はてなキーワード: 運動とは
最近のストッキングは一昔前よりも保ちが悪い、開封しただけで破れると話題になり靴下屋が反論
Tabio 靴下屋
@Tabio_JP
何回も言うけど、「破れないストッキング」は都市伝説、陰謀論の領域です。
作れるんなら作ってます。
1号
広報の「1号」は男で、前にも「嫁が~」と自分語りしてちょくちょく荒れていた
片栗粉。
@sihaya7367
これ、破れないストッキングというのは怖いモノだという一面もある。
張力が半端ない糸で構成された網とか、いったん事故が起こればミンチの出来上がり、となる。
脚がミンチになるような大事故に遭遇したらストッキングどころかスカートやズボンでも危険だし
人体を引きちぎる鋼鉄のストッキングを求めた者などいないとこのツイートが炎上
Tabio 靴下屋
@Tabio_JP
そうなんですよ。
「そんな繊維でストッキングとか靴下作ったら、指飛ぶで?」っと。
1号
叩かれてブチギレ続ける1号
Tabio 靴下屋
@Tabio_JP
何度も何度も言いますが、耐久性を求めるなら、肌色タイツ、ストッキング感覚の靴下を使ってください。
批判意見に対して、カスタマーハラスメントとして法的処置を取ると脅すも削除する1号
https://pbs.twimg.com/media/Gev9M9caYAAy8CV.jpg
そこへストッキング履かないおじさんたちが女叩き殴り棒に靴下屋を擁護しだしアツギ再来へ
ダサすぎる
はーまた1号さんか?
なんでこんな嫌な言い方できはんのやろ?
ストッキングなんか好き好んで使ってるわけないやん
一連の流れ見たけど中の人こわい…😰
靴下屋好きだったのにな🥺
靴下屋1号、前も「破れないストッキングの技術があれば防弾ジャケットに使われてる」とか極端なことを言ってたよな。誰が銃弾を弾き返すストッキングを作れと言ってんだよ。一回履いただけで破れる商品はどうなんだって話だろ。客が女だからナメくさってんな。
靴下屋の商品を作ってる工場で働いてる人達は指飛ばないように厚紙に引っ掛けたら破れちゃう程度の強度の作業着着て仕事してるの❓
ストッキング履かないくせにストッキングのことで女に説教したいおじさんがほらみろ靴下屋はまともだ!バカ女ども!みたいな喧伝し始めててやばい
そんなにストッキング嫌ならこっち使えって「何度も何度も」とか強調して言ってくんの嫌味ったらしくて無理。
強度のあるストッキングの開発を頑張りますでもなく、ストッキングを使うなって…使わなくて良いなら使いたくないんだけど。タイツや靴下ではダメな場面があるの分かってないんだな。
そろそろ女たち、本格的にストッキング自体履かない運動しよーよー、意味わかんないじゃんほぼ強制で履かされて作り手にはこんな偉そうな言い方されて、でも結局買うしかないなんて、舐められすぎだよー
頑張ってるのに💢ってなっちゃったんだろうけどストッキング履かない人に賛同して顧客層にムカついた感出しちゃって何の得があるのか。。
2024年は54冊読みました。
ブロガーとかがやっているピックアップ記事を自分もやってみたかったので書きます。
行ったところで食事をして、言いたくもないことを話して、キャラじゃないことをやらされる。
そんな感じだった。
しかし、本書を読んで、やはりそういったイベントが微妙に思えるのは当然のことだったと思えた。
など。
集まりとは多くのことに繋がると思う。
日常生活で店に入ったり、テレビを観たり、そういう誰かの注目を得ることも、大きく「集まり」と言えるのではないか。
具体例が色々。エンパイアステートビルが100年前、18ヶ月で建てられたことや、日本の「もんじゅ」がどのように延期して廃止に至ったかも書いてある。オペラハウスの歴史も知らなかった。
上手くいくアプローチが紹介されていて、
など。
メガプロジェクトは数字が大きく、工期の延期や予算の超過や採算が合わないものが99.5%という。
ただこれはメガプロジェクト特有の性質ではなく、小さなプロジェクトにも当てはまるという。
本質的には同じなんだろうなあ。
科学は真実に近づく方法であり、科学が真実というわけではない。
小保方さんの話も出てきて、そういえばその上司が自決していたな……と思い出し、不正はお金や見栄だけの問題では無いと感じた。
読みながら、「見てきたものや聞いたこと 今まで覚えた全部 デタラメだったら面白い」と、ブルーハーツの情熱の薔薇が流れていた。
疲労についての本。
疲労とは身体からのアラートであり、無理やり無くそうとしても逆に身体を壊す。病的な疲労(うつなど)は脳の炎症であることが多い。
うつ病について疲労の視点から触れられていたのも良かった。まだ病気だと思っていない人もいるから。生理的な観点からの考察だけど、心因的な観点は証拠が弱くなりがちだし。
4. 脳が「疲れていない」と解釈。
軽い運動で疲労が回復する理由や、なぜ疲労があるのかというのも考察されていて面白かった。
疲労で鬱になるとかは今後修正されるかもしれないけど、休むことに若干の罪悪感みたいなものがあったので、疲れたら気兼ねなく休むようにしよう。
詩篇?
『NEEDY GIRL OVERDOSE』というゲームをプレイして、モチーフに『好き?好き?大好き?』があると知った。
読んだ感想としては……よくわからなかったです……。状況とか人間関係とかが。
ただ小説や物語は何回か読んで自分の感じ方の違いを感じるものだと思うので、よくわからないという感想もアリだと思う。
「能力」が「高い」「低い」、だから「選ぶ」「選ばれる」。当たり前のようで、見えもしない「能力」で人を判断している。これが正しいのだろうか?
油断するとすぐに能力の優劣での説明に傾いてしまうので、『「できる」「できない」は状態のこと。固定的な能力ではない。』という言葉を忘れないようにしている。
受刑者同士の歓談が許されるのは、昼食後、 12:10~12:35の25分だけで、13:15~55の運動の時間も、許されはいけないが
運動場を歩きながら会話しているのが実体。また、休憩の10分間も会話をしている。 14:00からは作業再開なので、16:10まできついだけ。
夕食は、16:45。 17:00からは、仮横臥で、横になってもいい。
「白人よお、お前らほんと鬼畜の歴史だよな。末代まで業を背負ってるよな。
現代だけ見てもイラン、プエルトリコ、ボリビア、日本、フィリピン、ハワイ……ほんとデタラメな凌辱されてきたよ。
でも昨今のポリコレ?お前らのなかで自らああでもないこうでもないと理由付けクリエイトして反省するの流行ってんじゃん。
『先祖を凌辱されてきた俺たち有色人種を決して深読み反省運動に巻き込まず、
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
一本満足バーを2本食べるとどうなるか、ですね。これは、個人の体質や普段の食生活、運動量などによって大きく変わってくるため、一概にこうなります、と断言することは難しいです。
一般的に、一本満足バーは1本あたり約200kcalのエネルギー源として設計されています。2本食べると400kcalの摂取となり、これは一般的な食事の一食分に近いエネルギー量です。
手軽にエネルギー補給: 運動前後のエネルギー補給や、間食として手軽に栄養を摂取できます。
栄養バランス: たんぱく質、食物繊維などが含まれており、栄養バランスの改善に役立つ場合があります。
腹持ちが良い: 食物繊維が含まれているため、満腹感が得られやすく、次の食事まで持ちこたえやすくなります。
カロリー過多: 1日の摂取カロリーをオーバーしてしまうと、体重増加につながる可能性があります。
栄養の偏り: 一本満足バーだけでは、全ての栄養素を摂取することはできません。他の食事でバランスを摂る必要があります。
血糖値の上昇: 糖質が含まれているため、血糖値が急上昇する可能性があります。
運動前: 運動前に2本食べると、エネルギー源として有効活用され、パフォーマンス向上に繋がる可能性があります。
運動後: 運動後に2本食べると、筋肉の修復やエネルギー補給に役立ちます。
間食: 間食として2本食べると、空腹感を満たし、次の食事まで持ちこたえやすくなります。ただし、食べ過ぎるとカロリー過多になるので注意が必要です。
食事の代わり: 食事の代わりに2本食べると、栄養が不足する可能性があります。
個人の体質: 糖尿病など、特定の疾患を持っている場合は、摂取量に注意が必要です。
アレルギー: 一本満足バーに含まれる成分にアレルギーがある場合は、摂取を控える必要があります。
食べ過ぎ: 何でもそうですが、食べ過ぎは体に良くありません。適量を守ることが大切です。
一本満足バーを2本食べることは、必ずしも悪いことではありません。しかし、個人の状況や目的に合わせて、適切な量を摂取することが大切です。もし、健康に関する心配がある場合は、医師や栄養士に相談することをおすすめします。
「一本満足バーだけを3日間食い続けるとどれだけ身体に恐ろしいか分かる動画です。」というYouTube動画も参考にすると良いかもしれません。
半年くらい前に車で家の近く走ってたら超デカい犬とおばあちゃんがうずくまってて、犬がそうしたいからそうしてんのかな〜と思ったが何か違うような気がして話しかけたところ、散歩中にいきなり犬が痛がって歩かなくなっちゃったとのこと。
本来だったら専用のカゴに入れてタクシー呼んで獣医連れてくんだけど取りに行くには離れなきゃいけないし…と大変困っていそうだったので、じゃあってことで自分の車に乗せて(このときジムニーのトランクに困り顔の犬がミチミチに詰まっているのが面白かった)獣医さんまで送って行った。結石ができていて早めに連れて行かないと結構危ない状態だったらしい。
しばらく後に無事退院したというので頂いていた連絡先に犬を見に行ったら、まあ犬のほうは元気そうにしていて良かった。が、今度はおばあちゃんのほうがだいぶ落ち込んでいて、2年ほど前までは旦那さんがいて車も出してくれていたけど今はそれもできないし、自分たちで全部責任が取れないのに犬を飼うのなんてダメね、と不安そう。ということで、じゃあ今度から俺たまに来ますよ〜とお伝えして、車が要るときと(俺が来れる時だけの)散歩を手伝わせてもらえることになった。
で、これが大変いい。
第一に、俺の体調がとてもいい。散歩というか運動自体の習慣が今まで一切なかったので、俺の体調がもう、すこぶるいい。今は犬いなくても散歩しているほど。
次に、犬がかわいい。独り暮らしかつ全国転勤のある仕事なので犬を飼おうとは到底思えない(俺はさておき犬が幸せじゃないと思うので)人生だったわけだが、ここへきて突然俺の人生に入ってきた犬、これがとにかくいい。
具体的には、こんなに感情…というかコミュニケーションが出来るものとは思っておらず、それがとても楽しい。初めは「まあ敵じゃなさそうだし…」くらいの感じで渋々最低限の距離を歩いている様子だったのが、次第に打ち解けていくと互いが何を考えているのか分かるような感じがしてきて、これがもう、とにかくいい。出発した段階で「なんか今日遠く行きたそう」とか「本日うんち早めご希望ですか?」とか思ったら実際にそうだったりするし、そのほかにも結構お互いに「わかってんじゃん……」という瞬間(向こうもそうだといいんですけどね)があって、めちゃくちゃ見つめ合ってしまう時がある。これがとにかくいい。
そして最後に、犬と一緒にいるときの街がいい。車で通っている場所でもあっても、歩くと急に解像度が上がる。人間ひとりでは絶対に立ち止まらなかったようなところを犬がフンフンやっとると俺も立ち止まらざるを得ないのだが、その犬のチョイスが結構絶妙で、複数あるおしっこスポットのうち一つが(犬としては無意識だろうけども)異様に景色のいい場所だったり、秋くらい迄にかけては犬のおかげで大変珍しい虫やヘビや何やらを見つけてもらったりと、気が合うということは大前提かもしれないが散歩の充実度を上げてくれるおかげで、歩く街自体にも相応の愛着が湧き始めている。一緒に歩いてみるまでは知らなかったのだが、犬の散歩には犬の五感を一部借りたARみたいなことをできる特典がある。
こうしてまとめると俺ばかりいい思いをしているような感じもあるが、犬は犬で(さっきから犬犬呼んでいるが実際すごくしっくり来る渋い名前の、しかも実はすごく由緒正しい秋田犬だ)運動が増えたせいか以前に増してムキムキ気味で楽しそうだし、おばあちゃんはおばあちゃんでこの体制が続く限りは当面犬と一緒に暮らしていけそうで良かったし(それは犬としても多分いいことだと思うし)、全体にかなりいい状態が身の回りに大量発生しているのが、心身ともに大変ありがたい。
犬とおばあちゃんを助けると全体にすごくいいことがある。ただ、これは犬とおばあちゃんに限らず、生活に新しい地平を開くきっかけは案外その辺に転がっている、ということだと思う。はてな諸賢も、それぞれの生活にいるそれぞれの犬とおばあちゃんを助けてみてはいかがか。
多い少ないも同じ理屈で、これは可算気味
このあたりの各言語での振り分けは面白そう(まとまった記事あったら教えて
広島がなぜカープスじゃないかとかの理由の文化差とかがわかってきそう
で
我らは数を使えるので、測ったりできる
その際に数値の基準を何かに求めるわけだ。ここで強弱も同じ方向になる
アラフィフ(アラフォーと言いたかったが思っていたよりも歳をとりすぎた)元男子なら、温度が一番わかりやすいと思う
カル=スはそれ以上下げることはできない(分子の運動がゼロ)が、高温には上限がない(ほんまに?)
基本的には、大小みたいに見た目で(より有るほうが)判断付くものの拡張。
値段の高い低いはお金が多い少ないで沢山積んだら大や高い(例:ひじの高さ)で繋がる
逆に、視覚に頼らず高低ついてる、科学的に単位はあるとかの高低だと何があるか?
電圧も基本は無いなので(自分の感覚的に)いなずまびかびか世界とかで生まれてなければ今の高低で納得する。
圧力は微妙だけど(低気圧のほうが体調悪い)、宇宙に行けなかった時代だと増すことは簡単だったし、そっちのダメージが強そうなので、わかる。
それいったら真空も可能ではあるが。でも真空を実現してしまったらそこで終わりの気がするのでこれも少ない、無だ。完全な真空ではないが、宇宙が真空っぽさあるので、そこをゼロとするは受け入れやすい(宇宙で真空詰めた注射器引っ張ったら何が起こるんだろう。凄い力が要るから難しい? そしてそんなに何にも起きない?)
圧力かけてぐちゃぁぁってなるのとか、深海魚を一気に引き上げてぱぁーんってなるよりインパクト大だし強そう。で、圧力もわかる。
で
音の話になろう
あるとよい共通認識かはわからないが、多いほう、でかいほう、沢山あるほうがよい・強い
というのは、なんとなく
特性はいつでもトレードオフです。大きな体躯は運動能力に優れ、あらゆる競争で有利な形質に思えます。ところが現代の生活では通勤電車では疎まれ、アパートの部屋は狭すぎて、高い食費に悩むことになります。このシリーズでは人間の特性の二面性に焦点をあてます。
今回は感覚過敏です。増田さんは視覚、聴覚、嗅覚に過敏です。私が増田さんに会った時の彼の格好は、マスクに黄色のサングラスといういでたちでした。
「ソニーのイヤホンのノイズキャンセリング性能は確かに最高です。でも、私にはオーソドックスな耳栓で十分です。これが一番軽くて、なにしろ目立たない」
「感覚過敏で困ったのは、職場の環境選びでした。コンピュータのスクリーンは眩しくて、毎日見つめる仕事はできませんでした。人が集まる環境も、騒がしすぎて耐えられませんでした。でも今は、騒音の大きなトラックの運転席が私の職場です。ここではどんな格好をしてもいいのです。人間関係がないのが私にとっては一番楽でした」
環境に適応するためには奇妙な格好をせざるをえず、奇妙な格好は人間関係を難しくしたといいます。
「感覚過敏でよかったことは…スマホの電池が長持ちすることでしょうか。画面の明るさを常に最弱にしていますから、消費電力を少し節約できます。微妙もいいところですね(暗黒微笑)」
クラスの人気者は可愛い子や運動ができる子で、障害児寄りの奴らはみんな見えない子供だったのに何をいってるんだ。子供時代から選別始まってるでしょ
上位カーストが
「うちはみんな仲良かったよね」
って同窓会でいうやつか?
俺は対戦ゲームしてて脳汁出るけどいつか飽きるだろうなと思ってる
運動してるの偉すぎんか?おれも何かやんなきゃと思ってて運動ハマれたらいろいろベストなんじゃないかと思ったけどジム行ってもつまんなすぎて全く続かない
誰かとスポーツを定期的にやるのが正解な気がするけどいろいろ腰が重い
美がインフレしたせいか今ってセックスの値段が安くなってる。時代は純愛。
ルッキズムがうんぬん言ってるけど、みんな基本は最低ラインだったり自分のこだわりラインを超えれば終わりで、ルッキズムに極端にこだわる層は一部。男でも女でもセックス!沼らせ!モテモテ!とか言っている精神的童貞や精神的処女が、マウントとりたいがために大きな声をあげている。若いやつに多い。まあしょうがない。そのあたりは顔整いなどと言われてdisられている。
年収なんかも別に一定ラインまでは大事だが、最重要ポイントではない。年収とルッキズムや清潔感や職業や学歴っていうのは基本的にはレベルのこと。とくに生活レベル。ここのレベル感が合わないといろいろと厳しくなる。
あと昔は恋愛は「女が男を評価する」という時代だったけど、今は男も女を "恋愛的に" 評価している。外見だけじゃなくて。やれればいいだけの男と恋愛したい男(やれればいいだけの男も「いい女」を見つけると恋愛したい男カテゴリに入る)は違う。そのへんがわかっていない下品な女性は、男から「ヤること」すら、お断りされる。下品な女性は顔の美醜に関わらず声が大きく、過激なことを言う。おそらく愛着障害である。
女がいい男と「ヤることすらできない」時代が到来してきている。いい男のセフレや二番目や不倫相手でもいいのに「ごめん俺彼女いるから」とか「今仕事忙しくて」とか「ゲームの方が優先」とか断るわけだ。
そういう「いい男」が市場にいない。いい男っていうのは単に浮気しないわけではない。別に浮気や不倫できるけど、めんどくせーし彼女や奥さんのことを愛しているからしないわけだ。いい男の彼女や奥さんがそれぐらい愛せる存在だからだ。
つまりいい男といい女は単独では存在できない。セットである。「いい男がいない」というのは「自分はいい女ではない」という自己紹介だし、「いい女がいない」というのも「自分はいい男ではない」という自己紹介だ。
で、そういう「いい男」「いい女」っていうのは上位層しかいない。あとは準いい男・準いい女などの光る原石と、クズかゴミしかいない。
だから婚活や恋愛はちょっと足突っ込んでみるようなもんではない。
みんなリアルに魂や人生を賭けている。ハードモードだということを理解した上で突撃しなければならない。
自分の全性格やどうしようもない部分も含めた生活習慣から始まり、生き方・考え方・ダメな部分・うまくいってないところ・今後の人生設計、そういうのを提示し合うのが恋愛だし婚活だ。
俺は契約結婚とかそっち側はわからないが、もし恋愛結婚(多少妥協するにしてもだ)したい人は、わりと人生の中で大きく賭けないといけないと思う。生半可な気持ちでやれば生半可な結果が返ってくるだけだ。
超上位層はもう神格化されたような存在が熾烈な争いをしているわけ。もうみんな疲弊している。
外見はもう外見だけじゃなくて生活レベルも所作も語彙も知性も地位も若さも部屋の綺麗さも生活習慣も運動習慣も全部入る。正直ドン引きだわ。
こういうのは、モーニングルーティン!成長成長!なんて言っているちょっと頭おかしいサイボーグみたいな現代に適応したやつらに多いのではないか。わりと自己中(無論全員ではないし学ぶべき点は非常に多い)
モテようとしている奴らはこのへんを必死に学習して「うおおおおお俺モテるぜええええ」などとやっている。クズだがかなり努力家だ。そういう奴が総取りしている。
だがそのあたりの、属性だけは持っている「いい男風」「いい女風」みたいなやつが「女神」や「真実の愛」を求めてずっとさまよって「彼女できない(作ろうと思えばいつでもできる)」「彼氏できない(作ろうと思えばいつでもできる)」みたいなアホなこと言ってんの。こいつらは、顔もいいし外見もきらびやかで金もあって地位もあり親も太かったりするが、キモい。愛を知らないロボットみたいな奴だ。そういう奴らが漁場を食い荒らしていると思ってほしい。
暇つぶしにな。いいか、暇つぶしだ。マッチングアプリなど暇つぶしだ。「なんかいいね来た」「まあ暇だから会うか」「がっついてるなこの人。余裕なさすぎじゃん。あーあー、そういうことする?」そういう感じ。
暇つぶしにセックスするか。暇つぶしに恋愛でもするか。飽きた。なんだこいつ。まあ他にもいるからな。うーん、こいつもか。だめだな。うーん。
こういう感じだ。魅力度はSランクなのに精神的童貞・精神的処女みたいな。心を全部明け渡そうとしない。そこまで相手を信頼しない。自分を渡さない。命を賭けない。賭けるに値する相手と遭遇できない。
あとはまあ、今までの復讐みたいなとこもあるかもしれない。手痛い裏切りからの「いつか見返してやるからな!」の復讐心が、他の人々の地獄を新たに作り出している。魔王みたいな奴らだ。
下層の住民たちはそういう偽神たちの暇つぶしに翻弄されているわけだ。そういうのに耐えられない人々は推しなどを自分の人生にコラボさせて心の安寧をはかる。「彼女+推し」「彼氏+推し」みたいに。悪いわけではない。
婚活地獄に陥っている人はいま挙げた超上位層や上位層のカモにされたり、「カモにもされない」という点で地獄に陥っているのではないか。
「偽神からいい具合にカモにされたいのに、全然餌としても見られないから、もうそんなにカモられなくてもえぇ!神じゃなくてえぇから、生活レベル条件だけ妥協しようとしたら全然相手にされねぇ!それはそうとなんだこのゴミクズたちは。邪魔なんだけど。ウザい!ハッ、まさか、これが自分の実力だとぉーーーーー?!こんなことが現実であるはずがない!!婚活辞めます!!!」みたいなのが婚活地獄の女性だ。たいへんだよ、本当に。
自分の地位!安寧!この世のすべてを手に入れることができるワンピースはないのかと思っている。モブのくせに。しかもタダで。
まあ俺は恋愛とかよくしらんけど、本気で全力で魂削って必死でやっている奴らがしのぎを削っている戦場で、経験も浅いくせにナメてる奴が「こんにちは〜」って呑気に入ったら普通に撃ち殺されるのは当然だと思わないか。
おそらくスマホからだと読みにくい。PCで読みやすいように改行などしたし文が長く複雑だから、スマホからだと怪文書のように見えるかもしれない。