東京の地下鉄、なぜここを走る? 背景に「都電」ルート
鉄道の達人 鉄道ジャーナリスト 梅原淳
2020年(令和2年)の国勢調査によると、東京23区には約973万人が住んでいるという。しかも昼間はさらに集まり、約1234万人に達する。人々が移動する際に用いるのは鉄道、バス、タクシーといった公共交通機関が中心になる。国の調査では17年度(平成29年度)に公共交通を利用したのは延べ115億6761万人に達した。このうち鉄道を利用者はどのくらいの人数になるだろう。その数は108億1978万人。実に公共交通全体の94パーセントを占めるのだ。
これだけの人たちが円滑に移動できるように、東京23区では18年(平成30年)3月31日現在で、JRが新幹線を含めて215.4キロメートル、私鉄が264.6キロメートル、地下鉄が287.4キロメートルと合計767.4キロメートルの鉄道が営業中だ。営業距離の最も長い地下鉄の利用者数は36億7938万人を記録した。JR(39億5454万人)には届かないものの、路面電車を除く私鉄(31億4740万人)、路面電車(3844万人)を上回る。
地下鉄整備、戦後に進む
存在感の大きい東京の地下鉄だが、JRや私鉄、路面電車の各路線と比べると歴史は比較的短い。多くの路線が戦前に整備されたJRや私鉄とは異なり、戦前から営業を行っている地下鉄は浅草―渋谷間14.2キロメートルを結ぶ東京メトロ銀座線だけだ。他の地下鉄は東京メトロ丸ノ内線の池袋―御茶ノ水間が1954年(昭和29年)年1月20日に開業したほか、2008年(平成20年)6月14日にできた最も新しい東京メトロ副都心線の池袋―渋谷間まで、戦後になって半世紀余りを費やして整備されてきた。
東京メトロが10路線(丸ノ内線の方南町支線を含む)、都営地下鉄が4路線、合わせて14路線のネットワークをもつ東京23区の地下鉄は国内の他の都市の地下鉄とは大きな違いがある。路線数の多さもさることながら、その多くが一方向には進まず、途中で曲がるなど複雑な経路をたどっている点だ。初めて上京した人には非常にわかりづらい。
複雑な路線図の不思議
複雑に入り組んだ路線図を見て、一体なぜこのような姿となったのか不思議に思う人も多いだろう。実は東京23区の地下鉄路線の大多数は過去に存在したとある鉄道をなぞるようにして整備された。
都心部を除いてほぼ全線にわたってなぞるべき過去の鉄道が存在しない地下鉄というと、筆者が思い浮かぶのは北綾瀬―代々木上原間の東京メトロ千代田線くらいだ。一部区間ではとなるともう少しあり、東京メトロでは丸ノ内線方南町支線の中野坂上―方南町間、有楽町線の和光市―池袋間や同じく月島―新木場間、都営地下鉄では浅草線の五反田―西馬込間、三田線の蓮根―西高島平間、大江戸線の新宿―光が丘間などがある。JR東日本山手線の外側が目立つ。
かつて東京23区に存在したその鉄道とは東京都交通局の路面電車、つまり都電、そしてトロリーバスだ。いまでこそ都電は荒川線の三ノ輪橋―早稲田間の12.2キロメートルしかないが、かつては都内、特に山手線の内側にはそれこそ網の目のように線路が敷かれていた。
都電の路線網がほぼ最長であったと考えられる1960年度(昭和35年度)の時点での営業距離はトロリーバスを含めて264.4キロメートルと、現在の東京の地下鉄よりも23.0キロメートル短いにすぎない。偶然かもしれないが、先ほど全線にわたって都電をなぞらずに整備されたと述べた千代田線北綾瀬―代々木上原間は24.0キロメートル。東京の地下鉄はかつての都電から、千代田線の路線分多くなったという計算も成り立つ。
網の目のように広がる都電 混雑する日常
トロリーバスを含む都電の利用者数は60年度に6億9868万人だった。営業距離の長さの割に、今日の地下鉄に比べると5分の1程度にとどまるのは輸送力に差があるからだ。地下鉄は1本の列車に1000人から1500人ほどを乗せることができるが、都電もトロリーバスも1両で走っていて、その定員は多くてもせいぜい100人にすぎない。視点を変えると、輸送力に10倍以上の違いがあるにもかかわらず、これだけの利用者がいたのは大健闘だったと考えられる。頻繁に車両を走らせていたことに加え、うんざりするほどの混雑ぶりだったからだろう。
戦後の復興と高度経済成長とによって増え続ける利用者に都電は対応できなくなり、1950年代には地下鉄の整備が求められる。同じ時期に道路上では自動車が増え、都電は渋滞に巻き込まれ、なかなか進めなくなってしまった。このような状況も地下鉄への置き換えに拍車をかけた。東京都によると、都電の平均速度は54年(昭和29年)に時速14.2キロメートルだったが、60年には時速12.8キロメートルとおよそ1割低下したそうだ。
戦後すぐから50年代半ばにかけ、都内に乗り入れる大手私鉄はこぞって地下鉄の経営に乗り出そうと免許を申請した。しかし、地下鉄は公共性が高く、鉄道会社が独自に通るところを決めても困る。東京の地下鉄は都市計画に組み込まれ、戦前であれば東京市、内務省、戦後の復興期であれば戦災復興院、高度経済成長期以後は現在の国土交通省である建設省、東京都によって最終的にルートが決められた。
地下鉄をどこに通す? 参考になったのが…
地下鉄の路線をどこに通すかを決める際に参考になったのは都電だ。系統と呼ばれる路線ごとの輸送動向、どの場所で乗り降りが多いかといったデータが最初から蓄積されているからだ。既存の都電とは異なる行き先や場所を通る地下鉄を整備したところで、都電に慣れた沿線の利用者は混乱するだけなので、ルートは極力都電に合わせたほうが都合がよかった。
数ある東京23区内の地下鉄のなかで、東京メトロ日比谷線は都電らしい走り方をする。交差点で頻繁に向きを変えて都内の至るところを結ぶ路線の形態が都電に似ているからだ。
日比谷線、大きく曲がるルート
北千住―中目黒間20.3キロメートルを結ぶ日比谷線はとにかく交差点を直角に近い急角度で曲がる回数が多い。筆者が見て該当する場所を挙げると、北千住駅から中目黒駅へと向かう電車は人形町―築地間で右、築地―東銀座間で右、日比谷―霞ケ関間で左、神谷町―六本木間で右、そして左、六本木―広尾間で左、広尾-恵比寿間で右、恵比寿―中目黒間で左と、少なくとも8回も曲がるのだ。大きく回る場所が集中しているのは人形町―東銀座間、そして神谷町―中目黒間となる。
現在の日比谷線のルートの原型は46年(昭和21年)12月7日に戦災復興院が立てた東京都市計画高速鉄道の2番だ。東急電鉄東横線の祐天寺駅付近から恵比寿駅、虎ノ門、永田町、神田駅、浅草橋駅、三ノ輪付近などを経由して北千住駅付近へと至るルートである。この計画は57年(昭和32年)6月17日に今日の日比谷線の経路に修正された。
日比谷線は上野―銀座間でわざわざ東寄りの茅場町、八丁堀、築地の各駅を経由するため、この間の距離は6.4キロメートルある。同じ区間をほぼ一直線に結ぶ銀座線の4.9キロメートルと比べると1.5キロメートル長い。だからと言って日比谷線がわざわざ遠回りしているというのは早計だ。なぜならば日比谷線のルートを決める際に手本となる都電が存在していたからだ。
都電ルートと見比べると
日比谷線と都電とがどのくらい似たような場所を走っているのか。東京都交通局が発行した62年(昭和37年)の路線図で検証してみよう。かつての都電には21系統といって千住四丁目から北千住駅、三ノ輪橋、上野駅、秋葉原駅東口、人形町を経由して水天宮に向かう路線が存在していた。もうおわかりのとおり、日比谷線の北千住―人形町間はこの21系統の生まれ変わりと言ってよい。
日比谷線の人形町―茅場町間はこの地下鉄独自のルートを通る。そして茅場町―築地間は錦糸町駅―築地間のかつての都電の36系統の一部を、築地―神谷町間は中目黒―築地間の同じく8系統をそれぞれなぞっていく。
せっかく8系統という中目黒まで導いてくれる路線があるにもかかわらず、日比谷線は神谷町付近で8系統と別れてしまう。そしてそこからは四谷三丁目―浜松町一丁目を結ぶ33系統の一部、四谷三丁目―品川駅前を結ぶ7系統の一部などを通る。広尾―中目黒間で再び8系統の一部に戻っていく。
わざわざ8系統とは異なる道を進み、その結果、ほぼ直角となるカーブを増やしてしまった理由は当時の資料には特に見当たらなかった。けれども六本木駅を経由したかったからというのは都電の路線図と見比べると容易に想像がつく。
東京都市計画高速鉄道で今日とほぼ同じ経路が定められた日比谷線は59年(昭和34年)5月1日、南千住―仲御徒町間の建設工事に着手。以後、昼夜を問わず工事が行われた結果、64年(昭和39年)年8月29日に東銀座―霞ケ関間が開業した。これで日比谷線は全線開通を果たす。
1965年(昭和40年)生まれ。大学卒業後、三井銀行(現三井住友銀行)に入行、交友社月刊「鉄道ファン」編集部などを経て2000年に鉄道ジャーナリストとして活動を開始する。「JR貨物の魅力を探る本」(河出書房新社)、「新幹線を運行する技術」(SBクリエイティブ)、「JRは生き残れるのか」(洋泉社)など著書多数。雑誌やWeb媒体への寄稿、テレビ・ラジオ・新聞等で解説する。NHKラジオ第1「子ども科学電話相談」では鉄道部門の回答者も務める。
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