ハアレツに発表されたエルサレム賞での村上春樹スピーチ(原稿なのか書き起こしかは不明)です。
彼の署名記事です。
原文は http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html
常に卵の側に
今日私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つき(spinner of lies)としてやってきました。
もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。
どうしてこんな事がまかり通っているかって?
答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。
しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。
そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。
もちろんこれには理由があります。ガザを怒りでみたした激しい戦いです。国連によると1000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。
受賞の報せから何回自問した事でしょうか。こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。もちろんそんな印象は与えたくありません。私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。
でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。
そういうわけでここにいます。ここに近寄らないよりは、来る事にしました。自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。
政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。
しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのはそれぞれの書き手にまかされています。私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。
にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。
「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」
ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?
この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。爆破犯(bomber)と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。これが暗喩の意味するところのひとつです。
しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在(soul)です。私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。壁には名前があります。それはシステム(The System)です。システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。
私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。
昨年私の父は90才でなくなりました。彼は元教師でたまにお坊さんとして働いていました。彼は大学院にいた時、徴兵され中国に送られました。戦後生まれの子供として、父が朝食前に長く深い祈りを仏壇の前で捧げていたのを目にしましたものです。ある時、私がどうしてお祈りをするのかたずねたところ戦争で死んだ人々のために祈っていると答えてくれました。
味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。仏壇の前で正座する彼の背中をながめると、父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。
父は亡くなり彼の記憶も共に消え、それを私が知る事はありません。しかし父に潜んでいた死の存在感は今も私の記憶に残っています。それは父から引き出せた数少ない事のひとつであり、もっとも大切な事のひとつであります。
今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。
ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実態ある生きる存在です。システムにはそんなものはありません。システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。システムがひとり歩きするのを許してはいけません。システムが私たちを作ったのではないです。私たちがシステムを作ったのです。
私が言いたいのは以上です。
エルサレム賞をいただき、感謝しています。世界の多くの地域で私の本が読まれた事にも感謝しています。今日みなさんにお話できる機会を頂いて、うれしく思います。
追記:
いろいろ助言頂いたので、独立してノート( http://anond.hatelabo.jp/20090218122627 )を作りました。訂正や履歴についてはそちらに記述します。
一度、学会発表で外に出て発表するまでは、「研究を認めてくれる人って多少なりいるだろう」と思っていた。
せめて、「こんなことをやっている人もいるんだー」くらいのレベルでもいいから、理解してくれる人っているんだろうと思っていた。
けれど、それは完全な勘違いであることに、外に出てから気づいた。
感想を聞いてみた結果、「そういう研究って嫌いだ」という人がほとんど全員だった。
当然、そういう研究なものだから、後輩もあんまり続けたくないらしい。
最近は、正直なことをいうと俺だってこの研究を続けて意味のあるものなのかと聞かれると答えられない。
出てきても、「心の中で押し込む」ことによって無理やり心の中に押し込めてきた。
けれど、一度この悩みを外に出してしまうと一気にその感情が出てきちゃうんだろうな。
正直な事を言うと、やっていく自信はない。
だって、やってもやっても評価されないんだぜ?
この前の土曜からそんなことを考えている。その日、オタ友達と二人で居酒屋で飲んでいた。
彼は『バクマン』と『少女ファイト』が王道的少年漫画でありながら何故現代性を帯びているのかについて喋っていた。
曰く、「『少女ファイト』は明確なライバルを作らない。キャラクターが対峙するのは常に己のトラウマとコンプレックス。
敵を個人の内部に置くことが現代性を生んでいる。対して、バクマンは明確なライバルは存在するが
主人公たちの漫画論や薀蓄が読者と擬似コミュニケーションをし、触発された読者は自らも漫画論を語りだす。
非常にブログ的な漫画。漫画キャラにトラックバックを送ることで読者たちのコミュニケーションも活発になり、盛り上がる」。
内容の是非はともかくとして、僕は彼の話を聞くのが好きだ。そして、話題はニコニコ動画になった。
彼は「実況動画」にハマッていると教えてくれた。
ゲームをやりながらプレイヤーのトークするというもので、要するにゲームセンターCXらしい。
自分はニコニコ動画を全く見ないので何が面白いのか教えてくれと言うと
その中でも他人の作ったRPGツクールをやってみた、という企画シリーズが好きらしい。
彼の説明によると中古ソフト屋で買ってきたスーファミのRPGツクールから、
中のデータが残っているのを探して、以前の所有者が作ったRPGをプレイしてみる、という企画らしい。
友人はその動画について語りだすととたんに熱くなり、ほとんど理性をなくして語り始めた。
「こんなすごいものはない!」「これほど感動する企画は見たことない!」とか、とにかくすごい、すごいと連呼する。
「ある年代のオタクが確かに過ごした青春の一ページを垣間見せる上質のドキュメンタリーだ!」
「誰にも知られず消え去るはずだった個人の歴史を保存する文化的事業だ!」「民俗学だよ!」
などとまくし立てていた。冷静さを失っている彼の言葉にはまるで興味が湧かず、半ば呆れて聞き流していた。
すごい、すごいと言うだけの彼は次第に感極まり目に涙を溜め、頬を伝い始めた。
理性を失った彼を見て、呆れ果てるはずが、僕の頭の中でまるでニコニコ動画のコメントのようにある言葉が横切ったんだ。
それはウォン・カーワァイの映画『恋する惑星』について語ったタランティーノの言葉だった。
「僕は自分が泣いているのに気づいた。それは、こんなにも僕がこの映画を愛してるってことが嬉しすぎて、泣いたんだ」
それはいつまでも消えなかった。頭の中を通り過ぎて彼方に消え去るはずが、ぐるぐるとループし始めた。
いつしか泣くほどまでに愛せるものが存在する彼が心底羨ましくなっていた。
そして、そんなものを何一つ持っていない自分にたまらない劣等感を覚えたんだ。
次の日、彼からのメールでその動画がリストになっているURLが送られてきた。
職場における人間関係と個人間のそれを分けて考えられない人間がいるのが信じられない。
選んだ職場が悪かったのか。
事前に分かるわけがない、職場に非モテだか非コミュをこじらせてる人がいるなんて。
ほぼ解決した記念に増田で吐き出していこう。
貴方に理解を示しているわけじゃないんです。
貴方に好意を持っているわけじゃないんです。
仕事だから私は役目を果たしているだけなんです。
定時後や飲み会の席で態度を変えなかったのは、たまたま駅や街で居合わせた時に態度を変えなかったのは、同じ会社の人間として接しているからです。
私個人として接しているわけではないというのが何故分かってもらえなかったのでしょうか。
仕事を離れたら即個人間の付き合いなどと、もしかして思っていたのでしょうか。
好きな人、仲のいい人とだけ関わっていればいい学生ではないんです。
社会人として当然のコミュニケーションでしかないのが分かりませんか?
貴方を特別扱いしているわけではないのが分かりませんか?
食事や飲みに誘われて応じたこともないはずです。
別に嫌いというわけではなかったから人前ではっきりと断って相手に恥を掻かせるのも気が引けたし、そんなことをすると自分が加害者のように扱われそうだから。
それによって職場で周囲に与える印象や影響も考えられませんか。
それを避けるためにやんわり断ったりして拒否反応を示して見せていたというのに。
私はこの仕事をまだ続けたいのに。
何故社会人としての人付き合いというものを理解できませんか。
何故普通の話をしているのに恋愛方向へ持っていこうとしますか。
何故そんなに必死ですか。
何故聞いてもいない「ダメな自分」の話を聞かせようとしますか。
何故相手の気持ちや意思を汲み取れず、自分の都合で話しますか。
何故拒絶サインを読み取れないどころか、都合よく曲解しますか。
何故そんなに引き際を弁えていないのですか。
ようやく私にそのつもりがないと分かってもらえたかと思ったら、今度は被害者の立場をとって八方美人呼ばわり。
本当はちやほやされて嬉しかったんじゃないのか、調子に乗ってたんじゃないのか、というのは呆れました。
どこまで幼稚なんでしょうか。
相談した先輩と、仲裁に入ってくれた上司がそういうことを言う人でなくて本当によかったです。
上司に間に入ってもらって話をつけようとした時の貴方の驚いた顔、戸惑った様子。
それを見て改めて思いました。
貴方はやはりこれを「私と貴方のプライベートな問題」だと認識していたのだと。
公私混同の意味を理解できていないのはどちらなのか、あの様子からすると理解などしていないのでしょうね。
上司の手前もありましたし、貴方を最後の一線で信じることにして手打ちとしました。
話すまでもないようなことだと思うのですが、私の考えは全て話しました。
職務中である限り、私の貴方に対する態度は今までと変わりないでしょう。
「今までと変わりない態度」、その意味を理解してくれていることを祈ります。
容姿や経済的な有利は確かに第一印象にはいい方向に働くと思います。
好意を持ってくれるハードルが下がるのかもしれません。
でも、一番重要なのは相手の反応を見ながら適度な距離感をつかめる人であること。
キャッチボールをする意思があり、適度なボールを投げてくれる人であること。
決して自分の距離感だけでボールを投げ始めたり、一方的にボールを投げ続けたり、受け取れないようなボールを投げる人ではありません。
単純に自分の存在を肯定してくれる相手が欲しいのなら、それができない自分を見つめなおすか、それができないならばどうぞ犬や猫を飼って存分に愛でていてください。
http://anond.hatelabo.jp/20090215151350
返答やコメントいただいた方ありがとうございます。何が言いたいかもわかっていない人間の書いた記事に反応を頂けると思っていなかったのでとてもうれしいです。返答をいただけたことで、少し私が言いたいことがわかってきたように思うので続きを書きます。
中川大臣の話が出てきたのでそれをもとに話します。トラックバックをくださった方が、中川大臣についてコメントしている人すべて無意味とおっしゃられていましたが、私にとっては違います。私にとってはコメンテーターにはいい人と悪い人がいるのです。そして、私がまさにその悪い方だという認識が、私の「恥ずかしさ」につながっているのです。
どういうことかというと、自分の中では「中川大臣の飲酒疑惑」というニュースに対して、自分の言葉でしゃべっている人といない人がいるのです。どのチャンネルを見ても、自分の言葉でしゃべらない人のコメントは、ただ与えられた情報をオウム返しにしているだけで、何の情報も増えません。。的外れでないかわりに、別にそのチャンネルでなくても、その人がいなくても別の人が言うだろう、というコメントしかしません。こういう人はいつもそうなのです。一人もいないとそれはそれで困りますが、こういう人の割合が多い番組はとてもつまらない。ただ一つのニュースを引き延ばしているだけです。こういう人が自分にとって悪いコメンテーターです。
逆に、テリー伊藤さんのような人は、たいてい言うことが的外れで時代錯誤的だとは思うのですが、おっ、と思わされるところがあります。少なくとも、自分の言葉でしゃべっている。場を動かしている。周りに、彼に遠慮せずに反論できるような人さえいれば、番組は面白くなるんじゃないかと思うんです。なかなかうまくいかないようですが、少なくとも彼が番組にいることにはよかれあしかれ意味はある。それが自分にとってはよいコメンテーターです。そして、私は私を悪いコメンテーターだと思います。
実際に書いてみて、私は自分のことだったらなんとか書けるんだということを知りました。それを知ってもやはり長文ブログを読んでる時の恥ずかしさは消えませんでした。だから、自分で何か書けないことが原因ではないようないがします。たぶん、他の人が書いた文章を読んで、それを自分と関連付けて、自分の言葉で何かを語ることができないのです。だから反応や挨拶しかできない。私が読み手であることが、筆者様に何の意味もないということに、少しさびしさというかや、自分のふがいなさを恥じる気持があるのです。自意識過剰かも知れませんが、この他人の心に反応できないにぶさというか、他人の文章を自分の中にうまく取り入れられない心の狭さのようなものが恥ずかしさの原因ではないかと思います。大変長文になってしまい申し訳ありませんが、これを今の時点での回答とさせていただきます。
http://anond.hatelabo.jp/20090215141559
これを読んで、何だかなあ…と思ったけど、同時に多くの人が誤解していそうな部分だとも思ったので。
ツッコミどころだらけだけど、片っ端からやってると多分訳が分からなくなるので、
まずは、良くありそうな誤解から行こう。
総合学習は即刻廃止。うちの学校では「一輪車の乗り方」を教わったわけだけども、人生においてまったく何の役にも立っていない。
こういうクレームあるよね~。
「算数の公式なんてつかわねえよ!」とか「理科の知識なんて役に立たない!」とかも実はこれと同じだ。
だけど、例えば理科で石の勉強とかするのも、実は石の種類の名前覚えるのが重要なんじゃないんだ。
いや、「理科の知識」の習得も重要だよ?でも、そこにはもう一つ、隠された使命がある。
学習指導要領を元に見てみよう。
小学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正)-第2章:各教科-第4節:理科-文部科学省
…文字多い?読みたくない?
全くだね。そこで、まずは「目標」の部分だけ見てくれるかな。例えば、岩石についてやる6年生ならこんな感じだ。
(1) 生物の体のつくりと働き及び生物と環境とを関係付けながら調べ,見いだした問題を多面的に追究する活動を通して,生命を尊重する態度を育てるとともに,生物の体の働き及び生物と環境とのかかわりについての見方や考え方を養う。
(2) 水溶液,物の燃焼,電磁石の変化や働きをその要因と関係付けながら調べ,見いだした問題を多面的に追究したりものづくりをしたりする活動を通して,物の性質や働きについての見方や考え方を養う。
(3) 土地のつくりと変化の様子を自然災害などと関係付けながら調べ,見いだした問題を多面的に追究する活動を通して,土地のつくりと変化のきまりについての見方や考え方を養う。
さあ、キーワードは何だろう?
そうだね、「見いだした問題を多面的に追究する活動」「見方や考え方を養う」辺りがキーになりそうだ。
「自然の事物・現象について感じる」「問題解決能力を獲得する」「科学的な見方や考え方ができる」
知識はその一部でしかない。むしろ岩石を観察して、そのデータを元に系統別に分類したり、
その過程で生じた疑問に対し、調査したり理論的に考えられる事が重要だ。
一輪車だって同じだ。
体力というのは大雑把に「筋力」「持久力」「調整力」に分けられる。
このうち「調整力」という言葉は耳慣れないと思うけど、これは「出力調整の能力」つまり「体を上手に使う能力」だ。
調整力はさらに平衡性(バランス感覚)、柔軟性(体の柔らかさ)、敏捷性(運動速度変更の正確さ、すばやさ)、巧緻性(動作の巧みさ)
に分けられる。
もう分かったよね。一輪車や竹馬は、なにも大道芸人に仕立てるために練習していたんじゃない。
じつは平衡性強化訓練だったわけだ。
体育とは別の、もっと複数の教科横断的な目的があってやっているはずだけど、そこまでは分からないや。
研究授業とかの一環だった可能性なんかがあるかな。
あ、意外と知られてないけど、学校って研究機関的な側面もあったりするんだぜ?
勉強として知識を詰め込むだけが目的なら、学校での勉強はとんでもなく無駄だらけだ。
だけど「勉強」は学校に課せられたミッションの一部でしかない。
「集団での共同生活の基本」だとか「心身や情緒の育成」だとか、まあそういうことも考えてるのよ。と。
だから、「数字を覚える歴史」じゃなくて、もっと教え方考えなきゃな。
長文ブログが大好きです。長文一口にいっても、お勉強ブログや情報だけみたいなのは苦手です。人の考えを読むのが好きです。自分自身があまりにも無知というか、空っぽなので、2ちゃんのような一行コメントのような世界では全く何も感じることができませんが、長文ブログで、きちんと価値観やら考え方が語られているものを読むたびに、ワクワクします。
一方で恥ずかしく思うことがあります。自分は読んでるだけで、それに対して何かを返すことができません。せいぜいはてなスターをつけることくらいです。はてなでは、よくはてブやコメントなどで、反論や疑問が読者の方から書かれていることがあります。上で書いた理由から、ほとんどは何を言いたいのかわかりませんが(書き手に何かを伝えるつもりで書いているのか、自分が何かいいたかっただけなのか疑問です)、それでも、読者の方には、何かしら自分の中でおもうところがあるようです。話を聞くだけでなく、それに対して、ちゃんと自分の意見を書けるのです。それが出来ない自分がなんだか気恥しくなるのです。何か書こうと思ったこともありますし、書いてみたこともありますが、そもそも書こうと思うことが頭に浮かばないので、挨拶くらいしか書けません。こういうことが原因かどうかはわかりませんが、とにかく長文ブログを見ていると、いつも楽しさとともに、恥ずかしさを感じてしまうのです。
寝られないので、ここに書くことにします。
「今、Bの家にCと一緒に来てるんだけど、何してるかわかる?」
って言うので、「え、何してるの?」ときくと、
わたしのブログをみんなで見てると言うんです。
それで、なんかクスクス笑ってる気配がしました。
べつに笑うような内容じゃないのに。真面目な日記です。
わたしがブログを始めたのは知ってたけど、
こんなこと書いてるとは知らなかったって言うんです。
それで、茶化したみたいに笑うんです。
ちょっと傷ついたし、むかつきました。だから、
気に入らないんなら、読まないでって言ったんです。
Aは、べつにそんなこと思ってない、と言いながら、
でもやっぱり馬鹿にしてるみたいでした。
それで、こんなことを言うんです。
何か調べようとしてるときなんかに、検索でそんなのが
ひっかかってくると、チッと舌打ちしちゃうよ」
「そういうのをクリックして読まなきゃいいだけでしょ」
「でも、内容知らずに読んじゃって、あー、時間損したって
思うんだよね。ほんと、そんなブログって迷惑」
なんだか、悲しくなりました。
ブログ書いてるとか言わなきゃよかった。
そんなに陰険なことをするような友達じゃないと思ってた。
どうせ他愛もないことしか書いてないブログだけど、
暗にゴミって言われたみたいで、、、
しかも、迷惑って、、、
なんかもう、これから書いていく気力が萎えてしまいました。
うつ病に代表されるメンヘルそのものは現代社会が生み出した病気であり、
これは怠慢でも何でもなくうつ病の症状なのだ。
私も短期間であるがうつ病を患った身なので痛いほど気持ちは理解できる。
それでも大半の者は決死の覚悟で起き上がり、電車に揺られて会社へ行く。
生きるために、飯を食うために、決死の覚悟で布団から出るのだ。
「決死の覚悟」と書いたのは大袈裟な表現では無い。
事実、その布団へ戻れない者がいるのだ。
ある者は高層ビルから身を投げ
ある者は縄に首をかけ
ある者は電車に飛び込む
健常者は人生にもがいて、それでもどうにもならない状況に追い込まれたとき、将来に絶望し、死を選ぶ。
うつ病患者は、ぼんやりとした意識の中で、脳内に存在する得体のしれない何かに襲われ、ぼんやりと死を選ぶ。
うつ病とはそういうものなのだ。
何か得体のしれないもの、それも自分の脳内にある何かに、ぼんやりと、殺される。
ここから私は怒りを表明する。
大勢の人がブログを書くようになった。
私が許せないのは、精神的な病を患っている事を宣伝し、自らのブログに衆目を集めようとする輩だ。
「私は基地外だ」
「幸福そうな奴らを見ると発作を起こす」
「傷付けてやる 私は病気だから仕方が無い」
彼らはネット社会において自らの存在を大きく見せたいがためにうつ病をアピールし、病を根拠に他人を傷つける事を正統化し、自らを「うつ病患者」として売り出す。
うつ病とは本来、他者を傷つけようとする性質のものではない。大多数の患者は病である事を隠し、戦っている。時には治療薬に頼り、時には家族の庇護を受けながらも、病気を治すために、「決死の覚悟」で戦っている。
私は、以前の私、そう、うつ病だった頃の私を思い出すと今でも涙が止まらなくなる。私は病気と闘い、それを克服した。その過程には、主治医と、妻と、母親と、友人と、治療薬の存在がある。どれ一つ欠けていても私は病に負けていたかもしれない。病気と正面から向き合い、闘い、打ち勝った自分への誇りの念を一生忘れないだろう。理解し、包容してくれた周囲への感謝の念を忘れる事はないだろう。
話が逸れてしまったが、この文章をタイピングしながらも私は先述した輩への怒りが収まらない。
彼らにとって病とは、「治療し、戦い、打ち克つもの」ではない。
彼らにとってのうつ病とは「ネット社会の商品価値を高める道具」なのである。
「基地外は攻撃的」このような言葉をよく耳にするが、大きな誤解である。
精神病を患った者の大半は他者に対して、優しい。
自分の心の弱さを知っており、身内の優しさ、周囲のサポートを受けているからこそ、他者に優しい。
精神を患っていることを免罪符にネットで他人を傷付ける行為を繰り返す者は、偽りの病である。彼らは他者への攻撃を精神病という免罪符で正当化しているだけに過ぎない。彼らのほとんどは、病など患っていない。
彼らの行為は、今、こうしている間にも病と闘っている多くの人の名誉すらも傷つけている。ネット社会における自らの商品価値を高めるために「精神病患者は他者に攻撃的」という誤解を撒き散らしている。
どうか皆さん、騙されないでください。
今すぐ止めよ
もう一度言う、今すぐ止めよ
君のやっている事は、全国数百万の、病と闘っている者への、これ以上ない侮辱なのだぞ
.
ちょりーす!撲は「らき☆すた」と「ハルヒ」が大好きな中学生です!ちゅるやさん面白いよね!にょろーん!
そうそう、あのですねクラスに居るんですよ。偉そうにアニメの講釈を垂れるヤツが。もうアイツってば何なの!
「プププw お前って京アニ程度で喜んでるの?レベル低ッ!」「…ナニ?京アニって」
「ふ~コレだからシャバ僧はw おまえの好きな「らき☆すた」や「ハルヒ」を作ってるヌルオタ御用達なアニメ会社だよ。この萌えブタ野郎!」「ちょ!何だと!失礼な!こなたやハルヒに全然萌えてなんかないぞ!メガミマガジンのエロピンナップを穴があく程ガン見してハァハァする程度だぞ!その言葉、今すぐ取り消せ!」
「イ~ヤ取り消さないね!どうせお前は作画アニメとか語れないんだろ?プロダクションIGとかスタジオ4℃とか、あの辺りをちゃんとチェックしているのか?」「何ですソレ?っていうか作品のタイトルじゃなく、アニメ会社のネームバリューでアニメを観るんだ…」「そんなの当たり前だろ!プロダクションIGが制作した叶姉妹も、速攻アマゾンでポチったよ!」
「それから当然カリスマアニメーターの手がけたパートとかも覚えてるよな?」「えっ!アニメーター?パート?」「プププw お前それでもホモサピエンス?」「あのな、アニメはたくさんの絵を描いてソレをコマ撮りして動かしてるんだよ!だからたくさんの動画描きというのがいるんだよ!その中でもトップクラスのエリートこそがカリスマアニメーターなんだよ!」「エッ!アニメってマンガ家が描いてたんじゃないの!○○先生とか○○先生はアニメだと絵が上手いのに何故マンガだと「……」なのか、ずーっと謎だったんだよ」「…誰もソコまでぶっちゃけろとは言ってないだろ。許斐剛先生にだけ謝れ!」
「じゃあ作画オタク的にはどんなのがお薦めなの?」「まぁ当然、電脳コイルかな」「なんだかキャラデザが地味だし、ストーリーもよく分かんないのですが」「ふーコレだからゆとり脳はw 」「イイか、アニメのお話なんて基本二種類だ。「圧倒的に下らないモノ」と「何か難しそうに見せかけてるけど、やはり圧倒的に下らないモノ」そのどちらか。そして電脳コイルは後者。意味なんかない。「オレだけは分かってる」そう装いながら、みんな顎に手を当てて難しい顔して頷いてるだけだよ」「それとキャラデザも「目が小さいアニメほど高尚」という不文律が作画オタク界にはある。絵の上手い下手なんて別に分かんなくてイイ。目の小さいブサイクなキャラの出てくるアニメ=作画アニメ。そういうのだけを、もっとらしく褒めときゃイイよ」「なるほど!」
…とまぁ、こんな感じなんです。はてなのガチオタなお兄さん達はどう思いますか?もしかしてオカシイのは僕の方なんでしょうか?
http://anond.hatelabo.jp/20090207183508
”二次創作の倫理や市場問題”というよりは、”二次創作の作者とファンがウザイ問題”だね。
オリジナル作品を自力で創作している者として、一次創作物の世界観と名を借りた安易に見える作品群と、
それに群がる低レベルに見えるファン集団の圧力がウザイのだろう。
なんというか、志の高低を問題にしているので、趣味の問題になってしまうが、
個人的には元増田みたいなオリジナルの創作を続けている側を擁護したい。
そういう空気を盛り上げていったほうが、個人的におもしろいと思える作品が生まれる可能性が増えるから。
今のようなコミュニケーション優位で可処分時間を奪い合うサービスが発達した誘惑の多い時代に、
志の高い※ものを作ろうとすれば、ギシアンのすぐ横で受験勉強をやるような孤独な作業を続けることになる。
そのような状況で二次創作やエロにも流されずに作品を作るには、志の高い作品がキチンと評価される市場や
ファンのバックアップが必要だろう。カネだけではなく言葉の流通と整備も作品の力になる。
それが弱体化していると元増田のように排他的かつ攻撃的に創作の動機を守ることになってしまう。
しかし攻撃的な説得では無用な反感をつのらせ、かえってその派閥の立ち位置が悪くなる。
説得に攻撃は必要ない。
志の高い作品を観たいファンは、志の高い作品をつくりたいという創作動機が守られ、
またその数が増えるような市場や言語的環境を構築する方向で動いたほうが良い。
※今回は"志の高い"だが、この部分はピアプレッシャーに晒されているものなら何でも代入可能