1-8 さんぽ:その他の神田川支流

その他の神田川支流の暗渠

神田川茗荷谷支流(仮)の底力

暗渠を辿ることも新規に書くこともできない日々が、ここ数か月続いていました。
忙しいのは良いこと、かもしれないけど、そう思っていてもやっていられないくらいの。

世の中は連休、というときに茗荷谷で仕事がありました。ほんとうは別な仕事の原稿のために早く帰らなければならなかったのだけれど、3連休がすべて仕事でつぶれるのが悔しくて、せめて、暗渠を通って帰りたくなって。

もう日は落ちていたものの、飲み会に移行するみなさんを横目に、「コッチから帰ります!」と、駅ではない方向の、谷へと向かいます。

このへんの谷といえば、あそこ。以前、ミョウガの谷を歩く、というタイトルで、つたない記事を書いたことがあります。なんとなく好きな、気軽に辿れる、駅裏暗渠さんでした。
史料に乏しく、近辺の小学校の記念誌に「川があった」と載っている、程度の情報量でした。今回、大して史料が増えたわけではありません。けれど、かの地の「底力」を見せつけられたので、とにかく書きたくなったのです。

                        ***

駅のすぐそばから谷は始まります。
少しゆくと、「アユタヤ」と呼んでいる場所の前に猫がいて、目が合って、、なんとこちらに突進してくるではありませんか。
「うわ、襲われる・・・」 猫は大好きですが、この突進ぶりはなんだろう怖いぞ。猫パンチでもされるのか・・・と思っていたら、そのままドシーン!とわたしの脚にぶつかって、激しくスリスリしてくるのでした。

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ひとしきり撫でまわしじゃれ合って、やっと落ち着いてすましているところ。かわいいねえ、あなた。

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猫に襲われた場所は、だいたいこのへんです。

これは、良い夜になるぞ。そう思いながら下っていくと、藤寺(伝明寺)のところで、

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歩道に水がじょぼじょぼとはみ出している。

ここってこんなに湧水あったっけ?奥の水抜きパイプから、水音までしています。こんなに湧いているのだったら、わたしはきっと興奮して以前の記事にも書いたはず。だから、今回は余程水量があるのでしょう。・・・さすが、「清水谷」と言われるところ。
明るいときに見に来たいな・・・

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と、地図を見ると、あれ、思ってたのと流路が違う・・・
茗荷谷支流(仮)は、時層地図を持つ前に訪れていたのです。それで、わたしは目の前に続く崖下の「道」を流路だと思っていたのでした。しかし本当の流路はどうやら道ではなかったようです。

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カッコイイなあと思いながら通っていたここは、既に川跡ではなかった模様。

では本当の川筋は何処か。現在はほぼ、「小石川車両区」に飲み込まれているのでした。

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しかし、車両基地の少し下流では道のようなものが存在し、覗けるようです。

あわわわ、そんなところに。・・・行ってみます。

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ある・・・明らかに暗渠が。
けれど真っ暗で入りにくいのです。数歩進んでみて、建物の入口が開いていることや、電灯がまったくないことから、身の危険を感じこの日は断念しました。暗がりで感じただけでも、かなり上物暗渠である気配はしました。

湧水のあたりから、じわじわ再訪したいと思いだしていたわたし。この場所との遭遇で、日を改めていくことに決めました。

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こんどは昼間に。

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アユタヤ前にきます。この日はスリスリ猫はいなかった。残念。

かわりに、お寺に上ってみました。滝澤馬琴の墓があるということで有名なこの深光寺、よく見てみると、なんと「清水山」でした。嗚呼・・・

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清水山の向かいには、茗荷畑があったのです。あれ、ちょっと前まで生えてたのに刈り取られている・・・
この地の由来として「江戸時代、茗荷畑が多かったから」というものがあり、それに因んで植えられたものだろうとは思うのですが。また生えるかな?そういえば茗荷の季節、これからですね。

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茗荷畑のおとなり、拓殖大学は工事中。
前掲の地図にあるように、拓殖大の敷地にはむかし大きな池がありました。

それともうひとつ、お隣にも大きめの池が並んでいます。そしてその池を含め、谷戸が西に分岐しています。そういえばわたしはこの茗荷谷支流(仮)は、本流を下るばかりでこの孫支流について確かめてこなかったように思います。
折角だから、この谷戸にもなにかないか見てくるか・・・

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文明開化期の地図では、この谷にも水路が描かれています。参照しながら水路ともっとも近い道を歩いてみると、そこは標高が高めでした。どうも水路は道にはならなかったようです。
この崖下に池があるのでしょう。古びた、良い柵。

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だいぶ高低差が出てきました。拓殖大の裏にあたります。コンパクトな、くっきりとした谷。中に建ち並ぶのは、素朴な住宅地です。谷を探すのでなければ、ここに来ることはきっとなかったでしょう。
こんな都会のはざまに・・・と受ける印象は、麻布の裏にある宮村の窪地や、白金台から池田山に下りるあの谷筋に、よく似ているように思いました。

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スリバチ最深部に、たしかに暗渠がありました。
明治期の地図ではもう少し奥から流れが来るように見えますが、今追えるのはここからです。

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苔むした良い蓋・・・小躍りするような良い暗渠でした(もちろん小躍りしました)。

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細い流れですが、たしかに一筋、谷の出口に向かって流れています。
明治の中ごろまでは、水田があったようです。前述の池は、お屋敷の中のようでした。弁財天を記す地図もあります。そして、江戸期の絵図をみるとこの谷に「茗荷谷」と書いてあります。

(後でググってみたら、ここの蓋暗渠は谷戸ラブさんがさらりと書いていらっしゃいましたwさすがw)

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ただの側溝に見えそうなのですが、この年季と雰囲気で、下流側から遡ったとしても気づけるかもしれない。

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最後は、こんなふうにガタついて。

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クキッと曲がり、本流に向かいます。お、角っこに暗渠カフェ。生憎昼前の時間でした・・・いつかあそこで食べてみよう、2つの流れのことを思い描きながら。

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おきまりの「地下鉄くぐり」。茗荷谷支流(仮)の名所のひとつだと思います。なにしろ「地下鉄」を「くぐる」くらいの谷なのですから。

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さてさて、湧水ゾーンに来ました。お待ちかね。

昼の景色は・・・

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コリャ湧くよ・・・

工事用のフェンスに囲まれた空間は、ほぼ湿地でした。墓地からパイプが突き出ていてその湿地にじょろじょろと流れ込み、そして道路にまで溢れているのでした。

そのパイプの元にも、行ってみたくなるというもの。

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お墓のすき間からも湧いてました・・・あちこちで湧いては溜まって。
この付近は一帯が湿地であったこと、この寺には清水が湧きだしていたこと。伝承どおりであり、現在も、水たちはたゆまず湧いています。

季節によるのでしょうか。いまが多いのでしょうか。最初に記事にしたときと、実はあまり季節が変わりません(冬)。

こういうところに蛙がつどいそうな気がします。そういえばさきほどの深光寺前の道、江戸~明治に「蛙坂」と呼ばれていました。蛙がつどう風景は、この谷一帯にひろがっていたのかもしれません。

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水抜きのパレードがゆくよ。

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以前は今きた道=流路と思い込んでいたわけですが、川はこの車両基地の中央にあったようなので、きょうはトンネルの反対側に行きます。なにかないかな、と。

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すると、トンネルの中でも湧いていました・・・

明治~昭和とあった大きな池が、やはり車両基地に飲み込まれ跡形もなくなっています。この場所はその池よりもやや北ではありますが、湧水池の記憶を示すもののようでもあり。明治の初期には、この谷には水田と小川、そしてぽつぽつと池がいくつもあったのでした。

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反対側の道に来たからといって特筆すべきものもありませんでしたが・・・豪快な坂を下れたことくらいでしょうか。激しい高低差を味わうことができました。

さていよいよ、あの真っ暗だった場所へ!

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入口はここです。

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数歩入れば、

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異な空間でした。
夏は草たちが通せんぼするのかもしれません。たいへんに暗渠らしい、よい侘びっぷりです。よくぞ残してくださいました・・・

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神田上水の道を渡って下流側へいくと、材木屋さんに、

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細い道に立派めマンホール、

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そして謎池。という、暗渠サインのオンパレードでした。

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神田川に注ぎますが、正しい流路の方には合流口はないようです。小桜橋の下に大きめの合流口があるので、付け替えられたのかもしれません。

さて、ゴハン(うーんコレひさしぶりw)。

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暗渠沿いというわけにはいかなかった(上流部の喫茶以外店なし)ので、「やぶ宗」にはいり、

まずは天抜きでいっぺえ。
あらら、美しく結ばれた三つ葉に上品なカマボコ。柚子の香り・・・おいしいかも、ここ。

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しめはせいろで。

ズズーッ。ごちそうさま!
サービスも気持ちよく(実は正月休み中だったのですが、「お年玉」と書かれたサービス券の入った袋をくださいました)、手の込んだ清々しいお店でした。

今回の行程です。

Photo

緑点線が神田川茗荷谷支流(仮)のラインです。時層地図のおかげで、できた発見でした。感謝と、ちょっとだけくやしい気持ちと。
谷底や合流口など、一度はその気にさせられてしまったわけでしたが、あぶないあぶない。わたしが「これ」と思い込んでいる流路、まだまだハズレがあるかもしれないな・・・

支流の蓋暗渠、今なお湧く水、猫に蛙(蛙は想像)、最高の下流部・・・新たに見せつけられた底力。今度は怖いもの見たさに、夏に行ってしまうかもしれません。

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ババノダカタノシミズガワ

「清水川」といったとき、何処を思い浮かべる人が多いものでしょうか。

わたしの場合、「清水川」は新宿区にあります。

Kako

山手線に乗っていると河口が見える、あの暗渠。
あれぇ、ソレっぽいなぁ、とフンワリ思っているうちに通り過ぎてしまう、あの風景。
フンワリ気持ちも通り過ぎ、そして辿るのも忘れてしまう、という按配で今に至る。

そんなところに川なんてあったっけ?いやいや、あるんです。
山手線のせいで、起伏が誤魔化されているやつが。

Innei

                   東京時層地図(段彩陰影図)よりキャプチャ

真ん中をはしるは山手線。そして、山手線を挟んで両側に凹地が在ります。

東側の窪地=馬尿川のことは、以前書きました。
あの暗渠は人気が高い気がするけれど、そのすぐ西にも谷があることは意外と知られていないのではないでしょうか。いや、知っていても、記事に起こすほどの魅力が感じられない、のかもしれない。あまりにも痕跡が無い場所だから・・・。

しかしわたしはここを書きたかったのです。
なぜならこの川は、「陸軍の研究所から流れ出る」川だったから。

明治のころからこの一帯は軍用地であり、戸山ヶ原、と呼ばれていました。
戸山ヶ原は山手線の東西に延びる、羽を広げて飛ぶ鷲の後ろ姿のようなかたちをした土地。
軍用地でありながらも、一般人が自由に出入りしていた、といいます。しかし、その”羽”の下に二か所、一般人の入れない場所がありました。東は射撃練習所、そして西は陸軍科学研究所技術本部です。

この秘匿感・・・まさにその、陸軍科学研究所から流れ出た清水川は、僅かな距離をソソクサと流れ、神田川に注ぎます。
明治期の地図を見ると、神田川沿いに清水川、という字名が存在しています。

Mowari

                    東京時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ

神田川がいまよりも少し蛇行多めですね。

時層地図では清水川の流れ自体はみることができませんが、明治44年製の地図で載っているものがひとつ、ありました。

また、戸塚町誌には、秣川(=馬尿川)、蟹川とともにその存在が堂々載っています。

清水川
細流素々として戸山より落ち、大字戸塚地内を南北に流れて山手線ガード下にて神田上水に入る。

残念ながら、”戸山より落ち”以外に水源に関する記述はありません。当然水源が知りたいものの、肝心の水源があるらしき位置が、前述の地図では軍用地のため白抜きとなっていてわからぬという不運。地形をみると、緩やかな谷がもっと南の方まで伸びているようにも見えます。まずは、その先端まで、気のすむまで行ってみるとしましょう。

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「おほくぼ」駅前まできました。
この先まで緩やかに低くなっているように見える地形図もありますが、実際には平坦に感じます。そうそう、大久保駅前、このごちゃっとした飲み屋群が気になっていました。あいてないんで、また後日。踵を返し、

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すごすごと、線路をこえます。

桜のきれいな時期でした。

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                     東京時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ

この、うっすらとした等高線を足裏に感じられないものか、と思いながら歩きます。ちなみに、日出園・萬花園というのは、つつじ園のこと。大久保といえばつつじ、という時代もあったようです。

谷の先端がこの辺にあったような気がしてならない・・・というところを通過するのですが、依然平坦なまま。

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まだ高低差は感じない。
なのに、そこにあるホテルには湖畔と書いてあります。
何故”湖畔”なのか。谷頭地形に遭遇しないモヤリ感もあいまって、いったいここのどこが”湖畔”なのかと問い詰めたくなります。

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やっと前方に窪みが見えてきました。

これは、うれしい。

次第に暗渠感も出てきます。

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暗渠にゴミはつきもの。

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タクシー会社もつきもの。

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道路を渡ると、社会保険中央総合病院の敷地に入ります。
陸軍科学研究所の跡地は、「都立衛生研究所」「国立科学博物館分館」「呉羽科学」「社会保障中央総合病院」となりました(1988年当時の記載による)。ほかにも、あれこれ関連施設の変遷はあるのかもしれません。いまは表記上は、病院のみ残っているようです。

・・・ひっそりとした土地でした。
水色丸部分、壁の向こうの地面は高くなっています。なるほどここが清水川の谷。

Taisho

                  東京時層地図(関東地震直前)よりキャプチャ

大正期、いまいる場所(青丸)ははこういう土地でした。

陸軍科学研究所。広大な土地に、建物が少しだけあります。ここで、どのような研究がおこなわれていたのか?

・・・ここ百人町にあったのは、「第6陸軍技術研究所」および「第7陸軍技術研究所」でした。第6は化学兵器(毒ガス研究など)、第7は物理的基礎研究で、第7はのちに多摩に移る、とあります。
毒ガス、というと、まず思い浮かぶのは陸軍習志野学校。手持ちの資料には、この2箇所の施設を関連づける記述は見当たりません。しかしなんたる偶然か、陸軍習志野学校があった土地の、最寄駅も大久保(京成の)。なのです。

(陸軍習志野学校および周辺の暗渠については取材済で、長編すぎるのでなかなか更新できませんが、いずれ書きます。)

さてこの土地、いまは、一般人でも入れます。

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駐車場から、川跡を下っていこうとしました。が、残念ながら北に抜ける出口はありませんでした。

仕方がないので病院の裏に回ると、

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そこにはなんともいえぬ、放置された空間がありました。ベンチもありはするけれど、手入れはされていないようで・・・しかし木々は茂り、しっかりと花は咲く。満開の桜。

・・・まるで秘密の花園。

ヒマラヤスギは、陸軍のいたところにつきもの、と思っているのですが、ここのヒマラヤスギはどうでしょうか。

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研究所の外に出ます。百人町の住宅街は、ところどころムシクイになっていて、何かを待っているようでした。

百人町から研究所跡をながめると、新旧建物のコントラスト。

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さらに下り、西戸山公園にきました。

窪みはいよいよ明確になり、清水川を感じられるようになります。

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こういう角度で流れ込んでいたのではあるまいか、と思っています。

このあたりを描いたらしき、回想による画がありました。

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                    「戸山ヶ原、今はむかし・・・」より

科学研究所は、「変わったかたちの煙突」と「独特のサイレン」という印象が強かったのだそうです。

土管から流れ出る清水川。橋がいくつか架けられ、昭和13年時点で幅1.5m、深さ1m、ケタは2mおきに20cmほどのものが並んでいたそうです。「どぶ川」と呼ばれたこの流れは、子どもたちの遊び場であったそう。

また別角度の写真もありました。

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                     「戸山ヶ原、今はむかし・・・」より

戸山ヶ原に座るカップル。

見つめる先には、清水川。

「どぶ川」と橋、憩うひとびと。軍用地とは思えない長閑さです。

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わたしも斜面に座り、見えないはずの清水川を見つめながら、大久保で買ってきたビビンバ弁当を食べました(ほんとうは高田馬場でバインミーを買うはずが、定休日だったのでした)。

ちょうど、目の前では子どもたちが遊んでいました。かつての戸山ヶ原でも、こんな声が響いていたのかしら。

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そのさきは山手線に向かって公園内をまっしぐら。

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ここの記憶画もあります。
前述の明治44年の地図にはクネクネとした道路があり、水路もそれに沿って小さな蛇行を繰り返していましたが、

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                     「戸山ヶ原、今はむかし・・・」より

昭和11年当時はこのような流れでした。
いつしか真っ直ぐに付け替えられたのでしょう。

清水川は、ハシゴ式開渠で線路のすぐわきを流れていたそうです。周辺の植物の描写もありました・・・ここに広がるは、椎、栗、楢の木々と、足元に笹。未舗装の素朴な小径。

もう少し進むと、暗渠と重なる位置で工事をしていました。

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これはだいぶ深く掘られている様子・・・山手線からも見えます。直接覗き込みたかったですが、交通量が多いのと路側帯が狭いのとで、命が惜しくて渡ることすらできなかったです。

覗けなくて残念。

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高田馬場駅に向かいます。

昭和13年の記憶画を見ると、ここに左手から合流してくる人工の流れもあったようです。戸山ヶ原の西側、赤土の原っぱの中央に凹みがあり、降雨時のみ泥水の渓流ができたのだそうです。

まだそのころ、高田馬場駅に南口はありませんでしたが、清水川はちょうど現南口にあたる位置から暗渠となり、神田川に向かっていったといいます。たしかに、前述の明治の地図でも、その位置までが開渠です。

ところで、

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高田馬場といえば、駅のホームから見える滝。

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なんで滝?と、ポカーンとするひとが多かろうと思うんですが・・・、

この滝の下を、まさに清水川が流れていた、ということになるんですよ。

そう思うとたちまち、この滝はすごく由緒正しい気がしてきませんか?w オーナーの意図は、おそらく違うんだろうと思うけど、でも、この流れはきっと、暗渠者には清水川を彷彿とさせるものとなるはず!

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実際は暗渠らしさの全然ない道なんだけども。滝の下、痛快うきうき通り。

どうでもいいけど、ここから見える、五右衛門がある場所にかつてあった富士ラーメンに比較的行っていたんですよね。富士ラーメンに富士そばに東京富士大学。・・・富士、多いな。

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さかえ通りまできました。

もう少しで神田川というわけです。しかし、改修前の神田川は前掲の古地図のように、もっと北側を蛇行していました。すなわち清水川も、もう少し北東まで流れていたと考えることができ、明治の地図ではこの位置よりも右手奥から出現するように読めるのですが・・・、今ある名残はちがっていて、

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さかえ通りの入り口に鎮座している、この駐輪場が川跡のようです。

最後に来て、暗渠らしさがやっと出た感。

しかし、入ることはできませんでした。自転車を置いているふりをして、入ればよかったでしょうか・・・どうも、そういった勇気が出る日と出ない日がわたしにはあるようで。この日は出ない日でした、残念ながら。

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仕方がないので、いっきに終点まで。河口を拝見します。
桜の花びらがたくさん流れていました。

この、山手線前後の神田川のうねり具合、たいへん好みです。

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この日の〆は、馬場の駅前のレトロ喫茶店”ロマン”にて、クリームソーダ。
ロマンはナポやホットケーキなどの必須事項を押さえているばかりでなく、各種アルコール、それにシューマイやソーセージといったガチ酒用つまみも置いているのです。これな。・・・秀逸。いつか”ロマン飲み”がしたいなあ。

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高田馬場の、清水川。

まあ、言ってみればほとんど痕跡はありません。
しかし、陸軍の秘密の土地はいまでも秘密の花園であり、幻の渓流はいま、謎の滝が代役となりうるかもしれません。
ふふ、ちょっと強引だったかも。でも、暗渠とは想像するものでもあります。清水川は、都内屈指の想像力の鍛錬ができる川、といえるかもしれません。
「おいしくない」ことをグルメレポーターが「個性的な味」と評するように、「暗渠感がまるでない」ことを、「想像力が鍛えられる場」と表現する提案をしてみようかしら?

すべては、そこを歩くひとしだい。

<文献>
濱田熙「戸山ヶ原 今はむかし・・・」
「戸塚町誌」
「新宿区地図集-地図で見る新宿区の移り変わり-」
山田朗氏”陸軍登戸研究所―戦争の記録と記憶・保存と活用―”講演資料

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神田川黄金事件

杉並新聞からまたひとつ、掘り出したことを書きたくなりました。
川と、昭和のひとびとの間に起きる「事件」はじつにわたしを惹きつけるものばかりで、興味が尽きることがありません。
そんなわけでこれからは、杉並新聞「昭和の事件」シリーズ、というのもたまにやっていこうかと思っています(カテゴリ化しようかな)。語り口調は最初のものに合わせて、ふだんとちょっと変えて。

                        ***

今回みなさまをいざなうのは、昭和31年の世界。
やはり、川のほとりの、ちいさな世界に。

珍妙な事件が神田川沿いで起きていた。

舞台は、だいたいここらへん。杉並は浜田山あたりである。

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現在は、閑静な住宅街に挟まれた道路。開発されて間もないPークシティ浜田山の裏、ほかにも真新しい感じの公園や建物が目につく。

当時はこの道路の位置に、神田川から取水された小川(新聞の表記では「区用水」)が流れていた。

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付近にはまだ田圃があったため、小川はその用水路としてはたらいていた。
左手に見えるのは、神田川が削った崖線。その麓を小川がさらさらとはしる。

崖線の景観を利用した邸宅がこの地にもかつてあり、現在は跡地を活用して柏の宮公園などになっている。いまよりもずっと、緑と水に満たされたエリアであった。

Mitsuiura

              東京時層地図よりキャプチャ。昭和30年前後の付近。

この地図を見ると、神田川が流れ、そのやや北に用水路が流れている。用水路のすぐ北には三井不動産運動場があり、ここは三井グランドとも呼ばれていた。
また、三井グランドの隣には、中央に橋の架かる瓢箪型の池も認められる。この池は、まさに崖線の下に位置している。

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うれしいことに、その池跡は現存していた。釣堀になっていたこともあるそうだ。

訪問時は枯れていたが、説明板を見ると、時期によっては水を入れているように思わせる。かつては、崖線から湧く水でまかなわれていたのだろう。

閑静な。うつくしい自然。水と緑。そんな清潔感を伴う印象の地である。

                        ***

さて、この地に起きた事件の話に移ろう。

昭和30年6月頃から、たびたび、この用水路に変化が起きた。
杉並新聞の記述をそのまま拾えば、ある人物のせいで、

”用水はたちまち2000mにわたり黄金色の流れと化した”

と書かれている。黄金列車とか、東京女子大から善福寺川に黄金が流れ込んだとか、この頃書かれたものを見ると概ね黄金という表現がなされているが、

Nausika                       ©スタジオジブリ

なじみの薄いわたしはまずこういうものを思い浮かべてしまうが、そういうことではないのだ。

屎尿ですよ糞尿ですよウンコなんですよ。
水路に大量の屎尿が流され、汚水が流れ込んだ養魚場の鯉が死ぬという事件が起きていたのだった。しかも、数百匹という単位である。
養魚場にとっても迷惑な話だが、いま見たような清潔暗渠が延々と糞尿まみれになっている、というのは実におそろしい光景だ。当時、民家がよほど少ないエリアだったとはいえ・・・。

ともかく最も困惑したのは、その水路の流れ込んでくる養魚場経営者であった。
下高井戸に住む、A藤さんという人物だ。たびたび屎尿が流れこんでは商品が死んでしまうので、A藤のおやじさんは見張りをして犯人をとっつかまえることにした。

とはいえ働きながらのA藤さんひとりでは、そうなかなか見張りばかりもできない。やがてA藤家の子どもも動員されて、見張りは続けられた。
そもそも、投げ込まれる位置だってわからない。どうもタイミングが悪く、糞尿は数回にわたり流され続けてしまう。

あるときなど、子どもが待ちくたびれて居眠りをしているときに、やられてしまった。その時は「親子げんかをしたくらいだ。」と、新聞記事には書いてある。なにしろ、A藤家にとっては死活問題である。父親は子どもを、烈火のごとく叱ったに違いない。子どもだって、こんな役目をしたくはないこと、頑張ったけど限界が来て眠ってしまったこと、きっと泣きわめきながら必死に対抗したに違いない。

・・・A藤家は、じつによく頑張った。

ついに、犯人が見つかったのだ。

犯人はそれほど意外な人物ではなく、清掃事業所の従業員であった。
屎尿を載せたトラックを、「神田三崎町の処理場」に運んでいくのが、彼の行くべき正規のルートだった、という。

神田三崎町・・・

Chukeijo

おそらく、ここのことだろう。
写真は神田川クルーズをした際に、川側から撮ったもの。現在は「三崎町中継所」、文京区・千代田区・台東区の不燃ごみを積み替え、船に乗せて運ぶ場所だ。ドワァー!と落下するごみに目を奪われる、神田川の名所のひとつである。
昭和6年からあるというここは、当時も健在。そして、当時は杉並の屎尿もここに集まってきていたということになる。

それでは、犯人の足跡を追ってみよう。スタートはここだ。

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国学院久我山高校。

当時の表記では「久我山高校」だ。ここで犯人は定期的に、業務である屎尿の汲み上げを行う。
記事内では、その量「糞尿200樽分40石」となっている。表現が古すぎてよくわからないが、まあ、多そうだなあ、とは思える量だ。

犯人はこれを、神田三崎町まで運ぶのが面倒になってしまったそうなのだ。
まあたしかに、久我山からあそこ(水道橋付近)までというのは遠いような気はする。そもそも神田川の上流下流の関係にあるのだから、「このまま最初から船で流せたらよいのに」と、わたしだったら思うかもしれない(彼もそういう思いで川に流したのかどうかは、知らない)。

まあともかく、犯人はある程度は久我山高校の屎尿を運ぶ努力をしている。久我山高校を出、

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玉川上水の脇の道と、久我山駅に向かう道が交叉するところ(ちなみにこの更地はかつて銭湯があった場所)。

犯人はここを左折したか、あるいは直進したか。

そう、久我山高校からもっとも近い水路といえば、玉川上水でなのある。当時は上水道として現役のはず、さすがに上水に汚物を捨てるほどの悪人ではなかったということか。

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久我山の駅まで歩いてみる。さきほど「犯人の足跡を追ってみよう」と言ったばかりだが、判然としない「足跡」よりも、暗渠を歩き始めたくなったので、路線変更をして暗渠をゆこう。

ここは、件の用水路の取水地点。いかにもあげ堀な風景が広がっている。

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            東京時層地図からキャプチャ。富士見ヶ丘駅近辺。

事件の舞台になった用水路は、富士見ヶ丘駅前において、神田川から分岐する。

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そして神田川に沿って、井の頭線の周囲を蛇行しながら流れ下る。
ここは歩道になっているが、広めの歩道と車止めに暗渠らしさがのこっている。

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井の頭線を渡るところ、よく見れば暗渠の幅だけ柵がある。

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井の頭線から見える、ゴルフ学校の脇も流れている。

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ここから、景色が好みの感じになってくる。

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いい裏道感。

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ここで広い道路と合流、まだまだ用水路は下る。

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さてと、最初に掲げた事件現場付近に戻ってきた。三井グランド跡地裏だ。

このあたりで、犯人は積荷を下ろす。まったく、あの距離の短い井の頭線の駅3つぶんほどで、犯人は「運ぶのもうイヤ!」になってしまったというわけだ。
神田三崎町までの往復を考えると、なかなかの時間を犯人は浮かせられたことになる。その時間をどうつぶしたか、なんてことも、おもわず妄想してしまう。

ちょうど某野菜屋さんのトラックが止まっている。このトラックを黄金トラックに置き換えて、想像してみてほしい。犯人はここで、高校生の糞尿200樽分を、傍らを流れる用水路に「投げ込んだ」。

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                     東京時層地図からキャプチャ(以下同)。

投げ込まれたそれは水の流れに身を任せ、

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ここに到達する。
黄色の丸で囲った部分を見てほしい。用水路は、この四角い池=養魚場を流末としていることがわかる。つまり、捨てられた屎尿は、全力でここに流れ込んできてしまうのだ。

記述によれば約265貫の鯉が死亡した、のだそうだ。
貫・・・またしても聞きなれない単位が出てきたが、1貫 =  3.75kg である。なんだか大量の鯉が死んでしまったことがわかる。

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養魚場跡の現在はこう。マンションになっている。

何度も何度も鯉が死んだ、悲運の養魚場。その後いつまで存在していたかというと、

Ike2

バブル期もまだそこにあった。

そう、子どもまで動員して見張りをおこない、犯人確保までこぎつけるほどの根性の持ち主であったA藤さんは、わりと最近までこの地で稼業を続けていたというわけ。

ふと思いついて、1970年代のゼンリン住宅地図を開いてみた。すると、やはりまだそこには養魚場然とした区画があり、しっかりと「A藤養魚場」と書かれていた。池も5つに増えており、A藤氏のやり手具合を再び感じてしまう。両サイドに駐車場も持ち・・・今ではもう養魚場の名残はないが、A藤氏の子孫はもしかしたら今でも、何かを上手に経営して、この地に暮らしているのではないか。

<後日追記>
この記事の掲載直後に、リバーサイドさんからこの養魚場に関する情報をいただきました。

Turi

とのこと。リバーサイドさん、どうもありがとうございました。

ところで、この近辺で養魚場、というと、どうしてもこっちを思い浮かべてしまう。

Ike3_2

永福町と明大前の間、明治大学の斜向かいあたりにあった、これである。古地図を眺めていると、嫌でも気になる大きな大きな養魚池だ。

記事には屎尿は「2000m流れた」と書いてあった。じつは、上述の下高井戸のA養魚場は、三井グランド裏からはわずか500mほど。そしてこっちの養魚場は約2000mの距離。
つまり杉並新聞の記者もその事件を聞いてまっさきに永福町のこちらを思い浮かべたのではあるまいか。

念のためこちらの養魚池の現在も載せておこう。

Yogyojouato

神田川沿い、大きな池を埋めた区画に、今は家が並んでいる。
ここの住所は永福町であり記事内のA藤さん宅の住所からは不自然に遠いこと、前掲の地図からわかるように、件の用水路はこの養魚池までは至らないこと。なにより、ゼンリン情報との一致からも、事件の養魚場がここである可能性は著しく低いと思われる。

すなわち、わたしの結論では、その事件の舞台はここではない。なんだろう、誰にどう報告したらいいのかよくわからないが、平成も26年に入ったところで、昭和31年の新聞記事の間違いを見つけてしまったわけだ。
注:厳密にいえば、元記事内では現場を「三井グランド裏」と特定はしていない。三井グランド裏を流れる小川、という表記にすぎない。しかし、件の用水路と、車道が交わる場所は古地図で数えてみると僅か8か所ほど。うちほとんどが、駅前や民家の前であったり、人通りが比較的ありそうだった。わたしが本記事で想定している場所は用水路沿いに狭い道が延びる民家の無い場所であり、もっとも犯行に使われた可能性が高いと思われたため、そこと断定したかたちで書かせていただいた。

・・・そんなことは、いいんだけど。

じつはこの黄金事件の記事が、わたしは杉並新聞のなかでもかなり好きなのだ。
記事のストックを見、この「親子げんかをしたくらいだ」のくだりを読むたび、どんな気分の時でもおもわず声をたてて笑ってしまう。泣きじゃくる坊主頭の少年を思い浮かべては、わずか数キロで糞尿を運ぶのをやめてしまう、とぼけた犯人を思い浮かべては、そのなんともいえない、事件のうしろの平和さのようなものに、こころが緩んでしまうのだ。

すべて勝手な推測で書かれたA藤家のこと。実際はぜんぜん、違うかもしれない。
でももしかしたら今でも、おじいちゃんの思い出話として、A藤家で酒の肴になっているかもしれない。
ただの道路の、地面の下に、もしかしたらこんなできごとがあったかもしれない。杉並の昭和は、わたしたちのすぐそこにある。

<参考文献>
杉並新聞第407号(昭和31年1月19日発行)

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シカク■スリバチのなぞ

スリバチとは、逆円錐形をあらわすことばであるはずだ。だから、「四角スリバチ」なんて、ことば自体がすでに矛盾を孕んでいるかもしれない。

でも、世の中ってものはおもしろくって、四角いスリバチだって、あるところにはある。最初にそれを知ることになったのは文京区、東京大学の本郷キャンパスと浅野キャンパスに挟まれた、この地でのこと。

Sikaku1            Googleさんありがとうございます。文京区の、向ヶ岡といわれるところ

なぜ東大のキャンパスがこのように分断されているのか?よく見れば、気になる地割り。そんな問いをもって、この地のことを調べる人もいる。
時代を遡ってみると、さらにこの場所のシカクさが浮き出てくるかのようだ。

Sikaku2

              東京時層地図よりキャプチャ。明治9~19年頃の向ヶ岡

古地図には大きな池が描いてあるから、両脇の崖から水が滴っていたのかもしれない。あるいは、もう少し上流の、谷頭から来る水を溜めていたのかもしれない。とはいえ、こんな地形は自然にできるものではない。ここは、もとからあった谷戸を利用し、成形された場所だったのだ・・・なんのために?

明治期、このシカクい土地には射的場があった。射的といっても、こんにち我々が想像するようなお祭りのそれではない。警視庁のもので、西南戦争に派遣された関係者が狙撃演習を行ったという。その後、東京共同射的会社となり、一般人にも向けられた練習場となった。
江戸期のここは水戸藩駒込邸の敷地であり、その頃から池が谷戸の下方に認められる。明治に入り、そのスリバチの四方に土手を作り、さらなる谷地形をつくり、弾を防ぐ壁としたのだそうだ。

谷地形があるということは、そこには川が流れていたということ。ただしこの、射的場の川は無名川で、名を定めている文献は見当たらない。そういうとき、筆者は勝手に名づけることも多いけれど、この川については付け忘れてしまった。なので、みなさんどうぞお好きな名前で、心の中で呼んでください。
明治期の古地図を見ると、道路脇に水路が描いてあるものがある。そして、東京大学構内にある三四郎池から流れ出す小川が、この無名川に合流していた。実はいまも、東京大学の池之端門近辺には橋状のものや、石垣に埋まりつつある合流口があって、水路の名残を感じることができる。付近は地形を改変され続けたこともあり、流末がはっきりしないが、いにしえは石神井川の支流、近世以降は不忍池に注いだと考えられる

現在この地を歩いてみると、ほぼ、ただのシカクい住宅地だ。・・・いや、シカクさはわかりにくいかもしれない。一応、チーズドッグみたいな擁壁の崖を認めることは出来るものの、住宅に遮られて視界が悪い。

Sikaku3

              現代の向ヶ岡の内部。 住所は、文京区弥生二丁目だ

上述のようにわざわざ谷を掘って成形したものの、その後埋めて宅地化したのだという。とある考古学者によれば、この土地を掘れば、池跡が出てくる可能性が高いのだそうだ・・・いまを生きる私は、地面の下の池を想像して歩くのみ。それだって、楽しいけれど。

もう少しだけ、スリバチ感の残っているシカク地帯もある。港区青山。ここには、いまも谷が残っているように見える。

こちらも射的場だが、こんどは陸軍のものである。長方形の敷地で、全面と左右に土手があり、凹地の各所に門があったというつくり。そのまんまだが、俗に「鉄砲山」といわれていた。射的場の下には蛇ヶ池(じゃがいけ、もしくはへびがいけ)があり、葦が生え、魚がたくさんいたという。
なんと斉藤茂吉が「赤光」にて、ここの湧水のことを詠んでいた。

「射的場に 細みづ湧きて流れければ 童ふたりが水のべに来し」

同じく「赤光」には、子どもが土を掘って弾丸を見つけ、喜んでいるという描写もある。青山、といえばシャレオツタウン、いま描写したような風景を想像する人は、あまりいるまい。

青山霊園の少し南に、そのスリバチはある。買い物をするような店もなく、はっきりいってここに行く用事などない。しかし、シカク見たさに、行ってみる。そうか、ここか・・・

Sikaku4                   青山に密かに在る、細長い谷地形

そこは妙に余白を感じる、運輸会社などの敷地になっていた・・・侵入することはできない、深い谷を見下ろす。
そう思って歩いて帰ってきたら、それは大きな間違いだった。実際の射的場跡は、2倍以上も広かった。

Sikaku5           東京時層地図よりキャプチャ。左は文明開化期、右はバブル期。
                  前掲の写真は、緑点線内を写しただけだった。

明治期の蛇ヶ池は、まるで真夏の夜に青山霊園から抜け出てきたヒトダマみたいに、陸軍用地に食い込んでいる。
・・・どうやらここは、もっともっと広いシカクスリバチがあったのが、盛り土されてしまったようだ。

こちらの川には名がある。その名を笄(こうがい)川という。渋谷川の支流であり、天現寺橋のところが河口にあたる。笄川は青山霊園を中心として北に向かって咲くリンドウの花のようなかたちをしていて、この蛇ヶ池はいわば花弁のような位置にあって、その水源のひとつだった。かつては、蛇ヶ池の脇を小川が流れ、その下にひろがる笄田圃を潤していた。

江戸期の絵図を見るとここは青山家の下屋敷の敷地であり、空白が多く地形がよくわからない。しかしその時から蛇ヶ池はあったようだ。すなわち谷があったのであり、向ヶ岡同様、ここのシカクももとの谷戸を利用したものだ。
明治以降の地図を時代順に並べて見ると、だんだんと埋められ住宅になっていくさまがよくわかる。しかしよく見ると、今の区割にも名残がある。バブル期の住宅地のかたちは、射的場とほぼ同じなのだ(そして、いまもそうだ)。

Sikaku6              東京時層地図よりキャプチャ。現代の段彩陰影図。
                  オレンジ点線内が射的場のナガシカク部分。

1つ前の写真と比較してみてほしい。ナガシカクの左下にはいまも窪地として残っており、そこに青山葬儀場がすっぽりとおさまっている。
かつてはもっとスケールの大きかったシカクスリバチは、お弁当箱の脇についた箸入れみたいな、細い一部分だけ残して埋められてしまったのだった…。さきほどの向ヶ岡との共通点の、なんと多いことか。  

軍の射撃場といえば、戸山も有名だ。戸山公園や早稲田大学理工学部のある一帯である。ここに陸軍射撃場が置かれたのは、江戸期の鉄砲隊が由来する(鉄砲百人組の大縄地を転用)という。あのあたりの場所に縁のある人は、思い浮かべてみてもスリバチらしさなど感じないのではないだろうか。しかし、戸山公園もまた、川の流れる緩やかな谷であった。

ここに流れていたのは、馬尿川もしくは秣(まぐさ)川。神田川の支流だ。水源については確実な文献は見当たらないが、大久保の韓国料理店街の脇から谷戸が始まる。下流に行けば少し前までは湧水があったというし、味わい深い擁壁の残る、人気のある暗渠だ。この、ノンビリとした名は、馬の餌である秣が流域に置かれていたからとかいう、本当にノンビリした理由でつけられたようだ。流域、というか射撃場と同じ場所に競馬場があった時代もある、馬に縁のある地のようだ。  

“戸山ヶ原”と言われていたこの地は、陸軍用地ではあったものの一般人も出入り自由だった。旗が上がると子どもたちが弾を拾いにいったりしたというし、「トンボ釣り」「カブトムシ捕り」というなんとも長閑な遊びにここで興じていたともいう。青山然り、陸軍用地にはこのように子どもが戯れるエピソードがよくついてくる。

明治期、戸山には「三角山」という実弾の着弾地があったが、弾が山を越えて中野やら落合まで行ってしまい、住民が危険にさらされたというので、昭和3年に蒲鉾型の7本×300mの鉄筋コンクリート製の射撃場になった。

Sikaku7          東京時層地図よりキャプチャ。左は昭和戦前期、右は現代の段彩陰影図。
            

いずれのスリバチも、陰影図ではある程度シカク感がわかるが、実際に訪れるとそれほどはっきりとはわからない。もっと、いまもしっかりと見られるシカクスリバチは、存在しないのか?

…最もはっきりしているものは、大田区にある。

Sikaku8            東京時層地図よりキャプチャ。大森駅西側の段彩陰影図。

くっきりと存在するシカク。そこから延びる谷は複雑な地形をかたちづくっている。

 この谷にかつてあった川は、池尻堀という。いくつもの水源が存在していたようで、流末は六郷用水に注ぐものだ。池尻堀の谷はダイナミックに入り組んでいるばかりか、美しいフラクタル状になっていて、陰影図を見ているとどうにもうっとりしてしまう。暗渠者に人気が高いのもうなずける。  

Sikaku9          東京時層地図よりキャプチャ。1つ前の陰影図と同じ場所の、昭和戦前期。

ここ大森のシカクスリバチもまた射撃用のものであり、前出の向ヶ岡の射的会社が明治22年に移転してきたものだった。
ところが何を思ったか、隣にテニスコートが建設される。テニスクラブのwebには「西洋列強の文化の中で育まれたスポーツマンシップも会得しよう」という理由だったと書いてある。そしてなぜだか、慶應義塾大学庭球部の要請によりテニスコートを増やし、慶大庭球部と一般のテニスクラブが一緒になって「大森庭球倶楽部」が開設された、というのだ…大正12年のことだ。

Sikaku10          入新井町誌より。射撃場とテニスコートが隣り合わせ、というクールさ加減  

いまもテニスコートは健在で、大森駅の東口から一山越えると、大森テニスクラブが現われる。

Sikaku11

ここが谷頭だ。テニスクラブ入口から下を眺めると、そこにはすばらしいナガシカクが拡がっている。

Sikaku12

射撃場跡の石碑もある。陸軍の射撃場は広いものであったが、警視庁系はコンパクトであり、今もシカクさ加減がよく味わえる。ちなみに、深大寺にも射撃場跡があるが、こちらはもっともっと深く、今もしっかりとした谷である(今度は深すぎて写真におさまらない)。さぞ上等な、天然の防御壁となっていただろう。

そういえば、色町も、よく目にするシカクのひとつ。中沢(2005)いうところの「湿った面」である色町は、スリバチ等級でいうと低くなるかもしれないが、その多くは低湿地につくられている。そして、とくに吉原や洲崎などの遊郭は、きれいな長方形をしている。吉原に関しては、低湿地のなかに、ぽっかりと浮いた島のようにつくられている…。

Sikaku13          東京時層地図よりキャプチャ。左はバブル期、右は現在の段彩陰影図

銃と、性。これらは、人の生と死というつながりをもつものだ。生と死とは、目を背けることができないものだ。綺麗な上澄みではない、どろどろとした情緒がうずまくものだ。そういったものが、谷底という低地に溜まっているということは、なんら不思議ではないのかもしれない。

「谷に集まるのはムーミンだけではない」。このようなある特殊なヒトやモノ、そしてさまざまな生き死にのものがたりが、スリバチの底には横たわっている。  

                        ***

なぜ、この記事をボツにしたのかというと。
原稿をある程度書き進めた段階で、マトグロッソの一連のスリバチ記事を最初から通して読み直してみた。なんとなく、このネタが書かれていないわけはないよな、と少しざわつくような心持ちでいたからだ。
案の定、エピソード6には射撃場の話が・・・。ちゃんと読もうよ、自分。・・・いや、記憶が蘇ってきたら、たしかにそれをちゃんと読んでいたし、御殿山の箇所に反応して「わたしは軍事萌えもあるから、暗渠者だけどここも萌えるよ!」などと、ぶつぶつ言ったことも思い出した・・・ちゃんと覚えてようよ、自分。 
わくわくしながらスタートした本記事は、残念ながらお蔵入り。でも、お蔵入りはもったいないので、特に新しい視点もないけれど、ブログには載せておこう、と思うに至ったのである。

                        ***

オマケ。 
陸軍用地は戦後それぞれ、かたちを変えて歴史をつないでいる。では、向ヶ岡から大森に移った民間の射的会社は、その後どうなったのであろうか。横浜のほうに移ったという情報があるものの、文献上詳細は分からなかった。横浜の古地図を見てみると、大正期に全国射撃大会が行われたという場所が馬場にある。当時このあたりは人家も少なく、深い谷戸がある射撃の適地であったという。その深い谷戸は、入江川の流域にあった。

Sikaku14            横浜時層地図(昭和戦前期)よりキャプチャ。東寺尾~馬場のあたり

Sikaku15

台形のような、シカクのような。実際に現地に行ってみると、そこにはコンパクトな、しかしインパクトのある台形を住宅が埋めつくしていた。みごとな「ガケンチク」に、横浜らしさを感じる。

地図の年代を遡って見ていくと、近隣の別の場所に射撃場が現れる。地元の資料を見ると、もとはもっと東にあった射撃場が、上記の地に移転してきて、昭和15年まで存続したということである。
その、移転前の場所とは、明治のある時期までは成願寺という3ツ池のある寺の敷地だった。その池の向こうに射撃場があり、一年中銃声が聞こえてきた、という記録が残っている。

Sikaku16                 横浜時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ

こちらはより広い。ナガシカク、というよりは、もう少し滑らかなかたちかもしれない。ほとんど地形を弄らなかった、ということかもしれない。
池を囲むように別荘が建ち、製氷池で氷の作られるしずかな(たぶん、銃声以外は)場所だったという。ここに、明治36年に、總持寺移転が決定する。

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                 横浜時層地図(戦後転換期)よりキャプチャ

大きなお寺は、なんとなくむかしからそこにあったような気がしてしまう。しかし、もと射撃場であった寺、というのも存在するわけだ。
今はこのような風景だ。

  Sikaku18

總持寺。いまの大駐車場のあたりに、明治21年からしばらくのあいだ、射撃場があった。射撃場が移転し、その場所は龍王池という池となったが、それも埋立てられ、いまはこのように駐車場になっている。 

Sikaku19

・・・じつは、この場所はわたしが最初にスリバチ学会のフィールドワーク(下末吉の回)にお邪魔したときに、最初に立ち寄って、集合写真を撮った場所なのだった。
なんという一致。スリバチ学会からいただいた原稿のお話、最初に思いついていそいそと書きはじめたストーリーは、まわりまわって、最後にまたスリバチ学会にもどってきたのであった・・・これもまた、スリバチがつなぐ縁なのかもしれない。

Sikaku20

年末に行った総持寺には、屋台の準備がなされていた。射的場跡地に、現代の射的屋がある風景・・・おあとがよろしいようで。

<参考文献>
「入新井町誌」
斉藤美枝「鶴見總持寺物語」
「新宿区町名誌」
「新宿区立戸塚第三小学校周辺の歴史」
中沢新一「アースダイバー」
中嶋昭「鶴見ところどころ」
原祐一「向ヶ岡弥生町の研究―向ヶ岡弥生町の歴史と東京大学浅野地区の発掘調査の結果― 徳川斉昭と水戸藩駒込邸」東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9
港区教育委員会「増補港区近代沿革図集 赤坂・青山」
港区三田図書館「明治の港区」
「わがまち大久保」

<関連記事(本ブログ内)>
夜の馬尿川
三四郎池支流(仮)の流れる先は
ゲゲゲの湧水(前編)
洲パラダイス崎

<関連記事(他サイト)>
大森テニスクラブ
あるく渋谷川入門 笄川東側
暗渠ハンター 山王崖下の池尻堀?
etc...

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紅葉川をねちねちと歩く 追加編 温泉山のこと

前回のつづき。鳥茶屋別亭で、ふわとろ親子丼を食べたところからです。

鳥茶屋別亭の佇む階段・・・とは、東京の階段DB上では熱海湯階段、と呼ばれる、味わい深い階段です。

Onsen1

見上げたところ。

階段を下ってゆくと、

Onsen2

銭湯が見えてきます。

Onsen3

階段を下り切れば、銭湯の入り口。熱海湯です。クラシックですてき。

この熱海湯にからめて、気になっていたことがあります。・・・それは以前、紅葉川でもっとも河口部にある支流である、熱海湯支流(仮)編の記事で触れたこと。すなわち、神楽坂界隈にあったらしき”温泉山”の正体について、です。

以前の記事ではいろいろと勝手に推測を展開しています。今回は若干重複もするものの、その後に明らかになったことを書いていきたいと思います。

                         ***

”温泉山”。
それは、神楽坂のどこかの崖の上にあった大衆浴場。いや、浴場があった丘のことを、温泉山と呼んでいたようでした。
そのことに言及した文献は、僅かに一件。いったいどれくらい浸透していた名前なのか、どのくらいの期間、あった施設なのか・・・わからないことは、多いまま。

場所のヒントも少なく、「今のマサ美容室のあたりにあった」という表現のみでした。
そしてそのマサ美容室を地図でしらべたところ、マーサ美容室なるものが、さきほどの熱海湯階段を上りきった、この通りにあることまではわかりました。

Onsen4

通りの名は、見番横丁。
神楽坂の組合の、見番が置かれている通りです。

Onsen5

見番のすてきな建物。を、とおりすぎると、

Onsen6

すぐにマーサ美容室が見えてきます。

Onsen7

マーサ美容室の少し手前から振り返ると、崖下に熱海湯の煙突が見えます。

・・・「熱海湯」、なんですよね。
銭湯の名にはいろんなパターンがありますが、これは温泉地からもらった名前のようで。前述の”温泉山”エピソードとがっちり握手するのです。
場所を少し崖下に移したか何かで、熱海湯は温泉山の名残の一部なのかな、と。

この、わたしがたった1件の文献からこじつけた温泉山についての考えは、それなりに納得のいく考察になっていたと思います。

しかし、それは間違いでした。

間違いであるということに気づけたのは、地元の方のお話からでした。
神楽坂に長く住む、地元の人が参加するあつまりに参加させていただいたときのこと(ヤマサキさん、その節はありがとうございました)。毘沙門天にかつてあった池だとか、あれこれ神楽坂の”むかしの水関係”の話を聞かせていただくなかで、情報の少ない温泉山のことについて、尋ねないわけにはいきませんでした。

その方(因みに、皆川会長に激似)は温泉山そのもののことはご存じなかったので、まずは、と思ってマーサ美容室の場所を確認することからはじめたところ、

「マーサは、むかしはあそこじゃなかったよ」

という、想定していなかったお答えが。

おぉ・・・熱海湯仮説が、ガラガラと音を立てて崩れる・・・!

では、移転前のマーサ(≒温泉山)の場所とは?
何処ですか?ときいたところ、

Onsen8

ここがマーサ跡なのだ、ということでした。
神楽坂を飯田橋から上り始めてまもなく出現する、ロイホの場所でした。
どうやら、ここにあったのが、さきほどの見番横丁のあの場所へと移ったようなのです。つまりはここが、温泉山。

この場所の、温泉”山”感とは、、、

Onsen9_2

やや下方から撮れば、存分に感じることができます。
なるほど丘の上にあります。かつてはもっと地面がいびつで、ロイホより下には崖があったのでしょうか・・・では、温泉山についての描写を、原文のままふたたびご紹介いたしましょう。

                          ***

今の「マサ美容院」あたりですが、明治も終わり頃まで崖がありまして、温泉山なんて呼んでおりました。
今の銭湯とでもいいますか、大衆浴場がありまして前側にはちょっとした休みどころもあり、何となく温泉気分になれそうなつくりで、夏の夕方などは浴衣を貸してくれまして「ええご案内!!」なんて景気のいい声をかけられたものです。

おもて通りには「温泉」って書いた大きな幕が下がっていました。
階段を上って風呂に行くんですが、この辺の人はたいがいここへはいりに来ました。
私もよく参りましたが、風呂からあがると自由に休ませてはくれましたが、今のヘルスセンターの様にそこの舞台の上で余興を見せるなんてことはありませんでした。
棟続きで小さな貸席の様なことはやっていましたが、あとはぶどう棚の様なものが設けてありまして春秋の靖国神社のお祭りのときは近所の人達がそこに上って花火見物をやっていました。
まことに呑気な時代でございました。

                          ***

想像、想像。ロイホの向こうに、もっともっと素朴な建物を、温泉と書かれた幕を、浴衣で涼む人々を。
「ええご案内!!」という、威勢の良い掛け声を。

文献だけでは、やっぱり足らないこともある。地元の方のおかげで、またひとつ紅葉川流域の謎が解けました。(ありがとうございました。)

で。熱海湯がこの話と無関係かどうかは、まだわからないような気はしています(しつこいw)。
だって温泉山からここに移ってきたかもしれないので・・・やはり、熱海湯に入ってインタビュー、はしておかないと、満足しないのかもしれません。
というわけで、温泉山の謎は、もう少しだけ解けないまま。いつになるかはわからないけれど、またいつか、全貌が明らかになるその日まで。

<文献>
新宿区立図書館「神楽坂界隈の変遷」

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牛込川は二度死なぬ

「あの暗渠はいつ無くなってしまうのだろう。」

と、しばらくの間気になっていた川があります。

牛込川。
紅葉川の前哨戦として取り上げたことが本ブログでは初出です。牛込のあたりから湧き、神楽坂を横断して、神田川にそそぐもの。上流は痕跡が乏しいけれど(でもきれいなV字谷)、中~下流にとてもすてきな小径がある。

神楽坂に詳しいヤマサキさんに、まさにその”すてきな小径”のあたりにもうすぐ道路ができるはず、ということを教えてもらって以降、いつなくなってしまうのかと心配になり、神楽坂・飯田橋近辺で呑んだ時にはかならず立ち寄って確認していました。何度も何度も。
・・・でも、何度歩いてもさほど変化がなかったので、まだこれは暫く大丈夫かなと思っていました。

しかし、似たような道路計画のある紅葉川支流では、またたくまに工事が進んでいて。これはもう、牛込川も危ないだろうなあ、と。

久しぶりに確かめに行きました。すると、

Usir1

ああ、このフェンス・・・全然ちがう風景になっちゃってる。

Usir2

みごとに建物がなくなり、道路用に空間がぶち抜かれています。

これはもう、牛込川は無いかなあ・・・

Usir3

つくど公園はただの更地になっていました。
恒常的な公園ではなく、杉並で言うところの「遊び場」だったのでしょうね。

Usir4

しかし、牛込川跡はまだ残っていました!
その、新しくできる道路の横に、ちょこん、と。

正直、あきらめていたのですが。

Usir5

青空に映える川跡・・・隣にあった建物がなくなり、草原のように見えることにより、以前より河川敷っぽい雰囲気をまとっているような気さえします。

新設道路のすぐ隣で、かろうじて残っている細い暗渠みち。そういえば、池袋の谷端川境井田支流でも似たような光景を見ました。

暗渠ってああみえて、なかなか、したたか。

Usir6

あの橋のようなところも。

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あの古いマンホールも。

残ってほしかったものは、なんとか残っていて。

しかし、食事つきの寮(だっけ?ヤマサキさんに教えてもらったもの。古びたクリーム色の、とても風情のある建物だった)はなくなっていました。すなわち、この右手の更地です。

Usir8

ここから下流は同じ風景が連なります。

Usir9

もうひとつの古いマンホール。
この下水管が通っているおかげで、この道はまだ守られているということなのでしょうか。

Usir10

あれ、この石段はこんなに突き出ていたんだっけ?

(そうか、夜にばかり通るので、よく見えていなかったのだ。)

Usir11

”一列だけ駐輪場”も健在。

Usir12

ここでは発掘調査をしているようです。
牛込川流路のすぐ脇でもあります。なにか芳しい結果が、出てくるといいんですが。

Usir13

そうそう、放射道路、というのでした。
ちょうど1枚目の写真のところからはじまり、神田川のところにぶち当たって終わるんですね。

Usir14

ともかく、牛込川とは”交差”はしないようでした。

この、下流部の、橋が架かっていたところも健在でした。

さて今回の確認で、牛込川は辛うじて残っていたわけですが、この後、道路が完全に整備されたとき、下水管が付け替えられなどしたら・・・
あるいは、キレイな道路の脇で見苦しい、などと、お化粧されでもしたら・・・

牛込川は、二度死んでしまうのか。

あたらしい道路に、呑まれてしまうのか、否か。

中世の城、牛込城の濠の機能も有していた、立派な牛込川。谷端川境井田支流とともに、牛込川の今後は見守りたい気がしています。

・・・さて、ゴハン。
神楽坂でのゴハン、よく迷います。きょうは、おなかにやさしいものを食べたいなっと。

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親子丼にしました。
ふわとろ。
鶏肉も食べやすし。ライチ寒天のデザートつき。

Usir16

親子丼は鳥茶屋「別亭」で食べられる品です。
別亭は、こんなふうに神楽坂から横に逸れ、狭い階段を下って行ったところにあります。その階段の名は・・・そしてそこに絡めて書きたい小ネタが1つだけ。

この記事、もう少しだけ、続きます。

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暗渠めし la Salle サル・キッチン

東中野近くの、神田川のあげ堀のはずの、とある流れ。
なぜか昔も今もこの流れは好かれているように思います。あげ堀ながら名前が付けられていたり、ひとびとが集ったり。写真に、よく(?)撮られていたり。

小淀川の下流部であるとする人もいますが、わたしはこの流れは「神田川桐ケ谷支流(仮)」と、勝手に呼ぶことにしています。

きょうは、その桐ケ谷支流(仮)沿いにある、暗渠めしのおはなし。

Sal1

最初にここを歩いたとき、もっとも印象的だったのはやはりこの階段でした。

Sal2

暗渠じたいもとても、狭くて、鄙びていて、よかったのです。

Sal3

それから、サル・キッチンのたたずまい。桐ケ谷支流(仮)沿いにポコンと建っていて、「てづくりシフォンケーキとかありそう」な、午後にだけ開いてるカフェ、みたいな印象でした。

いつかここでケーキを食べたいなと思いつつ、やがて、それが勘違いで、ここはコースのみのフレンチレストランであることを知ります。

                         ***

最初にサル・キッチンにきたときのことは、忘れることができません。
それは、その年にしては猛烈な台風の日でした。ひどい暴風雨で、翌週行った植物園では、こんなに木が折れまくったのははじめてだ、などと、職員さんから聞きました。桐ケ谷で食べると決めていた当日の朝、あまりに強い雨風に、訪問を逡巡したほどでした。

午後になると雨が弱まってきて、でも風がびゅうびゅうと吹いていて・・・そんななか、いつものように桐ケ谷支流(仮)の暗渠をあるいて、わたしたちはサル・キッチンに行ったのです。

その日は、わたしの誕生日だったから。
決めたことを覆すのも、好きではなかったし。

きっと誰もお客さんいないだろうね、なんて言いながら。でも着いたら、隣のテーブルには老夫婦と若夫婦という家族連れがいらしてて、ちょっとびっくりしたりして。

Sal4              その日のひとしな。モロヘイヤのスープのみどり色が、とても鮮やかだった。

食べすすめるうち、その老夫婦のだんなさんも、誕生日なのだとわかりました。「あ、そちらも誕生日(なのでこんな台風の中フレンチを食べに来ているというわけ)なのですね~(微笑)」なんて、ワインを傾けあって。
帰るころには、風もだいぶおさまり、あたたかな気持ちで歩くことができました。

                        ***

また行きたいなと思っていました。
なので、また、行ってきました。やっぱり秋に。

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東中野で降り、神田川が削った斜面を下ります。

東中野からサル・キッチンへのアプローチは、きっと何通りかあるでしょう。でもやっぱり歩きたいのは、

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ここ。

桐ケ谷支流(仮)のはじまり。

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ぐるぐる巻きの電灯、健在。

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この擁壁も好き。

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暗渠に面した入口。こんなふうな狭くてステキな暗渠に「面している」お店って、なかなかないんです。
小ぢんまりとした、民家を改装したその広さも、桐ケ谷支流(仮)にフィットする良い塩梅。内装は手づくり感があって、あたたかい。接客もあたたかい。

料理は素材が活きる、質実剛健なかんじ。

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この日もっとも気に入った一皿。
皮が感動的なほどにサクッ(その1秒後にじゅわっ!)と焼かれたノドグロ、その下に茄子のペースト。フレンチで茄子とは・・・!と脱帽。

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栗のケーキでお祝い。

この日は天気も悪くなくて、帰りみち、ウーロウロしました。

近くには桐ケ谷橋の欄干が残っています。以前も、仕事帰りのよるに、桐ケ谷橋がこのへんにある、という半端な情報をもってぐるぐる探したけれど、見つからない、ということがありました(その迷っていた場所は主にサル・キッチンの真後ろの公園でしたw)。

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とつぜん、置いてあるのです。この桐ケ谷支流(仮)に架かっていたに違いないもの。
暗渠であることの証明です。・・・暗渠沿いじゃないところに置いてあるのが、ちょっとだけ残念。

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桐ケ谷支流(仮)のランドマーク的コインランドリーは、こんなふうに豹変していました。
少し前に通ったときは、工事中のようになっていたので、なくなってしまったのだと思った。コインランドリーとして残っているだけ、よいことなのかな・・・?

ひょっこり、島のようになっているところがかわいらしい。

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神田川桐ケ谷支流(仮)をさかのぼってゆけば、いつしか桃園川からの分岐点。そのままさかのぼれば、小淀川。後ろに行けば、神田川。小淀川を歩き続けても、神田川。

いかようにも暗渠をたどり続けられる、帰りみち。

”暗渠めし”、きょうはちょっと、いつもと違う感じだったかもしれません。・・・こんな日も、あります。

<関連記事>
サル・キッチンに触れた記事→ 「小淀川を追え!2」 コインランドリーの以前の姿が載っています
神田川桐ケ谷支流と日本閣の誕生秘話→ 「日本閣と、逃げ出した鯉のはなし

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和泉川湯屋マラソン

本編の前に、

・まずは、御礼。東京てくてくさんでの紅葉川イベント、無事終了しました。
 2回、しかも夜に開催したのですが、ありがたいことに満員御礼でした。雨にもぎりぎり降られず、たのしく歩くことができました。参加してくださったみなさま、スタッフの方々、どうもありがとうございました。また、資料作成に協力してくれたのゆちゃん、そしてスペシャルゲストのおやぢさんも、本当にどうもありがとうございました。記して感謝します。

・つぎに、過去記事追記のおしらせ。千葉シリーズ津田沼編に、谷津遊園の閉園前の写真を数枚追加しました。丁寧にアルバムを作り続けてくれていた、母に感謝です。

                         ***

さて、本編。

やや久しぶりに、暗渠マラソンをしてきました。・・・いつものような、酒ではないヤツで。

ある日、神田で銭湯に入ったんです。
そこはオフィスビルとマンションばかりの場所なので、どんなひとがお風呂に入りに来るのかなあと、興味津々でした。すると、そこには他の銭湯となんら変わらない、近所の方々が入っていて、皆が挨拶を交わしていて・・・ああ、こんなビル街の銭湯も、中身はむかしからのままなんだ。
と、思っていてもそういう空気の中、自分は大抵アウェイです。ところが、その神田の銭湯ではわたしにもお客さんがお風呂を出るときに「おやすみなさい」と言ってくださったんです。・・・あ、姐さん・・・!

イイ・・・、銭湯、イイ・・・(←井ノ頭五郎の声で)

そのことと、もうひとつ、そのとき考えていた「この暗渠沿いで何かしようと思ったけど、銭湯しか入ってないな。」ということが、「銭湯しか入っていない」→「銭湯にしか入らない、というツアーをやってもいいのでは」という思考になって、そのふたつが合さって、”湯屋マラソンやりたい”になったのです。

思いついて、即実行。

・自転車でサクッと行けて、手軽にだいたいを辿れるサイズの暗渠
・銭湯が数軒ある暗渠

この2つの条件を満たす暗渠は何処か・・・桃園川は”銭湯巡礼”でネチネチ行ってる最中なので除外して、と。ココに行くことにしました。

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和泉川、これまたファンの多い暗渠です。
既に多くの人が訪れ、いくつもの暗渠の記事になっていて、ツアーも複数組まれました。暗渠本でも、黒沢さんが気持ちを込めて執筆されてます。そしてえいはちさんが担当者w・・・そんなわけで、わたしは川自体の説明は今回省くことにします。

さあ、ただ何回も銭湯に入るだけのマラソンを開始するとしましょうか。企画の性格上、伴走者は求めず独りで走ることにしました。

                         ***

湯屋をハシゴするわけですから、早めに出ます。タオルや洗髪洗顔関連、銭湯グッズをかばんに詰めて。
多少、和泉川周辺を自転車でウロウロして汗をかいたら気持ちいいだろうなあと、10時に出発。今回の銭湯のチョイスは3軒、上流下流問わず、最も早くオープンするものに最初に入ることにします。

気持ちよく1軒目の銭湯に入るために、朝にシャワーなど浴びないことです。
さらに大事なポイントは、湯屋マラソンの日は、朝起きたら顔を洗わないこと。これが、良いんです。

全体的にデロデロな感じで、和泉川の谷に向かいます。

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清水橋に到着。ここから遡ることにします。

うわぁ、こんなことになっている・・・

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あああ・・・どんどんキレイにされてゆく・・・

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ここも工事する気なんだろうか?

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やっと工事の影はなくなって、のんびり立っている趣ある欄干。

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ここには以前、天龍泉という多機能系銭湯がありました。
行こうかな、今度にしようかな、などと思っているうちに廃業してしまいました。なんの面影もありません。

同様に、流路近くに玉川湯という銭湯もあったそうですが、そこも廃業。そちらは現役時を見ていないので探しにくいこともあり、今回は行きません。

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ココはわりと好きな場所。

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リヤカーも、まだある。良かった。

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もう一本の流れの狭さも好き。

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さて開店時間の12時を過ぎたころ、1軒目の観音湯に到着しました。
今回選んだ3軒のうち、唯一入ったことのある銭湯です。たしか前回も、歩き回ってドロドロになって来たような?

観音湯には微妙に露天っぽくしてあるお風呂があって、そこがぬるめでして、熱いのが苦手な自分にはとても良かったです。

ココで、顔を洗いました。うひゃー、気持ちいいいーwww

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ちなみに1つ前の写真で銭湯の左に細道がありましたが、その先はこう。
水道道路の盛土で阻まれますが、和泉川本流へとつながっていく支谷です。

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盛土の脇にはこういう雨水のみちもあって、これも集まるのかな。

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ちょっと遡ると、支流脇に飲み屋さんが数軒。暗渠飲み屋。

さて、早くもゴハン。昼ですからね。
風呂あがり、こざっぱりとした気持ちで、「俺は今、何腹なんだ・・・?」問いかけてみました。答えは、焼鳥腹でした。ちょうど、夜に焼鳥が食べたかったのに食べられなかった、という思いを引きずっていた日。
地元のちょっと古びたような店で、焼鳥丼・・・とまで都合よくなくても、チキン系の何か、とか出してる店ないかな。朝にカレーを食べてるから、カレーじゃないんだよなあ。

商店街を2往復くらいしました。己に何腹なのか問いかけすぎた結果、迷走。

ふと、目についたのがスパゲティのお店、ハシヤでした。あ、これ長年東高円寺にあったなあ。なんか懐かしいなあ。

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ふらふらと入店。
納豆とアサリのスパゲティにしました。そうそう、あくまで「スパゲティ」なんだよね。

焼鳥腹はどこへいったのか。お腹が懐かしさ込みで満たされたので、さっさか次の銭湯へ参ります。次に開店時間が早いのは、14時のココ。

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武の湯です。実は初訪。
和泉川を通るとき、嫌でも武の湯は目に飛び込んできます。朝風呂にえいはちさんが行ってたよなー、とか、自分もそのうち来たいなー、とか思っていたけど、なかなか入る機会が無かったもので。

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なんと駐車場まである。

入ると、観音湯よりかはクラシックな感じ。一番風呂に入りに来た人たちで、わりと混んでいました。中でも、別料金の”ラドン”は常時数人入っていて近寄りがたい感じでした。そんなに良いのかな・・・ラドン。

ええと、ここは2軒目であります。
さきほど、顔を洗いました。ここでは、体を洗います。ごしごしごしごし・・・

武の湯のやや下流に、さきほどの観音湯脇支流の河口があるのでした。

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ここが本流に合わさって、そしたらそこの下水道の中で、観音湯の排水と武の湯の排水が一緒になるんだよなあ。フフフ。

さて体も洗い終えて爽快なわたしは、あることを企んでいました。
武の湯の斜め向かいに、お肉屋さんがあるのです。そのお肉屋さんの店先に、焼鳥コーナーがあるのです。・・・うまいことできてるもんです。

武の湯の待合室で缶ビール(すぐ赤くなるので抑えるために発泡酒)を買って半分飲み、

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残りを持って焼鳥コーナーに向かう。

・・・と、「焼鳥は4時からです」だって・・・!!

今日の俺は、上滑りしているようだな・・・(←五郎の声で)

にしても、なんて焼鳥に翻弄される日なんだろう。

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やきとりのばかやろー!!

と思いながら、自転車で和泉川を駆け抜けます。

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お、良い橋。

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和泉川、下流部の工事で欄干が綺麗になっちゃったり、親柱が姿を消したりと変化が続きますが、この支流暗渠はなんとかギリギリ、留まっていました。両岸の風景は変わっても、蓋は健在。

さあ、次の湯屋は開店が15時なので、すぐに向かっても大丈夫です。次も、初訪問のところ。

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栄湯。今回の3軒のうち、最もキレイなビル銭湯でした。温泉らしいし。
和泉川マラソンだけど、ここは谷底じゃなくて台地上なのでした。本当は支流脇にあるっぽい第二かねき湯が候補だったのですが、かねき湯は開店が16時と遅めだったので、今回は割愛。

さきほど武の湯で体を洗ったので、タオルが濡れています。いちおう、自転車に乗りながら、首にタオルを巻いて乾かそうとしてみたのですが、たいして時間もなかったので乾きませんでした。・・・お風呂に入る前からタオルが濡れている客って、怪しくないかしら。なんて思ったけれど、別に全然気になりません(&気にされません)でしたw

満を持して洗髪。ああ、やっと洗髪。

こうやって、洗う部分を小刻みに変えていけば、数軒の銭湯に目的を持って入ることができます。

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今回の湯屋たち。
天龍泉と玉川湯にも、入ってみたかったなあ。

それにしても。
今回は「3」が丁度いい気がしたので、3軒設定して回りました。が、実は家に帰ったらここ数年で最も強い疲労を感じました。プールですごく頑張った後、みたいな疲労。4軒にした場合、次はどこを洗えばいいんだ、という疑問も出てくるでしょうが、それ以前に湯屋マラソンであまり沢山回るのはおススメしません。

風呂って、1回でイイんですよね・・・。酒マラソンみたいに「次の店!」ってあんまり積極的になれないのが、湯屋マラソンでした。とくに、2軒目から3軒目に行くときは、もう近いんだから服着なくてもいいんじゃね?みたいな投げやりな気持ちになったことをよく覚えています。
しかし、温泉旅館に行くと、「昨日と今日で7回もお風呂入っちゃったー!」なんて人もいますよね。そういうアレだと思えば、湯屋マラソンもアリ、という気もしてきます。

ナシと言えばナシで、アリと言えばアリ。という、何も言っていないおススメの仕方となりましたが、暗渠湯屋マラソン、わたしはとうぶん、やらないでしょう・・・

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紅葉川てくてく企画のおしらせ

桃園川、空川、とやってきた、東京てくてくさんでの企画。
参加してくださったみなさま、ありがとうございました。

おつぎは、紅葉川です。といってもほんの一部ですが。”暗渠から見た花街”、という切り口ですすめる予定です。

以下、企画告知文から抜粋。

新宿区は四ツ谷にある荒木町。
その稀有な出口のないスリバチ地形のため、近年注目が集まってきている場所です。
いっぽう、荒木町には元花街という側面もあり、いまも飲食店のにぎわいや、いくつかの名残の建物から往時をしのぶことができます。

実は、荒木町のこの地形と歴史を形づくったのは、紅葉川という一本の川の支流です。
紅葉川は四ツ谷近辺から飯田橋に向かって流れていた川であり、その流域にはいまでも息をのむような崖や、ふしぎな池跡や、新宿区とは思えないような独特の空気をまとった支流跡が点在しているのです。

荒木町、およびそれら川の残像が最も匂い立つのは夕刻から。
夏の夕暮れから暗闇の時間にかけて紅葉川暗渠を歩き、この界隈の地形や歴史を読み解きます。

なぜ、このような地形が生まれたのか?
その川は、どんな運命を辿ったのか?
なぜ、この窪地に花街ができたのか?
今回のてくてくでは、暗渠という切り口から花街に迫り、その妖艶な世界にみなさまをいざないたいと思います。

・・・すなわち、今回の裏テーマは「妖艶」。
わたしが新宿区で一番妖艶だと思っている支流暗渠を歩いたのち、水を湛えた大池や着物の女性を幻視しながら、ぼうっと薄暗いスリバチの底を体感していただこうかと思います。

桃園川「迷路」企画でも、空川「清涼」企画でも、当ブログには書いていない(というかこれから書こうと思っていた)ネタがたくさん盛り込まれていました。
紅葉川「妖艶」企画では・・・、一度ねちねち記事を書いてしまっただけに、どうなるか?いや、たぶん大丈夫。やはり、いつか記事にしようと思っていた隠れネタがあるので、それを記事化せず、ガイド時に使いたいと思います。

おかげさまで8月ぶんは満員御礼となりました。
実は、9月に再放送をと考えています。9月ぶんの企画は、8月1日に東京てくてくさんのサイトでいっぺんに公表されるらしいです。
というわけで、もしご興味を持っていただけるならば、今後東京てくてくさんのwebをチェックしてみてください。どうぞよろしくです!

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バスからながむ、釜寺支流(仮)

バスはたのし。
環七を通る渋谷行のバスに乗っていると、フッと窪みと暗渠みちのようなものが見えることがあって、気になっていました。

位置的にはうさぎねこさんリバーサイドさんが書いてらした「釜寺支流(仮)」ではないかとと思いつつ、でも、ほんとに「フッ」と通り過ぎるので、目の悪いわたしには本当に暗渠なのかどうかわからないまま。

ある日、代田橋からトコトコ歩いて来てみました。

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環七から見下ろしたこの眺め・・・。
早く、この向こう側に、行ってみたくなりませんか!

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上流端へ。神田川から分かれる流れのようです。

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おそらく始点はここ。旧遊び場46番、現和泉緑地の少し下流で、「べんてん橋公園」がチラと見えます。この「べんてん」は、南方にある和泉の弁天池と弁天社に因むものでしょうかね。

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広めの道だけれど、横に見える段差が水路感出してきます。
昭和40年代の地図では、北から交差してくる水路のようなものも見られます。

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少し行くと、古めの家が数軒並んでいて、解体待ちのようでした。マンションでも建てられるのでしょうか、なりゆきはよくわかりません。

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もっとも下流側の家の玄関のドアに、置手紙がかけられていました。
直筆の、おそらく40代くらいの女性のものではないかと思われる、しっかりとした字で、清掃業者さんへのお礼が書いてありました。毎日ありがとうございます、直接お礼は言えないけれど、と・・・
この手紙の主はどんな気持ちでこれを書いたのか、いま何処で何をしているのか、歩きながらも考えてしまいます。

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遊び場73番の斜向かいには、こんな風に北から合流してくる水路っぽい道もありました。

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そのさき、蛇行が激しくなります。この曲りぶり・・・ここは神田川の旧流路だったでしょうか。

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その先、ちょっと気になる場所。まるで水車場のような島のような場所をのこして、左に行く道と右へ行く道があります。

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といっても、左に行く道は、数軒の民家へのアプローチになっている程度です。あまり用途が無い道、そしてみごとな崖下です。
さて、右と左、どっちが流路だったのでしょうか?

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答えは昭和38年のgooの航空写真にありました。釜寺支流(仮)は、立派なハシゴ式開渠として写っています。崖下には既に家が数軒建っています。崖下の細道がどうなっているかはよく見えませんが、本流は右の道のようです(しかも思ったより右側を流れています)。
このような違和感の残る場所は概して何かあるので、以前は沼であったとか、きっと何かあるはずなのですが・・・。

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立派な崖が続きます。

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興奮の連続です・・・奥にアレが見えてきましたよ!

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コンクリ蓋の部、開始です。

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きちんと整列してます。
両脇の柵や花壇といい、

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この背筋をピッと伸ばした車止めといい、なんだかキッチリとしています。

それにしてもこの車止め、長い・・・。

どんくらい長いかっていうと、

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こんくらい長い。
・・・縦に撮ってはみたものの、崖の長さが強調される結果となってしまいました。


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あら、その先はちょっと乱れます。お化粧前?

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環七との交差地点がここです。
冒頭の写真を、反対側から撮ったもの。

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あまりおススメはできないけど、環七からツギハギ階段を下りてこられます。

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環七を渡ると、崖はまだ続くけれど、暗渠感はめっきり乏しくなります。

ちなみに今まで見上げてきたこの崖の上は、通称「峯台地」というようです。やや北にあったとされる峰弁天湯は、この台地の名と関係するのでしょうか。

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通称釜寺、東運寺。この少し下流で神田川と合流するようです。ここら辺の道は前掲の航空写真の頃から既に真っ直ぐすぎるので、早々に改修されたのかもしれません。

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今回の行程です。峯台地のキワを通っている、神田川の分流でした。

さて、ごはん。冒頭の写真のすぐ横に実に昭和ですてきなお店が並んでいるのです。中華屋さんは閉まっていたので、お隣の大衆食堂に入ろうとしました。

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井月。渋いですねぃ。
定食類が色々あるうえ、カウンター上のおかず小皿をいろいろ選べるようで、たまりません。・・・しかし、このときは連れがビールを飲むと決めていたようで、残念、このお店にはアルコールがないのです・・・断腸の思いでこの雰囲気の良い店を後にしました。

こんどは一人のときに再訪。

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サバの塩焼き定食。お味噌汁はシジミにして。
白飯、味噌汁、焼魚、大根おろし、おしんこ、ミニ冷奴がトン、トン、トン、トンとやってきて、最後に目玉焼きが登場しました。ご飯足りるかな、っていうタイプの嬉しい気持ちになります。

さらに、おばさまがサービスで、目の前のトレーに盛られた出来立ての筍の煮物を下さったのです(ぼさぼさの髪に化粧もせず、愛想も良くなく黙々と飯を喰らうわたしに対して)!「これ、おいしいよ~」って。ウンウン、それ、おいしそうだなって思ってました!そしてホントにおいしいですぅ~!

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それからそれから、テーブルに置かれたコレ。この手作り感とか、雰囲気とか・・・井月にはしみいる優しさがありました。

さきほど食べログをみたら、「閉店」マークがついていました(それ以外は情報なし)。何かの間違いだといいんですが。

さて、釜寺支流(仮)にも再訪します。

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すると、こんな謎の空間がありました。シュロ?ソテツの下に小さな鳥居。

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ちょっと意味が分かりません・・・すごい手作り感。これは、この木を祀っているってことなんでしょうか、それとも立体的立小便禁止マークなんでしょうか?誰か知ってたら教えてくださいww

<後日追記>
Twitterで寄せていただいたご意見がおもしろかったので追記します。

・ロマン→小人さん用鳥居
・小便禁止(ヒト用または犬用)
・不当投棄のごみよけ
・湧水点の名残
・小さな招ぎ代
・この鳥居をくぐると東伏見駅に着く/ワープ地点

ご意見下さったみなさま、ありがとうございました!

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