き)の水が倍量で流れていたそうです。ただし、とても汚かったと。

あまりに汚れた坂川を、きれいにする取り組みが1994年に始まり、もう少し南にある小山揚水機場からややきれいな水を流し、この位置は北流させることとしたのだそうです。

Sakagawamap

つまり、こういうこと。
さきほど分岐点と思っていたところは、分岐ではなく合流点で、だからとても停滞していたわけです。

                         ***

さて、低地ばかり歩いてきましたが、松戸の魅力は駅近辺の激しい高低差にあり。
いちど、丘の上に上がってみましょう。

冒頭の地形図には、低地に対して舌状に突き出した、いかにも城向きの土地があったと思います。ここは相模台といい、かつて陸軍が陣取っていました。大正8年、日本で唯一の陸軍工兵学校がこの松戸に出来たのです。

Matudo25

坂道を上ります。
訓練の帰り道にほっとするのもつかのま、教官が「学校まで駆け足!」と怒鳴るから、地獄坂、というとかなんとか。

Matudo26

地獄坂の途中に、境界石が残っていました。

Matudo27

坂を上りきると、工兵学校の門が残っています。

Matudo28

歩哨舎までも。

門を入ると、公園がひろがります。舌状台地の上。

・・・実はここ、陸軍の前は、競馬場があったのでした。軍馬改良等の目的で競馬が奨励されたとき、もともとは日本鉄道株式会社が”岩倉具視を祀る神社”を建てる予定にしていたこの土地を、譲り受けて馬場としました。明治39年頃のこと。
八百長などがあって開催しない年もあったそうですが、ここに競馬が定着しなかった主な理由は、もともととてもトラックの状態が悪かったためです。

Matudotikei2

なにしろこのカタチ(赤丸あたり)。
既定の走行距離にするためには楕円形にすることができず、無理やりイビツな形につくられたトラック。南側に突き出た第二コーナーは”天狗のハナ”と呼ばれ、ここで落馬事故が相次いだとのことです。地形上改善が不可能であるため、競馬場は中山へうつることになりました。
ここで、中山編の競馬場の歴史とつながってゆくのです。

そして競馬場は陸軍工兵学校となりました。習志野の鉄道第二連隊の軍用鉄道の終着点もココです。
工兵学校の、江戸川での架橋演習は有名で、川の上で、煙幕の下に鉄船が並べられ、その上に頑丈な板を敷き戦車や車を渡す・・・松戸の住民はよく見学していたそうです。
工兵学生は学校を卒業すると、工兵としてもとの部隊へ戻っていったということです。

いま、相模台の上には、さきほどの公園のほか、小・中学校、聖徳大学、裁判所、拘置所などがあります。それから、解体を待つ廃団地のすがたもありました。団地の前には”駅前駐輪場”・・・そう、この小高い丘は目の前がすぐ駅なのです。

相模台を降りてみます。

Matudo29

急峻な階段沿いに、2つの境界石が残っていました。

Matudo30

下ってゆくと、最も低いところに放置された感じの茂みがあります。ここは、たぶん軍の給水井てはないかな。

ここを抜けるともう駅前です。松戸は、駅近ナンバーワン軍跡といえます。

                        ***

いよいよ、暗渠の話に移りましょう。
さきほどの、紆余曲折あった坂川に流れ込む1本の川。競馬場や工兵学校の台地の下を流れてくる川。

猫またぎさんが既に紹介されている、神田川です。

「神田川」と記すものが多いですが、資料によっては「向山下川」とも書かれているように思います。付近には以前は、ほかにも(さきほどの松先神社脇の小川も含め)3本の小川があったそうですが、現存は神田川のみ。

この部分の坂川は、前述のように排水のため人工で掘削されたもののはず。けれど昔の絵図にはここに水路が描かれたものもあって、もしかすると神田川の流路を利用して坂川を開削したのでは、と推測している人もいます。

もっと長い川だったかもしれない、神田川。現在の河口から遡ってゆきます。

Matudo32

松戸神社の脇をのぞきこむと、勢いよく水が流れていました。
今も残る湧水を集めて流れるこの川は、坂川の美化に一役買っているといえるでしょう。

Matudo33

まづは開渠。

Matudo34

すぐに、半分蓋をして、上が歩けるようにしてあります。

Matudo35

常磐線と交わるところで、シャーっ!と勢いが増しています。

Matudo36

ここでも神田川の名が。昭和47年に改修されたようですね。

Matudo37

線路を渡るとすぐに暗渠となり、

Matudo39

大正寺の敷地へと幅広暗渠のまま入っていきます。

Matudo41

寺から出てくると少しばかりの開渠、

Matudo42

そしてすぐに蓋をされ、コンクリ蓋の上にアスファルトまで塗られます。

Matudo43

脇からこんな支流も合流。

Matudo44

本流は自治会館の入り口として、人の出入り多めな場所にもなっています。

Matudo45

道路を渡ると、住宅街を貫く広い歩道の下に。
あとは暫く、延々とこの風景です。

Matudo46

ところどころ広い蓋が見え隠れ。

Matudo47

支流が数本、垂直に交わってくるので遡っていくと、

Matudo48

相模台の下から僅かに湧水がありました。
以前はもっとあちこちから出ていたのに、宅地化によってずいぶん希少になった湧水。

Matudo49

湧水のすぐ近くに、もう一本境界石を見つけました。

実はこの位置、松戸拘置所のすぐ下あたりで・・・。拘置所は、以前陸軍の弾薬庫だったそうです。いまははるか丘の上、建物も見えませんでしたが。

Matudo51

弾薬庫下からも、神田川の水は流る。

Matudo52

順調に本流・支流を追ってこられましたが、この交差点でいったん途切れます。
奥にあるのは水戸街道の盛土。

Matudo53

それをすぎると暗渠サインは皆無となり、奥の方に2つの谷戸があるようなのですが・・・。たぶんそのうち1つの谷頭がここ。

Matudo54

もうひとつの谷戸には、この暗渠があるのみ。猫またぎさん同様、上流端は見つからず。

あきらめて野菊野団地に移動し、その奥にある松戸同総合卸売市場へ向かいました。

さて、ゴハン。

Matudo56

市場の食堂、大好きです。
狙っていた「あざみや」に、閉店間際に飛び込み。

ハンバーグがやたらおいしかったです。
もう一度言います、このハンバーグ、やったらおいしかったです。負けたと思いました!

Matudo57

食後は松戸ラドン温泉kekkojinさんには松戸の情報を幾つもいただきました、ありがとうございます)か迷いましたが、移動の関係で湯楽(ゆら)の里というお風呂屋さんにしました。いやぁ、チバのスーパー銭湯は値段が手ごろだねぇ。ひとっぷろ&ビールで、旅を〆ます。

今回の、全行程・・・といいたいところですが、入りきらなかったので神田川の流路を。

Matudomap

 

松戸って、どんな街?

西へ行けば、川、川、川。
川の間に、色町。
複雑な坂川。
丘に上れば軍の跡。
そして、坂川に注ぐ神田川の開渠に暗渠。

松戸ってこんな街。
あっというまに、好きになりました。

<参考文献>
「川とひとびとのくらし 坂川と江戸川」
「これが坂川」
「坂川の昔と今」
千野原靖方「松戸風土記」
千葉県歴史教育者協議会編「千葉の戦争遺跡をあるく」
松下邦夫「たのしい松戸の歴史散歩」
「松戸市史 中巻 近世編」
「松戸を歩き誌す」
渡辺幸三郎「昭和の松戸誌」
渡辺幸三郎「平潟遊郭鎮魂曲」松戸史談 第34号

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軍事クッキング② 掩体壕オムライス

お久しぶりの軍事クッキングです。
前回は「高射砲跡焼き」でしたね。よい子のみんな、作ってみたかな~?

間が空きましたが今回は2回目。テーマは、「掩体壕」ですよ!
・・・掩体壕ってなぁに?というよい子のために、掩体壕のお話もしましょうね。

   --------まずは、掩体壕の説明をば-------

太平洋戦争末期。本土決戦に備えて戦闘機を生産するペース(目標1万機)が間に合わず、とにかく今ある戦闘機を温存しようと、空襲から戦闘機を守る「掩体壕」「分散秘匿地域」「誘導路」が軍用飛行場周辺に作られることになりました。

秘匿地域とは、林や森の中に飛行機を隠すもの。
掩体壕とは、有蓋あるいは無蓋の、飛行機を守る構造物。その形状は多様で、有蓋のものでも半円型、オワン型、カマボコ型などあるようです。

たとえば、陸軍調布飛行場の掩体壕工事は昭和19年6月から9月にかけて(の説が有力)なされたそうです。
急ピッチの工事。竹や網で覆っただけの無蓋タイプが多数あること、形状や材質の統一感の無さ・・・資源の乏しさをものがたるものは、多いです。さらに、ベニヤで作った偽飛行機を置くといった苦肉の策まであったようです。

このように「隠す」ためにさまざまな工夫がなされた掩体壕でしたが、実は米軍からは丸見えでした。翌年の米軍地図にはあっさり描かれてしまい、実際のところは秘匿地域のほうが飛行機を守る効果はあったといわれます。

・・・この掩体壕、最初に目にしたのは、調布飛行場そばにあるものでした。旧陸軍調布飛行場にあった、有蓋掩体壕です。

Entai5_2

調布飛行場には飛行第244戦隊がおり、皇居直衛がその任務でした。最新の三式戦闘機「飛燕」を多く置いていたといい、掩体壕のだまし絵にも飛燕が描かれています。
ここで無理やりこの飛燕と我らが杉並を関連付けるとすれば。皇居が攻撃されないようにB29を向かえ撃つデッドラインは、無風の場合はJR中野駅上空、偏西風が吹く場合は大宮八幡宮の上空だったのだそうです。

Entai7_2

調布飛行場の水路(排水路がV字に掘られ、野川に流していた)、引込線(imakenpressさんの充実レポート)など自分にとって脱線要因も豊富な地ですが、ひとまずは掩体壕の紹介のみにして。

白糸台にも、調布飛行場絡みのものが残っています。

Sira1

調査によれば「飛燕」とほぼ同じ規格で作られているとのこと。排水設備、砂利敷き、誘導路、タイヤの痕跡なども見つかっています。

いまはこんなに整備されていますが、10年ほど前は倉庫として使われていて、上部には雨漏り防止の白い塗料が塗られていました。どうせなら昔の状態も見てみたかったけれど・・・。

Sira2

戦後の写真ならありました。

こんなふうに、調布飛行場の掩体壕は綺麗にして保存する方向のようです。この地には約30基のコンクリート製掩体壕がつくられたといわれます。再現地図を見ると飛行場や道路からまるでエノキダケのようににょきにょきと生えているように見えます。それがいまや、現存僅か4基。

いっぽう、千葉の茂原にはもっと異なる感じで掩体壕が残されている、とききます。しかも関東圏では最多というので、一度は見に行きたいと思っていました。

茂原に海軍航空基地が作られたのは昭和16年。アメリカ軍の本土上陸に備えた拠点として、飛行船の飛行場からの方向転換でした。昭和18年には、掩体壕の建設が始まったと推定されています。終戦時17基、うち11基が現存します。

さぁて。新茂原駅で下車し、海軍壕や軍事トロッコ跡などをぶらつき、駅に近いものから探し始めました。

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1基め発見。
民家の敷地内にありました。いい感じに風雨をしのげる駐車場になっています。

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2基めも比較的容易に見つかりました。

前には畑が広がっていて、その作業小屋になっているようでした。

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内部はこんな風に、雑然としていますが。人が出入りしているような感じがあります。

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子どもに向けてでしょうか、このような大人に向けてでしょうか。「きけん のぼるな!!」・・・あ、入るのはイイのかな・・・

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おしりも拝見。

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サイドもじっくり。
調布(陸軍)のものは地面を掘り下げるため、もっと背が低い印象を受けます。

ちなみに、この手前には集合住宅。毎日これをながめて暮らす人もいるのですね。

その後、次の場所にあるはずのものをぐるぐる探しましたが、どうしても見つかりませんでした。ネット上でも「1基だけ見つけられなかった」という人を見かけるので、相当わかりづらい場所にあるのかもしれません。本当はすべて見つけたかったですが、まだまだ先があるので、あきらめて次へ。

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3基め。

上部にぼうぼう植物が生えています。
実は、コンクリート製の有蓋掩体壕の上には、偽装のために土が盛ったり、植物を植えたりしていました。なので、この植物も戦時中からあったものかもしれません。

ささやかな工夫であった、この「偽装土」。土に含まれる水分のために、コンクリートのひび割れが生じるといった皮肉な結果を生んでもいます。

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天井を見ると、実にいびつ。

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4基めの後ろには道路があり、車がびゅんびゅん走っています。

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4基めは、3基めのすぐそばに。

車が走り、新しい家々に人が暮らす風景。水田を耕す風景。その中に残る、巨大な軍の残骸。異様な存在感です。

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5基めはちょっと見つけづらかったです。
が、木々の間にチラと見えるコンクリートに非常に敏感になってきました。

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内部にはムシロが残っていました。鉄筋も見えています。

6基めは家の庭先に鎮座していて近づけず、

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7基めはなんと会社の工場?になってました。
内部には電気も引かれています。今回もっとも異色の存在です。

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8基めは、今回最大級の大きさ。
案内板がついており、観光用といった感じでした。

Mbr16

9基め。

8基めから数メートル進むと見えてくるんですが・・・これはwww
なんか小さくてかわいいww ってかどっかにこういうキャラクターいないっけw

Mbr17

10基め。
なんということでしょう、車がとめてあるばかりか、テーブルとイスが置いてありました。
なんとたのしそうな掩体壕・・・あそこでランチしたり、酒飲んだり、七輪でサンマ焼いたりできたらなぁ・・・うぅ・・・。

・・・。

茂原の掩体壕群は、その地の人々の生活感や、整備されきったものには無い戦争のにおいが、ぷんぷんと漂うものでした。今回は紹介しませんが、都内にも家と一体化したものがあるといいます。なぜ、こんなにもフツ―にひとびとに使われているのか?

終戦後、土地は民間所有となったものの、掩体壕は国有財産のままだったため、残されるケースが多かった、ということらしいです。物資が無い頃に家や小屋として利用できる構造物でもありました。・・・その残された掩体壕のある家を訪れては、「これは大蔵省の持ち物だから貸借料を払え」という、いわば”掩体壕詐欺”も発生していたといいます。

                        ***

クッキングにうつります。

クッキングの行程は、オムライスの作り方と同時に、掩体壕の作り方の説明も兼ねていきたいと思います。

前回の記事を見てお気づきの方もいらっしゃることでしょう。そう、わたしは手先がたいへん不器用なんです!料理は大好きなので楽しみながらやってるのですが、この手先の不器用さは何年たってもまったく変わりません。そんなわけで、「実物にそっくりな繊細タッチの掩体壕オムライス」はけっして想像しないで読むよう、なにとぞよろしくおねがいします。

      ----------オムライスの作り方---------

<材料>
ごはん、長ネギ、牛蒡と蓮根のキンピラ(お総菜の残りでよし)、じゃこ、ゴマ、ごま油、合挽肉、玉ねぎ、卵、塩コショウ、韓国のり、だしじょうゆ、酒・・・量は、適当です。

<作り方>

まずは飛行機を作ります。

Omu1

合挽肉、みじん切りの玉ねぎ、卵、塩コショウをボウルに入れ、じゅうぶんに混ざるまで手でこねます。nama流は、玉ねぎは炒めずシャリシャリをたのしみます。ちょっと味をつけたければ、ソースを少々入れてもいいでしょう。

それを、飛行機の胴体、翼×2、尾翼に成形し、フライパンで焼きます。

焼きあがったら、お皿の上でくっつけて飛行機にします。

つぎに、掩体壕をつくっていきましょう。

掩体壕は鉄鋼コンクリート打設法”Z工法”でつくられていました。
調布のものと茂原のいくつかに使用されたZ5工法とは、工作物の形状の土饅頭をつくり、それを型枠としてコンクリートを打設、後に土を掘りだす、というもの。
茂原の残りに使われたZ6工法とは、型枠に鉄鋼コンクリートを打設する、というもの。

Omu2

というわけで、Z5工法を採用して土饅頭をつくっていきましょう。

十穀米のごはん、水菜、長ネギ、牛蒡と蓮根のキンピラ、じゃこ、ゴマ、を、ごま油で炒めます。塩コショウで味付け。
今回は日本軍であること、掩体壕の雰囲気を出したいことから和風にしているので、お好みで顆粒のだしのもとや、醤油をハラリとかけてもいいでしょう。
キンピラやじゃこは枯れたススキ、水菜や長ネギは緑色の雑草、十穀米やゴマは石ころを表現しています。

この和風炒飯を、さきほどの飛行機ハンバーグの上にのせ、そして飛行機のかたちに沿って成形していきます。

この和風炒飯は、土饅頭であると同時に、(どうせ後からこのご飯を取っ払って空洞にするわけにはいかないので)現在の掩体壕の醸し出す土・砂利・打ち捨てられ感を演出する重要なパーツです。美味しく味付けしてください。

今回は、「茂原の2基め」の形にしてみました。

Z6工法が混じってしまいますが、ここでムシロを貼り付けたいと思います(ふんいき)。

Omu3

韓国のりをちぎり、土饅頭の上に貼り付けていきます。

茂原のZ6工法は木枠を用いており、コンクリートを流す面にはムシロが使われていました。さきほどのムシロはそれが張り付いたままになっていた、というわけです。

Omu4

掩体壕の入り口。前方から見ると、飛行機がちょっとはみ出すくらいがいいと思います。

ではさいごに、コンクリートをかぶせていきましょう。

Omu5_2

卵、だしじょうゆ、酒を混ぜ、卵焼き器で厚めに焼き上げます。

厚めの方が、より飛行機を守れると思います。なお、卵液にタラコ、つくだ煮などを混ぜると、より雑なコンクリートの感じが出て、より物資不足の掩体壕らしくなるでしょう。
更なるコンクリート感を出していきたい人は、卵の白身で作るという手もあるかもしれません。

そしたら成形します。茂原の2基目のように、弧を描きつつおしりはキュッとしめて・・・

ここまで出来たら、本来は前述のように中の土を掻き出すのですが、無理なので炒飯は入れたままにしますw

Omu6

おしりのところをカットします。
こちらは、入口ではないわけですが、作業をやりやすくするために開けているといわれます。カットした蓋は、もちろんおいしくいただきました。

ここで、玉子の焼き色が濃い方が、「掩体壕の上に盛られた土」感が出るでしょう。また、草木が植えられたりもしたことを考えると、さらに上に青のりをふりかけたり、パセリを突き刺したりしてもいいかもしれませんね。

さて、これで掩体壕オムライスは出来上がりです。
焼酎などとあわせ、あたたかいうちに召し上がってください。

                         ***

実は3年くらい前に、調布の掩体壕の写真及び資料は用意してありました。しかし、この掩体壕オムライスをつくるにあたって、どうしても茂原は見ておかないといけないだろう。そう思って、先日茂原に行ってきた次第であります。そう、オムライスのために、茂原に。

次に思いついたのは「手榴弾メロンパン」だったのですが、手榴弾をかたどったグッズは持っているけれど、高射砲や掩体壕のように軍事遺構として何処かに実物が残る、というたぐいのものではない・・・ふぅむ、ボツかなあ。もしも軍事遺構クッキングを思いつかれた方いましたら、教えてください。どうぞよろしくお願いします。

                       

「杉並の暗渠」をさぐるはずのこのブログ、いつのまにか「千葉の軍事もの」のことばかり書いていることにお気づきでしょうか・・・。しまいには今日は暗渠のかけらも無かったですね。
でも大丈夫、そろそろ戻ります。
千葉の暗渠のお話は、まだまだ続編がありますが、しばらく間を置いてからの再開としたいと思います。

<参考文献>
竹内正浩「軍事遺産を歩く」
千葉県歴史教育者協議会「千葉県の戦争遺跡を歩く 戦跡ガイド&マップ」
古橋研一「調布飛行場にも掩体壕があった」

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 中山編

千葉に戻ります。
こんどは船橋西部、「葛飾」と呼ばれるあたりのおはなし。

千葉は「馬」「牧」にとても縁があるようです。
古くは「延喜式」において、下総に五牧を置く、とされています。もっとも今回の舞台、船橋にその牧があった、という確証はないのですが、しかし発掘調査によれば古代~中世の馬骨(の他にも埋葬された馬や馬具も)が船橋市南西部から多数出土しています。

そして江戸時代。幕府の馬牧(中世の牧を利用したらしい)も船橋にありました。牧の間を道が通っていたため、初代広重の絵などにも描かれています。・・・牧場といっても、特に馬の世話をするわけではなく、野放しであったようです。その馬を捕える行事は「野馬捕り」といい、牧にいる馬を「込(土手で囲み木戸を置いた低地 ※)」に追い込んで捕獲するのでした。それは何十人ものヒト VS 何十頭もの馬 の大騒ぎであり、付近に住まう人が弁当を持って見物しに来る行楽でもあったといいます。※込や木戸は地名として残っている。

そして、現代。
船橋で馬、といえば、多くの人がアソコを思い浮かべることでしょう。

そう、中山競馬場(海の方に船橋競馬場もあります。市内に2つも競馬場があるなんてすごい)。
中山競馬場の場所は、なんと前述の馬骨が出たとされる遺跡の近くなのです・・・なんたる因縁。

小さいころ、千葉の親戚宅にくるたび、近くのあちこちに車で遊びに連れていってもらいました。中山近辺を通ることは少なくなく、渋滞してくると運転手である叔父が「あー今日は競馬があるから(混んでるん)だ~」と、いまいましそうに言うのでした。・・・小さかったわたしは、車中で従兄弟たちと遊ぶのに忙しく、あまり気にしていませんでしたが・・・きっと、何度も近くにきていたはず。

その中山競馬場にやって来ましたよ、大人になったわたし。ギャンブルめしと、そして暗渠のために。

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中山競馬場の建物は、すべて新しくゴージャス。まるで地方のショッピングモールのようなスナックコーナーがありました。この感じ・・・大人も子どももワクワク!

ただ、客層が圧倒的に違うわけです。おじさん、にいさん、おじいちゃん。みなさん新聞をひろげ、熱心にTVを見ています。こんなにアルコールとおつまみが揃っているのに、あまり酔っている人がいません。真剣勝負なのかな。

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そんな、熱心な人たちを熱心に観察しつつ、わたしは名物・鳥千のフライドチキンをまず(それにしてもこのリンク先、後からぐぐったのですが自分が食べたものとおススメ上位が被っていて運命的w)。このフライドチキンはまるで上質なチキンカツ、お肉がしっかりしていてとても好みでした。あ、そのままだと味が薄いので、いろいろ付けたほうが無難です。
なんとなくギャンブル場ではいつも、レモンサワーを飲みます。ふぅ~~~。

競馬場がこんなに綺麗ではない頃。数十年前の体験談を見ていると、そこにも、実においしそうにお酒を呑むひとの姿がありました。

馬券でとられて裏門から出る。
<中略>少し行くとコップ酒を売る酒屋がある。
オケラのために酒の空箱が並べられてある。
きたない空箱に腰をおろしバラ銭をはたいて一杯呑む。

実にうまい。

考えて見ると今日はまだ昼飯を食っていない。
のどかな畑をながめながらコップ酒を呑むのもまた格別の味である。

<中略>後を見ても先を見ても同じ姿の人がぞろぞろ続く。
中にはバクダンをかじりながら歩く人も結構いた。
バクダンとは小形の「生いか」を丸のまま味をつけ「ゲソ」を全部切って中にはさみ太い竹の串にさしてある。
これを立喰いするようになると競馬も一人前である。
しかし味はなかなか上等に出来ている。
(成瀬恒吉「葛飾誌」 p19~20.)

一杯のコップ酒。
素朴なイカの「バクダン」。
それらの染み入るような「うまさ」を想像すると、喉が鳴ります。

いま、中山でバクダンを探してみても、見つけることはできません。でも、「なかなか上等にできている」食べ物がいまもあるから、わたしたちはお酒を呑み、何かをつまむのです。

でも面白いなと思うのは、昭和初期までは競馬場は「紳士の社交場」であり、入口付近では背広や羽織袴の貸衣装屋さんが繁盛していたということ。オケラ街道は「正装した男性で賑わっていた」ということ・・・。

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当時のひとは、ラーメンなんて食べたでしょうか?
店構えがレトロで気になった翠松楼。きっとこういうラーメンを出すんだろうなと思った、まさにそういうラーメンが出てきます・・・そして期待通りの味でした。外すことない、安心の味。

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帰ろうとしたら、コーヒー屋さんのモカソフトがとても気になって気になって、〆の別腹ってやつでモカソフトを食べました。これがまた、とてもおいしい。コーヒーの香ばしい味のするソフト。

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スタンドからは行田が見えます。遠く聳える行田の団地たち。その間には、谷が走っています。
中山の競馬ファンは、常にこの風景を見ているということになります。

さきほど江戸時代で話が途切れていましたが、この地の馬との縁は脈々と、しかし奇妙な偶然と重なって続いてきているように思います。

もともと、競馬場はここではなく松戸にありました。崖上にあった、松戸競馬倶楽部。
軍が用地の接取を持ちかけたこと、足場が悪く危険だったことなどから、移転が計画されます
(後日松戸の記事の際に再び触れましょう)。移転先第一候補の矢口との交渉が難航し、第二候補に挙がった地が中山・葛飾です。費用はすべて陸軍が負担し移転、大正9年、「中山競馬倶楽部」が出来ました。
当初は今より少し南側にあったといいます。短いコースに、貧弱なスタンド。馬は農家の厩に預けられ、馬券および入場券の販売所は、なんと、寺の境内。出走馬が少なく、一頭で走ったレースもあったということです
(←意味がわかりません)。

その後中山競馬倶楽部は行徳に新競馬場を用意していたものの、関東大震災で津波の被害に遭い、最終的には現在地に移ったということです。

競馬場移転に陸軍が関わった話をさきほどしました。移転後、中山競馬場が軍の施設になった時期があります。
当時、軍馬の資質向上と資源確保のため奨励された競馬。つまり、そもそも軍との関係は深かったわけです。そして昭和19年、競馬場は一時閉鎖され、陸軍軍医学校、航空隊、自耕農場などに使われます。軍医学校では、ガスえそや破傷風の血清ワクチン製造がなされていました。採血の対象は馬、作業をしたのは学徒動員の中学生の男女。その描写はあまりにむごく、恐ろしい体験であったことが想像されます・・・
それでも競馬復活を願う関係者により生き残ったサラブレッドがいて、昭和22年には再び中山で競馬が開催されます。・・・そして、今に至ります。

                         ***

中山競馬場の外側には、こんなものがあります。

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馬頭観音群。その数、19。

これがある地は葛飾の古作という農村であり、戦前の農業発展(収穫物の運搬)に馬が非常に大きく貢献した村だといわれます。
古作における馬持ちの割合は高く、また風邪をひくとニンニクを焼いて食べさせるなど、人間のように大切にされたといいます。馬が死ぬと、家によっては馬頭観音塔を建てることもあり、また地区の行事として馬の霊を慰める「葬馬塔(そうまんと)」というものがあるそうです。

この石仏群は、そのように江戸~昭和にこの地でつくられ散在していた馬頭観音を、競馬場造成の際に集めたものではないかと推測されています。

こんなふうに、馬が大切にされてきた土地に、前述のように紆余曲折ありながら競馬場が移ってきたこと、なんとも奇妙な偶然だと思うのです。

そしてこの馬と競馬場との縁は、ゆるやかに水路との縁にもつながっているような気がします。この馬頭観音の集められた場所は、競馬場の外周の不思議なところで、

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オレンジ丸のところ、外壁が突然へっこんだ位置にあるのが馬頭観音群(yahooさんありがとうございます)、そしてその先にある水色点線は水路なのです。

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この、水路のはじまりの斜めっぷりが向いている方向がまた、馬頭観音群なのです。
競馬場のなんらかの排水を流す水路の出口ではないかと思われますが・・・嗚呼、競馬場の中を自由に歩きたい・・・!

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その水路とは現在は支流の暗渠であり、まもなく本流と合流します。
本流の名は、葛飾川。古作の奥から流れ出、二俣へとゆく川。現在はほとんどが暗渠です。・・・そう、さきほど競馬場のスタンドから見えた谷を流れていた川です。

では、ここから暗渠編へ。葛飾川を河口から遡ることにしましょう。

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ぐっと海側に移動します。

二俣には二俣川という川があり、開渠でしたがとても濁っていました。そしてそこにはボラの大群が・・・写真右側とか、うっすら見えると思いますが、まさに「夥し」かったです。

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二俣川のさきに水門があり、

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水門の上流側が暗渠の始まりでした。
葛飾川の最下流といえます。

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葛飾川は地面の色違いにより、暗渠感を出してくれています。

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神社の脇をカーブしながら通り、

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道路を堂々と横断。

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総武線までまっすぐ進みます。

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総武線の反対側にも、くっきりと存在しています。

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どんどん北上、道路の真ん中をカーブします。
この感じ、太刀洗川の下流部と似ています。お隣だし、暗渠化の時期が近いのでしょうか。

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向こうに段差がみえます。その向こうは、勝間田公園。この場所から、水に関するエピソードがいろいろと増え始めます。

さて、川跡的にはいいところにさしかかってきましたが、今回はさすがに分量が多いので、前後編に分けたいと思います。
次回は、葛飾川の中~上流部。チバの魅力が満載ですので、どうぞオタノシミニ!

<参考文献>
かつしか歴史と民俗の会実行委員会「葛飾の郷」
千葉県歴史教育者協議会「千葉県の戦争遺跡をあるく 戦跡ガイド&マップ」
成瀬恒吉「葛飾誌」
日本中央競馬会「中山競馬場70年史」
船橋市郷土資料館「馬と船橋」
船橋市郷土資料館「新版 船橋のあゆみ」
「船橋市史 前篇」

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 行田編

戦時中の地図に描かれる(というか描かれないというか)、軍事施設特有の違和感。
現代の地図においても、軍事施設の名残が違和感として滲む場所はあり、行田はその最たるものだと思います。

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・・・陰影図(googleさんありがとうございます)にさえ浮き出てくる、不自然な丸と四角。
丸は、海軍無線電信所の跡。四角は軍需工場の跡です。

そして、それらと一緒に描かれていることにより、自然のものであるはずの河川までも、なんだか妙な気がしてきます。その川とは、味噌maxさんが「電波ゆんゆん宇宙人の行田川(仮)」として既に書かれているものですが、行田となると、やはりそのすぐ南で湧いているこの川も意識せずにはおれません。

                        ***

船橋法典の駅に行くまでの間、既に武蔵野線から行田の丸みは見てとれます。そして駅を降りて歩いていくと、

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このように行田の南側のみならず、北側にも谷が現れます。
この、谷に囲まれていることこそが、この地に海軍がやって来た理由となるのです。

この地のかつての名は、行田新田。1674年頃に開かれた新田村でした。
台地上であるのに田んぼっぽい「行田」という名は、開発請負人の出身地である行徳と田尻の合成地名です。周辺各村の開発が行き届かなかった場所を合わせたようなカタチの村で、「散村」形式をとり入植者がバラバラと住んでいました。その数、23戸172人(明治5年時点)。

電信所用の大きな大きな円状の土地を切り取れる台地、という点で、この地は実におあつらえむきでした。海軍により「雷が落ちたと思ってあきらめてくれ」などと言われ、葛飾村の一部と行田新田の畑地が買収されることとなりました。
家も耕地も失うことになったひとびとは困惑し、買収を免れた村民が家を作り、耕地を分けるなどして対応したそうです。しかしそれでも農家としての生活は苦しく、電信所内の空閑地利用を希望する嘆願書が出され、無線塔の敷地内で耕作をしていた人もあるそうです。

3つの河川に抉られ、残った台地は決して豊かな土地ではなかったはず。そこに出来た丸型の施設と、残り続けた農家と畑・・・。施設ができる前の明治期の地図を見ているときでも、等高線の動きの中に、この行田の未来がぽっかりと幻視できるような気さえします。

外周を歩いてみます。

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実際に訪れてみると、たしかに丸い。
たしかに丸いんですが、凹凸は無いので、ただのカーブの連続。暗渠的萌えは非常に乏しい地です。

そうそう、前掲の陰影図でも丸い顔のようなあの輪郭の中に、一カ所だけ(右頬のあたり)凹んでいるところがありますね。これは、諏訪神社があるため買収地を少し引っ込めたものです。

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円の真ん中の辺りには歩道橋があって、JA(小松菜が名産)があって、行田公園の中に記念碑があります。

日露戦争の経験より無線電信所の必要性を確信した日本海軍は首尾よく用地を得、大正2年に起工式を行います。ところがまもなく第一次世界大戦が勃発し、大正3年、日本はドイツに宣戦布告。このことは、この電信所の計画を大いに乱すこととなります。電信所は海軍がドイツ(シーメンス・シュッケルト社)に注文したものだったからです。・・・ドイツ人技術者たちは、重要書類をすべて焼き帰国してしまいます。鉄塔の基礎のみを残して。
なんの資料もない状態で、日本海軍の技術者たちは電信所を作ったといいます。

苦心の作は、大正4年に完成。その時の名称は「船橋無線電信所」。
その後送信専門となり(受信専門は以前記事にした蟹ヶ谷)、大正12年に「東京海軍無線電信所船橋送信所」と改称。
さらに、昭和12年に「東京海軍通信隊船橋分遺隊」となり、無線塔が新設されます。

直径800mの円周上に(つまり先ほど歩いていた道路のそばに)、60mの埠頭が18基。中央部には三角柱の主塔、高さ200m。36本のアンテナ線が伸び、その姿はあたかも「傘」のようでありました。

以降、空高く聳える鉄塔は船橋のランドマークとなります。校歌にもなり、「鉄塔のある風景」が郷土の自慢のひとつになっていた、といいます。

終戦後は米軍通信所となり、昭和41年に日本側に返還。
大正4年に作られた煉瓦の発電機室等は、健在だったといいます。けれど、多くの機器類は米軍により撤去され、送信所として使える状態ではありませんでした。
昭和46年に解体が決まると、船橋市は国から払い下げを受け、「船橋のオアシス」として開発にかかります。行田団地、行田公園、あとは国の施設や学校が出来ました。
なぜあの煉瓦の発電機室を残さなかったのか・・・当時を偲ばせるものは、この記念碑だけなのでした。

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行田団地だけではなく、味わい深い団地が何塊かあります。団地の中には、ほのぼのとした「行田商店街」もありました。

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お肉屋さんでコロッケを買って、ひとやすみ。各種お弁当も売っており、店先にベンチもありました。

さて、ここから海軍の名残のあるものを探しに行きます。

そのものは、最初の陰影図に載せた「四角」の地との間にあるようです。

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ここが「四角」の一角。かつての軍需工場、日本建鉄株式会社。約2万人の労働者が居たといい、雷電や零戦の部品を作ったという証言が残っているそうです。
いまはこのようにマンションや巨大スーパーなどが幅を利かせていますが、日本建鉄船橋製作所も残っています。

この、日本建鉄との間に、海軍の境界石が何本も残っているというのです。

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一本目は順調。いくつかの文献にあるように、行田東小学校にありました。おお、思っていたより新しい。

しかしここから先が苦戦しました。なにしろ情報源は「付近の畑の中」とあるだけなんです。ぐーるぐーる、畑や住宅街を歩き回りました。

あまりに無いので、あきらめかけたその時、

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うおおおちょっとうつむき加減なヤツぅぅ!!!

1つ見つけられて、かなり満足しました。それで、次の目的地に移動しよう、とほぼ帰る感じで歩いていたら、

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出会いは突然に。

人んちの門になっている・・・!

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Oops、反対側も!

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さらに畑の脇を歩いていたら、

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はああああああ・・・!

計5本ゲットいたしました。

無欲になってから見つけられた感じです。
なぜ、あの「円」の外にこんなにあるのかというと。昭和8年に海軍省は送信所南東部の土地を買収し、鉄塔を3本建てたといいます(基礎がまだ埋まっているらしい)。ここはその区画なのでした。

名残、まだまだあるな行田・・・。

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今でも、何かを発信している地でもあるようです。

                         ***

ここからは暗渠編。
その暗渠、船橋市の公式名は太刀洗川といいます。なんか赤坂のほうで聞いたことがある名前ですね・・・あちこちにあるんでしょうね、ある種の伝説とともに。大刀洗川と表記されることもあれば、血洗川、洗川などと呼ばれることもあります。
由来は大きく2説。源頼義が太刀を洗ったので太刀洗川、というざっくりとしたもの。
それから、源頼朝の命に従わなかった船橋大神宮の神主が長い争いの末に神輿の前で自害し、その神輿を洗った川なので血洗川、というもの。
「船橋市史」では、この由来を「根も葉も無いことであろう」とバッッッサリw

これを上流から下りたいのですが、その前にお腹が空いてきました。
近くによさげな店が無く、天気も良かったので公園でお弁当をということになりました。

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このあたりで展開しているらしきスーパー、マルヤにいきます。

日の丸と海軍の合体にしか見えないんですけど・・・!

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巨大なクラゲみたいな船橋高架水槽を横目に、その高架水槽の少し南に谷頭があるようなのも横目に。
上流端、と思えるところまで歩いて行って、近くの公園でさて、ゴハンにします。

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海軍に思いをはせながら、蟹めし弁当を食べます。
(相方が隣で食べていた、のり弁のほうが美味しかったような気もします。でも今日は海のものを食わんと!)

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お弁当を食べた公園も、谷戸の一部でした(盛ったもよう)。

もう少し奥の方に緩やかな谷頭がありました。そこが水源だったのでしょうか・・・?
見えるのはマンション、畑、新築の家々。よくわかりません。

太刀洗川の、水源について。
いくつかの文献で、水源は「釜谷津(鎌ヶ谷津とも)」であると書かれています。
薄暗い藪の中にある池の、釜のような大穴からもくもくと水が湧く釜谷津。その水が、低いところで停滞し「蛇沼」となる。蛇沼は出口をふさがれていたため停滞していたものが、一端を突破し流れ出たといいます。

残念ながら、この2つの場所は現在跡形もないようで、確かめることができませんでした。

ところで、わたしは水源はもうひとつあると思っています。
前述の無線電信所の電気はすべて自家発電であり、大きな発電機があったといいます(関東大震災時もそのおかげで全国に状況を知らせることができたそう・・・デマまでも広げたそうですが)。
その発電機には冷却用に大量の水が必要で、構内に掘った大きな井戸の水を使用していたそうです。
・・・では、その冷却水の、排水は?
この太刀洗川の流れには、大正4年~昭和41年の間だけは、無線電信所の排水も合わさっていたのではないでしょうか。あの丸い台地から、轟轟と・・・。

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公園の下、谷底はマンションに覆われます。その敷地の隣に、突然蓋が現れる。

谷戸を横断するように置かれています。怪しい・・・と思って蓋の上をザクザク歩きます。すると、

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うわっ 缶の山・・・

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うわっ いろんなものが乗っかった暗渠・・・

畑の敷地なので、侵入はココマデ。谷底がまるまる大きな畑になっており、ここがまた実に興味深い。

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この畑の中、至るところにじゅくじゅくと浸み出しがあり、排水路が設けられていました。
左岸側の崖からは特に湧くようで、こんな風に池が出来ていました(木の向こう)。

・・・ここ、なんだかちょっと「蛇沼」の風情があるような気がします。

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畑の敷地の下には、これまた谷戸を横断する蓋暗渠があり、ここに畑で湧いたものが注ぎこんできます。

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その谷戸横断暗渠は、最も右岸側で縦に伸びる暗渠と繋がっており、それは歩道といっしょくたになって、

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流れ落ちていきます。太刀洗川らしいものがやっと目に見えてきました。

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左岸から短い支流が一本合流。

そして暫く道路に飲まれ、暗渠蓋はなくなります。

再び現れるのは、

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ここ。
旧地名山野と海神の間を流れる、いわば村境の川です。

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暗渠らしくなったとたんにボサボサしてきました。
カマキリの卵、ここで久々に見ました。

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西海神小学校脇で蓋が再出現しますが、

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すぐに折れ、

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またボサボサしまくります。
ちなみにこの位置でわたくし、切り株を猿と間違えてたいそうビビっていました。我ながら意味が解りません。

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リヤカーと梅と暗渠。

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柵の向こうに置かれたビニール・ボール。

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写真右、壁の色の違うところで京成線を横切ります。

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その先は住宅の合間を縫って、

(この脇に太郎次郎の池跡というのがあるらしいのを見落としましたくぅぅ。)

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また道に隠れます。
この川は、葛飾の農家の重要な用水のひとつであったというので、何流かに分かれて田圃を流れていたかもしれません。

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千葉街道脇でこのようにくねり、横断します。

ちなみに背後には柵で覆われ鍵のついた妙な井戸がありました。

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名残の橋があります。

おそらく、かつての太刀洗川は今示したような流れだったと思われますが、下水道的にはここが分岐点です。
あの「円」の一端から始まる太刀洗幹線は、この位置で西船橋五号幹線(汚水)と、太刀洗放流幹線(雨水放流)とに分かれます。後者が、これから歩く暗渠の下を走ることとなります。

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今度は道の真ん中にシフト。

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JRに突き当たりますが、

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このように横断し、

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まだまだ続きます。

ちなみにそこにあるマンホール、本海川同様船橋オリジナルです。

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海水取水口。
消防に関連するマンホールなのでした。
船橋市のサイトを見ると、本海川=圧送管利用方式なのに対し、太刀洗川下流部は雨水放流幹線で、”水門開閉により海水を逆流させ、消火活動に利用する”という方法なのだそうです。(教えてくださったマンホールのFさんとNさん、どうもありがとうございました。)

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ほら、そこにもありますね。
前述のような利用法なので、水門と水門の間のうち上流側にマンホールが布置されるというわけ。

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そろそろ最下流。大ぶりの暗渠になって海の方に下っていきます。端っこがHの字みたいになってます。

ちなみにこの辺には似たような暗渠が沢山ありました。もはやここら辺の暗渠は海水の入り混じる一続きのものであり、どこからが太刀洗川とは言えないのかもしれないな・・・などと思いつつ、

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これも正しい流末かどうかは不確定ですが、ひとまず、京葉道路に突き当たって終わります。

付近にはかつて、造船所や船溜まりがあり、多くの船が停泊していたといいます。なかには、東京のゴミや人糞を載せた船(田畑の肥料となる)なども来ていたそうです。

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今回の行程(暗渠部分)。

軍施設、そして小ぶりの川が田畑を潤す風景に思いをはせながらのさんぽでした。

この日から暫くの間、街角で石柱をみるたび、「ハッ・・・海軍!?」と思う癖が抜けなくなりましたとさ。

<参考文献>
かつしか歴史と民話の会実行委員会「葛飾の郷」
滝口昭二「行田無線史」第2号、第14号
千葉県歴史教育者協議会編「千葉県の戦争遺跡を歩く 戦跡ガイド&マップ」
成瀬恒吉「葛飾誌」
船橋市「船橋のあゆみ」
船橋市下水道部「ふなばしの下水道概要」
「船橋市史」

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 津田沼編

藍染川記事があと2本残っていますが<略>、ここのところ攻めている千葉方面の暗渠があまりにステキでステキで、我慢できなくなってきたので・・・、1本だけ放出したいと思います。

千葉の海辺に近い暗渠たちは、独特の背景を持つものが少なくありません。そしてその名残を唐突に、思いもよらぬかたちで見せつけられる。そんなダイナミックさがあるようです。また、古地図には常に(ときには空白地帯として)軍施設の見える軍郷でもある・・・。

なぜ千葉を攻めだしたかといえば、先日祖父の自伝を読んでいて、曽祖父が「千葉の鉄道連隊に居た」という話を目にしたためです。中野の鉄道隊の記事を熱心に書いたことが、腑に落ちた瞬間でした。それなら、移転後の千葉も見に行きたい、と思いました。
また、複数の親戚が住んでいることもあって、年に何回か「東京に遊びに行くよ」と連れられてやってきた場所は、大抵千葉だったのでした・・・つまりわたしにとって長いこと、千葉こそが「東京」であり、懐かしい場所がいっぱいあるのです。

                       

                        ***

今回取り上げる場所は、津田沼です。
そんな名前の沼があったのではありません。「津田沼」という地名の登場は、明治22年。5村が合併したさいの、主要3村(谷津、久々田、鷺沼)の合成地名です。

津田沼といえば、鉄道隊。
鉄道兵は、占領地への鉄道敷設(兵や弾薬、食料を前線に送る)のため、各戦場に出動したほか、関東大震災での鉄道復旧にも尽力しています。また、演習を兼ねて敷設された線路が今も使われていたりします(詳しいことは軍や鉄の専門サイトに譲りましょう)。

明治28年、日清戦争における臨時鉄道隊として始まった鉄道隊は、翌年牛込に鉄道大隊として常設され、明治30年に中野に移転、やがて千葉に移りました。津田沼には千葉から第三大隊が転営し、また材料廠もおかれ、鉄道敷設演習の拠点となりました。大正7年、編制替により津田沼は鉄道第二連隊となりました。

なぜ、千葉にやってきたのか・・・当時、軍の経済効果は大きいため、各地で誘致合戦があったといいます。軍施設が既に多くあったことと、東京に近いから、などの理由が推測されています。

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曽祖父が居たのは第一連隊(千葉)なのか、第二連隊(津田沼)なのかは不明ですが、ともかく両方行ってみることにしよう。まず、JR津田沼駅前に降り立ちます。

まさにこの南口駅前に鉄道連隊の兵舎がありました。戦後は、第一中学校や仲よし幼稚園などの教育施設となり、その後公園や文化ホールに姿を変え、今に至ります。目の前の建物がある場所がそうです。

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千葉工業大学もそう。この門は、鉄道連隊第三大隊(改組後鉄道第二連隊)の兵舎の表門として使用されていたものです。
戦時中の写真を見てみると、門がこのまんま!もちろん、内部はだいぶ違いますが。ついでにいうと、中野の鉄道隊の門(甲武鉄道沿いにあったそう)ともそっくり!

戦後、国鉄が鉄道教習所津田沼分校としてこの場所を使っていました。千葉工業大学はそのとき、新制のための用地を探していたそうで、津田沼町庁舎の候補にも挙がっていたこの土地を素早く取得し、建物を改造して使用しました。借用の校舎で落着けなかった千葉工大のひとたちはようやく得られた広い敷地に大喜びし、学生は炎天下自発的に運動場の草むしりやローラーかけをしていたといいます。
千葉工大は、旧陸軍習志野学校の地も取得しているので、後の記事にも登場することになるでしょう・・・。

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こちらは駅の北側。
北側には材料廠がおかれました。古地図の材料廠の中には、引込線がぐ~るぐる見えます。戦後、転車台や車庫があったところ(この写真ではもっと奥の位置)は旧国鉄技術研究所となり、現在はマンションや商業ビルに。倉庫や工場の跡地は千葉工業高校となり、現在はイトーヨーカドー等になっています。

周辺を走る機関車には鐘が取り付けられていて、「カーン、カーン」と鳴る音が家からもよく聞こえ、地元の人は音が聞こえると見に行ったものだそうです。
この辺の公園にK2形機関車があるという記述を見ましたが、省略。

今はそれほど賑わっている印象のない駅前ですが、戦時中は出征や帰還のたびに、送迎の人の波でじつに賑やかであった、といいます。

このように、鉄道連隊があったことで有名な場所ですが、

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こんなラーメン屋さんが駅前にww

Sl2

いや~、狙ってますよね、これは。そりゃ思わず入りますよ。
つけ麺推しのようではありますが、SLラーメンを頼んでみました。

おお、なんか野菜がやたらと入っています、あんかけです。左側の刻み玉ねぎが独特。

Sl3

猫舌のわたしにとって、あんかけラーメンは冷めにくいので手ごわいんですが、この黄色い中太麺は好みのタイプでございます。なかなか美味しゅうございました。盛りも良く、おなかが満たされました。食べログ見たら、みなさん「タンメン」食べてますね・・・

さて、腹ごなしに、谷に向かって歩き始めましょうか。

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鉄道連隊跡地にもっとも近い谷をセレクトしてみました。途中、最近lotus62さんが鉄道島とか鉄道岬とか言っている感じの場所を過ぎます。

この先が下り坂になっています。

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もっとも低い地点に到達。奥に車両基地が見えますが、だいぶ高いですね。

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その、最も低い位置に何かあるといいなぁ~、と思いながら進んでいくと、

ありました!
まあまあ太めのコンクリ蓋暗渠。護岸のようなものにもコンクリ蓋が使われています。ところどころにトタンの息継ぎ地点みたいなものがありますが、これはなんなのだろう。

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もう少し上流がありそうなので、線路の向こう側まで確認しに行ってみます。

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というわけで反対側。線路沿いに排水路っぽいべた塗り蓋暗渠があったけどたぶん関係なし。同じく坂を下っていきます。

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最も低い地点から続く、こんなふうな怪しい道を通っていくと、

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あれあれ、上り坂になってしまう。料金の看板が出てきて、ラブホの玄関に出てしまいました。なんと今来た道はラブホへのアプローチのようです。

引き返して、

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一番低いのは多分ココです。
もう、地面の模様が違和感ありまくりw

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反対を向いて。地形図的にはたぶん右側の道の少し行ったあたりが上流端です。すぐそこの駐車場っぽいものがすごい気になりますw

でも、こちら側にはたいして水路の痕跡もないので、線路の向こうに戻りましょう。

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さきほどの暗渠はこのように下ってきて、

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よいしょっと道を渡り、

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ここで消滅します。

向こう側には大きな建物が建つようです。水路の延長線上が凹んでいるのが気になります。しかし、何も見えません。

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大幅コの字ウォークにて、次に水路と出会えそうな場所へ。ほんとうはこの写真の左側を川が流れていたはずなんですが・・・。ぜんぜん残っちゃいない・・・
駅の南口後方からずっとだだっぴろい空き地が広がるばかり。大規模造成中みたいです。なんというか・・・デカいんですね、千葉って。いろいろ。。

でも、その先、

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習志野第一中学校の敷地の真ん中に崖があり、ここでなんとなく水路の続きが感じられます。ほうほう・・・ん? ここで、中学校の片隅に立てられた案内板に目が留まります。

それによれば、このあたりには、大正時代まで「庄司ヶ池」という池があったそうなのです。周辺の雨水などが流れ込んでできた池。この中学校も池の底。

名の由来は諸説あるようで、庄司(荘園管理者)の領地だったとか、近くに庄司上東野和泉守の邸があったからなどと言われます。かつての小字にもなっています。
池の辺りは入会地だったこともあり、長い間本格的な開墾はされず、江戸幕府が大砲の射撃場を置いたこともあるそうです。

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案内板にあった明治期の地図。大きな池ですなぁ。なんでも、9万㎡あったといわれます。しかし、この池は1900年代前半に姿を消します。

池は南の高台に遮られていたため、大雨になるとたびたび溢れ、周辺の畑に大きな被害を与えるので付近の農民は非常に困っていたそうです。そのため、大正3年に池水を海に流す排水工事が行われました。
といっても、高台の谷津5丁目辺りは砂質なので掘割式の排水溝をつくることはできず、「鉄筋コンクリート管」を使用・・・当時としては難工事であったはずです。

でもそんな過去を感じにくいほど、造成がお盛んなこの近辺。去年建てられた案内板らしいので、面影がまったく無くなるかわりに・・・?なんて思ったり。習志野市のwebにも消えた池として載っています。

排水の済んだ庄司ヶ池跡は、耕地や津田沼電車区の車庫になった、といわれます。あ、電車区!さっき通りましたが・・・あんなにあっちまで池だったのですね。となると、最初に出会ったコンクリ蓋暗渠も池跡ということ。それから、あれは電車区の排水路も兼ねていたのかもしれません。
うん、とにかく、今回追う暗渠は「庄司ヶ池排水路」という名があるようです。

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中学校の前も絶賛造成中でした。

池の周辺3か所に、「上の弁天」「中の弁天」「下の弁天」が祀られていたそうです。中学校の前には、ほんの数年前まで森があり、「中の弁天(与兵衛弁天とも)」がありました。中の弁天の所有主が、かつて弁天様を家の中に移転したら、「元の場所に戻りたい」と夢に出てきたというエピソードがあります。・・・いま、戻すべき場所はこんなことになっていますが、弁天様は大丈夫なのでしょうか。

上の弁天は所有者が自宅に移転し、下の弁天は今もあるらしいのですが、この日は見つけられず。

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不思議なのがこの中学校、崖上がグラウンド、崖下が校舎なんですよねぇ。逆なんじゃないのか・・・?
また、中学校の表庭には庄司ヶ池排水路のマンホールがあるらしいですが、見られませんでした。

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中学校の建物を眺めつつ、低い部分を追ってくると、だいたいこのあたりに水路は抜けるはず。

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で、続きがありました!こんどは畑の中に。ようやっと、水路らしいかたちで。
喜んで畑の間を走っていきます。

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ゆる~んと曲る、人工排水路。

畑の間の道と思いきや、マンホールもついてる。

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畑の一部みたいに見えるときもあるけど、

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突然囲われ出す。

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もう少し下流側。もっと囲われてる。

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で、ここでこう止まる(今立っているところが最下流部)。

・・・止まるんです、唐突に。暗渠はここで途切れ、追えなくなります。

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左手に庄司ヶ池公園、という公園があります。隣に団地。

前述の”池は南の高台に遮られていた”の、高台が堤みたいに立ちはだかるのです、たしかに。

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赤い点線が堤状になっています。
これはすごい一級スリバチですね。

多くの文献では天然の溜池(一級スリバチ)のような描かれ方をしている庄司ヶ池ですが、縄文海進時の想定海岸線の図を見ると、「庄司ヶ池谷」として海まで途切れず谷が続いているのです。・・・するとこの堤は、人工のもの?でも、もしそうなのだとしたら、何のために(溜池をつくるため?でも、排水路を残さないなんてことがある)?しかし、自然にこんな地形ができるとも思えない・・・。地形図を見ても、谷はずいぶん不自然な途切れ方をしています。

・・・謎の残る話です。

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庄司ヶ池排水路暗渠が消えた先、こういう高台の住宅街となります。

明治初期、長雨のために庄司ヶ池の水が溢れ、なんとこの高台を乗り越えて海岸まで流れ出たことがあったそうです。その時にすっかり削られてしまった場所があり、そこを”流れっち”と呼んだそうなのですが、現在はどこも同じような地形、同じような住宅地で、どこが流れっちなのかわかりませんでした。地元の方も、どれだけ知っていることか・・・

ともかく、高台すぎて、さきほどの水路はどうみても遥か地下。うろうろしても痕跡も何もなく・・・まあ、仕方がないか。

次の目的地として考えていたのは谷津遊園跡地で、ちょうどこの場所からまっすぐ海に向かった位置なので、気持ちを谷津遊園に切り替えることにしました。

谷津遊園。
明治~大正にかけては、塩田とスッポンの養殖池のみが広がる海岸の地。それらが大正6年の大津波で流されてしまい、その跡地を京成電気軌道が買収。大正14年にできたのが谷津遊園です
(戦時中は遊の字を取って谷津園)。遊具、植物園、ラジウム温泉、馬場、海水プール、坂東妻三郎プロダクション関東撮影所、潮干狩り、バラ園、モノレール、・・・一時期あった「谷津球場」は読売巨人軍の発祥の地でもあると言われます。
全盛期は、戦前と昭和30~40年代前半。埋立により海岸ではなくなった昭和50年代より集客数は減少し、それでも黒字経営ではあったものの、京成がディズニーランドをつくることになったため、昭和57年に閉園となりました。

跡地は、住宅地と公園になっています。

・・・谷津遊園、と聞くと懐かしいと感じる人はどのくらいいらっしゃるのでしょう。わたしは、とても懐かしく感じる一人です。冒頭の「東京に遊びに行くよ」の中には、ごく幼い頃、谷津遊園も入っていたものですから。
記憶の中ではディズニーランドと同時に在るのですが、どうやら丁度この2つの遊園地が入れ替わるとき、わたしは両方で遊んでいたようです。といっても谷津遊園の鮮明な記憶は、遊覧ヘリコプター、のみ。バラバラバラバラ・・・という轟音におびえ、初めて乗ったヘリコプター。海が見えたなあ。

折角なので、後日帰省した際に、谷津遊園の写真があれば追記しようと思います。

<後日追記>
実家のアルバムに数枚、谷津遊園の写真を見つけました。

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これが全景。
ヘリコプターに乗っているとき、父が撮ったようです。

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記憶の中では祖母とヘリコプターに乗ったような気がしていたけれど、写真に残っていたものは、父と一緒でした。ヘリコプターに乗っているときのわたしの顔は、ちょっと緊張しているように見えるけど、ものすごいビビりなのに泣いてはいないから、きっと楽しんでいたんだろうと思います。

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園内にいた、放し飼いのクジャク。
オリから逃げたのだと思って、オリに帰さなくちゃ!と追いかけていたそうです。幼いころのわたし。

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池に浮かぶ、電動のゴムボートのようなものもありました。

アルバムに書かれた母のコメントには、「谷津遊園はあと数か月の命だそうです」とありました。ということは、昭和57年の写真なのだろうと思います。おばといとこも写っているけれど、いとこはまだ小さかったから、谷津遊園の記憶さえ無いのかもしれない。

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そしてたしかに、昭和58年からはディズニーランドに行くようになります。
どうして谷津遊園に行かなくなって、ディズニーランドに来るようになったのか、、なんて、知らないんだろうな、この頃のわたし。

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谷津遊園のとなりに、昭和45年に出来たといわれる谷津遊園ハイツ。
健在でした。
現役時代を見ていないと思うので、そういう懐かしさはないのだけど、谷津遊園という名前を見るだけで、ちょっと胸熱。

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海に向かって歩きます。付近にはいろんな団地が建っていて、ここは千葉大学の宿舎のようです。
・・・って、ふと右側に違和感が・・・

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え。

なんと、暗渠が!

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突然出現したコンクリ蓋暗渠が、まっすぐに伸びていました。

直感的に、「これは、庄司ヶ池排水路の流末だ!」と、思いました。
下水道の資料には、ここは谷津放流幹線と記されています。上流方向は谷津幹線で、前述の排水路よりやや北を通っているように見えます。が、どこかで、あの排水路と合流しているのではないか・・・流域が異なるとは思えないし、真っ直ぐ真っ直ぐこっちに来たんだもの。なので、現時点ではここは庄司ヶ池排水路の続き、ということにしておきたいと思います。

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もう出会えないとあきらめていた、排水路の続き。この下を通ってきてたんだねぇ。

排水路は団地の横を抜け、

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ここで終わります。

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流れる先は、谷津干潟でした(もちろん今は下水など流さず、大雨時のみ機能する下水管でしょう)。

今は冬。冬の干潟は、夜散歩がおススメなんだそうです。干潟の潮は、冬は夜によく引くので、鳥たちが賑やかに餌をついばみに来るのだそうです。

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谷津遊園の跡地には、谷津バラ園だけが残っています。
あんなに賑わっていた谷津遊園が、いまはこれだけ。従業員の多くは、ディズニーランドに移籍した、といいます。公園で、子どもたちがぱらぱらと遊んでいました。夜は、鳥たちで賑やかなのかもしれないけれど。

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冬の夕方は冷えるのも早い。そろそろ、帰りましょう。
駅に向かう道、模様が軌道の跡っぽい・・・?1927年からわずか7年だけ、谷津遊園に向かうためだけの、わずか1.2㎞の京成「谷津支線」があったそうです。そんなことも考えながら、谷津駅を過ぎ、京成津田沼駅まで歩きます。

Shoji48

京成津田沼駅から新津田沼駅までの、新京成線のS字のカーブを味わうために・・・。この曲線は、軍の演習線の再利用とされますが、この線形は何度もいろんな事情で変更されてきたみたいです。
また、戦後、線路を利用する際に京成のほか西武も名乗りをあげ、なんとか京成が勝ち取ったという状況があるようです。西武はこの線路を諦める代わりに、軍から資材が貰えることとなりました。それが、あの安比奈線を機関車や貨車として走っていたという・・・!ここで安比奈線とつながるなんて・・・!

不必要にカーブが連続し、きゅきゅきゅきゅきゅ・・・と擦れる音ばかり鳴らす新京成線に揺られ。その無駄が多い感じ、軍からの歴史、西武とのつながり・・・などなど、味わい深い乗りものです。

そして京成線と別れ、居眠りをしまくりながら、杉並に帰ってまいりました。

Tibakou

ちなみに、冒頭で触れた鉄道連隊跡地である千葉工大の学食がこれ。工大ランチB。飯が・・・多いです・・・。唐揚げ(カリッとしておいしい)が3つ、シューマイ(思ったより大きいしおいしい)2つ。食べきれるか心配になったのでゴマ塩をかけましたが、9割以上男子学生という中、上昇気流に乗って無事完食。で、これで300円なんです!すごいな。
なんと別キャンパスでは、同じ日に300円で「トルコライス」を提供していました。なんという素晴らしい学食なんだ・・・!!他のメニューもなかなかすてき。近くにあればいいのに。

それにしても、なんだか、津田沼に来るたびにお腹いっぱいになっている気がしますw

Shojimap

さて、さて。長くなってしまいましたが、今回の行程です(yahooさんありがとうございます)。庄司ヶ池の天然or人工説、排水路地下部分の正確な位置、など、謎の残る旅ではありますが。

それにしても、庄司ヶ池排水路の流末部分、昭和50年代は開渠だったでしょうか、暗渠だったでしょうか。わたしはあの、すぐそばで遊んでいたんだよなあ。個人的には、思いがけないところで自分とつながる、遠い津田沼での旅でした。
千葉の暗渠たち、しばらくしたらまた、書いていきたいと思います。

<参考文献>
秋山好古と習志野刊行会「秋山好古と習志野」
イカロスMOOK「実録鉄道連隊」
「千葉工業大学50年史」
習志野市企画調整室広報課「わたしたちの郷土習志野」
習志野市教育委員会「新版 習志野-その今と昔」
「習志野市史 別編 民俗」
「ならしの風土記」
船橋市「船橋のあゆみ」
船橋市下水道部「ふなばしの下水道概要」
三田歴史研究会「語り継ぐふる里」
洋泉社MOOK「僕たちの大好きな遊園地」
「谷津干潟だより 12・1月」
「谷津わくわく散歩」

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電信隊の原さんぽ

杉並の古い地図を見ていると、気になる箇所があります。

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(杉並区郷土博物館「杉並の地図を読む」昭和14年より)

暗渠者としては思わず水路を見てしまいがちなのですが、この地図の場合は真ん中をクネクネする桃園川の北方にある空間にも、水路と同じくらい惹きつけられてしまうのです。帯状にまっすぐに孤立した原野。これはいったい、何??
いくつかの地図に同じような空間があり・・・そしてまもなくその謎は解けました。

ここは、阿佐ヶ谷では「電信隊の原」という通称名で呼ばれていた場所。
中野の囲町から天沼まで続く、陸軍の演習用地だったのでした。正確にいうと最初は鉄道隊が、つぎに電信隊(第一電信連隊)が使っていたそうです(後に詳述)。そして敗戦後、昭和25~27年頃には居住者に払い下げられ・・・つまり今は単なる住宅地です。たしかに何度も横切っている場所ばかり、特におもしろかった記憶もありません。

けれど、わたしはこの帯状のもと陸軍用地に対して暗渠と同じくらいに興味を抱き、「通しで歩きたい!」という気持ちを持っていたのでした。
では、実際にその電信隊の原に行ってみるとしましょう。

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スタートを西端、ゴールを東端ということに定めて開始。天沼の日大二高が西端にあたります。
日大二高といえば、かつて天沼川がふらふらと流れていた場所。この記事のコメント欄で、地元の方が付近のかつての様子を詳細に教えて下さっています。今読んでもウットリするコメント・・・。

かつてのここを、写真で見てみましょうか・・・

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昭和22年の航空写真(gooさんありがとうございます)。
日大二高(写真左側)の右手から、不自然にのびている区画がそれです。ぼうぼうとした芝生が、そこだけ綺麗に刈られているかのような(でも実際はここがむしろぼうぼうの原野で、周囲の住宅地が整然だったのだけれど)。

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では、現代の電信隊の原を歩き始めましょう。

右手に団地があります。前掲の航空写真でもこのあたりに集合住宅っぽいものがありますが、たぶん違うものでしょうね。

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ここらへんにしては珍しく五差路などあります。古い道とでも交わるのでしょうか。

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わかってはいましたが、やっぱり住宅街にある真っ直ぐなただの道です。

実際の軍用地は幅30~50mほどであり、鉄道隊の時は鉄道線路の敷設や機関車の運転訓練、電信隊の時は電線架設演習に使われたのだそうです。どちらも、この細長な土地が適しているわけです。

もう少し具体的に。ここでどんな訓練が行われていたかというと、

・線路を敷く、外す、機関車を走らせる(鉄道隊)
・地雷爆破演習(鉄道隊)
・コイルに電線を巻いたドラムを背負い、電話線の架設演習(電信隊)
・つるはしで地面に穴を掘り、次の兵が電柱を穴の傍へ置き、次の兵が電線を木の枝などにかけ、その次の兵が電線を電柱に結び付ける。後年は電柱を立てず雑木に架線していた(電信隊)
・無線がないので手動の電話機で本部と連絡をしていた(電信隊
←矢嶋氏の記憶画には、原野に座りこんで糸電話のような電話をかけている様子が描かれている

周辺には民家があったわけで。地元の方々とどうかかわっていたかというと、
・子どもは毎日のように見に行った。たまに機関車に乗せてもらうと大自慢
・休日はいたずら防止のために線路から外してあったトロッコを、大勢の子どもで線路に乗せて遊んだ
・演習で田畑を荒らされたりもしたが、いつも損害金を払ってくれたのでとくにトラブルはなかった
・演習でできた穴に雨水がたまり、大きな池になっていたので泳いだ
・地雷爆破演習の前には用地に入らぬよう村に連絡がきたが、子どもも大人も怖いもの見たさに見物に行った

こんな、ほのぼのとしたエピソードも詰まっているのでした。

かつてはそんなことが繰り広げられていた空間が、今は、こうです。

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この、面影のなさといったら!そこらへんは暗渠と違いますね~。
道は、ときに狭くなったり途切れたりもします。でも、基本的に天沼~中野までほぼ直進で行けちゃうんです。それが面白くて。

それから、ふと見つけたのは、阿佐ヶ谷地区の電信隊の原沿いには井戸が多いということ。

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近年できたような感じもする、周囲を装飾された井戸。

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古めかしく立派な井戸。

これはすごい・・・!
もと共同井戸だったのでしょうけれど、こんなにも広い洗い場は、いまだかつて見たことがありません。

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個人所有と思しき屋根付き井戸もありました。

こんな風に、大切に遺されている井戸がいくつもありました。暗渠沿いを歩いているような気分になりましたが、しかし地形はむしろ台地寄りです。

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住宅地をひたすらゆくだけなので、単調と言えば単調です。
ちなみに、陸軍用地の境界石が残っているということを後で知りました。うー、見つけられませんでした。参宮橋の陸軍境界石はなんの脈絡もなく見つけられたというのに。今回気づかなかったのはとても残念。そのうち見つけて、追記したいと思います!

・・・ちょっと飽きてきて、のほほん歩いていると、

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突如現れる暗渠的空間!!
いやー、このときは興奮しました。細く狭く、地形的には自然河川ではなさそう。でも、暗渠っぽいのです。それなのに、電信隊の原沿いのまっすぐ道のひとつ。

さらに、この狭い道を進んでいくと驚くべき光景が・・・

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突如現れる「まったり処」!!なにこのまったり感・・・。

この極細路地の入口には看板すらなく(営業日は看板でてるのかしらん?)、かと思えば黒板に手書き・・・すさまじい隠れ家ぶり。
というか、ものすごく度肝を抜かれます。だってあの狭い道の真ん中ですよ。

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店構えもびっくりで、まるで人んちのベランダじゃないですかw えー、このベランダの2席だけってこと?飲み物1杯でここで短時間まったりするという意味なのでしょうか??

・・・かなりの謎具合だったこのまったり処は、この情報によると、どうやら内部にも席があり、おいしい食べ物も提供してくれる飲み屋さんのご様子。若干ほっとしました。排水路的暗渠カフェ、ということで、一度は来てみたいと思っています。

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衝撃のまったり処もふくめて、この排水路暗渠っぽいところを、振り返ってパシャリ。

後日、師匠に会う機会があったので、電信隊の原に暗渠っぽいものがありましたと報告したら、陸軍用地の排水路はあっただろうからね・・・というコメントをいただき、師匠のお墨付き?でここは暗渠ということにいたしたいと思います。

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水、とか書いてあるしね。

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もう少し行くと、お伊勢の森児童遊園が現れます。
すぐ近くにある阿佐ヶ谷神明宮が伊勢神宮の分社であることから、この一帯はかつて通称「お伊勢の森」と呼ばれていました。なかでもここは元伊勢の地といわれ、天祖神社の石柱があったとか(今は神明宮に移されています)。

杉の大木が生え鬱蒼とした場所で、演習の原っぱもススキや野ばらの生えた寂しい寂しいところで、住民は追いはぎを恐れながらこわごわ通っていたのだそうです。けれど、電信隊が演習に来てラッパを吹くときだけは、安心して通れたのだそうです。そんな安堵の気持ちも込めてか、「ラッパの森」とも呼ばれていました。

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もう少し行けば馬橋公園です。
今は池のある静かな公園、そしてグラウンドでは子どもが運動をしているような場所ですが、この場所も陸軍用地でした。

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昭和22年の航空写真です。
電信隊の原はやはり浮いています。左側にどーんと写っているのは陸軍気象部です。

日露戦争で気球が効果的だったことから、中野鉄道隊に陸軍気球隊を併設。大正2年に鉄道隊は千葉へ移り、中野気球隊は飛行隊に編成替えとなりました。
そして、陸軍はこの地に壮大な計画を立てます。日大二高までの軍用地を幅100mに広げて滑走路にしようとし、この馬橋公園を含む場所を飛行機格納用地として買い上げました。ここに、飛行場を作る計画を立てたのです。まさに、いま歩いてきた場所のことです。
けれど、滑走路予定地内に民家が多い、狭いなどの理由から計画は中止となりました。

昭和1年、おじゃんとなった飛行機格納用地には陸軍通信学校ができました。昭和14年には通信学校が移転、かわりに陸軍気象部が入りました。

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次は昭和38年の航空写真です。
敗戦後、陸軍気象部は運輸省・気象庁の気象研究所となりました。広大な敷地は縮小され、白梅学園(現秀和レジデンスとNTT)と馬橋小学校に払い下げとなりました。敷地の南側に小学校が出来ていることが、写真からもわかると思います。

昭和55年には、その気象研究所も筑波へ移転することとなりました。
・・・杉並新聞を見てみると、この移転に際して地元住民が運動を繰り広げていたことがわかります。もともとこの土地は、農地と宅地を強制的に(飛行機格納用に)陸軍から接収されたもの。その、農家を含む地元の方々がここを是非公園に!と強く願ったのでした(昭和46年)。昭和56年には決着がつき、公園化が決定しました。
ここでは、陸軍用地へのネガティブな思いも滲んでいる気がします。

いまも、気象研究所跡地周辺不燃化まちづくり、という看板が馬橋公園の片隅に立っており、気象研究所跡地を公園として払い下げたことが簡単に書いてあります。
不燃化まちづくり・・・そういえば、当時の杉並新聞にはたしかに火事の記事がめちゃめちゃ多かったんですよね。この土地は最終的には地元の方の役に立ったということなのでしょうか。

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気象研究所の名残といえる、気象庁の宿舎。馬橋公園の隣にあり、現役です。
ちなみに、このあたりの場所から、高円寺のエトアール通り奥へ向かう桃園川支流がひとつ、流れ出しています。このリンク先の記事の続きを書く用意はしてあるのですが・・・むにゃむにゃ

気象部隊の名残はもうひとつ、場所が離れますが、高円寺氷川神社にもあります。

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唯一の気象の神様ということで、しばしば取り上げられる”気象神社”です。天気予報のまじないに因んだという、下駄タイプ絵馬たちが並んでいます。表は建前、裏には本音が書いてある・・・と言う人もいましたが、裏には何も書かれていない下駄が多そうでした。

社殿脇に由緒が書いてありました。陸軍気象部の構内(現馬橋公園)に昭和19年に造営、空襲により焼失したが再建。終戦後、気象部隊解散に伴い高円寺氷川神社に移設。社殿の腐蝕が甚だしかったため、平成15年に社殿新設。インターネットで気象神社の様子を公開中で、夜間はライトアップされるのだそうですw。

電信隊の原にまつわる歴史・・・ひろがります。

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馬橋公園からふたたび歩き出すと、道から、家を一軒隔てただけの位置にまた道があります。

暗渠か?と見紛うほどの違和感ぶり。家を一軒隔てただけで道があるときって、だいたい暗渠があるパターンなので・・・。でも、ここはそうじゃない。

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道は狭くなったり、太くなったり、舗装がなくなったりしながら進みます。

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ある家が更地になっていました。こういうふうに見ると、1軒分だけ挟んで道があることがわかりやすいと思います。

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また更地がありました。これ、今回いちばん原野っぽい風景だなあ。
こんな感じの空間を、兵士が走り回っていたのでしょうか。

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そろそろゴールが近付きます。高円寺の、庚申通りやらあづま通りやら、にぎやかな商店街をするする横断します。
最後までまっすぐでしたね。

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やがてゴールにたどり着きます。電信隊の原の東端にあたるのは、今年オープンしたてほやほやの、中野セントラルパークです。

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公園の一角には、このように親水空間がありました。もよもよと水が湧いています、人工的に。

つながるなあ、と思うのは、ここは以前湧水が豊富だった場所なのです。天神川の水源であったり、たかはら支流の水源がすぐ近くであったり。他にも掘ればすぐにたくさん湧いてくるような土地です。この人工池がそれを計算に入れているのかいないのかはわかりませんがね・・・

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セントラルパークはぴっかぴかですが、すべてが新しくなったわけではなく、このように古い木もあります。いつの時代からのものか・・・

この土地を最初に使用したのは綱吉で、ご存じ”御囲い”を作りました。1695年末に犬の収容を開始し、15年間存続したそうです。

次に使ったのは陸軍関係の施設。陸軍鉄道隊、電信隊、気球隊兵舎が明治30年に創設されました。後に交通兵旅団司令部も。これらの施設の影響で、中野駅の需要は随分増加したようです。以前書いた中野駅移転にも、この話は関わります。
やがて鉄道隊と気球隊は千葉に移転。残った電信隊は、第一電信連隊と改称しました。その後、昭和13年にここに出来たのが陸軍中野学校でした。
戦後は警察大学校と警察学校になりましたが、平成13年に移転しています。

つい数年前までは、コンクリートの塀に囲まれ、鬱蒼とした廃墟的空間でした。その秘密めいている感じがなんとも好きだったのですが・・・。

着々と工事は進み、今年3月には公園や商業施設を含む、やたらと綺麗な場所となりました。

長い長い、変遷の歴史がここにあり。むかしの写真を見てみます。

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昭和22年の航空写真です(gooさんありがとうございます)。

陸軍中野は極秘部隊ですから、校門には「陸軍省通信研究所」と小さな表札が出ていただけ(憲兵隊と思う人が多かった)、といいます。
また、写真からは切れてしまっていますが、大正~昭和初期の地図では、中野駅からこの敷地内へと分岐する引込線が見られます。

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昭和38年。この頃は警察学校のはずです。敷地内左下に自動車訓練場のようなものがありますが、まさにこれがちょっと前までは横から見えていました。

ちなみに、中野セントラルパークは軍用地の一部にすぎず、残りの場所はサンプラザ、区役所、中野税務署に区立体育館、NTTなどになっています。

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いまのすがた。いやはや、ものすごい変わりようです。

中野セントラルパークには、ショップやレストランがいくつもあり、開放的なテラス席もいっぱい。この日は、テラス席狙いでスペイン料理にするか英国パブにするか迷って、

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英国パブ"THE FooT NiK"でビールを飲むことにしました。

外の昼ビールはホントにんまいな~~。背後ではモンテディオ山形の試合と、それを見守るサッカーファンで盛り上がってました。

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チキン&チップス、ソーセージロール、生ハムとマッシュルームのサラダ。どれも美味しく、たいへん満足しました。ほかのも食べたくなるなーこれは。
来年4月からは大学がオープンし、人口密度がぐっと高まるでしょうから、今が行き時かもしれません。

なんだか、中野らしさがちょっと失せた気がしますが・・・。でも、隣に座った夫婦が「こういう場所が出来て、ほんと良かったね。」と言っていたので、こういう場所を待っていた人だってきっとたくさんいるのでしょう。

これにて、電信隊の原さんぽはおしまい。

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明治期から終戦まで、中野~荻窪の北に、不自然にあった陸軍のための原野。
いまも名残がこんな風に地図上にもあります。

西端も東端も水の湧きやすい土地である、という不思議なつながりを持ちつつも、井戸がいくつもあり、1ブロック隣に道路がありながらも、暗渠ではない道。ちょっと平坦だけど、真っ直ぐな電信隊の原を、ラッパの音を想像しながら歩くのも、そんなに悪くないかもしれません。

※気球隊をはじめとし、いくつかの部隊の入れ替わりについて、文献によって若干のばらつきが見られます。本記事にも間違いがありましたら申し訳ありません。

<参考文献>
杉並区教育委員会「杉並の地名」
杉並区教育委員会「杉並の通称地名」
杉並区郷土博物館「杉並の地図を読む」
杉並区郷土博物館分館「荻窪の古老矢嶋又次が遺した記憶画」
杉並新聞 第1889号
杉並新聞 第2202号
「サンモールのあゆみ」
中野区立中央図書館「中野交通ノスタルジィ part1」
森泰樹「杉並区史探訪」
森泰樹「杉並風土記 中巻」

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