2 地方の水路

東京以外の水路

いまなおのこる、あのドブ 【花色街:長野の暗渠編】

出張が入ると、まず地図を見る。
これから赴く地の水路や暗渠の位置を、確かめるためだ。

長野市への出張が入ったので、やっぱり地図を見た。

目的地の近くには、縦横無尽に水路と暗渠(推定)が走っていた。
これはどちらが上流だろう?地形はどうなっているのだろう?
謎めいた土地だと思った。

しかしその後時間が取れなくなって、なにも調べられぬまま、あっというまに出張の日が来てしまった。

到着は夜。ホテルの近くで少しだけ歩き回ってみる。
・・・さっそくそれらしき空間がある。写真を撮るも、暗すぎて写ってくれない。

翌日撮り直したそこは、こういう空間だった。

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暗闇で感じ取ったこれは、なんとも・・・護岸といい狭さといい、格好いい暗渠にちがいない、という雰囲気を放っていた。

しかしまずは仕事をせねば。その後時間が取れたら、ここにも来よう。
目的地と、そこからの帰り道を詳細に検討する。上物の(地図上であるが)暗渠がありそうな空間を何か所か織り交ぜながら。下調べが出来なかったぶん、いつもの出張よりも今回は情報がすくないし、行きあたりばったり感が強い。ちゃんと、いい出会いはあるのだろうか。

善光寺近くの店「喜世栄」で朝食に野沢菜ときのこのおやきをいただき、仕事を済ませる。
歩いていると、「湯福川」という、開渠に出会った。

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信濃川水系・・・遠くに来たなあ、という気がする。
土石流が発生しやすい渓流であるという看板も。・・・渓流といえば郷里に近いような気がして、なんとなく親しみもおぼえる。

あまり観光名所に興味はないが、中学生の時に父が連れてきてくれたな・・・と思いながら、善光寺にも寄る。

Yuhuku2


善光寺そのものというよりも、善光寺を囲い流れる水路を見たかった。中学生のときの記憶からは、もっと平らな土地だと思っていた。否、なかなか傾斜がある。あのころの自分は、地形も水路も見ていなかった、ということか。
水路は、善光寺の敷地内ではなく外にあるようであった。そして、さきほどの湯福川の続きであるようだった。

しかし・・・暑い。境内の休憩所で、涼むことにした。そこでふと、これだけ立派なお寺があるのなら、きっと遊郭もさぞかし・・・と、思い至る。いそいで遊郭の情報を探す。

あった。ただし、現在それらしき建物はほとんど残っていないそうだけれど。
その名は、鶴賀新地というらしい。善光寺参詣客の精進落とし。やはり、街地の少しはずれに作られている。

地図を見てみよう。

Turumap                  mapionより拝借。

お見事な形だった。
地図上では、まだここは遊郭であるかのようだ。
水路を示す表記はないが、ここには足を運んでみたい、と思った。

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上掲の地図にもあるように、大門のあった通りが幅広で、じっさい、突然大門からが広くなる。言われなければわからない、住宅地の中なのだが。

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鶴賀新地の説明板のたつここは、東鶴賀町公民館。この建物が以前は見番であった、という。明治11年にこの地に遊郭が設置され、四十余軒の妓楼と多くの店が軒を連ねた、とある。ここの見番は、平成6年に建て替えられたそうだ。

嗚呼、もうちょっとむかしに見に来てみたかったものだ。

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web情報をみていると、名残の建物はほとんどないという。この建物だけ、それらしき香りを漂わせていた。そして、やはりそうだと、後から知った。(ちなみに建物が残っていた頃はこんな感じ。)
カフェー建築などはなく、大きくてシンプルなラブホがどーん。端っこのビルにスナックがぽつぽつ。そんな感じだった。

しかし、地図上の輪郭はくっきりと遊郭らしさを残していた。
ではその境界を歩きに行こう。わたしには、これこそがメインともいえる。吉原にも、洲崎にも、そして中村など地方の遊郭にも、ぐるりと囲むドブはあったのだ。果たして鶴賀にもあったろうか?その、名残はあるだろうか?

近いところから、輪郭に沿い歩き始めた。ただの道路、そして細めの道路。地元の資料を手に入れる暇はないのが、もどかしい。

Turu2
あっ・・・

これは暗渠だ。なんと、これまで見た遊郭の囲いの中で、ここまで暗渠らしいものはあったか・・・?なかったのではないか。

Turu0
青印の位置である。
細い道からさらにつづく抜け道のような。そこは暗渠だった。そして、

Turu3

今も水が流れていた・・・

なんともいえない、胸の高まりをおぼえた。
鉄漿のような汚くよどむ水ではない。さらさらと流れる細い水路。

でも、鶴賀のオハグロドブさん、おまえはいまも生きているんだね。

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さらに歩き進む。

ここで、わたしは「アッ・・・」 思わず声をあげてしまっていた。

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開渠があったのだ。

生きている。長野のオハグロドブは、いまもしっかりと生きている!

しかし、これだけ水が滞留しないので、低湿地のよどんだドブであった吉原のそれなどとはちがい、昔から綺麗な水路だったのかもしれない。「オハグロドブ」は失礼だったかもな。

今回見たいくつかのweb情報では、遊郭の遺構らしきものは強いて言うならラブホと飲食街、ということだった。けれど、実際に歩いてみると、遊郭を囲う水路は、他のどの遊郭よりも、健在だった。

興奮、さめやらず。
しかしいよいよ時間は無い。駅に向かい進んでいく。
だんだんと、地形と水路の向きがわかってくる。そこかしこに暗渠があることも。
たとえば長野市役所の前は、

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右手の駐輪場がそうだった。

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こんなふうに綺麗に蛇行する暗渠であり、中にはなみなみと水が流れている。

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橋跡、とおもいきや、

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跡ではなくて現役の橋なのである。

こんなふうに、地図上では左上から右下へと、取水された水がおそらくは農業用水路として、張り巡らされているようだった。
長野市の西側に裾花川が流れており、南側で犀川に合流、さらに千曲川に合流して千曲川が東側を北上していく。裾花川で取水された水たちが田畑をうるおし(以前はもっと多目的だったろうが)、余水は千曲川流域の方向にはけていく、という感じなのだろうか。

Naganoh1
細いものもある。おそらくこれは、水路自体は塞がれているのあろうと思うが、

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空間としてはいかにも暗渠らしく、

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途中からは雨水をあつめる場所として機能するようだ。

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往時は、細くとも流量のある立派な水路だったように思える。

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それが、この御方。

そう、前日の夜に、最初に見かけた暗渠さんなのだった。

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太い道路をはさみ、向こう側の白いフェンスのあたりに落ちていく。市役所の方向に向かって。

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この、「千歳レジデンス」のすぐ北を走る細い道がいまの暗渠である。
道の機能を果たしていない場所も、細い道として描かれていた。
そして、東側にむかって流れてゆき、おそらくは市役所前の水路とどこかで合流するような位置にある。

こうやって少しずつ、長野市の形状がわかってきたようなところで、そろそろおいとましなければならない時間が来た。

さて、ごはん。

Meron

暑すぎたので、しゅわしゅわしたものを飲みたくなり、喫茶店に立ち寄った。
「メロンスカッシュ」という文字を見つけたので、生メロンが添えられた薄緑色の飲み物を想像しながら頼んだら、これがきた。
なるほどねぇ。

Ramen
そして信州味噌ラーメン。
「吟屋食堂」の極味噌ラーメン、全部のせ。
長野=蕎麦、と思っていたが、信州味噌ラーメンも売り出しにかかっているようだ。
蕎麦とラーメン、いずれも郷里山形とかぶっている。山形も蕎麦の名所であるが、地元の人は異様にラーメンが好きなのだ。わたしももれなく大好きなので、このチョイスとなった。

長野の人は、ラーメンがどのくらい好きなのだろうか。・・・などと、濃厚なラーメンをすすりながら、ふたたびふたつの街のことを考えていた。

                       ***

簡単ではありますが、長野の暗渠旅はこのくらいにしておきたいと思います。
伝統ある、長閑なしずかな、緑に囲まれたこの街は、キレ味のある暗渠を隠し持った街でもありました。さて、次の出張の準備をしなければ、ね。

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天井川のいまむかし

しばらく更新が滞ってしまいました・・・いろいろあって、こちらに割く時間が取れなくなってしまったのでした。あと、あらたな暗渠に行く時間も。

それで報告が遅くなりましたが、先月の西荻暗渠探検報告会はおかげさまで盛況であり、他の方々とのやり取りもたいへんおもしろかったです。ご参加のみなさま、関係者のみなさま、ほんとうにありがとうございました。

                        ***

でも、出張ついでの暗渠さんぽはたのしんでいました。
今回は、神戸の記録。地方の暗渠記事は、調べないでいいことにしてるからちょっと楽なのです・・・

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ホテルを取る暇もろくになかったので、2日くらいまえに適当に残っている宿をおさえ、新幹線の自由席に飛び乗りました。宿があるのは、どうやら新開地、という場所らしいです。

初日の仕事を終え、新開地にゆき、周辺をぶらぶらします。

ここの景色を見てまず思ったことは、「湊っぽい」、でした。
再開発を待つのか、歯抜けになった土地、ふるい家屋の向こうに新しくて大きいビル。そういう場所ってところどころにあるだろうけど、中央区の湊の雰囲気がもっとも近いと感じたのでした。

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新開地は神戸というより大阪のような街という印象で、立ち飲みの串揚げ屋さんが何軒もあり、おっさんがひとりで酒を飲み、各種ギャンブル場があるようでした。

その風情はひじょうに好みであり、街に溶け込んだふりをして立ち食い蕎麦屋に入り「キムチ天ぷらうどん」なるものを食し、しばし街を観察していました。嗚呼、良い看板。
この看板のあるアーケードは、水のにおいはあまりしなかったのですが、地図を見ているとどうも気になる、運河跡のような区割をしているのです。
そこで今昔マップをみてみると、

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すごく運河っぽい。すくなくとも「湊川」という水路があったようであり、川跡に遊園ができた時代もあったようです。どんどん興味が湧いてきて、検索してゆくと・・・

かつてここに、湊川という河川が在ったことがわかりました。しかも天井川(土砂の堆積で次第に河床が高くなり、それに合わせて堤防をつくることにより、どんどん周囲より高くなる川。DPZでも天井川の川跡が紹介されていました)であったため、付け替えられたと。ちょうど明治期の地図では、新湊川が開削され、そのかたわらで湊川の上に湊川遊園が出現しているのが見て取れます。

神戸といえば地下河川にハマりつつあったので、今回は鯉川暗渠にゆき、また河川マンホールを見ようかな、などと考えていましたが・・・最早それどころではありません。下調べもせず適当にやってきた場所が、まさに旧川道であるなんて。しかも、最初に「湊っぽい」とつぶやいた場所が、「湊川」の跡であったなんて。

・・・翌朝は旧湊川跡を歩き回ることに、決めました。
(ちなみに検索すると、最初に庵魚堂さんの記事が出てくるのです、さすがです。)

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さて翌日。
川跡のところだけ古い建物が並んでいます。そうか、昨晩のあの歯抜け地帯もか。
川の上にばかり、古くて渋い飲み屋群とレジャー施設が集中しています。

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ちなみにレトロな洋食屋さん、グリル一平も川跡の上にあります。時間が前後しますが、これは最終日に食べた天井川暗渠オムライス。

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・・・川跡の外側のほうが低いのでした。
こんな地形だから、水のにおいがする、とはとても思えなかったわけです。

しかし天井川の川跡だとわかると、このながめは、もう、すばらしくおもしろい!つまりここは堤防なのか。。

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上流に遡っていくと、そこは、もっとすごいことになっている。今立っているところは川の外。向こうの高い土地が、川の中。うはぁ・・・。

上は湊川公園になっています。湊川公園は、戦後一時引揚者宅、遊園地、芝居小屋などになっていたそうです。サーカスがくるときも、神戸タワーが立っていたときも・・・。いまはパチンコ屋さんやラウンド1などになっているけれど、なんとなく、たましいは継承されている。

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で、この湊川公園の下の部分に商店街があって、入れるのです・・・

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入ります。
溢れる昭和感。朝なのでほとんど開いていなかったけれど、現役のお店が多そうでした。

ここは旧湊川の下にある場所。ということは、暗渠の中のようなもの!(むしろ川の下だけど)・・・と、大興奮してあるきました。

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奥にあった光線、という名の喫茶店。
3日目はこの暗渠「中」喫茶店で、トーストとコーヒーのモーニングと洒落込みました。

そしてそのために、2日目の朝はほかの暗渠沿い喫茶店を2軒ハシゴして2回モーニングをたべる(悔いのないようにと)いう気合の入りようでした・・・このへんのタマゴサンドは、玉子焼きが入ってておいしかった!

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遥か頭上を川跡がとおるよ。

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川から街を、見下ろすよ。

そしてこの方向に、遊郭跡があるのです。

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福原遊廓の名残、いまもあります。桜筋と柳筋、ソープランドがぽつぽつ。
吉原の中を歩いているときととても近い感じがしました。吉原のみならず、いくつかの遊郭跡(中村、金津園)を朝にあるくと、その空気、建物、店名、立地、街のかたち・・・いま自分がどの遊郭跡にいるのか判らなくなるほど、似ている気がします。

このサイトに往時の福原が載っています。
福原遊郭は明治4年に、計画的につくられたものなのだそうです。それは神戸が港町であることと関連します。開港によって、外国人、それから軽輩のものが出入りするので、と、市街地から隔離されたこの地に遊郭ができました。その条件に合うのは、川べり・・・吉原と通じるものがあります。

福原遊郭誕生は、前述の旧湊川が娯楽の場となったこととは独立のおはなし。たまたま、その30数年後に川跡が栄え出し、両者がともに繁盛することとなったのだそうです。

さて旧湊川に戻り、遡ってゆきましょう。

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また地下街がありました。またも川の下に潜ると、そこにはやはり昭和っぽいお店が並んでいました。入りたくなるような定食屋さんがあり、もう何泊もしたかった・・・

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川跡の上にもどってくると、上流は引き続き商店街でした。こんどは東山商店街という、とても活気のあるアーケード。とくに魚屋さんが充実していました。見たことのないお魚や、いきいきとしたタコや。友人の土産にと、いわしせんべいを買いました。

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新湊川ふれあい会館、という建物に遭遇。
”河川防災ステーション”と書いてあるので、なにか川絡みの展示でもしてやいないかと入ろうとしたら、休日はオヤスミでした。でも、なにやら作業をしているおじさまがいらしたので、思い切って旧湊川のことを聞いてみました。
すると、明治に付け替えられたこと、その理由は洪水だけではなく、この川と堤防により神戸の街と交通が分断され発展が妨げられることも大きかったということ、付け替え工事は民間の会社が協力してやったこと、などを、教えてくださいました(※)。いま、下を下水管が通っているわけでもないことも。
それから、湊川隧道の一般公開のご案内もくださいました。湊川の付け替えの際に、山の下を通すことにしたのでつくられたという、明治からあるふるい隧道。これ、いつか行ってみたいなあ。・・・おじさまがた、突然でしたのにありがとうございました!

※湊川改修に関する文献においても、付け替えの理由は、1.流出する土砂による神戸港の機能の低下を防ぐ、2.神戸と兵庫の間に横たわっていた交通上、経済上の障害の除去、3.洪水被害の防止、とされていました。

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ふれあい会館は、付け替え地点のすぐ近くにあります。つまり旧湊川の川跡上流端まできました。

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そしてこれが現在流れる開渠、新湊川、です。河床の低い河川として、西へと流れていきます。

新開地より下流もたどってみましょう。

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アーケードが途切れた先には、ボートピアに、大型の劇場がいくつか。
嗚呼、ここでもまだまだ、土地のたましいが。

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飲み屋さんも、たえずありました。そして他が閉まっていても、飲み屋さんと立ち食い蕎麦屋さんはやっている、という光景がたえずありました。

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さらに下ると、こんな場所に出逢います。

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稲荷市場。近くに稲荷神社があるからのよう。
真っ暗だったのは、日曜日だから、らしく。開いているときにきてみたかったです。ここも、川幅からいって湊川上のはず。

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その下流側も閉まってたけど、

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やっぱり飲み屋さんだけはあいていて、ここだけ人がいました。
すごい・・・旧湊川のこの一貫性。

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そろそろおしまいです。河口の方角に、工場が見えます。

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川崎重工業の工場のようです。
これもまたむかしからあるもので・・・、明治期は川崎造船所だったようです。旧湊川の川尻が埋め立てられ川崎造船所に売却された記録もあるようで。まだ手に入れていませんが、村松帰之「わが新開地」内では、いまたどってきたエリアを、当時行き来するひとびとが三つの色に例えられているのだそうです。福原の女たちを「赤き流」、繁華街にあつまる不良少年を「黒き流」、そして川崎造船所の職工を「青き流」と・・・。

暗渠に感じている興味を、詰め合わせにしたようなこの旧湊川跡。唸りながら地図をみていると、・・・あ、いまも細い開渠がある!

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うわあ・・・これはステキな。

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団地の下から突如あらわれたこの細い開渠は、工場に流れ込んでいくものでした。
なんという水路なのでしょうか、旧湊川の名残川なのでしょうか・・・

これで旧湊川の跡は上から下まであるいたわけです。

けれど、このときの暗渠さんぽは、もう少し続きます。
もともと、神戸出張が決まった時点で、関西に居る友人と遊ぶ約束をしていました。そして、わたしが行きたい場所を選んでよいことになっていたのですが・・・それが、たまたま、高川という天井川だったのです。そう、もともとわたしは現役の天井川をあるくつもりでいた。そうしたら、その前に、宿泊先が天井川の暗渠にあった、という巡り合わせだったのでした。

高川は、すべて辿る時間はありません。友人らと合流し、呑む予定である十三に近づいて行って、適当なところで切り上げる予定で。
思いのほか都会のビル街をはしる北大阪急行電鉄にのり、緑地公園駅に集合(地図上の印象として、西武線沿いのようなイメージでいたのが、ぜんぜん違ったということです)。

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高川はこんなふうに、豊中市と吹田市の市境を流れ下ります。

さて、現役の天井川を見にゆきましょう。旧湊川も、むかしはこうだったかな、なんて想像しつつ。

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緑地公園駅のそばの高川。はじめはふつうの川に見えました。

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それが、歩いていくと、だんだんと自分たちのいる川沿いが高くなってゆき、すごく不思議な感じになります。

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あれ、あそこ、色が違うなと思った場所は、

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下を道路が走っているのでした。

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うわあ・・・

目の前のトンネルの、天井の「上」を開渠が流れているのです。上を。嗚呼・・・湊川公園のところの景色と一緒だ・・・

でもほんとは、ここのトンネルはもっと古めかしくて良い感じだったはず。ネット上にはそのような写真が上っていたのですが、どうも、わりと最近に新しくされたようですね。

ぴかぴかのトンネルにはやや残念な気もしましたが、それを上回る天井川のパンチ力。そして、旧湊川を歩くときに力を貸してくれるであろう想像力を得られたのは、とてもよかったです。

そしてここで高川と別れ、去年にひきつづき十三でお酒を飲んで、宿にもどってきました・・・

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ちなみに衝撃的なことに、今回の宿泊施設は、なんでかラブホでした。
ラブホでひとり、寝起きする。まったく落ち着けませんでしたが、旧湊川沿いは、娯楽とエロスの街であることを考えれば、これ以上ぴったりのロケーションは無いかもしれない。直前に〇〇トラベルでろくに考えず申し込んだために(?)起きたこのハプニングさえも、絶妙な味わいがありました。

たまたま泊まった川跡沿いの宿。
たまたま連続で見ることになった、新旧の天井川。
できすぎている偶然は、このところ新しい暗渠に向かえないでもどかしくしていた、わたしへのプレゼントであるような気すらしました。

神戸に感謝。地下も深いが、盛り上がっている場所も深かった。奥深い街です。

<文献>
大槻洋二 1997 神戸・新開地の空間形成と歓楽街成立の契機 : 近代都市の歓楽街形成に関する史的研究 その1 日本建築学会計画系論文集 (496)
吉村愛子・神吉和夫 2003 明治期の民間会社による河川改修事業の計画と施工過程―湊川改修株式会社― 土木史研究 講演集 vol.23

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ガーブ川を辿れた、と思ったら

今回は沖縄の暗渠のことを。
といっても昨年辿った、ガーブ川です。またも出張でではあるけれど、再度那覇に行く機会を得たので、ここぞとばかりにガーブ川へ行ってまいりました。特に資料はないので、辿ったということの速報的記録ですが、おつきあいくださいまし。

辿った、と書きましたがそれは誤りで、前回は途中から間違えて支流を追っていたのでした。

Gabumap2_2

                           前回の記事から拝借。yahooさんありがとうございます。

なので、今回は赤丸のところと、それから未訪の河口部分を辿ってガーブ川をコンプしたい、というわけです。

赤丸のところから開渠が始まるけれど、あやしげな等高線はもっと東までつづいているようです。なので、ひとまず付近でもっとも高そうなところに登り、そこから下りていくと、

Gap1

なんとなく谷頭っぽい感じの場所が見えてきます。やっぱり思ったよりずいぶん奥から始まっている様子。

この道を進むと、

Gap2

予想もしない急崖。

こんなに下りちゃって、いいの?

Gap3

何やら、管。

底に下りてみると、そこには、

Gap4

思わず「横浜か!」と、つぶやいてしまうような風景が広がっていました(実際つぶやきました、小声でね)。

だってこれは、横浜とか川崎とかにたくさんある谷頭の風景じゃないか。わりとウロウロしたけれど、沖縄でこういう住宅地はまだ見たことがなかったのだもの。

Gap5

ココにもあるのねえ、こういう崖。

Map1

地図を見ると、いかにも谷戸、とわかります。

Gap6

ところがその住宅地は同じ調子で続くのではなくって、これまた唐突にこんな階段が出現。

で、、、

Gap7 

公園が広がっていました。

Gap9

スリバチ公園が!

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脇から続く、このアプローチも意味深。

Gap10

そのむかし、ここは池だったでしょうか。
すくなくとも、滔々と水は湧いていたのではないでしょうか。

ひとり、感動し立ち尽くしながら、さきほどの住宅地の谷頭とここと、瓢箪のような2つの水場を想像していました。

この公園の輪郭が描く曲線と傾斜に、水の流れを感じながら、さてわたしも下っていくとします。

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公園の出口。
でもここから、少しの間川跡らしき空間は家の間に隠れます。

次に出逢うのは、回り込んだ先の、この空き地。

Gap12

・・・実に衝撃的。衝撃的すぎる再会でした・・・

Gap122

だってこんなに曲がりくねっているんですよ。

Gap13

と思ったらまたすぐ、道路に埋もれて暫くわからなくなりますが。

Gap14

しばらく暗渠を見失いながらあるきます。・・・トカシキ食堂、かなり良い!!
(現役のようです。食べに来たいなあ。)

Gap15

トカシキ食堂を過ぎると、唐突に開渠が顔を出します。冒頭の地図の、開渠のはじまりがこれ。

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暗渠の出口にあったものは、キレイな水でした。あの崖やスリバチで湧いたものでしょうか。水たちはこの地面の下を流れてきていたのでした。

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それより下流は、前回の記事で追っているので割愛。いやぁしかし・・・良いものを見た。

そうそう、前回、国際通りよりも下流部も追っていなかったのでした。幅広の道路になっていたのでイイや、と思っての省略でしたが、今回は折角なので河口まで行くとしましょう。

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日曜日だったので、国際通りが歩行者天国になっていました。けれど、暑すぎるからか、あまり闊歩する人はおらず・・・

その通りの上で、子どもたちがシャボン玉遊びに興じていました。ちょうど、ガーブ川の上をシャボン玉が流れてゆき・・・なんだかとっても良い光景で、暑さを忘れてしばし佇みました。

Gapkaryu2

下ってみると、道端には川を模したような空間があります。

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中はこんなことになっていましたw

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あとは、幅広の道路からこのように左折して駐輪場になって、暗渠はおわり。

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開渠となって、久茂地川に向かっていきます。

Kumoji

久茂地川には階段があり、下りることを阻まれていなかったので、試しに最下段まで行ってみました(泥で滑るので注意)。すると、大量のフナムシのほかに、蠢くものたちが・・・逃げられちゃいましたが、ムツゴロウ様の魚がいっぱい居たようでした。それから、カニも、ボラも。

さて、一応本流は辿り終えましたが、前回も気になっていた学校脇から延びる支流、というのがあります。そちらも行っておくとしましょう。

 

Gapsiryu1

と、言いたかったのですが、上流端はたぶんこの先です。疲労と時間切れにより、先っちょまでいけませんでした・・・まぁ、いつもの自分なら無理やり行っていたのかもしれませんが、なんというか沖縄時間的になっていて。

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この支流は、道路を渡ったところから突如開渠になります。

Gapsiryu3

そして曲りながら家の間を抜けてきたと思ったら、

Gapsiryu4

いびつな暗渠に変わってわたしの心を鷲掴み。

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そこ、そこの隙間。

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さらにその下流は、上に旅館が載った旅館蓋。

Gapsiryu7

開渠に変化。
横のトタンがたまらない。

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橋跡。「新」だけが読めます。

Gapsiryu9

そしてチラチラ隙間をのぞかせながら、ほぼ暗渠でガーブ川本流へと合流していくのでした。

Hikawa
だいたいこんな感じです。樋川支流と仮名を付けておきましょう。
ふぅー、ガーブ川は支流もすごい!

さて、ゴハン(翌日だけど)。
仕事をすませ、残り時間を逆算しながら過ごし方を考えます・・・沖縄料理って結構近所でも食べられてしまうので、ここでしか食べられないような何かが良いな・・・
というわけで、ハンバーガーショップJEFに行くことにしました。

すると、行く途中の道の傍らにて。

Jef1

うわあぁぁあああぁああ。

Jef2

うひょぉぉ・・・

Jef3

うわ、木製ハシゴ式開渠?(ただし枯れてる)

Jef4

なんだこれ??

Jef5

そしてコンクリ柵のハシゴ式開渠となって下っていくようでした。

もう、ものすごい変なテンションになってしまいました。でも、ゴハンも食べたい。でも、これも辿りたい。うー、とりあえずゴハンを大急ぎで食べよう。

Jef

これこれ。JEFのぬーやるバーガー(ポークランチョンミートとゴーヤを卵でとじたものが具)、それからゴーヤリング。
いろいろと素朴で良かったです。

で、この店舗に向かう段になってやっと、気づいたのです。さっきの暗渠もガーブ川に流れ込む支流だということに!

この店舗は、ガーブ川本流の水上につくられた商店街が目と鼻の先。なので、さっさと食べて、支流の付け根に向かいます。

Siryu1

河口はたぶんここらへん。暗渠サインは乏しい。

Siryu2

ところが店の裏側にきたら、クッキリと。

Siryu3

横断んんん。

Siryu4

その先がすごかった。

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蓋上のカオス。

Siryu6

開渠がはさまる。

Siryu7

な、南国蓋。

Siryu8

何蓋なんだ・・・

Siryu9

ひー・・・

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ここまで、一歩につき一枚撮ってるかんじです。

Siryu11

ふぅむ・・・良いなあココ。

Siryu12

そして暫く家々の間に埋もれ、遡れなくなって、再び出会えるのがさきほどのココでした。

Siryu14

まだ続きます。行けるところまで遡ってみましょう。

Siryu15

あっ早速隠れちゃった。
ここから上流もしばらく辿れなくなります。

Siryu16

なかなか、暗渠が見られる場所に入っていけません。やっと入れたと思ったらこんな感じで。ココ、崖下だったので上流端かもなあ、と思っています。

これ以上は時間がないこと、それから暑すぎたことにより、断念しました。断念と言っても、「まぁ、いいかぁ」というようなおおらかな気持ちで去れる、というのが、前日と共通する感覚でした。

Siryu17

よくわからない点もあったけれど、ガーブ川支流はあの低地のどこかを流れていたことでしょう。また縁があれば、きっと辿りに来ることができるでしょう・・・

Makisi

この支流は牧志で合流してくるので、牧志支流(仮)としておきます。

さて。ガーブ川。本流を辿りきれたと思ったら、今度は2つの優良な支流が出現し、その2つとも、上流端の詰めがなされないまま終わってしまいました。けれど詰められなくても、まぁそれはそれで、と終わりに出来る感覚を残しつつ。

また、来れるかな沖縄。来たら、また更なる良い暗渠に出逢えるかもしれないな・・・なかなか終わりきらない、沖縄の旅でした。

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宇治川は地下を流れていた

大阪は十三(じゅうそう)に行ってきました。

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ええ、呑みに。

をんな二人で、しょんべん横丁。一軒目は雰囲気で選び、十三屋へ。
二軒目は同じ通りでハシゴしたんですが、、、既に酔っていていろいろと忘れてしまいました。
十三屋は予想通りたいへん良き大衆酒場で、盛り付けがうつくしかったりし、おいしくてコスパもよくてワクワクしました。「こういうメニューは関東にはナイヨ!」ってなものが何品かあったのですが、その後の記憶ごと失ってしまいました。料理写真も撮ってナイ・・・

その後、阪急電車にゆられて宿(=神戸)に帰ってきたんですが、恐ろしいことに終電なのに爆睡。知らないおばちゃんに知らない駅で起こされ。我ながらよく帰ってきたものだと思います。本能ってすごいや。

・・・じゃなくって。記事にしたいのは翌朝のことなんですよ。

Kobe2

神戸に行くと決まった時点で、どの暗渠を見るかを探し始めます。
今回白羽の矢が立ったのは、この窪地。

さて今回の旅では、どんなすがたの暗渠が、わたしを待っているでしょう?

・・・ワクワクもしますが、残念なことに、呑みすぎ&睡眠時間短めで、体調がアレです。予定よりも遅くまで寝てしまうし。出発地点と決めていたところまで、タクシー(ほんとうは街を味わうため避けたい)でいそぎます。
「大倉山駅のあたりまで」と告げ、こんなところにも大倉山!、と思っていると、車は急勾配の坂道を駆け上がっていきます。はは、タクシーで良かったわw

・・・すると、そこに待っていたのは、

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水門・・・?

え・・・なにこの構造物??後ろには何があるのだろ?
山手幹線という大きい道路に向かう、威圧感たっぷりにそそり立つソレに、目が釘付けとなります。

・・・さあ、丹念にこの上を見て、それから、神戸は「パン」推しでもあるので、このあたりに2軒あるベーカリーのどちらかのパンを買って朝飯にでも・・・と、計画していたのに、上述の体調なもので、ここで一気にダメージがきます。うぅぅぅ腹が痛い・・・パンとか言ってられん・・・とにかく開いている店に入らなければ・・・!

と、あたりを見回したら、水門の斜向かいに喫茶店がありました。神様ありがとう。

その名は馬甲。イイ感じに渋い外見と内装です。
メニューも、サンドイッチにハンバーグ、ナポリタン、のようなわたし好みの感じで。

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トーストのセットをたのみました。コーヒー、トースト、ハムエッグ、サラダ。
きれいな色使いだなー。さすがシャレオツ神戸。
そして、ぜんぶ美味い・・・よかったこのお店、アタリだった。ちゃんとパンに着地してるし。ありがとう神様。

などと、感心しながら食べていました。

お腹が落ち着くまで、少々時間をかけて待ってから、外に出ます。

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宇治川、と書かれた欄干がすぐ脇にありました。向こう側にチラリと見える道路が、これから辿る暗渠です。

そう、あなたは「宇治川」さんと言うの。

今回、図書館等に寄っていないので、宇治川さんの細かい情報は持ちません。
少しネット上で見てみると、かつての地名が由来のようです。
むしろ、この川以外には名を遺していない地名であるとか。

宇治川といえば京都、と頭に浮かんでしまいますが、神戸にも古くから宇治という名があったようです。

というわけで、もうひとりの宇治川さんを、下ってゆきましょう。

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スタートはココから。
しかし、いやぁこれはほんとうにすごい迫力。

裏に回ると、

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なんだここ・・・!!

さらさらと流れ込む川の水。
仕方なさそうに生える草木たち。
枯れた色合いのコンクリート擁壁。

きっと理由があるのだろうけど、わたしにはわからないすべての形。
人の近づけない空間・・・しぃんとしている・・・広い・・・でかい・・・

まるで要塞・・・。

呆然と、しかし内面ではひどく興奮しながら、橋の上からこの場所をずーーーーっと見つめているわたしを、地元の方が不思議そうにチラ見しながら、通り過ぎていきます。

よくみると、傍らには中小河川宇治川改修工事と書かれたプレートがありました。
そしてここは、宇治川暗渠調整池である、ということがわかります。改修工事は昭和47年に行われたようで、そのときにこの不思議な構造物ができたのでした。暗渠化自体がそのときかどうかは、不明のまま(もしかすると、同時かもしれないけど)。

暗渠調整池。これまた、初めて耳にする名称です。

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上流側を振り返ると、そこはふつうの開渠でした。拍子抜けするくらい、ふつうの。
地図上では、もっともっと山奥から宇治川は開渠でのびていて、水源は後方のどこかです。

ちなみに左手に見える山が「大倉山」。

はぁ、のっけからすごいものに出逢ってしまった。

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監視塔のようなものの、下流側はこう。
突然、川はなくなります。

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川の流れのように見紛う、ここにあったのはトンネルと人の道で、この下を宇治川が流れるようです。

つまりここが、暗渠の始点。

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右側の歩道の盛り上がりが怪しいですが、どうやら暗渠はそっちじゃなくて道路の真ん中のようで。

蛇足ですが、左側に見える酒屋さん、ここは、角打ちの聖地だったようです・・・。参考。うわぁぁなんだって素晴らしい店があるんだろう暗渠沿いには。なんで朝行っちゃったんだろうココに。と、頭を抱えたのは3か月も経ってからのことw

宇治川さんの所在を知らせる目印は、道路の真ん中に鎮座していました。

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コレです。

「あ、はい、わたしが宇治川です。」

下水のマンホールと区別されたコレは、この下を湧水由来の自然河川が流れることを意味し、そしてまた宇治川さんの名刺でもあるのでしょう。

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暗渠の両側は商店街です。

こんな、すてきな市場を携えた。

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そのまま暗渠を下ってゆこうと思っていたのですが、なんとなく市場の裏側に惹かれて、

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なんとなく裏に回ってしまいました。

すると、そこにはわかりやすく暗渠が!

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細いけれど、これはもう完全にそうだし、続きがあるようです。

嗚呼これは、遡らないといけない。

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嗚呼これ、好きだなあ・・・

本流の宇治川の出で立ちもよかったけれど、この傍流らしきものも上物です。
宇治川は何流かあったのでしょうか。あるいはかつてはこっちだったのが、向こうに付け替えられたのか。

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先ほどやってきた方角に、引き返してゆきます。

崖がぐっとせり出してきて、また表情が変わります。

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と、”毎日市場”の裏手から飛び出してきた二匹の猫たちが、つかず離れずの絶妙な位置でわたしにアイコンタクトしてくるんです。ここで足止めを食らい・・・

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さらに遡ると、すごい崖地帯。
どうなってんだここの地形。

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その先、道路を渡ると今度は崖がなくなって、暗渠は歩道にちょこんとしてます。

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追える限りの上流端。後方の赤いスロープのようなものの下も、流れが通っています。その先、道路の向こうでは見えなくなりました。水源は不明。

さてこの流れと出逢った地点から下流はどうか、と、戻ります。猫と遊びながらね。

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最初に見つけた写真の下流はこう。宇治川本流と一本隣の道路との間を、こうやって抜けていきます。しかしワンブロック行くと、消失しました。

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ちなみに、いま撮影したのはコレの上。
ちいさな暗渠を渡るためにつくられた、手づくり階段。

昨日一緒に飲んだ子は、こういうのがとても好きそうだったんだよな。一緒に上りたかった。

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まあでも、すごくガタガタしますw

この後学会に参加する予定だったので、ヒールの靴にワンピースという身ごしらえ。この場所で興奮顔で写真を撮りまくっていて、通報とかされなくて良かった。

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さて本流に戻ります。
メルカロード宇治川、と名のついた商店街。そう、もともと宇治川のほとりにあったお店がそのまま残っているそうで、川の名を冠した商店街。

すてきなお店がざっくざくでした(まだ開店前でしたが)。

宇治川が地下に潜らされたのは、きっと何度も氾濫したからではないかと思うのです。おそらく商店街のひとびとも、いろんな目に遭いながら、川とともに暮らしてきたのでしょう。

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そして今でも、宇治川とともに暮らす。

なんだかそのことが、とても胸に沁みて。こんどは商店街が開いているときに、来てみたいものです。

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商店街はココで終わり。阪急の線路の下を、宇治川は流れていきます。

(貨物が通るの待ち。)

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現在地。
右端に開渠が表示されています。

ね、この場所、宇治川宇治川しているでしょう。

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しかしその先、通りに呑まれてしまい、突然わかりにくくなります。海はもう少しなのに。

宇治川さんの名刺も見えなくなったなあ、ほんとにココでいいのかなあ、と思ったら、ツイッターにて、Pさんからの助け舟が!

弁天町一丁目と東川崎一丁目の間の弁天町側の歩道上に、お目当ての蓋がある、と!

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写真まで見せていただきました。この位置にも宇治川マンホがあったのだそうです(Pさんの見せてくださった写真を拝借)。

マンホーラーの方って、蓋の場所をちゃんと記憶されていて、希少な蓋を見ただけで場所が特定できてしまうので、ほんとうに吃驚します。Pさん、どうもありがとうございました。

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おそらく、見失ってからも宇治川さんは真っ直ぐ来るようです。
さて、それではついに終点部分を・・・

いつのまにか、雨がざあざあ降ってきました。旅先だったので傘を買う気が起きなくて、ずぶぬれになりながら海を目指しました。

見えてきましたね。

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うわぁー、水門だ。

これは大きい・・・!

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道の下を来た流れが、ここで右側にカーブしてきて、

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ここから海に出る・・・

水門の下から、もよもよと水が出てくるのがわかりました。
宇治川さんの、終末部分。

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もよもよ~・・・。

なんて独特な暗渠だったんだろう。振り返りながら、河口を見つめます。

もしも雨が降っていなかったなら、わたしはここにしばらく居続けたかもしれません・・・。

Ujigawamap

今回の行程です。

暗渠というと、地上に在った川を下水道化したものをまっさきに思い浮かべてしまいますが、この宇治川は、自然河川のまま埋められたもののようです。
そしておもしろいことに、神戸市中央区のwebを見ると、神戸にはほかにもこのような地下河川が、たくさんあることがわかります。興奮の”地下河川マップ”はコチラ

他の地下河川にも、名刺的マンホール蓋があるのかしら?
他の暗渠のはじまりと終わりは、宇治川さんと似ているかしら?

神戸に行くたのしみが、また増えました。

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塩釜、おもいで、暗渠

 

2013年夏。1週間のうちに宮城に2回行く、という珍しいときがありました。

1回目はたしか月曜日。日帰りだったので、仙台駅周辺で情報収集だけして。
2回目はその週末。泊まりだったので、朝は海の幸・・・と決めていました。

宮城、とくに仙台近辺は、ちいさなころからよく訪れていた思い出の場所。
そのひとつに、「家族全員で日曜の朝5時に出発して大量の魚介類を買い込む」というイベントのため、定期的に行っていた場所があります。

塩釜の魚市場。

父と祖父が大きなクーラーボックスをかかえて、ひとしきり魚を買い込んだ後は、近くのお店でご飯を食べて、帰って来るのでした。いつも適当に入るので贔屓の店があるわけでもなし、どの店で何を食べたとか、ビックリするほど覚えていません。

だから今回も、適当に入ります。塩釜の市場で朝ご飯、それだけでじゅうぶん。

場内に入るとすぐ、定食屋さんがありました。塩竈市場食堂。

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ためらわず入り、海鮮の丼を食べました。

何点盛、と選べるので、中途半端に4点盛。マグロとホタテはきっとうまかろうと思って。あと、大好きなカニは癖で。それから、あぶらぼうず、というはじめてのお刺身。しじみの味噌汁。朝ルービー。

もちろん、おいしい。おいしい・・・。至福の味。

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市場の中も、見て回ります。
塩釜はもちろん津波の被害を受けた地ではありますが、その地形ゆえ魚市場は浸水のみで破壊はされなかったということです。周囲も含め、以前の建物たちはまだ残っていました。

なつかしいな・・・ここにくるときは、いつもとてもワクワクしていました。5時なんていう早起きも平気なくらい、非日常感でいっぱいで、とっても特別な遠足にきたような。わたしがいま、しょっちゅう暗渠さんぽに市場めしを組み合わせていること、市場が好きなことって、もしかすると塩釜がルーツなのかもしれない・・・

けれどわたしはやたらと好き嫌いが多く、とくに生魚はだいぶ食べられません(ありすぎて書くのが面倒くさい)。鮮烈な磯の味!なんて、もっとも苦手とするところ。

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ところが、ここで出会ったこれは、わたしにとって大きな衝撃でした。
うに!

うには、おいしいと言われるような、濃厚なものほど苦手です・・・モワァっとしていて。
けれど、このうには、新鮮なままで、ミョウバンにつけていないから、全然味が違うよ、とお店の方に強くすすめられ・・・恐怖におののきながら、ひとくち。
うお!本当に全然いやな味がしない!
なんか甘い・・・!これなら、全然我慢しないで食べられる!
と、えらく感動したのでした。

そうそう、休日は丼セットなるものがあって、白飯と味噌汁等が300円で買えて、場内のお店で好きに魚介を買ってのっけて、マイ海鮮丼にして食べられるそうな。うーん、今度は、それ食べたいな。

さて、港から、今度は山の方向に歩きます。
あれだけ塩釜に行ったのに塩竈神社の記憶がないこと(家族揃って食い意地だけなのかw)、神社の近くに酒蔵があること、などから、塩竈神社に寄ることにしました。

そして、その帰り、神社の脇にある谷地形を歩きながら、地図に記載されている開渠もちょっと見てみようと思い、近づくと、

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そこにあったのは暗渠でした!

なんとまあ、千葉っぽい出で立ちの暗渠さんなんでしょう。これはソソる。
「ついでに見とく」だけだったけど、暗渠だった以上、これは、遡るしかない。

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とはいえ時間の都合もあるので、追えた範囲での最上流部はここ。ちょうど、開渠になった箇所でした。山のほうで湧いているもよう。

そのすぐ下流側は、

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フェイク小川と橋のある、思わせぶりな空間。

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その下、水が一応流れています。これはこれで表通りをフェイク川として下っていくようです。

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しかし、本命はこっち。

さきほどの開渠は数十メートル途切れたのち、表通りと並行する裏道沿いにて、このようなハシゴ式暗渠となります。これを、下っていきたいと思います。

 

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まずは祠がありまして・・・この祠の向こうに崩れそうな崖がありますが、それと、

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これに挟まれた谷地形。

これ、塩竈神社の参道のひとつです。
上から見ても、下から見ても、「絶対上り(下り)たくない・・・!」と思うような傾斜と段数。一歩踏み外したら確実に死・・・しかし、おひとり、上ってゆくおばさまがいました!心の中で拍手喝采。

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この塩竈神社の急崖の下には濁った池があって、湧水らしきものも注いでいました。「そりゃ湧くって」などと、ぶつぶつ言います(急崖を見るとだいたい言います)。

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塩竈神社のすぐ下には、阿部勘酒造。於茂多加(おもたか)男山というお酒等をつくっているところ。夏だし、見学はできないかもしれないけれど、ぜひともお味見など・・・と期待して行ったら、閉まっていました。どーん。

もう少し下流には浦霞の佐浦酒蔵もあります。どちらも立派な建物でした。
酒蔵を二軒も擁するこの谷。なんて贅沢な暗渠なんでしょう。

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しかし阿部勘は表通りだったので、裏に戻ります。
この暗渠はマイ橋が多いですね。

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そして右岸の壁からは、ダクダクと湧水が・・・全体がテラテラ濡れております。
水郷、田名を思い出します。

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それが道路に浸みだし、水たまりになっていました。
かつては、そのままこの川に合わさり、海に流されていたことでしょう。しかし今となっては、流れ込める川はそこにはなくて、こうやって道路で右往左往し、ひからびてゆくだけ・・・

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この暗渠、基本的にはコンクリ護岸と砂利蓋、マイ橋で構成されているのですが、よくみると砂利の上に生えている植物の表情が、少しずつ変わるのです。

ここはえんじ色ベース。荒野っぽい感じで。

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ここではえんじに少し緑が侵食してきます。メルヘンな感じで。

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もっと緑が荒れ狂い始めます。

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ここでは橋が多すぎて地面が見えにくいです。

橋にもいろいろ味わいがあって、

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トマソン橋。

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物干し橋。

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なんと、橋が池化。

(おそらく前出の湧水が慢性的に流れ込んできている。)

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これは、橋じゃないけど・・・、うおお・・・暗渠がそのままテラスに・・・!!

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ヤクルト飲んだんだねそうなんだね!

(双子の三つ編みの少女が仲良く並んでいるイメージ。なんとなく。)

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下流に行くにしたがい、ものが増えていく・・・

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どんどんどんどんふえていく・・・

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右岸には、水神さまが祀られているようでした。

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そして、唐突に開渠に。

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最初に見た時よりだいぶ汚いな・・・2箇所から水が出てきています(赤丸部分)が、これは、下流側の方が汚水のもよう。

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でもすぐにあっさり暗渠にもどり、道路を横断します。

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あとはわかりにくくなります。この下あたりを通っているのかな・・・?

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橋跡がありました。

ここにきてやっと、この川の名前がわかりました。祓川、というのだそうです。いにしえは入り江であり、その名残の水路なのだそうです。
立派な塩竈神社の足元を流れるのに、ふさわしい名前(神事につかう馬を洗ったからとか)。

別名は新町川。下流を新河岸川と呼ぶことも。しかしここは、祓川と呼んでいきたい気分です。

この橋は、「おだいの橋」というそうで、脇にあった案内板によれば、歩断橋・御代ノ橋ともいい、祓川に鎌倉時代に架けられたもの。すかしの橋で橋板の間から水面が見え、牛馬の通行は禁じられていたとのこと。

最上流部で出会った橋、そこから流れ出すフェイク川、いずれも、祓川関連のものであったというわけです。しかし、鎌倉時代に、すかしの橋・・・祓川とはなんと優美な川だったのでしょう。

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しばらく息をひそめていた祓川が再度おもてに出てくるのは、かなり海が近づいてから。
ここに出口が見えますが、これはおそらく塩竈神社の反対側の谷を流れてくるもののようで、

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今追ってきたのはこっちかなあ、と思います・・・が、角度がだいぶあるので、思っていたより流れは南側にずれた位置にあったのかもしれない。

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まあ、時間もないので深く考えずにいきます。2流は合流して、海へ向かいます。

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ゴール地点。
手前左手にちょっとした岩場があったので降りてみると、そこにはヤドカリがいっぱいいました。しばしヤドカリと戯れ。

眺めた海は青く、おだやかでした。
鎌倉時代以前からの、この地を行きかう人々。津波、復興、いまの人々。
月に一度だけ山形から魚を買いにくる、食いしんぼうの家族。
祓川は塩釜の地をしずしずと流れながら、たくさんのことを見てきたのだろうな・・・。

                                                          ***

いつのまにか2014年。あけましておめでとうございます。

多忙等につき、しばらくお休みしてしまいました。ほんとうはたくさん調べものをして書くのが好きですが、その時間が取れないと、記事さえ書けなくなってしまいます。
今回は、調べものナシのリハビリ編。今年は、調べたり、あまり調べなかったり、そのとき出来る範囲のことを、やっていこうと思います。

本年も、暗渠さんぽをどうぞよろしくお願いいたします。

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太田のおもいで

群馬県太田市。
今年は空いた時間を見つけては、ここに行っていました。
大切なひと、の、大切なひとのお見舞いのために。

もちろん目的はお見舞いなのだけど、わたしたちはいつでも、どこにいても、暗渠を探してしまうのです。

市内を歩いていると、用水路の暗渠のような細道が何本も並行に走っているのが気になります。

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このように、何らかの用水路暗渠(写真左端、なみなみ流れています)から分流しているもののようです。
こんなふうに暗渠感の強いものもあれば、

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道っぽいものもあります。

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これらの支用水路のもとになっているらしき流れは、太田市の端の方にある小さな山の麓をカーブしていきます。

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その山の上には、高山神社、なる神社がありました。
これは高山神社に向かう階段。・・・きっとむかしは開渠の上に、太鼓橋が架かっていたかもしれません。

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暗渠はちょっと蓋の雰囲気を変えて、高山神社の裏側に回っていくようです。

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分岐して、市内のほうに曲っていくものもあります。

                         ***

いつものことですがB級グルメも気になります。
太田のB級グルメは、・・・なんと、焼きそば。具もタレもふつう、何かが乗っているわけでもない、ふつうのソース焼きそば。
いいですね~この媚びない感じ。

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市内にいくつも、焼きそばを出す店があります。
富士重工などがある関係か、むかしから工員の方々に愛された焼きそばなのだそうです。質実剛健。もちろん美味しかった!
このお店はカドヤ食堂といい、様々なメニューのある定食屋さんでしたが、売り物のお総菜パックを3つも「サービスよ」と言って酒のつまみに出してくれる豪儀なお店でした。感謝。

ちなみに、隣の足利にいくと、ジャガイモがゴロゴロ入ったポテト入り焼きそばが名物。こちらにも足を延ばしましたが、「ポテト入り焼きそバーガー」など、太田をさらに上回る炭水化物攻めでした。

太田でわたしたちが遭遇したグルメは、これだけではありません。

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街中をはしる開渠。この下流で分岐させるために2筋になっています。

この開渠を追っていくと、

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川沿いにこんな店があります。

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だるま食堂

・・・ラーメン300円。チャシューメン・・・おお・・・。
山形名物のはずの冷やしラーメンも、ここには昔からあるような風情。
裏側にはカツライスなども載っています。ひっ、ヒレカツ丼が500円!

これは入らざるを得ません。

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中に入ると、地元のおじさんがラーメンをすすったり、ビールを飲んだり。草野球後のひとたちがぞろぞろ入ってきたり。近所の家族連れがきたり。
黒電話が現役で活躍中。
じつによい感じです。
一品料理もあり、目玉焼きがラーメンと同価格の300円でした。ワクワクするなあ。

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ラーメンにするぞ、と心に決めていたのですが、カレーラーメン400円にも惹かれてしまい、結局カレーラーメンにしました。この場合カレーの味も把握できるので一石二鳥なのですが、ただ、「ラーメン」よりも器が立派で・・・ラーメンの小ぶりでかわいらしい器も良かったなあ。

麺は幅広のちぢれ麺で、佐野ラーメンを思い出す味わいでした。

ほかにも色々、みどころがあって、帰りは色んな道を通りながら過ごしていました。

                       ***

太田に来るようになってしばらくしてから、ふとあることを思い出しました。

ある年の、8月。
家族が気に入っている山形のラーメン屋さんに、祖父と祖母を連れて行ったとき。
そのラーメン屋さんのあるあたりがかつて軍の練兵場だったということを、祖父が突然話し始めたのでした。練兵場では上官にしごかれ、たいそうつらかったと、顔をしかめながら。
普段はスーパーポジティブな祖父が、そんな風に話すのは、ほんとうに珍しいことでした。

何度も来ているはずのその店。祖父は、戦争の話を滅多にしない。
8月は、トリガーが多いのかもしれない・・・。

すると、その日は祖母も戦時中の話をしてくれたのでした。
祖母は、太田の軍需工場で働いていたのだそうです。
太田は平らな街で、かつ、少し掘ればすぐ水が湧いてしまうので防空壕を掘ることが出来なかった。だから、空襲が来るとその平地をただただ逃げなければならなくて、とてもとても怖かった・・・と。

祖母が太田の話をしてくれたのは、あとにもさきにもこの1回。
わたしは、この場所でつらそうにしている若い祖父のこと、太田の地を逃げ回る若い祖母のことを想像しました。そしてとても複雑な気持ちで、自分のラーメンと、それから祖母の残した味噌ラーメンを食べたのでした・・・

太田の軍需工場、というのは、おそらく富士重工のことでしょう。
最近は、業績が好調だというので太田市の飲食店とセットでTVに出ていることもしばしば。戦時中は中島飛行機で、軍用機を作っていたはずです。

実際に太田を歩いてみると、そこにあるのはのほほんとした平地でした。今では平穏そのもので・・・ここに、若い頃の祖母が居たのかぁ・・・

                         ***

もう少し、さんぽで体験したことを綴ります。

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太田駅前は再開発の予定があるのか、だだっぴろい空き地になっています。
その片隅に、古い商店街が残されていました。といっても、仕舞屋ばかりなのですが・・・

そこに、連れが発見したワンダー物件がありました。

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これがその、古い商店街なのですが・・・
廃屋かしら、と思って近づいていくと、

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鰻屋さんがありました。
ばりばり現役なご様子。しかも鰻高騰の折、値上げをせずに。

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メニューは、なぜか壁に直接書かれています。
「1ぴき」の調理法がなんなのか気になるところ。

我々が最初の客だったのか、入店するといろいろと声をかけられました。
お茶の間から出てきたような素朴な出で立ちのおばさんから、わりと強めに「たまには鰻の上にしてみては」と、鰻の上を勧められました。この日は太田に来るのが最後の日だったため、ちょっと気を大きくして上を頼んでしまいました。

すると、まず、大将から「飛び散るからこれをかけてね」と、新聞紙を渡されるのです。
新聞紙・・・?え?

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新聞紙をかけながら、大いにビビります。
鰻を食べるのに、いったい何が飛び散るというのか。

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すると、もうもうと焚かれた七輪がやってきます。机の上に、どーんと。

アッツ・・・ッ!

注:夏(7月)です。
注:クーラーはついていません。

これから何が始まるのか、恐怖心最高潮に達す。

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付きだしのようなものが出てきました。

白菜の漬物、ミニトマト、きゅうり、豆腐、そして茹でたそうめんに、醤油をかけたものです(泣)。

ちなみに、お椀は肝吸いではなく、味噌汁です。

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唐突に、捌かれた生の鰻が血みどろでやってきて(あまりの衝撃のため写真は自粛、まだ動いています)、これを七輪で焼くのだ、と。
手前のタレにつけて食べよ、と。
これは”鰻の地獄焼き”なんだから、火力が大事。火力が落ちてきたらこのパックを二人で協力して入れてください、と、燃料のパックを渡され・・・

あまりのことに、二人ともポカーンとしていたら、「言うことわかってる?」と確認されるしまつ。

鰻の上を頼んだのに、何故こんなことになっているのか・・・。上って、お重の中の鰻が少し多い、とかではないのですか。

わたしも連れもきっと同じ思いだったと思うのですが、あまり率直に私語ができる雰囲気ではなかったためモクモクと鰻を焼き、食べ続けました(連れはわたしが苦手とする肝も食べてくれましたが、あまりの衝撃ですべての味がわからなかったそうですw)。燃料パックを、網を持って協同で投入することも忘れませんでした。
わたしは関西風の、蒸さない鰻の方が好きなので、これは味的にはおいしいのではと思いました・・・思いましたが、味以外のいろんな要素がすごすぎて!

地獄焼きは2匹分あったので、もう色んな意味でおなかいっぱいになりました。
そんなタイミングで、

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うな重が登場。

どどーん。
2匹目・・・。もう食えな(ry

帰りがけ、歩道のところに鰻を捌いた跡と、地面に捨てられた鰻の骨を見かけました。あとでネットの評判をみたところ、猫が捌いた鰻を食べるという時期もあったそうで。このあまりのワイルドさに、最近始まった店なのかと思っていたら、なんとお店自体は創業100年以上みたいなのです・・・なんという独自の発展の仕方。

わたしたちはしばらく無口となり、数時間後に、「もう、しばらく鰻は食べなくていいね・・・」「うん・・・」と遠い目で言い合ったのでした・・・。
注:翌日にまるます家でうな丼を美味しい美味しいと食べました。

太田ワンダー、もう一軒続けます。

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市街地にて。銭湯のえんとつにはいつでも敏感です。

あ、銭湯だ、と思って近づいていくと、

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ん?
公衆トイレだったか。

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あれれれ・・・いや、銭湯なのかもしれないです。

でも銭湯の名もついていなければ、いろいろとわかりにくい。

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普通の家に見える・・・。
自分の知っている銭湯とは違いすぎます。

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駐車場から推測すると、高砂ゆ、というお風呂屋さんのようでした。

ここも、太田最後の日に、ぜひ行っておこうということで、営業時間に合わせて遅めに訪れました。

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わあ、300円。
中に入ると、3畳くらいの部屋にフィットネスのマシンが置いてある部屋があって、その隣にアットホームな脱衣所。お風呂は知る限りどんな銭湯よりも狭く、お客さんは全員知り合い同士、という感じでした。共同浴場、という言葉がしっくりきそう。

これはこれで、おもしろい体験でした。太田、ワンダー。

                        ***

わたしたちがお見舞いに行っていたさきのそのひとは、この後いのちが危ないというところまでいってしまいました。ところがその後回復され(奇跡というのは、こういうことなんじゃないかと思いました)、いまは別な場所で治療を続けています。
最初に会ったとき、そのひとはわたしに、たくさんの美味しい食べものをお土産にくださいました。けれど、何もすごいものをくれなくっても、何かをしてくれなくっても、ただ生きていてくれるだけで、いいと思うんです。別に何か面白いことをたくさん話すのでなくても、ただそこに居てくれて、会えるだけで、いいのだから。
その方の回復と、少しでも長生きしてくださることを、祈りながら暮らしています。

                         ***

今回の記事は、シリアスなのか、コミカルなのか、よくわからない入り混じったものであったと思います。でもそれは、わたしたちが太田で体験した実際の気持ちにとても近いものだと思っています。じつにいろんなことを感じ、考えながら、あの街を歩いていました。

転院されたいま、わたしたちが同じ用事で太田に行くことは、もう無いでしょう。
けれど、わたしたちはこれからもそのよくわからない入り混じったような気持ちで、太田のことを思い出すでしょう。いのちの尊さについて考え、感謝しながら。”鰻の上”について、苦笑いしながら・・・。

自然と入り混じるいろんな思いと思い出。これが、太田のおもいでです。

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ガーブ川を辿・・・れたのだろうか

沖縄に行ってきました。・・・出張で。
悲しいことに現地情報を調べる時間が確保できなかったので、沖縄に詳しいHONDAさん(街に詳しいY田G郎みたいだな)に那覇市内のおススメ暗渠をうかがってみたところ、

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とのお答えをいただきました。

おお、なんと泊まるホテルから歩いて行ける距離じゃぁないですか。・・・現地での自由時間は限られています。他の方との約束もあります。でも、ガーブ(我部)川だけは行ってやるでぇ・・・そう思いながら時間はどんどん過ぎて最終日。

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同僚たちと牧志公設市場で食事をすることになりました。
天井が低く、古く、活気があり珍しい食材があちこちにあって、とても好みな雰囲気。

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1階はさまざまな食材売り場。2階で調理してもらって食べられます。1階から2階に上がるときの感じが、なんだかタイや韓国あたりの市場に似ている気がしました。
セミエビ、夜光貝、ヤシガニ、アオブダイなどを、明日から甲殻類アレルギーが始まるんじゃないかというほど食べ、お腹ぱんぱんになりました。

この牧志公設市場、実はガーブ川の上に建っています(厳密にはこの写真の場所ではないけれど)。市場内に開設60周年の新聞記事があり、抜粋するとこの市場は次のような歴史を持っているということでした。

1947年 闇市が自然発生
1948年 那覇市が現第一牧志公設市場の場所に闇市場の露店商人をあつめる
1950年 第一牧志公設市場開設
1958年 市議会で「ガーブ川水上店舗早急退去要請決議」満場一致で可決
1960年 ガーブ川商店街組合結成。氾濫の原因が水上店舗のつっかえがあるからではない由を陳情
1961年 ガーブ川改修工事スタート
1963年 水上店舗改築開始
1964年 改築完成
1965年 ガーブ川工事完成
(その後、第二牧志公設市場ができたり、第一牧志公設市場が不審火で消失したり)
1972年 現在の牧志公設市場が改築、完成

戦後の混乱期に市民の力で生まれたらしい、この市場。
敷地は湿地帯で、大雨のたびにガーブ川が氾濫し衛生的に問題になった・・・そりゃまあ、この場所で川が氾濫したらえらいことでしょうね・・・市場存続問題がおきたり、移転先でもめたり、火事で焼失したり。ガーブ川と牧志公設市場の歩んできた歴史は、なかなか混乱に満ちたもののようでした。

さて。そんな背景を頭に入れつつ、お腹ぱんぱんで正直休みたいと思いつつ、飛行機の時間まで独り行動をさせていただくことにして。暗渠探索モード、オン!上まで行って、一気に下ります。

2時間一本勝負!です。

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沖縄ガイドブックの那覇市内の地図に、ガーブ川をプロットしておいたので、まずはどんどん遡ります。上流端は地図からはわかりにくかったので、途中からは、勘で。

これがさすがに谷頭かな、と思うところまで行ってみます。

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たぶん、ここがどんづまり。
ここで水の浸み出しがあってもいいような場所です。

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振り返って。

さあ、ガーブ川の川下り、スタート!

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ほどなく雨水溝が出現します。

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ああ、もうすでにきれいな水が流れています。
ぃよっしゃ!

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道は、暗渠らし~く細くなります。

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支流が垂直に流れ込んできて。

湧水が見えます。じわじわと湧くのでしょう。

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その”じわじわ水”で、この足元の水は少しずつ増えているのでしょうか。

右岸に段差が確認できます。

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細い道は続きます。いや~、これは良い!

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大きな道路に出るところ。

しかし、その先、しばし痕跡が消えます。クリーニング屋さんなどもあるけれど、暗渠らしさはあまり感じない道になってしまい・・・その下に開渠があるのだけれど、どうも接点がわからない。

うう、あまり時間がないのに、流路が難しくなって迷ってしまいました。

うろうろ。

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実はこのあたりで、往路も迷っていたのでした(突然ガーブ川が消えたような気がして)。

ともかく低くて気になる方へと下っていくと、大きな段差のあるあやしいところがあり、

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ああああ。道路の下を清水がさらさら流れてる・・・。
この道が暗渠だったのか。

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ああああこっちが本流だったか・・・

※解説しよう。わたしが見ていた地図には、大体こういう感じで開渠が描いてあって、

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この「きりん歯科クリニック」のあたりにわたしは行きたかったわけです(googleさんありがとうございます)。

ガーブ川が「那覇病院通り」を渡るところまでは確認。その先、ちょっと大きな通りを渡ったら上流端が近いのだ、という認識でおりまして。

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ところが、なんということでしょう。
わたしは真っ直ぐ歩いて行ってしまい、多少迷いながらも、青点線部分の暗渠らしい道を見つけ、「よおっしゃ!」とガッツポーズをする。
しかしその下流の緑点線部分が地形的にはどうしてもつながらないので困惑する。
迷った挙句、なんとなく低い方へ行って、そして水色点線部分の路上でやっと過ちに気づいたというわけです。

思えば遠くへきたもんだ・・・
地図が読めない自覚はあったものの、今回は80°くらい間違えていたわけですね。残り時間を考えると、もう本流を遡る時間はありませんでした。1つ前の写真を少しだけ遡って、まだまだ幅の広い本流の開渠を見たときには憮然としましたよ・・・

そんなわけで、1本勝負なのに間違えちゃったわたくし。多少の失意を胸に、残るガーブ川を下りたいと思います。
いや!でもあの支流暗渠もすごい良かったぞ。いやいや。正直くやしい・・・。いやいや・・・。

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本流は右折し、

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S字を描くと、このさきで、

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開渠になります。

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開渠は少ししたらまた道路に潜り、

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歩道+植栽の位置が暗渠で、

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また開渠になります。ここからはしばらく開渠。

あの橋、すごいな・・・

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この橋は現役。

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図書館脇を抜け、両側が公園となる場所。いっきに南国ぽくなります。
水はそんなに汚く感じませんが、生活排水を汚さぬよう気を付けようという看板がありました。生活排水も入るのか・・・。

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公園を抜け、小学校と中学校の敷地の間へとすすみ、しばらく脇を歩けなくなります。

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小学校のあたり、左岸に支流を見かけました。

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すき間を覗くと、澄んだ水が流れていました。
これも遡りたいけど・・・

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時間がないので、最短で戻らなければなりません。
市場エリアへ。

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この市場の間を、

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ガーブ川は悠々流れているのでした。
趣のある橋たち。

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ここらへんになるとなんだか水の色があやしくなってきますが、魚は棲んでるようです。
勝島運河あたりの、こういう色の水の中をボラが泳いでいる光景を思い出しました。

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ふたたび暗渠。
そして衝撃の「ビル蓋」がドーン。

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裏もドーン。

そのビルの1階にはなんと、暗渠沖縄そば屋!

普段のわたしなら絶対に食べますねコレ。しかしさっきのヤシガニがお腹いっぱいすぎたこと、時間がなさすぎることで断念。むきー。

<後日追記>
那覇を再訪することができました(またも、仕事で)。
空港に降り立ち、まず最初に訪れたのはもちろんこの「いなか」。

Inaka

ソーキそばの普通もり、350円也。やすい!
暑かったけれど、外の席が空いていたので、あえて外で、下流の暗渠もときどき振り返りながら、たべました。汗はダーラダラ、でも、のんびり。

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下流側にも同じ建物がありました。双子ビル蓋。

以降は、暗渠の上にずっと建物がならんでいきます。上流から順に、「水上店舗第四街区」、「水上店舗第三街区」、「水上店舗第二街区」、「水上店舗第一街区」。名前も渋いし、すばらしきごっちゃり感。

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この場所の下がガーブ川です。

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建物内を見ると、暗渠のところが一段高くなっています。

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支流が合流したりもし。

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もっとくっきりと蓋がわかるのがこの場所。
ゆるやかにカーブ。

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くっきりと盛り上がったり。

・・・急ぎ足のわたしを横目に、猫がのんびりお昼寝。のどかな水上商店街でした。

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商店街が並んでいるけれど、真ん中のこの位置がガーブ川なのでした。そして久茂地川に注ぎます(この地名を見ると、くもじい!!ってなります)。

この下流も少しだけあるのですが、ここでタイムアップ。ホテルに戻らねばなりません・・・。

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突然夜の写真になりましたが、国際通りもこのようにV字になっていて、谷底を感じるのでした。
ガーブ川下り、ここまで!

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おまけ。

これまたHONDAさんにそそのかされて食べてしまった、夜中の独りステーキ@ジャッキーステーキハウス
むかし、クッキングパパで読んで以来、ずっと来たかった場所でもあります。前日に後輩も独りステーキをしにきたらしいw  夜中にこんなに食べて罪悪感が・・・出るかと思いきや、あっさり食べられてなんともいえない満足感が残りました。夜中ステーキ、たのしいわ~・・・癖になったらどうしましょ。

暗渠さんぽ、最も遠方はバークレー編ですが、これで北海道編と沖縄編も揃いました。
だがしかし。ガーブ川の本流の上流端と、小学校脇の支流の先、暗渠そば屋、そして下流。積み残しが出てしまいました。これらを辿るために、また沖縄に来なくちゃいけない。むぅぅ。でも、心のどこかで、そんな沖縄リベンジもいいじゃない・・・と思っていたりしますw

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直江津、海のちかくの水路たち

昨夏、用があって直江津と高田に行ってきました。そのときに書きかけていた記事だったので、写真のサイズが以前のまま(小さめ)なんですが、修正せず続行。それぞれの水路についてよく知らぬままに、ふらふらと歩いた記録です。

直江津は、奈良時代から「水門(みなと)」と呼ばれる歴史ある港のまち。初めてやって来ました。

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ここが直江津駅前。駅のロータリーの奥にあるメインストリート?がこういった感じで、じつに素朴です。

とにかくのどかでしずか。

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その通りを進んでいくと、さっそく水路を見つけました。

蓋といっていいのか・・・人工芝の歩道が水路の上にかけてあります。ちょっと雑な感じで。横の隙間からのぞくと水の流れが見えるので、暗渠とも言い難い感じ。・・・これも半渠?
しかし斬新だなぁ。

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そして、この人工芝水路上歩道は、飲み屋街も兼ねているようでした。左手に見えますのは、”コンパ”。

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”コンパ”の奥は、”冬ソナ”となっております。

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もう少し遡ると、水路脇に製氷工場が現れました。
建物がだいぶ古いですが、現役のようです。水路脇に製氷工場!ひゃっはー。

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敷地内には、”ミネラルアイス”の自販機もありました。もう稼働していないようでしたが。

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もう少し遡ると、開渠になってました。家の前を通っており、小さな自家用橋が架けられています。
この水路には、冬になるとそれぞれの家が、雪かきをした雪を捨てに来るのでしょうか・・・ふと山形の水路を思い出しました。

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そしてこの水路には、横からも支流がどんどん来てました。
ハシゴ式開渠を見ると、なぜか「おっ、都会」などと思ってしまい。

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開渠を見るとかならず目を凝らして、魚がいないか確認します。
おっと・・・ここには、鮠が泳いでました!ぴちぴち。

この水路を海の近くまで追ってみたら、もう少し下流には、ハゼがいっぱい、じっとしていました。こんな、街中の小さな水路に、ハゼ。港町ならではですねぇ。

その先、関川という大きな川に注ぎます。

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メグミルクの販売所。まるで、ついさっきまで牧場だったんじゃないかという風景。この前にも、鉄板蓋暗渠がありました。
この辺、歩いていると細い開渠と暗渠が縦横無尽に入り乱れています。

北に向かって坂道を上ってゆくと、日本海に出ます。日本海沿いでご飯を食べようと思います。

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いるか。この外観・・・くぅぅ。実はここ、狙っていたお食事処でした。
素朴な町の、素朴なお店。おまけに、店の向こう側には遮るものなくズザーッと日本海が広がっています。マズくたって、きっと良い気分になれる気がするんです。

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ところが”いるか”さんは予想を裏切って素晴らしかったです。
このかき揚げ、めちゃくちゃおいしかった!!!
イカが新鮮でぷりぷりさっくり。衣が薄めで、揚げたてサクサク。今のところ、生涯かき揚げランクのかなり上位に居ます。

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食べたら、直江津市立水族博物館へ。水族館の周囲をぐるっとスカイサイクル(100円)でまわれます。海を見ながら。

水族館のことは割愛。売店で、”パインクリームサンド”というとてもレトロなパンを見つけたのですが、そしてパッケージにキュンとしたのですが、すぐに食べたいと思わなかったので買わずに帰りました。
・・・後から妙に気になったのでググったところ、”サンドパン”(コッペパンにバタークリームを塗ったもの)が新潟のご当地パンだということがわかり、さらにパインクリームサンドは直江津のオリジナル懐かしパンだということがわかり、といっても売ってる店が無くて(そもそも店が無いの)、大後悔しました。しばらく、パインクリームサンドのことばかり考えていたと思います。

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お店屋さん探して、ウロウロ。駅から離れたところに、おそらくメインの買い物の場だと思われるイトーヨーカドーがありました(でもヨーカドーにもサンドパンは売っていなかった)。その前を通るバス通りも、よくみれば歩道が暗渠です。包囲タイプのやつ。

ちなみに、新潟県にいくと、除雪設備のために道路がこんなふうに赤茶けていることが多いです。おなじ豪雪のはずの山形県ではそうでもないので、赤い地面を見ると「あー、新潟に来たなー」って思います。赤茶け暗渠。

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駅より東側~関川にかけての地域には、関川に向かってのびる支流暗渠のような細い裏道が何本もあります。

その、暗渠らしき道になぜか仮設トイレ。

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おなじく、暗渠らしき道に謎の仕切り板。

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関川の河口。向う岸には工場地帯が見えます。

日が暮れるまで、この波打ち際で親子が釣りをしていました。

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翌朝。
朝ごはんには地元のパンが食べたい。と思い、早起きをしてパンを買いに行きました。
もちろん、パインクリームサンドから繋がってきてるのですが、調べてみると、直江津にはバラパンというレトロなパン屋さんがあって、人気のあまりお昼には売り切れてしまうというのです。まずはバラパンに、早く行かないと。

車が次々止まり、既に家族連れが買いに来てました。この店構え・・・やはり素朴。

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伝統的お総菜パンをいくつか買いました。バラパンの脇にも水路。

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もう一軒行きます。日清パン。ここが、パインクリームサンドをつくっている店です。

けれど、開店時間らしき時間にまだ開いていなかったので、小雨降る中、店の前に立って待っていました。我ながら、食べ物への情熱を感じる瞬間です。

日清パンもまた素朴な店で、各種パンのほか、コッペパンにその場で好きなクリームを塗るシステムもありました。しかし既にパンを買いすぎていたので、そっちはあきらめました。

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これが、パインクリームサンドです。・・・かわいい!!
やわらかいパンに、クリームと半生のパイナップル片が挟まれ、初めて食べるのに懐かしい味。

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1つだけ買うのもなんなので。カステラパンやソーセージパンも買いました。

新潟といえば、”イタリアン”しか思いつかなかった自分ですが、イタリアンはこの地域では食べられないようです。けれど、すてきな地元グルメに満足いたしました。

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高田に移動します。

側溝の蓋にゾウ。2つおきくらいに、動物の絵がこんなふうに描かれていました。
ほかに星座パターンもありました。

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高田駅前には、観音開きの桜蓋。これ、和風でとっても好みの感じです。
道路の脇に、ぽつぽつありました。

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高田駅近くに流れる、儀明川。
高田城築城の際、3本の川が大きく改変されたそうで、この儀明川は、やや東を流れる青田川に合流していたものを、西に新しく移されました。青田川は、城内と城下の堀の役目をし、堀らしく直角に曲げられたりしています。また、これらは関川の支流なのですが、関川も蛇行していた流路を変えられ、天然の外濠となったのだそうです。・・・昨日見た関川の大きさを思い出し、その工事の壮大さに唸ります。

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朝市に遭遇。雨だったためか、人はまばらでした。

付近には側溝や小さめ開渠がやはり縦横無尽にありました。交差点などでは、このように水路が複雑に合流しています。

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補強されてるのかな?雪の重みに対してなのか、車の重みに対してなのか。両方なのか。
直江津もそうでしたが、やまほど走る細い水路とは、雪国ならではの排水設備なのかもしれませんね。

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高田名物、雁木(がんぎ)の残る通りをぶらぶら。
その後用事を済ませ、直江津に舞い戻って、港で小アジを釣って帰ってきました。

雪が降ったら、これらの景色はいったいどうなるんだろう?・・・想像できるような、できないような、雪と海の街の水路たちでした。

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サクシュコトニ川エスカロップ

わたしの中学校の修学旅行は、北海道でした。
そのときに「好ーきーですー、サッポロー」の歌を、バスガイドさんから叩き込まれたため、今でも札幌に行くと、しばしばその歌が脳内リピートで流れてしまいます。・・・だから今回は、ときどきその歌が流れながらのさんぽ。

好ーきでーすだーれよーりもー♪

出張で札幌に行ってきました。北海道大学。入った途端に、この親水空間!

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ここは、野川公園!?

・・・ほかにも、構内に水辺がいくつもいくつもありました。ただし、最初の印象は、ただそれだけ。

札幌市内は、ほとんど碁盤の目であり、地形もあまり凹凸があるようには思えないので、実のところ暗渠にはそれほど期待していませんでした。ただし、駅名を見ると、川に因みそうなものがときどきあります。何か支流暗渠のようなものが見つかりはしないかと、ふらっと「中の島」という駅で降りてみました。

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中の島、という地名から想像するのは2つの川に挟まれた島か、湿地帯のような場所です。じっさい、中の島は、札幌を流れる大きな川、豊平川と、その支川である精進川の間の島になっているように見える場所でした。
これが、精進川です。

それから、駅前の地図に「水産庁北海道さけますふ化場」とか「独立行政法人さけ・ます資源管理センター」とか載っているので、思わずそこまで行ってみました。

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この左手の建物がそれです。すぐ脇を、精進川が流れています。施設の中には、孵化させる空間っぽいものがありました。

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付近には、斎場や「水車町」という町もありました。川沿いなんだな、と感じます。ただ、期待するような支流暗渠や旧河道らしい空間にはいっこうに遭遇しないのです、碁盤の目がひたすら続くのです。・・・こんな、2つの川に挟まれた土地でさえ。

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しかし、銭湯はありました。東豊湯。積雪のためでしょうか?こんなつくりです。

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気になるマンホールもありました。「札下」とか「ト札下」とか書いてあるんです。・・・札幌下水道なのかな、しかし札とは読めない・・・札幌の札と、北海道の北を合わせた文字なのかな。そして「ト」はいったい何なんだ・・・と、悶々としていたら、やなぽんさんが教えてくださいました。これは、札幌市下水道のもののようです。それから、「ト」がつくのは、中の鉄筋が太い増強蓋である、ということまで教えていただきました。ほか諸々、ぜひこちらを参考に。→以下、札下マンホの説明記事(やなぽんさん、ありがとうございました!)
http://yanapong.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html
https://sites.google.com/site/machiyomi/tetsubuta/hokkaido/sapporo#3

そういえば、札幌って碁盤の目に沿って「北〇条西〇丁目(〇内は数字)」のような住居表示の仕方が多く、とても独特ですよね。白汚零さんが、札幌は下水道幹線の名付け方も独特で、アルファベットと数字の組み合わせなのだ、と仰っていたのを思い出しました。

・・・それにしても、暗渠がないなあ。暑い日だったので、珍しくガラナなんか飲んでみたけれど、自販機の隣にゴミ箱がある確率が異様に少ない。あと、信号が”勝手にスクランブル”っぽいところが多い。色々とユニークな街だなあ、ここは・・・。

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ふう。とりあえず昼ごはん。
みよしのの餃子カレー。今回初めて食べた札幌B級グルメですが、ハンバーグカレーみたいに、コレは大アリ。しかも380円なんです!カレーは野菜とひき肉のやさしい味、餃子は福しんぽい味。学食みたいでいいなあ。近所にあったらいいなあ。周囲の人の餃子カレー注文率も高かったです。愛されてるのね。満足!!

・・・で、暗渠のことはほぼ諦めかけていました。

しかし、北大をうろうろするうち、どうやら冒頭の親水空間を流れている川は、昔から流れていた川を整備したものらしい、ということがわかってきました。

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その名は、サクシュコトニ川というらしいです、どうやら。
というわけで、今回歩けたサクシュコトニ川を、遡る感じでレポートしたいと思います。

この写真は、復活したサクシュコトニ川がひととおり整備された空間を流れおえ、暗渠に入っていく出口のところ。

・・・サクシュコトニとは、どういう意味なのか?アイヌ語で、
サ=浜のほう
クシュ=通る
ということから、サクシュ=浜のほうを通る(この場合の浜=豊平川)、なのだそうです。また、
コトニ=窪地
から、「窪地を流れる川のうち、豊平川に最も近い川」という意味になるようです。

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さきほどの出口から上の流路をながめると、こんな感じに、美しい窪地にある草原の中を、控えめに、しかし淀むことなく、さらさらと流れています。

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ちなみに、暗渠を経てもう少し下流に行くと、新川という川に合流するようです(もともとは「コトニ川」に合流するということでしたが)。新川に合流する流れはほかにもあって、北大隣にある競馬場の周囲(の、道路下でした。元同僚がタクシーの運転手さんから「この道路は暗渠だ」と別な場所で言われたそうですが、こんなふうに大きな暗渠が下をくぐる道路が何本かあるのでしょうか)を流れてここで開渠となるこの川たちもそのひとつ。この水はどこからやってきたのでしょう・・・

ほんとは色々気になりますが、時間も体力も限られているので、北大キャンパスに的を絞ります。さきほど草原の中を流れていたサクシュコトニ川、つぎに出逢ったのはこの場所でした。

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以前は水量も豊かで、サケが遡上していたといわれます。都市化が進み、1951年ころから水量が減り始め、枯れてしまったそうです。そのとき、上流部は河川としての役目が終わってしまったけれど、下流部はサクシュコトニ川としてその後も存続していたといいます。
このあたりの地点は、その、存続していた部分にあたるみたいです。

「遺跡庭園」北端までは昔の風情そのままに、灌漑用水や自然水等の水路として利用されている、と案内板にありました。それがだいたいこの場所なのですが・・・

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遺跡庭園というのは、これです。

正しくは「遺跡保存庭園」。大学構内のサクシュコトニ川の両岸には、竪穴式住居跡が多数残っているのだそうです。それらは、明治期の絵地図にも地面の窪みとして描かれています。現在は埋まってしまい、見えないものが多いですが、この「遺跡保存庭園」の中にはまだ窪みが残るといいます。

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ひろいひろい、原始林の中を歩いていると、ふとこんな風に、穴らしきものと「アイヌの住居」と描かれた立札があります。この一帯には深さ50センチ、直径5~8メートルになる穴が30以上もあるのだそうです。奈良時代末~平安にかけての村落。

・・・これが大学の中・・・?ひとり、こんな原始林の中にいることがとても不思議に思えてきます。

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遺跡庭園の脇には、空の水路がありました。雨水の排水路なのか、必要な時だけ水を通す用水路なのか不明ですが、この先はサクシュコトニ川につながっていました。

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もう少し上流には、こんな空間。

傍らに牧場?と思ったら、酪農生産研究施設・中小家畜生産研究施設という北大の施設でした。牛さんたちがのんびりと暮らしていました。

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自然そのままの姿の水路が、注目もされずに流れています。自然すぎて、脇を歩くことさえできません。カラスが行水をしていました。

そして次に人目に触れるのが、

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ここです。
かつて川が枯れてしまった時期に、埋められてしまった部分がこの間に挟まっている(=暗渠区間)ようですが、残念、見られませんでした。

1998年ころから、埋め立てられた部分を開削して浄水場から導水する計画が始まったらしいです。(最初は湧水かと思っていましたが、残念ながら処理水のようです。東京と似たようなことが行われているのですねぇ。)
2001年の北大125周年「サクシュコトニ川再生事業」において、その計画は更に進み、再生事業は2003年~2004年あたり。
 http://circle.iic.hokudai.ac.jp/vrmap/Articles/2003SKR/
このサイトを見ると、今回追った水路のうち、まだ暗渠だったもの、通水してないものなどがみられます。また、
http://www01.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition17/toku2.html
このサイトを見ると、サクシュコトニ川は北大キャンパスの形成に少なからず影響を与えていたようだ、ということがうかがえます。

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もう少しだけ上流。とても澄んだ流れがさらさらと流れ、ひとびとがくつろげる椅子があります。明らかに、学生だけではなく、市内のひとたちがこの空間を楽しみに来ていました。

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その、ひとびとが見つめる先は、・・・大野池。こんなに綺麗な池。湧水池かと思うほどです。これまで書いてきたように、この水は浄水場からきている処理水のはずですが。

その上流は、冒頭の野川公園のような親水空間であり、

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遡ってゆくと、ここが始点でした。処理水の出口にあたるところです。

再生したサクシュコトニ川の、源流?地点です。

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なので、川を追うのをやめ、駅へと向かおうと思っていました。すると、先ほどの地点から少し進んだところに、「河」と書かれたマンホールがあったのです。

後で調べてみると、近辺で見たいくつかの「河」マンホは汚水ます表記だったりで、何者なのかよくわかりませんでした。しかし、このときわたしはこれを見て、「もしかするとこの先にまだ上流があるかもしれない」という気に、なぜだか、なったのです。

引き寄せられるように、やや南のブロックに行きました。

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すると、ガクッと下がる空間が出現しました。・・・この雰囲気は、すごくあやしい・・・!!次のブロックに回ります。

すると、

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あった・・・!!!

これはまさしく川跡・・・!

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振り返ると、さらに上流があります。

サクシュコトニ川の跡は、いまでも残っている・・・!

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これまで見てきた、札幌市内の風景とはまるで違う空間が広がります。ずいぶん高低差のある、崖下の川跡です。

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草が伸び放題ですが、川筋は確認できます。
蛇行して、

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こんな風に出てきました。

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曲っている区間は、こんな風にぼさぼさです。とても暗渠風味。
今回最初で最後の、車止め風のものがありました。たぶん、手すりとして使われていたようですが。

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さきほどの蛇行の後は、この裏を通っていました。「井頭龍神」・・・来てますねぇ。

ここは偕楽園という場所であり、かつて「龍神さんの池」があったといわれます。湧水池だったようです。偕楽園には鮭孵化の試験場などが設けられたこともあったといいます。

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偕楽園の脇はこんな風に丸く崖になっています。じわじわとしみ出るタイプの、湧水があったのかもしれません。

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偕楽園から先は、再びワイルドになります。これも川跡。

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護岸には不揃いの石や、陶器や、いろいろなものが混ざっていました。

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コンクリ蓋の出現。下水道台帳で確認してみましたが、この、サクシュコトニ川の上流部の真下には、とくに下水道は通っていませんでした。ここには雨水が流れることもあるのでしょうけど、たいして流れないのかもしれません。

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でもこのコンクリ蓋は、かなりの存在感をもって、行くべきところを示してくれます。

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草で覆われている場所もあるけれど、

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うっとりするような自由なかたち。

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さらに上流は空き地でした。
でも、サクシュコトニ川はしっかりと見ることができます。

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川跡として認識できる最上流部はここです。
ここで、途切れます。このさき、JRの高架の下をくぐり、すぐ隣が水源です。

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水源はここと言われます。

アイヌ語では、湧泉のことを「メム」というそうです。
豊平川扇状地の伏流水は、かつて市内の各地で湧いていました。サクシュコトニ川の水源は、この、京王プラザホテルの西隣にある、建設会社伊藤組の伊藤氏所有の家(住んではいないらしい)にあるメムです。中には入れませんが、庭は外からも見え、盛大に窪んでいることまではわかります。
るるぶのフリペには、ここについて「札幌市内にある最後の泉池があり、サクシュコトニ川の源泉が存在している」とありましたが、外から凝視しても、どうも水面は見えません・・・はてさて。

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明治期の地図にあわせて見てみると、今回たどった川跡は、この水色の流路のうち、もっとも東側にある一本です。

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前述の伊藤氏宅の隣のブロックには北大の植物園があります。北大の植物園は、東大の小石川植物園に次いで、日本で二番目に古い植物園です。その、園内にもかつてメムがあり、コトニ川水系の川が流れ出していました。先ほどの地図でいうと、一本西側の流れにあたります。

ちなみに、水系は異なりますが、札幌ドームのほうには「ラウネナイ川」「ウラウチナイ川」
などと、これまた由来が気になる川たちが今も流れています。

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最後は、エスカロップ(白エスカ)で〆ましょう。

エスカロップは根室のB級グルメですが、ずっと食べたかったもののひとつです。東京都内でも3か所ほど提供する場所を確認しましたが、どうも行けていません。札幌市内では東京よりもさらに多くの店舗が提供していると聞き、アクセスしやすい駅ビルで食べました。
・・・エスカロップの構成要素は、筍入りのバターライス、トンカツ、デミグラスソース、であるはずです。しかしこれは、筍ではなく玉ねぎのバターライス、薄切り肉を重ねたトンカツ、という変化球でした。おーい!筍のやつが食べたいぞー!!
・・・というわけで、エスカロップへの情熱は失せることなく、しかし、暗渠的にはだいぶ満足した、北海道のさんぽでありました。

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暗渠さんぽのルーツ

なんで、蛙が好きなんだっけ?
緑色好きが先か蛙好きが先か、忘れてしまうこともあるけれど、もともとは緑色。
中学生のときに諏訪湖のほとりで見た、東山魁夷の「緑のハイデルベルク」。
この絵に使われた、緑の持つ豊かさにやられ、そして緑色が大好きになった。
これが、蛙好きのルーツ。

なんで、暗渠が好きなんだっけ?
時々聞かれて、理由が1つではないから、うまく答えられないこともあるけれど、
もともとは地下が好きだったことによる。
小学生のときにやった、龍泉洞の研究・・・、いや、実はもっとさかのぼって、
幼少期にかこさとしの「地球」という絵本の、地下に広がる世界に目を輝かせていた。
つまりはこれが、暗渠好きのルーツのひとつ。

今回GWに帰省して、「地球」という絵本にどれだけ惹かれていたかということを、
あらためて味わったのだけれど、さらに、もっといろんなことが繋がった。

これまた、中学生のときにとても好きになった場所がある。
社会科のグループワークで行った、地元の人もよく知らないようなお寺。
今回、久しぶりにそこに行ってみることにした。

Root1

深沢不動尊。山形市のはずれの、山奥の谷戸にある。

立札には「不動明王を祀る、近郊近在になりひびいた古い不動尊。奥の院には多数の石仏あり。八竜川の水源地。」と、ある。

今回車で行ってみて、その山道の長さに驚いた。中学生や高校生だったときのわたし・・・自転車や徒歩で、こんな山道を延々上っていたのか。

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このように、清冽な水が流れてきている。たぶん水源はすぐそこ。

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谷戸には水の流れる音だけがし、人は誰もいない。
何度来ても、そうだった。・・・誰も来ることのない場所。
石仏だけがある。

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足元に目をやると、石段の下からも水が勢いよく湧いている。

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朽ちた鳥居。

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この上に奥の院があり、そこにあった風景がもっとも好きだったのだけど、通行止になっていた。

この奥では、たくさんの石仏が崖にならび、あちこちから湧水が滴っていた。周辺はこれまでの写真のように、鮮やかな緑に覆われていて。幻想的な石仏群、湧水、緑。

いま見えるこの石段の一段一段も、実は湧水で湿っている。こんなふうに緑と湧水により演出された絶景は、ほかに見たことがないように思う。

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これは手水?
参拝客は僅かにいるのかもしれない。

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上の写真の、石段の下からもまた、だくだくと水が湧いていた。

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駐車のためか、参道にはひそかにコンクリ蓋暗渠もあった。

今回いけなかった、石仏群の写真を載せているサイトが少しだけあった。
深沢不動尊・鬼越
深沢不動尊(←こちらも奥の院に行けていないようです)

滴る水と、緑。緑色好きなわたしにとって、あのときからここは、山形で一番好きな場所のひとつになった。

たぶんこれが、湧水好きのルーツ。

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さてまた違う風景。山形市内には歴史ある石積み用水路が何本も走る。
これは御殿堰。と、桜。

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洗い場もたくさん残されている。
思い返せば通学路にも、洗い場がいくつかあった(誰ももう使ってはいないけど)。

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扇状地だからか、水路はどこも勢いよく流れている。
ほぼ直線かと思いきや、蛇行するところもある。

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家々の隙間を縫って、人知れず。

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御殿堰は鰻屋さんの横も通り過ぎる。
ここの鰻はなかなかおいしいので、よく出前で食べていたものだ。もしかしたら、この水路で鰻が採れていた時代もあったのだろうか?

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鰻屋さんの付近は寺町と呼ばれるところ。
今の町名は違うのだが、旧町名でわたしたちも呼んでいた。今でも、お寺がたくさん並んでいる。

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御殿堰は寺町を駆け抜ける。

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墓地のなか、ひときわ音が大きく聞こえる気がする。

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いま、墓地があったのは専称寺。最上義光が駒姫のために建てたという、山形では有名なお寺。

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中学生のある夏、水彩画の宿題が出て、専称寺の境内を描いたことがある。
近所の友人と二人で、この場所に何日も通って、ミンミンゼミの鳴く中、だまって絵を描いた。いや、少しは話したかもしれない、好きな異性のことなどを。
ここ、この水路の縁のあたりで絵を描いたような気がする。

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水路は、寺の中を抜けるときは開渠で大きな音をたて、道路を横断するときは暗渠となる。

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そのさき、市街地を越えて、西部の田畑のほうへ流れてゆく。

この、御殿堰と、八ヵ郷堰にはさまれた場所に、実はかつての花街がある。

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今は飲み屋街となっている。しかも結構好きな感じ。

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花小路、という。アーチが架かる。
近年はレトロ飲食街として観光地化し(ようとし)ているようだが、このアーチはだいぶ前からあるように思う。

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よくみてみると、ところどころに花街の名残があった。
祖父の時代には、芸妓さんもたくさんいたらしい。

わたしにとっての花小路は、子どもの頃の通り道でしかなく、大人になってからもあまり縁がない。
けど、いつも一緒に登下校していた友人(武井咲似)がこの花小路のなかに住んでいて、わたしは何の男気なのか、より遠方のその子を家まで送ってから帰っていた。だから、たんなる通り道とはいえ、とても愛着がある。

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今回、徘徊していたら不思議な並行する水路を見つけた。
ひとつはただの側溝だが、もうひとつは民家の小さなお社から流れ出、下方にある神社(花街のなかの)の脇に抜ける、高いところに人工的につくられた開渠だった。そしてこれは、友人宅の目と鼻の先にあったのだった。
・・・わたし、毎日のようにこれを見ていたんだなあ。けれども、水が流れていたのかいないのか、まったく記憶にない。

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さきほどの花小路のアーチの向こうには、「いっせんみせ」と呼んでいた駄菓子屋さんがあった。いまはもう廃業しているが、店の姿はそのまま。幼稚園くらいの頃から、通っていたと思う。

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いっせんみせを過ぎ、角の駐車場。
???

この日はこの近くで飲み会。

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飲み会はシーロムというタイ料理屋さんだった。
このお店で、高校のとき初めてイエローカレーを食べた。辛くて吃驚したことをよく覚えている。そのときも一緒にいた部活の友人と、「ぐるぐるグルメ」という小サークルを作り、食べ歩きをしていたのだった。ひとりで「山形食べ歩きマップ」を手描きし、市外の友人にプレゼントしたりもしていた。

・・・たぶん、わたしの食べ歩き好きは、このあたりから始まっている(もともとは家族がそうだったからなんだけど)。

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あちこちにある用水路。

わたしは、こんな風景を脇目で見ながら、暮らしていたのかもな。

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コンクリ蓋暗渠も、それ以上にあちこちにある街。

地下、暗渠、開渠、湧水、花街、食べ歩き・・・、東京で出会って燥いでいたこの風景は、実は故郷で深く付き合いのあったものたちらしい。
そんなことが、今回つながった。

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これらすべてが、このブログのルーツ。

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