九段の花、いまむかし
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花街や色街のこと
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出張が入ると、まず地図を見る。
これから赴く地の水路や暗渠の位置を、確かめるためだ。
長野市への出張が入ったので、やっぱり地図を見た。
目的地の近くには、縦横無尽に水路と暗渠(推定)が走っていた。
これはどちらが上流だろう?地形はどうなっているのだろう?
謎めいた土地だと思った。
しかしその後時間が取れなくなって、なにも調べられぬまま、あっというまに出張の日が来てしまった。
到着は夜。ホテルの近くで少しだけ歩き回ってみる。
・・・さっそくそれらしき空間がある。写真を撮るも、暗すぎて写ってくれない。
翌日撮り直したそこは、こういう空間だった。
暗闇で感じ取ったこれは、なんとも・・・護岸といい狭さといい、格好いい暗渠にちがいない、という雰囲気を放っていた。
しかしまずは仕事をせねば。その後時間が取れたら、ここにも来よう。
目的地と、そこからの帰り道を詳細に検討する。上物の(地図上であるが)暗渠がありそうな空間を何か所か織り交ぜながら。下調べが出来なかったぶん、いつもの出張よりも今回は情報がすくないし、行きあたりばったり感が強い。ちゃんと、いい出会いはあるのだろうか。
善光寺近くの店「喜世栄」で朝食に野沢菜ときのこのおやきをいただき、仕事を済ませる。
歩いていると、「湯福川」という、開渠に出会った。
信濃川水系・・・遠くに来たなあ、という気がする。
土石流が発生しやすい渓流であるという看板も。・・・渓流といえば郷里に近いような気がして、なんとなく親しみもおぼえる。
あまり観光名所に興味はないが、中学生の時に父が連れてきてくれたな・・・と思いながら、善光寺にも寄る。
善光寺そのものというよりも、善光寺を囲い流れる水路を見たかった。中学生のときの記憶からは、もっと平らな土地だと思っていた。否、なかなか傾斜がある。あのころの自分は、地形も水路も見ていなかった、ということか。
水路は、善光寺の敷地内ではなく外にあるようであった。そして、さきほどの湯福川の続きであるようだった。
しかし・・・暑い。境内の休憩所で、涼むことにした。そこでふと、これだけ立派なお寺があるのなら、きっと遊郭もさぞかし・・・と、思い至る。いそいで遊郭の情報を探す。
あった。ただし、現在それらしき建物はほとんど残っていないそうだけれど。
その名は、鶴賀新地というらしい。善光寺参詣客の精進落とし。やはり、街地の少しはずれに作られている。
地図を見てみよう。
mapionより拝借。
お見事な形だった。
地図上では、まだここは遊郭であるかのようだ。
水路を示す表記はないが、ここには足を運んでみたい、と思った。
上掲の地図にもあるように、大門のあった通りが幅広で、じっさい、突然大門からが広くなる。言われなければわからない、住宅地の中なのだが。
鶴賀新地の説明板のたつここは、東鶴賀町公民館。この建物が以前は見番であった、という。明治11年にこの地に遊郭が設置され、四十余軒の妓楼と多くの店が軒を連ねた、とある。ここの見番は、平成6年に建て替えられたそうだ。
嗚呼、もうちょっとむかしに見に来てみたかったものだ。
web情報をみていると、名残の建物はほとんどないという。この建物だけ、それらしき香りを漂わせていた。そして、やはりそうだと、後から知った。(ちなみに建物が残っていた頃はこんな感じ。)
カフェー建築などはなく、大きくてシンプルなラブホがどーん。端っこのビルにスナックがぽつぽつ。そんな感じだった。
しかし、地図上の輪郭はくっきりと遊郭らしさを残していた。
ではその境界を歩きに行こう。わたしには、これこそがメインともいえる。吉原にも、洲崎にも、そして中村など地方の遊郭にも、ぐるりと囲むドブはあったのだ。果たして鶴賀にもあったろうか?その、名残はあるだろうか?
近いところから、輪郭に沿い歩き始めた。ただの道路、そして細めの道路。地元の資料を手に入れる暇はないのが、もどかしい。
あっ・・・
これは暗渠だ。なんと、これまで見た遊郭の囲いの中で、ここまで暗渠らしいものはあったか・・・?なかったのではないか。
青印の位置である。
細い道からさらにつづく抜け道のような。そこは暗渠だった。そして、
今も水が流れていた・・・
なんともいえない、胸の高まりをおぼえた。
鉄漿のような汚くよどむ水ではない。さらさらと流れる細い水路。
でも、鶴賀のオハグロドブさん、おまえはいまも生きているんだね。
さらに歩き進む。
ここで、わたしは「アッ・・・」 思わず声をあげてしまっていた。
開渠があったのだ。
生きている。長野のオハグロドブは、いまもしっかりと生きている!
しかし、これだけ水が滞留しないので、低湿地のよどんだドブであった吉原のそれなどとはちがい、昔から綺麗な水路だったのかもしれない。「オハグロドブ」は失礼だったかもな。
今回見たいくつかのweb情報では、遊郭の遺構らしきものは強いて言うならラブホと飲食街、ということだった。けれど、実際に歩いてみると、遊郭を囲う水路は、他のどの遊郭よりも、健在だった。
興奮、さめやらず。
しかしいよいよ時間は無い。駅に向かい進んでいく。
だんだんと、地形と水路の向きがわかってくる。そこかしこに暗渠があることも。
たとえば長野市役所の前は、
右手の駐輪場がそうだった。
こんなふうに綺麗に蛇行する暗渠であり、中にはなみなみと水が流れている。
橋跡、とおもいきや、
跡ではなくて現役の橋なのである。
こんなふうに、地図上では左上から右下へと、取水された水がおそらくは農業用水路として、張り巡らされているようだった。
長野市の西側に裾花川が流れており、南側で犀川に合流、さらに千曲川に合流して千曲川が東側を北上していく。裾花川で取水された水たちが田畑をうるおし(以前はもっと多目的だったろうが)、余水は千曲川流域の方向にはけていく、という感じなのだろうか。
細いものもある。おそらくこれは、水路自体は塞がれているのあろうと思うが、
空間としてはいかにも暗渠らしく、
途中からは雨水をあつめる場所として機能するようだ。
往時は、細くとも流量のある立派な水路だったように思える。
それが、この御方。
そう、前日の夜に、最初に見かけた暗渠さんなのだった。
太い道路をはさみ、向こう側の白いフェンスのあたりに落ちていく。市役所の方向に向かって。
この、「千歳レジデンス」のすぐ北を走る細い道がいまの暗渠である。
道の機能を果たしていない場所も、細い道として描かれていた。
そして、東側にむかって流れてゆき、おそらくは市役所前の水路とどこかで合流するような位置にある。
こうやって少しずつ、長野市の形状がわかってきたようなところで、そろそろおいとましなければならない時間が来た。
さて、ごはん。
暑すぎたので、しゅわしゅわしたものを飲みたくなり、喫茶店に立ち寄った。
「メロンスカッシュ」という文字を見つけたので、生メロンが添えられた薄緑色の飲み物を想像しながら頼んだら、これがきた。
なるほどねぇ。
そして信州味噌ラーメン。
「吟屋食堂」の極味噌ラーメン、全部のせ。
長野=蕎麦、と思っていたが、信州味噌ラーメンも売り出しにかかっているようだ。
蕎麦とラーメン、いずれも郷里山形とかぶっている。山形も蕎麦の名所であるが、地元の人は異様にラーメンが好きなのだ。わたしももれなく大好きなので、このチョイスとなった。
長野の人は、ラーメンがどのくらい好きなのだろうか。・・・などと、濃厚なラーメンをすすりながら、ふたたびふたつの街のことを考えていた。
***
簡単ではありますが、長野の暗渠旅はこのくらいにしておきたいと思います。
伝統ある、長閑なしずかな、緑に囲まれたこの街は、キレ味のある暗渠を隠し持った街でもありました。さて、次の出張の準備をしなければ、ね。
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しばらく更新が滞ってしまいました・・・いろいろあって、こちらに割く時間が取れなくなってしまったのでした。あと、あらたな暗渠に行く時間も。
それで報告が遅くなりましたが、先月の西荻暗渠探検報告会はおかげさまで盛況であり、他の方々とのやり取りもたいへんおもしろかったです。ご参加のみなさま、関係者のみなさま、ほんとうにありがとうございました。
***
でも、出張ついでの暗渠さんぽはたのしんでいました。
今回は、神戸の記録。地方の暗渠記事は、調べないでいいことにしてるからちょっと楽なのです・・・
ホテルを取る暇もろくになかったので、2日くらいまえに適当に残っている宿をおさえ、新幹線の自由席に飛び乗りました。宿があるのは、どうやら新開地、という場所らしいです。
初日の仕事を終え、新開地にゆき、周辺をぶらぶらします。
ここの景色を見てまず思ったことは、「湊っぽい」、でした。
再開発を待つのか、歯抜けになった土地、ふるい家屋の向こうに新しくて大きいビル。そういう場所ってところどころにあるだろうけど、中央区の湊の雰囲気がもっとも近いと感じたのでした。
新開地は神戸というより大阪のような街という印象で、立ち飲みの串揚げ屋さんが何軒もあり、おっさんがひとりで酒を飲み、各種ギャンブル場があるようでした。
その風情はひじょうに好みであり、街に溶け込んだふりをして立ち食い蕎麦屋に入り「キムチ天ぷらうどん」なるものを食し、しばし街を観察していました。嗚呼、良い看板。
この看板のあるアーケードは、水のにおいはあまりしなかったのですが、地図を見ているとどうも気になる、運河跡のような区割をしているのです。
そこで今昔マップをみてみると、
すごく運河っぽい。すくなくとも「湊川」という水路があったようであり、川跡に遊園ができた時代もあったようです。どんどん興味が湧いてきて、検索してゆくと・・・
かつてここに、湊川という河川が在ったことがわかりました。しかも天井川(土砂の堆積で次第に河床が高くなり、それに合わせて堤防をつくることにより、どんどん周囲より高くなる川。DPZでも天井川の川跡が紹介されていました)であったため、付け替えられたと。ちょうど明治期の地図では、新湊川が開削され、そのかたわらで湊川の上に湊川遊園が出現しているのが見て取れます。
神戸といえば地下河川にハマりつつあったので、今回は鯉川暗渠にゆき、また河川マンホールを見ようかな、などと考えていましたが・・・最早それどころではありません。下調べもせず適当にやってきた場所が、まさに旧川道であるなんて。しかも、最初に「湊っぽい」とつぶやいた場所が、「湊川」の跡であったなんて。
・・・翌朝は旧湊川跡を歩き回ることに、決めました。
(ちなみに検索すると、最初に庵魚堂さんの記事が出てくるのです、さすがです。)
さて翌日。
川跡のところだけ古い建物が並んでいます。そうか、昨晩のあの歯抜け地帯もか。
川の上にばかり、古くて渋い飲み屋群とレジャー施設が集中しています。
ちなみにレトロな洋食屋さん、グリル一平も川跡の上にあります。時間が前後しますが、これは最終日に食べた天井川暗渠オムライス。
・・・川跡の外側のほうが低いのでした。
こんな地形だから、水のにおいがする、とはとても思えなかったわけです。
しかし天井川の川跡だとわかると、このながめは、もう、すばらしくおもしろい!つまりここは堤防なのか。。
上流に遡っていくと、そこは、もっとすごいことになっている。今立っているところは川の外。向こうの高い土地が、川の中。うはぁ・・・。
上は湊川公園になっています。湊川公園は、戦後一時引揚者宅、遊園地、芝居小屋などになっていたそうです。サーカスがくるときも、神戸タワーが立っていたときも・・・。いまはパチンコ屋さんやラウンド1などになっているけれど、なんとなく、たましいは継承されている。
で、この湊川公園の下の部分に商店街があって、入れるのです・・・
入ります。
溢れる昭和感。朝なのでほとんど開いていなかったけれど、現役のお店が多そうでした。
ここは旧湊川の下にある場所。ということは、暗渠の中のようなもの!(むしろ川の下だけど)・・・と、大興奮してあるきました。
奥にあった光線、という名の喫茶店。
3日目はこの暗渠「中」喫茶店で、トーストとコーヒーのモーニングと洒落込みました。
そしてそのために、2日目の朝はほかの暗渠沿い喫茶店を2軒ハシゴして2回モーニングをたべる(悔いのないようにと)いう気合の入りようでした・・・このへんのタマゴサンドは、玉子焼きが入ってておいしかった!
遥か頭上を川跡がとおるよ。
川から街を、見下ろすよ。
そしてこの方向に、遊郭跡があるのです。
福原遊廓の名残、いまもあります。桜筋と柳筋、ソープランドがぽつぽつ。
吉原の中を歩いているときととても近い感じがしました。吉原のみならず、いくつかの遊郭跡(中村、金津園)を朝にあるくと、その空気、建物、店名、立地、街のかたち・・・いま自分がどの遊郭跡にいるのか判らなくなるほど、似ている気がします。
このサイトに往時の福原が載っています。
福原遊郭は明治4年に、計画的につくられたものなのだそうです。それは神戸が港町であることと関連します。開港によって、外国人、それから軽輩のものが出入りするので、と、市街地から隔離されたこの地に遊郭ができました。その条件に合うのは、川べり・・・吉原と通じるものがあります。
福原遊郭誕生は、前述の旧湊川が娯楽の場となったこととは独立のおはなし。たまたま、その30数年後に川跡が栄え出し、両者がともに繁盛することとなったのだそうです。
さて旧湊川に戻り、遡ってゆきましょう。
また地下街がありました。またも川の下に潜ると、そこにはやはり昭和っぽいお店が並んでいました。入りたくなるような定食屋さんがあり、もう何泊もしたかった・・・
川跡の上にもどってくると、上流は引き続き商店街でした。こんどは東山商店街という、とても活気のあるアーケード。とくに魚屋さんが充実していました。見たことのないお魚や、いきいきとしたタコや。友人の土産にと、いわしせんべいを買いました。
新湊川ふれあい会館、という建物に遭遇。
”河川防災ステーション”と書いてあるので、なにか川絡みの展示でもしてやいないかと入ろうとしたら、休日はオヤスミでした。でも、なにやら作業をしているおじさまがいらしたので、思い切って旧湊川のことを聞いてみました。
すると、明治に付け替えられたこと、その理由は洪水だけではなく、この川と堤防により神戸の街と交通が分断され発展が妨げられることも大きかったということ、付け替え工事は民間の会社が協力してやったこと、などを、教えてくださいました(※)。いま、下を下水管が通っているわけでもないことも。
それから、湊川隧道の一般公開のご案内もくださいました。湊川の付け替えの際に、山の下を通すことにしたのでつくられたという、明治からあるふるい隧道。これ、いつか行ってみたいなあ。・・・おじさまがた、突然でしたのにありがとうございました!
※湊川改修に関する文献においても、付け替えの理由は、1.流出する土砂による神戸港の機能の低下を防ぐ、2.神戸と兵庫の間に横たわっていた交通上、経済上の障害の除去、3.洪水被害の防止、とされていました。
ふれあい会館は、付け替え地点のすぐ近くにあります。つまり旧湊川の川跡上流端まできました。
そしてこれが現在流れる開渠、新湊川、です。河床の低い河川として、西へと流れていきます。
新開地より下流もたどってみましょう。
アーケードが途切れた先には、ボートピアに、大型の劇場がいくつか。
嗚呼、ここでもまだまだ、土地のたましいが。
飲み屋さんも、たえずありました。そして他が閉まっていても、飲み屋さんと立ち食い蕎麦屋さんはやっている、という光景がたえずありました。
さらに下ると、こんな場所に出逢います。
稲荷市場。近くに稲荷神社があるからのよう。
真っ暗だったのは、日曜日だから、らしく。開いているときにきてみたかったです。ここも、川幅からいって湊川上のはず。
その下流側も閉まってたけど、
やっぱり飲み屋さんだけはあいていて、ここだけ人がいました。
すごい・・・旧湊川のこの一貫性。
そろそろおしまいです。河口の方角に、工場が見えます。
川崎重工業の工場のようです。
これもまたむかしからあるもので・・・、明治期は川崎造船所だったようです。旧湊川の川尻が埋め立てられ川崎造船所に売却された記録もあるようで。まだ手に入れていませんが、村松帰之「わが新開地」内では、いまたどってきたエリアを、当時行き来するひとびとが三つの色に例えられているのだそうです。福原の女たちを「赤き流」、繁華街にあつまる不良少年を「黒き流」、そして川崎造船所の職工を「青き流」と・・・。
暗渠に感じている興味を、詰め合わせにしたようなこの旧湊川跡。唸りながら地図をみていると、・・・あ、いまも細い開渠がある!
うわあ・・・これはステキな。
団地の下から突如あらわれたこの細い開渠は、工場に流れ込んでいくものでした。
なんという水路なのでしょうか、旧湊川の名残川なのでしょうか・・・
これで旧湊川の跡は上から下まであるいたわけです。
けれど、このときの暗渠さんぽは、もう少し続きます。
もともと、神戸出張が決まった時点で、関西に居る友人と遊ぶ約束をしていました。そして、わたしが行きたい場所を選んでよいことになっていたのですが・・・それが、たまたま、高川という天井川だったのです。そう、もともとわたしは現役の天井川をあるくつもりでいた。そうしたら、その前に、宿泊先が天井川の暗渠にあった、という巡り合わせだったのでした。
高川は、すべて辿る時間はありません。友人らと合流し、呑む予定である十三に近づいて行って、適当なところで切り上げる予定で。
思いのほか都会のビル街をはしる北大阪急行電鉄にのり、緑地公園駅に集合(地図上の印象として、西武線沿いのようなイメージでいたのが、ぜんぜん違ったということです)。
高川はこんなふうに、豊中市と吹田市の市境を流れ下ります。
さて、現役の天井川を見にゆきましょう。旧湊川も、むかしはこうだったかな、なんて想像しつつ。
緑地公園駅のそばの高川。はじめはふつうの川に見えました。
それが、歩いていくと、だんだんと自分たちのいる川沿いが高くなってゆき、すごく不思議な感じになります。
あれ、あそこ、色が違うなと思った場所は、
下を道路が走っているのでした。
うわあ・・・
目の前のトンネルの、天井の「上」を開渠が流れているのです。上を。嗚呼・・・湊川公園のところの景色と一緒だ・・・
でもほんとは、ここのトンネルはもっと古めかしくて良い感じだったはず。ネット上にはそのような写真が上っていたのですが、どうも、わりと最近に新しくされたようですね。
ぴかぴかのトンネルにはやや残念な気もしましたが、それを上回る天井川のパンチ力。そして、旧湊川を歩くときに力を貸してくれるであろう想像力を得られたのは、とてもよかったです。
そしてここで高川と別れ、去年にひきつづき十三でお酒を飲んで、宿にもどってきました・・・
ちなみに衝撃的なことに、今回の宿泊施設は、なんでかラブホでした。
ラブホでひとり、寝起きする。まったく落ち着けませんでしたが、旧湊川沿いは、娯楽とエロスの街であることを考えれば、これ以上ぴったりのロケーションは無いかもしれない。直前に〇〇トラベルでろくに考えず申し込んだために(?)起きたこのハプニングさえも、絶妙な味わいがありました。
たまたま泊まった川跡沿いの宿。
たまたま連続で見ることになった、新旧の天井川。
できすぎている偶然は、このところ新しい暗渠に向かえないでもどかしくしていた、わたしへのプレゼントであるような気すらしました。
神戸に感謝。地下も深いが、盛り上がっている場所も深かった。奥深い街です。
<文献>
大槻洋二 1997 神戸・新開地の空間形成と歓楽街成立の契機 : 近代都市の歓楽街形成に関する史的研究 その1 日本建築学会計画系論文集 (496)
吉村愛子・神吉和夫 2003 明治期の民間会社による河川改修事業の計画と施工過程―湊川改修株式会社― 土木史研究 講演集 vol.23
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スリバチとは、逆円錐形をあらわすことばであるはずだ。だから、「四角スリバチ」なんて、ことば自体がすでに矛盾を孕んでいるかもしれない。
でも、世の中ってものはおもしろくって、四角いスリバチだって、あるところにはある。最初にそれを知ることになったのは文京区、東京大学の本郷キャンパスと浅野キャンパスに挟まれた、この地でのこと。
Googleさんありがとうございます。文京区の、向ヶ岡といわれるところ
なぜ東大のキャンパスがこのように分断されているのか?よく見れば、気になる地割り。そんな問いをもって、この地のことを調べる人もいる。
時代を遡ってみると、さらにこの場所のシカクさが浮き出てくるかのようだ。
東京時層地図よりキャプチャ。明治9~19年頃の向ヶ岡
古地図には大きな池が描いてあるから、両脇の崖から水が滴っていたのかもしれない。あるいは、もう少し上流の、谷頭から来る水を溜めていたのかもしれない。とはいえ、こんな地形は自然にできるものではない。ここは、もとからあった谷戸を利用し、成形された場所だったのだ・・・なんのために?
明治期、このシカクい土地には射的場があった。射的といっても、こんにち我々が想像するようなお祭りのそれではない。警視庁のもので、西南戦争に派遣された関係者が狙撃演習を行ったという。その後、東京共同射的会社となり、一般人にも向けられた練習場となった。
江戸期のここは水戸藩駒込邸の敷地であり、その頃から池が谷戸の下方に認められる。明治に入り、そのスリバチの四方に土手を作り、さらなる谷地形をつくり、弾を防ぐ壁としたのだそうだ。
谷地形があるということは、そこには川が流れていたということ。ただしこの、射的場の川は無名川で、名を定めている文献は見当たらない。そういうとき、筆者は勝手に名づけることも多いけれど、この川については付け忘れてしまった。なので、みなさんどうぞお好きな名前で、心の中で呼んでください。
明治期の古地図を見ると、道路脇に水路が描いてあるものがある。そして、東京大学構内にある三四郎池から流れ出す小川が、この無名川に合流していた。実はいまも、東京大学の池之端門近辺には橋状のものや、石垣に埋まりつつある合流口があって、水路の名残を感じることができる。付近は地形を改変され続けたこともあり、流末がはっきりしないが、いにしえは石神井川の支流、近世以降は不忍池に注いだと考えられる。
現在この地を歩いてみると、ほぼ、ただのシカクい住宅地だ。・・・いや、シカクさはわかりにくいかもしれない。一応、チーズドッグみたいな擁壁の崖を認めることは出来るものの、住宅に遮られて視界が悪い。
現代の向ヶ岡の内部。 住所は、文京区弥生二丁目だ
上述のようにわざわざ谷を掘って成形したものの、その後埋めて宅地化したのだという。とある考古学者によれば、この土地を掘れば、池跡が出てくる可能性が高いのだそうだ・・・いまを生きる私は、地面の下の池を想像して歩くのみ。それだって、楽しいけれど。
もう少しだけ、スリバチ感の残っているシカク地帯もある。港区青山。ここには、いまも谷が残っているように見える。
こちらも射的場だが、こんどは陸軍のものである。長方形の敷地で、全面と左右に土手があり、凹地の各所に門があったというつくり。そのまんまだが、俗に「鉄砲山」といわれていた。射的場の下には蛇ヶ池(じゃがいけ、もしくはへびがいけ)があり、葦が生え、魚がたくさんいたという。
なんと斉藤茂吉が「赤光」にて、ここの湧水のことを詠んでいた。
「射的場に 細みづ湧きて流れければ 童ふたりが水のべに来し」
同じく「赤光」には、子どもが土を掘って弾丸を見つけ、喜んでいるという描写もある。青山、といえばシャレオツタウン、いま描写したような風景を想像する人は、あまりいるまい。
青山霊園の少し南に、そのスリバチはある。買い物をするような店もなく、はっきりいってここに行く用事などない。しかし、シカク見たさに、行ってみる。そうか、ここか・・・
青山に密かに在る、細長い谷地形
そこは妙に余白を感じる、運輸会社などの敷地になっていた・・・侵入することはできない、深い谷を見下ろす。
そう思って歩いて帰ってきたら、それは大きな間違いだった。実際の射的場跡は、2倍以上も広かった。
東京時層地図よりキャプチャ。左は文明開化期、右はバブル期。
前掲の写真は、緑点線内を写しただけだった。
明治期の蛇ヶ池は、まるで真夏の夜に青山霊園から抜け出てきたヒトダマみたいに、陸軍用地に食い込んでいる。
・・・どうやらここは、もっともっと広いシカクスリバチがあったのが、盛り土されてしまったようだ。
こちらの川には名がある。その名を笄(こうがい)川という。渋谷川の支流であり、天現寺橋のところが河口にあたる。笄川は青山霊園を中心として北に向かって咲くリンドウの花のようなかたちをしていて、この蛇ヶ池はいわば花弁のような位置にあって、その水源のひとつだった。かつては、蛇ヶ池の脇を小川が流れ、その下にひろがる笄田圃を潤していた。
江戸期の絵図を見るとここは青山家の下屋敷の敷地であり、空白が多く地形がよくわからない。しかしその時から蛇ヶ池はあったようだ。すなわち谷があったのであり、向ヶ岡同様、ここのシカクももとの谷戸を利用したものだ。
明治以降の地図を時代順に並べて見ると、だんだんと埋められ住宅になっていくさまがよくわかる。しかしよく見ると、今の区割にも名残がある。バブル期の住宅地のかたちは、射的場とほぼ同じなのだ(そして、いまもそうだ)。
東京時層地図よりキャプチャ。現代の段彩陰影図。
オレンジ点線内が射的場のナガシカク部分。
1つ前の写真と比較してみてほしい。ナガシカクの左下にはいまも窪地として残っており、そこに青山葬儀場がすっぽりとおさまっている。
かつてはもっとスケールの大きかったシカクスリバチは、お弁当箱の脇についた箸入れみたいな、細い一部分だけ残して埋められてしまったのだった…。さきほどの向ヶ岡との共通点の、なんと多いことか。
軍の射撃場といえば、戸山も有名だ。戸山公園や早稲田大学理工学部のある一帯である。ここに陸軍射撃場が置かれたのは、江戸期の鉄砲隊が由来する(鉄砲百人組の大縄地を転用)という。あのあたりの場所に縁のある人は、思い浮かべてみてもスリバチらしさなど感じないのではないだろうか。しかし、戸山公園もまた、川の流れる緩やかな谷であった。
ここに流れていたのは、馬尿川もしくは秣(まぐさ)川。神田川の支流だ。水源については確実な文献は見当たらないが、大久保の韓国料理店街の脇から谷戸が始まる。下流に行けば少し前までは湧水があったというし、味わい深い擁壁の残る、人気のある暗渠だ。この、ノンビリとした名は、馬の餌である秣が流域に置かれていたからとかいう、本当にノンビリした理由でつけられたようだ。流域、というか射撃場と同じ場所に競馬場があった時代もある、馬に縁のある地のようだ。
“戸山ヶ原”と言われていたこの地は、陸軍用地ではあったものの一般人も出入り自由だった。旗が上がると子どもたちが弾を拾いにいったりしたというし、「トンボ釣り」「カブトムシ捕り」というなんとも長閑な遊びにここで興じていたともいう。青山然り、陸軍用地にはこのように子どもが戯れるエピソードがよくついてくる。
明治期、戸山には「三角山」という実弾の着弾地があったが、弾が山を越えて中野やら落合まで行ってしまい、住民が危険にさらされたというので、昭和3年に蒲鉾型の7本×300mの鉄筋コンクリート製の射撃場になった。
東京時層地図よりキャプチャ。左は昭和戦前期、右は現代の段彩陰影図。
いずれのスリバチも、陰影図ではある程度シカク感がわかるが、実際に訪れるとそれほどはっきりとはわからない。もっと、いまもしっかりと見られるシカクスリバチは、存在しないのか?
…最もはっきりしているものは、大田区にある。
東京時層地図よりキャプチャ。大森駅西側の段彩陰影図。
くっきりと存在するシカク。そこから延びる谷は複雑な地形をかたちづくっている。
この谷にかつてあった川は、池尻堀という。いくつもの水源が存在していたようで、流末は六郷用水に注ぐものだ。池尻堀の谷はダイナミックに入り組んでいるばかりか、美しいフラクタル状になっていて、陰影図を見ているとどうにもうっとりしてしまう。暗渠者に人気が高いのもうなずける。
東京時層地図よりキャプチャ。1つ前の陰影図と同じ場所の、昭和戦前期。
ここ大森のシカクスリバチもまた射撃用のものであり、前出の向ヶ岡の射的会社が明治22年に移転してきたものだった。
ところが何を思ったか、隣にテニスコートが建設される。テニスクラブのwebには「西洋列強の文化の中で育まれたスポーツマンシップも会得しよう」という理由だったと書いてある。そしてなぜだか、慶應義塾大学庭球部の要請によりテニスコートを増やし、慶大庭球部と一般のテニスクラブが一緒になって「大森庭球倶楽部」が開設された、というのだ…大正12年のことだ。
入新井町誌より。射撃場とテニスコートが隣り合わせ、というクールさ加減
いまもテニスコートは健在で、大森駅の東口から一山越えると、大森テニスクラブが現われる。
ここが谷頭だ。テニスクラブ入口から下を眺めると、そこにはすばらしいナガシカクが拡がっている。
射撃場跡の石碑もある。陸軍の射撃場は広いものであったが、警視庁系はコンパクトであり、今もシカクさ加減がよく味わえる。ちなみに、深大寺にも射撃場跡があるが、こちらはもっともっと深く、今もしっかりとした谷である(今度は深すぎて写真におさまらない)。さぞ上等な、天然の防御壁となっていただろう。
そういえば、色町も、よく目にするシカクのひとつ。中沢(2005)いうところの「湿った面」である色町は、スリバチ等級でいうと低くなるかもしれないが、その多くは低湿地につくられている。そして、とくに吉原や洲崎などの遊郭は、きれいな長方形をしている。吉原に関しては、低湿地のなかに、ぽっかりと浮いた島のようにつくられている…。
東京時層地図よりキャプチャ。左はバブル期、右は現在の段彩陰影図
銃と、性。これらは、人の生と死というつながりをもつものだ。生と死とは、目を背けることができないものだ。綺麗な上澄みではない、どろどろとした情緒がうずまくものだ。そういったものが、谷底という低地に溜まっているということは、なんら不思議ではないのかもしれない。
「谷に集まるのはムーミンだけではない」。このようなある特殊なヒトやモノ、そしてさまざまな生き死にのものがたりが、スリバチの底には横たわっている。
***
なぜ、この記事をボツにしたのかというと。
原稿をある程度書き進めた段階で、マトグロッソの一連のスリバチ記事を最初から通して読み直してみた。なんとなく、このネタが書かれていないわけはないよな、と少しざわつくような心持ちでいたからだ。
案の定、エピソード6には射撃場の話が・・・。ちゃんと読もうよ、自分。・・・いや、記憶が蘇ってきたら、たしかにそれをちゃんと読んでいたし、御殿山の箇所に反応して「わたしは軍事萌えもあるから、暗渠者だけどここも萌えるよ!」などと、ぶつぶつ言ったことも思い出した・・・ちゃんと覚えてようよ、自分。
わくわくしながらスタートした本記事は、残念ながらお蔵入り。でも、お蔵入りはもったいないので、特に新しい視点もないけれど、ブログには載せておこう、と思うに至ったのである。
***
オマケ。
陸軍用地は戦後それぞれ、かたちを変えて歴史をつないでいる。では、向ヶ岡から大森に移った民間の射的会社は、その後どうなったのであろうか。横浜のほうに移ったという情報があるものの、文献上詳細は分からなかった。横浜の古地図を見てみると、大正期に全国射撃大会が行われたという場所が馬場にある。当時このあたりは人家も少なく、深い谷戸がある射撃の適地であったという。その深い谷戸は、入江川の流域にあった。
横浜時層地図(昭和戦前期)よりキャプチャ。東寺尾~馬場のあたり
台形のような、シカクのような。実際に現地に行ってみると、そこにはコンパクトな、しかしインパクトのある台形を住宅が埋めつくしていた。みごとな「ガケンチク」に、横浜らしさを感じる。
地図の年代を遡って見ていくと、近隣の別の場所に射撃場が現れる。地元の資料を見ると、もとはもっと東にあった射撃場が、上記の地に移転してきて、昭和15年まで存続したということである。
その、移転前の場所とは、明治のある時期までは成願寺という3ツ池のある寺の敷地だった。その池の向こうに射撃場があり、一年中銃声が聞こえてきた、という記録が残っている。
横浜時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ
こちらはより広い。ナガシカク、というよりは、もう少し滑らかなかたちかもしれない。ほとんど地形を弄らなかった、ということかもしれない。
池を囲むように別荘が建ち、製氷池で氷の作られるしずかな(たぶん、銃声以外は)場所だったという。ここに、明治36年に、總持寺移転が決定する。
横浜時層地図(戦後転換期)よりキャプチャ
大きなお寺は、なんとなくむかしからそこにあったような気がしてしまう。しかし、もと射撃場であった寺、というのも存在するわけだ。
今はこのような風景だ。
總持寺。いまの大駐車場のあたりに、明治21年からしばらくのあいだ、射撃場があった。射撃場が移転し、その場所は龍王池という池となったが、それも埋立てられ、いまはこのように駐車場になっている。
・・・じつは、この場所はわたしが最初にスリバチ学会のフィールドワーク(下末吉の回)にお邪魔したときに、最初に立ち寄って、集合写真を撮った場所なのだった。
なんという一致。スリバチ学会からいただいた原稿のお話、最初に思いついていそいそと書きはじめたストーリーは、まわりまわって、最後にまたスリバチ学会にもどってきたのであった・・・これもまた、スリバチがつなぐ縁なのかもしれない。
年末に行った総持寺には、屋台の準備がなされていた。射的場跡地に、現代の射的屋がある風景・・・おあとがよろしいようで。
<参考文献>
「入新井町誌」
斉藤美枝「鶴見總持寺物語」
「新宿区町名誌」
「新宿区立戸塚第三小学校周辺の歴史」
中沢新一「アースダイバー」
中嶋昭「鶴見ところどころ」
原祐一「向ヶ岡弥生町の研究―向ヶ岡弥生町の歴史と東京大学浅野地区の発掘調査の結果― 徳川斉昭と水戸藩駒込邸」東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9
港区教育委員会「増補港区近代沿革図集 赤坂・青山」
港区三田図書館「明治の港区」
「わがまち大久保」
<関連記事(本ブログ内)>
・夜の馬尿川
・三四郎池支流(仮)の流れる先は
・ゲゲゲの湧水(前編)
・洲パラダイス崎
<関連記事(他サイト)>
・大森テニスクラブ
・あるく渋谷川入門 笄川東側
・暗渠ハンター 山王崖下の池尻堀?
etc...
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松戸ってどんな街?
・・・じつは、よく知らないんです。
わたしにとっては、親戚宅に行くときの乗換駅なだけでした(しかもちょっとの期間だけ)。降りたことはないものだから、町並みも地形も、なんにも、知らない。
今回は暗渠と軍跡をたどるため、その松戸に降り立ってみました。
こんな地形みたいです(google earthさんありがとうございます)。 だ、大胆だな~!
まずは、川のある方向へ。駅から西へ行けば、川、川、川です。
江戸川と、
坂川(これが一番駅から近い)と、
樋古根川。
この、川たちに挟まれたエリアに、かつて色町があったといわれます。
平潟遊郭。
川との縁抜きには、語れない場所。
平潟遊郭は、上述の坂川と樋小根川の間に在りました。
この位置です(googleさんありがとうございます)。
平潟は、川の”砂州でできた自然堤防の上”にあると描写されます。形は細長いですが、吉原と同じように、町とは切り離された場所。
樋古根川に寄り沿うように、遊郭が在る。この樋古根川を当時地元の人は排水川(排水堀)と呼んでいて、それは江戸川の旧流路でもあり、幅10m足らずの小さな川だった、といいます。たぶん、幅は今も同じくらいでしょう。
・・・では、この地にどのようにして遊郭ができたのか。
ときを遡って、江戸のころ。
近くには、松戸宿。ここ平潟は本河岸といわれ、多くの船が出入りしていました。
男が乗るその船らに、小舟で漕ぎ寄せ、洗濯、掃除などをし、一夜を共にし、朝食の支度をして去る、という女性たちがいたとか。その商売が陸に上がり、1626年、松戸宿平潟河岸には1軒につき2人の”飯盛女”を置くことが許可されることとなりました。不法に女性を増やしては手入れがあったり、周辺の農民が仕事を怠るとか、風紀が乱れるといった批判に遭いながらも、なんだかんだと儲けの多い商売、明治には遊郭になりました。
関東大震災が、ここが栄える契機になったということです。最盛期には100名以上の娼妓を擁し、建物は・・・内藤新宿からやって来た資産家内田氏が建てたのが「三井家(改称前は九十九楼)」。大正12年頃に、吉原に負けないという意気込みで建てられたものです。凝ったつくりで、ガラスにも味があり、店の名の入った煉瓦、窓枠やタイルもすばらしく、銘木をふんだんに使用した豪華絢爛の一軒だったそうです。
「福田家」と「百年」は洋風でカラフルなステンドグラスをちりばめ、緑のペンキで塗られていたそう。廓によって客層が若干違ったようでもありますが、どの廓も枯山水の中庭を持ち、川に面した眺めの良い部屋は、少し広めだったそうです。
また楼主の住処と店は橋でつながっていて、”現実を離れて夢の世界に導く仕掛け”なのだそう。2階の”本部屋”もひとつひとつ反り橋から入るつくり。
戦後、それらは売春宿、ダンスホール、旅館などに変わりました。建物はつぎつぎとなくなってゆき、ついに平成6年、最後に残る三井家も壊されてしまいました。それから廓だったところは学生寮、日大歯学部へと、どんどん時が流れ、どんどん変わってきています。
平成も25年のいま、遊廓の名残は、はたしてまだあるのでしょうか・・・?
坂川から平潟へと歩いて行ってみます。
少し離れた橋を渡ったところに、道標がありました。
当時のもののようです。”左 平潟遊郭”と。
左に歩いてゆくと、たしかに平潟遊郭跡に着きます。東端から入ってゆきましょう。
赤丸が東の大門のあたりです。
大門は、頂上に外灯を乗せた角柱で、三種の石粉を外側にまぶしてあったといいます。大門を幻視しつつ・・・。
右側の白丸は、現在なににもなっていない空き地ですが、少し低くなっています。ここは、ちょうどこの形のまま、当時は田んぼでした。そして田んぼの隣は湿地で葦が生え、田んぼとの間には溝があった、と・・・吉原と同じ!
大門から入り、遊郭のメインストリートを行ったり来たりします。
すると、
古い外灯がありました。
おお、平潟、と書かれた住所表示もありました(現在は松戸市松戸という味気ない住所です)。
ここは、当時「高村タクシー」があった場所。
いまは住宅ばかりのメインストリートですが、表札を見ていると、平潟時代の駄菓子屋さん、洋食屋さんなどと同じ苗字の方が、同じ位置に住まわれています。
この新しめのホテルの名前は「せんだんや」といいます。
この位置には、遊郭時代は「せんだん屋」という木賃宿があったそう(近藤勇も泊まったとか)。
この裏手には釣り好きの福田家が経営する釣り堀もあったとか。
平潟神社には、水神さまが祀られていました。
そして・・・九十九楼(三井家)の名が刻まれています。
来迎寺の前。
明治の頃、お寺の鐘は時を知らせるものでしたが、客に少しでも長く遊ばせようという魂胆により、夜の鐘が数十分も遅れるので、町の人が困ることもあったとか。
来迎寺には娼妓の墓もあるそうです。お寺の前の色んなものが埋め込まれたこの塚には目を奪われます。右にあるものは庚申塚でした。
建物そのものはないものの、一見たんなる住宅街のそこここに、遊郭のカケラは残っていました。
***
川の話に戻ります。
松戸のひとが「川」(あるいは「おおかわ」)というときは、それは江戸川のことなのだそうです。
鮒の雀焼き、鯰の天ぷらに蒲焼きにお味噌汁。江戸川の魚はおいしい、と松戸の本には書いてあります。川の恵み豊かな、穏やかな土地なのか、というと・・・とんでもない、そこには水との長い闘いの歴史がありました。
江戸川のすぐ東を、下総台地の湧水を集めて流れるのが坂川です。この坂川、流山おおたかの森あたりにあった牛飼い池を源とし江戸川に注ぐのですが、水が増えると逆流しがちだったといい、松戸市史にも「坂川は普段は北流する逆川」とあります。
その江戸川は1783年の浅間山の大噴火により、泥が流れ込み川底が高くなってしまいます。坂川の水が、ますます江戸川に流れにくくなります。この排水の悪さは田畑への被害になるため、何度も幕府に願い出(それも容易ではないこと)、坂川の河口は次第に南側へと掘られていきました。
1815年に松戸の赤圦まで。1836年に栗山の南まで。しかし落差の少ない坂川、そこまで延長しても、水害はなくなりません。ここらの川べりの土地は、とくに農家にとっては長らく苦難の地であったといえます。
先ほどの、平潟遊郭を離れて坂川を下ってゆくと、その”赤圦”があります。
あれ、なんだか2股になっているみたい。
2流に挟まれた岬のようなところの上にも、住宅がありました。
ここらへんの水は随分と停滞しています。
たしかに、淀んでいます。
赤圦樋門からゆったりと江戸川に流れていっていました。
ところで、さきほどの水害が絶えなかった松戸の歴史は、ひとつの建造物でがらりと変わります。
1909(明治42)年、樋野口に排水機場ができ、それは大煙突とゴーゴーという蒸気機関の音がシンボルの、当時「東洋一の力がある」といわれた迫力モノで。その蒸気機関が昼夜問わず頼もしく排水をしてくれるようになったことで、やっと水害がなくなったのだそうです。
その後松戸では良質の米・もち米が採れるようになり、それで白玉粉をつくったら評判となり。つまり松戸は白玉粉の誕生の地かつ名産地であるそうなのです。なんと、現在も白玉粉生産日本一の玉三。知らなかった・・・
わたしたちがいま、おいしい白玉だんごを食べられるのは、この樋野口排水機場のおかげ。
って、ここ、実はさきほどの平潟遊郭の裏側、樋古根川の出口なのでした。
さて、赤圦の手前で分岐していた坂川。もう一本の方を追ってみます。
すると、松戸の市街地の方に近づいてきました。春雨橋を渡ると・・・、
あれ、このあたり、川底が見えるくらい綺麗になってる!
いつのまにか「ぼくのゆめ」叶ってるじゃん!
と吃驚すると同時に、
思ってたのと反対方向に流れている・・・!!
江戸川はこの坂川のちょいと向こう側で、正反対の向きに流れているはず・・・。
混乱していると、横には明らかな暗渠が。
松先稲荷神社の参道に橋が渡してあって、これは数十年前には流れていたような雰囲気ですね。
ご近所の方が休憩中だったので、この暗渠が昔小川だったのではないかということと、坂川の流れは反対向きではないかということを尋ねてみました。
すると、ここに水が流れていた覚えはないということ(嫁がれてきたらしい)、そして坂川については「なんで反対向きか、教えてあげようか」と言われたのですが、「江戸川から持ってきてるからなんだよ」という腑に落ちないお答え・・・。「え、矢切(やぎり)のほうからずっとですか?(ひええ、思っていたのと完全に反対向きだ!)」と聞くと、「あら、あなたここらへんの人じゃないでしょう。ここではね、やきり、って言うのよ。」という話に移行して終了。
相手をしてくださりありがとうございました・・・しかし、悶々が残った・・・
後日調べてみると、この松先稲荷脇は、数十年前までは水が滔々と流れていたそうです。
それから、ここの部分の坂川は、以前は反対向き(江戸川と同じ向き)の水が倍量で流れていたそうです。ただし、とても汚かったと。
あまりに汚れた坂川を、きれいにする取り組みが1994年に始まり、もう少し南にある小山揚水機場からややきれいな水を流し、この位置は北流させることとしたのだそうです。
つまり、こういうこと。
さきほど分岐点と思っていたところは、分岐ではなく合流点で、だからとても停滞していたわけです。
***
さて、低地ばかり歩いてきましたが、松戸の魅力は駅近辺の激しい高低差にあり。
いちど、丘の上に上がってみましょう。
冒頭の地形図には、低地に対して舌状に突き出した、いかにも城向きの土地があったと思います。ここは相模台といい、かつて陸軍が陣取っていました。大正8年、日本で唯一の陸軍工兵学校がこの松戸に出来たのです。
坂道を上ります。
訓練の帰り道にほっとするのもつかのま、教官が「学校まで駆け足!」と怒鳴るから、地獄坂、というとかなんとか。
地獄坂の途中に、境界石が残っていました。
坂を上りきると、工兵学校の門が残っています。
歩哨舎までも。
門を入ると、公園がひろがります。舌状台地の上。
・・・実はここ、陸軍の前は、競馬場があったのでした。軍馬改良等の目的で競馬が奨励されたとき、もともとは日本鉄道株式会社が”岩倉具視を祀る神社”を建てる予定にしていたこの土地を、譲り受けて馬場としました。明治39年頃のこと。
八百長などがあって開催しない年もあったそうですが、ここに競馬が定着しなかった主な理由は、もともととてもトラックの状態が悪かったためです。
なにしろこのカタチ(赤丸あたり)。
既定の走行距離にするためには楕円形にすることができず、無理やりイビツな形につくられたトラック。南側に突き出た第二コーナーは”天狗のハナ”と呼ばれ、ここで落馬事故が相次いだとのことです。地形上改善が不可能であるため、競馬場は中山へうつることになりました。
ここで、中山編の競馬場の歴史とつながってゆくのです。
そして競馬場は陸軍工兵学校となりました。習志野の鉄道第二連隊の軍用鉄道の終着点もココです。
工兵学校の、江戸川での架橋演習は有名で、川の上で、煙幕の下に鉄船が並べられ、その上に頑丈な板を敷き戦車や車を渡す・・・松戸の住民はよく見学していたそうです。
工兵学生は学校を卒業すると、工兵としてもとの部隊へ戻っていったということです。
いま、相模台の上には、さきほどの公園のほか、小・中学校、聖徳大学、裁判所、拘置所などがあります。それから、解体を待つ廃団地のすがたもありました。団地の前には”駅前駐輪場”・・・そう、この小高い丘は目の前がすぐ駅なのです。
相模台を降りてみます。
急峻な階段沿いに、2つの境界石が残っていました。
下ってゆくと、最も低いところに放置された感じの茂みがあります。ここは、たぶん軍の給水井てはないかな。
ここを抜けるともう駅前です。松戸は、駅近ナンバーワン軍跡といえます。
***
いよいよ、暗渠の話に移りましょう。
さきほどの、紆余曲折あった坂川に流れ込む1本の川。競馬場や工兵学校の台地の下を流れてくる川。
猫またぎさんが既に紹介されている、神田川です。
「神田川」と記すものが多いですが、資料によっては「向山下川」とも書かれているように思います。付近には以前は、ほかにも(さきほどの松先神社脇の小川も含め)3本の小川があったそうですが、現存は神田川のみ。
この部分の坂川は、前述のように排水のため人工で掘削されたもののはず。けれど昔の絵図にはここに水路が描かれたものもあって、もしかすると神田川の流路を利用して坂川を開削したのでは、と推測している人もいます。
もっと長い川だったかもしれない、神田川。現在の河口から遡ってゆきます。
松戸神社の脇をのぞきこむと、勢いよく水が流れていました。
今も残る湧水を集めて流れるこの川は、坂川の美化に一役買っているといえるでしょう。
まづは開渠。
すぐに、半分蓋をして、上が歩けるようにしてあります。
常磐線と交わるところで、シャーっ!と勢いが増しています。
ここでも神田川の名が。昭和47年に改修されたようですね。
線路を渡るとすぐに暗渠となり、
大正寺の敷地へと幅広暗渠のまま入っていきます。
寺から出てくると少しばかりの開渠、
そしてすぐに蓋をされ、コンクリ蓋の上にアスファルトまで塗られます。
脇からこんな支流も合流。
本流は自治会館の入り口として、人の出入り多めな場所にもなっています。
道路を渡ると、住宅街を貫く広い歩道の下に。
あとは暫く、延々とこの風景です。
ところどころ広い蓋が見え隠れ。
支流が数本、垂直に交わってくるので遡っていくと、
相模台の下から僅かに湧水がありました。
以前はもっとあちこちから出ていたのに、宅地化によってずいぶん希少になった湧水。
湧水のすぐ近くに、もう一本境界石を見つけました。
実はこの位置、松戸拘置所のすぐ下あたりで・・・。拘置所は、以前陸軍の弾薬庫だったそうです。いまははるか丘の上、建物も見えませんでしたが。
弾薬庫下からも、神田川の水は流る。
順調に本流・支流を追ってこられましたが、この交差点でいったん途切れます。
奥にあるのは水戸街道の盛土。
それをすぎると暗渠サインは皆無となり、奥の方に2つの谷戸があるようなのですが・・・。たぶんそのうち1つの谷頭がここ。
もうひとつの谷戸には、この暗渠があるのみ。猫またぎさん同様、上流端は見つからず。
あきらめて野菊野団地に移動し、その奥にある松戸同総合卸売市場へ向かいました。
さて、ゴハン。
市場の食堂、大好きです。
狙っていた「あざみや」に、閉店間際に飛び込み。
ハンバーグがやたらおいしかったです。
もう一度言います、このハンバーグ、やったらおいしかったです。負けたと思いました!
食後は松戸ラドン温泉(kekkojinさんには松戸の情報を幾つもいただきました、ありがとうございます)か迷いましたが、移動の関係で湯楽(ゆら)の里というお風呂屋さんにしました。いやぁ、チバのスーパー銭湯は値段が手ごろだねぇ。ひとっぷろ&ビールで、旅を〆ます。
今回の、全行程・・・といいたいところですが、入りきらなかったので神田川の流路を。
松戸って、どんな街?
西へ行けば、川、川、川。
川の間に、色町。
複雑な坂川。
丘に上れば軍の跡。
そして、坂川に注ぐ神田川の開渠に暗渠。
松戸ってこんな街。
あっというまに、好きになりました。
<参考文献>
「川とひとびとのくらし 坂川と江戸川」
「これが坂川」
「坂川の昔と今」
千野原靖方「松戸風土記」
千葉県歴史教育者協議会編「千葉の戦争遺跡をあるく」
松下邦夫「たのしい松戸の歴史散歩」
「松戸市史 中巻 近世編」
「松戸を歩き誌す」
渡辺幸三郎「昭和の松戸誌」
渡辺幸三郎「平潟遊郭鎮魂曲」松戸史談 第34号
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桃園川、空川、とやってきた、東京てくてくさんでの企画。
参加してくださったみなさま、ありがとうございました。
おつぎは、紅葉川です。といってもほんの一部ですが。”暗渠から見た花街”、という切り口ですすめる予定です。
以下、企画告知文から抜粋。
新宿区は四ツ谷にある荒木町。
その稀有な出口のないスリバチ地形のため、近年注目が集まってきている場所です。
いっぽう、荒木町には元花街という側面もあり、いまも飲食店のにぎわいや、いくつかの名残の建物から往時をしのぶことができます。
実は、荒木町のこの地形と歴史を形づくったのは、紅葉川という一本の川の支流です。
紅葉川は四ツ谷近辺から飯田橋に向かって流れていた川であり、その流域にはいまでも息をのむような崖や、ふしぎな池跡や、新宿区とは思えないような独特の空気をまとった支流跡が点在しているのです。
荒木町、およびそれら川の残像が最も匂い立つのは夕刻から。
夏の夕暮れから暗闇の時間にかけて紅葉川暗渠を歩き、この界隈の地形や歴史を読み解きます。
なぜ、このような地形が生まれたのか?
その川は、どんな運命を辿ったのか?
なぜ、この窪地に花街ができたのか?
今回のてくてくでは、暗渠という切り口から花街に迫り、その妖艶な世界にみなさまをいざないたいと思います。
・・・すなわち、今回の裏テーマは「妖艶」。
わたしが新宿区で一番妖艶だと思っている支流暗渠を歩いたのち、水を湛えた大池や着物の女性を幻視しながら、ぼうっと薄暗いスリバチの底を体感していただこうかと思います。
桃園川「迷路」企画でも、空川「清涼」企画でも、当ブログには書いていない(というかこれから書こうと思っていた)ネタがたくさん盛り込まれていました。
紅葉川「妖艶」企画では・・・、一度ねちねち記事を書いてしまっただけに、どうなるか?いや、たぶん大丈夫。やはり、いつか記事にしようと思っていた隠れネタがあるので、それを記事化せず、ガイド時に使いたいと思います。
おかげさまで8月ぶんは満員御礼となりました。
実は、9月に再放送をと考えています。9月ぶんの企画は、8月1日に東京てくてくさんのサイトでいっぺんに公表されるらしいです。
というわけで、もしご興味を持っていただけるならば、今後東京てくてくさんのwebをチェックしてみてください。どうぞよろしくです!
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先日、1回ぶんだけチラ見せしたバーチー編。千葉暗渠のあまりの濃さを、わたしのアタマが収納しきれなくなってきたので、第2弾として何回ぶんかを放出したいと思います。
その1つめの舞台は、船橋中心部。IKEAで朝ワインを呑み、船橋オートレース場で1パイやって、ほろ酔い気分で船橋港までやってきました。
・・・船橋に漁港があるだなんて。知らなかった。
沿岸のアサリ漁らしいです。アサリ用のカゴがいくつか干してありました。
トタンの作業小屋がならびます。・・・壁の素材が斬新ですね。
あっ、暗渠のコンクリ蓋と同じ素材が使われている!
・・・のどかなのどかな、漁村的風景に既に満ち足りた気分になりつつありますが、目的地はもう少し別なところ。
山谷水門。
ココから始まる、ワンダーな空間です。
水門の北東方向はハシゴ式開渠になっていて、意外にもきれいな水が流れていました。
後日追記:この水の質、そして量は時間帯あるいは日によって異なるようです。再訪時は・・・
こうでした。うーむ。
しかしやがて蓋がされます。
ちょっともったいぶりましたが、来たかったのは反対側、水門の西側です。
以前、結構人さんの本を見ていて、釘付けになった箇所がありました。
それは2009年に出されたもので、結構人さんも更にその10年前に見た風景を忘れられず、ふたたび来られていたのでした。
その風景とは、この運河のほとりに広がっていたものです。
運河、という表現をしましたが、それはもはや運河ではない。
廃運河と、トタンのバラック群。
嗚呼今でも、同じ風景が残っていました。
・・・1999年頃には、もっと人の気配があったようです。対面には”昭和のマーケット型のスーパー”も、あったそうで(東京DEEP案内にはギリギリ載ってますね)。今は廃屋多めですが、現役のお宅もあります。そういった家は避けて、以下に雰囲気を伝えます・・・
家々は既に疎らであり、かつては家があったであろう空き地がぽこぽこと広がります。しかし、河川用地につき、入れません。
廃屋のつくりを見ていると、運河の方向にベランダがあるものが多くて、さながら川床。
川とともにある暮らしが、かつてここにはあったのでしょう。
崩れ落ちているものもあります。
後日追記:もう少し写真を足しておきます。
廃屋になってしまった家と、
運河向こうからの風景。植物だけは育っていました。
川べり、トタンで作られた家々・・・和泉川の某所を連想します。似たような流れでひとびとが住んだのでしょうか。
もっとも上流側には居酒屋っぽいものがありました。
開いていなかった、という理由で入りませんでしたが、これはハードルが高い。いったいどんな店なのか、全然わからない・・・!と、怯えつつ通過。
しかし、後でぐぐってみると、なんとこのお店はオープンして間もないイタリアンであり、イタリアで修業した店主の料理が食べられる(AKBのポスターも貼ってある)ということでした。船橋新聞、とても良い記事です。これは絶対に行きたい!
そしてその記事で知りましたが、いま歩いてきたエリアは立ち退きを待つ、再開発地域なのだそうです。緩やかに、しかし確実に、時は進んでいるようです。
・・・実はいま来た廃運河はかつての「山谷澪」であり、いつの時期までかはまるまる港のようになっていて、
上部はこのような船溜まりでした(yahooさんありがとうございます)。
さてこの山谷澪には、水色点線部のような続きがあります。その流れは現在総暗渠ですが、「本海川」という名を持っています(船橋市の河川の頁は、暗渠の本名も載っていて、とても充実!船橋市GJ!)。
ではこの全長1409m、本海川さんを遡ってゆくとしましょう。
千葉街道を渡ると、海神遊郭跡があります。
時を遡ること江戸時代。船橋宿のうち、このあたりだけが旅籠の営業を許されていたといいます。幕末には30ちかくの旅籠があったそう。そしてその多くが、飯盛女(”留女”と称して宿泊人にはべらせた、べいべい言葉を8百回も言うから俗に”八兵衛”と呼ばれた、などとも)を置く半遊女屋。やがて県から「遊女屋は表通りから移るように」というお達しがあり、昭和3年(大正15年説もあり)、「海神新地」に遊郭が誕生しました(但し、旧地からの移転ではなく他地区からの移入ばかりであったといいます)。
習志野に置かれた軍隊の増強に伴い勢いのついた海神は、終戦前で23軒、戦後赤線地帯となり、昭和32年で72軒あったとされます。習志野学校のあった大久保近辺にもカフェーはありましたが(後日詳述)、そちらに行っていた兵よりも、位の高い人が海神に来ていたようです(半分推測)。
数年前まで、木造の大店が1軒だけ残っていたそうですが、今はなし。
しかし、遊郭の残り香はまだ少しあります。何軒かの飲み屋さんに旅館。
ストリップ劇場もあります。
通ったのは午前中でしたが、10時台からもりもり営業してました。
<後日追記>
ストリップ劇場、若松劇場は2013年9月には解体され、現在はもう在りません。
2013年9月22日に撮影した写真。
入口。ここからだとまだわかりませんが、
中はもう工事が進んでいました。
皮肉にも、あのとき、どういう様子だろうと想像した店内は、廃業後に見る(とも言えないけど)ことができた・・・
ソープランドもあります。
向こうに見える中華屋さんがとても好みですが、常連さんが盛り上がっていたので入れませんでした。
赤線時代の建物分布図と比べましたが、同じ名の店は見つけられませんでした・・・。赤線時代につくられたレポートを見ると、昭和18年と昭和32年を比較すると、客層は30~40歳→20~52歳と若くなっていて、遊ぶ時間帯が遅くなり、泊りがけから泊まらず目的のみへと、来るタイミングは土日から給料日前後等へと、利用状況に変化が見られたそうです。・・・いったい、今はどのような利用のされ方になっているのでしょうか。想像することは難しいです。
後日追記:再訪したら、遊郭跡近くに、なんと馬が居ました。目を丸くして立っていると、向こうから近寄ってきて見つめ合う感じに・・・。遊郭跡近くに「馬肉料理店」があることはありますが、このお馬さんはいったい何のためにここに?謎です。
さ、川に戻りましょうか。右手が海神遊郭跡地の区画。
本海川はこのように流れていきます。
遊廓のブロックを過ぎた途端、本海川は突然暗渠らしさを爆発させます。
くねり、
まがり、
ストライプ蓋で船橋駅に迫ってゆきます。
西向地蔵(海神と本町の境に位置し、かつて刑場であったという話もあるそう)の脇を掠め、
道路を渡っても、
暗渠らしさは維持されますが、ここで一度消えます。
このどこかを通って、船橋駅を越えるもようです。
駅を越えて1ブロックほどいくと、こんどは違ったテイストの蓋が出現しました。偽レンガ蓋、とでもいいましょうか。ゴージャスです。
あ、ちなみに流路上と思しき所に、八街ピーナツというお店があります。
純ピーナツペーストや、落花生最中、落花生汁粉などを買いました。落花生とお茶で、ひとやすみ。
で、本海川は偽レンガ蓋のまま直進し、公園の脇に出ます。天沼弁天池公園。噴水や、球戯場がひろがります。
のっぺり平らな地形なのでわかりづらいですが、どうやらここが水源のようです。
弁天様もいます。
・・・天沼弁天池!?
我が愛する桃園川と、姉妹暗渠じゃありませんか。
しかし天沼弁天池のすぐ北にも、このようにコンクリ蓋暗渠が連なっています。これは、この弁天池が何者であるかをさぐる、手がかりのひとつ。
こちらの天沼弁天池は、杉並の湧水池であるそれとは成り立ちが異なります。
この池は、九日市の池、乳沼など、いくつかの名を持つようです。少し前までは公園全体を覆うほどの大きさであり、更に以前はJR船橋駅も飲み込む、その10倍以上もある大池だったといいます。
もっと遡ると、天沼弁天池公園~船橋駅前を中心とするエリアは、室町時代あたりまではまるまる入り江(夏見入江)であったと考えられています。やがて砂州ができ、入江は潟(夏見潟)となります。そして比較的土砂の堆積量の少ないこのあたりが取り残され、池となりました。
なんとなくの関係図を載せておきます(googleさんありがとうございます)。
本海川さん、くびれ(凹凸)の無い体型は桃園ちゃん以上ですね。
なるほど明治13年の地図には、今よりもずっと大きな「九日市の池」が描かれています。そしてその大きな池は、北を流れる長津川(現在も開渠)から水を取り込み、東側のエリアに配水するという役割を負っていた時代もありました。内水面漁業も行っていたといいます。
その後、昭和5年の耕地整理により、現在の公園の大きさにまで縮小。
戦後は釣り堀にもなっていたものの、昭和41年、更に埋め立てられ、今の大きさになったといいます。
前掲の船橋市のwebでは、本海川は海に直接注ぎ込む独立系として扱われていますが、長津川から水をいただいていた溜池が水源ということができ、その成り立ちといい、藍染川~不忍池~忍川によく似ています。
さて、ゴハン。
海神遊郭跡まで戻りましょう。
遊郭跡のとなりのブロックにあった喫茶店、モナリザ。
い~い予感がしたのですよ。
ミックスサンドとビール。
やはりモナリザは、とても良かったです。
からしマヨネーズで丁寧に作ってあり、具もすべておいしい。なにより、上に鎮座ましますチップスター!(載せてあるだけなわけですが、なにこれこんなの初めて見た!と興奮しながら食べました。)
当然ナポリタンも食べます。ナポリタン的にたいへん良いナポリタンでした。
船橋の市街地を歩いていると、昭和っぽい喫茶店にいくつも遭遇します。・・・なんだか錦糸町に似ている。競馬をする人の多い街だからなのでしょうか?謎です。
今回の行程。
・・・実はこの本海川、”いま”も非常に独特な存在でした。現代も船橋市において、とても大切な機能を持っています。
市街地で火事が起きた場合、山谷水門の下流から海水をポンプで汲み上げ、この本海川に敷設された圧送管を通して天沼弁天池公園までを圧送し、消火活動に使うというのです(これは蓋散歩びとさんから、別な場所のマンホールの用途について教えて頂いた際に得た情報でした。蓋散歩びとさん、教えてくださりありがとうございました)。このルートはまさに、今回辿った暗渠みち・・・!!
今回の道、とてもはっきりとした暗渠の姿をしていたのに、その下に下水道”本海幹線”が存在していないことに、少し違和感がありました(船橋でも、他の暗渠には概ね河川名が冠された幹線が通っているのです)。それは、いざというときに船橋の街を守るための、またひとつの新しいタイプの暗渠であるから。なのですね、たぶん。
本海川上流端からさらに西へ延びていく、偽レンガ蓋暗渠もありました。こんなふうに、かつて漁業に農業に、とても役に立っていた水とその通り道は、いままた手直しされて、ひそかに役に立っている、というわけです。
船橋で偶然に出遭った桃園川の姉妹暗渠は、姉妹とはいいながらも全然違った人生を送っていたのでした。
・・・実は軍事モノの内容が極薄な今回(シリーズ2回目にしてタイトルを無視するという緩さでスイマセン)。次回、次々回はたっぷり軍モノもお届けしたいと思います。
<参考文献>
「海神のなぞ」
刈部山本「デウスエクスマキな食堂 09夏号」
熊倉安雄「船橋遊廓調査レポートー追いつめられた性の歴史ー」
船橋市「船橋のあゆみ」
船橋市下水道部「ふなばしの下水道概要」
綿貫啓一「郷土史の風景」
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タイトルが蒟蒻畑みたいな雰囲気を醸しているかもしれませんが、今回の舞台は、カタい感じのオフィスビルと高層マンションの並ぶまちです。
新川、という地名で思い浮かぶのは、そういえば友人が転居したとこだ、というくらい。
ほんとうにそのくらいでした。
新川といえば酒問屋のまち。と、思い浮かぶ方も多いのかもしれませんが、ぜんぜん知りませんでした(お酒好きなくせにね)。
そして、新川1-1~1-2あたりは、かつて蒟蒻島とも呼ばれていたのだそうです。これも、知りませんでした。それを知り、例によってわたしはこう思うんです・・・「じゃあ今度は、蒟蒻島で蒟蒻を食べたい」。
***
それでは蒟蒻を食べるため、蒟蒻島に向かいましょう。お仕事帰りの、夜さんぽです。
高橋(たかばし)を渡ります。
夜の亀島川に、釣りをしている人がいました。魚なんているのだろうかと水面を見つめたら、灯に照らされてボォッと魚が泳いでいるのが見えました。
新川、というのは現在の地名でもありますが、そのむかし、この地にあった川のことを新川といいます。蒟蒻を食べる前に、新川跡を歩いてみます。
まずは霊岸橋まで・・・。分流地点から歩くためです。新川とは人工の掘割で、亀島川から取水し、隅田川に注ぐものでした。
そしてこの橋名は、いまから向かう新川地区を江戸期に霊岸島(または霊巌島)、と呼んでいたことからきています。霊岸島のかたちと、現役時代の新川をお目にかけましょう。
昭和22年の航空写真です(gooさんありがとうございます)。今もよく見れば、島のようなその風体。
新川のみならず、霊岸島も実は人工物なのでした。
もともとこの場所は、隅田川の河口の砂州であった、といいます。江戸期(家光の時代)に、霊巌上人がその砂州を埋め立て、霊巌寺を創建。「江戸の中島」と呼ばれたその島は、流路変更をされた日本橋川(新堀川)の通り道のために二分され、箱崎と霊岸島となったのだそうです。
現役の砂州(南白亀川の河口)は、こんな感じ。隅田川ですからもっともっとスケールが大きいでしょうけど。・・・これはたしかに何か建てたくなるかもしれません。
埋立当時、まだ新川はありません。霊巌寺には多くの人が訪れ、たいそう賑わっていたといいます。
しかし明暦の振袖火事はこの島をも襲い、霊巌寺は焼失、深川に移転していきました。焼け跡には運河が開削されました。それが新川です。だいたい1660年あたり、河村瑞賢が行ったとされますが、どうもはっきりと記されたものが無いらしく、多くの文献が自信なさげにこのことを書いています。
新川は、長さ約590m、幅11~16m、深さ45~90㎝の掘割であったそうです。
さて今、霊岸橋に立ってふと東に目をやると、
日本橋水門があります。亀島川の付け根。
で、でかい。とくに夜の輝きがすごい。圧倒される・・・。
ちなみに、日本橋水門を反対側(かつ日本橋川の水上からクルーズ中に・・・)から見たことがあります。丸で囲っているのがちらりと見えた霊岸橋です。
左側の敷地が霊岸島。そして前述の「蒟蒻島」とは、霊岸島のなかでもちょうど写真の部分付近なのでした。亀島川の一部を埋め立てたものの、なかなか土地が固まらず、歩くと揺れるためにそう呼ばれたそうです。
蒟蒻は島で豆腐は屋敷なり
なんていう川柳もあったほど。きっと江戸期は余程ゆるふわな土地だったのでしょう。・・・いまはこんなに頑強そうだけど。
そして西側を見れば、亀島川の下流と新川分流地点です。
丸のあたりが分流地点のはず。よく見ればここの石垣の一部の色が、他と異なるらしいのですが・・・夜にきちゃったのでわかりません・・・。
そしてちょうどお向かいにはグレート大衆酒場、ニューカヤバに灯が・・・い、行きたい。でもまだ今日はこれからが長いんだ。がまんがまん。
さて、いよいよ新川跡へ向かいます。
川跡の一部=ただの道を歩き始めると、すぐに太めの道路と交わります。
ここは一ノ橋跡。川幅は上述のように11~16mなので、道も建物も川跡に含まれるはず。そして橋もそのくらいの長さだと思われます。江戸名所図会には、石積み護岸の新川、たくさんの荷を載せた船とともに、一ノ橋がちょこっとだけ描かれています。
新川には、一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋という3つの橋が架けられていました。ここ一ノ橋の北詰に、河村瑞賢の屋敷があったとされます。
まもなく新川大神宮の横を通り過ぎます。 売る前の新酒がお供えされた神社です。
江戸時代以降、この新川の両側には酒問屋が多く並んでいました。灘をはじめとする関西の「下り酒」を扱うものです。
下り酒は、秋~冬がもっとも盛ん。10月になると、関西の酒問屋では飾り立てた船に新酒を詰め込み、特定の日の同じ時刻に出帆。早飛脚により出帆の知らせを受けた江戸の酒問屋は、首を長~くして待つ。今か今かと、沖を見つめながら待つ者さえあったといいます。隅田川の河口からは小舟(はしけ)に積み替え、船頭さんは頭に鉢巻をしめ、太鼓を打ち鳴らしながら入港。酒船レースのようなもので、一番乗りで到着した船=一番船は、さまざまな特権が与えられたそうです。
新酒が入荷すると、酒問屋ではすぐに青い旗を立て、市内の酒店に分配(=配り酒)、酒店では屋敷や町家に配り歩いたとのことです(文化5年まではそういう習わし)。
・・・まさに一大イベント。新酒をいかに皆が楽しみにしていたかが、よく伝わってきます。
それからすぐに現れるここ。今やただのビルですが、かつて見番があったとされる位置・・・そう、霊岸島には花街があったのです。
江戸期には、私娼が集まってきてここに岡場所ができました。深川同様、水上交通の便が良かったためでしょう。いくつかの遊里本に岡場所「蒟蒻島」として載っており、それなりの存在感を示していたようです。
天保の改革により取り締まられて私娼窟としての蒟蒻島は寂れたものの、その後「蒟蒻芸者」という町芸者があらわれたそうです。記録を見ると、おもに新川の左岸側に芸者町がひろがっていました(蒟蒻島は前述のように霊岸島の一部を指す言葉ですが、この蒟蒻芸者町はもっと広いエリアを指します)。この時代は遊里的な雰囲気というよりは、酒問屋などが、「昼間に地方のお客さんなどを接待する」という使われ方であったそうです。
待合や芸妓屋が、酒問屋や倉庫の間にあるような風景。昭和10年前後がピークだったようです。昭和33年には芸妓連絡所がなくなり、残った料亭も姿を消してゆき、大きなビルなどに姿を変えてしまっていまは名残が無いといわれます。
たしかに、だいぶウロウロしましたがなにもない・・・が、なんだかこの黒い塀の建物は気になりました。
唐突ですが、国鉄総裁下山定則氏は、生まれが新川なのだそうです。そして、蒟蒻芸者町時代にあった、待合「成田屋」の経営者は下山氏の幼馴染であり、なんと下山事件前日、下山氏は成田屋に泊まっていたと言われます。まさか最後の晩餐がこの地であったとは・・・。
少し下れば、二の橋。
三原橋みたい、と思いながら通り過ぎます。橋の両側に不自然に在る建物(食べものやさんがあったので、いつか来たいな)。
新川の跡を歩いていると、酒屋系の看板が確かに多いです。加島屋、日本盛、日本酒類販売、金盃・・・。
新川が開削されたことが、この地に酒問屋を集めたことは確かです。しかし、すぐに酒問屋が集中したわけではありません。その利便性ゆえ、米、醤油・・・さまざまな問屋がこの地に引き寄せられました。なかでも当初は材木問屋が多かったようです(後に木場へ移転)。1702年時点では、江戸にある下り酒問屋数の17%しか無く、それから1800年あたりまでに、ほどんどの酒問屋が新川近辺に移住したということです。
大正期、新川の運命はまた大きく変わります。もともと、霊岸島は河口にあるため水深が浅くなりやすく、港としての限界があったといいます。加えて、第一次世界大戦時に船が不足し運賃が高騰していたところに、関東大震災が起きました。物流の主役は、船から鉄道やトラックに変わってゆきました。
さらに、第二次世界大戦で中央区は壊滅的な被害を受けます。新川も廃墟と化しますが、むしろ占領軍により接収されることで港湾運送系が再び活気づいたといいます。しかし、この戦争からの復興のために、新川は姿を消すこととなるのです。水が綺麗で、人が泳いでいたのも関東大震災前までらしいので、この頃の新川は最早必要とはされなかったということか・・・1948~1949年、遂に埋め立てられます。
新川がなくなると、いよいよ酒問屋街としては終焉を迎えることとなります。いま、純粋「下り酒問屋」の流れを汲む酒問屋は、加島屋だけであるといいます。
しかし、酒問屋の気配は今だ残っていて、
倉庫の跡らしき駐車場や、
クレーンまで残っています。
川跡の道は狭めですが、まっすぐ伸びています。てくてく。そういえば酒問屋の名残だけで、運河っぽさはあんまりわからなかったな。
ところが最後の方に来て、やっと暗渠らしくなってきました。
川の幅に沿って、盛り上がった児童公園が出現します。これを見るとわたしも俄然盛り上がります。
それに、この公園に新川の碑があるといわれているのです。
お、ちょうど下水道工事なんてやってて、いかにもこの下に下水幹線があるって感じですね。
と思っていたら、この工事のために碑は撤去中なんだそうで・・・。代わりに石碑の写真がありましたw
なんという間の悪さww
公園のなか。
防災倉庫、公衆トイレが縦に並んでいて、ダブル暗渠サインです。
隅田川がすぐそこです。
取水口の名残がわからなかったので、合流口もとくに無かろう。と思ったけれど、一応確認しにいきましょう。
季節は夏の終わりかけ、屋形船が何艘も走っていました。なんだか、怒った王蟲みたいだな・・・なんて思いながら、階段を下りていきます。
すると、あったよあった!水門が!
水門の前に植栽があって近づけません。が、水門の手前にあるのはガードレールのようなもの(珍しい)!
合流口だってありました。
ポカンと口をあけています。いや、大雨時以外は開かない口だとは思いますが。
戻ってよく見たら、公園側からも水門は確認できました。
新川の名残、ここにあり。
さて、ひとまずゴハン。
蒟蒻を食べねばならないので、新川を下りながら(狭義の蒟蒻島と限定すると大変なので、新川地区でということにしました)、和食屋さんを探していました。ところが・・・食べ物屋さんは数軒あれど、和食屋さんが無い(あっても開いてない/蒟蒻が無さそう)。
いろいろ迷って、分流地点にあった串八珍に行くことにしました(普段はこういうとき、チェーンはなんとなく避けるんですが)。
串八珍は分流地点のまさに上。実はすごい位置にあります。
亀島川が見える席に座りたかったですが、とても混んでいて、座れませんでした。
まずは蒟蒻が入っている確率の高い、煮込みをたのみました。登場した煮込みは予想を超えていて、白っぽいモツの上にニラとバターが乗っかっていました。しかしどんなに探しても、蒟蒻が入っていない!今日はそんなオリジナリティいらないから、蒟蒻をくれよ・・・必死にメニューを見てもほかに蒟蒻が関与していそうな品は一切なく、
春雨だったら、蒟蒻と近いんじゃないか(何かが)。と、妥協することにしました。とりあえずすぐに店を出、帰り道でまた蒟蒻を食べることにしました。
急ぐのには訳があります。霊岸島には、もうひとつの水路があるのです。
それは、越前堀といいます。この何気ない道は、その跡です。
1634年、霊巌寺の南に越前福井の藩主である松平氏が屋敷を拝領しました。霊岸島の4分の1ほどを占める大きな屋敷でした。そのお屋敷の周囲にぐるりと船入堀が掘られ、それを俗に越前堀と呼んだといいます。
開渠の越前堀の記憶のある人がいうには、モクゾウガニやベンケイガニなどがいっぱいいたとか、小さなはしけ船が多く、その中に住む水上生活者もずいぶん居たとか。
名前が堂々と残っています。
この公園名もすてきですが、この公園の脇にあるお店で度肝を抜かれることになります。
その店は無人の自販機コーナーで、もと酒屋さんの店舗だったのではないかと想像されます。つまり、酒ばっかり売ってました。
まずこの古ぼけた白鹿の自販機。「常温です」ってさりげなく手書きしてあるのがイイネ。
白鹿の支社も、新川にあったから・・・まさにこれ地産地消w
そして酒の自販機群の向かいにあるこのツマミ自販機。
なにこの渋すぎるラインナップ・・・柿ピーとかチータラじゃない、見たことない商品ばかりです。
とくに、この「さくら肉スライスしっとりタイプ」がすごい。ノザキってコンビーフ缶以外見たことあります??しかもこれ、美味いの!思わず2個買い。
これはこの公園で宴会せざるを得ませんね。
このときは夏か秋でしたが、桜がいっぱい植わっていてお花見に良さそうでした。
公園内には、発掘された越前堀の護岸用石垣も展示されていました。
江戸城外濠の石垣に匹敵する大きさだといいます。霊岸島の碑なんかもあって、盛りだくさんの公園です。
水路はこの越前堀公園の横を通り(この写真の手前の位置に「どんどん橋」が架かっていたので、落差があったのでしょうか)、
明正小学校の敷地に入っていきます。
敷地途中で直角に折れ、あとは折れ曲りながらも道なりに水路は進みます。
明正小学校はアーチのうつくしい、堂々と建つ復興小学校。窓に貼られた「ありがとう」が示すように、もうすぐ校舎が解体されるようでした。
近くに「馬事畜産会館」がありました。付近には日露戦争までは牧場もあった、といいます。何か関係があるのでしょうか。
その後は越前堀は大味に、大通りの脇を通って隅田川に注ぐのみ。その一部のほとりを、吉良氏を討った後の赤穂浪士が歩いた(新川の一ノ橋も渡ったとされます)という話もあります。しかし小奇麗な道と化していて、越前堀と名のつくお店があるくらいで、とくに形跡はありません。
越前堀は新川よりも早く、明治期の市区改正事業と関東大震災などで埋められています。河口近くだけが残っていましたが(前掲の昭和22年の写真でも確認できます)、それも1964年に埋め立てられ越前堀アパートとなりました。河口部分は長らく倉庫地帯でしたが、現在は高層ビルです。
ここまでの行程です(yahooさんありがとうございます)。
そんなに大きくはない人工島に2つも人工水路があり、それらに隔てられ町はずいぶん細分化していました。そしてそれぞれに、雰囲気が違っていたといわれます。
新川は前述のように酒問屋が主体。いっぽうで越前堀には船具屋や倉庫が多く、また秀和マンションのあたりには東京湾汽船があって、往来がすごかったそうです。汽船の客のための旅館も周辺にあり、発着所が火事のため竹芝に移った後も、旅館だけはこちらに、というお客さんが居たそうです。
***
あとは、気ままに通りたいまちをふらふらして帰ります。
南高橋と星。
ここを通って湊へ抜けます。
湊にて、遺された建物と石川島の対比を味わい、
築地まで歩いて寿司を食べることにしました。
あまり店舗の開いている時間ではなかったので、24時間営業のすしざんまいへ。穴子おいしかった!
最終的には銀座まで歩きました。
ここも、もうすぐなくなっちゃうのだよな・・・。
***
少し前に、霊岸島にあるキリン本社の移転のニュースがあったので、このさんぽのことを思い出していました。
新川の、とっくに失われてしまった運河と酒問屋の風景。
でも、酒問屋街時代の「気配」は、よく見れば今なお少しずつ生きていました。
失われたもの、これから失われるもの、失われていないもの。
日本橋や銀座に挟まれた異空間は、十分に味わい甲斐のあるものでした。
なお、今回紹介した水路の現役時代(埋立中も含む)の写真を、中央区図書館の地域資料で見ることができます(さすがですね。郷土室だよりにも暗渠関係のものがあります)。
・・・え?結局、蒟蒻島で蒟蒻を食べていないんじゃないかって?
いいじゃアありませんか、新川でお酒呑んだ、ってことでひとつ・・・。
<参考文献>
上村敏彦「東京花街・粋な街」
佐藤正之「TOKYO新川ストーリー ウォーターフロントの100年」
菅原健二「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」
菅原健二「図書館でしらべる 地図・地誌編6」 季刊collegio第7号 2006年2月号
高木藤夫・高木文雄・沢和哉共編「酒蔵の町・新川ものがたり」
中央区教育委員会「中央区の昔を語る(六)」
中央区教育委員会「水のまちの記憶」
望月由隆「新川物語 酒問屋の盛衰」
霊巌島之碑建設委員会「霊巌島之碑」
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谷田川・藍染川もようやく下流までやってきました。
今回の舞台は、つつじで有名な根津神社。
根津神社で湧いた水も、藍染川に流れ込んでいたといわれます。
たいそう立派な神社ですが、ここに建立されたのは宝永3(1706)年。その前は湿地で凹凸が激しい土地。沼を埋め、材木を組むところから始める大工事であったそうです。
根津神社の斜面はかなり急峻で、どこでも水が湧きそうです。一応流れはあるとされ、この乙女稲荷付近で湧いた水が、
北西の池にまず集められ、
そして側溝をつたって隣の池へ流れ込み、
(それにしても、マリモのように群生するつつじのかわいらしいこと。戦時中はこのつつじ山に防空壕があったのだそうです。)
続いて橋を渡って、この南東の池へ流れ込む、とされます。
そしてこの写真左方向に流れていってから、直角に曲がり、藍染川方向に落ちてゆく。・・・大正期、それから昭和初期の地図にはそのような流路が描かれていました。
勿論湧水点は複数あり、それぞれの池に直接注ぎ込むものも多かったようです。昭和30年頃までは湧水で池の水をまかなえていたけれど、現在は減少、水を循環させています。
根津、といえば、根津遊廓。
根津神社の周辺にひろがる根津遊廓もまた(吉原等と同様という意味でもまた)、湿地に造られました。前述の神社造営のさい(急ピッチの大工事だったので人員も多)、大工、左官、鳶などの方々のための居酒屋が出来、そこに女性を入れたことが始まりです。何度も取締りを受けたものの、新吉原に次ぐほどの発展ぶりであったそうです。
そして紆余曲折・・・根津神社の神主らが嘆願し、明治2年に遊廓の許可が下ります。根津交差点のところに藍染橋が架かり、渡れば惣門、今の不忍通りの両側に遊女屋が並んでいました。桜が植えられ、ぼんぼりが灯され。当時の写真を見ると、意外にもどこぞのリゾートかと思うような洋風建築もぽつりぽつり。今の根津交差点~根津神社にはそんな世界が広がっていました。
しかし東京大学の3学部が本郷に移ると、根津遊廓に入り浸り学業を投げ出す学生がでてきた・・・ということで、キャンパスを移すか遊廓をつぶすか、とまでに問題視され、結果、遊廓が追い出されます。すごい話です。囚人を使い2年もかけて海を埋め立て、造成された土地が洲崎。明治21年6月30日、その洲崎に向かって遊廓関係者は一斉に引っ越していきました。たくさんの馬車が、たくさんの土煙をあげて。その後の洲崎については、以前の記事のとおりです。
しかし昭和の初め頃まで、根津に私娼は残っていたといわれます、路地の奥や、おせんべい屋さんの2階・・・(という、噂)。
このように根津神社と根津遊廓の縁はとても深く、前述の乙女稲荷には遊女の悲話も伝わるそうです。
また根津神社の池水の出口とされる位置、すなわち根津神社のすぐ隣には、当時根津一番といわれた妓楼、大八幡楼がありました。坪内逍遥と、芸妓であった夫人センの出会った場所でもあります。明治期に撮られた大八幡楼の写真を見ると、旅館と見紛うような大きな池のある庭園がそこにあります。
この池は、根津神社の湧水を取り入れたもの。そう考えるととてもしっくりし、そのさき、まっすぐ藍染川に落とされてゆくのも効率的です。江戸名所図会「根津権現」においても、3つめの池の先が、この位置に流れ込んでくるように見えます(方角に自信が無いのだけど)。
つまり、このような流れです。
大八幡楼跡は、遊廓引越し後はそのまま温泉旅館(紫明館)となったそうです。その後増改築をして真泉病院(婦人科を含む)となり、つぎにたばこ工場(女工さんが働く)となり、日本医科大の看護師の寮となり・・・と、女性がらみの歴史が続いているそうで。
さて、今は?・・・日本医科大学の敷地ではありますが、基礎医学の大学院棟となっています。なんだか、遊廓の名残が一気に薄くなったような気がしてしまい・・・。
ちなみに、根津神社の境内にはわずかに軍事ものがあります。
水飲み場に見えて、これ砲台。
日露戦争の戦利品として、軍医の森鴎外が砲弾(台座付)を奉納しました。台座がその後の戦災でも焼け残り、そしていま、水飲み場として再利用されているのです。水飲み場にする必要性がいまいちわからず、それが味わいとなっている逸品。
さてさて。さきほどの流路で確定か、としばらく思っていたところに、突如違う情報が入ってきたのでした。
話は、本駒込方向に飛びます。向丘の、海蔵寺へ。
海蔵寺には富士塚のようなものがあります。
身禄行者、というのは、富士信仰の中興の祖として知られる、庶民の苦しみを救おうと、富士山で断食入定した人であるそうです。ここはその墓と言われ、富士山をかたどった溶岩の山上に(富士塚の上に)墓碑があるかたちになっています。
富士塚と思って見に行くとちょっと違う印象ですが、ある意味では、富士塚中の富士塚なのかもしれません。
あら、中野からわざわざ?
これらは海蔵寺の表側の話で、目的地は裏側。「裏庭に湧水の跡がある」といわれます。
その場所にたどり着くことはできませんが、たぶん、この内側。相当量の湧水があったのではないか、と推測されています。
この位置を起点として、
このような、わずかな谷戸が広がっているのでした(googleさんありがとうございます)。
ここを、歩いて行ってみましょう。
凹み方がほんとうに微々たるものでわかりにくいですが、T字路のところが少しだけ低いです。そこから手前と奥へと、じわぁんと高くなっていくような感じ。
すぐに郁文館という学校の敷地に入ります。
谷戸がまるまる入っていく感じです。学校の敷地、これもありがちですね。
この谷戸で唯一といってよい、違和感のはっきりと出る場所。段差(護岸だったらいいんだけどな)。
左手前が郁文館の校舎です。
残念ながら川跡は道としては残っておらず、前掲の陰影図の谷部分がごっそり建物になっている、という感じ。周り込みながら谷を下ります。
お、暗渠猫。
と思ったら騙されました。
夏目漱石の家の跡のようです。
谷は大通りの少しだけ手前で左折します。
たぶん、ここが曲る場所。右手の建物の下が少しだけ高くなっています。
その曲った先は日本医科大学の校舎でした。ふたたび、谷にすっぽりと大きな建物が建つかたちです。
ちょうど工事中で、今なら地下まで見えちゃいます。
日本医科大の下は、ちょうど根津神社の裏門になっているのでした。裏門を出たところには、かつて浜田湯という銭湯があり、男湯に大きなプールがあったそうです。
・・・さあ、ここで、さきほどまでの話と繋がります。
地図によっては、根津神社の池水が3つめの池までいったのち、踵を返してこの通りまで一直線にやってくる場合があります。それは江戸期、1696年のものを1843年に再版した絵図なんですが。大八幡楼が出来る前は、そう流していたのでしょうか?しかし名所図会と矛盾するかもしれず、謎。
ともあれ、この根津裏門坂をまっすぐにその水路は下ってゆき、藍染川に注ぎます。
延長上にあったマンホールが、たまたま工事中であいてました。
・・・しかし一方で、海蔵寺からの流れは、明治期の地図では根津裏門坂には沿っておらず、坂よりも少しだけ北側に描かれています。といっても江戸期の絵図と単純に比べることも出来ず・・・。さてこの海蔵寺からの流れは、根津神社の流れを合わせたのでしょうか、それとも否か。
謎が残ります。とくに判然としない部分を緑色で描きました。
ちなみに、明治期の海蔵寺からの流れの下流部分にほぼ沿う位置に、kekkojinさんのお店「結構人ミルクホール」があります。
フォークが汚れているのは、撮るのを忘れて食べそうになったからであります。左端にフォークを突き立てた跡が・・・いえこのお店は至れり尽くせりというか、珈琲はすごく丁度良い温度で出てくるし、ガトーショコラもチーズケーキも丁寧に美味なのです。ちなみにデウスエクスマキな食堂と本ブログは、とてもツボが近いと思っています。あちらが麺類・戦跡・建物寄りで、こちらが暗渠寄りというくらいの違いで。藍染川さんぽの際には、ひそかに何度も立ち寄らせていただきました。ごちそうさまでした。
・・・話は、これだけでは終わりません。
根津神社支流にはもうひとつの可能性があります。
水源は、今度は東大構内。
原さんの研究によれば、弥生キャンパスの野球場東端部には江戸時代、池があったというのです。しかも、池のある場所は「谷」地形だったといいます。
根津神社から野球場を見上げてみれば。
江戸期の地形の名残が薄く、写真奥に谷があったようなのですが、眺めてみても歩いてみてもよくわかりません。でもその谷戸は、絵図上のかたち、そして等高線ともにこちらを向いているように見えます。
もし、この新坂のところまでその池の水が流れてきていたとすると、
流路には、染物店。
そしてこの向かい側あたりで根津神社の湧水と合流してくれれば、
銭湯跡(3年ほど前までこの駐車場の位置に山の湯がありました。良い風情だったけれど残念ながら廃業。因みにこの位置には前述の根津遊郭時代は山茶屋があったそうです。)とコインランドリー、
クリーニング店の前をつぎつぎ通り、川跡としてとても合点がいくのです。
だとすると、こんな感じ。
・・・三つ巴。どれも根拠があるので、選べなくなってしまいました・・・。いったい根津神社の湧水は、いかなる場所を通って藍染川に注いでいたのか。
付近は水の湧きやすい土地。ところどころでモクモクと水が湧いていたといいますから、きっといま紹介した3つの水路は、それぞれ実際に在ったとはいえるでしょう。根津神社の湧水がどの時期、どの水路に注いでいたか、は特定できないとしても。
わたしのこんな苦悩などおかまいなしに、藍染川はきっとなみなみ流れていくでしょう。ときには溢れてしまうほど、豊かな水を湛えていた藍染川。根津あたりの橋の名前は、本当に風流でした。見返橋に手取り橋、花見橋、紅葉橋、雪見橋、曙橋に黄昏橋・・・。
***
さて、ゴハン。
根津近辺には、趣があり美味な「麺」やさんが充実しています。うどんの釜竹、根の津、蕎麦の夢境庵、鷹匠、・・・
本日は、鷹匠で一杯。
はんぺんそば。
はんぺんの存在感の、すごいこと。
三つ葉と紅葉の、うつくしいこと。
カエルグッズがそこここに隠れている店でもあります。店員にカエラーが居ると思います。
そして、お隣が丁子屋。
目の前を流れていた藍染川で染物をしていたということで有名なこのお店、今は藍染ではなく染め直しと洗い張りをしているとのこと。明治のままの店構えも、店内もすてきでした。が、とうとう、改築されてしまいます。三土さんの情報によれば、2月18日(昨日だ・・・)から解体が始まるとのこと。
***
根津には古いものが残されていると思いきや、確実に少しずつ失われています。上海楼をはじめとするいくつかの妓楼跡も、近年取り壊されてしまい、見ることはかないません。洲崎同様、色町の香りが消し去られた街になってきています。
しかし、この根津神社支流(仮)を追いかけてみたときの、わたしのこの心の惑わされようといったら!根津神社支流(仮)、まるで根津に最後に遺された、手練手管の遊女のようではありませんか。
ふわふわと惑わされながらうっとりとした心持ちで、谷田川・藍染川編はひとまず一区切りとしたいと思います。
シリーズ一覧
・谷田川巣鴨支流(仮)と「あの橋」
・谷田川暗渠の裏表と古河庭園支流(仮)
・谷田川木戸孝允邸支流(仮)と「あの欄干」
・谷田川与楽寺支流(仮)と「あのラーメン」
・藍染川蛍沢支流(仮)と「あの大使館」
・藍染川桜酒マラソン
・もうひとつの藍染川の、ものがたり
(古石神井谷的に姉妹暗渠↓)
・三四郎池支流(仮)の流れる先は
・ サッカー通りはスリバチ通り?
動坂あたりの田圃と畑の関係のこと、金魚問屋バンズイのその後、どこにも触れられていない千駄木の大池のこと・・・もう少し掘り下げて書きたいものたちも幾つかありますが、それはまた、いつか、ね。
<参考文献>
石田良介「谷根千百景」
上村敏彦「花街・色街・艶な街 色街編」
川副秀樹「東京消えた山発掘散歩」
JCIIフォトサロン「古写真に見る明治の東京-牛込区・小石川区・本郷区編-」
清水龍光「水」
原祐一「教育学部総合研究棟地点・インテリジェント・モデリング・ラボラトリー地点の成果 第一節 『向陵彌生町舊水戸邸繪面図』の解読と描かれた施設の検討」 東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書10
文京ふるさと歴史館「江戸・明治の風景と人びと」
森まゆみ「不思議の町 根津」
「谷中・根津・千駄木 其の六十六」
「谷根千同窓会」
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谷田川を下りながら、暗渠本では触れられなかった支流を紹介するシリーズ。舞台は駒込へとうつります。
木戸孝允(の別)邸が駒込にありました。そして、その邸内にも湧水池があったといわれます。木戸邸跡に向かうには、谷田川の谷底から、こ~んな階段を上っていきます。
ずいぶんと存在感のある階段。
東京の階段DBには、「駒込1丁目のクランク型階段」として紹介されています。
もともとは広大だった木戸邸の敷地は、現在は分割されているようです。
先ほどの階段を上り、台地の上をてくてく歩いていくと、トーア駒込マンションという文字が見えてきます。このマンションは、木戸邸が3分割されたうちの中央部分に当たります。
道路を迂回し南側に回ると、木戸邸があったことを示す石碑がありました。
さて、湧水があったということはどれだけの窪みかな?
残念なことに、ぼーん、ぼーんと大きな建物が立ちふさがっていて入れません。急崖があることだけは、なんとなーく、隙間から見えます。
幸運なことに、その一角がたまたま工事中でした。
いま、自分が立っている位置が道路の位置。突然深い谷が出現することが、工事現場からも感じ取れます。で、いかにも水が湧きそう、とは思うのですが、湧水池(の名残)など全然見ることができません。
・・・昔の写真ではどうでしょうか。木戸別邸は、昭和20年に空襲で焼けてしまったといいます。たしかに、昭和22年の航空写真ではここは焼け野原であり、ぼやけていて池があるかどうかもわからず、そして敷地の全貌もわかりませんでした。
昭和38年になると(gooさんありがとうございます)、周辺には住宅が建っています。写真中央部分の、木々の間に水面が見えます。
右寄りにある民家がおそらく土居さんという方のお宅であり、このお宅と庭園が最後まで昔の面影を残していた、と言われますが、平成9年に取り壊されてしまいました。
現在の航空写真。土居邸の後に駒込パークハウスというマンションが建っています。土居邸の庭には「フ」の字型の池があり、昭和50年頃までは湧水が見られたそうです。が、その池のあった位置にも建物が被さってしまっています。この谷頭の最後の湧水、今はどうなっているのか・・・
丸印のところには、いまも池がある雰囲気です。約10年前の情報だと、3分割された土地にはそれぞれ池があり、水を循環させていたようです。今もそれぞれ、マンションの中庭として、この谷頭の自然を利用してはいるみたい。
左側の敷地は以前は電通生協会館でしたが、これも今は新しいマンションになっているようで・・・それが売出し中の記事に、「木戸邸別邸があったこと」をウリとしている文言を発見w まあとにかく木戸邸はとても広く、その1軒の敷地に現在は何百?何千?人という人が住んでいる、というわけですね。
さて、水源探しはこのくらいにして、そこから流れる谷田川支流を追ってみましょう。
谷を見ることはあきらめ、外からまわっていくしかありません。
坂を下っていく途中に石碑があって、ここは江戸時代後期以降旗本本郷丹後守の下屋敷であったこと、石碑は将軍から獲物を下賜されたことなどが書いてある貴重な史跡であること、明治になると木戸孝允がここを別邸としたことなどが書いてありました。
限られた道を、なるべく谷に近づくように通ります。ここは谷戸の縁といったところでしょうか。
この壁の左端あたりが、豊島区と文京区の区界です。すなわち、谷の続きにあたるのかもしれません。
そして、この写真奥の赤茶色のマンションの右端が区界。マンションの左側の土地がだいぶ高いので、この建物自体谷底にあるのかもしれません。
おそらく、木戸邸の急崖で染み出すように湧き出た水たちは、目の前の道路を横断するように流れて、
この、丸印のところ=区界を下って行ったと思います。豊島区駒込と、文京区本駒込の間です。
明治期の地図だと、上流は描かれていないのに、むしろここに水路が出現します(もう少し南にも湧水池があったかのような描かれ方で)。
この隙間がさっきの区界の反対側です。
ココから出て、
ココを通り、
谷田川へ注いでいたと思われます。
閉じられた上流端。途中からは追えますが暗渠感が乏しく、区界であることと、明治期の地図に一部だけ載っていること、くらいしか根拠のない支流です。が、ここも一応、谷田川支流と捉えたいと思います。
駒込といえば花街(神明三業地)があったところでもあります。
この写真は三業地のエリアで撮ったもの、奥にちらりと見えるのがさきほどの谷底マンション。つまり、木戸孝允邸支流(仮)と駒込の花街はとても近く、というか、支流は花街の端っこを掠めて流れていたと思われます。
花街のあった低地は、谷田川本流の右岸ともいえます。大正10年に営業開始、数年でめざましい発展を遂げたというこの花街と、すぐ横にある田圃や水路との風景の組み合わせを、見てみたかったものです。最盛期で芸妓は400人ほどもいたといい、今の「静かな住宅地」からは想像もつきません。戦後、料亭34軒をマークしたのを最後にあとは衰退の一途で、現在は名残もほとんどありません。。
さて、一杯いくか。
ちょうど谷田川・藍染川の記事を書くため、このへんをウロウロしていたとき、「のみちけ」なるもののチラシを見つけました。
駒込巣鴨、谷根千などで展開している企画で、のみちけ公式ホームページはコチラ。5枚1綴りが3000円のチケットで、加盟店でお得に飲むことができます。基本スタイルはチケットを1枚(=600円)出せば、酒1杯と食べもの1つ。この時点でもうお得なのです。そして選択肢が結構多い(夏は50軒ほどだったかな)!チラシを見るだけでわくわくしてしまい、夏に”谷田川のみちけマラソン”をしてきました。
そう、暗渠酒マラソンと「のみちけ」のコラボレーションです。5枚綴りのチケットを1日で使い切る=5軒ハシゴする、という暴挙に出てきました。最初の3軒は谷田川沿いです。
最初の1杯は、立ち飲み「逆転クラブ」で生ビールと焼鳥2本、ポテサラのセット。の予定だったのですが、ありがたい誤算?で、この日はポテサラがおでん盛り合わせになってやってきました!わーいうれしい!
近所のおじさま方が集う気さくな良店。ですが、あと4軒あるのでサクッと去り、
2軒目は少し下って、板前で焼鯖と焼酎。サバがとても美味しかった!
3軒目はさらに下って家和(は、もう加盟をやめたっぽい?)でブロッコリーとホタテの炒め物ともう1品と紹興酒。なんと突き出しの枝豆もサービスという大増量。
そこからは谷田川を離れ、4軒目は駒込駅前のホワイトヒマラヤでネパール風鶏唐(うまい!結構いっぱいくる!)とレモンサワー。5軒目は巣鴨方面に移動して、ロイヤルスターシップでカレー(ルオーっぽい美味しいカレー!)とビール。・・・かなりの満足感でした。店とメニューの組み立てを考えるのもすごく楽しかったです。
※メニューは季節で変わることもあるようです。そしてエリアがまた拡大するみたいですね。
・・・なんだか記事が詰め放題の様相を呈してきましたが、最後に小ネタをひとつ。
タイトルは、「だんだん見えづらくなるあの欄干」です。
HONDAさんが、中里用水ガードのところに橋の欄干が埋め込まれている、という実におもしろい発見をし、藍染川桜酒マラソンのときにはここは重要撮影ポイントとなりました。
その後、谷田川・藍染川の項を書くことになったので、この欄干と用水ガードは是非入れたいなあ、と思い、改めて写真を撮りに行きました。
自転車が邪魔だなあ。それから、ホワイトバランスを酔っ払っておかしくしてしまった・・・。なので、もう一度日を改めて、撮り直しをすることに。
再訪。
うぅ・・・自転車増えてる・・・。しかもヤな感じに・・・。
今回の記事を書くために、再々訪。・・・見えづらさ進化してる・・・
結局、一番写りが美しいのは、最初にこの欄干の存在を知ることとなったときの、HONDAさんの記事だったのでした。ガードレールもないしね。わたしがこの欄干とガードを美しく撮ることができるのは、いつの日か・・・。
<参考文献>
清水龍光「水」
上村敏彦「東京花街・粋な街」
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