狸蕎麦でたぬきそばをたぐる
「蕎麦窪で蕎麦をたぐる」という記事を覚えていらっしゃるでしょうか。
江戸のころの地名”蕎麦窪”に行き、ここらへんで蕎麦が採れたんだね、なんて思いながら蕎麦をたぐってきましたら、”蕎麦”窪ではなく”(青梅街道の)傍”窪だった、という悲しき結末の記事を。
・・・案外、当て字であることもある、食べ物地名。
今回はなかばリベンジ的意味合いで、蕎麦窪記事の最後で触れた、ココに行きたいと思います。
もうひとつ、蕎麦がらみで今やりたいと思っていることは、古川沿いの”狸蕎麦”という旧地名の場所(狸橋付近)で、たぬきそばを食べること。
これですよ、やっとこさ。江戸地名”狸蕎麦”に、”たぬきそば”を食しにまいろうではありませんか。
・・・それにしても、”狸蕎麦”なんていう地名、ほんとにアリ?
「今昔地図」の「江戸」よりキャプチャ。天現寺橋近辺。
アリなんです。しっかりと狸蕎麦って書いてありますね。どのあたりのことかというと、
「今昔地図」の「現代」よりキャプチャ
現在はこんなです。港区白金。地名的には、広尾とか恵比寿とか元麻布とかに囲まれて。とうてい、狸さんとは無縁そうな場所。
最初に狸蕎麦という地名を知ったのは、「港区近代沿革図集」をぱらぱらとめくっていたときのことでした。
子どもを背負い、手ぬぐいをかむったおかみさんに、そばを売った代金が、翌朝見ると木の葉だった。誰いうとなく狸そばと呼び、評判だった。そばやの屋号が里俗地名となったものか。
こんなことが書かれていて。
麻布七不思議のひとつともいわれており、「七不思議」も、このへんてこな地名のつけられ方も、じつにわたしの気を惹くものでした。
しかし、麻布区史にある「七不思議」の項をみてみると、麻布七不思議なるものはあるけれど、書物により異なり、合計すると二十五~六不思議にはなるのだ、ということでして。狸蕎麦についても安定的に登場するわけではなく、しかも、文献により場所が異なっているのです。
山口義三「東都新繁昌記」では「古川の狸蕎麦」。
平山鑑三郎「東京風俗志」では「狸穴の狸蕎麦」といったぐあいに。
・・・はてさて。
まずは、狸穴の狸蕎麦に関する記述を見てみましょう。まみあな。まみは、魔魅なんて書くこともありますね。狸穴も、あやしくて好きな土地。
なんでも、狸穴下に蕎麦屋があったそうです。その名を”作兵衛そば”といい、色の黒い純粋なる生そばを提供し、好評であったけれども、いつしか廃業。大奥を荒らした狸穴の古狸が侍に討ち取られ、その霊を作兵衛さんが屋敷内に奉納したから、その名になったとか、とか。
一方、古川の狸蕎麦は、古川に架かる狸橋の近くにありました。というかむしろ逆で、狸橋が、近くにあった狸蕎麦屋にちなんで名づけられた、とされています。こちらのほうに、代金が木の葉云々の話がくっついてきます。
もうひとつ、狸塚があったとするものもあり、前述の狸穴の古狸がこのあたりに葬られたのではないか、と推測する人もいます。たしかに、狸塚は広尾にあったとする記述もあり、江戸期のここらへんは”廣尾原”。そう、前掲の古地図の地名”狸蕎麦”はちょうど廣尾原と隣接していて、この古川の狸蕎麦のことを指しているようです。
つまり、後者が地名としての狸蕎麦(蕎麦屋もあるが)。前者は蕎麦屋の屋号のみ、ということ?
・・・しかし、この2つの古狸伝説の地、地図にプロットしてみると、案外とおい。
「今昔地図」の「現代」に、2箇所をプロット
なぜ狸穴の狸を、こんなにこっちまで埋葬しに来るのか・・・本当に、同一の古狸の塚なのか?と詰め寄られてしまえば、オドオドしてしまうだろうけれど、ともかく、港区もこの「古川」のあたりに狸塚があった、と言っています。そばを売った代金が木の葉になっていた、なんて伝承もおもしろいけれど、これは後付け、、、ぽいな。
それにしても。蕎麦屋さんが及ぼした、地名、橋名、そして七不思議伝説への影響。おもしろい。若干うさんくさいところもあれど、おもしろいから、これはこれでイイんです。
さて、2つの蕎麦屋さんが出てきましたが、わたしが行きたいと言っていたのは、古川の狸蕎麦。近くに行ってみましょう。
狸塚があって、狸蕎麦。狸蕎麦があって、狸橋
存在感のある、天現寺橋より一本下流に。ひっそりとちいさく狸橋はありました。
そして狸橋の由来の書かれた石碑もありました。狸蕎麦屋の話と、狸塚のことが触れられています。
よりによって、強風の日にわたしは狸橋に来てしまいました。ここで風に煽られ、持っていた赤い折りたたみ傘がべっこり裏返り、おじゃんになってしまいました。雨に濡れ濡れ、散策。
この狸橋のたもと(南西といわれます)の蕎麦屋さんは明治期まであり、福沢諭吉がよく食べに来ていたそうです(ただし、この蕎麦屋さんが江戸の狸蕎麦と同一かは不明)。
そしてこの蕎麦屋さん、水車経営権も持っていた、といいます。古地図を見てみると、たしかに、ここには水車がありました。
東京時層地図(文明開化期)よりキャプチャ。「水車」と手書き
周囲にはまだ田圃や畑がいちめんにあって、古川やその支流が田圃を潤していて、ぎったんばったんと水車が廻る・・・この地図からはそんな時代の白金が読み取れます。福沢諭吉は、その長閑な風景をとても気に入り、水車の権利ごと土地を買い取りました。明治12年のこと。
そして別荘を建て(広尾別邸)、この”狸蕎麦水車”は米搗き水車として利益を生み出し、慶應の経費の足しになっていたそうなのです。
東京時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ。水車マークはまだある
ちなみに狸蕎麦水車を廻していた水流は、三田用水白金(または白金村)分水。メダカ、タナゴ、エビなどが泳ぐ、つめたく清冽な流れであった、という回想が残っています。その後、狸蕎麦水車は米ではなく、薬種細末を搗くようになります。・・・現在、北里があることと関係するでしょうか。
たしかに、狸橋から下流側を見ると、白金分水暗渠の合流口がぽっかりと在りました。
地図でこのへんをながめていると、明治~昭和初期まで、広尾別邸内に立派な池があることも、気になります。
東京時層地図(昭和初期)よりキャプチャ。宅地が増えるも、池と湿地は残る
この池は湧水池であったそうで、諭吉の四男がのちに、池に船をうかべて遊んだ、などと語っています。ずいぶん、水の豊かな場所だったんだろうなあ。
広尾別邸はいま、慶應の幼稚舎となっています(昭和初期の地図にすでに登場していますね)。
東京時層地図(バブル期)よりキャプチャ
いまの地図を見てみると、古川の上も首都高で覆われてしまい、僅かに姿を現す古川(それもなんだか道路のように見えてしまう)以外、むかしの自然物はなにも残っていないように見えます。
江戸期の地図で示された”狸蕎麦”は、現在殆ど幼稚舎の敷地に飲み込まれているようで、当然敷地内には入れないため、歩道橋からながめます。
右手の木々のむこう、幼稚舎の建物がそびえていました。福沢諭吉が気に入った風景のうち、いまも残っているのはおそらく、古川だけでしょう。その古川さえ、現在はまったく異なる姿であるでしょう。それでも、想像します。明治のころ、ここにはどんなにすてきな自然が広がっていたか。
そして、この木立の奥に、むかしむかし、”狸蕎麦”があった・・・
***
さて、おそば。
きょうは、絶対に狸蕎麦。
固い意思のもとに、白金のまちを歩きます。
福沢諭吉とおなじ狸蕎麦屋で食べることは、もちろんかなわない。せめて最も近いところを、と選んで、やってまいりました。
白金商店街(ここは古くてよい商店街ですね)には、何店舗か蕎麦屋さんがあります。更科川志満という、とても渋いお店もwebに載っていたのですが、見つからず。現役店でも、必ずしも”たぬき”があるとは限らないので、入念にチェックです。
選ばれたのは、手打ちそば佶更。
オサレ系。存在感ある木のカウンター。
少量の肴をつまみつつ呑んで、〆にもりそば、的な店と言えましょう。時間をランチからずらしたので、他の客は一組。60代と思しき夫婦(たぶん常連)が、ゆったりとお食事をたのしんでいました。
ふだんは、たぬきそばって殆ど頼まないのだけど・・・きょうは、躊躇なく。
さーて、そばがやってきた!
お上品~。そして、女性的な味わい。古狸さん、メスだったのかもしれない、なんて思えてきます。
この佶更、じつは前述の白金分水が掠っているような位置でした。
時層地図(文明開化期)、再掲
さきほどから載せている、時層地図たちの現在位置を示す青い点は、じつはお蕎麦屋さんのものだったのでした。
たぬきそばもよかったけれど、すぐそこにエビが舞っていたかも、なんて思いながら、桜エビのかき揚げでいっぺえ、なんてのもオツかもしれません。
これでやっと、蕎麦屋さん由来の土地で、そばを食べたぞ。蕎麦が採れてはいないけど。
ところで今回、地産地消にこだわるあまり、結果的に暗渠があまり関係なかったことに、お気づきでしょうか。それに、わたしは今回、すべての”狸蕎麦”関連の土地をめぐったわけでもないことに。
・・・さてさて次は、狸穴の蕎麦屋さんを探さないと。
<参考文献等>
・「麻布區史」
・「近代沿革図集」
・Deep Azabu(web)
・三田評論2010年11月号(web)
・港区公式HP(web)
(割愛しますが、白金分水については梶山さん、庵魚堂さん、HONDAさん、lotus62さんなどが書かれており、護岸工事前の古い合流口をしのぶことができます。)
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