しあわせをほじくる。
幸せとは何かを穿りかえすと。
 幸せとは、遠くに不幸があることではないか。

 残念ながら、幸福も不幸も相対的なものなので、誰かと比較しないことにはあり得ない。
 ゼロサムゲーム(誰かの損が誰かの得になる)として幸不幸はある。。

 このゼロサムゲームを回避するには、人と違う価値観を持つことだ。
 いい車に乗る価値観が支配的な 中、歩くのって健康でステキ。と思っていれば車に乗れない不幸はない。
 宗教はそういう役割を果たす。もしくはそこの目くらましとして使われる。

 だがしかし、限界がある。

 金とは「具現化した信用」といえる。(誰の言葉か知らぬ)
 そんな概念だから、金を集めた奴が強いのは当たり前だ。金で出来ない事は殆どない。
 価値観を多様化させたところで、その価値は大抵が金で解決できてしまう。
 むしろ、襲い来る不幸を回避するには、金がどうしても必要になってしまう。

 日本は高度成長期のころ、不幸を外部化することにある程度成功していたんじゃないかと思う。
 不幸なのは他国、不幸なのは遠い所。

 今のアメリカは不幸を移民に押し付けている。中国は農村部に押し付けている。さらに外に不幸を広げる。

 日本は未来へパスし続けた結果、若年層に不幸を押し付けている。(もちろん海外にも広げている)

 自分は、自分に近しい人は幸福な方が良いと思って居るが、多くの人にとってどうやらこの近しさは実際の距離とは異なって心の距離の問題だったらしい。
 中国の都市部の人と話していると、農村部の人のことを同じ人間だとは思って居ないような口ぶりを聞くことがある。
 アメリカ人が、アメリカ人を語るとき、移民は数えていないように見える時がある。
 ウォール街のデモを見下ろした金融屋たちは、デモをする人たちを同じ労働者とは思っては居なかっただろう。

 日本もそうなってる。
 世代間の断絶もそうだし、地方と都市部もそう。職種、業種が異なれば、その痛みは自分の事としては感じない。

 自分自身、遠くへの不幸のアウトソーシングはある程度は必要悪だと思って許容している。
 アウトソーシングされた側はシャレにならんのもわかっている。富を公平に分けたら誰もが飢える状況なのだから。

 この問題に答えは無いが、幸せに生きてる奴は、なんらかの人の犠牲によってそれが成り立っている事に自覚的であるべきだろう。
 ウォール街で、デモを見下ろす金融屋の笑顔は、この上なく醜悪だった。


 かなり前に仕事のネタ用にほじくってた文章が、発掘されたので「てにをは」直して、最近の事例入れて掲載。
 この辺のネタは、ジョジョとかが20年ぐらい「幸せとは何ぞや」をやってる(テーマは違うけど隣接(悪とは?正義とは?勇気とは?))ので、角度違いを4個ぐらい用意しておけば普遍性はあるとは思うんだけど。
 なかなか、使い勝手の良い状態にしておけない。

2011/11/02(水) 07:44:12| 固定リンク|日記| トラックバック:0 | このエントリーを含むはてなブックマーク|
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