神田川茗荷谷支流(仮)の底力
暗渠を辿ることも新規に書くこともできない日々が、ここ数か月続いていました。
忙しいのは良いこと、かもしれないけど、そう思っていてもやっていられないくらいの。
世の中は連休、というときに茗荷谷で仕事がありました。ほんとうは別な仕事の原稿のために早く帰らなければならなかったのだけれど、3連休がすべて仕事でつぶれるのが悔しくて、せめて、暗渠を通って帰りたくなって。
もう日は落ちていたものの、飲み会に移行するみなさんを横目に、「コッチから帰ります!」と、駅ではない方向の、谷へと向かいます。
このへんの谷といえば、あそこ。以前、ミョウガの谷を歩く、というタイトルで、つたない記事を書いたことがあります。なんとなく好きな、気軽に辿れる、駅裏暗渠さんでした。
史料に乏しく、近辺の小学校の記念誌に「川があった」と載っている、程度の情報量でした。今回、大して史料が増えたわけではありません。けれど、かの地の「底力」を見せつけられたので、とにかく書きたくなったのです。
***
駅のすぐそばから谷は始まります。
少しゆくと、「アユタヤ」と呼んでいる場所の前に猫がいて、目が合って、、なんとこちらに突進してくるではありませんか。
「うわ、襲われる・・・」 猫は大好きですが、この突進ぶりはなんだろう怖いぞ。猫パンチでもされるのか・・・と思っていたら、そのままドシーン!とわたしの脚にぶつかって、激しくスリスリしてくるのでした。
ひとしきり撫でまわしじゃれ合って、やっと落ち着いてすましているところ。かわいいねえ、あなた。
東京時層地図をキャプチャ
猫に襲われた場所は、だいたいこのへんです。
これは、良い夜になるぞ。そう思いながら下っていくと、藤寺(伝明寺)のところで、
歩道に水がじょぼじょぼとはみ出している。
ここってこんなに湧水あったっけ?奥の水抜きパイプから、水音までしています。こんなに湧いているのだったら、わたしはきっと興奮して以前の記事にも書いたはず。だから、今回は余程水量があるのでしょう。・・・さすが、「清水谷」と言われるところ。
明るいときに見に来たいな・・・
と、地図を見ると、あれ、思ってたのと流路が違う・・・
茗荷谷支流(仮)は、時層地図を持つ前に訪れていたのです。それで、わたしは目の前に続く崖下の「道」を流路だと思っていたのでした。しかし本当の流路はどうやら道ではなかったようです。
カッコイイなあと思いながら通っていたここは、既に川跡ではなかった模様。
では本当の川筋は何処か。現在はほぼ、「小石川車両区」に飲み込まれているのでした。
しかし、車両基地の少し下流では道のようなものが存在し、覗けるようです。
あわわわ、そんなところに。・・・行ってみます。
ある・・・明らかに暗渠が。
けれど真っ暗で入りにくいのです。数歩進んでみて、建物の入口が開いていることや、電灯がまったくないことから、身の危険を感じこの日は断念しました。暗がりで感じただけでも、かなり上物暗渠である気配はしました。
湧水のあたりから、じわじわ再訪したいと思いだしていたわたし。この場所との遭遇で、日を改めていくことに決めました。
こんどは昼間に。
アユタヤ前にきます。この日はスリスリ猫はいなかった。残念。
かわりに、お寺に上ってみました。滝澤馬琴の墓があるということで有名なこの深光寺、よく見てみると、なんと「清水山」でした。嗚呼・・・
清水山の向かいには、茗荷畑があったのです。あれ、ちょっと前まで生えてたのに刈り取られている・・・
この地の由来として「江戸時代、茗荷畑が多かったから」というものがあり、それに因んで植えられたものだろうとは思うのですが。また生えるかな?そういえば茗荷の季節、これからですね。
茗荷畑のおとなり、拓殖大学は工事中。
前掲の地図にあるように、拓殖大の敷地にはむかし大きな池がありました。
それともうひとつ、お隣にも大きめの池が並んでいます。そしてその池を含め、谷戸が西に分岐しています。そういえばわたしはこの茗荷谷支流(仮)は、本流を下るばかりでこの孫支流について確かめてこなかったように思います。
折角だから、この谷戸にもなにかないか見てくるか・・・
文明開化期の地図では、この谷にも水路が描かれています。参照しながら水路ともっとも近い道を歩いてみると、そこは標高が高めでした。どうも水路は道にはならなかったようです。
この崖下に池があるのでしょう。古びた、良い柵。
だいぶ高低差が出てきました。拓殖大の裏にあたります。コンパクトな、くっきりとした谷。中に建ち並ぶのは、素朴な住宅地です。谷を探すのでなければ、ここに来ることはきっとなかったでしょう。
こんな都会のはざまに・・・と受ける印象は、麻布の裏にある宮村の窪地や、白金台から池田山に下りるあの谷筋に、よく似ているように思いました。
スリバチ最深部に、たしかに暗渠がありました。
明治期の地図ではもう少し奥から流れが来るように見えますが、今追えるのはここからです。
苔むした良い蓋・・・小躍りするような良い暗渠でした(もちろん小躍りしました)。
細い流れですが、たしかに一筋、谷の出口に向かって流れています。
明治の中ごろまでは、水田があったようです。前述の池は、お屋敷の中のようでした。弁財天を記す地図もあります。そして、江戸期の絵図をみるとこの谷に「茗荷谷」と書いてあります。
(後でググってみたら、ここの蓋暗渠は谷戸ラブさんがさらりと書いていらっしゃいましたwさすがw)
ただの側溝に見えそうなのですが、この年季と雰囲気で、下流側から遡ったとしても気づけるかもしれない。
最後は、こんなふうにガタついて。
クキッと曲がり、本流に向かいます。お、角っこに暗渠カフェ。生憎昼前の時間でした・・・いつかあそこで食べてみよう、2つの流れのことを思い描きながら。
おきまりの「地下鉄くぐり」。茗荷谷支流(仮)の名所のひとつだと思います。なにしろ「地下鉄」を「くぐる」くらいの谷なのですから。
さてさて、湧水ゾーンに来ました。お待ちかね。
昼の景色は・・・
コリャ湧くよ・・・
工事用のフェンスに囲まれた空間は、ほぼ湿地でした。墓地からパイプが突き出ていてその湿地にじょろじょろと流れ込み、そして道路にまで溢れているのでした。
そのパイプの元にも、行ってみたくなるというもの。
お墓のすき間からも湧いてました・・・あちこちで湧いては溜まって。
この付近は一帯が湿地であったこと、この寺には清水が湧きだしていたこと。伝承どおりであり、現在も、水たちはたゆまず湧いています。
季節によるのでしょうか。いまが多いのでしょうか。最初に記事にしたときと、実はあまり季節が変わりません(冬)。
こういうところに蛙がつどいそうな気がします。そういえばさきほどの深光寺前の道、江戸~明治に「蛙坂」と呼ばれていました。蛙がつどう風景は、この谷一帯にひろがっていたのかもしれません。
水抜きのパレードがゆくよ。
以前は今きた道=流路と思い込んでいたわけですが、川はこの車両基地の中央にあったようなので、きょうはトンネルの反対側に行きます。なにかないかな、と。
すると、トンネルの中でも湧いていました・・・
明治~昭和とあった大きな池が、やはり車両基地に飲み込まれ跡形もなくなっています。この場所はその池よりもやや北ではありますが、湧水池の記憶を示すもののようでもあり。明治の初期には、この谷には水田と小川、そしてぽつぽつと池がいくつもあったのでした。
反対側の道に来たからといって特筆すべきものもありませんでしたが・・・豪快な坂を下れたことくらいでしょうか。激しい高低差を味わうことができました。
さていよいよ、あの真っ暗だった場所へ!
入口はここです。
数歩入れば、
異な空間でした。
夏は草たちが通せんぼするのかもしれません。たいへんに暗渠らしい、よい侘びっぷりです。よくぞ残してくださいました・・・
神田上水の道を渡って下流側へいくと、材木屋さんに、
細い道に立派めマンホール、
そして謎池。という、暗渠サインのオンパレードでした。
神田川に注ぎますが、正しい流路の方には合流口はないようです。小桜橋の下に大きめの合流口があるので、付け替えられたのかもしれません。
さて、ゴハン(うーんコレひさしぶりw)。
暗渠沿いというわけにはいかなかった(上流部の喫茶以外店なし)ので、「やぶ宗」にはいり、
まずは天抜きでいっぺえ。
あらら、美しく結ばれた三つ葉に上品なカマボコ。柚子の香り・・・おいしいかも、ここ。
しめはせいろで。
ズズーッ。ごちそうさま!
サービスも気持ちよく(実は正月休み中だったのですが、「お年玉」と書かれたサービス券の入った袋をくださいました)、手の込んだ清々しいお店でした。
今回の行程です。
緑点線が神田川茗荷谷支流(仮)のラインです。時層地図のおかげで、できた発見でした。感謝と、ちょっとだけくやしい気持ちと。
谷底や合流口など、一度はその気にさせられてしまったわけでしたが、あぶないあぶない。わたしが「これ」と思い込んでいる流路、まだまだハズレがあるかもしれないな・・・
支流の蓋暗渠、今なお湧く水、猫に蛙(蛙は想像)、最高の下流部・・・新たに見せつけられた底力。今度は怖いもの見たさに、夏に行ってしまうかもしれません。
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