日米安保につきまとう「瓶のふた」論
サンフランシスコへ(26)
日米外交60年の瞬間 特別編集委員・伊奈久喜
日本にとって快くないショークロス声明がロンドンから発信されたのとほぼ同じころ、つまり1951年7月12日ワシントン発で、米、豪州、ニュージーランド3国が太平洋安全保障条約に仮署名したとのニュースが入った。ダレス米代表、スペンダー豪大使、ベレンドセン・ニュージーランド大使が仮署名した。
NATOの太平洋版目指したが…
一時は日本の参加もとりざたされた条約である。北大西洋条約機構(NATO)の基礎となる北大西洋条約の太平洋版である。
3国のうちいずれか1国が攻撃を受けた場合、共通の危険に対処するため3国がともに行動することを誓約した条約である。いまの言葉で言えば、集団的自衛権によって結ばれた条約である。
歴史を先取りする形で解説すれば、米国はアジア太平洋ではNATOのような多国間条約ではなく、米国と日本、韓国、フィリピンなどとの2国間条約を結んで同じ効果をあげている。
自転車のタイヤに見立てハブ・アンド・スポークと呼ばれるシステムである。中心のハブは米国であり、そこからスポークが多方向に伸びるシステムである。
日本が太平洋条約に入らなかったのは、様々な理由があった。
集団的自衛権に基づく条約を結ぶのは、再軍備に難色を示す吉田政権を相手にはできないことは簡単に想像がつく。集団的自衛権の行使と日本国憲法との関係は、まだ「解決」されていない。集団的自衛権の行使は憲法が禁じているとするのが21世紀のいまも日本政府の解釈である。
51年当時は占領下であり、日本政府がこの解釈を示すはるか前ではあるが、吉田は個別的自衛権の行使も違憲と考えたことさえあった。
一方、豪州、ニュージーランド側には、日本に対する不信感が残っていた。仮想敵国は日本とする認識があった。ダレスが日本軍国主義を封じ込めるために集団的安全保障条約が必要と説得したと考えるのは不自然ではない。
それはならず、日米2国間の安全保障条約となり、それを根拠に米軍は日本に駐留し続けている。
ここで一時的に時代を40年ほど飛ばす。1990年3月27日付ワシントンポスト紙に日米関係の歴史に残る発言が載っている。「瓶のふた」発言である。在日米海兵隊ヘンリー・C・スタックポール司令官(少将)による次のような発言である。
「もし米軍が撤退したら、日本はすでに相当な能力を持つ軍事力を、さらに強化するだろう。だれも日本の再軍備を望んでいない。だからわれわれ(米軍)は(軍国主義化を防ぐ)瓶のふたなのだ」。
90年当時、日米両政府はともに、これを批判した。しかし太平洋安保と日米安保を並べて考えたことあった1950年代のダレスの頭には似たような気持ちがあったのだろう。
太平洋安保条約の仮署名は、日本国内でも関心の高いニュースだった。経済紙である日本経済新聞も1面に条約をほぼ全文掲載した。日本自身が加わるかもしれなかった条約であるだけでなく、対日講和を目指す米国のアジア太平洋戦略の重要な柱のひとつだったからだ。
条約の前文には、米国がフィリピンに軍隊を置き、琉球には軍隊を置くとともに行政を担当していることを明記し、日本については、対日講和条約の発効とともに日本地域の平和と安全保障の維持を助けるため、日本の国内および周辺に軍隊を駐在させることになるかもしれぬ、としている。
有効期間「無限」の条約
条約の核心は第4条であり、「各締結国はそのいずれか1国に向けられた太平洋地域における武力攻撃は、直ちに自国の平和と安全に危険を及ぼすものと認め、各国の法的手続きに従って共通の危険に対処するために行動することを宣言する」とある。
1951年4月11日 | トルーマン大統領がマッカーサー元帥を連合国最高司令官、国連軍最高司令官、米極東軍・極東陸軍総司令官から解職。後任にリッジウェー中将 |
4月16日 | ダレス特使再来日 |
6月20日 | 日本政府、第1次追放解除を発表 |
8月6日 | 日本政府、第2次解除を発表。鳩山一郎ら追放解除される |
9月1日 | 米、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋安保条約に調印 |
9月4日 | サンフランシスコ講和会議始まる |
9月8日 | 吉田首相、対日講和条約、日米安全保障条約に調印 |
12月24日 | 吉田首相、ダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」) |
面白いのは「この条約の有効期間は無限とする」とする第10条だ。条約に効力を失わせる規定がない。いまはANZUSと呼ばれるこの条約は、ニュージーランドが1980年代に米国との核政策の違いで事実上脱退し、いまは米豪同盟条約になったが、3国条約としては名存実亡の形になっている。
他の条約と比べてもこの点は確かにユニークである。
北大西洋条約は第13条に「締約国は、この条約が20年間効力を存続した後は、アメリカ合衆国政府に対し廃棄通告を行ってから1年後に締約国であることを終止することができる。アメリカ合衆国は、各廃棄通告の寄託を他の締約国政府に通知する」と終了規定がある。
51年9月8日に結ばれる旧日米安全保障条約も、第4条に「この条約は、国際連合又はその他による日本区域における国際の平和と安全の維持のため充分な定をする国際連合の措置又はこれに代わる個別的若しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及びアメリカ合衆国の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする」とある。
ともに条約が終了する規定がある。
日経は7月14日付に「太平洋安全保障条約とわが国」と題した社説を書いた。要点は次の2点だった。
(1)条約が日本を「潜在的脅威」と想定する限り、日本には何の重要性もない。日本が将来、再武装することがあっても自衛のためだからだ。
(2)しかし条約の重点が共産勢力の侵略阻止にあるのであれば、日米間で予定される安全保障協定(現代風にいえば、旧安保条約)とともに集団安全保障の一環であり、日本としても重大な関心を持たざるを得ない。
このうち(1)は後世の瓶のふた論に対する反発のように響く。(1)(2)とも冷戦が終わって20年たった現在でも、やや形を変えて通じる論点である。